今週の一枚(2015/02/09)
Essay 709:犠牲バーター
写真の撮影場所は(別にどこでもいいんだけど一応)、Crows Nestです。
夕陽の黄色い後光みたいなのが面白かったので。
阿弥陀如来のおわします西方浄土〜って感じで。
夕陽の黄色い後光みたいなのが面白かったので。
阿弥陀如来のおわします西方浄土〜って感じで。
「何かを得るためには何かを手放さないとならない」というのはよく言われますよね。
人の腕は二本しかなく、一度に持てる量は限られている。だから、新たに何かを持とうと思ったら、今持っている何かを手放さないならない。
例えば------
生涯の伴侶なり「家に帰ると誰かが待っているという温かい環境」を得ようとしたら、独身の気楽さを手放さないならない。
充実した仕事を精力的にこなし年収もステイタスも得ようと思ったら、プライベートな時間やプライバシーについて相当程度犠牲しなくてはならない。
実社会の荒波に揉まれ、その荒波を航海していけるだけの世間智スキルを得る過程で、何も知らなかったインノセントな感覚を失ってしまう、とか。
まあ、ここまでは普通の話で、特にエッセイのお題にせんでもいいんですが、ここからもう一歩進んでみましょ、というのが本稿のお題でございます。てか、今の時点ではまだなんにも考えておらず、頭の中は、晴天にポッと雲(ネタ)が浮かんだ状態でしかないんですけど。ま、書いてみるべ。今週はもう小手先のテクニックだけで書きます。
常に何かを犠牲にしていること
ほんじゃ基本命題(何かゲット=何か失う)を、お煎餅みたいに裏返したり、畳んだりして展開していこっか。わかりやすい犠牲
何かを犠牲にしないと何かを得られないなら、今現在持ってる多くの物事についても、その一つひとつについて何らかの犠牲を払っているということにもなります。今この瞬間にも犠牲を払っているし、これからもそれが続く限りずっと犠牲を払い続けるんだってことですね。これ、忘れがち、、、というか、普通ころっと忘れますよね。
例えば、一念発起して会社辞めて、オーストラリアにやってきました。ワーホリでも留学でも永住でもなんでもいいけどやってきました。で、こちらのスカ〜っと晴れた空、目に染みわたる緑、心地よく乾いた風と、楽天的で人懐こい世界の人々に囲まれていると、うわこりゃ気持ええわ〜ってなりがちです。
や、それでいいんです。人間ハッピーになれるときには、ここを先途とトコトンそうなるべきです。
ほんでもね、ふにゃ〜とダラけて、ホコホコしすぎて、何しに来たのか忘れちゃったりもするのですよ。勉強だあ!って思って来たんだけど、勉強よりもビールの方が好きになったり。「や、勉強やってますよ」っていっても、勉強=IELTSの点数=学校のクラスの進級とか矮小化されちゃう。「勉強のサラリーマン化」というか、出世するとエラいとか、階級が上がると勝ちとか、単なる基準や物差しに過ぎないものが目標化し、やがて神性を帯びてご神体になる。古ぼけた板切れがやたら価値ある神聖なものに見える。でもありていにいって、古ぼけた板切れは板切れなんだよな。
でも、そんな事をしに来たのだろうか?
