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今週の一枚(2015/07/20)



Essay 732:「意識」=「客席」。操縦席ではない。

NHKスペシャル「腰痛・治療革命」を見て思ったこと

 撮影場所は、Roseville。Chatswoodのイッコ北の駅で、一気に閑静な、ある意味さびれた佇まいの駅。電車も停車してくれないこともあるし。

 定義はさまざまですが、このあたりからシドニーの奥座敷のアッパーノースで、それだけに古き良き佇まいがあります。てか、もう少し奥の住宅街に入ると、「なに、これ?」ってレベルの本家西欧風の豪邸が並んでます。直近の売買実例をみてても、大体2−3億円レベルですね〜。は〜。

 でも、駅周辺の佇まいも嫌いじゃないです。寂れてるんだか、閑静なんだか、昔ながらの無理してない感じが良くて。写真はたまたま入ったカフェでしたけど、ここはアタリで、ニュータウンのCamposの味にかなり近い。それ以上に店の雰囲気が、天井の高い昔のガランとした建物をそのまんま使ってて、古き良きって感じ。20年以上前、最初にオーストラリアに来た時の感じで、良かったです。

結局、こーゆーことなんだよな

 さる(2015年)7月12日(日)に放映されたNHKスペシャル腰痛・治療革命 〜見えてきた痛みのメカニズム という番組が話題を呼んでます。カミさんに言われて僕も見たのですが(ネットのあちこちに落ちていますよ)、たしかに衝撃的な内容でもあります。簡単に言っちゃえば、慢性腰痛は「気のせい」に過ぎないということで、それは幻覚の痛みであると。

 あ、誤解のないように。ここで紹介されているのは、他覚所見のないまま3ヶ月以上遷延している慢性腰痛です。筋肉に炎症をおこしたり、骨がずれたりという他覚所見があるのものは話が別です。特におかしいところは何もないのに、なぜか痛みだけが長引いて、もう何年も続いているような慢性腰痛のケースです。

 これ見てて「ほほ〜う」と思う反面、デジャビュ感バリバリで、「何を今更」という気分もありました。
 なぜなら以前からカミさんにさんざん聞かされてた内容だったからです。
 一番カリカリきてたのは当のカミさんで「結局、こーゆーことなんだよな〜!」と憤懣をぶちまけてて僕はその受け皿役であったのですが、今回そのあたりの話を。

 「結局、こういうこと」というのは「権威主義」です。この国では(あるいは人間社会一般では)、その内容の正当性を吟味するのではなく「誰が言ったか」によってほぼ決まってしまう。カミさんはキネシオロジーとかそのあたりの代替医療をやってるわけですけど、そのエリアの人がいうと、単にオバちゃんが言ってるだけ、あるいはちょっとオカルティックに「いっちゃってる」人達が言ってるだけみたいに受け取る頭の固い人(中高年男性に多い)もいるんだけど、東大教授とかそのあたりの人がNHKの番組で言うと、「そうだったのか〜!」と衝撃を受ける。「だから、前から言ってんじゃん!」とカミさんのようにムカムカしている人は多分に日本でも数十万人はいると思うのですが、これまでガン無視ないし白眼視してたことでも、権威ある人が言うと「おお〜!」って。「ええ加減にせんかい」って感じなんだけど、それが世間というものよね〜、ルルル〜って(笑)。

理系の辣腕ビジネスマン+白兵戦付

 カミさんはオカルティックとかお花畑系とは対極にあるようなタイプです。子供の頃から理系バリバリで一番得意なのが数学で、僕らの頃の理系子供のバイブルでもあったブルーバックスという書物(相対性理論とは何か?とか、SFではない、でもSFみたいに楽しくファンタジックな最前線の理系知識を書いた文庫)を読み漁ってたタイプ。また、一部上場企業で一介の売り子から社長室直属の戦略室までのし上がって、当時の通産省の若手連中と、アマゾンよりも20年前にアマゾンみたいなオンラインシステム(過去の閲覧購買データーをもとに独特なアルゴリズムで「これなんかどうですか」とさりげに推薦するシステム)を構築しようとして、でも当時では発想が斬新すぎて実らずというビジネスマインドもってます。てか、今個人的にはビジネス話をして一番話し応えのある相手です(企業内権力闘争話とか小説に出来るくらい面白いし、店舗設計やマネジメント戦略話はビジネス雑誌の記事よりリアルで面白い)。でもって白兵戦にも強くて、学生時代には甲南というお嬢系に無理やり入れさせられてんだけど(個人的には東工大あたりに入ればよかったのにと思うが)、その頃から京阪神のセミプロバンドのマネージャーを3つ掛け持ちしてライブハウスのブッキングやってて(神戸のチキンジョージとかさ)、あまりにも派手にやってたから、縄張り荒らしかと思われて、深夜に山口組(芸能の田岡だもんね)から探りの電話が入ってきたり(誤解が解けて「ほったら、ええわ」と”お許し”を得たとか)。売り子時代でも20代前半で年商10億円売り上げて、ハタチくらいの頃にクレーム処理で一人で暴力団の事務所にいって話つけてきたとか、その種の武勇伝多し。僕も喧嘩上等系なので、今となっては手加減抜きに喧嘩できるのはお互いだけってなってます。

