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今週の一枚(2015/06/29)



Essay 730:「情弱」とネタ情報

投資効率悪いんですけど

 撮影場所は、St Leaonards駅の改札。本文との絡みでいえば、画面を拡大して、この現場の風景をありのままみて何をどれだけ推測ゲットできるか、です。

 例えば、改札口にやたら書いてある「君はもうゲットしたか?」「安いよ」「ゴールドだよ」という煽り文句から、これは鉄道会社がなにかを大々的に売り出しているんだな?というアタリがつくでしょう(Opal Cardです)。また、改札に赤バッテンと、緑矢印があるのは、赤は多分反対側から来る人のためのものだなとか。
 向こう正面、右の方にハンバーガーの写真がありますが、なんと"WASABI"と書いてあって、おおワサビバーガー!美味いんかそれ?と、ワサビがここまで浸透してるのか、とか。駅の向こうに日本みたい新築マンションが立ち並んでおり、建築様式や雰囲気が似通ってることから大体建築時期が同じではないか、だとしたらこのあたりは最近再開発されたエリアではないか、とすると、昔ながらの雰囲気を残しているエリアと新築ピカピカのエリアが混在してるはずだぞとか。
 あと知らない土地にいって時間があったら正面のポスターは大体見ます。そこが観光地でないならば、貴重なリアルタイムのローカル情報になるはずですし、その書き方、アクセントの置き方で、その土地の価値観とか発想とかがうっすら透けて見える場合もあるでしょうし。

情報弱者とは

 「情弱」という言葉があります。「情報に疎い人」「情報に関しては弱者的地位にいる人」という意味です。
 ただし、使用法によって色々なバリエーションがあり、真面目な社会インフラ考察から単なるネットスラングや蔑称まで意味内容はさまざまです。そのあたりをわりと良く考察されているのがニコニコ大百科の情報弱者の説明でした。

 本来の意味でいえば、社会全体の物的・人的インフラのことで、全国的なネット回線の整備であるとか、PCなどの情報機器(デバイス)が買えないなど経済格差が情報格差を生むとか、それに比例してデバイスの使用法や情報の取り扱いに習熟していないというスキル格差を産んで、デジタル・ディバイドなどと言われたりもします。これらは真面目な話。

 不真面目というかネットスラング的には、知ってる/知らない=エライ/エラくないという小学生的な優越/侮蔑的に使われたりもします。またネットには大量の情報があるから、必然的に嘘も多くなり、この玉石混交状態で何を選び出すかというメディアリテラシーの重要性が語られたりもします。

 これらに対して別に異論はないのですが、「こうも考えられるんじゃないの?」という部分を付加したいと思います。

ネタ=情報なのか?

 僕の日常周囲で素朴に思い、この20年以上素朴に思い続けているのは、日本における「海外に関する情報」が「どえりゃ〜偏っとる」いうことです。僕も最初にオーストラリアに来た日に、つくづく思いました。「全然ちゃうやんけ!」と、叫び出したくなるくらいの衝動を感じたものです。

 その頃の僕は、社員旅行でいった香港数日だけが唯一の海外体験という海外(ほぼ)童貞だったわけで、童貞らしくあれこれ妄想を逞しくしており、且つ妄想という炎に注ぐ油は山ほどありました。「海外怖い」という刷り込みとかね。住み始めて以来、あれこれ思うようになったのですが、「全然違う」情報やら、「知らない方がよっぽどマシ」な情報やら。

先入観というウィルス

 特に後者は深刻で、間違った先入観(=偏見)ってウィルスみたいなもので、その人の頭脳を壊していきます。
 視野が狭く固定されるから目の前の出来事も視野外になってしまってヒントや回答を見逃す。「そこに書いてあるじゃん!」という注意書きや看板を見てない。情報処理のパターンが固定されているから目の前の出来事の意味がわからない。例えば親切に道を教えてくれているのに絡まれた・襲われたと思い込むとか、お釣りを誤魔化されたとか思い込むとか。

