今週の一枚(2015/06/15)
Essay 727:「生産手段」を奪回せよ
楓・モミジ、ジャパニーズ・メイプルはいいですね。まさに千代紙の世界。
オーストラリアは季節感がわかりにくいのですが、今は(てか一ヶ月ほど前だけど)こういう季節です。
常緑樹が多い国なので、秋の紅葉風景に飢えたりするのですが、今年はちょっと満たされたりして。
システム保証の揺らぎ
先々週以降、ばたばたと掲示板を立ち上げてるわけですが、これで都合6つもあります。APLAC卒業生用の専用掲示板、実際に動くという起業指向のA僑掲示板、オフ関係の掲示板、さらに「人と語りの掲示板/自分語りの掲示板」(やってみてネーミングの最適化を図ってる最中)のレベル1とレベル2、さらに被曝回避縁結び板の6つ。なんでこんなことをしているのかというと、もっと大きなグランドデザインがあります。や、あるのかな?うーん、そこまで明白なものではないんだけど、ぼわ〜んとした空をただよっている雲のような漠たる感覚です。その雲の形が何に似てるのかはわからないけど、そこに雲があるのは確かという感じ。
ベースにあるのは、システムによって人生の全てが守られるような時代じゃなくなってきているという危機的認識です(似たようなことばっか言ってて悪いのですけど、ベーシックなことがそうコロコロ変わるわけもないので)。ガッコ卒業して、会社入って、頑張って、定年になって退職金貰って、年金も出て、孫に囲まれた豊かな老後って。とりあえずは「→」みたいな「順路表示」に従っていけば、そこそこ破綻なくやっていける「ゆりかごから墓場まで」的なシステムへの信頼性が揺らいでいる。あなたは揺らいでないかもしれないが、少なくとも僕は揺らいでいる。
その当否の詳細は論じません。何故そうなるかもパス。ここでは、それが100%信頼できないのであれば、それを補完するために何かが必要であろうという即物的な実務感覚だけに焦点を合わせます。
補完それ自体は別に珍しい話ではない。自動車保険でも、自賠責だけでは心許ないから任意保険をとか、年金だけでは不安なので別途資産運用しましょうとか、他の保険商品を購入しましょうとか。公教育のカリキュラムだけでは子供の教育が不安だから家庭教師や塾などの補完物を用意しようとか、いくらでもあります。ただ、ここで漠たる危機感をいだくのは、そういった部分的な問題ではなく、トータルで何かヤバくない?おいおい、大丈夫かよ?という意識です。
身近なところで聞いた話ですが、認知症家族の介護をやっておられるご家庭で、それまでデイサービスやってもらっていた施設の営業時間(というのかな?)が短縮されてしまって、日常生活の組み立てに支障をきたしている。なぜか?というと国の補助が削減されたからだそうです。まーねー、国もお金ないしねーって分からんわけではないけど、でも困るものは困る。今からこんな調子で将来大丈夫なんかよ?と。大体ですね、年金が出たとしても、その年金から介護保険料を払わされるわけだから、将来の年金支給額(収入=なんか減りそう)と介護保険料支払い額(支出=なんか増えそう)の関係で、形式的に年金は出ても手取り的にはほとんど意味が無いってこともありうる。というよりも、もう身近なところで具体的に支障が出てきている。それも一過性の原因ではなく構造的に成り立つのか疑問という全体的な問題。
そうなると福祉システムを補完するものとして個々人の資産、資産を蓄えるための「稼ぎ」が必要になるのだけど、これも怪しい。例えば、HSBC、最大5万人の人員削減策発表なんてニュースも最近流れてて、比較的好調といわれていた金融界でもそうなのかと。しかし5万人って半端な数字じゃないですよ(2万人という話もあるけど=HSBC plans to sack up to 20,000 more staff worldwide to show it's serious about cutting costs)。いずれにせよ500人とか5000人とかじゃなくて、2-5万人単位ですから。これが単純にHSBCという巨大国際金融機関独自の理由(お家騒動とか、大不祥事によって客が流出とか)だったらそこだけの問題ですけど、業界全体としてリダンダンシー(人手多すぎ)意識があるなら、それは辛い。業界全体がシュリンク(縮小)しているなら、そこでクビになった人が再就職しうる可能性はかなり厳しくなりますし、残った人でも超過労働のしわ寄せなり、リストラ第二波第三波がくるかもしれない。
もしかしたら現状レベルに稼げなくなる=就職(給与所得)という生計メソッドが微妙になってくる可能性があるなら、それ以外の方法で自己防衛を考えておいたほうがいいだろうと。
でも、だからといってどうするの?
