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今週の一枚(2015/04/06)



Essay 717:上りの戦略、下りの戦略

「下降=ゆるさ」による質の向上(発見)
 日本の写真シリーズも終わりで、やれやれ帰ってきました、オーストラリアって感じの一枚。
 場所は、AshfieldとHurlstone Parkの中間あたりで、普通誰もしらないエリア。ここに最近美味しいカフェが出来たので(未紹介だが)行って来た時のもの。
 やあ、この広々感はやっぱいいですな。空もデカいし。これ、パノラマとか魚眼レンズとかで撮ってませんよ。全く見たまんまです。変形交差路で、わーっと遠くまで見通せる空間感が気持ちいい。


人が増えて困っています

 日本帰省記も飽きてきたので、舞台はまたオーストラリアに。

 といって、別にオーストラリアらしい話題があるわけでもないのですが。そういえば先週NSW州の選挙がありましたが、結果はまず"穏当"というか、「ま、こんなもんでしょ」みたいなスィング(揺れ戻し)があって、与党がある程度減って、野党が増えたけど、政権交代には至らず、と。

 まあ、確かにこれといった争点らしい争点もないのですな。最近はそれほど真剣にこっちの状況を見ているわけでもないのですけど、一番大きな議論として「Poles and wires」というのがあるらしく、政府が保有している電柱や電線の権利を民間にリースして(つまりは送電事業でしょうね)、そのお金でインフラ整備をしましょうって話です。といっても、今これを書きながら「最近何が問題なの?」で調べてわかったくらいのことで、それほど巨大な論争を巻き起こしているって感じでもないっす。

建築ラッシュすぎ

 しかし、政権がどうあれ、ここ数年スパンで住んでてわかる変化というのは、ビル建ちまくり現象です。もーねー、すごいですよね、あっちこっちにクレーンが林立しまくってて。ウチの近所のChatswoodなんか、あとダーリング・ハーバーとか、もうヤケクソみたいに集中的に建ててますね。Chatswoodも、先日歩道のオープンエアのテーブルでコーヒー飲んでたら、もう建築騒音で飯場でメシ食ってるみたいで。まあ、あそこらへんはもともとそういう人工的に開発したエリアだからそうなるのは分かるのですが、それ以外でも、「え、こんな所に?」ってな感じで、どこもかしこも、あそこもここも、ビジネスビルやマンション建ててます。


↑Chatswoodの光景

↑ヤケクソのように建てまくってるダーリングハーバー

 もう、儲かるのはメリトン(こっちのマンションのデベロッパー会社)ばかりなりって感じですけど、しかし、そのくらい建てないとやってらんないという背景もあるようです。つまりは、人口爆発。

 「爆発」というのは過大な表現ですけど、でも昨今の日本の感覚からすれば、そのくらいに感じても不思議ではないでしょう。僕が来た20年前のオーストラリアの人口は、いいとこ1800万人くらいだったような記憶がありますが、今は2200万人かな〜と思ったら、2330万人だって。20年間で30%増!「ほんとか、おい?」と思って再度調べてみたら、間違いないです。

 ところで、オーストラリア全体からすれば、シドニーはそれほど膨張してないようです。The 50 largest Australian cities and towns by population, 2013によれば、2008-2013年の5年間でのシドニーの人口増加率は8.1%です。純増326,568人で、これを週割したら1256人で、僕がよく言う「シドニーでは毎週1000人人口が増えている」というのが大げさでもなんでもないのが分かるでしょう(むしろ過小なくらい)。

 しかし、他のオーストラリアのメジャーシティはもっと増えているところが多い。メルボルン(10.4%増)、ブリスベン(11.2)、パース(16.5)、ゴールドコースト(11.2)、ダーウィン(11.0)、キャンベラ(9.1)、ケアンズ(11.4)など。意外と増えてないのが、ホバート(4.2)、アデレード(6.0)だったりします。地味な都市(町)では、Ellenbrookというパース近郊がなんと54.5%(新興住宅地なのかな)、Meltonというメルボルン北西郊外が31.6%、ジェッティ(桟橋)で有名なWAのバッセルトンが20.9%とか。

 ということで、シドニーの8%くらい(毎週1256人増加)くらいは、そんなに「きゃー」って数値ではないみたいですな。それでも、住んでる側からしたら「いい加減にしてくれ〜」って感じですけど。でも、これって、オーストラリアに来た時から一貫して同じこと言い続けてますね。「人が増えて困ってます」という。他に比べれば「普通」とはいえ、Future metropolis: Planning for 2050によれば、それでもシドニーはメルボルンと並んで2050年には、60-80%増えて800万人近くになるとか言われてるのですから(パースは2050年には2倍以上になるらしい)。

