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今週の一枚(2015/07/27)



Essay 733:日本社会の隠れメタ宗教

普通教、世間教、そして年齢教

 撮影場所は、Neutral BayのKurraba Point。フェリー乗り場の近くの岬公園。ピクニックランチにいいよ。

 そこでワンコ群の散歩をしているおっちゃんがいて、なんか佇まいからしてプロ?っぽいんだけど、犬にボールを投げて遊ばせては本人は携帯でずっと話しているという。

宗教とメタ宗教

根拠不明のドグマ

 無宗教社会といわれる日本にも、実は隠れた宗教(のようなもの)がいろいろあると思います。過去にもあれこれ書いてますが。

 例えば「”普通”教」というのがあって、「普通」=「人として正しいありかた」みたいなドグマ(教条命題、規範テーマ)があるかのように僕には思えます。「それってちょっと"普通"じゃないよ」って言われると、「人として道を踏み外している」かのようなニュアンスが含まれているなど。

 宗教とはなにか?とか論じ始めると本が何冊も書けてしまうのでしょうが、ここでは「証明不要(不能)の命題によって世界観や人生観が導かれるもの」という具合に軽〜く考えてみます。

 一般には神様や仏様などの超越者が「いる」というのは証明出来ないでしょう。証明というのは、ピタゴラスの定理のように、立場や価値観を問わず「なるほど、確かにそうなるわ」と認めざるを得ないことをいうと思うのですが、神の有無について見解が分かれるし、また神がいるにしてもそれがキリスト的なものか、アラー的なものか、はたまたマハーカーリーのようなものかについても見解が分かれます。「分かれる」ということは証明できてないんでしょうねえ。しかし「こういう超越者がいる」という証明抜きの命題を信じて、だからこの世界はこうなっていて〜、だから我々はこう生きねばならないのだ〜という世界観なり人生の指針が導き出されていく。これが宗教なんでしょう。

 なお予めお断りしておきますが、これから書くのは宗教そのものというよりは、エセ宗教、メタ宗教です。僕自身何かの信者ではないですが宗教自体はキライでもないし評価もしてます。なんせ地球人類の93%だったか何らかの意味で”神”を信じているらしく、信じてない方が、後述の例でいえば「普通」ではない。

 ただそんな多数決問題ではなく、ヒヨワな人間精神が荒ぶる現実に対峙するには、なんからの支え棒を用意する方が現実的な対処とすら言えます。平和な現代(人類史的に比較すれば)、特に先進諸国では、目の前で幼児や老人が虐殺される現場に居合わせることはレアですが、その昔はごく普通にむごたらしい現実がひろがっていた。そんな世の中を合理精神や自給自足の自意識だけで渡っていったら、すぐに精神がぶっ壊れてしまう。だから神が求められた。逆にぬるい現実しか知らなかったら、それほど切実な神のニーズはないという関係は、確かにあると思います。

 また、千年以上続いている宗教は、腐敗→改革→自浄のサイクルを何度も何度も繰り返してきており、それなりに洗練された体系をもっており、のべ数千億人の真剣な人生の問いに答え続けてきただけに、それなりに体系的だし、説明も上手だし、奥行きもある。

 でも、これといった宗教を持たない場合、合理では割り切れない人間のムニャムニャした部分、それは半分は美しく半分は腐っているようなワケのわからない精神の無法地帯みたいなものだと思うのですが、それを処理する有効な体系がない。だから、なんとはなしのシキタリとか、敢えて深く考えないで誤魔化すとかムニャムニャに処理している。でもって、ムニャムニャゆえに「そんでええの?」って思われる部分もあります。またムニャムニャゆえに誤魔化し切れずに精神が壊れて鬱になるとかいう事態も生じるでしょう。今回述べるのはそれらの部分です。

普通教

多数決絶対主義

 「普通」=「人として正しいありかた」というドグマ(教条命題、規範テーマ)ですが、この感覚は(メタ)宗教の一種になるでしょう。なぜなら普通がなんで人として正しいのか証明できてないんだもん。それは合理ではない。

 合理を柱とする物事を他者にいう場合は「説明」になります。諄々と解いていけば分かってもらえる。賛同はしてもらえないかもしれないが、理解はしてもらえる。そこに「理」があるからです。理とは本来そうしたもの。
 しかし、合理を背骨にもたないものごとは、説明ができない。出来てもすぐに破綻する。だから「押し付け」になる。「そーゆーことになっている」という。そして、この普通教は、合理の部分もあるけど、非合理の押し付けも多分にある。