だから、A僑(あきょう)あたりで起業のススメ的な、まずはお遊戯的なローリスクのところから、あれこれノウハウを学ぼうねとかやってるわけですけど、最近は、起業って方法論や発想そのものが、「狭いな」「既成概念に囚われてるな」とか思ってます。もっと大きく捉えた方が良いのではないか。
これで不幸になるわけがない〜人的・物的・技術的リソース
一切の既成概念を除去してゼロから考えなおしてみると、現状で人が不幸になるわけがないじゃん!って思います。(1)人的リソース(人間一人あたりのポテンシャル。単純に労働作業エネルギーであったり、あれこれの専門知識や世間知やノウハウや人脈など)
(2)物的リソース(土地や自然界の素材)
(3)技術的リソース(日々発展する科学技術)
この3つを掛け合わせれば、絶対に、誰でも、今よりは容易に幸せになれるはずだと僕は思う。
だって人はいる(経験不足や白痴化みたいな劣化要素はあるかしらんけど)、自然素材はある(環境破壊その他で減る部分はあるけど)、でもそれまで出来なかったことができるようになるというテクノロジーの進歩はあるわけで、素人考えでばっと通観するに、プラマイ勘定でプラスになるんじゃないかと。もっと効率よく学べるようになるし、集合知の蓄積もある、経験のシェアもできる。物素材でいえば、これまで住めなかったところも住めるようになるとか、大掛かりな装置がなくても発電できるとか、安価で無害な栄養素が発見されるとか。なにも彗星が衝突して大気象変動が起きて農産物が死滅しましたとかいうわけじゃないんだから。
ただ、今までのやり方だと、うまいこと組み合わないから、あっちでも足りないこっちでも足りないってことになっている。全体には間に合うはずなんだけど、あちこちで噛み合わなくなって、ホコロビが出てきて、多くの人が不幸になってしまうという。それはアホらしいじゃないか。幸福になるためのピースは揃っているのに、組み方がおかしいから完成しないというのは、それはヘタクソだからだろう。人類というのはそこまでアホなのか?と。まあ、アホなんだろうけど、でも何かもう少し頭のいいやり方ってあるじゃないの?と。
それを誰か賢い人に開発してもらうのを待ってるんじゃなくて、自分らで試行錯誤して作っていけばいいじゃないか。いや、自分"ら”とか人が集まるを待つのではなく、とりあえず個人レベルでもなんか出来ないかな、というのが原点です。
普通の人の眠れる資源
商品価値とはなにか
その「なんか」のうちの一つとして、個々人が持っている(眠らせている)ビジネス資産をもう少し活性化できないか?って発想が出てきたわけです。何かを読んでそう思ったとかじゃなくて、なんのお手本もなく、ごく素朴にそう思った。例えば、これは前回書いたのですが、芸能人とか偉人とかのエピソード、手記、体験談、講演なんぞがあるわけです。なにごとか偉業を成し遂げた人のありがたいお話で、これは「商品」になっている。お金払ってでも講演を聞いたり、本を買ったりするわけです。確かに、「なるほど」と参考になる教えがあったり、面白いエピソードがあったりするわけです。読んでよかった、聞いてよかったです。でもね、よくよく考えてみると普通の人だって語れるものも多いのです。「親のありがたみ」とかさ、「基礎の大切さ」とかさ、「本当の友達とは?」とかさ、その種の知見というものは、別にオリンピックで金メダルを取らなくたって語れる。普通の人だって、今日まで生きていればそれなりにイロイロあったりするんだから。金メダルをとった時点でいきなり知識や人間のレベルがぐわーっと向上して、仙人のように悟りを開いたったってもんでもないでしょう。ジョージ・ワシントンが桜の木を切って「正直は大切だよね」って、そんなの別にワシントンじゃなくたっていいじゃん。言ってみりゃ全然関係ないじゃん。
でも、有名人でないと商品にはならない。普通のおっさんやおばちゃんが語ってたって売れない。なんで?というと、やっぱ知名度ですよね。では知名度があるとなんで売れるのか?それは好きな人とはできるだけ近くにいたいという心理学的ななにかがあるのかもしれないし、単に本物を見てみたいという野次馬根性かもしれない。そういう商品価値はあるだろう。
僕自身、L2掲示板で書いたけど、受験中はただの「穀潰し」状態で世間価値ゼロみたいな存在で、ちくしょーって体験はしてます。それが合格して先生と呼ばれる身分になったら、人は耳を傾ける。あろうことか何百人もの前で講演なんかやってる。30そこそこの若造がですよ。で、別に合格しようがしまいが、言うことは同じって内容も沢山あるわけです。専門経験があるからこそ語れるって部分もあるけど、そうでない部分もかなりある。それに専門経験でいうなら、弁護士資格経験がなくても、法律事務所の職員さんで5年以上のキャリアがあったら相当語れますよ。別に「◯◯先生の講演」なんて銘打たなくたって、実質的に価値ある話は出来るわけです。それはもう個人的な体験としてある。
これも別に珍しい話ではない。アートの世界もそうで、アートというのは「額縁にいれて熨斗(のし)をつけてないと売れないんだ」とか言いますよね。ただのラクガキとか、粗大ゴミかと思われるものでも、なんかの賞を取りましたとか、有名な◯◯先生の作品だという「額縁」「熨斗」で売れているという。結局、「権威」が売れているわけで、作品そのものは売れてるわけではないのかもしれない。
だとしたら世の「商品」の本質というのは、自律的知性を放棄した盲目的な権威追従、怖いもの見たさの野次馬根性、大衆の嫉妬心に訴えるサディスティックな嗜虐心、下卑たリビドー、オストリッチな現実逃避、満たされぬ自己承認欲求によって歪められた自我の幻覚剤的な救済、虚構の全能感、増幅された憎悪、実像よりも自己を大きくみせるための浅ましい策略、、どれもこれも愚につかないものばかり。特にニュースメディアの「商品(記事)」を見て、なぜこれをニュースとして売るのか?とギリギリ煮詰めていくとこの種の”付加価値”が透けて見えるものが多い。地味な殺人事件は報道されず、"女子大生""全裸""バラバラ"事件が大きく報道されるのはなぜか?
