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今週の一枚(2015/06/29)



Essay 729:世界の大学進学熱とその懐疑

 撮影場所は、UltimoのTAFE。地味にひっそりやってたのに、ハデハデしくバーンとなっててびっくりした。その本質は職安の職業訓練コースなのに。いやあ、儲かってまんな〜って感じ。留学生から結構とってるしね。

Student Loanの迷惑メール

メールボックスの迷惑メール
 今週は大学の話ですが、日本と言うよりも世界の大学についての(困った)トレンドについてです。まあ、今更感もある話ではあるのですが、それでも新発見らしきものも沢山ありました。

 コトの発端は迷惑メールです。ここ数ヶ月ほど、いきなり増えているのが"Student Loan"に関するDMで、もうこればっか!って感じできます。日本にいるとあまり来ないかもしれないけど、海外英語圏でアドレス晒してるとどっから引っ張ってくるのか、きますよ〜。こんな感じ→

 この迷惑メールの現象だけについていえば、アメリカで問題になってる学生の奨学金負債に関してオバマ政府が"Forgiveness"(返済優遇措置)を打ち出したのを受けて、「それ、ビジネスチャンスだ!」とばかりにわっとピラニアのように群れているんでしょうけど。

 それ以前に、なんでそんな学生ローンが大変な事になってるの?です。
 日本でもそうだけど、アメリカでもそうです。でも今や日米だけという呑気な話ではなく、全世界規模の大学過熱現象になっている、そしてそれが問題視されるようになっているという点です。

英エコノミスト誌の論稿

 この点について、既に旧聞に属しますが、今年の3月に英国エコノミスト誌から論稿が発表され、世界規模でよく引用されているので、まずはそれから勉強しましょう。

 逐語訳をつけると長くなるので、例によって僕のいい加減な訳だけを載せ、原文はタックしておきます。


The world is going to university 
英ECONOMIST誌 28/MAR/2015 

エコノミストの記事キャプチャ
 "神が我々をニューイングランド(アメリカ草創期の入植地)に安全に送り届けてくれた後、我々は家を建て、日々の生活物資を生産し、礼拝のための場所を作り、その地を治める政府を作った。次に我々が求めたのは先進的な教育であり、それを後の世代に伝えることだった”と謳われたパンフレットが、1643年に、最初の大学(ハーバードカレッジ)基金募金のための祖国イングランドに送られ、多額の寄付金を募っていった。

 アメリカにおける初期のそして今もなお続いている高等教育への情熱は、世界最大の潤沢な資金システムを生み出した。他の国も熱心にそのモデルを真似し、より多くの学生を大学に送り込もうとしている。しかし我々の特別レポートで論じているように、アメリカ式のシステムが広がるほどに、この大学システムにそこまで巨額の費用を費やす価値があるのか?という懸念もまた広がっているのである。

アメリカ方式
 現代の研究機関型大学モデル〜オックスブリッジなど従来の名門校モデルとドイツの研究機関モデルが合体したようなもの〜は、アメリカで開発され、以来世界の黄金のスタンダードになっていった。19世紀にマス高等教育がアメリカで始まり、20世紀にはヨーロッパと東アジアに広がり、現在はアフリカのサハラ砂漠以南を除けば世界的に広がっている。世界の大学進学率は、2012年までの20年間に14%から32%に上昇している。この期間で、進学率が50%以上の国は5か国から54カ国に増えている。大学進学の普及速度は、究極の消費グッズである自動車の伸びを超えるのである。このような巨大な需要は理解出来る。昨今では、大学はまともな仕事を得るため、そして中流階級になるための必須条件のようになっているからだ。

 大きな需要に答えるためには、おおまかにいって二つの方法がある。一つはヨーロッパ大陸型のもので、公的機関が大学を支えるものであり、ほとんどの大学が同じような支援を受け、同じようなステイタスを得る。もう一つはアメリカ型の市場ベースのシステムで、公私のミックス形式で、優秀で富裕な大学がトップにきて、そうでない大学が底辺になる。

