★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
721 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次

今週の一枚(2015/05/04)



Essay 721:Off-Grid〜オルタナ・ライフの進展状況

 場所はKirribilliのフェリー乗り場。
 「おや、こんなところに?」と、小さな路地をトコトコ降りて行く、すごくわかりにくいところにあるんだけど、それだけに雰囲気いいですよね。キリビリって昔のしっかりした建物があって、歩いていても楽しいし(首相官邸(別邸)もあるくらいだし)。

 で、飛び込み台みたいなフェリー接岸の回廊を抜けると、ドーンと海が広がって見えるという(小さな写真二枚)。気持いい〜。やあ、これで通勤通学するんだもんね。仮に仕事がクソでも、それだけでも楽しそうだわ。

幸せの条件整備システム

 過去に何度も書いてますが、世界レベルで静かに進行しているのが、19世紀型の国家&経済システムから距離をおいて、自立自走できるような自分達のコミュニティを創っていこうという流れだと思います。

 これには色々な表現の仕方があります。「地域コミュニティの活性化」という現在のシステムからそれほどかけ離れていない表現もあるし、「独立国を建設」するんだって表現もあるし、「自給自足村」という言い方もあろうし、「田舎暮らし」「スローライフ」って表現もあるでしょう。英語で似たような概念を探せば、「Self-sufficiency」であったり、「Self-sustainability」「Off grid」「Alternative food systems」、あるいはサバイバリズム(Survivalism)なんてのもそうかもしれません。

 僕なんかは「(強烈な中央集権システム→)ゆるやかな部族社会化の流れ」って感じに思ってますけど。まあ、色々な表現があるし、色々な表現によって色々な誤解や早とちりもあるのでしょうが、大まかに言ってしまえば同じ流れだと思います。

 なんでそうなるの?ですけど、A時代→B時代に移行する一般パターンと変わらないと思います。A時代のシステムが、だんだん時代遅れになっていく反面、B時代を成立させるための諸条件が徐々に整っていったから、でしょう。

 ところで時代性とか関係なく、人類の共通課題はいつだって同じことだと思います。

 楽しく幸せに生きていくこと

 でしょう。
 まあ何が「幸せ」なのか?を言い出したら百家争鳴になるんだけどそこはさておき、一般に幸せと言われる条件を整備するための物心両面にわたるシステムがあります。防寒のための建造物やら衣服の製造技術、実行、知識の伝授システムやら、食糧獲得のための農業システムやら、それらを統一的効率的に行うための集団システムやら(社会や国家)。

 そしてそのシステムは、その時々の自然環境やら、地政学的な特徴やら、科学技術の進展度によって変化していきます。「こーなったら→あーなる」ということで千変万化しますが、中核となる原理は「条件整備」であり、シンプルなものだと思います。

今どのへんにいるのか?

 で、今どのへんに居るのか?といえば、産業革命×資本主義やら、植民地主義や軍事国家主義あたりの18世紀あたりの残滓をまだ引きずっているんだけど、既に賞味期限が切れつつある頃でしょう。てか賞味期限はとっくに切れているんだけど、そのことに段々と皆が気付き始めている段階って感じでしょうか。かつては素晴らしいと思われていた中央集権の国家システムとか、大量生産・大量販売とか、強い=幸せ、図体デカい=幸せだった古き良き(悪き)システムが、徐々に「しょーもな」と思われ始めてきていると。

 発生当時から第二次大戦まで、あるいはキューバ危機や1970年代くらいまでは、まだそのシステムが成立する合理性があったんだけど、それ以降は惰性でやっているという感じだと僕は思います。なんでまだ惰性でやってるの?といえば、一つには次のシステムが思いつかない&成立条件が整ってないこと、もう一つは既存システムで甘い蜜を吸っている既得権層が手放さないからでしょう。なんか毎度同じこと書いてて恐縮なんだけど、過去回を全部読んで全部完璧に覚えている人なんかいないと思うので。

 でも段々と次の時代の諸条件が整いつつあるんじゃないか。人間一人が幸せに一生を終えるには、それほど大掛かりなシステム(国家とか)は別に要らないんじゃないの?実はもっと簡単で、お手軽にできちゃうんじゃないの?って少しづつ皆が気付き始めてきた、そして気づくだけではなくどんどん実行に移しているんじゃないかって話です。

中核となるエネルギー

 人が一生レベルで幸せに生きていくための諸条件は、突き詰めていけば、
 (1)衣食住の第一次条件(エネルギー、食料、その他生存に必要な諸条件)
 (2)人間関係の第二次条件(パートナー、家族、社会、政治)
 だと思います。

 他にも治安・軍事やら、医療システムやら、あるいは個人レベルでは「自分らしい自分であること」というパーソナルなテーマがあったりしますが、それらは上の(1)(2)に解消されていくといくと思います。治安も医療も「生存にかかわる諸条件」という項目に整理されるだろうし、自己実現欲求などは、これらの(1)(2)をキチンとやっていくなかで解消されてしまうと思うからです。