 これっていわば「マジョリティは常に正しい」という多数決絶対主義みたいなものなんだろうけど、マジョリティが間違っていることなど歴史にいくらでもあります。昔は地球がお盆みたいなもの(少なくとも球体ではない)と皆思ってたわけだし、その時代の常識が後世からは修正されることはよくあります。ある狭いエリアでは常識的なことが広い世界からみたら異常扱いされることもよくあります。日本の戦後でも「一億総懺悔」とか言ってたわけで、それって要するに「全員間違っていた」ということであり、つまり多数決絶対主義は古代から現代まで連綿として破綻し続けています。常に間違ってるとは言わないけど、常に正しいというものではない。

 いや普通主義というものは正しい部分に根拠があるのではなく、スタンダードな形にしておくと何かと目立たず無難でお得だからその方がいいよ、服のサイズだってSMLのどれかに納まってる方が3XLとか少数派であるよりも品数も選択肢も多いからいいよ、という功利主義的な処世術にすぎないのかもしれません。でも、なんかそういうドライな功利主義だけで言ってるようにも思えないんですよね。功利主義って、例えば確定申告でこれは給与として支払ったことにして、こっちは経費で落として〜とかいうクールでビジネスライクな感覚だと思うのですが、「普通」という言葉にはそれ以上の倫理的なニュアンスが含まれてますよ。

 例えば、深夜に爆音で音楽聞いて踊り狂ってたら「普通じゃない」「非常識」と言われ、非難されます。その非難はわかります。迷惑だからです。だったら騒音が安眠を妨害するという加害性をピンポイントに言えばいいのに(迷惑だと)、それを「普通じゃない」という言い方をするのは何故?

偏差と善悪は次元が違う

 それは「常軌を逸している」状態=善良なる市民の倫理秩序感覚から逸脱している点が非難の根拠になるじゃないかって思われるかもしれないけど、そんなことないっすよ。だって「常軌を逸して素晴らしい」ものだってあるわけでしょ?オリンピックに出るとか、100人に一人の勝ち組エリートになるとか、さらに英雄や偉人は全員がどこかしら「常軌を逸して」ますよ。つまり平均値から離れている=偏差値50から離れているという状態しか意味せず、それが良い方向に離れていて偏差値80で絶賛されるのか、それとも悪い方向に離れて軽侮されるのかは別問題でしょ。別のなにか他の善悪の物差しをもってこなければならない。偏差の問題と善悪正邪の問題は次元が違う。

 にもかかわらず、単に「離れている」ということ=普通じゃないことをもって非難の根拠にしようとするのは、やはり普通=マジョリティ=良いことという価値判断がどっかにあるからでしょ?そして事実そうでしょ。

 端的にいえば誰もが犯す法律違反です。未成年者が飲酒するとか、多少の駐車違反やスピード違反です。善悪でいえば法律破ってんだから形式的には明白に違法です。でも皆が大学の新歓コンパで盛り上がってるときに、「未成年者に酒を飲ませたらダメだ!」と大声で中止を唱えたりすると「普通じゃない」として非難されることもあるでしょう。制限速度守ってトロトロ走ってるとクラクション鳴らされたりさ。つまり法とか交通安全以外に別の正義の根源があり、それが何かといえば「皆そうしてるから」「普通だから」です。ということで、「普通」は立派なドグマになっている。しかし、なぜ普通だと正しいのか?というと、証明しにくいし、また証明して説得しようという気もない。

 あるいはお悩み問題でも、「私、変わってるかな?」と「私は人のみちを踏み外してないか」的なニュアンスで語られる場合もありますよね。だからー、何度も言うけど是非善悪と多数派かどうかの問題はレベルが違うでしょ?「変わってる」こと自体は価値的に中立であり、問題はそれが良いか悪いかでしょ。しかし、マジョリティであることが正しさの源泉であるかのような発想があるから、そういう悩みになるんだし、また「そんなことないよ、皆そうだよ」とかいう慰め方になったりもする。