 で、その彼女が20年くらいハマっているんがキネシオロジーとかレイキとかですが、彼女からすればバリバリの理系マインド(知的好奇心×合理の追求から”権威主義”を除去したもの)に合うからでしょう。「あ、これホントっぽい」「うわ、おもしろ〜」ってな感じだと思います。知的好奇心がまっすぐ過ぎるんだと思いますが、そのせいもあってか、なんか知らんトップにはめちゃくちゃ可愛がられるし、世界で一番みたいな人のところに真っ直ぐいく。今ハマってるタッチフォーでも世界の二大トップ(仲が悪いらしいが)の両方から個人的にレッスンを受けてるし、対象がなんであれ創業者とか第一人者レベルにダイレクトに行き、認められて可愛がられるみたいな感じ。そうでなければ一介の売り子が社長室までいけるわけないし。それだけにトップ周辺にいる取り巻き連中の中で「権威(だけ)が好きな人達」とは反りが合わないで、冷や飯食わされるタイプ。ま、時どきみかけるタイプですね。

 長々書いたのは、彼女に欠けているのは「権威」なのですね。で、行く先々で祟られている。こんなことなら先に一回医者になっときゃ良かったって感じだけど時既に遅し。でもそれが良いフィルター機能になってて、権威とか全然気にしない人(往々にして本当に優秀な人)からは面白がられて、気に入られるけど、そうでない人からは好かれない。でもって、一般ビジネスでも権威がそこそこ意味を持ちますから、そこで悩むわけで。いっそ商業的成功に走りたいなら、一気にお花畑全開モードでやりゃいいんだけど、そうもいかずという。そういう悩みをお持ちの人は、多分リアルタイムの日本でも数百万人はいると思います。「いさぎよしとしない」ってひっかかって、儲けをミスってる。偽装食品を仕入れれば原価安くなるよ、利潤高くなるよ、値段も下げて価格競争力がつくよとわかっていても、「いや、それは出来ん」とかいって悩んでる人達。がんばれ〜です。

「痛み」

 話を慢性腰痛に戻しますが、権威があろうがなかろうが言ってることは同じ。「病は気から」で、「痛いと思うから痛い」ということです。

 僕がカミさんから個人的にセッション受けて聞いたのは、前にもエッセイで書きましたけど、まず「痛み論」です。痛み=痛覚信号というのは、脳が取捨選択して感じるもの。脳が「今日のオススメ!」と特別にピックアップしたものが知覚され、「これはいいや」って捨てたものは知覚されない。これは聞いてすぐに「なるほど」と思いました。子供の頃から生傷が耐えず、3年に2回位の頻度で縫合レベルの大怪我ばっかしてるし、柔道などでも痛みとはお友達だったとか過去の経験記憶をスキャンし直すと、確かにそうだなと。特に回想シーンで顕著なのは、まだ8歳位の頃に何針も縫う大怪我したんだけど、部位が見えにくいところにあった気付かなかったケースです。気づかないから痛くない(”痒い”くらいの感じだった)。それで10分以上普通に歩いてて、なんか変だな?と思ってみたら大量の血がボタボタ垂れてて、うきゃ〜となった経験があります。また、僕は毛糸のセーターの素肌チクチク感がキライなんですけど、それでも着てると感じなくなる。あれは何故なんだろうな〜?知覚は知覚として神経細胞を通じて伝達されているはずなのに、なんで感じなくなるのかな〜とか、「慣れる」とか言ってるけど、「慣れる」って何なの?とか、そこらへんの疑問もありました。

 で、個人的に調べてみても、痛み療法とか痛みとはなにかってのが医学会でも話題になってたりする。最近でもマンガの「テラフォーマー」に「ゲート理論」の紹介があって、大袈裟に泣き叫んだりした方が早く痛みが消える、それは何故か?というのも、体験的に納得です。ギャーギャー騒いだほうが痛みが軽減するのは、これはほんとだと思う(やり方にコツがあるけど)。じっと我慢してるのは最悪の方法論だというのも経験的にわかる。自炊したページを挙げておきます。