 さて、この中で一番核になるのはなにか?といえば、おそらくはエネルギーだと思います。人類の歴史=エネルギーの歴史と言ってもいいくらいで、森林破壊&製鉄という長い時代のあと、石炭という化石燃料が実用化されて産業革命をサポートし、さらに石油という化石燃料になっていった。20世紀の世界大戦は、要するに化石燃料の争奪戦だったと言ってもいいくらい。

 「エネルギー」ってなんなの?っていえば、今の人類が使いこなせているのは、熱と電気くらいでしょう。
あ、ここで物理学上の詳細な定義や使用法はまるっぽ無視します。だって分かんないんだも〜ん。痴呆的な言い方ですまんが、調べていくと、「力」というのは要するに相互作用であり、場の理論であり、素粒子論の4つの力(強い力、弱い力、電磁力、重力)で、グルーオンで、ゲージ粒子とボース粒子が出てきて、、、このあたりで刀折れ矢尽きて討ち死にしました。あまりにも爽やかに分からんぞ。ちくしょー、物理学、すげーな。覚えてろよ、いつか理解してやっからな。

 で、痴呆的に大雑把に言うと〜  
このあたり全然メゲないで、臆面もなくグイグイ進んでいけるところが年の功ね。「恥ずかしい?いやあ、恥をかくのは僕の日課みたいなもんですから。人生の主食ですよ主食」って。いつまでも思春期性プライドやら、中二病的虚栄やら、そのへんの「心のオムツ」みたいなものはつけてないし。そもそも恥ずかしいとも思わん。本当に恥ずかしいのは、困ってる人を助けないこと、見て見ぬふりをすること、義を見てせざること)


 え〜、で!エネルギーっつても、最初は焚き火くらいの可愛いレベルで、暖をとったり調理に使ったり、工業利用といっても陶器の製作くらいかな。その頃だったら、「おじいさんは山に柴刈りに」という些細なマンパワーで事が足りた。別にそんな巨大なシステムはいらんかった。それがヒッタイト人あたりから「製鉄」というテクノロジーが出現するわけで、その過程で膨大な火力がいると。ここで焚き木が木炭になるくらいの技術革新はあるけどその程度。そしてこれだって「熱」であることに変わりはない。産業革命の蒸気機関だって、煎じ詰めれば熱ですよね。木炭や石炭の熱でお湯を沸かして蒸気を吹き上げさせて、その力で〜という。石油だってそうです。つまりは「熱力学」の世界。熱エネルギー→動力エネルギーだと。

 それが電気の実用化によって、発電という工程が加わった。熱→動力→電気という。原子力だって夢の新エネルギーとかいいながらも、メインに実用化されているのは発電で、やってることは「お湯を沸かす」だけのことでしょう。原子力という直接的な動力エネルギーがあるわけではない。電子力潜水艦だって原子炉の熱でお湯を沸かしてタービン廻していることに変わりはない。原子力が直接的に使われるのは、まあ、原爆くらいじゃないですかね?詳しくないからよう知らんけど。

 現代に近づくほどにエネルギー需要はうなぎ登りに増えます。
 おじいさんが山に柴刈りに行ってるくらいじゃ到底追いつかなくて、巨大な火力発電所、巨大なダムによる水力発電所、そして原発。もうこうなってきたら一人や二人の力では無理だから、膨大な人間が必要だし、それを統治するシステムもいる。

 ほんでも、なんでそんなにエネルギーが要るの?といえば、資本主義初期の大工場の稼働に必要で、もうひとつは軍事でしょう。自分でせっせと作るくらいなら隣に行ってぶん取ってくればいいじゃんという「泥棒の論理」で始まった植民地獲得競争では、要するに喧嘩の強弱で話が決まるから、ビスマルクの「鉄は国家なり」的に膨大なエネルギーがいると。そうなると皆で固まって大きな国になった方が得だということで、「大=幸せ」という図体神話が定着していく。で、巨大な国家を運営するためには全国に鉄道網を敷いて〜、インフラ設備も整えて〜、膨大な官庁をこしらえて〜って大が大を呼ぶことになる。巨大な発電所を作るためには巨大な建設機械が必要で、その建設機械を製造するためには巨大な工場が必要で、その工場を稼働するためには莫大な電力が必要で、その電力を供給するために巨大な発電所が必要で(以下冒頭に戻る)。ということで、だんだん何のために何やってるのかわからんようになってきている。