普通教の致命的な欠点

 まあ、多くの場合は皆と同じようにやってれば大過ないでしょう。皆も真剣に生きているわけだし、そうそう過ちを犯しはしないから、皆の行動を模倣していれば大体は間に合う。処世術としてもアリでしょう。が、この普通教は重大な欠点があります。

 「皆」といっても所詮は狭い世界なもんで、いざというときに別の基準で断罪されたらひとたまりもないってことです。
 一つにはモラルハザードです。とある企業内や業界慣行として不正な処理が横行してても、あまりにも広まってるために悪いことをしているという感覚が麻痺してしまう。で、ある日突然手入れが入ったり、スキャンダルになって大事件になって、それに連座して一生パーになるという。そうなってから「皆やってるから」とか弁解しても聞いてもらえないし、また聞いてもらったところで「組織ぐるみの犯行」ということで一層重罰が課せられる。

 第二に、天災とか巨大な災禍の場合です。あまりにも平穏な日常からかけ離れているだけに、次の瞬間自分が死ぬかもしれないってことにリアリティがない。だから、まあ大丈夫だよって何の根拠もないことを皆で言い合って安心しあってるだけって状況がよくあります。で、ある日ドカンときたら、全員即死みたいな。大地震にせよ、株の大暴落にせよ。そういった大災厄ほど、ある日突然起きるし、前触れもないです。小さな災厄だったら頻度も多いしパターンも読めるんだけど、デカい奴はレアだし読みきれないのですね。雨か晴れかくらいだったら結構な確度で予報できるけど、大地震がいつあるかは分からん。ゆえに、巨大な災害、生きるか死ぬかレベルの重大問題になればなるほど、「普通」がどうかなんかクソの役にも立たないってことです。

 いずれの場合にも共通することは「一瞬にして人生が崩壊するリスク」ですね。これが普通教の弱点。このあたりは昔「赤信号、みんなで渡れば、みんな死ぬ」ってタイトルで書いたことあります。そうなんだよね〜、当然じゃん。

世間教

 同じような宗教性を帯びるのが「世間教」です。

 「世間に後ろ指を差される」=神様のバチが当たる、くらいの感じで倫理性を得ている。
 何かスキャンダルがあると「世間をお騒がせして申し訳ありません」と謝らないとならない。まるで神様を冒涜したかのように。つまり世間=神なのだ。

 また世間こそがこの世界の実相であるかのような言い回しがあります。例えば「渡る世間に鬼はなし(鬼ばかり)」という世界観とか、「世間知らず」「世間が狭い」という非難とか。さらに、それが人生の行動規範になったりもします。「せめて世間並に〜」とかね。

 しかしてその「世間」とやらの実体は何か?というと限りなくしょぼいものだったりもするわけですよ。
 職場やママ友集団とか狭い狭〜いせいぜいが十数人の人間関係一般か、マスコミが幻灯機のように映し出す虚像かでしょ。要はピア・プレッシャーや同調圧力に過ぎないか、メディアが照らし出す集団幻想に集団でラリってるだけみたいなもの。ピア・プレッシャーにせよ、醜いアヒルの子が「違う」というだけでイジメられている状況に対して、異議を唱えるわけでも戦うわけでもなく、ただただその現状に同調して事なきを得ようとするだけのこと。マスコミが居丈高に語る「世間を騒がせた罪」だって、別に俺は騒いでねーよ、誰も騒いでないよ、面白がってる奴はいるけど、結局騒いでるのはお前ら(メディア)だけじゃんという。それが「世間」とやらの実際でしょ。

 そんな涙がちょちょ切れるようなセコい、便所コオロギみたいな(リーリーうるさいけど何処にいるのかわからない)「世間」とやらが、「教え」まがいに語られ、善悪の基準になったり、世界の実相を表したり、人生設計の指針になったりするわけで、その影響力の強さを考えてみたら、それってやっぱ宗教じゃないですか?「鰯の頭も信心から」っていいますけど、イワシの頭のように、ちっぽけでほとんど価値が無いものでも、それが「ご神体」だといわれると、ありたがって拝んでしまう。クラスルーム内のヒエラルキーとか、卒業したらもう二度と会うこともないような連中、長い人生スパンでみれば、たまたま地下鉄の車両で乗り合わせたのと似たりよったりのテンポラリーの存在や場での動向、つまりは「イワシの頭」みたいなものを、まるで全宇宙の真理を象徴しているかのように思ってしまう。