しかしながら、何もかもがクソばっかってわけでは勿論なく、ずっしり実のある話や、知的興味をそそる話もいくらでもあります。単なるキレイゴトではなく、本当にきれいなことも沢山ある。ただのお涙頂戴ではなく、本当に涙が出てくるような話もあります。
中間部分が抜け落ちている
ただ漠然と昔から感じているのは、中間部分がすっぽり抜けているという点です。ものすごーく極端でセンセーショナルな部分だけが取り上げられがちな反面、堅牢で実証済みの学術体系は無味乾燥な教科書的な資料しか出回ってない。結果として、全ての事実を平等に評価し緻密に積み上げていく知的誠実さなどカケラもなく、都合の良い事実だけ断片的にピックアップして虚構の体系を構築するような中二病的な陰謀論やエセ科学なんてのもそうです。それって、例えば「サッカーは本当は手を使っても良い競技だった!」というトンデモ説のようなもので、「その証拠に」と、ゴールキーパーがボールを手で持っている画像や映像をこれでもかと陳列してドヤ顔で解説するようなものです。多少なりともサッカーを知ってる人だったら、あまりの馬鹿馬鹿しさに反論する気も起きないし、その手の”いっちゃった人達”は勝手にやってくださいって感じになる。でもこういう本が売れたりするんだわ。プロフェッショナルな知的訓練を受けたことがない人が結構騙される。真面目な人ほど騙される。信じられないくらい膨大な労力と時間を割かないと一つの認識に至れないのだということが本質的にわかっていない。結果、ろくすっぽ自炊料理もできないくせに、世界最高峰レベルのレストランや究極の一品ばかり耳年増 or 舌年増で詳しくなったり、縦列駐車ひとつろくすっぽ出来ない奴が四輪ドリフトと慣性ドリフトの違いを熱く語ったりするわけです。無邪気っちゃ無邪気だし、それが趣味なら別にいいです。趣味というのは、プロが当然払うべき努力をパスして、手前勝手に美味しいとこ取りするからこそ楽しいのであって、それはそれでいい。しかし日常の生活現実やら将来的な設計もそこまで趣味的にやってしまったらちょっと冒険的過ぎないか?という気もする。
何が足りないのか?といえば中間部分です。その業界にいる人間だったら語るまでもない常識的な部分が、なぜかすっぽり抜け落ちている。そこさえ知ってたら、かなりの程度見通しがきくようなことって世の中に沢山あります。でも語られない。一つには業界の裏話的なものって、メイディア商法の常で、”売れる”ようにセンセーショナルに歪曲しているからでしょう。反面業界からの”公式見解”は、あまりにも事なかれ的に美しい虚構を語る。真ん中がない。
あなたが通ってた高校で、癒着があって職員が懲戒免職になりました、イジメ自殺があってメディアの注目を浴びましたとかいっても、あなた本人の高校生活には0.1%も関係ないって場合も多いはずです。大体学年も違う、クラスも違う学校のどっかでイジメがあろうがなかろうが、知ったこっちゃないですよ。それよりも今度の期末試験やべーよとか、◯◯ちゃんに告ったらどーのとか、部活で今度の新入生がすごくてレギュラーがヤバいとか、両親がいよいよ険悪なムードであんまり家に帰りたくないとか、それが"リアル"でしょう。でもそういうところってまず絶対メディアでは語られないし、学校の記者会見でも言うわけがない。
発掘されるべきビジネス資源
ということで、ミッシング・リングなような「中間部分」を学ぶため、僕らが大昔にやってた異業種交流では、著名人を講師にお招きして〜なんてことはやらずに、メンバー間で講師持ち回りでやってました。「じゃ、次回は◯◯さん、2時間あげるからなんか喋って」と振ってるだけ。でもそれが滅茶苦茶面白いのですよ。インタラクティブにその場でガンガン突っ込んで質問できるし、「ここだけの話ですけど」ってネタ(とてもじゃないけど公開できない話)なんかも山ほど聞ける。下手なビジネス本や業界本を数冊読むよりは、その業界にいる人のナマの話を聴くだけでかなり学べる。なんといっても歪曲度が少ない「ニュアンスがかなり正確にわかる」というのが強い。それが積み重なると世界観の精度があがってくる。実際にそれが本業をやる際に役に立ったり、今でもいろいろな人とランダムに会うから役に立ってます。へたな大学通うよりは意味あった。単位も資格もないけど、面白い雑学になったし、具体的に役に立つ実学になった。学費100万以上浮いてますよね。その当時からも皆で言ってましたけど、本人は平々凡々たるサラリーマンで、お話するようなことはないですよって言うんだけど、それは大きな間違いでしょう。あまりにも日常になってしまってるから盲点になってるだけで、まがりなりにも人間一人が生きてきたその”人生資産”みたいなものは、大きなビジネス資源になりうる。要は引き出し方であり、値付の仕方である。それが一人ひとりにあるとすらなら、それはもう莫大な眠れる資産ではないか、なんとか活性化させられないか。