軍事=エネルギー利権ビジネス

 植民地と軍事力だってとっくの昔に袋小路に突き当たっています。
 植民地獲得競争第一期生のスペイン・ポルトガルは、南米大陸を襲って略奪の限りを尽くしたけど、でもそれだけ。この種の暴力的略奪経済ってサステナブルじゃないから、一回征服して奪い尽くしたらそれで終わり。ヤンキーの抗争と変わらん。その次に、魅惑の東洋のスパイスを運んで売りましょう、さらに東インド会社あたりでインド綿花で綿製品を作って本国に売りましょうって経済に結びつく。ヤンキーから暴力団に昇格して暴力ビジネスになる。しかし、それも時代の変遷があって、植民地経営である東インド会社も、次第に原材料(綿)だけ本国イギリスに送って、本国で製造したものを逆輸入するというトホホな立場に追い込まれて破綻。この種の素材供給=アメリカ南部の黒人奴隷と綿花とか、南米のコーヒープランテーションとか、オーストラリアの羊毛とか、そのあたりの素材業界というのは、製造技術や海運の進展によって徐々に価格低落でジリ貧になるんですよね。付加価値がほとんどないから、経済的にも弱い。そこで素材調達ではなく、エネルギー源獲得、油田獲得って話になっていって、もう「植民地」というよりも、エネルギー資源の利権化になっていきます。中東油田の発見によって、第一世界大戦では中東エリアを仕切っていたオスマントルコを潰して〜って、以後延々やっている。

 まあ、ここ100年ばかりの軍事話ってのは、要するにエネルギー利権ビジネスの一環としてやってるだけのことだと思います。今どき他国を侵略しても見返りは薄い。抑圧すれば反抗されるし、かといって皆殺しにしたら自分らしか残らないから(自分らが働くしかないから)大した得にならない。生かさず殺さずの奴隷支配が出来たらいいんだけど、これが難しくて、ライバル国の撹乱もあったりしてうまくいかない。自嘲気味に言ってしまえば、この奴隷収奪システムがうまく機能しているのは日本くらいじゃないですかね。肉体的暴力ではなくソーシャル・ヴァイオレンスともいうべき社会的暴力(白眼視や村八分)を使って支配するというソフィスティケートされた(?)方法論を使ってるところがミソですよね。んでも、他の地球人は一応舐められたら怒るし、とりあえず暴動くらいは起こすからこの手は使えない。大航海時代からの植民地支配した西欧列強ですけど、トータルで考えたら(旧植民地からの移民の流入なんかも含めて)、赤字だそうですもんね。

 つまり暴力だけでは生産性はなく、ビジネスに結びつかないと意味がない。しかしビジネスが高度に洗練されていけば、もう軍事力なんかグリコのおまけみたいになっていく。大金かけて大兵団つくって他国を侵略して、膨大な人員を投下して支配システム構築して、奴隷に生産させるくらいなら、今の時代、普通に買った方が安いですもんね。つまり軍事支配するよりも経済支配した方が早い、さらに経済でも金融支配(IMFの借金縛りにして言うこときかせるとか)の方が効率がいい。しかし、それすらもギリシャみたいにバンザイグリコされたら貸し倒れ〜、ロシアや中国が支援してトンビに油揚げ〜って。BRICS銀行やらAIIBが出現してきている時点で、基本、もう終わりっしょ。

 長々書きましたけど、要するに核となるのはエネルギーです。でも、エネルギーのためのエネルギーみたいなお馬鹿な循環部分を除去して考えてみたら、人間一人の身長体重やら、摂取カロリーなんか昔とそう大差ないわけで、おじいさんが山に柴刈りにいってる程度で実は間に合うんじゃないか?多少テクノロジーの進歩があったとしても、簡単な発電→蓄電で、電動柴刈りマシンや、薪運搬車があったらそれでええんちゃう?ってことです。そんなダム作ったり、原発作ったり、そこまで膨大なエネルギー需要って本当にあるのか?です。

具体例あれこれ

 あるのか?って抽象的に問いかけているだけでは話は先に進まないので、実例をみましょう。
 前々から興味はあったのですけど、そろそろ少しづつ丁寧に現状をみていってもいいかなって思って。

 、、、と思っていろいろと読み始めたら、これがあるわあるわ、むちゃくちゃ膨大にあって、「へえ、ここまできてるのか」と改めて思いました。ランダムにぶち当たったものを順不同で紹介すると、

るいネット

 いま、社会の基底部で何が起きているのか−6 この行き詰った社会をどう再生するかは、これからは共同体の時代というサイトの中の論稿で、「私権から共認へ」という時代認識が語られていますが、なるほどこういう視点もあるのかと。

 このサイト、ちょっと面白くて「るいネット」のページにいくと、結構気合の入った投稿が目白押しで、ちょい学術的でもある意見サイトのように見えます。が、もとをたどっていくと株式会社類設計室という1972年設立の私企業なんですね。社員数520人、年商90億で、教育、農園、建設、地所、そして共同化コンサルやらの啓蒙活動の一環としてこの種の論稿サイトもやっているという。

 このるいネットだけでも膨大なコンテンツですし、このこれからは共同体の時代というブログにもこれまた沢山のケーススタディがあげられており、これ全部読むだけでも数週間はかかりそうです。