日本に置き換えてみれば

 20年で30%増加というのは、日本に置き換えてみたら、1億2000万人だった日本の人口が1億5600万人になるのと同じですよ。想像できます?この直近20年で東京がまるまるもう3つ出来たか、首都圏がまるまるもう一つ増えているくらいの増加率です。

 で、将来においても、オーストラリア人口は2050年とか40年後(2055年)には3760万とか4000万弱とかになるという。今の2倍とは言わないまでも、1.6倍くらい。これを日本に置き換えれば、人口2億人になるわけですから。

 This is Australia(てか、This is "地球" (先進諸国以外))ということで、今の日本の30代前半くらいまでは物心ついてから「上昇」「増加」「拡大」ってことを皮膚感覚で知らないかもしれんけど、一歩外に出たら全〜然違います。もう、下りエスカレーターと上りエスカレーターの違いくらい世界観が違うので、そこんとこよろしく、です。

 ま、「よろしく」と言われてもわからんよね。
 下がり局面と上がり局面では全然マインドも戦略も違ってて、株取引でいえば、下がり局面で信用の売りから入る(買う前に将来の売り契約だけ今の値段で立てておいて、先々安くなってから買う)みたいな感じ。あるいはもっと比喩的にいえば、下がり局面だったら、スキーみたいに滑降するマインドでやるけど、上り局面だったら登山みたいに一歩一歩確かに積み上げていくって感じになるのでしょう。

 あ、そのへんの話を今週しようっと。

上りと下り

個人的には常に右肩上がり

 社会や外部環境がどうなろうが個人的には「上り」と感じられないと、生きてて面白くないです。サッカーの練習やってても、今日よりは明日のほうが上手くなると思えばこそでしょう。やればやるほどヘタになるなら誰が練習なんかするか、ですよね。勉強だって、仕事だって、恋だって、「だんだん良くなっている」って思えないとイヤでしょう。

 なんでそう思うの?と改まって自問してみると、うーん、なんでだろうね?それが人間の、というよりも生命現象のサガなのかもしれません。生命体における唯一の仕事は「生きること」「生き延びること」であり、より生存確率の高い方向へ高い方向へと向かっていくように最初からDNAレベルでセッティングされている。それが生存本能であり、それが進化でもある。そういうセッティングになってない生命体は、おそらくは途中で絶滅&淘汰されてしまうでしょうから、結局今日生き残っているのは、どの種であれ生きるということに対して盲目的で優秀な本能を持っているのでしょう。蛾が灯火に導かれるように「より良く↑」というのは基本ドグマなんだと。

 したがって、だんだんダメになっていくという状況は、生命体にとってあまりハッピーな状況ではない。毎秒ごとに酸素が薄くなっていくというか、どんどんしんどく感じられる筈です。毎月給料が減っていったり、売上が下がっていったり、胃のシコリが段々固く大きくなっていったりすると、やっぱ精神健康を害するでしょう。

 死の床にあるときとか、これから磔になって殉教するとかいうような場合でさえも、客観がダメなら主観があるさで、主観的には右肩上がりになろうとします。例えば、また天国で先に逝った優しいママに会えるんだとか、殉教でも神の導きによってより高い階梯にあがっていくんだという「より良い」意味付けを施そうとする。

 これらはポジティブ・シンキングっていえば確かにそうなんだろうけど、でもさー、人間(生き物)なんか普通にしてたらポジティブじゃないのか?生きるってそういうことでしょうが。それをわざわざ「ポジティブ」とかいうのって、なんか変。「呼吸をすると健康にいいらしいよ」って言うくらい変。なんでネガになるの?なんで呼吸しないの?って感じ。

なにが「下降」しているのか

 社会全体が上り調子のときに個人的にも上り調子になるのは、取っ付き易いしやり易い。
 しかし社会が下り局面の時に、個人レベルでは上り調子にならなければならないってところが、ちょっと難しいですよね。社会にシンクロさせすぎちゃったら、引きずり降ろされて、どんどん気分は盛り下がるわけですから。

 でも、社会が下りになっているんだけど、個人的には上っているって、どんな感じ?なんだろう。
 上に書いたように、スキーでスムースに滑り落ちながらハイになっていくって感じなのかな?比喩的な回答にはなるかもしれないけど、実際、それだけでは意味分からんわね。

 今の日本を「下り」と想定した場合、じゃあ具体的に何がそう「下がってる」という感覚を抱かせるのか?
 例えば、貧困者や生活保護受給者数は「上昇」しているし、税金や年金負担は年々「増加」してるんだから、それだけみたら「上り局面」っぽくも見えるけど、まあ、さすがにそんなこと言う人はいないでしょう。では何が「下って」いるのか?経済成長率?人口?生活の安定性や将来保障の度合いも低下してますね。生涯所得も下がり、地価も下がる。それらが相まって「下がってる」感を出しているのだろう。