年齢教

 そのような雑然とした多神教日本ですが、その中にも「年齢」も含まれると思います。年齢は、ときとして「正義」になり、あるいは価値の源泉になったりするという「なんだかな〜」という情景がときどきあります。

 年齢の意味は、一つにはこれまでの生存時間であり、2つ目にはもっぱら肉体健康的な生まれてから死ぬまでの「今ココ」GPSでしょう。これらは客観的合理性があります。しかし、それ以外に、よく考えたら大した根拠もないいのだけど年齢に関する規範があるように思います。以下順次述べます。

年齢の合理的な意味〜学習効率

 一つ目の生存時間は「学習時間」とも言えます。これだけの時間があったんだから、このくらいは学んでいるでしょってことですね。試験時間1時間でまだ3分しか経ってないなら解答用紙の多くが白紙でもいいけど、55分経過時点でまだ真っ白だったらヤバイでしょって話です。

 これは「いい年して、こんなことも知らない(出来ない)のか」という言われ方に端的に表されます。38歳にもなって、まだ新幹線に一人で乗ったことがないので怖いから誰か一緒に乗ってくれ〜とか言われると、「いい年ぶっこいて」って思いますよね。これまで何やってたの?という。

 年齢が高い→時間があった→学習機会があった→それでも学んでない→学習意欲や学習効率が劣等であるという推定が働くってことですよね。

 「馬鹿は死ななきゃ直らない」に相当する英語の言い回しは"Some people never learn"だと僕は思うのですが、馬鹿=学習効率に重大な問題をはらんでいる人、と言ってもいいかも。同じ失敗を何度も何度も繰り返す人、いい加減覚えろよ、懲りろよっていう。そして、年齢が高いということは、これまで所要時間(学習機会)が多かったということであり、当然ながら期待値は高い。で、期待値より低いと「30にもなってお通夜と告別式の違いも知らんのか?」とか「30顔(つら)晒して何言ってんだか」と言われる。これが17歳くらいだったら、そこまで言われない。「あ、それはね」って教えてもらえる。

 これは確かにありますし、宗教的ではなく客観性や実証性もあります。
 年をとるというのことは、他者からの要求水準が上がるということでもあります。「それだけの時間がありながら」「この程度のなの?」と思われるわけで、そこが辛い。10代でそれをやっていてると「微笑ましい」とか好意的に解釈されても、40代でまだそれをやってたらアホか言われる。20代だったら許されることでも30代だったら許されない。

人生GPS〜経年性のメカニカルな変化

 第二に人生GPSですが、大きな骨組みになるのは経年性の身体変化でしょう。端的なのは女性の高齢出産で、◯◯歳がタイムリミットとか言われる。医学の進歩でどんどん伸びてはいますけど「もともとそういうふうに作られている」という身体上の初期設定はあるでしょう。これは純然たるメカニカルな話で、車でも10万キロ乗ったら◯◯を交換して〜とかいうのと同じです。ハードディスクでも何年も使い続けてきたら、そろそろぶっ飛んでもおかしくないよねとか。

 そういった意味で年齢が指標になることはあります。

 肉体的ではなく社会的な意味もあります。◯歳までは就学年齢で、◯歳くらいから稼働年齢で、結婚適齢期で、定年で、年金受給年齢で〜という。これは身体ほど物理的な根拠があるわけではありませんが、「◯◯君も来年は受験かあ」「そろそろ老後の生活設計を考えないとね」とか、そういうった社会的なGPS指標として年齢が使われることはあります。

 これらも別に宗教がかっているわけではないです。特に肉体的なものは、信じるとかに関係なくメカニカルな耐久性の問題ですからね。

年齢に関する規範命題(ドグマ)

 しかし、上のようにある程度合理性のある場合だけではなく、よく考えたら何の根拠もない年齢に関するドグマがあるように覆います。

年とともに枯れるべし、という教え

 例えば、「年甲斐もなく」という言い方があります。ミニスカはいてコスプレやってる老婆とかいたら「年を考えなさいよ」という非難を受ける。年齢がある種の社会的なポジションを意味するくらいまではいいとしても(子どもやお年寄りは肉体的に強壮ではないから格別の配慮をとか)、よく考えると論理必然でもないし、また実体に即しているわけでもないことも多い。