 あと脳が結構アホである、気分屋でもあるし、いい加減に処理したりするというのは、これも前に紹介した池谷さんの大脳生理学の本などにも書かれてます。「いい加減に処理するからこそ効率的で現実的な処理が出来る」という、まんまビジネス論や人生哲学に横滑りして使えるくらいで(優秀=いい加減という)、生物(自然)のメカニズムの面白さですね。だから、脳が痛いのに知覚しないとか、痛くもないのにわざわざ探してきて、クリエイトして、痛く感じるというのは、これは大いにありうるだろうと。

DLPFCとはただの”住所”

 さて、NHKスペシャルの番組では、脳のスキャン画像で「DLPFC」なる部分の機能が衰弱しているから問題だと。この部位は、痛み信号で過剰に興奮している猿みたいになってる脳味噌を、「静まれ〜」っていって鎮静化させる機能があるらしい。それが弱ってるから、「痛いぞ、痛いぞ、痛いに決まってるぞ、ほら来た、あー痛、ああ、もう死にそう、もうダメぽ、超いて〜」って学級崩壊状態になってるのを、収められない。だから痛みだけが暴走し続けるという。

 「なるほど〜」と思うわけですが、ただね、「DLPFCすげ〜」と思うだけでは意味ないです。大体調べてみたのですが、DLPFCってなんじゃ?というと、「背外側前頭前野」のことらしく、英語でいえば「Dorsolateral prefrontal cortex」であり、これって場所を示すだけの意味しかないじゃん。「背中側で、外側で、前の部分のさらに前」としか言ってない。これ「住所」やん?京都でいえば、「河原町今出川上ル」みたいなもんでしょ?住所だけ言ってるだけで、そこになにがあるのか、なんでこれが鎮静作用をもたらすのか、そのメカニズムはどうなっているのか?どうしてここにあるのか?あたりは良う分からんのでしょう。

 大脳生理学の最前線の本とかすごい面白いんですけど、でもこういう最前線では正しく科学の本道をいってて「一つわかると2つわからないことが新たに出てくる」という状態。ここがポイントになるのが突き止められても、じゃあどうしてそうなるの?なんでそうなるの?という新しい不思議が出てくるという。

 ほんでもって、番組ではこのメカニズムを紹介した上で、無駄に痛がってる多くの人達の「迷妄を解く」ために色々な試みがあって、過半数の人が画期的な効果を感じているということでした。

そこから先は「医学」じゃない

 しかし、よくよく考えると、脳内スキャン画像でDLPFCあたりが衰弱してるって関連性までは現代医学のワザの領域だと思いますが、「じゃあ、どうすんの?」って対策論以降になると、もう「医学」じゃないというか、僕らが考えているようなカチッとした知識体系に基づいた専門技術ではなく、「こうするといいんじゃない?」という「一般的な人間の知恵」でしかないということです。

 勿論それがダメだと言ってるわけではないですよ。でも、そっから先は、医学的にカチッとした方法論が確立してないんだから、「こうしたらどう?」と思いつくまま手探りでやるしかないってことです。

 その手探り療法をみるに、
 (1)まずメカニズムや全体の構造を理論的に説明する(理性的納得)、
 (2)実際にやってみて体感させる(背中そらし運動を3秒続けて、あれ痛くないぞ?ってのを実感させる)(身体的納得)
 です。この1と2で過半数の人は、慢性腰痛から開放されるらしい。ただ、それでも4割弱くらいの人は解放されない。それだけ「思い」が強いのだと思いますが、それをどうするのかは番組ではやってなかった。6割も開放されるんだからすごいよねってのがテーマで、それはそれで異論ないです。すげー話ではある。

 さて、ここで思ったのは、あ、これは僕とカミさんがやってることと同じじゃんってことです。
 僕がやってるのは、(1)と(2)です。

理論的対症療法と主観的根治療法

客観理論の制覇と感得

 僕が毎日、現場でやっているのは-------

 なんで英語が喋れないの?なんで英語が聞き取れないの?とか、なんで全然喋れないのに英語オンリーで数日間に10-20件もシェア見学が出来て素敵な場所が見つかるの?なんでオージーは約束の時間にいないの?この場合どうしたらいいの?などなど、現地ならではの背景事情やメカニズムを大きく&理論的に説明すること。そのうえで実際にやってもらって「ほら、出来たじゃん、簡単でしょ?」って納得してもらうことです。