 要するに、生活がしんどくなってる、辛くなってることから、「下降している=悪くなっている」という下り坂感覚を抱かせるのでしょう。

 ただし、「悪い」とか「しんどい」とかいうのは、最終的な主観判断だから、それは解ではないと思います。それは結論であって理由ではないと。もっと客観的に他のなにが「下り」感を出しているのかです。

どっち転んでも”しんどい”

 なぜなら、上に述べたように、オーストラリアは経済も比較的順調で、人口もどんどん増えて、地価も物価も給料も上がっているんだけど、でも、住んでるこっちとしては「しんどい」んだよ〜。年々しんどくなってる。不動産なんか、都心まで30分-1時間圏内で探してたら1億円ぽっちじゃろくな物件も買えないというクレージーさだし、物価も情け容赦無くあがっていく。収入が同じなら、今日暮らせても明日には破綻するということで、赤字黒字の損益分岐点が毎日上がっていくんだから、もうプールの背がどんどん立たなくなってアップアップやってるようなものですわ。人口でも価格でも、なんでも上がればいいってもんじゃないのよね。

 それを補うための収入も増えているだろうっていうけど、職の安定性は却って落ちていると思う。これは前にも書いたけど、激変する世界経済環境にアジャストするために、オーストラリアの企業や経済も猛烈に変化しようとしているから、「これはもう古い」となったら情け容赦無く切り捨てる。リストラだってガンガンやってる。支店や生産拠点だって、より良いオプションが出てきたら躊躇なく閉鎖してそっちに移行する。そんなの90年台からやってて、史上空前の利益の決算報告を出したその日に一気に2000人解雇とかやってた。それを横目で見ながら、「すげーことすんな〜、こいつら」と思ってたもんです。でも、それをやってるからこそ経済がなんとかなってるわけで、経済的に活況であることは、あなたの仕事の安定性を保証するものではない。むしろ場合によっては真逆ですらある。あなたを躊躇いもなくクビにできるからこそ経済が良いのだとも言える。

 まあ、このあたりは議論のあるところで、これが正しいって言うつもりはないけど、そのあたりの経済や給与、地価の上昇/下降が、直ちに「しんどい」「ツライ」に直結するものではないということです。理論的にも、経験的にも。下がったら下がって出しんどいし、上がったら上がったでしんどいわけで、どっち転んでもしんどいというトホホな話でもあるのですよ。実際、日本のバブルの頃は、そりゃカネ回りは良かったけど、しょーもないワンルームマンションが5000万円(今は捨て値)になってたり、年収が1000万ぽっちあったところで、夢のマイホームなんか無理無理、買うなら通勤2時間は覚悟してね〜って世界でもあった。景気が良いということは、猛烈に仕事が忙しいということでもあるし、あのときくらい日本人が大量に過労死したときはなかったんじゃないか?ってくらい。証券会社とか広告代理店とか高給取りが良く死んでたような印象があります(印象であって統計は知らないけど)。あれはあれでしんどかったのよね。終電まで接待して、郊外の終着駅でまたタクシーの奪い合いやってって。

客観的に「下降」しているもの

 結局、今の日本で客観的に「下がってる」と言えるのは、人口、とりわけ生産者人口でしょう。子供、若い人、働きざかりの人口が減って、老人が増えていて、差し引きトントンか、やや下降局面にはいってきたねってところでしょう。

 人口が減る、特に購買欲旺盛な若年者や生産者人口が減るということは、それだけ需要が減るということで、経済は尻すぼみになる。だから不景気になる。売れないから価格も下がる、デフレになる、悪循環になる。もうあかんってな話なのでしょう。それはその通りかしらんけど、でもそれが全てではないでしょう?

 (若年)人口が減っていいことだってあるでしょう。例えば、受験にせよ就活にせよ、競争相手も減るわけだから、以前ほど狭き門ではなくなってる。就職はその時点での企業の採用傾向に左右されるけど、少なくとも受験は楽になってるはずですよ。僕らの頃、さらにもっと上の団塊世代の頃は、競争相手が死ぬほどいたから、物心ついたときから食卓の上のオカズやオヤツの奪い合いで、競争競争また競争で、競争こそが人生だってな感じでしょう。不動産にしたって、稼いでも溜めても、値段の上昇の方が足が早いから、もう最後には諦めて、バブルの頃の「やけくそリッチ(マイホームを諦めてその金で豪遊)」になったわけだし。今のシドニーも殆どそうだな。