岩手県葛巻町、北海道下川町

 そこをランダムに読んでいくと、岩手県の葛巻町(エネルギー立国)の事例が紹介されてます。僕は不勉強で知りませんでしたが、実は有名な自治体で、エネルギー自給率160%の町、その新たなる挑戦などメディアでも取り上げられています。

 北海道の下川町は、かつて典型的な過疎の村でした。1.5万人の人口が、時代の変化やJR赤字路線の廃止(名寄線)などによって三千人台になっていたという。ところが、森林資源を最大限に活用する「森林総合産業の創造」、木質バイオマス(木材からなる再生可能なエネルギー源)「エネルギーの完全自給」「高齢化対応した地域社会」の三本柱で対策を進め、今では海外からも視察団が訪れる有名な村になってるそうです。実際調べてみたら下川町に関連するNPOの多いこと。NPO法人森の生活NPO法人しもかわ森林未来研究所財団法人下川町ふるさと開発振興公社下川町地域おこし協力隊などなど。

高知県檮原町と移住

 あるいは高知県の檮原町(環境モデル都市)は、高知と愛媛の県境、四国山脈のド真ん中という、ほとんど秘境チックなエリアなんですけど、「雲のうえのまち ゆすはら」というお役所とは思えないようなサイトがあります。わずか3657人という人口&立地という客観情報だけからなら、全国に数多くある衰退するだけの過疎の高齢化村だと決めつけがちなんですけど、でも実態はさにあらず。このサイト、見てると楽しいんですけど、例えばマラソン大会やるにしてもネーミングが「龍馬脱藩マラソン」だったりして。また、町議会だよりを見てても18ページでボリュームがあって、内容も通り一遍ではない。だいたい写真にでてくる町役場の車の車体全面に描かれたイラストが面白く、これは絶対プロ(広告代理店とかそのへんの)が絡んでるな〜という感じです。いやそれが悪いわけではなく、そういうセンスや力を持ってる人がかかわっているんだろうと。

 で、多分、都会暮らしに嫌気がさした人とかが移住してるんじゃないかと思ってググってみたら、「ゆすはら暮らふと」があったりして、受け入れ政策も頑張ってます。そこにFAQがあって、移住お試し用の一軒家を町が用意してたり、「「とりあえず引っ越せば何とかなる」とは、なかなかいかないものです」とか、「空き家はありますが、貸してくれる物件は非常に少ないです」とか、むやみに煽り立てるような感じではないのが好感持てます。助成制度もあるし、そもそも「梼原町企画財政課 企画・定住対策係」なんてのがあるくらいだから本腰入れているのでしょうが、それだけに夢見る夢子ちゃんみたいな移住希望者が来たら面倒くさいんだろうな〜ってのもわかります。

ふるさと納税 

 これはまた全然視点が違うんだけど、ふるさと納税というのをやってるらしいですね。こっちにいると全然知らんかったんですけど、「最近、テレビや雑誌で「ふるさと納税」が異様に注目されている」とか書かれているんですけど、本当に異様に注目されてるんですか?

 2008年公布、2011年施行。ちなみに法律でいうと、ふるさと納税法ってのが出来たわけではなく、正確に言えば「「地方税法等の一部を改正する法律」(平成20年法律第21号)という意味不明な法律名です。これだけで241ページあります(原文はココ)。
 その3-8頁目で、「第37条の次に次の1条を加える」、従前の地方税法に「(寄附金税額控除)の項」、第37条の2を挿入」ってしてる部分ね。
(寄附金税額控除)第三十七条の二  都道府県は、所得割の納税義務者が、前年中に次に掲げる寄附金を支出し、当該寄附金の額の合計額(当該合計額が前年の総所得金額、退職所得金額及び山林所得金額の合計額の百分の三十に相当する金額を超える場合には、当該百分の三十に相当する金額)が五千円を超える場合には、その超える金額の百分の四に相当する金額(当該納税義務者が前年中に第一号に掲げる寄附金を支出し、当該寄附金の額の合計額が五千円を超える場合にあつては、当該百分の四に相当する金額に特例控除額を加算した金額。以下この項において「控除額」という。)をその者の第三十五条及び前条の規定を適用した場合の所得割の額から控除するものとする。この場合において、当該控除額が当該所得割の額を超えるときは、当該控除額は、当該所得割の額に相当する金額とする。

 以下延々数ページにわたって続くんだけど(なんか司法試験の短答式試験を思い出した〜いきなり初見で複雑でクソ長い法律を読ませて1−2分で正確に理解できるかどうか試すという意地クソ悪い問題で、殺されても気づかないくらいのハイパー集中力が必要)、このあたりをビシッと解説しているネット文献はみつからなかったっす。まあ法制審議会の議事録とかにあるのかもしれないけど、大体は「すごい複雑」と書かれてますね。実際そうだし。