 ちなみにお釣りは定番です。しかし、その国の貨幣もろくすっぽ覚えてない段階で「誤魔化された」という判断がなぜできるのか?特にオーストラリアの場合、硬貨の中では一番高額な2ドルがやたら小さい(でも厚い)から誤解しがちなんだけど、日本だって50円玉は1円玉や10円玉よりも小さいわけだし(でも厚い)、大きければ高いってもんでもない。コイン収集が趣味で世界中の通貨に精通しててそういう法則性(直径と額は比例するの法則)に辿り着いたならともかく、わずか一国の前提(しかも間違ってる)が無条件に他国に通用すると思う方がどうかしているでしょう。こんなのちょっと考えたら誰でもわかることなんだけど、「海外怖い=人を見たら泥棒に思え」という刷り込み=いつ騙されるかと戦々恐々としていると、「ちょっと考える」ということが出来なくなっている。つまりはその限りで思考=情報処理システムが破壊されているわけで、まさに先入観=ウィルスという所以です。

 僕の頃はインターネットもなかったし、それだけに杉本良夫さんの良著など硬派で正確な文献が情報主体だったこともあり、まだしも救われました。今のようなネット状況だったら、対応できたかな?ヤバいかもね〜とも思います。ともあれその頃はまだウィルス罹患率も低かったので、すぐに正常に復旧しました。正常とは、すなわち「目の前の現実をありのままに見る・感じる」というごく自然な態度です。

 自然な態度でいると、一番大事なベーシックな部分が出来上がってきます。「同じ人間なんだな〜」という子供のような素朴な事実です。次にその人間の素質ですが、今までの日本社会で出会った人々と較べてかけ離れて邪悪だとか誠実だとかいう偏差ですが、むしろゆとりがあって誠実っぽく感じられた。「なあんだ」です。さらに、目の前で繰り広げられている物事の論理則が日本のそれと較べてどれだけ違うかですが、これもほとんど同じように思われました。1+1は2であると。感謝の意を表すために血まみれになって殴りあうなど理解を絶するような論理があるわけではなく、見知らぬ他者に対する人間的な配慮も十分に払われているように思われた。細かなことは、英語が分からんので明瞭ではなかったのですが、これがキチンと説明されたら、おそらくは理解&納得可能であるな、と。つまりは日本人の中流的な思考パターンでやっていけば大体においてOKであると。ここまで生理感覚で得心がいったら、もうオーストラリアに関していえば制覇したも同然(笑)。だってそんなに恐くないんだもん。

 人の思考を狂わせる要素はさまざまあれど、大きな要素として恐怖感があると思います。最初に水泳を習う時でも、まず水を恐がる。怖いからジタバタして息が荒く、呼吸が難しくなり、鼻に水がはいったら呼吸不能になってパニックになり、さらにジタバタ恐慌反応をするから足が吊ったりして溺れてしまい、それがトラウマになって、、、という悪循環です。最初の自転車、スキーでもコケる恐怖からいかに自由になるかがポイント(恐怖で身体が硬直するからバランスがとれない)でしょう。やったことないけど、おそらくは乗馬やセスナの操縦なんかも似たようなカンドコロになると思われます。このように恐怖が人の思考を狂わせるのだとしたら、恐怖感が消えたら正常に作動しだすわけで、あとは普通にやっていけばいい。過度に恐がってパニックに陥っているときのは、軽〜く気が狂っているようなもので、そんな精神状態で何をやってもうまくいく筈がないですもん。

 ということで僕にとって初動の数日で得た一番大きな「情報」は、これまで培ってきた世界観や人間観をそう大きく変更させなくても良いという点です。つまり「同じである」という情報です。でもこういうことって余りにもクソ当たり前過ぎて、却って情報という形では流布しにくいのですね。実際には現場の90%以上を占めるくらい重要な情報なんだけど、意外と語られない。

知る→分かる→出来る→結果を出す

 単に知識として「知っている」だけならペラペラな紙みたいなもので、自分の体験として得た粘土のようなずっしりした重みと量感のある「分かる」との間には天地の差があるでしょう。「失恋したら悲しい」というのも知識として知ってるのと、実際に体験するのとでは雲泥の差がある。内臓がごっそり抜き取られたような、何をしていても心臓に穴が空いてるような感覚(そこは人それぞれだが)というのは自分の体験としてそうなってみないとわからない。なって初めて、ああこれまで聞いていた恋の歌というのはそーゆー意味だったのね、なんて大袈裟なとか思ってたけど、こりゃ本当にキツイわ〜って分かる。