 ターゲット(顧客)が減るという意味ではしんどいけど、ライバルが減るという意味ではやり易くはなってるわけで、どっちがどうとは一概にいえないんじゃないかな。合コン行ったら、男女100名づつで入り乱れて新宿駅の雑踏みたいになっている場合と、男女3名づつくらいのスカスカな場合とどっちがどうとも言えないでしょ?ターゲットは減るけどライバルも減るほうがゆっくり出来るから良いとも言えるし、選択肢が乏しいから悪いとも言えるし。つまりはケースバイケースで、少なくとも人が減るに連れて何事も悪くなっていくとは言えないでしょう。クラスの人数だって50人よりは、20人くらいの方がいいしね。経済や商売だって、1000人分当て込んで同じものを大量生産して売りつけるよりも、10人相手にゆっくりオーダーメイドで作った方が利潤も質が上がる場合だってあろうし。

経済はあんま関係ないかも

 確かに日本は経済的にパッとしてないんだけど、これは客観や外部条件の変化によってそうなってるというよりも、単純に変化に対応できてないという意味でマネジメントがヘタなだけじゃないかという気もしますね。人口が増えて、豊かになってる成長局面では、単純に数的増大に対応して、規模をでかくしたり、頑張って長時間働いたりという原始的なことで対応できた。

 でも、規模が頭打ちになり、世界レベルで変化が激しくなってきたら、変化にいかに迅速&柔軟に対応できるかがキモであり、対応できないところはどんどん淘汰されていった方が競争力の維持向上という意味では良い。新自由主義ですね。リストラだろうがなんだろうがガンガンやると。ビンビンにとんがった金儲けメカを作る。ただ、それだけだったら大量の失業者や倒産者を生むので、新自由をやるなら同時にセーフティネットは二重三重にセットしないといけない。変化が求められる時代は、挑戦が尊ばれる時代でもあり、それはいかに失敗を怖がらせないかという物心両面にわたる手厚いケアをすべきであって、それをしないと皆が思い切ったことをしなくなって、状況を画期的に打開することもできず、どんどんジリ貧になる(なってるんだけど)。また変化しなきゃいけないのだから、旧来の既得権とか意味なくなった構造はちゃっちゃと破壊して風通しよくしないといけない。でも、そこらへんが致命的にダメダメだから、あかんようになってるだけなんじゃないの?と。

 山の天気のように変化が激しい場合、雨が降ったらポンチョをまとい、暑くなったら上着を脱いで、冷えてきたらまた着こむという行為が求められるわけですよね。でも、寒くなってもなかなか着こまなかったらすぐに風邪を引いてしまいます。また、暑くなっても着込んだままだったら大汗かいて、それが冷えてまた風邪をひく。それって「気温が変化したから風邪を引いた」という言い方もできるけど、より直接的には体温管理や衣服管理がアホだからというのが原因ではないかと思われるわけです。日本の経済のヘタレ状態というのも似たようなものだろうな〜って思いますけど。

 だもんで人口減少→経済悪化と直線で結ぶのは、気温変化→発病と結ぶようなものじゃないかと。ここまで他愛なく病気になってるってことは、環境変化(人口減少とかの下降)が問題なのではなく、経済の問題であり、さらには経済が自然の理のままに動くことを阻害する政治(利権構造とか)の問題じゃなかろうか。

下降の本質〜「緩和」「ゆるみ」

むしろ精神的には楽

 結局何が「下降」しているのか、「下降」の本質はなにか?とつらつら考えるに、「緩和」「ゆるくなること」ではなかろうか?

 上昇局面というのは数的増大を伴う場合が多く、あたかも風船をどんどん膨らましてパンパンになってるようなイメージです。アドレナリンが出て、テンション(張力)がビンビンになってるような感じ。でも下降局面では、張り詰めた糸が徐々にゆるくなっていくような、キツキツだったのがスカスカ&ゆるゆるになっていく感じ。ゆるやかな下り坂をのんびり降りていくような。それは緊張の緩和であり、それがポイントではないかと。

 それって精神的には楽なんですけどね。自宅に帰ってパジャマに着替えているように「ゆる〜く」なるのって、楽でしょう?だいたい素朴に考えても、上りよりは下りのほうが楽チンでしょうに。ファー・フェッチ(牽強付会、無理矢理の後付け)かもしれないけど、「ゆるキャラ」のように、ゆるめのものが好まれるのは、これも一種の時代の空気なんかもしれませんね。

価値観の転換

 問題は、上りや下りの現象そのものというよりは、状況変化に対応できてない点、上り局面をベースにした価値観を、下り局面になったときに上手に転換できていないことだと思います。

