今週の一枚(2015/08/03)
Essay 734:"技"は裏切らない
もっともコスパの良い「資産」
日本はめちゃくちゃ暑いらしいので、避暑地的な冷涼な緑を。気分だけでも涼んでくださいな。
こっちは、だんだん春めいてきました。
自己投資の対象
何に投資するのが一番よいか?なんてことを高校〜大学の頃に考えてました。「投資」といっても株を買うとかお金がある人が利殖のためにやるものではなく、自己投資です。「このくらいの労力と時間をかけて何を得るか」です。毎日必死に勉強して=「このくらいの努力と時間」を費やして「このくらい学歴」を得るとかいうのが自己投資です。「このくらいの英語力」「このくらい出来るようになる」とか、◯年間山に籠って→このくらい喧嘩に強くなるとかその種の話です。
それが投資である以上、リターン率というのがあります。一週間必死で勉強してアケメネス朝ペルシャの歴代王様の名前を暗記出来た!しっかし、こと受験という観点でいえば、そんな「時間×労力」の投資するなら、もうちょっと試験に出そうなところをやった方がリターン率が良くはないか?ということですね。
では、どのリターン率は最高に良いか?そんなことを考えてました。
金目のモノはダメ
お金や不動産ですが、これは無いだろうと高校時分にも思いました。だってインフレや暴落や世の中ひっくり返るようなことがあったら終わりですからね。いや!そんなことは滅多にないですよ。明日に起きるか?と言われれば、まあ起きないでしょう。でも一生スパン=70年とか100年のタイム感覚で考えてみれば「起きない」とは言いがたい。直近70〜100年を見ても、天地がひっくり返るようなことの二度や三度は起きている。ましてや時代の流れは加速度をつけて早くなってるような気がするから、向こう100年大丈夫さ!ってことは、まあ、無いんじゃないかと。
したがって「金目のもの」系はダメだろうな〜と。
それが金やプラチナであろうが、名画であろうが、なにがどうなるかわからんだろうと。
不動産絶対!ってときもあったけど(バブルまで)、子供心に「無限に上がるってことはないだろ」と思ってました。前にも書きましたけど「子供が考えても分かる」ってのが最強ですよね。まあ、買うお金もないんだけどさ。
権力や功利人脈もダメ
次に出てきたのが権力とかそのあたりの”資産”です。絶対権力もってたらお金なんか要らないです。向こうから持ってきてくれるし、第一そのお金を発行する権限も持ってるんだから最強。不動産・地価だって自分の力で操作できるなら(整備新幹線のルート決定をするとか)、もうお金なんてただの「結果」でしかないです。「蛇口をつける&開く権力」を得たら、蛇口から出てくる水(お金)をシコシコ集めなくてもいいじゃないかと。
しかし、これも無理があるのですね。まずそんな絶対権力を自分がゲットできる可能性は低いし、仮に得たとしてもそれを永続させることは難しい。どんな国でも社会でも100年スパンでみてたら、どひゃ〜という政変はあります。特に「激動の現代史」になったら「激動」とかいってるくらいなんだから安定性に欠ける。それにエラくなればなるほど標的にされるわけで、暗殺はまあ珍しいにしても、スキャンダルその他で足を引っ張られるなんてことは日常茶飯事でしょう。大変そうだな〜、と。なんせ自分を倒したら幸せになれる人、「俺さえいなければ」って思ってる人々が常に一個軍団くらい周囲にいるわけですもんね。生きた心地もせんやろな〜と。
次に人脈ですが、これも投資のような「利害打算」の文脈でいうならプチ権力みたいなものです。自分のいうことを聞いてくれる人がこんなに沢山いるのは、自分が◯◯という地位や権力を持ってるからであって、そこから滑り落ちたら鼻も引っ掛けてもらえない、それどころか水に落ちた犬は叩けとばかりに、嵩にかかって叩かれるかもしれない。だからその種の人脈は権力と同じです。
技術