 さらに「分かる」と「出来る」の間にはまた天地の差があります。分かれば出来るんだったら苦労はいらないです。自転車だって、乗り方そのものは「知って」ますが、実際にやってみるとこんなに難しいものかと「分かる」わけで、そしてどう乗ればいいのかという理屈も分かります。しかし、実際に乗りこなせるようになるのは、理屈では表現できない肉体的なカンドコロというものを体得しないとならない。つまり、知る(知)→分かる(情)→出来る(体)という知情体の三段階ステップを踏む。

 ところが話はまだ終わらない。最終段階で「出来る」と「結果を出す」というのがあり、この間には又しても天地が挟まっています。受験でも完全に理解できて、試験問題も解けるようになったとしても、いざ本番で合格という結果を出せるかどうかは未知数です。なぜならヤマが当たった/外れたの運の要素、当日の体調、本番でカッとなってしまうメンタル、隣の奴が激しく貧乏ゆすりをするから集中できなかった、、、などなど、自分の手を離れた外部の障害要因をクリアしないと「結果」はでません。「採点官のミス(しかも内密にもみ消されてしまう)」なんて想定外の出来事だってありうる。これは仕事だって同じことです。いくら完璧なプレゼンをしてもクラアントの機嫌がたまたま悪かったら終わり。メディア戦略を練りに練って抜き打ち記者会見をバーン!とカマしてとか思ってたら、当日に飛行機が墜落したり大地震が起きたらそれもパーです。ということで、出来る→結果の間には天地が挟まっており、知情意ときて、最後には「天(運)」がくる。

 もう一体幾つ天地があるんだ〜?って感じですけど、ま、世の中そんなもんですわ。仕事がデキる奴というのは、この行程をかなり正確に査定出来る人のことだと思います。

 さて、「情報」というのは、この3つくらい天地がある最下層の地べた部分です。そこから3回くらい天に昇らないと使い物にならんです。

話のネタ 

 さて、「大体おんなじ」というベーシックで生理的な納得の上に、様々なローカル的なツイストや差異が被さってくるわけですけど、これは基本に対する応用系みたいなもので、機種でいえば「新型○○」「○○改」みたいなマイナーチェンジに過ぎないです。

 大事なのは、現実において存在する90%の部分です。例えば「道路には自動車が走っていて」「歩行者の安全のためのあれこれの配慮がほどこされていて」「そのための信号や道路標識や速度制限などのメソッドは大体日本と同じ」というのが90%の部分でしょう。信号が縦並びか横並びかとか、右側通行などはローカル偏差にすぎない。

 しかし、ともすれば差異を誇張して語られたりするわけですが、それって情報や知識というよりも、単に話として面白い「ネタ」でしょう。例えば「海外では個人の判断で自律的に動くので、外人は赤信号でも自分の判断で勝手に渡っていく」という部分がネタになります。確かにそれはそれで知的好奇心をくすぐる比較文化論になりうるとは思いますが、しかし実証されたわけでもない単なる仮説にすぎませんし、またそれをやるなら個人の自律性とはなにか?なぜそうなるか?の深い考察を展開すべきでしょう。しかし、単に「面白いネタ」だけが突出して一人歩きを始めると、「海外では信号を守らない」「信号守ってるとダサい」みたいなバランスの狂ったことになっていきます。端的にいえば事実に反する。こっちでもちゃんと待ってる人も山ほどいますもん。 特に小さな子どもを連れているお母さんは子供に危ない習慣をつけさせないように律儀にじっと待ってる場合もあるでしょう。それに信号守らない人なんか日本でも同じでしょ。あなただって、極寒の深夜の国道のコンビニ帰りで、見渡すかぎり車がおらず、寒さに震えてたら赤でも渡るんじゃないですか?