 世界はアメリカ方式に向かっている。より多くの国のより多くの大学が授業料を徴収している。そして知価経済は最高水準の研究を求めており、公的資源は一部の名門校に割り振られ、世界レベルの優秀な大学を作るための競争は激化している。

 ある意味では素晴らしいことだ。最優秀な大学達は、この世界を、より安全でより豊かでより興味深いものにする数多くの発見を成し遂げている。しかしそのためのコストも増大している。OECD諸国の高等教育に費やしているコストは、2000年のGDP1.3%から1.6%にまで増えている。もしアメリカ型モデルがさらに広がっていけば、この比率はさらに増えていくだろう。アメリカはGDPの2.7%をも費やしているのだ。

 アメリカが費やしたコスト分だけ高等教育から果実を得ているなら、それはそれで良い。研究という点でいえば、それは果たされているだろう。2014年段階で、世界で最も引用されている論文を産みだしている上位20大学のうち19大学はアメリカの大学なのだから。しかし、教育という側面になると事柄はそう明瞭ではない。アメリカの卒業生達は、世界の数学や言語のランキングでもパッとしないし、ますます下がっている。学問的業績に関する最近の調査によると、45%のアメリカの学生は最初の2年間で何ら進歩していないことが明らかにされている。しかし、その一方で、授業料は過去20年でほぼ2倍になっている。学生が負担する借金額は、1.2トリリオン・ドルに達し、この負債総額はクレジットカードや自動車ローンの総額よりも多いのだ。

 しかしながら、だからといって大学進学が投資として価値がないと言っているわけではない。学士号への投資リターン効果は15%もあるとされているのだ。しかし、高等教育への増加する投資が社会全体として良いかどうかになるとにわかに判断できなくなる。もし大卒者が彼らの勉強の成果によって非大卒者よりも生産的であり、その結果として給与が高くなっているとするなら、大学教育は経済発展に大きく寄与していなければならない筈だし、社会も又それを期待すべきである。しかし学生たちの勉学の成果はそれとは逆の傾向を示しているし、彼らを雇う企業側もまた懐疑的である。名門大学からしか採用しないプロフェッショナルサービス事業体(シンクタンクや弁護士、会計事務所などだろう)に対して行った最近の調査によれば、採用の理由は、大卒者達が何を大学で学んできたかではなく、名門大学における苛烈な選別システムを乗り越えてきた点にあるという。要するに、学生たちは、単に精密に稼働する選別システムをくぐり抜けるために莫大な投資をしているのである。

 ではアメリカの大学が投資に対して本当に貧弱な価値しか持たないのであれば、なぜそうなるのだろうか?
 主たる理由の一つに、医療保険システムがそうであるように、高等教育システムが十全に機能してない点が挙げられる。政府は大学の研究成果に多額の報奨を行い、教授達も研究に励んでいる。学生達は雇用企業側により多くの感銘を与えるべく学位を欲しがり、企業側は大学のもつ選別システムにのみ興味がある。かくして名門大学の学位の価値は、その希少性にこそあることになり、名門大学は卒業生の数を増やすことに何のインセンティブも感じない。さらに教育効果に関する明瞭な査定基準がないということは、結局は価格が質を推定させることもなる。授業料の高額化は、名門大学にとって、収入増大とステイタス上昇という一挙両得を生み出すのである。

何に価値があるのか?
 高等教育のマーケットをより良く機能させるため、もっと多くの情報が求められている。コモンテスト/共通テスト、それは卒業生が最終試験と同時に受けるものだが、それは各大学の教育効果を比較するのに役に立つだろう。学生達はその大学でどのようなものが得られるかより理解できるだろうし、雇用者たちも採用希望者が大学でどれほど学んできたかを知ることを出来る。それだけの豊かな価値を生み出している大学により多くの資源は流れるだろうし、大した教育も行っていない大学からは離れていくだろう。大学はよりよい教育を施すことにより多くのインセンティブを得られるだろうし、コストカッティングのための技術開発もするだろう。通信教育、これは現在までのところ高等教育の革命になるという約束を果たすことに失敗しているのであるが、今後はより大きな存在感を得るかもしれない。政府も又、税金をどれだけ高等教育に費やすべきかどうかより正確な考察を得ることが出来るだろう。