ただし、今までの方法論ではそれは商品にならない。そのへんのサラリーマン連れてきて講演させたり、本書かせたりしただけでは売れっこない。内容は面白いし役に立つのに。特殊な経験をした特殊な人の話なんか、自分の日常とかけ離れすぎていてあんまり役に立たない。非日常の話の非日常性を楽しみたかったら、別に小説でもフィクションでもいいわけです。一番役に立つのは、自分とほとんど同じような能力、同じような立場にある人でちょっとばかり自分とやり方が違うって部分です。それは今日にでも学べるし、パクれるから即効性があるし、ヒントにもなる。本当に役に立つ話を聞きたかったら、自分と同じような無名な人に聞いたほうが良いとも言える。
しかしそれは商品価値がないとされるので、売ってない。なぜ売れないのか?といえば、それはそのもの自体の価値ではなく、売る側の問題、つまり出版社とかメディアの産業構造の問題だろうと。大きなシステムで売るから損益分岐点が高くなって、一定数以上の訴求力や購買喚起力がなかったら商売として成り立たないからです。一方、あなたにとって一番役に立つ情報は、限りなくあなたに近くてちょっと違うくらいがいい、極論すれば自分以外の誰の役にも立たないってくらいの情報が一番良い。でもそれだと購買者が少数に限定されてしまうから、とてもじゃないけどビジネスにならない。
ということは既存のビジネスモデルや産業構造だと、本来もっている価値を十全に引き出せていないってことじゃないのか?です。ゆえに眠れる資源が熟睡したままなのではないか?ふむ?とか思うわけですね。そしてそれぞれの既存の産業構造そのものがしょぼくなって、皆リストラに怯えたり、不安になったり。うーん、おかしくないか。
「秋の行楽シーズン。日本晴れの今日、全国各地の行楽地では〜」ってTVニュースの背景に流れてそうな一枚。もちろん”日本”晴れではありません。オーストラリア晴れです。でも、国なんかどーでもいいよね。綺麗なもんは綺麗なんだから、ほんでええやん。
リソース発掘の可能性
そこで掲示板です。って、なんでそれが?というと、まず個々人のリソースの開発ですね。「あなたの話は面白いよ、役に立つよ」ということ。でもそれだけだったら既存の掲示板だって同じことであり、屋上屋を架する必要もない。今回トライしようと思ったのは、主として2点。(1)リソースの発掘と(2)生産手段の奪回です。
コミュニケーションの不純物
まず(1)リソース資源の開拓です。掲示板とか一般世間コミュニケーションにおいては「不純」要素が入ると思います。つまり「心にもないことを言う」という点です。内心ムカッときたり、違うなと思っても、「そうですよね〜」とか相槌打ったり、適当に表面上の円満さを重視するって部分です。
それを悪いとは言う気はないです。
そういう要素がまるで無く、常に本音ばっかだったらこの世は怒号渦巻く殺伐としたものになるかしらん。本音のケバだった部分をトリムして、適当にまるめて、円滑に進めていくことが、いわゆる社交性でありソーシャルと言われるものです。皆が悲嘆に暮れている葬儀会場では「このたびはご愁傷様で、、」とか言うのがお約束で、まかり間違っても、「け!ざまあみやがれ」とは言ってはいけない。いくら本音でそう思っていても、です。ただ、その社交性も行き過ぎると、接待ゴルフの「ナイッショ!」幇間的なものになったり、奥様ファミレスのレジの前で「ここは私が」「なにをおっしゃいますやら、ここは私が!」「いえいえいえ、とんでもない!」的な勘定書きの奪い合いやら。
掲示板でもそういう部分出てくるのですよね。「まあ、こう言っておけば間違いないだろう」的な世間的な模範答案を書くという。さもなくば「馬鹿か、てめえ」ネット弁慶の2ちゃん的な罵倒の応酬になったり。僕はそういうの大っ嫌いでして、生理的に不愉快でもあるし、それ以上に勿体ないと思う。もっと人がもっている貴重なリソースを引き出せないものか?と。
ある程度は出来ます。その場を仕切るメディテイター(調停者、多くは"管理人”と呼ばれる人だが、必ずしもそれに限らず、その場の空気やルールを事実上決定するだけの影響力のある人)の持っていきかたで、かなりの程度豊かになりえます。しかし、この資質がある人はかなり限られており、他のメンツとの相性もあるので作動が不安定であるという欠点もあります。