 こういう「こんなに違う!」的な情報って話の「ネタ」でしかないだろうし、ネタと情報は違うと僕は思います。でもネタみたいな情報が多すぎる。それしか注目ポイントがないように言われたら、そりゃあ誰だって混乱するでしょうし、ウィルスにも罹患するでしょう。

情報ってなによ

 もしネタ=情報なのだとしたら、じゃあ情報なんか要らないわって話にもなるし、実際世間に流布する「情報」とやらを見てると、それってネタであって情報ではないなって思うものは多々あります。読んでて面白いけどそれだけ。◯◯国ではこんなトンデモな事件があって〜って、日本でも世界でもそういうサイトが山ほどありますけど、「それがどうした?」です。変な人やトンデモ風景をみたかったら、普通に仕事しろ、です。仕事してりゃ、そりゃあ変な人に会えますからね〜、取引先とかお客さんとかさ。

 ここで思うのは、そもそも「情報」ってなによ?です。
 例えば、「日本では(オーストラリアでも)公的資金で交通機関を整備しようというパブリックトランスポートの発想があり、そのため利用料金もリーズナブルに設定されているが、全くの無料ってことはない」という「知識」は、「情報」なのですかね?ただの知識と情報とで何が違うの?あるいは、所得税の控除項目はこうで〜という制度の基礎理解であるとか、日本の首都は東京で、地球は丸くて表面の多くは海だとかいう知識、この世には「お金」というものがあって〜とか、その種のものごと。どっからどこまでが「情報」なのでしょうか?

 大脳生理学的にいえば、脳味噌を通過し、何らかの反応を引き起こす電気信号はすべて情報になるのでしょう。僕ら自我=意識だとすれば、意識野において何らかの意味性を持つものはすべて「情報」です。触感や味覚さえも脳で知覚されるのだから情報。言ってみれば、僕らが感知できることのすべてが情報であり、情報=主観的な森羅万象でしょう。でも、これって「全部」って言ってるわけで、ここまで広げたら何も言ってないに等しいです。朝起きて、今日も暑くなりそうだと知覚するのも情報だし、ふと指先をみたら爪が伸びているのに気付いたのも情報です。全部情報。情報が大事=全部大事。全部って言われてもねー。

基礎力と現場力

 つらつら考るに、

 (1)基礎力(中卒程度)
 (2)現場力

 の2点でいいだろうと。

基礎力

 基礎力は、地球は丸いとか、日本の首都は東京ですとか、電気にはプラスとマイナスがありますとか、そういったベーシックな知識です。中卒で十分。問題は中学レベルの知識を我々大人がろくすっぽマスターしていない点にあります。英語だって中学英語ができればTOEIC800点取れるといいますが、分詞構文や「助動詞を使った倒置法による仮定法(Should you have any question = If you have any question)」なんかは高校レベルで知らなくてもいいけど、現在完了とか進行形なんかストリートの現場では毎日ほとんどこればっかってくらい使われるマスト技術なんだけど、でも意外と出来ない。現在完了使って英会話言える人って、最初の段階では少ないですよ。”あいヴおうれでぃだにっ”(I've already done it=もうやっちゃったよ)ってスラっと口癖のように(唇と舌のコンビネーションが滑らかで言いやすので慣れたら楽)言える人がいたら、ああ、この人は出来るな、海外長いのかな〜って思うけど、来た段階では少ない。大した英文法でもないんだけど、でも言えない。

 別に情報っていうほどのものではなく、どんな本読んでも普通に出てくる普通の基礎を知ってるだけで大体はOKなんじゃないの?例えば、三権分立が立法・行政・司法であるとか、オーストラリアが出来てまだ200年ちょっと若い国であるとか、「そのくらい知っとけ」レベルを普通にマスターしてるだけで全然違うと思います。オーストラリア社会構造を理解するには、大英帝国という第一層と、グローバリズム(マルチカルチャリズム)という第二層があるんだって、どこでも書いてるようなことを知ってるだけで、結構アタリはつきますもん。