 僕からしたら、「出来ない」のではなく、「出来ることに気付いてない」だけの話で、だからこそ成功率100%に近いわけです。そんな短期間に純粋能力が向上することなんかあり得ないですから、最初から出来るから出来るだけの話でタネも仕掛もないですよ。「思い込み」をぴっと剥がしてあげたら(その剥がす作業テクニックやら知的集大成があるんだけど)、それでいい。

 つまりは理論的、客観的、そして現実的な対応方法です。
 これはこれまでの個人的な体験やら、弁護士時代の事件処理なんかが大きな資源になってます。交通事故には交通事故の論理とメカニズムがあり、登場人物の思惑があり、独特の行動パターンがある。同じように離婚だったら離婚の、遺産分割だったら遺産分割というフィールドにおける「場の理論」みたいなものがあり、それを正確に認識することで、多くの問題は解決の道筋がつきます。

 なにかで思い悩んだり、鬱っぽくなったり、行き詰まってる人というのは、必ずやどっかに致命的な「思い違い」をしているケースが多い。てかほとんどそうじゃないかな。絶対できるわけがないフォーマットを最初に自分で構築し、それをやってみて当然のごとく出来ないから、それで落ち込むという、ご苦労なことをやってる場合が多い。そんな無理目なことせんでも、こうすれば出来るじゃん?ってのをサジェストするだけでいいです。

 例えばシェア探しの英語電話でも、「英語が出来て→コミュニケーションがとれて→良質な人間関係が形成される」というドグマがあるだけど、それカンチガイだぞ、と。確かに一般論としてはそうだけど、一般論でしかない。一般論というのは大体において現場で通用しない法則があって、それだけではダメ。そもそも日本語の場合はどうだったの?読み書き能力ほとんどゼロだった幼児時代、ボキャブラリなんか「わんわん」「にゃんにゃん」レベルで100個もないような時代、それでも幼なじみは出来たし、言葉が出来ない頃の方がより良質な人間関係が築けたじゃないか。矛盾するじゃん。矛盾するということは、その一般論だけでは全てを説明できてないことでもある。じゃあ何か?といえば、ことシェア探しに限っていえば、相手はこっちの英語力を査定するために存在しているわけではない。彼らが見ているのは「一緒に暮らしてもいいなって思えるだけの気持のいい奴かどうか」です。だから電話がつながった時に、"Hi!"を明るく、人懐こく、でもインテリジェンスも感じさせるような、声を聞いてるだけ楽しくなっちゃうような、それも無理して偽装するんじゃなくて(そんなの不自然だからバレバレだし)、自分がいちばん快活で人懐こくあるような状況の雰囲気やオーラを出せば良い。実際見てたら、最初の"Hi!"でほぼ50%は成否が決まりますよね。ここでナイスな印象を抱いてくれたら、向こうも一所懸命聞いてくれるし、聞き取りやすいように喋ってくれる。またそうしてくれる人をこっちは選ぶべきだし。

 そこを「まず英語が完璧にできて、それから全てが始まる」みたいなクソ誤解をしていると、ノンネィティブに「完璧」なんかおよそ一生無理だから、もう死ぬしかないような絶対無理な方法論を自分で設定してることになる。無理に決まってるハードルを越えようとするから、当然緊張しまくるし、場合によっては断末魔みたいな声音になってみたりもする。声も暗くなったり、緊張しすぎで怒鳴ってるみたいになったり、およそフレンドリーとかフランクという雰囲気からは真逆な方向性にひた走ることになるから、「なんじゃこりゃ?」って向こうも思うし、「もう、こいつ、いいわ」ってな感じでガチャ切りされる。でもってその結果で、さらに絶望的になって、、、という無限の悪循環になる。

 何事によらず、その場にはその場独自の理論と構造があるのであって、それが見えたら、大体において解決したも同然でしょう。でもそれが見えなかったら、恐ろしく効率の悪い方法論で、絶望的な営みをやることになる。目隠ししてサッカーの試合やって勝て!みたいな。無理に決まってんじゃんって。

 ただし、この場の構造理解と対応法は、臨機応変にやらないとダメだから、「これさえ」って一般化することは出来ないです。ただ、まあ、見てたら大体は「ははあ」というのは分かります。これは僕だけではなく、誰だってわかると思うぞ。傍目八目(おかめはちもく〜囲碁を横で傍観してる人の方が8目先まで読める=当事者は焦って気づかないことでも傍観者は冷静に見れるから正解率が高いこと)とも言いますしね。