 懐疑的な人々は、大学の教育はこのような形で査定するにはあまりにも複雑であるというだろう。確かに、12歳をテストするよりも22歳をテストするほうが難しいだろう。しかし、その科目を受講する学生たちが知っておくべき学問知識の核心部分を包摂する規律というものは沢山あるはずだ。より一般的に言えば、学生たちがより批判的に物事を考察できるように教育を行っているということを、大学側は示すことができなければならない(高等教育の本質は、単なる暗記ではなく批判的解析的考察がどれだけできるかということ)

 既に幾つかの政府や大学機関は、教育効果を解明することに前向きに取り組んでいる。アメリカの州立大学では、既に卒業生に共通テストを実施しているところも出てきている。このテストはラテンアメリカ諸国に広がっている。もっとも重要な事は、高校卒業時の共通テストが政府の施策に大きなショックを与えているOECD諸国において取り組みが始まっていることだ。科目別の知識と理由解説能力(物事を解析して合理的に説明する能力)、経済学から工学までにわたり、各大学間、あるいは国家間の採点をも行う。アジアの諸政府は特に熱心だ。理由の一つは、彼らの大学がどれだけの質を持つかを測ることは、世界の留学生を集める効果をもつからである。しかし失うものが多く得るものは少ない富裕な国はそれほど熱心ではない。こういった世界的枠組により多くの国々が資金供与し参加することなしに、その効果は限定的であろう。

 各国政府は、これらの努力を支援すべきである。潤沢な資金と激しく選別されたアメリカ市場型システムでの名門校は、もし彼らが正しく学んでいるのであれば、多くのものを社会に還元できるだろう。しかしそうでないなら、それはお金の浪費でしかない。

→以下本文です(クリックすると表示されます)

 なるほどねえと思うのですが、私見を述べる前にもう一本。これはやや古く1年半前のものですが、オーストラリアの状況について述べた論稿です。

SMH誌の論稿



記事キャプチャ
Is university worth it?
The Sydney Morning Herald 18/DEC/2013

大学の学位の価格は高過ぎるのではないか?
2014年度にどこの大学でいつ学ぶかを決めるにあたって、あるいは6桁の投資(1000万円以上の投資)をするにあたって、どれだけの学生たちがこの点を考えているだろうか?

大学で3年間(オーストラリアの大学は3年)学ぶにあたって、その期間どれだけの賃金を失うか(もし大学に行かなかったらフルタイム職で得られたであろう賃金)は、通常の学位であっても優に1000万円を超える。逸失賃金のほかにも、多くの学生達が卒業時に数万ドル(数百万円)の奨学金の返済義務を背負う。

大学にそれだけの価値はあるのだろうか?
スタンダードなアンサーは、大卒者は非卒者よりも高い就職率と給与を得ているというものであり、多くの学生にとってこれは事実である。しかし、しかしこの傾向は、昨今の労働市場の変容と大卒者への雇用需要がどんどん減ってきている環境を補うほどに強いものであり続けるのだろうか?

いくつかの大学では授業料の10%値上げを試みている--大卒者の供給過剰のこのご時世にである--、かくして学生たちの金銭的負担は増大し、資金集めのプレッシャーはますます強くなる。

オーストラリアのビジネス界でいったいどれだけの大卒者が必要とされているのであろうか?現在大学のポンプから排出されている人数よりもはるかに少ない数だ。法曹界や獣医学などの専門業界ですら、最近では卒業生の供給過剰が警告されている。

そうだ、ある学生にとって大学の学位はとても貴重なものである。パートタームの大学講師としての私の経験でいえば、ある学生は批判的考察能力の向上という一生ものの素晴らしい財産を得ているし、それは奨学金の負担を優に補うものである。あるいは個々の学生が真剣に取り組みたい仕事や資料収集を可能にするために、ある学位は格別の価値を持つだろう。