あのまま日本におったら、あれこれやって、年収だってそこそこ入っていただろう。勿論働くのだから当たり前なんだけど、でも仮に年収365万円の人が仕事辞めてこっちきたら、1日あたり1万円=約100ドル失っている計算になります。「逸失利益(いっしつりえき)」っていって、(交通事故等の)損害賠償に算定などに使う概念だけど、もし事故がなかったらこれだけ稼げていたはず=それが損害額だと。年収365万円の人は、1日あたり100ドル一週間で700ドルの逸失利益がある。それだけの犠牲を払ってこの土地ににいるんだと。そのあたりを忘れてないか?と。
単純に金目だけで言うのもナンなんだけど、比較するなら1日あたり1万円分の”感動””充実”を得てないと釣り合いが取れないってことですね。1日1万円というと、ちょっとしたデートとか、安めの温泉旅行くらいですかね。そのくらいのサムシングを日々得ているのか?ですね。
そういう視点って、意外と忘れがちなんだけど大事かもねってのが一つ。
やっぱ「犠牲にしてきた」という意識が強くなるほど、モチベーションも高まるでしょう。そりゃそうですよね、単に「ヒマだから」でやってるのと、「何もかも投げ捨ててきて勝負をかける」のとでは、意欲やエネルギーが大違いですから。
逆に言えば、最初から犠牲にするほどのものを持ってない人(何も積み上げて来なかった人)は、それだけエネルギーも低いのでしょう。過去の遺産を燃やして、それがエネルギー源になるって部分もあるのだから、たらたらやってると燃やすものもないという。
これらは分かりやすい犠牲なので、思い出せばいいだけであって、比較的簡単です。
わかりにくい犠牲
もっと分かりにくいものもあります。例えば、毎日車や乗り物に乗ってます、快適な空調設備の下で仕事してますって場合。何が失われるのかといえば、健康とか野性でしょう。
時間が無いなど止むを得ない部分はあるんだけど、あんまり身体に楽ばっかさせていると、足腰弱ったり、筋肉衰えたりします。筋肉衰えるから、何をするにも日々ちょっとづつ億劫度が高まり、「面倒臭い領域」が広がり、活動量は減り、それがまた代謝や循環を阻害する。やがて座っていても背骨を真っ直ぐキープするだけの腹筋背筋もなくなり、片側にもたれたり姿勢が悪くなる。それが長い年月を経て背骨の歪みを生じさせ、やがて激しい肩こりや腰痛持ちになり、さらには糖尿その他の成人病に連なっていく。
同じようにあまりに快適すぎると、寒かったり暑かったりしたときに体温調節や自律神経が弱くなってくる。寒い時の身体のアイドリングが低くなったり体温維持が下手になったりして、すぐ風邪引くとか。
こういう事柄って、日常のレベルで「得ている」とも思ってないし、「失ってる」とも思わないんだけど、でも現実はきっちりとバーター交換になっている。身体の問題って、煎じ詰めればミもフタもない物理・化学現象ですから、本人が忘れてようが何だろうが着々と物理的に進行する。長雨や地下水系の変化である日突然地すべりが起きたり、波の浸食作用で岩場がえぐれていって奇観を呈するように。
大雑把にいってしまうと、有能/無能 ≒ 精神明晰/どよよん ≒ 体力有り/無しにそれぞれ比例する。例外は幾らでもあるんだけど、少なくとも同一人物であるならば、身体のフィジカル面が快調のときは、精神や知力も快調になるように思います。「思います」というか、こんなの「自明の理」なのかもしれないけど、フィジカルなロスはメンタルや仕事のロスにもつながる。もっと言えば、仕事が出来る人は総じてメンタル管理も体調管理も上手であり、これらの管理技術の巧拙が、「有能」であるということの実質の半分くらいは構成しているのかもしれないです。
ほんでも健康のロスって、日々の微妙な積み重ねだから気づきにくい。「野菜食べなきゃダメよ」というオフクロさんのいつものお説教みたいに聞き流してしまいがち。で、手遅れ、Sorry, it's too lateという。
本来なら、賞味期限なんか見なくてクンクン匂い嗅いでそれで判別できないと嘘でしょう。これは多少の賞味期限後でも大丈夫なくらい鉄の胃腸を持てって話じゃなくて、「賞味期限前でも油断しない」って生存本能の部分です。
賞味期限といっても、店頭あるいは自宅での保存状態によって全然違ってくるわけだし、違ってきてこその天然食材だし、期限前だから絶対大丈夫なんて保証はどこにもない。本来状況によって千差万別であるはず。猫なんか食べる前に絶対クンクンやりますが、あれこそが正しい姿でしょう。猫は油断しない。どんな時でも命に関わる事柄のときには油断しない。でも人間は、慣れてしまうと野性がなくなって油断する。
