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今週の一枚(2015/01/19)



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Essay 706:恥ずかしいけど誇らしい

〜パブリックイメージという大嘘ライフの崩壊の危険
〜「恥の文化」の弊害
 先日、シティのど真ん中で撮った一枚。
 ものの見事にバス停がいっちゃってますが、トラックでも乗り上げたのかな?

 よくある風景ってほど「よくある」わけではないけど、珍しくはないですね。昔、ウチの近所でストリートの標識がほぼ90度いっちゃってたことがあります。→

 が、皆さん平然としていますね。何事もなかったかのようにバス停の情報を見たり、知らんぷりして座ってたりします。この知らんぷりしてる感じが(別に意図的に装ってるわけではないのだろうが)、そう思って見てると微妙におかしくて。



 通常、「恥ずかしさ」と「誇らしさ」は全く対極にある感情のように思われます。
 しかし、必ずしもそうとは言えないんじゃないか?というのが今週のネタです。

 駅のホームですってんころりんとコケました。
 授業中に指されて、全〜然わからず、黒板の前で晒しもの状態で立ち往生しました。
 新入社員達の前で先輩としてエラソーに訓示を垂れていたら、社会の窓が全開のまま喋ってました。

 こっ恥ずかしいですね。でもって、全然「誇り」に思えませんね。
 できれば、歴史を捏造して、そんなことは無かったことにしたいですね。

恥ずかしいけど誇らしい

 だから恥ずかしい思いをしながらも、しかしそれが誇りに思えるようなことなんかこの世にあるのか?と疑問に思われるかもしれないけど、あります。めちゃくちゃあります!あるに決まってるじゃん。

 例えば、「愚かなほどに情熱的な恋愛」です。
 例えば「一心不乱になにかに打ち込んでいるとき」です。
 例えば、心の底からハッピーなドンちゃん騒ぎをしているときです。

 一言でいえば、「本当にやりたいことをやってるとき」です。

 人が真剣に何かに没頭してるときというのは、客観的に見れば不格好だったり、アホアホに見えたりもします。見知らぬ人から失笑を買ったり、ときにはゲラゲラ嘲笑されるかもしれない。笑う側に別に悪意はなくても、やっぱり面白いから笑ってしまうという場合もある。
 でも気にならない。超本気でやってるときって、周囲の視線なんか消えてなくなりますから。てか、そんなの気にしている余裕が無い。

 あるいは、気になるかもしれないし、こっ恥ずかしくてたまらないかもしれないけど、じゃあやめるかというとやめない。
 なんで恥ずかしいのにやめないの?といえば、答は簡単、「やりたいから」でしょう。


 逆に言えば、他人の視線ばかり気にしたり、恥ずかしいかどうかが行動のON/OFFの大きな基準になってるようなときって、本当にやりたいことをやってる日々ではないのでしょう。

 もっと展開していけば、他人の視線が気になる度合は、やりたくないことやってる度合に比例するのかもしれません。義務感に駆られて、あるいは半強制的にやらされている、本当はしたくない、でもやらなきゃねってことばっかで埋め尽くされた毎日。そんな状態でこれ以上恥かいたり、人に笑われたりしたらやってらんないですもん。
 

「恥かしさ」の基本構造

 では、なんで「恥ずかしい」という感情が湧くのか。そもそも「恥」とはなにか?
 日本は「恥の文化」とかいいますが、これがプラスにも、マイナスにも働くように思います。

 以下に述べるのは、僕が中高生の思春期時代に考えたことです。いわば中二病的な理論なんだけど、それからあんまり進化をしていません。なぜなら自分のテーマじゃなくなってきたからです。もうハタチ前くらいに、だんだんどーでも良くなってきて、そんなに真剣に考えなくなったのでしょう。事柄の種類にもよりますけど、多くの場合は「どーでもいいじゃん、そんなこたあ」ってなってきた。もともとB型気質で気にしない度数が高いんだけど、一層そうなっていった。

 したがって中坊の理論なんだけど、あんまり改訂する必要もないので、そのまま使ってます。
 で、それによると(ってのも変だけど)、「恥ずかしい」という感情は、つまるところパブリックイメージに関する攻撃防御の一環だと思います。