では知識などの知的資産はどうか?確かに知識があると役に立ちます。しかし、知識も大事なんだけど、結局のところ知識をも包含した「技術」だろうという結論に達しました。知識よりも技術のほうがより汎用性があり、より耐久性があると思いますから。誰でも膨大にもっている技術体系
「技術」というと科学技術、工業技術を連想されるかもしれません。「テクノロジー」という意味ですね。でもここではもっと身近な意味で「わざ」「ノウハウ」「コツ」「上手になる」とか呼ばれている事柄を意味します。僕らが生きていく上においては、数えきれないほどの技術を持っているはずです。
生まれてから育っていく過程で、はいはいから二本足歩行を覚え、服を自分で着られるようになり、箸の持ち方を覚えます。一人でバスや電車に乗れたり、読み書きを覚えたり。
これが進んでいくと「マレーシアのクアラルンプールで日本料理屋を出店する場合のノウハウ」なんて具合に発展し、細分化し、いずれはメシを食うタネになっていく。
箸の持ち方からマレーシアまで一気にワープしましたが、もちろんのその中間領域にも技術はズッシリ詰まっています。
自転車の乗り方、ゲームの必勝法、早弁のやりかた、、、、さらに受験勉強の方法とか、本番に臨むときのコツであるとか、就活戦線を勝ち抜く方法、彼女や彼氏をゲットする方法、起業するノウハウ、結婚生活の倦怠期を乗り切るノウハウ、子育て、親の介護、、もういっぱいあります。さらに一つのカテゴリーの中も数十数百というオーダーで細かいノウハウがあるでしょう。
日常生活なんかも技術のカタマリです。自炊の上手下手もあるし、賃貸不動産探しの技術もある、引っ越しのノウハウもあれば、隣近所との付き合い方のノウハウもある。パンクした場合のタイヤ交換やら、ギターの弦の交換やチューニングもあるし、対人関係でのツッコみ方と引き方であるとか、本や資料の整理方法なんてのもある。
多分、20-30代で社会人経験アリだったら、少なく見積もっても1000以上の技術を持ってるはずです。
アパレル業界の小売店における「面倒臭いお客」の対処方法一つとっても、面倒臭さのタイプによって数パターンから十数パターンあると思います。やたら威張り散らす客の場合、やたら優柔不断で右往左往させられる場合、やたら被害者意識が強く何をやっても「騙された」とクレームしてくる客の場合、ありえないところで値切ってくるお客の場合はこうするとか。
弁護士業務だって、ジャンルだけで細分化すれば100近くあると思いますよ。
お金関係だけでも貸金(消費貸借)、売掛金債権、手形系。不動産でも賃貸借、売買、抵当権、地上げ系やら。不法行為でも、名誉毀損と公害と医療過誤と交通事故では全〜部違う。医療過誤でも病気の数だけ類型があり、さらにミスの態様(説明義務違反、手術のミス、投薬のミス、看護ミス)があり、それらが順列組み合わせにマトリクスになる。その一方で著作権、意匠権、特許権や不正競争防止法があり、学校のイジメや少年非行があり、家に入れば親権があり、DVがあり、離婚があり、遺産分割があり、田舎のお墓の管理権があり、、、、、大きなところでは倒産案件やら、民事執行やら。特に船はリベリアとかパナマ船籍だったりするから、パナマの民事執行法はどうなってるかとか国際私法のノウハウもいる。
以上はジャンルのバラエティですが、これにクライアントの人間的タイプがマトリクスになる。しかも登場人物は一人ではないから、まるでドラクエのパーティのような組み合わせによって刻々と色が変わっていく。また、登場人物が非常に多い集団案件(マンションの自治とか、住民運動とか労働案件とか)になると、場の論理や登場人物の個性やカリスマ性とそれによる人間力学も見抜いて、且つ上手に動かしていかないと(つまりは政治)、どうにもこうにもダッチロールに陥ることもある。
大事なのは抽象的なエッセンス