 ということで(1)(2)を丁寧に、洗練された方法でやっていけば、概ね5-6割はなんとかなります。とりあえずその場の処理という、表面的なことに限定すれば、やる気さえあれば100%なんとかすることは可能でしょう。これって対症象療法に過ぎないのだけど、それでも「なるほど、そういうことか」と本質的なコツをつかめて、5-6割は根治レベルで何かが変わるでしょう。それでも4割は本質的には未解決です。その場はうまくいっても、本質的なコツまでいってないから、また同じ問題が形を変えて出てくるのは必定。

 根治レベルまでいく5-6割にしたって、ヒントは得られてるけど、本当の意味でわかってるわけでもないから課題は残っているでしょう。そもそもなんで言葉が通じないだけで緊張するわけ?という。同じく言葉の通じないペットの犬猫相手には緊張どころか楽しくコミュニケートできるのにさ?それに英語だけ突出して緊張したり劣等感を抱くのは何故?フィリピンの人相手にタガログ語が喋れなくても、スリランカ人相手にシンハラ語が出来なくても別に英語ほどこっちが悪いような気分にならないでしょうに、なんで英語だとそうなの?つまり日本人の英語コンプレックスや西欧コンプレックスですよね。西欧人(いわゆる白人)のビジュアルを持ってる人は全員英語を喋ると思ってるという不思議な世界観もそうです(そんなわけねーだろ)。また英語が世界公用語的な位置にあるということは、全世界で喋ってるのは圧倒的にノンネィティブが多いってことでもあり、それぞれの母国語のバイアスのかかった「訛ってる英語」をいかに聞き取れるかというのが現場においてはクリティカルに重要であるし、ここまで広がったらネィティブ独特の難しい言い回し(省略やスラングなど)は、むしろ少数派であり、「きれいなネィティブの英語」にどれだけの実戦価値があるのか?ということを考えることもしない。現実見えてんの?てな感じですけど、なんでこんな歪みまくった世界観を持っているのか?が根本にある筈です。だから本当の根治療法をしようと思えば、10割の人が何らかの対処が要るとも言えます。

なぜ、そんなカンチガイをするのか?が本当の原因

 その4割(ないし10割)がカミさんの領域なのでしょう。
 上に述べたように、客観的合理的に説明して「ほら、ここがカンチガイだよ」って示すことは僕にできるし、それでその場はうまくいきます。でもね、「そもそも、なんでそんなカンチガイをするの?」って根本原因がどっかにあるはずです。

 腰痛なんかは状況がはっきりしてるから、過去にギックリ腰になったときの悲惨な体験が恐怖感を植え付け、その恐怖感が過剰に脳内をザワザワ騒がせるという因果関係が明瞭です。だから、必要以上にビビってるだけってのが分かればあらかた解決はする。んでも、実際の人生ではそこまで因果関係がわかりやすくない。どっかにトラウマみたいな、単なる記憶だけではなく、世界観や論理則すらにも影響をあたえるような経験記憶があるんだろうけど、それが何なのかはわからないし、そもそもどこに問題があるのかもわかりにくい。

 「あ、終わった」「もうダメだ」って結論をすぐに出したがる人がいますけど、あれって終わりたいからでしょ?もうダメだってことにして、さっさと楽になりたいって心理はあると思います。で、どうしてそういう心理になるのか?といえば、表面付近の浅いレベルではいくらでも理由はあります。曰く、正真正銘ほんとの「ダメ」になったときに失禁するほど絶望的な恐怖感がわかってないから舐めているって部分もあるでしょう。そもそもモチベーションの部分で、「皆がやるから」「同じ程度に充実っぽい体裁を取り繕うために」程度のものしかないって部分もあるでしょう。あるいは、本当に上手くいって、何事かが成就したときにビッグバンみたいな爆発的な歓喜をまだ知らないってこともあるのでしょう。このくらいだったら僕でも分かる。

 しかし、その核心にあるのは、自分の人生についてどっかしら投げやりというか、諦めているというか。真っ白にスパークする圧倒的な天国体験ってのは実際に(いくらでも)あるんだし、誰の人生にもありうるんだけど、なぜか自分にはそういうのは無縁だ、 、「関係ない」って思い込んでる。何を根拠にそう思い込むの?という部分です。

 これ、絶対なんか理由があるはずです。こういうことに「生まれつき」なんてありえないし、およそ「自我」といっても単なる過去記憶情報の集積と体系パターンでしかないわけですから。そういう思考回路、情報処理システムが構築されたのは、それがただの偶然であれなんであれ、なにかの原因はあるでしょう。そこにそういう形をした川があるなら、そうなるべくしてそうなっている筈です。