パブリック・イメージという大嘘ライフとその崩壊

 「恥ずかしい」という感情が湧く場合を幾つかサンプルで集めてみて、因数分解みたいに共通項目を括り出してみると、「他者に対して弱点を晒す」ことなんだと思います。

 この部分を攻撃されたら一撃でやられちゃうぞという弱点。格闘技でいえば人体の急所の部分ですね。普通は攻撃されないようにがっちりガードをしているんだけど、なにかの拍子でそのガードが外れて弱々しい部分がさらけ出され、攻撃に晒されるという恐怖感です。

 もちろん実際にぶん殴ったりするわけではないですが、人間関係においては、常にサル山のヒエラルキーのようなものがあり、それを巡って見えない攻撃防御があるのでしょう。クラス内カーストみたいに、誰が上で誰が下かがあり、皆さん自分をより高く見せようとあれこれ画策する。その際に「こう思われたい」というパブリックイメージを構築するわけで、それが社会的なペルソナであり、見栄であり、虚勢であったりします。

 そしてそのランキングが下に落ちそうな事柄=他人の侮りを受けることが、自分の「弱み」であり、極力それを隠そうとする。弱点を晒したり攻撃されたりすると、これまで受けてきた尊敬が減少し、軽侮が増え、ランキングが下がる。

 抽象的に説明していても分かりにくいから例を出します。
 可愛らしい例。思春期の男の子は必要以上に突っ張ります。「強くてクールな俺」を一生懸命演出する。そのためわざと粗野な言葉遣いをしてみたり、ちょっと不良っぽい見てくれや立ち居振る舞いをする。「◯◯君」って呼ばれたら「なあに?」って小学生の頃のように答えらればいいのに、「おう!」とか答えたりするんだよね、まだ毛も生えそろってないような一休さんみたいな中坊坊主がさ。

 彼の弱点は、往々にして家族だったりします。悪友連中と肩で風切って歩いてたら、偶然街角で自分の母親にばったり会って、「あ、◯◯ちゃん、ママちょっと出かけてくるから、テーブルの上におやつがあるからね!」とか大声で言われてしまう。「け、うっせーよ、ババー」とかカッコつけるんだけど(それがカッコいいことだと思っている時点で既にカッコ悪いのだが、それが知能の発達が遅れている中坊の哀しさである)、時既に遅し。「ぷ、◯◯、おめーまだ”ママ”とか言ってんの?」「ひゃははは」と笑いものにされ、めちゃくちゃ「恥ずかしい」思いをする。「強くてクールな俺」というパブリック・イメージがガラガラと崩壊、、まではいかなくても、ピシっと亀裂が入る。

 書きかけのラブレターを家族の者に見られて死ぬほど恥ずかしい思いをしたりするなど、「本当の私」というプライベート部分は弱点になりやすい。「本当の私」だったら堂々としてりゃいいんだけど、パブリック・イメージという「大嘘ライフ」をせっせと構築しているから、それが崩壊するのは辛い。社会的自我、ひいては人格本体すら危機に瀕する。

 冒頭の社会の窓ケースの場合、本人の戦略では「頼もしくてカッコいい先輩」というパブリック像を構築しようと思ってたら、「ただのアホ」みたいに思われてしまい、それが辛い。

 これらの構造に対する僕の中坊的な結論は、「てめー(自分)が弱っちーからいけねーんだろ」「てめーが嘘こいてるからだろ」でした。弱いからガードしなきゃいけなくなるし、その弱さは嘘(虚栄)から来るんだから、強くなりゃいんだし、嘘つかなきゃいいんだ、と。子供のような(子供だったんだけど)、分かりやすくも荒削りな対策ですが、以後数十年、特段改訂の必要性もなかったです。

 話はこれで終わりなんですけど、これだけじゃナンですから、恥ずかしさって感情についてもうちょい書いてみますね。読むのかったるかったらもうやめていいよ。

恥ずかしさ、あれこれ

もっとシリアスに

 大人になるともっと大嘘満載ライフになってくる人がいるから、"ママ"事件なんてレベルではなく、話はよりシリアスになってきますよね。

 誰でも表向き隠しておきたいことの一つや二つ、、四つや五つはある。大手企業で優秀な私を演じてたら、高校時代に援助交際をやっていた過去が発覚して社内中の話題になったり。ネットで匿名でセフレ募集とかやってるのがバレて、マンション内のママ友連中の格好な餌食になったり。