しかし、私は下半分の学生達のことを心配しているのだ。彼らの多くは大学などにはいるべきではない〜少なくとも高校を終えて直ぐに入学すべきではない〜そして、平均400万円の負債を背負って平均的な学位を取得しつつも、専門職に就くまでの四苦八苦する間、低所得のパートタイム仕事の綱渡りをしてしのいでいかねばならないのだ。

あまりにも多くの学生達が入学の準備もできていない=学問的にも感情的にも大学レベルに達してない段階で、大学に入る。一定数の若い男性たちは、そもそも高等教育についてほとんどなんの興味関心も持っていないまま、ただ単にそれが通り道だからということで、単にのらくら過ごすためだけに巨額の借金を背負っているのである。

この点について大学側を批判することは可能である。大学入学のハードルを下げ、科目についての採点を甘くすることは、結局上の世代の大卒資格の評価を下げさせるだけである。そして、大学は、一般的に言って、量を求めるために学生の質を犠牲にしてきたのではないか。

しかしながら、真の問題点は社会の態度にこそある。我々の多くは、未だに若い人々に大学に入り、高額な授業料を払い、彼らが賢くて勤勉であることを企業にアピールしてよい職を得ることを期待している。しかし、これは愚かで、時代遅れの発想である。

我々は、高校卒業後、大学へ一直線に導いているのであるが、実際には多くの者が低所得の仕事をしつつパートタイムで勉強したり、もう少し自分が成熟し、経験を積み、学費も十分に払えるようになるまでフルタイムの学業を差し控えているのだ。

私はオーストラリアの大卒者の就職状況を懸念しているのだ。「Graduate Careers Australia」がこの2月に発表した調査によると、2012年には8人の一人の雇用者が大卒者以外を採用しているが、1年前にはこれが10人に一人だったのだ。私の推測によれば、この比率(大卒者有利の程度)はこの先数年でより低下するだろう。2014年前半ないし2015年には、大卒就職状況はさらに混迷の度を深めるだろうと思っている。

昨今の経済の不透明度や投資意欲の減少によって、雇用主達が大卒者の採用枠を延期したり減少していると聞き及んでいる。景気がパッとしないときには、雇用を抑制するのが最も簡単なコストカッティング方法である(たとえ今後景気が上向きになってそのツケが回ってきたとしても、それでもなお)。

大卒者の雇用状況は単なる景気停滞の循環的な結果にすぎないかもしれないが、私にはこれは一過性のものではなく、構造的な変化であるように思われる。
なぜならビジネス界においては、以下の諸点が認識されつつあるからだ------

・大卒者の仕事はもっとオートメイト(自動化、IT化)しうるし、あるいは海外にアウトソーシングできること
・世界規模でのマイクロジョブ化やフリーランス化へのシフトは、はるかに広範でよりフレキシブルな労働力を供給しうる反面、通常の大卒者の労働力を求める必要性は減少していること
・大卒者を雇用し訓練を施すコスト、そして1−2年働いて辞めていく者もいることを考えれば、得られる利益よりも採用コストの方が高くつくこと
・大卒者の供給過剰状況は、企業側にとってより有利な選択肢を与えること
・世界のビジネス環境の急変についての認識が広まるほど、かつてない早さでスキルを上昇させる必要があること。そして3年間の教室生活での技術習得は、ビジネス現場の刻々と変化する技術を学ぶにしては効率が悪くなってきていること
・いくつかの業界においては大卒者の給与水準があまりにも高くなってきていること

私としては、より多くの企業が、インターンシップやカデットシップを通じてのより多くのOJTなどの現場教育機能を果たし、少なくとも(修士や博士ではない)学士号レベルの大卒者への依存度を減少させたほうが良いように思う。

フルタイムの仕事とパートタイムの勉強の増加、フルタイムの勉強減少。学ぶのと稼ぐのを同時並行で行うこと。多くの学生達が本当に付きたい仕事がなんなのかがわからない大学3年間においては、オールオアナッシングにしない方が良い。