 例えばそこに川があるということは川上に水源があるはずです。なんでそこに水源があるの?といえば、その先に高山地帯があってそれが雨雲を遮って雨を集め流しているとか、冬季には銀嶺になってそれが貯水タンクになっているとか(ちなみになんでそこがシルクロードになったの?といえばヒマラヤ山脈の貯水タンク機能やらオアシス製造機能によるらしい=水がないと人が住めないし)。ではなんでこっちに流れるの?といえば標高差があるから重力の法則で流れるのだとか、じゃあ何故こんな形をしているの?といえば、この付近は岩盤地帯が出っ張ってるから水流は迂回せざるを得ず、結果的に湾曲することになったのだとか。同じように、なんでそれが好きなの?なんでイヤなの?っていえば、過去にそういう経過があった筈だし、どっかに心の岩盤地帯みたいなのがあって、そこを湾曲迂回するのだとかね。

 この原因らしきものが奥にあるほど、あるいは本人が直したいと真剣に思わないほど、、見つけたり直したりするのは難しいでしょう。でも、多くの場合はそこまで深くないし、手では届かないけど棒きれで寄せたら届くくらいじゃないかな?本人が真剣に直したいって思えば、意識の表面近くにせり上がってくるでしょうし。

自意識はただの観覧席

 さて、いつも思うのですが、僕らがいま感じている「自分」という「意識」(自意識)、それは「心」といい、「魂」といい、いろいろな言い方がなされますが、長いこと生きて経験を積むほどに「大したもんじゃねーな」って思いを深くします。

 自分の意思決定というのは、9割以上にも達する圧倒的な無意識や潜在意識の力学によって決まるといいますよね。それは地底のマントル対流やら地殻の動きによって表面上に地震や津波が起きたりするのと同じことです。僕らがご本尊のように大事にしている「自分」は、自分の無意識レベルで生じさせた地震で「きゃーっ」と言って騒いでいるだけのヒヨワで可憐な存在でしかない。

 僕も昔は、自分という意識が自分という肉体を動かして全てを管理していると思ってました。ガンダムやエヴァの操縦席みたいなもんで、ちょうど目のうしろあたりに鎮座してて、あれこれ指示を下しているという。でも、それって大いなる誤解なんですよね。確かにそのあたりに鎮座してるかもしれないし、眺めの良い「特等席」ではあるかもしれないけど「操縦室」ではない。二階建て列車や旅客機の2階の最前席みたいに、そこは一番眺めのいい席なんだけど、そこでは運転手やパイロットはおらず単なる客席であったりする。眺めがいいから、ついつい自分が操縦しているようなカンチガイをするんだけど、そうではない。管制室やコントロールセンターではない。

 管理部門=意思決定をする中枢部分には誰が居て、物事を決めているのかといえば「もう一人の自分」ってことだろうけど、でもそんなまとまった存在ではない。人格性を帯びるほど統一された存在ではない。それはもう、海流やら雲のような自然現象でしかないと思います。連想的に過去の嫌な記憶が蘇ってきてとか、ダジャレのような、荒唐無稽な連想をしたりとか、ワイルドな自然そのもの。その自然が身体(脳内)のどっかで生じて、「自分」という自意識は、それを観覧席から眺めさせられているだけ。それを見て、「おおー、渦潮だ!」「わあ、台風だ!」とかいって一喜一憂してるだけ。もうアホみたいなもんやねって。

 だもんで、パニックになって「落ち着けえ!」と自意識に叱咤して、いっときの平静を取り戻すかも知れなけど、地震そのものが止めているわけではない。いくら落ち着いたふりをしていても、相変わらずゆらゆら揺れ続けてたら「やっぱ、駄目ですう!」ってなって当然でしょう。地震そのものをなんとかしなくちゃ。

知の最先端〜おばあちゃんの知恵=データー帰納法

 その地震をなんとかするのが至難の業で、ここから先は人間の最後の迷宮である「心の世界」ですね。記憶情報処理のアルゴリズムやら神経細胞の伝達パターンやら「こころの奥」の話になっていく。これが器質的なものだったら話はまだ簡単で、やれ内部被曝によって海馬が部分的に破壊されると記憶能力が弱くなって→「最近、物忘れが激しくなった」という現象が生じる、というのはまだ分かります。でも、自分の肉親に対して、どうして何時もあんな態度を取ってしまうのか?何故あれほど憧れてたことをやっているのにイマイチ楽しめないのか、楽しいふりをしているだけっぽいのか?なんでこう大事なときに限って自分はいつもポカをするのか?こんなに真面目にやってもやっても努力が実らないのは何故なのか?そのあたりになってくると、もう手探りです。