ということで、差支えがあってあまり人前では言えないこと、でも本当にそう思っていることを言える場を作ろうと。カウンセリングルームの密室のような。本当になんでも話せる親友との喫茶店での会話のような。
試験的に思いついたのは、レスを一切禁止するという完全一方通行方式(でもメールは出来る)、そして有料制にしてハードルを設けることです。
レス禁の意味
レス禁は、これは諸刃の剣でレスがないから張り合いがないって欠点はあります。しかし、レスありにした場合の弊害の方が強いと思った。なぜか?というと、その人が期待している「理想のレス」って非常に得難いからです。まず「アホか」的な反論罵倒系のレスはとりあえずムカつきます。ましてやまともに読まずに曲解でもされてたら、「このド阿呆が、ブチ殺したろか!」くらいに腹が立ちます。次に、微妙な言い回しを深読みしすぎて疲れる。「まあ、そういう方もいらっしゃるようですね」とどっかに書かれていると「自分のことだ」と思ってしまう自意識過剰、「そういう方」ってなんやねん?「あまり深く物事を考えないで思慮浅薄な人」って意味かい?とか思ってしまう被害者意識、もうこのあたりで疲れる人はほんと疲れる。さらに同意されたり、褒められたりしたとしても、ポイントがズレてたり、褒めの程度が違ってたりしたら、また気持ち悪い。「ああ、なるほど、さすがですね」とサラッと言って欲しい、その程度に気持よくなりたいってスケベ根性があるわけですけど、これが「これは世紀の大発見ですよ!」「まさに名言至言!やはり人生の達人は言うことが違います」とまで激賞されたら、皮肉で言ってるんか?って気にもなる。
要するに難しいんですよ、言葉だけでコミュニケーションするというのは。対面してたら表情とかオーラとかで誤解も少ないのですけど、文字だけだと「解釈」が入る余地があり、この解釈が又またその時の気分で意味が変わってくる。遠距離恋愛メール期間が長い人は経験あると思いますが、文字だけだとかなりズレてきます。「好きにすればいいんじゃない?」って「自由にやったらいいと思うよ、応援するよ」って好意的な意味で書いてくれていたとしても、「勝手にしやがれ」「つきあい切れんわ」的な突き放し文面に読めてしまったりもして、夜眠れなかったりする。くそ、今度会ったらガツンと言ってやる、もうこいつとは別れる!とか、ココロはささくれながらも悲壮に盛り上がったりする。でも空港や新幹線のホームで待ってて、あと5分、1分となるにつれ気分がドラスティックに変わっていき、ドアが開いて恋人の顔が見えた瞬間、そんな気持はぱーっと雲散霧消し、「やあ、疲れた?」「おなか空いてる?」とかにこやかになっているという。やっぱライブはすごいよ。活字情報よりも情報量1000倍ありますよ。
だからレスを綺麗にやってラリーを続けていくのは、ある意味では途方もない文章力が必要です。レトリックにも長けてないとダメでしょう。二重否定や反実仮想用法とかさ、それなりのワザはあるわけですよ。自分の言い分を過不足なく伝えて、二義を許さないほど明瞭で、辛辣な部分ももちろん含むんだけど、でも読んでて感情のケバ立ちを最小限に抑えるような表現方法というのは確かにあります。あるけど難しい。
そのあたりで疲れてくると、今度はレスに怯えるというか、過剰に意識しすぎてしまう。本音をズバリと言えなくなったり、どっかしらウケ狙いに走ったり、話を盛ってみたり、エンターティメント性を意識するようになる。でもねー、素人がエンタメやっても、芸がないから辛いんですよね。結局、当たり障りのない、毒にも薬にもならない、つまりは本来の価値を減少させる方向に働く場合が多い。ねえ、本当にそう思ってんの?ってな感じの。
だったらいっそのことレス禁にしようと。何を書こうが絶対にレスがないんだから、虚しい反面、楽ではあるわけです。気を使わなくても、阿(おもね)らなくても良い。その分のエネルギーを、はて、私は本当はどう思っているのかしら?って、自己省察に費やせるから、書き手にとっても意味のある時間になる。その結果出て来た文章というのは、非常に純度の高いものになるので読んでいても面白いです。
それにレスがないから虚しいかというと、意外とそうでもない。それはもう、こんなエッセイ700回以上書いてる僕が保証しますよ。別にレスつかないもん(つける場所もないが)。メールを頂いたら嬉しいですけど、それはメインには期待しない。なぜなら、レスをもらう喜びよりも、自分の考えをまとめて、表現する喜びの方がはるかに強いからです。