 高齢のご婦人がお化粧やファッションをバシッと決めているのは、オーストラリアでは珍しいことではないです。というよりも、むしろお年寄りの方がキメキメ度が高かったりします。また似合ってるんですよね、これが。カッコいいばあちゃん、結構います。むしろ年を取ったほうが、威厳があるから着こなせる服(フォーマルとかブランドとか特に)あって、これを若いのが着てても七五三みたいってのもあります。日本でも、料亭や旅館の女将さんの和服なんかびしっとしててカッコいいですもんね。男性でも、紋付袴の和装は落語家みたいなもので高齢の方がサマになる。

 ということで、「年をとったらファッショナブルになってはいけない」という法則はないし習慣もない。また、肉体美が衰えるがゆえに服装でフォローする必要が高まる等、真逆のことも言える。いずれにせよ、そこにあるのは純然たる美的感覚であり、あるいは個人の自由度でしょう。コスプレ老婆が眉を潜められたとしても、それは美的センスがちょっとな〜という部分であり、美魔女的に成立してれば全然アリでもある。また似合ってなくても本人がエンジョイしてれば、それでいいって考え方もある。

 でもでもでも、「年齢が高くなると枯れないとならない」という規範命題もまたあるように思います。若いうちは生命力のままにギラギラと欲望を発散していても許されるから、異性を引きつけるための「大胆な」装いも許されるけど、年をとるにつれて「Hey Hey カモ〜ン!」的なカッコして「枯れて」ないと、「はしたない」「年甲斐もない」と言われ、なにやら人として間違っているかように言われる。なぜか?なぜ年をとると、人として健康な欲望をムンムンと発散させてはならないのか?自分の身体をキャンバスにして自由な自己表現をしてはいけないのか。なぜ、授業参観の際に、深いスリットで美脚を強調したり大胆な胸元という格好でいくと、「ま!」「なんちゅー」という目で見られないとならないのか。

ピア・プレッシャーの不健全な抑制

 僕は男性で、しかも私服に関しては高校の時からほとんど変わってないという無頓着なタイプであり、ファッションに関して何かを発言する資格など殆ど無いのですが、それでも、つきあっていた彼女やカミさんなど女性陣のそのあたりの「気の使いよう」には、「は〜」って感嘆・慨嘆する思いでおりました。「これ、ちょっと派手かしら?」「ダメダメ、そんなのもう着れないわよ」とか(僕から見たら)物凄い精密な基準で考えておられる。

 でも、純粋に美的感覚でいえば別に派手でいいじゃん、全然いいじゃん、似合う似合わないでいえば、多少の年齢差なんかよりも顔立ちとかオーラとか他の要素の方がはるかに大きいんだから「いいじゃん別に〜」と思うのですけどね。でも、そう意見するたびに、知恵遅れの猿を見るような目で「何いってんの!」と一蹴されます。愚劣な意見で貴重な時間を浪費させるんじゃねーよ、すっこんでろってな感じで。

 で、思うのよのね、何なのそれ?って。
 これは例えば、冒頭で述べた普通教の一形態、ピア・プレッシャーの一変形だと思います。皆本当はイケイケで派手だったり、いい男にチヤホヤされたいとか思うのだけど、そこは「抑制されたマナーで」というか、武器対等の原則というか、慎み深く貞淑で善良な市民的な仮面をかぶりつつ行うというルールがあって、それを逸脱して派手目なファッションをキメるのは、いわばプロレスのリングでの「凶器攻撃」のような「反則」であり、その反則性がゆえに非難されるのではないか。大皿に残った「最後の一個」を食べた人間に非難の視線が集中するように。

 しかし、一体なぜそんなルールが確立しているの?誰が決めたの?それが法律なら、いかなる立法事実があって、いかなる立法理由があるの?さっぱわからんぞ。

枯れドグマの根拠

 宗教の特性に、根拠があるんだかないんだかわからんタブーやシキタリがあります。なんかしらんけど古くからそーゆーことになっているという。合理的な根拠が明確なもの(交差点に入るときには安全確認を、とか)に比べて、仏前でお祈りするときにはなぜかタイやインド式の合掌礼式をとるけど、なぜ?というとわからん。神式の二拝二拍手一拝もそうです。一応理屈はあるんだけど、「本当かよ?」「それが正しいという論証をせよ」といわれるとようわからん。