4−5年間もの間フルタイムで働き且つパートタイムで学んでいれば、かなり多くの物事を学べるはずだ。私が採用するなら、いつでどの時点であろうが、フルタイムの学生よりも、このような者を採用するだろう。

多くの若者が20代中盤から後半にかけて大学に進学した方が、つまり数年間の職場経験を経て、学問を学ぶ準備が整い、学問知識をバックアップしうる実社会の経験を得てからの方が、無理も少なくまた多くのものを得られるという認識が広まってくれれば、さらに物事はよくなっていくだろう。

→クリックして原文

付言

Student Debt

 なかなか面白かったのですが、まず、最初の(アメリカにおける)学生ローン(奨学金)ですが、ひどいひどいとは聞いていたけどどうなの?と思ってみてみると、The Wall Stree Journalのつい先月の記事(16/MAY/2014)がありました。Congratulations to Class of 2014, Most Indebted Ever というのですが、右にキャプチャ分を載せておきます。

 この記事に表示されている一番目のグラフと三番目のグラフに注目です。小さいので別途切り抜いて貼り付けます。


 最初の棒グラフの図は、アメリカの大学生の奨学金の負債額の推移ですが、きれいな右肩上がりです。年々負担が増えまくっている図です。よく見ると10年前に比べて2倍近く増えている。わずか10年で借金2倍ってスゴくない?ってことですね。
 次の折れ線グラフ2つの図は、赤線が借金負担率の変化、青線が25−34歳の大卒者の平均年収の推移です。稼ぎはあまり増えてない、、どころか事実上減ってるのに対して、借金の負担率は年々増えている。苦しくないわけがない。

 これもさらによく見ると、2008年とか2010年後、リーマン・ショック後の変化が厳しくなっています。「貧困大国アメリカ」という堤さんのルポが話題になり、お読みになった方も多いかと思いますが、「貧困大国アメリカ2」という続編が刊行されたのが2010年であり、事態はその後もさらに激化しているかのようで、これ、どうなっちゃうんだ?ってゾッとしますね。既に、アメリカではOWSのような”Occupy Student Debt”ムーブメントが起き、チリでは2014年には"Papas Fritas"というニックネームの活動家(アーティストでもある)が、大学が保管している500ミリオンドル分の借用書に火を付けて燃やしてしまい、その灰を使ってアート作品にしているというスゴイ人もいたもんだって騒ぎもあるそうです(wiki英語版元ネタ出典)。

 このような背景で、オバマ政府のStudent Loan Forgivenessという支払い猶予制度が出てきて(これはニックネームで、正確には William D. Ford Direct Loan programというらしいし)、その返済プランのやりくりが住宅ローンのやりくりのように日常化し、DMの嵐になっているのでしょう。

世界の均質化

 エコノミスト論文で何がびっくりしたかというと、第三世界をも含めた世界の大学進学率が30%を超えていること、並びに大学進学率50%を超えている国が54カ国もあること、です。OECDの20カ国前後がそうなるのはわかるけど、その他に30カ国もあり、しかも急速に増えているという伸び率ですね。

 一方日本の大学進学率は50%くらいで、2010年頃をピークにむしろ下がってます。ちなみに日本の統計などをみるとオーストラリアの大学進学率が馬鹿高いように紹介されているものもありますが、これってTAFEとかもいれてるでしょう?ほんと統計によってマチマチなんですけど、オーストラリアの場合はYear10(高校一年)で卒業して実社会にでるオプションがあり、そこで専門職業学校のTAFEがあり、これがまた昔はやたら学費が安い(年間数万円とか、最近は高くなってきたが)ので、とりあえず行っとこうかってな感じで、それらもカウントするから高くなるのでしょう。このあたりの統計の難しさというのはありますね。別の統計では全然違った数値になってるし、また日本の50%だって専門学校カウントしてなかったりするし。