ま、それで直ちにどうにかなるってことはマレでしょうけど、楽してると自然の本能がバーターで犠牲になるという構図があると。
ということは、同じような構図で、他のいろいろな局面で野性を失い、生存本能が劣化しているってことはあると思います。
「なんかヤバイぞ」「ここにいたらまずい」って皮膚感覚で危険を察知する力とか、適切なタイミングで適切な強さで攻撃をしかける攻撃・防御の機微が鈍るとか。ひいては大事な「直感」を鈍らせる。メシが食いたいとか、異性が欲しいという本能がボケるとか。
思うにエッジの立ったわかりやすい幸福感って本能充足でしょう?厳しい減量を経たボクサーが、計量が終わって一杯の水を飲む時、この世にこんなに美味いものがあるのかって思うらしいけど、寝たい、食いたい、抱きたいの原始本能が充足したときの満足感というのは、もう圧倒的です。「うおおお」と吠えたけるようにして、ガツガツと空きっ腹に飯をかき込んでいる時の、頭が真っ白になるような充実感。
でも野性や本能がヘタレてくると、比例して幸福感もヘタれる。「なんか今日、食欲ないし」とかいってモソモソ食べてても幸福感はない。やっぱ本能のエッジは立てておかないと、生きててつまんなくなる。獣性なくして幸福なし。そういう感性を鈍らせるというのは、みすみす不幸になってるようなもんで、とても大きな犠牲だと思いますよ。以前「攻撃的健康」という項で書いたことと重複しますが、健康というのはともすれば防衛的/消極的に観念されがちですけど、もっと攻撃的なものだと思います。ぶっ太い腕をにゅっと伸ばして、むんずと快楽を鷲掴みにするような。坂だらけのシドニーで、そこかしこでご苦労にジョギングやってるオージー連中を見てると、ああ、こいつらはわかってんだなって思います。身体動かして、ランナーズハイになってドーパミンを出してハッピーという。なんて手軽で確実な自己実現。
ということで、常にとは言わないですけど、中々来ないバスを待ってて暇ぶっこいてるときに、「何を犠牲にして、何を得ているのか」というバランスシートをチェックするのも一興かと思います。
比較方法〜パラレルな自分がライバル
次に、Aを犠牲にしてBを得ているってのが分かったとしても、それでもまだ考える余地はありそうです。なにかというと、AとかBとかいう対象の特定が正しいか?という点、もう一つはその利害得失の判断は正しいか?です。まあ、実際には同じことになりそうではあるけど。
英語だけじゃないよ
例えば、先ほどの例で、年収365万円の人が留学して1日1万円犠牲にして英語を勉強してますって場合。この場合、やりがちなミス(と敢えて言いますが)は、「1万円分英語はできるようになったのか?」という問題として捉えてしまうことです。
それの何が間違っているかというと------
ぶっちゃけた話、現代の日本人が「会社辞めて海外に行く」という行為の目的が、「英語」だけであるハズがないと思うのですよ。もっと巨大でディープな問題意識や欲望があるでしょう。今よりも強く大きな人間になりたいとか、この先の人生パターンが膠着してしまってるので一遍ブチ壊して風通しよくしたいとか、新しい発想を得て生きていくアプローチの角度や方法論を変えてみたいとか。そこまで言語化して認識する人は少ないかもしれないけど、純粋に英語だけって人は少ないと思いますよ。
もし本当にそこまで英語習得「だけ」に燃えているなら、日本で仕事しながらだってある程度は出来ますから。実際、ウチに来る人でも日本にいる段階でケンブリッジFCE合格したり、IELTS6点取ってきた人だっていますもん。そこまで激しい欲求があるなら、国境超える超えないにかかわりなく、いつでも何処でも飢えた狼のようにガツガツ英語をむさぼり食ってる筈です。飯を食うように、呼吸をするように勉強する。するなと言われてもやる。もしそこまで行ってないなら、本当に英語が出来るようになりたいと思ってんの?って疑問ですね。
ということで、1日1万円の相当するだけのサムシングには、英語はもちろん入るだろうけど、それだけではない。いや、それは本体ですらないかもしれない。比較すべき本体は、ディープで巨大な(しかし曖昧な)問題意識・欲望であり、検証すべきは、海外に住むことでそのディープで巨大なもの(「新しい視点や発想」とか)は得られたのか?それも「今日」得られたのか?得るために何かトライをしたのか?でしょう。