 で、これが民間レベルで「意訳」されると「すげーお得」で「異様に注目」になってるんでしょう。わはは。一応賛否両方あげておくと【確定申告】ふるさと納税って本当にお得なんです!【2015年版】と、過熱しすぎな「ふるさと納税」のデメリットとは?。でも、読み比べてみると同じこと書いてます。そんな言うほど対立しているわけでもない。「アツくなり過ぎないように気をつけましょうね」ってことで。制度それ自体は、その人の所得水準や納税額にもよりますし、「助けたい」というココロザシ度によっても違うと思うけど、ココロザシがある人ほどお得な制度だと思います。

 この細かな仕組みはどーでもいいんですが(どうせ猫の目のようにコロコロ変わるんだし)、僕が注目するのは、地方活性化というテーマが、皆の利得(税金安くなって〜返ってきて、しかも地元の特産品が貰えてお得!)誘導にともなって興味関心を引くという広報効果です。もう一つは、地方のコミュニティが現金収入が欲しいなって特産品を売りに出すわけで、これで一つの販路が出来て、かつ国が販促キャンペーンをやってくれているって部分です。

 特に言いたいのは、国はもうダメだ、クソだ、独立だあとかいっても、そこはクレバーに使えるものはとことん使う、骨までしゃぶれってことです。新システムだとかいって酔ってないで、旧来のシステムにも徹底的に精通してないとあかんと。それに無闇に国や社会を敵視したらあかんと。この国の中に、そーんなにわかりやすい敵なんぞおらんよ、生まれながらに邪悪な権化のようなマンガチックなやつなんかそうそういないよ。誰だってその立場に立てば似たようなことやるんじゃないの?そんなに彼我の距離は離れてないよということです。

オルタナ・ライフ・インダストリー

 思いつくままにランダムに書きますと、今の時代、脱都会、田舎暮らしという流れが普通にあります。昔っからあるけど、最近はリアリティが違うというか。放射能もあるしね。

 その昔は、70年代のヒッピーコミューンがありーの、強い組織性を持つ宗教系がありーのでした。昭和28年からやっててオーストラリアにも支部があるヤマギシ会とか、古くからの生活をスーパー頑固に守ってるアメリカのアーミッシュとか(もとはスイス)などだったけど、今は個人レベル、あるいは市町村の小さな自治体レベルでリアリティのある方向に進んでいます。てか、もうどんどん結果をだしている。アーミッシュなんかも昔は超変わり者というか、奇人変人村みたいなキワモノ扱いだったけど、最近ではオルタナ系のライフスタイルということで注目も集めているようです。85年のハリソンフォードの映画「Witness」で僕も知ったクチだけど、部族社会化の走りというか、最後尾だったのが時代が一周して最先端になってしまったというか。

 でも、この種のオルタナティブ・ライフスタイル系の流れというのは、インダストリー(産業)レベルに広がると思いますよ。現状システムの単なる落ちこぼれ、社会的なひきこもり、あるいは世捨て人的な見方では割り切れなくなっていく。なぜなら、前半の延々と書いてきたように、現行のシステムの方がむしろ新しい時代からしたら落ちこぼれになってきているからです。

価値観は変わらず、方法論だけが変わる

 これは価値観が大転換したというよりも、価値観はそのまんまで、方法論だけが変わっただけじゃないかな。なぜなら旧体制の勝ち組エリートの中に、こういう流れに敏感に反応する人が多いように思うし。比喩的に言えば、夏になったら海水浴やサーフィンやって、冬になったらスノボやってというのは、「自然と戯れて遊びましょう」って価値観は変わらないけど、エンジョイする方法論を時代(季節)や環境に合わせてアジャスト(調節)しているだけのことだと、それに似てると。

 要は自分が納得できるハッピーライフを送りたいという価値観は寸毫も変わってないわけで、あとはそれを実現するためにはどうしたらいいか、ですよね。で、明治以来の刻苦勉励×立身出世という方法論があったわけだけど、これが先細り。必死になって大企業のサラリーマンになり、他社や他業界では潰しのきかない=転職市場で高値がつきにくく、自営起業するにもスキル資本が蓄積しにくい社内ホワイトカラー事務をやってても、30代後半や40代の一番カネがかかる時期にリストラされたら目も当てられない。つまり労働力(勉強とか)の投資効率やらコスパが悪くなっている。アホらしいじゃんって話でしょう。

 だったら方法論を転換しよう。詰まらん仕事をして多額の収入を得て、それでハッピーライフを構築するといっても、金銭リッチになったら時間プアになるから、プライベートライフをエンジョイ〜!の「エ」の字くらいで終わってしまう。しかも金銭リッチもこの先怪しいぞとなったら、どうしたらいい?苦労→金銭→幸福という2ステップ方式から、苦労→幸福という1ステップの産地直送構造に変えてしまえばいい。金部分をすっ飛ばす。生きていくための諸条件の整備(食糧とか住居とか)には苦労がつきものだけど、その内容を自分が納得できる質重視のものにすることで、本来は辛いはずのいろいろな「仕事」が充実ややりがいにつながり、ダイレクトに幸福感を味わってしまえばいいじゃんってやり方です。だから旧来の2ステップでも仕事にやりがいとか幸福感を得られるなら、それでも全然いいし、別に2ステップを否定はしない。でも1ステップもあるよね〜って広がる感じですね。