 まあ、個々の数値の正確性はわからないまでも大雑把なトレンドはわかります。大学進学熱について、日本はもうはっきり言って「醒めてきてる」って感じがするのですが、まだ全然醒めてない国がやたら多いし、どんどん増えてるってことでしょう。

 また、興味深かったのは大学モデルの「アメリカ型」って概念です。その一つに教育機関と研究機関を合体させたモデルだという点があると。改めて言われると、確かに教育機関と研究機関が同じである必要はないです。

 また市場ベース型という点も興味深いです。大学間格差を積極的に肯定するモデルであると。
 ただし、市場原理とか言いながらも、その市場原理がめちゃくちゃチグハグである。政府や教授たちは研究部門に注目し、学生は就活ツールとして利用し、企業は学生のしぶとく競争を勝ち抜いてくる資質(地頭の良さとか根性とか)を見るという。それぞれがてんでバラバラなポイントに着目して全然噛み合ってない。そこにもってきてその大学の学位に本当にどれだけの価値があるのか?を測る基準もないから、「値段が高い=素晴らしい」という馬鹿みたいな話になって、授業料はどんどん上がるし、学生はどんどん借金貧困化するという。何やってんだか、です。

オーストラリアの場合

 オーストラリアの場合はアメリカほどひどくはないのだけど、アメリカの後を追っている。学費なんて許されないくらい値上がりしてますもんね。確かに2番目の記事でも書かれているように、これまでの伝統的なオーストラリアだったら、別に大学なんて行ってなかった人々が大量にいるように思われます。もっとも、アジア系移民は、日本人も中国人も、勉強→幸福な人生という刷り込みが一般にきついから、オーストラリアのアジア化によってこの傾向にはドライブがかかってるのかもしれません。

 ただし、オーストラリアが猫も杓子も的に大学に行こうとするから、逆に現場系の仕事の人手が相対的に減少し、永住権の職業リストにおいても現場系の職種が有利になっているという関係があるんでしょうね。これでオーストラリアでも無駄に気付いて醒めてくれば、現場に流れるローカル人材も増え、永住権の職業リストもまた微妙に変わっていくのでしょう。

 オーストラリアの状況についてちらっと調べたことをもう少し述べると、

 最初のグラフはWorld Bankのデーターでココに載せられてましたが、僕が最初のオーストラリアに来た1994年で50%いくかいかないかだったら比率が90%近くまで飛躍的に伸びているのが分かります。特に2008年のリーマン・ショック以降が激しい。これは他の統計でもリーマン・ショック後にトレンドが変わる傾向があったし、やっぱあの経済危機はそれなりの出来事だったのかな〜って気がします。特に心理的に。オーストラリアは大した影響受けてないはずですけど、「将来に対する不安」というのは比較にならないくらい増大し、藁をもすがるという感じで学校に行くって感じになってるのかもしれません。ま。直感的な推測ですけど。


 次のグラフはオーストラリアのセンサスのもので、出典はPARTICIPATION IN EDUCATIONです。実際にオーストラリアでどの年齢層がどのくらい学校に行ってるかを調べたもので、こっちの方がずっとリアルに実像がわかると思います。これは2011年だけの統計で推移トレンドはわかりませんが、非常に興味深いです。なぜなら、まず年齢カテゴライズが面白いのですが、15-19歳で一つの区切りをつけています。高校1年から大学1年までのクラスで、なんでこんな中途半端なカテゴリーになるかといえば、先ほどのように高1で卒業するオプションがあるからでしょう。これによると、15-19歳でSchool(高校)に行ってるのは50%程度、ターシャリーと呼ばれる高校より上の学校(大学や専門学校)に通っているのは26.5%(フルタイムは19.5)、全然通ってない人は21%です。
 さらに20-24歳の日本でいえば大学通学期間になりますが、ターシャリーには40%しか通っておらず、うちフルタイムは30%程度でパートタイムは11%います。全然学校に行ってない人が6割です。さらに25-64歳というカテゴリーをみると、この40歳間のスパンで8.5%もの人が学校に通っているという。これはセンサスだからその時点に存在した全ての人(国民に限らず)を対象にしてるので、留学生(オーストラリアの大学生の4分の1は留学生)も含むでしょう。