だが、しかし、人間アホだし、すぐ渡豪目的=英語みたいに思いがちなんですよね。子供の頃から「勉強=いいこと」と洗脳されている部分もあるのだろうけど、本来犠牲を払っても得たかったものが、あまりにも巨大で曖昧だったりすると、ついつい原点を忘れてしまう。そして「わかりやすい物事」(英語力とか)に意識の焦点がズレていってしまう。要注意だと思います。
損益相殺もある
もう一点、逸失利益(もしコレが無かったら得られていただろう収入利益)に対立補完するものとして、「損益相殺」って概念もあります。事故等によって失ったものもあるけど、逆に得られた利益もあると。交通事故の後遺症で逸失利益が幾らなのだけど、同時に交通事故によって保険金とか賠償金が他から入ってきたらその分は差っ引くということですね。日本の会社を辞めたって部分の損害・犠牲はわりと分かりやすいのですが、逆に辞めたことによるメリットというのは案外いろいろあったりするんだけど、つい忘れる。あるいは思いつかない。そんなもんあるのか?っていえば、そこは人それぞれですけど、例えば健康、例えば自分の時間、例えば可処分所得。ステイタスが高くなるほど、義理やしがらみが増えるし、そのための時間・金銭支出が増える。一ヶ月に3回も4回も結婚式に招待されてたら、それだけで月間十万以上の支出だし、なけなしの休日は丸つぶれ。
僕が22年前に来た時のこの損得勘定バランスシートは、めちゃ黒字でした。確かに日本ではそこそこ収入あったし、それがゼロになってしまうのは痛いんだけど、でもその代わり健康が得られました。もうね、前職も最後の方は胃とか十二指腸とかヤバかったですもんね。ガンマGTP値も結構いってて。ストレスから来るんだけど胃が痛いのは当然だとしても、心臓あたりも痛くなったりしたもんね。帯状疱疹にもなったし。出張途中の新幹線のトイレで吐いたりとか。「ああ、こら死ぬな〜」って感じだったんで、それから開放されたってのは値付けできないくらいの「益」です。
それに、日本にいたら得られたであろう利益(年収)といっても、別に日本に存在してたら自動的に入ってくるわけではなく、身体壊しながら働かないと得られないわけで。だから「働く=得られる」「働かない=得られない」だけで、考えてみたらなんの損も無いじゃないかってことです。失った部分だけ見てると、すっごい大損してるように見えるけど、そうではない。大体さ〜、「働きに見合うほど給料貰ってないぞ!」って不満は多くの人が感じるところだったりするんだけど、だったらクビになった方が「得」じゃん。労働量>給料なんだから。
お父さんリストラされちゃいました。お金がなくなってビンボーになりましたっつっても、見返りにお父さんのいる夕食や一家団欒は得られている。そんなの得たくないわ、家族飯なんかうざいわ、早く再就職して金持ってこい、この粗大ゴミがあって思うかもしれないけど、それって要するにその程度の家族関係しか作り上げてこなかった己の器量・努力がしょぼいだけじゃん。まあ、思春期のガキんちょは基本頭が悪い(本人は良いと思ってるところが笑えるのだが)からそう思っても無理ないけど、ハタチ過ぎてまだそんなこと言ってるようじゃエボラ並の阿呆だべ。
貧困の何が問題かといえば、客観的欠乏というよりも、精神の貧困が鮮やかに浮き上がる部分でしょうね。金があると、自分のしょーもなさをまだ塗りたくって誤魔化せるんだけど、それができなくなるのでギスギスすると。でも、普通にちょっと金ないくらいの貧乏で不幸になっちゃう程度の性根だったら、金が入ってきたらもっと不幸になるよね。醜悪な欲望ってのは、金があってもなくても生じる。無ければ無いからこそ、あればあるからこそ醜くなる。地顔や地頭みたいに地魂みたいなものが醜い奴はなにやってもダメってことで、当たり前じゃん。
このあたり、特に自覚的になるべきだと思いますよ。何かを得ているということは何かを失ってることでもあるのだから、ヴァイスヴァーサ(逆もまた真なり)で、何かを失った時は、それと同等価値を有する何かを得ているのですよね。ハガレンの等価交換みたいな。せっかく失って痛い思いをしてるんだから、落ち込んでる場合じゃなくて、見返りに貰ったモノが何なのか、早く見つけて賞味すべし、活用すべし、でしょう。
クビだ、事故だ、事業失敗だ、天災だ、国家崩壊だ〜で何もかも失った場合、見返りもデカイ。何もかも新生するチャンスを得られているわけですよね。それはもう敗戦でなにもかもパーになった日本の戦後と同じですわ。僕だって日本で営々と築いた弁護士ライフを失っているわけですけど、その見返りとしてオーストラリアでののほほんライフを得られているわけで。でも自分でやったから分かるけど、自分の意志で全部捨てるのって勇気いるよ。ほとんど自殺するくらいの根性いるよね。その意味では、他人によって失った方が楽っちゃ楽ですよ。