 思うに、そこから先は「おばあちゃんの知恵」みたいな世界なんだろうな。「◯◯のときは◯◯をしておくと良い」みたいな、「煎じて飲め」みたいな。なんでそうなるのかは分からないけど、これまでの経験知としてそうなる場合が多いからとか。いい加減っちゃいい加減なんだろうけど、でも「最先端の知」というのは元来がそうしたもので、何もかも明瞭にわかったら最初から苦労してないのだ。雲をつかむようなところから、「どうも◯◯になると◯◯になるってパターンが多くないか?」とか多くの経験事象から仮説をたてて帰納させていくしかないです。「経験知」「知恵」とかいうと信憑性なさげに思う人もいるかもしれないけど、「膨大なデータ収集とその解析によって特定パターンを抽出し、法則仮説をたてる」って言い方にしたらお気に召しますか?同じこと言ってるんですけど。いずれにせよ、「知」というのは、本質的にそうしたもの=わからないことを合理的に推測すること=だと思います。

 その方法論は、ボーリング調査をして地震のメカニズムを調べたり、火山の噴火予知をしたり、もう暗闇の中でジグソーパズルを作ってるみたいな話だから、指先のハマった・ハマってないという感触に頼ってやっていくしか無いのでしょう。それを皆で考えて、「こうしたらどうだろう?」「いや、この方面から攻めて行ったほうがよくはないか」とかいって色々やってるところだと思います。

生化学から宗教まで

 「こころ」というのは目に見えにくい抽象的な対象だから、アプローチの方法論によって学術分野も呼び名も変わります。器質的な部分から攻めていくなら大脳生理学とか生化学系になるし、あるいは精神医学になったり、心理学になったり、文学になったり、哲学になったり、占術体系になったり、宗教になったり。

 客観的・器質的な方に寄せると、確かに明瞭にはなるけど、その分表層的でもあり、対症療法的にもなる。脳内に◯◯という化学物質が分泌されて不安な感情になるから、その分泌を抑制すれば良いというのは、それはそうかもしれないけど、場当たり的な対処でしかない。抗鬱剤でも、要は「眠くなると不安を忘れる」みたいな、それって「ヤケ酒飲んで憂さ晴らし」と似たり寄ったりと言えなくもない。問題はなんで不安になるのか?でしょうに。でもそのあたりを突き詰めていくと、どうしても話が離陸してきて「おはなし」っぽくなっていく。フロイトにせよユングにせよ、そういう「おはなし」です。「集合的無意識」にせよ「シンクロニシティ」にせよ、その現象の化学的な解析は全然出来ないから、与太話っちゃそうではあるのだが、しかし「そう考えるとどことなく腑に落ちる」って部分もある。心理学の投射機制やら合理化機制も、そういう場合もあるよね〜という「あるある」系の話で、なぜそうなるのかの分子生物学的論証ができているわけでもないんでしょ?でも、「使える」ことは使えるっぽいです。

 面白いな〜って思いますよ。結局よう分かってない、現在の人類の知的レベルごときで分かってたまるか、みたいなもんなんでしょう。そもそも、今僕らが思ってる「自我」「自意識」とは結局のところ何なの?ということが完璧に解明されない限り、どこまでいっても「おはなし」レベルになるのはしょうがないと思いますよ。脳の働き、生化学的な機序はわかったとして、情報処理システムが緻密に分かってきたとしても、なぜ「意識」というものが生じるのかは究極的には謎らしいですから。だって、情報処理が一定レベルを超えて量的質的に膨大になったら自然と意識が宿るというなら、コンピューターには意識が宿ることになるけど、そうはならない。人為的に”意識”を作ることは出来ない。やっぱ「魂」みたいなものを観念しないと辻褄が合わない。「性格」はありますよね、一定の情報処理のパターン偏向や癖であり、物的因果関係の個別的偏差傾向みたいなものだから、意識がなくても性格らしきものはある。機械にだってありますからね。昔のポンコツ車だって「今日は機嫌がいい」とか、機械には個別的にクセがあり、同じような企画大量生産でありながら、当たり外れがあったりするもん。でもそれは性格や傾向であって、意識そのものではない。じゃあ意識ってなんだろ?という。

アメリカ的な知的方法論

 カミさんがやってるものの一つにキネシオロジーがあるのですが、門前小僧の拙い理解によれば、キネシオロジーだけでも200流派くらいあるらしい。もともとは筋肉反射の法則性を調べるもの。それを応用して(アプライド・キネシオロジー)で運動生理学、人間工学、生体力学、神経科学など学際的な領域になり、さらにジョン・シーって学者さんが、タッチフォーヘルスという一般家庭向け体系として構築してるそうです。