 上下が変わると良い/悪いの価値観も逆転するんじゃないか。
 例えば、上り局面では、物量的増大→幸福増大というパラダイムがあります。食べ物もお金も家も友達も多い方が価値があり、結婚式の披露宴も規模がデカい方が幸福だとか、スケジュールもびっちり詰まってて忙しいことがエラいであるとか、より多くの人間にキャーキャー言われる方がより好ましいことだとか、旅行にいけば寸暇を惜しんでより多くの名所旧跡を回った方が良い気がするとか。そういう感覚は今も抜きさし難くあるでしょう。そして、これらの幸福を実現するために、多大な物材が必要となり、ゆえにそれらを購入するために多大な資力(お金)が必要で、金が多いと幸福も多いという単純な話になりがちですよね。

 ところが下降局面になると、閑散とする、暇になる、お金も乏しくなる、、と真逆になります。だとすれば、価値観の力点の起き方も変えていった方が良いと思われます。

 これを考えるには増大幸福主義の欠点を見つめるといいと思います。
 その欠点とは何かというと、僕が思うに、玉石混交による質の低下だと思います。なんでもかんでも詰め込もうとするから、味噌もクソも一緒になって、トータルでの質が下がる。例えば友達にせよ多けりゃいいってもんじゃなくて、中には付き合ってて疲れる人とか、正直いって嫌いな人だって混じったりする。旅行だって、アクセク走り回って似たような社寺仏閣を見て回ったら、記憶が混乱して結局何を見たのか覚えていないというアホな事態も生じる。活発に動きまわってれば、見た目にはリア充バッチリ感はあるかしらんけど、中にはやってて詰まらんものも沢山あるし、いいものに出会ってもじっくりとそれを吟味することもできない。隙間家具みたいな小間物を部屋にブチ込むと、なんともいえない貧乏臭さや生活感が出てしまうとか。

 早い話が上昇局面では「量>質」になりがちだという欠点があるということです。こんなの誰でも指摘することですし、70−80年台の小説や随筆もそういう自分らの姿を自嘲するような論調がメインだった。ならば下降局面はこれらを是正するチャンスとも言える。ヒマだし、物も少ないし、お金も無いから沢山買えない。ゆったりした時間で数少ない物事をじっくり吟味して、質を高めることができる。

 高度成長のときにあれだけ念仏のように唱えられていた「ゆとり」を今手中にしているわけなんだけど、いざそうなってみたら「欠乏→不幸」というノリになってしまうのは何故?といえば、上り局面の価値観から脱却できていないからでしょう。

やり方一つの技術論だけど、それが難しい

 要はやり方の問題だと思います。「やり方」というのは方法論や技術論であり、それが技術であるならば、けっこう気合入れて技術習得に励まないとならない。

 なぜって、量が減ることで質を向上させることが出来るとはいいながらも、これって「できる」だけの話で、自動的にそうなるわけではない。量が少なくなるわ、しかも劣悪なものしか残らないわ、量も質もともに低下する可能性だってあるわけですから。またこれまでやってきた習い性になっている価値観や世界観を、「はい、交代〜」ってバレーボールのコートチェンジにように一夜にして切り替えられるものでもない。こうも見える、ああも見えるという二重の騙し絵の視点を切り替えるのは、それはそれで難しい発想技術だと思います。やり方一つなんだけど、そのやり方は簡単ではない。

 そうでないと、かつて猫も杓子も誰もが叫んだ「ゆとりのある教育」も、いざ実現したら、あれが足りないこれがダメって「ゆとり=馬鹿」という一面的な決め付けをして、もとの詰め込み教育に戻していたりするわけですよね。本当の「馬鹿」はなにかといえば、価値観の転換に気づかないことでしょう。昔のやり方はダメだから、新しいやり方にトライしたけど、それに対する十分な評価も検証も出来ずに、またダメなもとのやり方に戻すという馬鹿さ加減ではないか。ちょうど政治の世界がそうであるように、新しいやり方が分からない、直ちに効果が出ないからとといって、ダメ出し確定だった昔の方法論に逆戻りするという、試行錯誤の名にすら値しない、思考停止というか、厳しい状況に直面して人格が崩壊して幼児退行現象を起こしているみたいな。

 でも、それまでピキピキ&キビキビしている「活発さ」が良い、どんどん積み上がっていく感じが良いと思い込んできたら、だら〜、ゆるゆる〜な感じは、単に「たるんでいる」としか思えないのも分かる。生理的に許せない感じもわかる。実際それが質の劣化を意味する局面も多々あるのもわかる。

 ならばどうするかといえば、きつきつテンションに戻ることではなく、だら〜なんだけど、だら〜の良さを見出し、アレンジし、質を劣化させずむしろ向上させるにはどうしたらよいか論になると思います。でも頭の固い人にはそれは難しい。難しいからこそ技術論なのでしょう。技術というのは、なんでもそうですけど、習得初期には「絶対無理!」と叫びだしたくなるように感じられるものです。もう出来るわけがない!あんなの出来るのはバケモン、神業!って感じ。でもそのくらいに感じられる技術でなければ、修得する意味もないですわ。