 「そんなの関係ねーだろ」とは言えない。嘘ついてるから「関係ある」んですよね。またどうせバレるなら一気に全世界にバレればいいものを、一人にだけバレて、まさに「弱み」を握られて、「奥さんも意外と大胆ですね、ふふふ」「知ってるんだぞ、お前の秘密」的なことを言われて恐喝されたりする。万引きしてつかまったり、「どうかご内密に」って話になったり。

 ここまで来たら「恥ずかしい」とかいうレベルを超えて、政治家や芸能人のスキャンダルのように端的に社会的生命への危機になりますが、「恥ずかしい」という系統をレベルアップしていくと、そうなっていくと思います。つまりは、社会的ペルソナの生成と崩壊。

ベーシックな尊厳と虚構の上部構造

 別に嘘をついているわけでもないのに、めちゃくちゃ恥ずかしいことがあります。秘部を晒してしまうとか、セックスしているところを見られるとかいうのは問答無用に恥ずかしい。でもそこでは虚構が崩壊しているわけではない。

 これは誰でもそうで、人が社会生活を営む場合、その人が相応の自尊心をキープしていられるだけの「最低限の尊厳」というのはあるのでしょう。これはもう人権レベルに認められるべきもので、それへの侵害は「好ましくない」なんてレベルを超えて、端的に「犯罪」を構成すると思います。陰湿なイジメなんかこれに類するものがあるけど、あんなの単なる犯罪行為として少年法その他の関連法令に則して粛々とやりゃあいいと思います。で、ちゃんと前歴など記録に残って、就活の際にも考慮の対象になると。てめーの不始末は、てめーで落とし前つけろと。

 これら尊厳レベルの物事と、その上に乗っかる自ら進んで見栄(嘘)をはる部分とは、一応話としては別だと思います。

 ちなみに、誰でも普通にやるような性交とか排泄行為などが、なんで恥ずかしいのか?なんでそれが尊厳を構成するのか?というと、無防備な状態で襲われると恐いという原始本能的なものがひとつ。「好奇の視線」に晒されるという実害面がひとつ。特に後者の被害(好奇の視線)は過小評価されているなキライもあって、だからこそパパラッチや私生活のあることないこと垂れ流す興味本位の三流マスコミや、振られた腹いせにヌード写真を流したりって卑劣な行為が中々なくならないのでしょう。

 こういう事例では、強盗傷害くらいの法定刑(無期又は六年以上の懲役)にするとか、被害者には国庫から慰謝料1億円払うとかすりゃあいいのにって思いますね。どうせ1000兆円も借金抱えて遅かれ早かれぶっ壊れるんだから、今のうちに理不尽に辛い思いをしている人々に配ってしまえって。

恥ずかしさを決定する価値体系

 ある価値体系においては恥ずかしくて軽蔑されることが、別の価値体系によれば名誉で尊敬されることになったりもします。例えば犯罪。特に殺人は一般の価値体系では厳しく非難されるのですが、暴力組織や刑務所内においては真逆のピラミッドになる。「俺は5人殺した」とか凶悪である方が一目置かれるという。

 別にそういった「プロ」達だけではなく、ずっと昔の糸井重里氏の名言「日本のお父さん達は、昔はみんなワルかった」ということからも分かるように、ワルいことが妙にカッコいいという価値観は一般市民でも共有している。そういえば「ちょいワル親父」という言い方があるけど、僕は嫌いですねえ。あの「ちょい」ってのがイヤで、「ちょい」という部分で保険かけてるような小市民的配慮が気に食わない。悪いの自慢したかったら、ちゃんと「前科◯犯です」って言えと。そこまで言えない(実質もない)くせに、いい年こいて、中二病みたいにくだらないカッコつけしてんじゃねーよって気分になります。一休さん中坊が「おう!」「ババー」とか言ってるのと同じで、年の分だけ進歩せえやと。

 これに近いことはよくあります。というよりも、そんなことだらけ。どうかしたら人の数だけ、局面の数だけあるのでしょう。

 例えば、公衆の面前でパンツ一丁になるのは普通は恥ずかしいことなんだけど、それがヘラクレスのような肉体美や、モデルさんのようなナイスバディであった場合は、むしろ他人の賞賛を浴びたり本人も誇らしげだったりする。逆に、貧弱だったり、本人が劣等感を抱いているような肉体だったら、それは耐え難い恥辱に感じるでしょう。