 これって価値観=方法論になってない人だけが可能な発想でしょう。何かで身を立てるとか、エリート街道を驀進するのはあくまで「手段」と割り切れる人々。逆に言えば、その手段をクリアし自家薬籠中の物に出来たからこそ、突き放して見ることができるというか。これが、未だ奮戦中ですったもんだやってる段階だったら、方法論と価値観がごっちゃになって、エリートになるのが生きがいとかアイデンティティとかになりがち。価値観と方法論がちゃんと分離して見えてきたら、旧来システムが手段(就職やお金)をゲットするには有用だけど、目的(幸せ)をゲットするには不向きであるとか、そのあたりの査定が出来ると思います。ただし、クリアしてないと、それを言っても負け犬の遠吠え的に見えてしまって、それを誰よりも本人が気にするから、イマイチ吹っ切れない部分もあるでしょう。やっちゃった人は、ふっ切れ易いと。

 逆に言えば、やらなくても吹っ切れたらそれでいいんですよね。ただそこで吹っ切るためには、人生変わるくらいのガビーン体験をこれでもかってくらい積まないとならないので、青年よ荒野を目指せ、ラウンド行けよって話ですよね。でもって、行った先で二回目獲得サラリーマン我慢人生になっちゃうとか、冬の朝の「あと5分寝かせてくれ」的な単なるモラトリアム野郎になっちゃうとか、そこは己の器だわ。どこにいっても天国地獄の分岐点はあるよ。てか毎日が二股交差点〜って、別に代わり映えもしない話、いつの時代に生まれても、地球のどこに生まれても、それはあるよね。ジュラ紀に生まれても多分そうだべ。

 

too busy to work

 これは僕自身似たような経験してるからわかります。僕もオーストラリアに移住してきて、最初の3年くらいは金も稼がず、働きもせず、ひたすら「生活」してましたから。日本の都会暮らしというヒヨワで視野狭窄な自分を広げていく部分で、シドニーでもとにかく「行ったことないサバーブはない!」ってくらい足を運んだり、各民族の独特のサバーブにはいってメシ食ったり。マルタ人が多いと言われるペンデルヒルというマイナーなサバーブまで行きましたもんね。何がなんだかようわからんかったけど、マリア様の像を担いだ人々の行列があって、おおカソリックだ、ニュー・シネマ・パラダイスのLIVEだって思ったもんです。あとは車の修理。タイヤ交換すらしたことなかったのが、オイル交換やって、オイルフィルターを交換して(その為のレンチがあるのも知って)、作業用のレンチセットがインチとセンチの二種類あるのを知らず無駄買いしたり。水道の蛇口の修理でホームセンターに行っちゃ来ちゃを繰り返して、ワッシャーがどうの、テーピングがどうの、Oリングがどうのって覚えて。終いには洗濯機や乾燥機が壊れたら、分解して、動力のベルトを変えたらいいんじゃないかで部品売ってる店を探して行ってみて。で、換えようとしたら指挟んで、しばらくの間うずくまってプルプル震えてて。食べ物でも、和食食材が少なかったから、食材を作るところから始めて、タピオカスターチで吉野葛もどきつくって、湿気ったノリで佃煮作って、フリカケを自分で作って、魚の捌き方から何から試行錯誤して覚えて。英語は生活力に直結するから、新聞一部隅から隅まで、少しでもわからないところがあったら絶対調べる!で一ヶ月かかりでやって、過去にも書いたけどリスニングのためにレンタルDVD映画500枚くらい借りて見て。ニュータウンの古本屋に入り浸って、オーストラリアの法律入門書を買ってきて読んで、、、って。

 かつて"too busy to work"で書いたけど、ほんと「忙しすぎて働いてる閑なんかないよ」って感じ。でもそこでいう「働く」「仕事」は二種類あって、いわゆるお金を稼ぐ仕事よりも、こういった生活するためのあれこれこそが自分にとっては本当の「仕事」であって、だから夢中になってやってました。充実感あったし。自分が住むところなんだから、オーストラリアに関して知らないことが少しでもあったらイヤだし、知らなかったらその時点で自分でダメ出しして。

 だってさ、その頃にはもう30代中頃だったから、知ってたもんね。やりがいとか、幸福とか、それって客観的に存在しているのではなく、何かに対してムキになって自分を注ぎ込んだら、その注ぎ込んだ分だけやりがいになったり幸福になったりするもんだってことが。客観的にはただの素材であり、現象があるだけ。それに主観を注ぎ込むと、自分にとって価値あるものに化けるのだという幸福錬金術みたいな仕組ですね。TVゲームだって、パズルだって、それまで時間をかけてやりかけてしまったら、なにがなんでも完成したくなるのと同じで、かけた時間によって価値あるものに化ける。