そういうカタストロフィックな事態をチャンスだと思える人は、そう思えた時点でもう勝ったも同然。しかし、いつまでも損した、不幸だ、割食ったとネガに引きずってる人は、そう思ってる限りダメっしょ。なぜなら状況の理解ができていない。営々と築いた田んぼがあって、それが天変地異で陥没して海水が入って湾になってしまいましたって状況の理解ができてない。田んぼは失ったけど、海を得た。その海が魚介類満載だったら漁業だけで食っていけるかもしれないし、海水浴場にするとか、民宿やるとか、地下水系やマグマの流れが変わったなら温泉とか出るんじゃない?とか、新しい環境でトライすべきことは山ほどある。いつまでも「田んぼ恋しやほうやれほ」とか歌っててもしょうがないのだ。
パラレルワールドの自分がライバル
本当に比べるべきは、あのまま日本にいて胃がしくしくしながら働いて稼いでいて、それなりに1年分キャリアを積んでた場合(A)と、こっちにきて、学校に生きながらも基本全てがフリーで、全部知らない異国環境で暮らしている状態で得られるあれこれ(世界観やら人生観の矯正改善やら、本来の自分に戻るとか、それまで損傷していた健康回復、それと僅かばかりの英語力上昇)が「B」であり、その両者を比べてみて、どっちが「ええ感じやね」「俺の人生らしいね」って思えるか、納得できるかだと思います。これって、SFの世界のパラレルワールドです。
パラレルに展開するワールドAとワールドBとで、どっちを選びますか?ってことだと思います。
と同時に、Bを選んだなら、そしてその選択に悔いを残さず、意味あるものにしたいのならば、別のAワールドにいる自分がライバルになるのでしょう。
麻雀みたいな
さて、さらに展開させましょ。これから先も何かを失って、何かを得ていくわけですが、自発的に何かをやっていく場合、この先何かを得るためには、また何かを捨てなければなりません。
次に何を捨てるのか?
これは得るものの性質によって当然決まってくるものも多いでしょう。「多忙で充実」を得たら、「ヒマで自由」は失われる。これはもう性質上そうなる。
でも中には選択的な部分もあります。例えば自由時間が失われるとしても、今の自由時間でやってる趣味1、趣味2、趣味3、家族時間、そのどれでもないホヨヨンとしている時間があるとして、そのうちに第一に犠牲にするのは何で、第二は何にするのか。いやどれもゼロはキツイから、趣味1を70%削減し、趣味2を50%削減、でもホヨヨンは絶対削れないよな、、とか、予算編成みたいなものをするかもしれません。
これって麻雀に似てるな〜。次々にツモったり、鳴いたりして新しい牌をゲットするんだけど、その都度手持ちの牌から一枚捨てないとならない。最初にどの牌を切るか、予め一応考えておくということですね。多くの場合は、自然と取捨選択して収まるところに収まったりするのでしょうが、これ、ちょっと意識的になった方が良いとも思います。
ありがちなのは「これは諦めなきゃ」とか「これは捨てられない」頭から思い込んでる場合ですね。よくよく考えてみれば別に捨てなくてもやっていけたり、単に今までの生活パターンが惰性になってるから変えるのが不可能だと思ってるだけとか。
例えばネットと携帯は絶対無いとダメ、無いと死ぬ〜!とか思い込んでるけど、なんかの拍子で数日それらが断絶した生活をしてると、それはそれですぐに慣れちゃう。てかむしろ無い方がめっちゃ快適だったりする。タバコやコーラみたいに習慣性の麻薬になってるだけだったり。そういう物事って意外と多いですよ。
捨てなくても良いもの
さらに展開。Aを得るためにはBを失うといいますが、必ずしもそうなるとは限らないって話。
これもいろんなパターンがあります。
例えば、最初から両手が空いてるから(今殆ど何も持ってないから)、二個までなら同時に持てるぞ、という捨てるものを最初からそんなに持ってない場合。
あるいは、新しいものをゲットしても、Bの上にポンと積み上げておけばよく、Bを捨てるには及ばないもの。あるいは、Bの上においてくと、自然とBと融合してしまって同時に持てるようなもの。
はたまた、幾つも持ってるんだけど腕は使わず周囲を浮遊していたり、自分の身体に同化しちゃうから、なんぼでも持てるもの。