 今はそんなことないのだろうが、その昔はロック的なカッコしてるだけで結構目立った。髪を染めてる(それが超大変だった、ビールで洗ったり)だけで見知らぬ恐いおっさんから殴られそうになったり。今では老舗になってるけど、Luna Seaというバンドのデビュー当時、野外で撮影する際に黒ずくめのコスチュームで歩いていたら、ド注目を浴び、「なんか、俺達、死ね死ね団みたい、、」ってメンバーがぼそっと言ったとか。たしかInoranだったかな。そのあたり、自分らの世界の価値観では超カッコいいんだけど、世間の価値体系からしたら滑稽で恥ずかしいという。どっちの価値体系に殉ずるか、そこが勝負だ!みたいな。今でもやってるのか知らんけど、竹ヤリデッパの族仕様車や、萌え車や痛車も同じことで、自分らの価値体系と世間の価値体系が激突しますな。

 あるいは人前で全裸になるにしても温泉だったらOKさってのもあります。そこでは裸体を晒してもなんら尊厳が傷つかないという「お約束」になってるわけですね。価値的にニュートラルな中立地帯というか、安全地帯というか。

 あるいは、「仕事だから」ということで価値体系が上書きされる場合もあります。人前でセックスしてても、AV女優とか風俗関係だったら「お仕事ですから」ってことで、恥ずかしさが多少なりとも変わるし、世間的な受け取り方も違う。ファンとか出来たりするし。裸婦デッサンのモデルさんだって、映画の中で女優が脱ぐことだって仕事なればこそです。そこには別種の仕事的価値体系(お金を稼ぐ、生計を立てる、芸術とか、プロ魂とか)があって、それが一般的な恥ずかしい概念を上書きしてしまう。

 何を恥ずかしいと思い/思わないのかは、その人がよって立つ価値観は何かであり、その周囲の人々がどういう価値観に立ってるかによって決まるのだと思います。このあたり、ものすごーく相対的で、恥ずかしいという感情が実に根拠薄弱なのがわかって面白いです。容易に逆転するしね。

男女間の差 

 何を恥ずかしいと思うかの価値観は、世代差、民族差、文化差、、、いろいろあるとは思いますが、男女間でも違ってたりしますよね。

 男も女も等しく「カッコつける」のですが、そのカッコの付け方のポイントが違う。男はどちらかといえば行動面で、弱々しい、女々しいとことをするのを嫌う傾向がある。「今更そんなこと言えるかよ!」的な部分でこだわる。また、小さなことでグチャグチャやるのを「男らしくない」と感じる傾向もある。お釣りが10円かそこら間違われて損して後で気づいても、「面倒くせえ」ってほったらかしにする部分がある。そんなハシタ金のためにワーワー言ってるような男に思われたくないという、独特の”行動美学”みたいなものがある。女性にはそれが無駄なカッコつけに思える。

 他方、女性の場合はそうではなく、お客さんを招くときに、自分の家が散らかっていることを恥ずかしいと感じる人が多い。男はそのあたりは無頓着で、散らかっているほど「豪快で男らしい」とか錯覚しているキライもある。むしろ誇らしげというか(笑)。服装の乱れをどれだけ恥ずかしいと思うか、とか。このあたりは結婚していると、いろいろ出てきますよね〜。

 総じて、男性は能力面などで「大したことない」と言われると傷ついたり、そう言われかねない状況を恐れ、恥ずかしがる。しかし、女性は、「だらしない」という存在形態や”管理不行き届き”みたいな部分がポイントになるような気がします。大昔に、狩りに出かけていた男性と、棲家の維持管理を司っていた女性との差でしょうか。これ、本能的なものなのかな、後天的なものなのかな?営巣本能とかいう言葉があるから本能なのかな。

「恥の文化」の問題性

 日本には「恥の文化」があると言います。
 だから素晴らしいんだという論調が多いけど、あれこれ考えると、恥の文化なんかいらんぞ、むしろ弊害の方が多いぞと思うのでした。