 もっといえば知識情報のバランスが悪い。僕らが何かに迷ったり失敗する時って、誰も知ってるような、教科書開いたら最初のページに太字でドーンと書かれているようなド初歩のことを知らないから、生じているようにも思います。税金でも国税/地方税、直接税/間接税という「右と左」「上と下」みたいな、「ピッチャーはボールを投げる人で〜」みたいなド基本からコケている。ほんでも、「ネタ」だけは豊富にある。マルサ査察から逃れるために、金持ちは観葉植物の鉢植えの中に印鑑を隠しているとか、どーでもいいようなことだけは知ってる。こんな知識バランスで物事がうまくいったら奇跡ですわね。

 スーパーマンだと思い込んでビルの屋上から飛び出して墜落死という冗談のような話がありますが(冗談だろうけど)、それに近いと思います。「こんなに儲かった」「こんなに稼げた」とかいう「スーパーマン」話のネタばっか仕入れているから、「人間は空を飛べない」というド基本がわからなくなり、思い切って投資してあーっと墜落死。そんなもんでしょ。

 

現場力

 (2)の現場力ですが、まずは現場における情報の無力性を噛みしめるように理解すべきでしょう。
 なぜなら、いくら事前にネタ情報集めても、上に述べたように90%の普通の(ネタになりにくい)部分がゴソッと脱落するから、現場の90%では無力であることですね。残りの10%も、リアルタイムにはコロコロ変わるし(バス路線が廃止されましたとか、シドニーではトラベルパス→マイマルチ→オーパルカードと変わってますとか)、偶然の要素に左右されすぎとか(その日に限って季節外れの荒天で欠航しましたとか)、これもあんまり役に立たない。

 事前情報がアテにならないなら、じゃあどうするかといえば、先に述べたように、目の前の現実を色眼鏡をつけずにストレートに見て(四字熟語でいえば”虚心坦懐”ですね)、今なにが起きているのか?なんでそうなっているのか?ならばこうすれば良いか?という、現実把握力、分析力、そして問題解決能力です。その場でどれだけ物が見えているか?どれだけ多くのヒントを取りこぼさないでゲット出来ているか?そして現場で咄嗟にどれだけのプランを考えつくか?です。

投資効率悪し

 思うのですけど、この(2)に資本(労力)投下したほうが圧倒的にお得だと思いますよ。
 だって、個別の情報って、仮にそれがネタ情報でなかったとしてもその局面でしか使えないでしょう?福岡のバス料金や系統を調べても、鹿児島にいったらもう役に立たない。

 しかし、現場でのバス案内図の場所が大体どのへんにあって、その読み方は多分こうだとかいうカンドコロ、さらに誰にどうやって聞けばいいか?のノウハウを知っておいたほうが良い。聞き方のノウハウなんかあるんか?って思うかもしれないけど、あるある。いかにも旅行者っぽい人に聞いてもわかるわけ無いだろうから、ローカルの人に聴く方がいい。それもセカセカ忙しそうな人よりは時間に余裕のありそうな人がいいとか。結果として高齢の方が多くなったりするのだけど、国をとわず、ローカルの高齢の方というのは昔ながらの人間関係メソッドを大切にされる方が多い。だとしたら、昔ながらの方式、まず「こんにちわ〜、暑いですね〜」とかいう挨拶から入る。何はなくともまず挨拶は人類の掟。営業の基本。挨拶できない人間は一人前の人間として扱われないという地球人類の法則。まあ、感じとしては、「ジブリ映画の登場人物のように振る舞え」ってところですか。で、向こうが教えやすいように地図を用意しておいて、「ココに行きたいんですけど」と指で示すとなお話は通りやすい。印をつけてもらうためのペンなどをさりげに用意しておくのも良い。この種のノウハウは言葉が通じない外国では重宝しますよね。

 このあたりのことを「コミュニケーション能力」とかいうらしいのですけど、多少「ぷっ」と思わないでもないです。そんなの誰でも知ってるだろ、ただ忘れているだけ、つい忘れているだけ。思い出せばいいだけじゃんと。至って普通のことで、そんな「〜能力!」とかいうほどのことかな。それって、お箸をフォークを使えたら「食事遂行能力」があるとか言ってるのとニアリーな感じで。ま、でも、人間関係で箸をちゃんと持てない人が多いってことですかね。