 もっぱらアメリカの話なんですけど、やっぱアメリカやね〜って思う部分もあります。思想的にはアメリカって、過去のシガラミが比較的すくないから、自由で合理的なプラグマティズム(使えるか使えないかという現実面を重視する)。僕の専門の法学は、明治時代にドイツ法など大陸法系やパンデクテンシステムといわれる欧州的な影響が強い。ローマ法とか、スコラ哲学とか、ドイツ観念論とかゴシック建築のような概念の王宮を構築して、「かくあるべし」というドグマをバーンと出すのが好きって部分があります。

 これに対する英米法などアングロ・サクソン系はどっちかといえばもっとドライで「それ、使えるの?」って傾向が強く、概念論的一貫性よりも、似たようなケースでの類似性一貫性を好む。成文法よりも判例法を重視し、体系的論証よりもケーススタディを好む。それゆえに過去の膨大な判例を検索するシステムが求められ、且つデーターに関するアプローチも基本それ(膨大検索)だからコンピューターの開発がアメリカにおいて進展し、軍事利用になり、それが民生利用になってインターネットになっているという。

 で、このジョン・シーって博士もアメリカ的で、自身カイロプラクティックの医者(施術者)であったこともあり、ありったけの過去の症例(数十万件に及ぶらしい)から徹底的に解析して、いくつかのパターンを抽出してきて体系化していくという。いかにもアメリカ的な知的方法論です。アメリカが強い学術分野は、これは単なるイメージに過ぎないのだけど、IT系もそうだけど、経営学とかマーケティングとか、現実に生じたケースを膨大に集めて、ケーススタディとパターン分析をして、「使える体系」を構築するのが上手だというイメージがあります。逆にいえば体系「美」や様式美を求めないというか。日本やヨーロッパ大陸系はわりと美を求めたがるところがあって、、、ああ、だんだん話が逸れてきたので、このあたりで。

 さて、僕のケースでプラグマティックに効果あったのかどうかですが、(本当のところは永遠に謎かもしれんけど)僕の感覚でいえば確かに効いてる気がします。カミさんにやってもらって、腰痛×偏頭痛×歯痛という三羽ガラスみたいな痛みは確かに減っている。それが幻痛なのかどうかの見極めはかなり真剣にみますが、「気にすることで痛み増大」という悪循環は避けられている気がします。腰痛も大分付き合い方が分かってきましたが、特に歯痛がそうですね。これまで痛くて歯医者にいっても、おかしいな?ここかな?もうちょっと様子をみましょうねで終わってたケースもあったんですけど、それがなくなった。痛くても「ヤバい、もうダメだ」とは思わず、「本当かな?」って冷静に見ることが出来るようになったってのは大きいです。なお、僕の場合にはどこに思い込みがあり、どう直せばいいかってことですが、一言でいえば世界観なのですが「しんどい方がリアルである」という無意識の決め付けを幼い頃にし過ぎてた傾向があって(怪我ばっかしてたしな〜)、それを適正位置に引き戻したって感じです。快調でもリアルなのよって。これは過去回にも書いたので詳しくは割愛しますね。

面白さと権威

 さて、もう〆ますが、無理やり冒頭とつなぎ合わせるならば、「知」の本当の醍醐味というのは、よく分からない物事をあれこれ面白がって、自由な発想で斬りかかっていって、あれこれ考えたり検証したりする部分にあると思います。既にエライ人が構築した物事をありがたがってベタ覚えするのは「知」ではないと思う。少なくとも、醍醐味としての面白さは少ないと思います。

 そして知的醍醐味の代償みたいなものかもしれないけど、面白いほど権威はないのですね。「権威」というのは、既に出来上がって日数も経って、人々が踏み固めた大通りにならないと生じませんから。でも大体その頃になると、今度は「古すぎる」とか言われて実用性に疑問がついたりして。難しいもんですな。日本のサムライでも、おそらく最も現場における実力が高かったのは、年がら年中殺し合いをやってた戦国時代あたりだと思うのですが、その頃は、単に喧嘩が強いとか兵法者的な立ち位置でそんなにステイタスは無かった。武蔵時代の兵法者の多くは剣術指南役への「就活」としてやってた部分もある。さらに時代が下っていくにつれて、侍は「武士道」とか様式美の世界に染まり、権威性を獲得するのだけど、それだけに本来の殺人機械としての合理性が薄くなっていく。本来が殺人技だった太極拳が健康体操になっていくようなものでしょう。で、幕末には大砲戦艦主義の世界から決定的に時代遅れになってしまっているという。

 これって何にでも言えると思います。例えば〜、ああ、もう長くなるから、ここまでにしよっ!






 

文責:田村



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