 恥の文化の前提には、まず人としての理想像があります。かくありたいという理想の自分ね。
 武士道にせよ凛冽とした美学がある。死に臨んでも見苦しくパニックにならず、背筋を伸ばして端座し、沈思黙考して悠々と辞世の句を詠む。そしてやおら懐紙に包んだ脇差しを腹に突き立て、ギリリと横一文字に裂きつつも介錯の者に「まだまだ」と目で制し、難しいとされる十文字腹を見事かっさばいて果てる。周囲の者達も深く目を落とし「お見事な最期でござる」と言う。これぞ武士の本懐、、、なーんて、その種の「あるべき姿」はあります。

 ま、そこまでマニアックにならなくても、お天道さまが見てるぞ、ご先祖様に顔向けできるかというあらゆる基準で、「人として正しい行いをせよ」という規範がある。これはもうどんな社会にもあるわけで、それを言語化・体系化していく過程で宗教になったり、文化、フォークロア(民話)、道徳になったりするのだけど、そんなのは表現形態に分類カテゴリの問題で、その種のプリミティブな是非善悪というのはしっかりある。

 このように素朴で、時として峻厳な倫理をちゃんと守っているか相互にチェックし、守っていない=人間として劣等!と思われるのは、死にも勝る恥辱と感じるというのが、本来の良い意味での「恥の文化」ですね。「恥を知れ!」という罵声は、「人として正しい行いをせよ!」という叱咤である。

 それはそれで傾聴にも尊敬にも値するし、漠たる憧れは僕にもある。

 が、しかし、リアルな問題として、普通の人間にそこまで出来るのか?講談の「おはなし」ではなく身も蓋もない史実としてどれだけ実践していたのか?というと、疑問はあるのですよ。昔だって、「越後屋、おぬしも〜」とかやってたわけだしさ、昔の人がみな人格高潔だったとは思いがたい。むしろDNAのランダムシャッフル確率論と、人間社会の普遍的な部分を考えると、今も昔も、人格清らかな人と低劣な奴との比率というのは、さしたる違いはないだろうと思います。また、人間の善性を助長促進するために恥概念を強調する方法論が、他を圧して有用であるとも思いにくい。普通の躾ではあかんの?仏教や儒教、先祖霊のアミニズムではあかんの?

自我の希薄化

 逆に弊害は山ほどある。
 根本的で致命的な欠陥としては、価値基準を外部に委ねる点です。
 「恥」というのは、一般に他者があって初めて出てくる概念です。人類最後の生き残りになったらあんまり恥ずかしいとは思わない。そこまで大げさな例を持ちださなくても、自室で一人でいるときは、どんなカッコしてどんなことしてても恥ずかしいとは思わない。

 恥というのは、他人の視線があって初めて成立する。
 当たり前なんだけど、でもそうすると、この行為は良い/悪いを判断する主体が、自分ではなく、他人(世間)になってしまう。そうすると、自分なりの判断や考え、自分の価値観が十分に発達しないリスクがある。個として精神的人格的に未成熟なまま、とにかく周囲を窺い、他人を気にしてヘコヘコ生きていくって残念ライフになりがちであると。

 これは抽象的な懸念ではなく、実際そうじゃん。こっちでは当たり前のように”What do you say?"って、ありとあらゆるテーマで意見を求められます。最初の頃は英語が出来ないという自然バリアがあるから、話はそこまで深刻にならないけど、本当にしんどいのは英語が上達して、ある程度のレベルの会話ができるようになってからです。自分の意見がない、というのは自分は居ないということで、それこそが人格の存亡に関わる「恥」ですからね。

 これって文化的な差異とか、西欧個人主義がどうしたって話じゃないですよ。別に西欧ではなくても、インドだろうが、アフリカだろうが同じだもん。てか、自分の価値観がない、自分で何考えているかわからないってのは、生き物の存在形態として非常にイビツでしょう?脳味噌や魂のアクセス権を他人に委ね、他人に勝手に自分の魂の書き換えを認める、、、というのは、一個の生き物としてありえないじゃん。

 ゆえに、何が正しい、何が美しいかを決める第一次的にして最終決定権者はほかならぬ自分でなければならない。まずは自分はどう思うか?でしょう。もちろんセルフ・ライチャス、独善や自己中に陥ってはならないから、他者の意見にも、先哲の叡智にも耳を傾けるべきですよ。でも、それもこれも中核たる自分あってこその話であり、自分が無かったらなんにもならない。