メンテに異様に手間暇のかかるものがあります。ヘタしたら腕一本では足りずに、二本で抱えてないとすぐに失われる。だからこれを持ったら最後、もうほかのものは一切持てない。例えば物事の頂点付近がそうですね。スポーツで金メダルクラスの闘いをしているとか、難しい試験や商談に挑んでいるとか、社長やスターとしてバリバリやっているとか、そういう時期です。これらは文字通り「片手間」に出来ることではなく、全力以上に取り組んでないと出来ない。子育ての一時期なんかもそうでしょう。
他方、一回持ってしまえば、あとは限りなくメンテフリーで一生ついてくるって便利な物事もあります。例えば「頭と身体に染み付いたもの」です。すなわち、記憶(知識、思い出など)、そして身体で覚えた技術です。
「自転車に乗れる」という技術は一回身に付ければもう終生メンテフリーでしょう。プロのピアニストのように、毎日数時間自転車のレッスンをしてないとすぐに乗れなくなる、1日休んだら取り返すのに3日かかるって面倒臭さはないです。
その中間くらいに、ある程度メンテフリーだけど、やっぱり怠るとそれだけ腕が落ちる、錆びつくって物事があります。こっちの方が多いかな。適度の油をさしておかないと。人間関係なんかもそうで、メンテフリーでほったらかしでも結構長持ちするんだけど、やっぱ定期的に挨拶しておかないとね、とか。その定期メンテとして"seasons greetings"「季節のご挨拶」、つまりは年賀状やらお歳暮があるってことでしょう。
お金や資産もそうですね、メンテしておかないと無くなっちゃうか、目減りする。絶対大丈夫で株を保有してたら、一夜明けたら倒産、紙切れ〜ってトホホな話もあるし、老後の資産用に買っておいたリゾートマンションが値崩れ崩壊とか(越後湯沢や苗場のマンションがついに数十万円台の売り物件が出てるとかニュースになってましたな)。
あ、ここで技術・知識に並べて「思い出」をあげているのは、それくらいの同等価値があると思うからです。医師の医療技術、弁護士の法廷技術に匹敵するくらい、若いころ(若くなくてもいいけど)の濃い思い出(感情記憶)というのは、価値ありますよ〜。ほんとか?って思われるかもしれないけど、トシ食ったらわかるで。
だってさ、アーティスト達にとっては、先天的な才能や後天的な製作技術もあるけど、本当のリソースになるのは過去の感情記憶ですもん。それっきゃないよ。過去にガビーン!となった体験があるからこそモチーフが出てくるし、表現も深くなる。人を好きになって、天国行ったり、地獄に突き落とされたりってことをしてなきゃ、なんで恋の歌なんか書けようか。それはもうハッキリ自覚的になるべきで、あんなことこんなこと、泣いたり笑ったりってのは、貸し金庫に鎮座している金塊インゴット並に価値があるのだと。
そしてこれらはバーター犠牲の関係にならない。自転車に乗れるようになったら水泳を忘れたってことはない。A地方を旅行したら、過去のB地方の旅行記憶が消滅するってこともない。失わない。取り放題、入れ食い、つかみどりセールなんだから、やらな嘘でしょう。
金に貪欲になってるヒマがあったら、感情に貪欲になれって言いたいですね。
金よりもゲットするのが楽だし、ゲットする過程が金の場合は不愉快な場合が多いが、感情の場合は快不快いずれもテイストがあるし、幾ら思い出しても減らない(ハンパな思い出し方をすると記憶が海馬あたりで修正されちゃうらしいけど)。「ええ話」でっせ〜と。
あ、で!冒頭に一つ仕掛けておいたんですけど、
「実社会の荒波に揉まれ、その荒波を航海していけるだけの世間智スキルを得る過程で、何も知らなかったインノセントな感覚を失ってしまう」と書きましたけど、この「インノセントな感覚」ってのは、身体に近い系だから、必ずしも失われはしないのですよね。世俗にまみれていくと清純な感性を忘れてしまう、、のは(僕も含めて)ダメな人で、そこをいかに忘れないかが勝負ドコロだと思いますね。
これはビジネスでも同じで、物事の理解が深まって玄人になるほどに素人のセンスを忘れてしまう、専門技術や知見が深まるほどに消費者のニーズが見えなくなることです。僕のショーバイなんかこれが命ですもんね。初めてオーストラリアに来た時に、何に困って、何がうれしかったのか、それを克明に覚えてないと、サポートなんか出来ないですよ。何についても「そんなもん、適当にやっとったら覚えるわ」って突き放して終わりですから。PCが苦手な人にメールのやり方を教えるようなもんで、「適当に触ってたら自然と覚えるから」とか言っちゃうんだよね。だから、初期の感覚、どこで困って、どのくらい不安があって、、というのは、ビジネスにとってはメチャクチャ貴重な資源になります。自分の中のユーザー部分ね。
---ということで、失う/得るのバーター犠牲と、その例外の「ええ話」でした〜。
文責:田村