さらにこれは補助的理由ですけど「掲示板」って本来レスなしですよ。3Dの本物の掲示板(駅前とか公民館とかにある)は、自分のチラシをぺっと貼っておくだけでしょ?「掲示」する「板」ですよね。宗教改革の祖になったルターが、「そんなの聖書に書いてあるの?」と教会の掲示板に貼ったようなものです(で、ぐわっと一気に全欧にローマ教会批判が広がり、プロテスタントの一大ムーブメントがまき起り、ルター君はあたかも”放火犯”のようになってしまったという)。
ここでは、どういうスタイルにすると、その人がもってる本来のリソースを純度高く発掘できるか?という試みです。
あと有料にするのは、金払ってまで愉快犯的にやる人って確率的にかなり少ないと思うからです。ネットのいわゆる「困ったちゃん」除去システムです。仮にそういうのが出てきたとしても、本気で迎撃するなら、IPアドレスのほか、金融機関の振込記録その他から弁護士法23条照会やら、裁判所に証拠保全命令を申し立てたりして人物特定ができ、打つ手はあります。ま、氏名不詳でもできるんだけど。ある程度特定出来たら、業務妨害罪で刑事告訴したり、支払命令申し立てて債務名義とって勤務先の給料債権差し押さえたり、生命保険の解約返戻金を差し押さえたり反撃方法はいくらでもある。そのあたりは元プロだから知ってるし、あくびがでるようなルーチンワークでもある。ただ、これは昔の経験ですけど、そこまで出来るとなると無言の威圧オーラが出るのか、その種の小悪党は入ってこないです。なんか雰囲気的にわかるんだろうな、小動物特有のカンが働くのかもしれないけど。
やってみたら
先週からやってみた感想でいえば、「ほう、こうなるのか」とちょっと感動、とまでいったら大げさかな、でも感心しました。有料参加していただいた奇特な方々もおられて、自分の部屋をスレ立てして書いておられるのですが、「盛り上がってるか?」といえば、全然盛り上がってないです。でも、盛り上がってはいけないって感じね。
むしろ「静謐」な感じ。考えてみれはレス禁で、自己省察して書かれているわけですから、禅寺で座禅を組んでる者同士というか、写経をしている人同士というか、図書館の閲覧室のような森閑とした静寂があります。これが気持ちいいです。「真剣な他者」しかいない、絶対に茶化されない、人目を気にしないで良いという環境って、やっぱ気持ちいいよねって思いました。
僕もちょこちょこ書きますが、やっぱちょっと書く内容とか角度が変わります。にこやかな座談ではなく、やや真剣な面持ちで、自分を省みる部分が出てきます。このエッセイとは違う。ここは、やっぱ楽しませなきゃってサービス精神も微妙に出てきたりするんですけど、あそこではそういうサービス度はなくなりますから。その分、深度が増します。これはちょっと自分にとって発見でした。
自分で作って自分で感心してたら世話ないんだけど、やっぱやってみないとわからんもんやな〜と。
ときに、問わず語りの自分語りをするだけだったら自分でブログ作ればいいじゃんって思う人もいるかもしれません。でも、それは違うと思います。なぜって、第一にそんなに簡単にブログとかやれない。やってる人にとってみたら簡単なことだろうけど、やれば誰でも出来る容易さと、実際にやるということとは違う。自分でスレ立てて書けばいいのはやっぱ楽。
第二に、自分一人でブログであれこれ書いてても、なんか絶海の孤島で演説してるみたいな虚しさもあるのですよ。アクセス上げたくなってしまうし、あれこれ企画して楽しんでもらおうとか、どんどん経営者みたいな発想になっていく部分もある。第三に、一人で自分語りをしてるんだけど、隣ではまた他の人がやってたりして、広い意味で「仲間」がいるのといないのとではやっぱり違うと思います。大きな図書館で他にもポツポツ人がいるのと、ガラーンとした中でひとりぼっちで本を読んでいるのとでは違う。これはガラーンとした食堂でひとりぼっちでご飯食べてる場合も同じで、「適当に他人がいてくれた方が却って落ち着く」って場合もあるのですよね。だから個人ブログと同列には論じられないと思います。
生産手段の奪回
これがまた笑っちゃうような遠大な話なんですけど。いわゆるマル経(マルクス経済学)を知ってる人ならお馴染みの「所有と労働の分離」「労働の疎外」という文脈の話で、生産手段とは、今の世の中で言えば、「お金儲けのシステム」です。