客観ではなく主観によって質を高める

 量で誤魔化せない下降局面においては、それだけに繊細な感性と努力で質を見出し、質を高めることが基本戦略になるでしょう。でなきゃ、上り→下りと180度変わるんだから、上り価値観のままだったら、シンプルにどんどん悪くなってるだけにしか見えない。それは見方が悪い。夏には夏の楽しさがあり、冬には冬の味わいがあるわけで、単に気温が下がってきただけで、もうダメです、死ぬしかありませんという、「絶望は愚か者の結論」みたいな話になっちゃアカンでしょうに。

 さて、下降〜ゆるゆる〜閑散スカスカ欠乏〜という局面で、質を高めることが出来るのか?といえば、それは「出来る!」と思いますよ。や、そこは、結構自信ありますよ〜。

 なぜそんなに自信があるの?というと、人間ってそこまで賢くないから、ぶっちゃけ意外とけっこー馬鹿だと思うからです。そんなに短い時間にパッと見ただけで何かの真価を見抜くだなんて、人はそこまで賢くないよと。少なくとも僕はそこまで賢くない。つまり何に自信があるかといえば、自分がアホであることに関しては、けっこー自信あるわけで、これはありますよ(笑)。

 一方、「質」というと、ついつい客観的に上質/下等なものがあると思いがちだけど、それ以上に、それに触れる人間の鑑定能力というのが大きな意味を持っていると思います。「猫に小判」と言いますが、愚者が見たら質が低く思えることでも、賢者が見たら高品質であることが見抜けるわけで、質の上下というのは、見る人次第、見方次第って面が強いと思う。実際今の世の中で「上質」「一級品」と言われているものの多くの価値を、僕は実感できませんもん。名画だって、どう見てもヘタクソが描いたとしか思えないものがあったり、1000万円もする古茶器だって、そりゃ見たら「深い味わいが〜」なんてよそ行きな顔をしてもっともらしく言うだろうけどさ、「わかってんの?」と自分でツッコミいれたいですよね。ただボロいだけじゃん、ガラクタとどこが違うの?というのが正直なところだったりしてさ、要するに僕はそこらへんが馬鹿だから分からんわけですよ。

 でもって、人間というのは(少なくとも僕自身に関しては)、そこまで何に対してでも深い鑑識眼を持ちあわせているわけではないから、その鑑識能力を磨くためには時間がかかる。ゆっくり時間をかけて対象と向き合い、賞味していくうちに、段々とその良さがわかってくると。僕のような阿呆は時間かけないとダメだと。無能な自分が、いい気になってチャッチャと「活発に」やってるつもりになってても、一歩引いてみたら、単に食い散らかしてるだけ、取っ散らかしているだけで、全然深まっても積み上がってもいない。そんなことは高度成長〜バブルを経て、散々やってきたからわかりますよ。わかってるからこそ、言わねばならないという奇妙な使命感もあります。多きゃいいってもんじゃねーぞって。場合によっては馬鹿がもっと馬鹿になるだけだったりするぞって。

 下降局面の閑散スカスカは、そのための(自分の質を高める)いいチャンスだと思いますね。

音楽鑑賞

 これは例えば昔の音楽鑑賞みたいなものです。一定以上の年令層で音楽が好きな方だったら覚えておられると思いますが、昔はそんなに簡単に音楽をゲットできなかったです。なんせレコード高いし、ネットもYouTubeもないしね。もっと昔はそもそも録音というデーターの個人所有すら出来なかった。聴きたいときに聴けるということすら出来ず、ラジオやテレビでたまたま流れているのを鑑賞する以外に方法はなかった。

 僕の世代はそこまではいかず、普通にレコードやカセットがあって、データーの個人所有はできましたけど、でも楽ではなかった。僕の中高生の頃の小遣いなんか知れてますし、レコード一枚3000円が小遣いよりも高いとかいうこともあった。そもそもステレオが高くて、家になかったりするし(ウチもそうだった)。せいぜいがFM放送でエアチェックをして、時には学校ズル休みや早退してまでエアチェックをして(タイマーすらもろくにない)、しかしカセットテープがまた高いという。もう今から思えば何もかもが乏しいわけですわね。ヒマだけはあるという。