 そのなかに、この「枯れドグマ」もあるような気がします。
 もっとも、これだってある程度合理的に説明することも可能ですよ。学習機能説からすると、年をとって長い年月社会に接しているんだから、視野も広くなろうし人々の相関関係もわかるから、自ずと自分の身の置きどころや、何が正当な主張で何が自己中なワガママであるという線引も出来る。いわゆる「分別がつく」ってやつです。ゆえに若い時分のように、身の丈を越えた自己主張をしなくなるし、適切なストレス耐性もつく。「丸く」もなるでしょう。そして、その学習達成度に至ってないと「おとなげない」とたしなめられる。これを外から見ると「枯れる」「抑制がきいた」って感じになるのでしょう。これはわかるし、合理性もある。

 しかし一人歩きのオーバーランも多い。
 特に「年寄りの冷や水」「年甲斐もなく」という言い方は、年を取ればとるほどアクティブに活動することそのものを禁ずるかのようです。そこでは、その禁止が合理的根拠があるかどうかは問われない。例えば、定年退職したオジサンやおばさんが、「おし、俺も」でスケボーやり始めたり、ヒップホップやったりするのは悪いことではないですよ。身体動かすのは健康にもいいしね。そりゃ多少滑稽な感じもするかもしれないが(当然最初はヘタクソだろうし)、でもそれは「微笑ましい」って好意的に受け取りますよ、僕は。オーストラリアでは高齢のサーファーとか普通にいて、ボロッボロの年季入りまくりのウェットスーツやサーフボードがカッチョいいです。でも、なんかそういうこともダメっぽいところが日本にはある。とにかく地味に、とにかく非アクティブになるのを良しとするという。

ダブルスタンダードの大嘘

 しかし、人間の欲望なんか年齢によって枯れないですよ。あるとすれば、さんざんやり尽くしたので「飽きた」ってことでしょう。

 恋愛感情だって死ぬまであるでしょう。養老院で三角関係でどうのって話は聞くし、それが普通だろって思う。「年甲斐もなく」とは全然思わない。10代後半から20代前半の肉体的適齢期ってのはあるけど、あれは「生殖(出産)適齢期」ってことで、むしろ初潮を見た10代前半が生物的にはベストなんでしょ?でも、それは恋愛というよりはセックスのための前提手続みたいなもので、それと恋愛感情とは重なり合うけどちょっと違う。もし全く重なるとするなら、結婚にも定年制を認めるべきっしょ?だって生殖不能になったら恋愛なんか意味ないって話なんだから。

 それに自己実現欲求や承認欲求はいくつになってもあります。知的好奇心も衰えるものではない。要するに人間としての欲望なんか、年齢によって全然衰えないよってことです。満たされたからもういいやとか、飽きたとかいうのはあっても、それは年齢と関係ない。赤ちゃんで飽きるときは飽きるんだしね。

 そして実際に、誰も枯れてないじゃん。エロ親父はいたるところにいるし(てかある意味全員そうだし)、おばちゃんはシモネタ大好きだしさー、年とった方がやたらチヤホヤされたがるしさー、スピーチ長いしさー、銭金欲しがるしさー、名誉ほしがって銅像建てたがるしさー、経済界の大物になったら今度は勲章や園遊会をお望みだし、コアラが鋭い爪でユーカリの木をガッシリつかむように、なんか利権話があったらガッシリ掴まってるのは、おしなべてジジババばっかだろ?どこが枯れてるんじゃ?

 これほど実体と乖離した、別の言葉で言えば「超弩級の大嘘」はちょっとないよ。だからいたいけな子供達は迷うんだよな〜。「大人になれ」って言われるけど、大人ってなによ?って、慎み深く地味に枯れていけって言ってるのか、俺が俺がでギラギラしろて言ってるのか。おもいっきりダブルスタンダードだという。

死ぬまで枯れるな

 僕の意見は、年齢と人間的欲望は切り離すべきって説。いくつになっても、おそらくは死ぬまで欲望ギラギラであり、それでいいのだって考え方。

 だって「生命」ってそういうものでしょう。その猥雑なまでの獰猛な生命パワーなくして、この宇宙で生命なんか奇跡みたいなはかない現象が維持することは難しいですよ。気を緩めたら、エントロピーの大波にかっさらわれて、全ては拡散し霧消していく。ボンヤリ消えていきそうなのを、グワシッと掴んで、カタチ保って、秩序崩さないでってリキの入った営みこそが生命であり、そのパワーなくして生命は存在しえない。ギラギラしてる部分があるからこその命でしょ。