給与所得者とか労働者というのは、どっかのエライさん(資本家、会社の社長orオーナー)が作り上げた金儲けマシンの補助者です。ありていにいえば歯車です。労働者が頑張って100万円分の生産をしても、給料は20万円だけで、差額80万円は社長の儲けで、いわば搾取されていると。ま、設備投資費用や経営費用もあるからまんまそんな数字になるわけないけど、人を雇ったほうが儲かるからこそ人を雇うわけで、その「儲け」の部分は、本来の労働価値から奪われている。
なんでそうなるの?といえば生産手段を奪われているからです。大地主と小作人みたいなもので、小作人は耕作する土地も持ってないし、収穫物を有利に売却するノウハウもルートも持ってない。だから時給なんぼ的に雇われて、雀の涙の給与で満足する以外に生きていく手段がないって構造がそもそも問題だと。だから社会主義だ、革命だって話になるんだけど、仮に革命に成功したところで、今度は党内貴族や有力者が資本家の地位を横滑りでゲットするから、あんま変わらないよね、ガッカリだよねというのが20世紀後半のお勉強でした。
でも共産主義がどうとかいう話とは別に、生産手段を持ってる奴が有利って構図そのものは変わらないです。
もっとも搾取だ不公平だとがなり立てる気は無いです。そういうケースもあるけど、そうじゃないケースもある。人を雇って損してる場合も実際には多々あります(いわゆる月給泥棒ね)。ここで言いたいのは、正義/不正義の問題ではなく、構造的な力関係と、生産手段を持たないことによる不安定性です。
ここが不安定だからこそ、職がない=どっかの会社で雇用されない=お金が入らない=どかーん!という構図になる。リストラに怯える。再就職に不安になる。でも、自前で生産手段を持っていたら、まだ選択肢はある。例えば、大道芸で日銭を稼げる人は、会社クビになってもストリートでなんかやってたらお金は得られる。大した額ではないけど、生産手段は持っている。
冒頭の話につながるのだけど、システムへの信頼性が揺らいでいる昨今から未来にかけて、いかに自前の生産手段をもつかが大事だろうと。起業なんかもその一つだけど、あくまでワンノブゼム。従来の商業システムに参加して金銭をゲットすることが起業だとするなら、何もそれに尽きるものではないだろう。バーターだろうが、貨幣がらみだろうが、生活に必要な物資と、幸福に必要な時空間の構成要素をゲットできたらそれでよい。それをもって生産手段というのだろう。
ネットにおける生産手段
さて、ネットでお金を稼ぐとか、生計物資をゲットするとかいうと、従来の方法は限られています。例えばアフィリエイトとか、例えばライターさん募集的なやつとか、広告収入であるとか、そういうシステムはあります。でも、これらって結局は鵜飼の鵜であり、大きな生産手段は向こうに握られている。給料が歩合給や出来高払いになっただけの話で、大本は抑えられているので、結局はピンはねされているだろうし、言うなりになるしかない。まあ、それでも儲かるんだからいいと思う人はガンガン利用すればいいでしょう。あと個人レベルでやるとしたら、有名人がメルマガを有料で発信したり、エッチなサイトで自分のナイスバディを有料で開示したりって方法があります。スカイプでカウンセリング、英語のレッスンその他もあります。皆さん頑張ってます。
もっと他にないかです。なんかそういうありきたりなパターンじゃなくて、せっかくここに価値ある素材(人間、僕ら)があるんだから、なんとかならんもんかな〜というのが、掲示板有料制度です。
普通の人が普通に思ってることでお金にコンバートするシステムってあるんじゃないの?それを資本のある奴が枠組みつくってやるのではなく、その仕組すらも自分らで作れるようなやり方ってあるんじゃないかな〜ってことです、僕がやりたいのは。
先週あたりからやってるのは、セルフカウンセリングみたいな掲示板部屋と、被曝回避の人のための掲示板の二つですけど、これ増やせるんじゃないか。
増やすというのは、誰でも人に語れる何かをもってると思うのですよ。九州の温泉には詳しいですよとか、◯◯に留学するなら経験あるので教えられますよとか、人生相談やりますよとか、家を建てるなら相談に乗りますよとか、トランプの手品で簡単に出来てびっくりさせるのを教えますよ、超カジュアル民宿やりますよ、月イチでパーティやってます、、、、なんでも。
2つの難点
しかし、いきなり有料サイトを作っても、誰も来ないと思うのですよ。その原因は、
(1)誰も知らない(個人サイトをひっそり立ち上げてもなかなか認知されない)、
(2)お金を払うというハードル
二点だと思います。
それを解消するためにはどうするか。