 恋愛だって結婚だって同じことだと思うよ。なぜ好きなのかという理由は実はなくて、そこにはやり始めるキッカケだけが単にあるだけで、あとはコミットメントの質量がそのまま「好き」の質量を規定するという。故郷なんかも同じことです。だからラウンド先で「第二の故郷」を見つけたりもする。だもんで、やりがいや幸福や恋愛は既製品を探すべきではなく、単なるキッカケを探せばいい。てかキッカケって探して得られるものではないから、キッカケらしきものを大事にする、くだらないルーティンの保守性に囚われてそれを見過ごさない。感覚としては小石ひとつで軽く方向を変えてみる、ある種の偶然性や気まぐれを面白がったり、大事にしたりってことだと思います。それがコツだと思います。「思い立ったら吉日」とはよく言ったもんで。

 話がそれたけど、1ステップ方式(「生きる」ことからダイレクトに幸福になる)ってのは、自分でもそれやったことあるので、わかります。てか、今でもそうだけど。「下げたくない頭を下げずに人はどれだけ生きていけるか」という壮大な実験(笑)をやってまーすって昔々に書いたけど、そういやこの20年以上、下げたくない頭を下げたことは一度もないです。自発的に下げたい頭はなんぼでも下げますし、むしろ下げたいけど、不本意な下げはない。これだけでも寿命10年延びてると思いますケド。あ、夫婦関係は別よ。あれは不本意に頭下げてなんぼですわ。

実行可能性

 さて、エネルギーの話に戻ります(そうそうこの話だったよね)。
 こういうオルタナライフ(産業)においては、夢みたいなこと言ってるだけでは話にならず、フィーザビリティ(feasibility =実行可能性、日本語文献にはフィー"ジ"ビリティってローマ字読みしてるけど、発音的には"ザ”)こそが鋭く問われる。

 大体ですね、至れり尽くせりで縦横無尽に整ってる従来システムから離脱して、既に日本語化しつつある「オフ・グリッド」をやるわけでから半端なこっちゃないですよ
あ、ここで勝手に意訳造語してます。本来の「オフグリッド」の意味は、国などが作った発電送電網(グリッド)から外れて、スタンドアローンの完全独立の電源を得ることを意味します。でもここでは意味を拡大して、既成の生活条件システム網から外れて、自分らで諸条件を整える営みくらいの意味で使ってます。

 オフグリッドライフを実現するためには、僕がかつてやったような「生活スキル」の錬成もそうだし、従来のシステムについても使える部分は徹底的に使いたいからそれらに精通している必要もあると思います。政治、社会、経済、ビジネスに精通しているからこそ、そこから適度な距離をとれる。遊泳区間でちゃんと泳げるからこそ、沖合にいっても泳げる。もうねー、やること学ぶことが滅茶苦茶あって、膨大な手間暇がかかるんだけど、そこらへんは上に示唆した「納得できる苦労は全て幸福のタネになりうるの法則」でクリアね。軽く言っちゃうけど、でも、本当にそうなんだもん。

 で、中核となるのはやっぱりエネルギーだろう。エネルギーがなかったら、国の発電システムに頼らざるを得ず、グリッド・オンのまんまで、自走する自由性を獲得しにくい。

今どうなってんの?できんの?

 で、今のニューエネルギーはどうなってるの、てか自給自足とかマジに出来るの?どうするの?ですが、

 まずは取っ付き易いところで、自給自足生活で実現したいこと。究極のライフスタイル「パーマカルチャー(Permaculture)」って、いったい何?農業を超える?自給自足用の格安物件探しWebサイトなど、ネットでお馴染みのNaver(ネイバー)です。

 いきなり話逸れますけど、Naverって韓国のLINE社の子会社ですけど、読者が自分でまとめノートを編集して、自分でUPして、アクセス数が多いと広告収入を貰えるといいう(ほんの一部だろうが)、WEB2.0的な流れともいえるキュレーションサービスですね。キュレーターというのは、美術館や博物館で作品を収集したり真贋を鑑定したりする人で、漫画でいえば細野不二彦「ギャラリーフェイク」や、小池一夫・叶精作「オークション・ハウス」によく出てきます。それのネット版。あっちゃこっちゃのネットの情報を再編集する。この発想をニュースでやると、ニュースアグリゲーターになってハフィントン・ポストとか。でもって、Naverはユーザー個々人がまとめを発表して稼げるようにしていると。ま、どのくらい稼げるのかわからんのですが、こういうセレクションに付加価値を見出すのは流れとしては良いと思います。これだけ商品と情報が溢れかえってる今日、「えーと、そのくらいのレベルで、そのあたりを希望するなら、まず◯◯と◯◯を見ておけ」というセレクションアドバイスは、とても価値があるし、誰もが自分が好きな領域や経験でお金を稼げるシェアリング経済につながるからです。これからやりようによっては伸びそうな領域ですよね。