 つまり最初の図をみるとオーストラリアでは猫も杓子も状態でどわーっと大学に進んでいるように見えるけど、実はかなりバラけていると言えます。まず高校段階で誰もが2−3年まで通うわけではないし、TAFEなどの専門学校と大学など選択肢が多く、且つフルタイムとパートタイムの選択肢が活用され、さらに25歳以上でも結構な比率で進学している。日本的な感覚だと18歳の時点で全ての進学選択が集中的に行われるのですが、そう思って統計を見てると外すということでしょう。

 ま、そうは言っても、昔の牧歌的な感じに比べれば、学校というものにすがりついてる感はありますよね。まあ、不安だからCertificate4とか3くらいの専門学校のもっとも初歩的なクラスに参加して、で、飽きてやめるってパターンも結構あるかもしれませんけど。

私見

 大学進学を就活ツール、中流階級への登竜門的に思ってる人が世界で多い/増えているってことなんでしょうけど、"醒めかけている"日本人の視点でいえば、「ふーん」とか思っちゃいますねえ。

 事柄の本質は、エコノミスト誌がさらりと述べているように「希少性」にあるのでしょう?高給を払う優秀な企業の採用現場においては、「一握りの優秀な人材」が欲しいだけで、「一握り」いれば十分なんでしょう。その希少性能力を証明する手段として名門大学の学位があるという。敢えて乱暴なまでにシンプルに言えば、上位1%の優秀な企業の、上位1%の裕福な給料を得るためには、上位1%の人間がいれば足り、あとの99%の人間には用がない。だからランキングで下位になる大学の裾野がいくら広がろうが、皆が進学しようがしまいが、頂上付近しか意味が無いってことでしょう。さらにその頂上付近でも、人要らないかも?って延々とリストラが行われており、さらに狭き門になっている。

 反面、新興国等の場合は、その昔の日本がそうであったように、第一、二産業から第三次産業への移行が行われているでしょう。田植えをやる人材よりも経理帳簿をつける人材の方が求められるという現場からホワイトカラーへの民族大移動のような感じ。日毎に高まる国内需要を背景にして、そこまでエリートでなくても、ある程度ホワイトカラー能力がある人への需要は高まるでしょう。だからこの段階での進学率の上昇は頷けます。世界的な進学率の高まりというのは、そういう背景もあるでしょう。いわば国が発展する段階において、誰もがハッピーになれる中流階級の拡大という幸福な、しかし残念ながら一過性のものでしかない段階にあるのだと。

 問題はそういった時期の記憶を濃厚に持っている先進国の場合ですよね。「とにかく大学さえ出てればなんとなくなる」という信仰のような考えが強い。特に年長者に強い。しかし、まあ、なんともならんでしょう。これだけ大学増えたら希少性もクソもないし。もともと、一握りの特等席は一握りの優秀な人がゲットするのが自然界の掟みたいなものであり、最初からその席は限られているし、逆に昨今では減ってきてすらいる。「誰もが〜」というのは右肩上がりが激しい万年人手不足の時代に通用する原理であり、市場が飽和し成熟してしまえば、激しい選別が行われるのが道理でしょう。ローリスク・ハイリターンだと思ったら、ハイリスク・ハイリターンになってきていると。

 さらに身も蓋もないことを言えば、とある優秀な人材は、別に名門大学の学位をもっているから優秀なのではなく、もともと素材として優秀なわけで、雇用者が求めるのはその素材性でしょう。その素材の優秀性を証明する手段として名門大学学位があるに過ぎない。このことはいくつかの副次的原理を示唆します。第一に他の方法で優秀さが証明されれば別に学位なんか要らないという点です。第二に学位や就活は単なる通過点に過ぎず、本当の証明は採用後の現場仕事にあります。入ってからが大変。仕事の現場で大したことがないと判明した時点で戦力外通告を受けるわけだし、その過程での精神的なミジメさは察するに余りある。つまり名門云々というのは「地獄へようこそ」みたいなもんですな。修羅の戦場が待ってるよと。いや、これはほんとそうよ。