それら個々の案件を処理していく技術体系も大事ですが、もっと大事なのはその抽象的なエッセンスだと思います。例えば、上記のような案件の一つひとつについて懇切丁寧に教えてなんか貰えません。常時30件、多い時で50件以上持ってましたけど、50件が全部違う。同一ジャンルが50件ではなく、50ジャンルです。それを「田村くーん、これお願いね!」だけでポンと渡され、「え?」と目を白黒させて絶句するってな感じで最初はやっていくわけですが、それが出来なきゃプロじゃない。というか教えてもらって出来るのはプロとは言わないのでしょ。プロ以前の卵段階での司法研修所の最初の宿題も、事案をプリントされた紙をわたされ「訴状を書け」だし、あるいは「全国規模のフランチャイズ契約書を起案作成せよ」です。こんな実務的な物事、司法試験には出ません。だから素人同然なんだけど、それでもボンボン「はい、これやって」って次から次にやらされる。それが僕らの「訓練」なんだと思います。全然知らないことをいきなりやる、という訓練。
そのためには、「全然知らないエリアの案件でも、手探りでやっていって正解に達する技術」という抽象的で汎用性の高い技術があります。これが滅茶苦茶大事だと思います。
つまり、なんだかよく分からないものでも、多分こうなってるんじゃないか、ここらへんに問題があったり、難所があるんじゃないかって洞察力というか、カンドコロというか、目利きというか、それが本当の「技術」だと思います。それを養うための練習問題として個々の案件があるくらいの感じ。カンだけでテキトーにやっていって、それでも迷路を抜けだして正解に達する技術。
これはどんな職業にも、どんな武道やスポーツにも、どんな趣味にも共通すると思います。
料理であっても、本当に上手な人は、単に一つの料理方法の段取りや素材のあつかいを覚えるだけではなく、もっと汎用性のある技術を持ってますよね。例えば「盛り付けにおける黄金比」であるとか、煮込みにしても「余熱を使う」とか、一回冷やして味を染み込ませるとか。こういう味でこういう食感のある素材は、こう調理するとああいう感じになるというカンとか。
技術とそのkin(親族)
知識と技術の違い
知識と技術はよく似てます。場合によっては同じことを意味する場合もあるでしょうし、単に表現の違いということもあるでしょう。ただ、これは僕独自の感覚なのかもしれないけど、知識だけならあんまり意味がないというか、直ちに使える状態にはなってないというか、ただの素材でしかないというか。
たとえばAという知識があったとしても、いざ現場に出て、Aっぽいシチュになったとしても、それがAという知識が適用されるべき状況なのかどうかの見極めはAという知識だけ持っててもダメだと思います。こんな抽象的に言っててもわかりませんよね。えーと、例えば、女の子とデートするとき、「やだ〜」とかよく言われるんだけど、文字通りNOの意味で「やだ〜」なのか、実はYESの意味で言ってるのかという問題(笑)があります。「嫌よ嫌よも好きのうち」とかフレーズになってる陳腐な知識ですけど、そんなの知ってるだけだったら現場では使えない。全体の会話の流れとか、文脈とか、その人の性格とか、好みとか、その「やだ〜」の言い方(口調とか、タイミングとか)、言うときの表情とかオーラであるとか、そのあたりをトータルで考えっていって、「これはYESという意味だ」と判断するのは技術だと思う。そして、その場合の説得する技法もある。これは男の子の場合にもありますよね。「いいよ、俺は別に」とかボソッと言うんだけど、それって照れてそう言ってるのか、心底イヤなのかの見極め。仮に照れてるだけだったとして、「まあまあ、照れないで」とかストレートに言うにしても、押し付けがましさが出過ぎてしまうと、「うっせーな!」と嫌がられるという。
野球でも、ヒットエンドランとかスクイズという戦法があるのは知識として知っていても、実際のゲームのどの局面、どのタイミングでやるかは、ゲーム全体の流れやら、個々の選手の状況やら、相手側の状況やらを総合的に判断してやるでしょう。