 だもんで、そんな想いをして録音した一曲というのはめちゃくちゃ貴重でしたし、地引網みたいに番組まるまる録音した曲を擦り切れるまで聞いたりしたわけですよね。だって他に手がないんだからさ。でもって、仕方なしに何回も何回も聞いてくると(曲飛ばしが、テープの早送りの長押ししかないから面倒臭いわイライラするわで)、最初は嫌いだった曲も段々良さがわかってきたり、しまいにはフェバリットになったりすることもあります。ZEPの「アキレス最後の戦い」なんて今なら大好きで過去にエッセイでも書きましたけど、最初はなんて退屈な駄作かと思いましたもんね。聞き所やいいところが全然わかってない。でもしつこく聞くことで、音楽の楽しさや曲の意味なんかも分かるようになる。無差別に聴くから、自分では絶対に選ばないようなジャンルの違う曲とか、超マイナーな曲とかも知るし。

 ほんでも、今のようにネットで普通に幾らでも聞けるようになったり、デジタルで安く一山なんぼ的に大量にゲットできるようになったら、今度は真面目に音楽聴かなくなってしまうのですよね。だからなかなか新しい曲からフェバリットが生まれにくい。イントロ10秒くらい聞いたら、「はい次〜」てな感じで、典型的なダメな聴き方ですよね。どんなに詰まらなくても最低20回くらい聴きこまないとわからんもんね。でもその20回が超かったるい。そこまでせんでも〜とか思っちゃう。

 つまり、物事の真価を理解し、評価することによって質を高める(高さを知る)ためには、忙しかったり、大量にあったりしたらやりにくいのですね。感性を開発する営みというのは、量的にやっつけ仕事でやったら絶対ダメですから。その意味で上昇的にやってたらダメで、下降的な閑散ヒマヒマ状態だからこそ、って部分があります。

所有幸福→利用幸福  交換価値から利用価値へ

 大分長くなったので、イントロくらいのところで終わっちゃいますが、下降局面のヒントは書けたかと思います。「こんな感じ」でやっていけば、下りの戦略になるんじゃないの?ってことですね。わからんか(笑)。

 えっと〜、他の事例でいえば、例えば不動産があります。これまで不動産というのは「産」であり「資産」でした。保有することに経済的な価値があるというストック経済ですね。持っているとリッチである、豊かである、安心である、幸福である。そんでも、人口減って、また減って〜となってくると、資産価値はそれほど望めなくなるわけです。

 そういえば、空き家問題といって「問題」視されるくらい余ってきて、以前のエッセイで「多分政府はやるじゃないかな?」と危惧していた固定資産税の6分の1の優遇措置が、つい最近やっぱり撤廃方向に進んでますよね?ご存知かと思いますが、2015年度の税制改正で"危険な空き家に対する優遇措置の撤廃"が盛り込まれています。家が建ってたら固定資産税が6分の1で良かったから、空き家が増えた(更地にしたら税金が6倍になるから)。それを逆手にとって、空き家=危ない→減らすというレトリックで、一気に6倍増税ってことです。いや、もう、トコトン搾り取る気ですね〜(笑)。右手で上手を取りながら、左手で前三ツを取るというか、右手で相続税改正とかいいつつ、左手で空き家対策の大義名分で固定資産税6倍増税を目指し、これがまた相続案件でボディブローのように効いてくるという。やるんじゃないかな〜と書いてたら案の定です。

 今では気の早い人は、不動産ではなく”負”動産である(負担のもとになるから)とか、かつて資産だった不動産は持ってれば持ってるほど困る「粗大ゴミ」同然という人もいます。まあ、場所により、物件の質によりまちまちだとは思いますから、一概には言えないでしょうけどね。でも少なくとも、バブルの頃のような「土一升金一升」って世界ではないですよ。

 いわゆる上昇→下降局面ですけど、下降したら下降したなりに愉しめばいいわけで、もう資産という発想は捨てればいい。大体ですね、「持ってると値上がりするから」とかいうジジ臭い発想で人生を組み立てるのってどうよ?楽しいの、それ?って気分が僕には昔からあったわけで、やっと普通に戻ったか、くらいの感じです。洋服だって、茶碗だって、「持ってたら値上がりするから」みたいな動機で買うわけじゃないですもんね。使ってて気持いいかでしょ?それで自分の時間が豊かになるとか、うーん、いいじゃんってささやかな感動を得たいためでしょう?不動産がそうであって何が悪い?ですよ。

 だもんで、住み心地とか、そこに住むことでどういう生活の楽しさや豊かさや彩りが得られるか?って部分が大事になるでしょう。「値上がりするから」の一点で、住みたくもない物件を「予算的にここしかないから」で購入し、35年必死にローンを返していくような人生設計に比べて、それが格段に不幸になるか?といわれたら、あんまりそうは思えんけどね。少くとも、人が多すぎて、不動産高すぎてひーひー言っているこっちからしたら、いいなあ、楽そうだなあ、ゆとりあるよなあって思いますけどね。