 だから年をとっても枯れる必要もないし、実際に枯れないし、枯れるべしという倫理らしきものを観念するのは趣味に合わんです。人は皆、死ぬまでギラギラしたスケベなのよね〜って大前提で考えるべきであり、それを祝福しつつ、行き過ぎを適度に調節するくらいであればいい。ハッスルプレーは大いに賞賛されるべきであり、やりすぎて反則だったら容赦なくイエローカードを切るべし、と。

 だってさ〜、皆がそのくらいでないと、結局下品でパワフルな連中が全部美味しいところをもってっちゃうじゃん。法哲学でいう「法の死」ってのがあるんだけど、実体にそぐわない法を作ったりするとどうなるか?逆効果になるのですよ。なぜなら、善良で温厚な人達は無意味な規則を忠実に守って、本来のパワーや良さを発揮できないままくすぶり死んでいく。一方、もともと傍若無人で下品でモンペアみたいな連中は、そんなもの意にも介さないからガンガンやり放題。もう無人の野をいくようにこの世を独占してしまう。生活保護の基準みたいなもので、誠実に頑張ってる人ほど遠慮してしまい、ヤクザのような連中は屁とも思わずむしりとっていく。結果、施しを受けずに餓死するのが人間として立派であるかのような、愚劣極まる倒錯倫理がまかり通る。

 それもこれも実体にそぐわぬエセ規範、駄目ドグマを作ってるからでしょう。だったら人は皆死ぬまでギラギラしてて良いという前提にした上で、相対的にクソジジーのパワーを減衰させ、適切に秩序を作っていったほうがよっぽど生産的で、よっぽど楽しいと僕は思う。

 だもんで、80のおばあさまが、「彼」とのデートの朝、いそいそとお化粧に余念なく、何を着ていこうかしらで鏡の前に迷うべしです。その方が楽しいじゃん。それにそういうハリをもたせた方がボケないで済むし、家族も介護疲れでぶっ倒れなくて済むぞ。「枯れろ」というのは、ある意味では「死ね」と軽くいってるようなものであり、そんなのイヤじゃ。断固拒否。生あるかぎり、全力でぶっ飛ばせ、全開バリバリだぜ〜って方が好き。秩序というのは健康なパワーの上にこそ成り立つのだ。綺麗に区画整理された墓地みたいな秩序は要らんし。

 それにさ、自分が80歳になっても100になっても、当然のように素敵な恋が出来るって人生観の方が、生きてて楽しくないですか?デートの公園で、ソフトクリームを買いに走っていった彼が戻ってきたら、ベンチの上で微笑みながら事切れてるのさ。いいじゃん、そんな人生、美しいじゃん、カッコいいじゃん。やりてーよな。40歳でまだ童貞だからなんだってんだ?それがどうした。ショートケーキのイチゴは最後に食べる派なんだよって思っとき!これは僕のように年食った奴しか言えないから敢えて言うけど、年取ったほうが客観ルックス偏差は縮まって内面勝負になるから、チャンスは増えるんだぜ?Time is on your side, you know that?

 もう長くなったので最後びゅーんと飛ばしますけど、その他の「年齢教」は、例えば35歳までとかいう求人における年齢制限とかもあります。あと、おのれの怠慢やズルを正当化するために「もうトシだから」なんて逃げ口上、あるいは若い人の自由な試行錯誤を禁じる「若すぎる」という論法、いずれも根拠ないことをもっともらしくいう「倫理偽装」があるので、キライです。そんなこと言ってたら、ある時点までは「若すぎる」で何も出来ず、ある時点を超えたら「もうトシだから」で何もできない。結局生涯を通じて何もできないまま、朽ちた木のように枯れていくという。そんなさー、「全ての道は不作為に通ず」みたいなこと言ってるから、日本ももう25年以上沈みっぱなし、ほっといたらあと50年でも100年でも沈みっぱなしになるんでしょ。


 この世は、クソ生意気な若者と年甲斐もない中高年が、ピア・プレッシャーをぶっ飛ばすことで発展するのだ、と思う。





 

文責:田村



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