まず知名度ですけど、このAPLACは月間PVが6万強くらいはあります(Googleによれば。でも全ページgoogleカウントつけてるわけではないのでようわからん。ちなみにサーバーの統計をみると先月は月間hitsが80万、visitが5.8万、表示ページ数16万強らしい。でもその意味するところが良くわからないという(笑)。しかしいずれにしても)、まあしょぼいんですけど、個人サイトがいきなり始めたら月間3000いくかどうかでしょう。僕だって始めた当初は一日10アクセス(ほとんど自分だけ)状態でしたからね〜。だからここを入り口にしたらある程度の集客は見込める。まあ、ほんと「ある程度」ですよ。ないよりはマシってくらい。これも後で皆で力を合わせていったら多くすることは可能でしょう。これが一つ。
第二に、抱合せ販売です。今やってるレベル2ホライズンサイトと被曝回避サイトは相互乗り入れしています。一応試験的に月額1000円でやってるけど、1000円払ったらこの2つにサイトにアクセスできる。ホライズンには興味ないけど被曝回避に興味あるって人もいるかもしれない。これを5個も10個も増やしていき、相互乗り入れ可能にしていったら興味のあう人が出てくるかもしれないです。
もっとも、僕一人でそんなに出来ないから、誰かに「やってみない?」でやってもらいます。てかこの「やってもらう」というところが大事。「生産手段の奪回」です。コンセプトから立ち上げまで相談に乗ります。掲示板なんか自分で作れますよ。レンタルサーバー借りて、無料の掲示板cgiダウンロードして、ちょっちょっと手を入れてUPすればいいんだし。そういうやり方も覚えたらいいです。「補完」のためにはね。
次に増やすのはいいんだけど、そうなると1000円の取り分はどうなるんだという内ゲバが起きます。今のレベルだったら争いすら起きない平和なレベルなんだけど(わははって笑ってる場合か。早く内ゲバしたいな〜)。一人でやるんだったら千円自分のものになるけど、10人でやってたら100円になって涙もちょちょ切れる。でも、1000円で10サイトのうち3つまで選べます、毎月変えられますってやれば3等分に出来る。
あと、別に掲示板である必要もないのですね。それこそスカイプやLINEで相談とかいうのも出来るでしょう。なんでもいいんです。ただ、複数の人間が同時に関与できて、且つ相互に対等でもあり、ある程度独立性がある場としては、掲示板がいいかな〜と思った次第です。
儲けよりも主張と提案
でも、これ「儲ける」っていっても、象徴的なことでしかないです。今持ってる自分をサムシングな資源を考える、発掘する、形にする、お金にするという一連の営みが大事。どっかの誰かがやった鵜飼システムに乗るのではなく、自分でやってみるという。それが出来ないと結局損ですし、安定性にも欠ける(ある日突然契約打ち切りを通告されてもどうしようもない)。
僕がやりたいのは「提案」であり、「主張」です。
生産手段を奪回しよ〜と。システムは利用するものであって、システムに生殺与奪の権を握られてはヤバいぞと。既存のビジネスパターンではない自分だけの生産手段を開発する。ここが弱いと、起業だなんだとかいっても、結局は強くて&大きくて&賢いところにカモられて終わりってなりがちだから(フランチャイズとかマルチとか)。てめーの食い扶持はてめーの才覚で稼ぐ、それが原点だろうと。
だから、このシステムはパクってもらって構いません。むしろ広めて欲しいくらいで。要は一般人が、自分のリソースで、騙しもケレン味もない透明なシステムで、ちゃんとお金になるという流れを作りたい。まあここで何をしようが「流れ」にはならないかもしれないけど、一石は投じたいなと。
と同時に、仲間は出来ると思います。お金のだけのつながりではないので。そっち方が大きいかな。それが太くなってきたら、好意の融通と交換みたいな幹線道路が太くなってきたら、そもそもそんなにお金なんかいらないかもってなるのがいいです。長期的な未来を考えると、貨幣ってちょっとヤバそうなんで。
もともと「出会い系」みたいな話だったんですけど、20-30人規模になってきたら、結構な確率で”出会う”と思いますよ。経験的にいえば、昔の異業種交流(という名の面白いことやりたがりの集まり)で結婚したカップルって枚挙に暇がない。結局のところ僕自身そうですしね。本音で付き合える場、あるいは自分の”偽装成分”の少ない場で知り合った人同士というのは、フランクに仲良くなれますから。小学校のときの友達みたいに。
文責:田村