 いずれにせよ、上昇には上昇の楽しみがあり、下降には下降の楽しみがあるわけです。高度をどんどん勝ち取っていき、遠望できる範囲が広がっていく楽しさ、ここまで登ったという達成感、それらは上昇局面での楽しさです。でも、下降だって楽しいことは沢山ある。下山途中であるから、比較的身体が楽だし(膝は笑ってしんどいかしらんけど)、つねに山裾側を見ているから視界的にはむしろ広がるのですな(登ってる時は上の頂上方面しか見えないから視界的にはむしろ詰まらん)。その広がった視界をゆっくり愉しめばいいし、のんびり歩いていて、おやこんなところに◯◯がとかいって野草や野鳥を愛でたりとかさ、身体が楽だから無駄口も叩けるし、おしゃべりもできるわけで、別に悪いことばっかじゃないじゃんって。

 ということで下降の「ゆるさ」をストレートに質の劣化に結んでしまったら、それでは芸がないでしょう。

貧しさ=基準設定が愚かであること

 最後に、最近読んだもので、いいこと言うじゃんというフレーズがあって、どこで読んだのか忘れたけど、二宮金次郎だったっけ(それすらあやふやだけど)、「貧しい」とはなにか?論です。

 以下は僕が勝手に解釈した意訳のようなものですが、「基準設定が馬鹿なこと=貧」であると。人が「貧しい」と感じるのは、なんらかの欠落感がそこにあるからだ。じゃあなんで欠落感を抱くのかというと、現実に比べて高い基準を設定しているからだと。人間の欲には限りがなくて、ほっといたら常に現実よりも高めの基準を設定したがる。100万持ってたら120万円欲しくなる、一兆円もってたらせめて二兆は欲しいなとか思う。フェラーリもってたらもう一台ほしくなる。それが人類の進歩につながったり活力につながるから良い面もあるんだけど、だけどそれも程度問題で、そればっかに囚われていたらアホでしょう、と。実際、絶対値としてここまでが不幸でここからが幸福とか、ここまでくれば貧しいとか金持ちとかいう客観的な基準があるわけではない。せいぜいが生物学的に必要とされる最低カロリーくらいで、あとは全部主観的な評価の問題に過ぎない。平安貴族の生活水準や衛生水準は今のホームレス以下でしょう。

 そういった全体の構造や、今の自分の置かれた状況がいかに満たされているかを知ろうともせず、常に常に自動的に20%増あたりに基準を設定して、それがゆえに常に「足りない」という欠落感をいだくこと、それが「貧しい」ということだと。その盲目的なハッピー基準設定のアホアホな感じを「貧しい」と呼ぶのだよ、ということでした。いい事言うな〜と思いましたね。

 かといって、よくある「足るを知る」(それはそれで正しいのだが)の悪しき拡大解釈=奴隷は奴隷として身の程をわきまえろ的な、健康な上昇欲求やら現状批判やらを封殺するレトリックを言ってるわけではないですよ。場合により、趣味により、20%増どころか300%増くらいでないと満足でないって思ってもいいし、ダイエットみたいにむしろ減らしたほうがいいと思う場合もあるでしょう。いずれにせよ、それらは状況を知り、自分を知ることで出てくるもので、自動的に設定されるものではない。

 でもね〜、上昇局面に慣れてしまうと、どうしてもそうなりがちなのは否めないでしょう。それは上昇期間が長いほど、その慣性の法則は強くなるだろうから抜きさし難くなるでしょう。当然のように上昇するもんだと、上昇以外に幸福なしみたいな。でもってそれが果たされないから、不幸だ、貧困だ、もう終わりだになるという。でもさ、そんな上昇パターンは25年前に終わってるんだから、いい加減慣れろよって気もしますね。乗り物移動が長時間に渡れば、降りてからもまだ動いているような気がするものですが、なんぼなんでも25年も経てば気づけよという。

 と同時に、冒頭あたりでのべた「よろしく」ですが。こっちに来たり、一歩外に出たら上昇局面だったりするので、上りだったら上りの発想、下りだったら下りの発想でいけばいいのだと。日本ではまだ寒くてダウン着てても、飛行機乗ってハワイに降りたら、もう夏の格好に着替えて、いきなり海で泳げばいいと、それだけのことで、それが「よろしく」です。そんな難しいことではないと思いますけど。

 もう一点。冒頭で掲げた写真、そしてクレーンでぼんぼこ建築ラッシュの写真を見比べてください。前者は昔ながらの佇まいであり、後者は最近の風景なのですが、前者→後者(クレーン)にいくのが「上昇」であり、後者→前者が「下降」とも言えるわけですが、「下降」の方が気分よくないスか?



文責:田村



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