知識として知ってるのは大事なんだけど、それを現場で正しく使えるかどうかは、さらに補助的な細かい知識の集積が必要だし、それらを適宜あてはめていくのは、もう知識という領域を超えて、総合的な判断力であり、カンであり、要するに技術だろうと思うわけです。
技術と力の違い
でも、それって「判断力」「洞察力」とか言われるもの、あるいは「実行力」「実務処理能力」とか言われるものであり、それと「技術」とはどう違うのか?という点があるかと思います。まーね、同じっちゃ同じですよね。
ただ、僕がことあるごとに「こんなのは技術だ」とよく言うのは、「力」というと漠然としてしまうのですよ。「コミュ力」なんかもそうですけど、統合的・総合的すぎて、それだけ言われても概念が大きすぎて切り込めない。
でも「技術」にすると細分化していけます。どんなに複雑で大きな技術も、小さくて細かな技術の集積によって成り立ってます。その意味で、技術というのは本当に工学的で、メカニカルで機械みたいなものだと思います。
例えばコミュ力といっても、さらに分割していって、「話題がなくなって場が白けそうなときはこうしろ」とか「気難しそうな人との付き合い方」とか、いろいろと細かな技術に落としていけます。白けそうなときは「とりあえず天気の話をしろ」「生まれ故郷のお国自慢をさせろ」とかね。「会話がパタっと途絶えても”気持ちのいい沈黙”というのがあることを知れ」とか。
技術の良い点は、万人に開かれていて、万人に習得可能だという点です。
勿論習得するには簡単ではないですけど、ステップを踏んで要所要所のコツを押さえていけば、ある程度は誰にでも学ぶことができます。「なるほど、そうやってやるのか〜」って。これが「力」になってしまうと、「コミュ力がない」「創造力が乏しい」とか結論的な通信簿みたいな話になって、じゃあどうやって攻略するのか?って話になりにくい。時として「◯◯力がないから私はダメなんだ」みたいな死刑宣告みたいになってしまう感もなきにしもあらず。また「◯◯力がある」と肯定的に使う時も、単にある/ないだけだったら話が大雑把過ぎる欠点があります。「◯◯力があるからもういいんだ」みたいな。でも「ある」といっても、どの程度あるのか、何方面に強くて何に弱くて、もっとそれを伸ばすにはどうしたらいいかという細かな実践的な発想も出てきにくい。
「力」というのは、一種の通信簿的な結論、健康診断みたいなある一時点での輪切り情報でしない。その力は一体どういう知識技術の組み合わせによってそうなっているのかという、そのメカニズムを分析しようとって発想になりにくい。ということで、「力」という言い方も勿論あるんですけど、でも「技術」だと捉えていった方がアプローチしやすいというメリットはあると思います。
経験と技術の違い
経験は勉強であり、技術はその結果習得した「実力」だと思います。経験(勉強)すること、それ自体に最終価値はなく、それによって何をどれだけ学ぶのか、どれだけ栄養として消化できたかでしょう。
ただ技術をつけたり磨く工程(勉強方法)として、「経験」というのは最強最速の方法論だと思います。
なにかの実力を身につける方法論として「情報摂取(インプット)」があるのですが、まずは活字やビジュアル(画像や動画)が挙げられるでしょう。余談ですけど、ネットと書籍だったら断然書籍だと思います。ネットは手軽でいいですし、ピンポイントには使えるけど体系性がないのが致命的です。また、情報の広さと深さでいえば専門書(書店平積みの素人向けのチャラ本ではなくて)、の方が100倍くらいはありますよ。僕の専門の法学でいえば、ネット上の法律相談とかハウツー的なものをいくら読み漁っても弁護士にはなれません。これはほぼ断言できると思います。なぜなら知識体系に骨格がないからです。