 ともあれ、一般的な能力を開発した方が、わずか十数キロ離れただけで「もうダメぽ」になってしまう「情報」なんかよりも現場ではよほど役に立つ。また、普遍的な能力であるから、一つ習得しておけば今後数千回、数万回と使い回しができる。一生ものの財産になる。また一般能力というのは使えば使うほど向上する。賞味期限がわずか1日みたいな情報(株価予想とか)もあるなか、賞味期限が無限で、しかも使っても減らない、使えば使うほど増大するという魔法のポッケのビスケットみたいな能力。同じ費用と労力があるなら、どっちに投資した方が得か?です。言うまでもない。

 情報というのは水みたいなもので、汲み置いていても場所を取るし、すぐに質が劣化してボーフラが湧いたりする。でも、水なんか多くの場合は、蛇口をひねればいくらでも出てきます。ということは、そんな水(情報)をせっせと集めるくらいなら、「蛇口のひねり方」「蛇口の場所の見つけ方」を見つければいい。お金を貯めるのも大事かしらんけど、「お金の稼ぎ方」のノウハウを知ってるほうが何倍も価値がある。オーストラリアの生活習慣とか地方のあれこれを必死に日本語で検索して調べるくらいだったら(大体出てこないし、間違ってるし)、そんなの現場でその土地の人に聞けだし、それを聞けるだけの英語力(一般能力)を身につけておいたほうが遥かに安全で有利な投資でしょう。

 ただ、(1)にせよ(2)にせよ、格別難しいことを言ってるわけではなく、中学程度、いわば子供でも知ってるような基礎知識と、子供が考えてもわかるような現場の機転、これだけでいいじゃないんですか?って話です。「ネタ」みたいな情報って、意味あんのかしらね?という。

 僕もHPでは山ほど情報載せてますけど、情報の量がどうのではなく、質にこそこだわります。なんでそういうことになっているのか?という構造分析や、じゃあどうしたらいいのか?という対策立案部分にこそ力を入れて書きます。真剣に取り組んでいる人には、その部分こそが一番役に立つと思うので。実際、オーストラリアについて書いていることでも、一般部分に抽出しているから日本でも適応可能だろうし、あんまり異国事情を書いているって感じがしないでしょう?どっちの国のことを書いているのか区別しない場合もあるけど、それは区別する必要がないからです。

 ただ、まあ、そこは人それぞれの趣味で、一般能力を増強することに全然関心がないとか、絶対増強させてたまるかとばかりにカタクナな人とかいたりして、そういう人がネタ情報に群がるのでしょう。投資効率クソ悪いと思うけどな〜、でも、まあ、そこは趣味なんだから、それぞれですよね。


 あ、冒頭の「情弱」とはなにかですが、色々な言い方が出来ると思うのですが、僕がぽっと思うに、ネタ情報と本物の知識や理解の区別がついてない人、あるいは情報の取り扱い能力(情報リテラシー)が薄い人ってことでしょうか。逆に強者というのは、とある物事に関していえば、それは情報という形では解決しえない問題であるというのを的確に見抜ける人、情報以外の他の要素が必要になる(他者からの信頼とか)というのが分かる人かな。

ここから先は

 今回メインのテーマはこれだけ。あとはアラカルトで多少思いついたことを書き綴るのがいつものパターンです。例えば、「気持いいかとか悪いとかパーソナルな感情情報の方が意味がある」「情報収集能力よりも情報理解能力と整理能力の方が意味ある」「個別事案においては、より適用範囲の狭い情報の方がより効力が強いの法則があり、これと一般原則との組み合わせで大体のことはいける」とか。

 でも、ここで切ります。そのアラカルト部分は、最近はじめた掲示板に書きます。いやね、前々から自分でもエッセイ長いよな、こんなに詰め込んだら忘れちゃうよなとか思ってたんですけど、「せっかく思いついたんだから」でぶち込んでしまうところがあって。でも、ここで本体部分を書いて、あと派生部分や、応用、余談の類はあっちに書けばいいじゃないかって思ったのです。その方が書く方も読む方も楽だしね。ということで、アラカルト部分は後日また触れることもあるでしょう。


 

文責:田村



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