 第三にそこでいう優秀とは、官僚的事務処理レベルでのそつの無さとかそのあたりの優秀さであって、百万の軍勢を心服させるド外れた人間性とかは関係ないですし、煌めくような才能もいらない。面倒くさい事務をてきぱきと処理してくれる能力です。これは実務能力として重宝しますが、その程度。

 第四に、日本企業の場合は「優秀性と従順性の調和点」を求めると思います。あまりにも優秀過ぎる人は、織田信長みたいに独創性が強く、組織内部の和を乱すってことで敬遠されるでしょう。「名門大学を出ている」ということは、「世間的な価値観に迎合している」という推定もあり、飼い慣らしやすいって部分もあるでしょうね。以前どっかで紹介した記事でも、日本人でもケンブリッジレベルの超ハイレベルの学業を修めて日本企業で就活すると苦戦するという。東大くらいが手頃なところで、優秀といっても、そこそこ優秀でいいのでしょう。そんな世界レベルに優秀だったら上司のメンツも立たないし。日本社会での「和」というのは、ぶっちゃけ「年長者のメンツを潰さない、不愉快にさせない」というただそれだけって場合が多いでしょう?年少者や下っ端はいくら不愉快にさせようが◯◯ハラやろうが、あまり「和」を乱すとは言われないもん。

 第五に、人脈=過去のお宝へのアクセス機能です。明治維新以来の勉強的立身出世物語の過去世代が営々と築いた蔵には千両箱があって、そこにアクセス出来るのは既得権益とかなんとか呼ばれる一部の人間だけであって、それは名門大学出身者が理論的にも比率的にも多くて、だから名門に行くと「仲間」になれるかもよ?という機能ですね。これは確かにあるだろうけど、それって能力とか優秀とかあまり関係ないよね。求められるのは犬馬の労を厭わない忠誠心とかでしょ。それもなんだかな〜だし、そもそも国富が減少している昨今の日本では蔵自体がヤバいんじゃないかと。

 思うに、なんでみんな頂点の話ばっかするのですかね?オリンピックやワールドカップのように頂点付近の戦いはわかりやすいし、面白いです。だけど誰もがそこに行けるわけでは、勿論ない。優秀な学業を修めて優秀な職場で〜とかいうのは、サッカーや相撲でメシを食うようなプロフェッショナル世界であって、あんなもんをマジョリティのお手本にするほうが間違ってるように思います。なんかね〜、サッカー選手の憧れるブラジルの少年、ムエタイのチャンプを目指すタイの少年みたいに世界がなっているような気がして。

 そもそもStudent Loanがどうしたとか、それで破産しているとか、社会問題になって猶予措置がどうのとか言ってる時点で、もうそのモデルは破綻してるじゃないですか。これが民間ビジネスプロジェクトだったら、投資に見合った収益はなかったことになるし、その「事業」は失敗であるし、失敗するようなビジネスモデルであった、少なくとも誰も成功するというものではなかったということでしょう。学士号投資リターン率15%といっても、そんなの過去の話(30年前の大卒者は現在も役職付きでいい給料もらってるとか)も含めて現在の年収序列があるのであって、リアルタイムや先々の話の参考になるかどうか疑問です。

 大事なのは、そんなに優秀でもない圧倒的大多数の人々の暮らし向きがどうやったら成り立っていくか?でしょう。それに就職だなんだとかいっても、背景にあるのは産業構造でしょう。就職以前に、人々が普通にやってりゃ普通に幸せになれるような産業構造をどうやって構築するか、どう変化させていくか、そういう部分の議論の方がずっと大事なような気がします。そもそも「働かないと食えないのか?」「"働く"ってなによ?」という原点部分も含めて。ま、そのあたりはこれまでのあれこれ述べてきたので、今回はここまで。



 

文責:田村



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