興味本位でつまみ食いしてるのと、べったと全部学ぶのとでは、知識情報の格納形態がまるで違う。大原理、中原理、小原理、そしてそれらの変化パターンと応用という情報処理のDOSみたいな基本アルゴリズムが、つまみ食いでは入らない。だから、家庭の医学みたいなネットの情報を沢山読み漁っても多分医者にはなれないと思います。この種の専門知識体系というのは、読んでてもクソ面白くもないような部分が圧倒的に多いんですよね。だからネットになかなか載ってない。あっても面白く無いから読まない。憲法9条は面白いから誰でもある程度は知ってるけど、じゃあ憲法10条ってなあに?っていうと、知ってる人は激減するでしょ?憲法って103条まであるんだけど、全部知ってる人は少ない。でも専門家は暗証とか即出てこなくても、とりあえずひと通りは読んでやってる。その差です。全く意味のない条文があるわけないんだからね。
そして実際になにごとかを経験すると、自意識を通過しないで、直接脳内に取り込まれる情報が多い。いちいちそうとは意識しないけど、その場の雰囲気とか生理感覚、皮膚感覚で何事かを大量に感じ取っている。その量比率は1対100くらいだと。大袈裟でもなんでもなくそのくらいだと思いますよ。
それは例えば、寿司を食ったことがない外人さんが、一所懸命ネットや書籍で寿司の勉強をして、寿司の画像や動画を集めまくっていても、実際に一回も食べたことがなかったら、寿司のなんたるかは到底わからんのと同じことです。
あのちんまりと、美しくも可憐な佇まいにせよ、口の中でシャリが「さらりほろり」とほどけていく食感、その際に感じられる酸っぱさとほんのりしたゴハンの甘さと、それにネタの味が織り交ざる感じ。口を動かして一噛みするごとに混ざり具合が変わり、舌の味蕾に接するものが変わって味が変わっていく感覚。またネタにもよるけど舌の上で心地よくひんやりした温度感とか、ハマチやマグロのように肉厚のネタを奥歯でブチっと噛み切る楽しさとそこで立ち上がってくる新たな味と。一カンだけでもこれだけの味のドラマがあり、それを「じゃあ次は」で次々に変えていく楽しさ。同じ味で一食通すのではなく、一回の食事で十回以上も新鮮な味覚を楽しめる。また、ネタケースに鎮座している新鮮なネタ達を目の前で眺めながら、「これも美味しそうだな〜」「次は何にしようかな」と迷う楽しさ。板前さんのほれぼれするような職人芸の流麗な手さばきとか。箸休めのガリにせよ、熱々のアガリにせよ。それらをひっくるめて「寿司」なんだが、これは握り寿司でしかなく、さらに押し寿司、熟れ寿司、バラ寿司、ちらし寿司、笹の葉寿司、柿の葉寿司、、えーとえーと、、富山の鱒寿司なんてのもあるよね。
こういった寿司ワールドが活字や動画だけでわかってたまるか、ですよね。僕ら日本人が普通に知ってる寿司の極楽ワールドを、一回も食べたことの無い人がどれだけ理解出来るのか?活字でいくら理解しても、そんなの100分の1といっても過言ではないでしょう?いっそのことゼロと言いたいくらいです。そして一回でも食べたら、さらに食べれば食べるほど(経験を積めば積むほど)、それまで仕入れた知識の本当の意味が分かるはずです。経験によって知識が活性化されていく。今僕が偏執的なまでに細かく描写した寿司のあれこれだって、食べたことあるからこそ意味がわかるのであって、食べてなかったら何のこっちゃ?でしょう。
経験というのは自意識を通さない、いちいちそうと意識はしない五感の感覚情報を得られます。それも膨大に得られるし、かなり正確に得られる。そして、技術の多くは、これら感覚情報の上に成り立っていると思う。いわゆる「コツ」「カン」というのは、まんま感覚ですし、かなり身体感覚に近い。自転車を乗るときの「バランスの取り方」なんてのは、自意識だけで習得は不可能です。てか自意識要りません。酔っ払って全然覚えてない時でも、自転車乗って家に帰ってるくらいですからね。身体が覚えている。ATMの4桁の暗証番号も、頭で覚えているのではなく、指先(指を動かす形)で覚えている。