 で、これら他人がまとめてくれたものでも、パララと見てると「ほお」と大体のことはわかります。大体だけど。ほんでポチポチとリンクを飛んで、電気を使わないで冷やす冷蔵庫。必要なものは鉢と砂と水などを見て、「へえ、そうなんだ」と面白がれたりします。

フォトヴォルテイクス=太陽光発電

 ま、でも本命はエネルギーでしょうで、今、太陽光発電とかどうなってるの?と見ると、まず用語としてソーラーシステムとかあんまり言わないで、フォトヴォルテイクスって用語が一般的らしいです。Photovoltaicsで、ギリシャ語語源のPhotoは光、ボルトはイタリアの物理学者ボルタから来たらしい。

 これまでこの種の話って「夢のニューエネルギー」と「夢の」がついて、「現実的ではない」という暗喩が含まれてたりもするのだけど、あれから技術や社会の進展でどうなったかというと、グリッドパリティ(Grid parity)という概念があります。ドイツ銀行のマーケットリサーチ報告書によると、すでに19の市場でグリッドパリティに達しているようです。このあたりは英語版Wikiの方が詳しいのですが、”Deutsche Bank sees a "second gold rush" for the photovoltaic industry to come. Grid parity has already been reached in at least 19 markets by January 2014.”となっており、試しに原文の2014 Outlook: Let the Second Gold Rush Begin をみると、これがまた気合いの入ったクソ長くて詳細なレポートで(とても全部読めん)、でも既にタイトルからして「第二次ゴールドラッシュ」ですからね。

 何がポイントかというと、やっぱりコストが激減してきていることでしょう。それにともなって急激に普及してきている。ここで「急激に」とか文学的に言っててもイメージわかないので、Wikiにあったグラフを転載します(最初の4グラフは太陽光発電の項目に掲載されていたもの)

 まず、3つの統計があります。それぞれに「日本における価格の低落傾向」「日本の太陽電池出荷量」「太陽電池の年間生産量」の推移です。

 
 
 


 これを見るとわかるように、価格はどんどん下がっていくのに反比例して、どんどん生産が増えている。総じて右肩下がりの日本で、いまどきこのくらいキャピキャピ右肩上がりなのは珍しいでしょう。でも、注意すべきは、これらは全て2010年までの統計なんですね。つまり311地震が起きる前の統計です。多くの人が原発安全って思ってた古き良き脳天気な時代の話です。それでもこれだけ進んでいる。

 次に「太陽光発電の累積容量」をみると、これは2013年までの統計があります。

 これを見ると、2011年以降上昇率が等比級数的に増えて、2013年なんかドカンって感じで増えてます。

 さらに先はどうなるかというと、これは国際統計ですが、「太陽光発電の普及予測」があります。Wikiの”PV capacity growth EPIA forecast 2014-2018”ですが、2014年以降もさらに加速度的に普及していくことが予測されています。

 


 太陽光発電に関してはあれこれ言われていますし、固定買取制度がどうしたとか、買い取り拒否がどうしたとか瑣末な話がニュースになったりしますが、大局的に事実を見ると、めちゃくちゃ普及しつつあることがわかると思います。ニューエネルギーが実用性なしとか言われていたのも、考えてみれば、数年以上も前の話で、その頃の統計だったら2005年とかそのあたりの現状を元にしていってるケースが多いと思われるところ、上のグラフでも2009年くらいまではボチボチというか、まあ「趣味的にやってます」くらいの感じでしかなかった。だからその頃の感覚で、今もいたら決定的に時代に取り残されるわけで、そのあたりは絶えずアップデートしないと恐いな〜って思った次第です。


 あ〜、横道ばっか逸れてたらタイムアップしてしまった。もう長いし、今回はこのくらいで。
 てかもう、これ以上書いても消化しきれんでしょう?
 本当はこのあと、エネルギーはなんとか目鼻つくんじゃないの?本当にそうなの?って話になって、でも一番大事なのは、冒頭で書いた(1)衣食住の第一次条件(エネルギー、食料、その他生存に必要な諸条件)と(2)人間関係の第二次条件(パートナー、家族、社会、政治)の(2)の方だろうな〜ってことです。

 この世で何が難しいって人間関係くらい難しいものはなくて、それって単に「友達が〜」とかいうレベルじゃなくて、なぜ利権は発生するのかとか、なぜ派閥は生じるのかとか、すげー複雑な力学があって、政治の本質はそれでしょう。人間相互間には、利得力学と感情力学があって、それぞれ相互作用があって、、、という。まんま物理学の”場の理論”みたいな。そこに”嫉妬粒子”が飛び交ったり、異物許容のトレランスの耐性限界があったり。烏合の衆の動かし方もあるんだけど、それってどうしても騙しの要素が入るので、できりゃあ公正明大にやりたいし、気持ちいいし、だから最初から「烏合」にしないためのセレクション技術がいるんじゃないかとか。ああ、書き出したらとまらないので、このくらいで。



文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る