技術を習得した時に「身についた」という表現をしますが、あれは正しい表現ですよね。身体の中に染みこんで、いちいち自意識をつかわなくても自然に身体が動くとか、もうどうしようもなくポン!とわかってしまうとか、それが技術というものです。ですので、技術を修得するためには、活字的なものも必要なんだろうけど、自意識限定という部分がネックになって、めちゃくちゃ効率が悪いし、本質的な部分は遂にはゲットできない。逆に経験してみれば、別に勉強しているという実感なんかゼロであっても、自意識ではない部分で多くのものを摂取して、技術の形成に役だっている。だから経験こそ、最強最速だろうということです。
技術の利点
”わざ”の楽しさ
技術は「わざ」とも言います。「わざ」を身につけるのは楽しいことです。趣味技芸の世界なんか典型的ですけど、何か新しいワザを身につけると、「おおお!」って思いますよね〜。また、知らないワザに出くわした時は感動すらしますよ。「おお、こんなやり方があったのかあ」って。高校の時に柔道やってましたが、あれもワザの世界です。ある程度基礎が出てきてくると色々な技が掛けられるようになるのですが、やっぱ沢山知りたいと思いましたもんね。僕なんかヘナチョコだったので大した技は習得出来てないですけど、顧問の先生(8段とか)、大先輩でちょこちょこ遊びにくる人(6段とか)と組むと面白いようにポンポン投げられます。もうねー、笑うしかないよね。そこで繰り出される技の世界の豊かさ。僕らなんざ一本背負いとか体落しとか基礎的なものしかしらないのですけど、上級者になると「横落し」「隅落とし」「朽木倒し」「俵返し」なんてのが出てくる。「肩車」なんか、自分がかけられるまで、あんな大技決まるわけないと思ってましたけど、いざかけられると感動したもんね。「はー、こうやってやるんか」と。「巴投げ」なんかも、あんなマンガみたいな技とか思ってたけど、結構決まるんだわ、これが。先生ならともかく、同輩レベルに掛けられると、無茶悔しい反面、「俺にも出来るかも」と希望がわきますよね。で、やってるうちにコツを会得して、実際にかけて決まった時は超嬉しいです。あれって「後ろに倒れこむ」のではなく「真下に落とす」のですね。自分のカカトに自分の背中をくっつけるくらいの感じで真下にすっとしゃがみこむ。相手から見た自分が目の前で消滅するような感じ。「え?」と思った瞬間にはもう投げられているという。この種の捨て身技を掛けられると、まさかこんな態勢で技をかけられるとは思わないからポカンとします。で、感動しますね〜。はー、よくまあこんなこと思いつくよな、人間が考えることに限界はないな〜と。
この「は〜」という感動が技の楽しさです。交渉術とか政治技でも、すごい強敵がいた場合、どうやって打ち破るかという方法の他に「友達になっちゃう」という方法もあるのですよね。これって、本当に合気道みたいなもので、相手の力がまるまる自分の力になってしまうという。憎らしいほど強い敵というのは、味方にしたらこれほど頼もしいものはないですから。つまり、力の存在と、力のベクトルは別であるということです。
冒頭の自己投資ですけど、お金集めも、勉強も、力の養成でもいろいろあるのですが、技術(わざ)が一番取っ付き易いだけではなく、「楽しい」です。人間の可能性に関するかなり純粋な感動があるからです。
投資としての利点
他にも投資としての技術の利点は多々あります。まず、なによりも「減らない」というのが最強ですよね。お金というのは一回使ったらその分消滅します。でも、技というのは使っても使っても減らない。むしろ使えば使うほど洗練されていくから価値が増える。例えば、暮らしていくためにお金は必要ですが、一食500円かかるとしてその前提でお金を稼ぐよりも、一食100円で栄養も味もバッチリな料理技法を沢山身につけておくのとでは後者のほうが効率がいいでしょう。年収5分の1でいいんだから、結構チンタラ働いてもいいってことになって楽じゃん。
これを普遍化したら、お金が無ければないなりに楽しくハッピーになる方法(技)を沢山知っていたら、そんなに稼ぐ必要もないのですよ。そして、これらの技は使っても減らない。一つ覚えておけば、一生を通じて何百何千回も使える。「若い時の苦労は買ってでもしろ」といいますが、若い時の貧乏は必須教程といってもいいと思います。お金のないときのしのぎ方、それでも楽しくやっていける技術を沢山覚えますからね。僕なんざこれでしのいでいるようなもんです。別に数万円出費して豪華なディナーにいかなくても(それはそれで楽しいけど)、なかったら家族でお月見でもすればいいし、夜のピクニックって結構楽しいんですよね〜。ホラー映画見る金がなかったら、仲間で肝試しやればいいんだもん。無料だぜ。
どんなことにも面白味を見つけて、楽しみ方を開発できる、その発想術やら、実行力というのは、これはれっきとした技術です。ちょっと早起きしてマンションの屋上登って夜明けの空気を楽しむだけでも、やっぱそれなりに感動はありますから。無料で楽しめるネタなんかいくらでもある。というよりも、本当に楽しいことってたいていは無料ですよ。ただそこに行くために旅費がかかるとか滞在費がかかるとか、その種の費用がかかるだけで、楽しさ本体は大体が無料。海だって山だって雪だってサンゴ礁だってそのものの鑑賞自体は無料だもん。自分にとってはいつもと変わらないクソ見慣れた街だって、それを見るために何十万も旅行費払って来る人だっている。だったら自分がその旅行者の目と発想で見慣れた街を見たらいいです。面白かったりするんですよね。また「見慣れた」ってほど何を知ってるわけでもないのですよ。よくよく考えたら自分の街だって知らないことだらけです。いくらでも新しい発見や感動はあるよ。
さらに「持ち運びに便利」という利点があります。身につけた技術というのは、スーツケースに入れてガラガラやらなくても、完璧に手ぶらで持ち運びできます。そして、国境だろうが税関だろうが金属探知機だろうがどんな関門もパスできます。「肌身離さず」って言いますが、別に努力も緊張もしなくても、全財産がゼログラムで自動的に全部自分にくっついてくるのだから、こんな楽な話はないですよ。
ということで、タイトルに戻りますが、技術は裏切らないです。お金も資産も権力も裏切られることはあります。時代が変わっただけでもう意味がかわってしまう。しかし、技術は変わらない。歌が上手とか、水泳が上手いとかいうのは、日本が沈没しようが、異星人によって地球が征服されようが変わらない。
もちろん、時代遅れになる技術もあろうし、どんどん技が錆びつく場合もあるでしょう。その意味で技術も裏切るかもしれない。でも、それは技術が自分を裏切ったというよりも、自分が技術を裏切ったんだと思います。なぜなら身につけた技術というのは、自分そのものであり、そのメンテをするのは当然のことでしょう。歯磨きみたいなもので、常にアップデートすべきですし、錆びつかないように研鑽も積むべきでしょう。もし技術が神通力を失ったのだとしたら、それは誰のせいでもない、自分が悪いんです。そして「裏切る」というのは、自分の関与が及ばない外部事情によって自分が悪影響を受けることです。その全てが自分の管理下にある自分の技術は、それゆえに裏切るということはないでしょう。
以上、「このくらいの時間と労力」をかけるならば、お金よりも(それも大事だけど)、権力よりも、知識よりも、力よりも、ワザを身につけたいです。これって、一種の「技おたく」なのかもしれないな〜。でも、技って楽しいですよ。お金を使うときって一抹の寂しさがあるけど、技を使うのは楽しいですから。で、使えば使うほど増えるという。楽しみにながら増やせる投資ということで、やっぱ一番いいんじゃないですかね。
文責:田村