 でも、
 「皆がいい方でいいで〜す」的な、
 「皆どうしてます?」的な、
 「皆さんそうしてらっしゃいます」的な、
 「イチオシどれですか?」的な、
 まずは他人が決め、しかる後に自分がそれをアクセプトできるかどうかを決める。
 場合によっては受容できなくても無理やり受け入れるってのは、行き着く先はハッピー奴隷ライフだろ。

 僕個人の価値観でいえば、何が恥ずかしいって、このくらい恥ずかしいことはないと思いますよ。

衆愚多数決

 第二に、その他者達(世間)での価値判断というのは、往々にして単なる多数決に陥りがちであり、しかも少数意見が圧殺されるという最悪の多数決である点です。また、その多数決でも、資料を蒐集し真剣に考え抜いた末の結論というよりは、パッと見の感情論になりがちだし、過ぎてみれば間違ってる場合が多い。これはほぼ自動的にそうなると思いますよ。

 なぜなら人間の本性について、僕は怠け者だと思ってるから。そんな全てのことに全精力を使い果たして調べて、考えて、、とかクソかったることやるわけがない。勿論中には頑張ってやる人はいるだろうけど、少なくともマジョリティはそうではない。だとしたら、知的怠慢ぶっこいたまま、なんとなくの見た目の「ムカつく〜」くらいの感じでマジョリティが形成され、それが価値基準になり、そこから外れると「恥ずかしい」かのような思いをさせられる。

 ということはですな、この社会において、より真剣により本質に迫った意見(かったるいことをわざわざしているご苦労な人達)が相対的に少ないがゆえに、社会の趨勢は常により浅薄愚劣な意見が大勢を占めがちであり、常に劣化方向に進むという救いのない話になるではないか。特にtwitterの一行広告みたいな、チラ見してムカつくかどうかレベル、風が吹いたら右にも左にもいく雲みたいな感情的な要素で決まるとすれば、その場の偶然の雰囲気で物事が決まり、それによって個々人の価値観も上書きされるってことでしょう?よくそんな恐いことやってるなって思うけど、だからこそ日本では「空気を読む」ことが致命的に大事なのでしょう。実際にフレーズにもなってるしね。会議とかやってて「なんだか、”雲行き”が怪しくなってきたな」とかさ、言うじゃんさ。

 これはギリシャ時代から言われている衆愚政治の問題点だけど、しかし、政治形態としての民主主義の欠点ならまだ救いはあるのですよ。単に集団的意思決定のシステム的な問題であるなら、衆愚リスクを避けるために、少数意見に対する特別な配慮を行ったりもします。発言機会を保証したりね。最高裁の判決でも、結論と異なる少数意見を併記したりしますから。また多数決で決まったとしても、少数意見はそのまま意見を変えず(決定には従うが)次回に捲土重来を狙ったり、一層の啓蒙活動に励んだりもする。だからチャンスはまだある。恐いのは、事柄が価値観レベルであるだけに、マジョリティである衆愚にそうでない人達の価値観や魂まで染められてしまうことです。人間そのものが塗り替えられてしまうんだから、ヤバイでしょう。

 例えば、自分はこう生きていきたい、世の中のここがおかしいというのを「熱く語る」人は、それだけで暑苦しいやつだとか、別に熱くなくてクールに語るだけでも、その「語る」という行為だけで「うざい」とか言われる傾向があります。物事を真剣に考えること、それを他者に表現すること自体が「恥ずかしいこと」という価値判断って何なの?

 で、最初はそれに疑問をもつけど、だんだん悪慣れしてくる。モラルハザードのように、「まいっか」「しょうがないよね」「これが現実だしね」みたいなオチになってしまう場合もある。そして、昔の自分のような人が熱く語りだすと、迷惑がるという。おめでと〜、価値観上書き完了!です、これで君も立派な「社会人」「大人」ってか?

 そこまでいかなくても(洗脳コンプリ手前であっても)、何かを言いたくてもどっかしら恥ずかしいからやめておこうとか思ったりする。その行為の抑制原理は「人として正しいか」ではなく、「他人にどう思われるか」ではないですか?なんで他人がそれを決めるの?それでいいの?一生そのまま言いたいこともろくに言えないまま死んでいくの?それが理想の究極形態なの?

 上書き完了結果として、右向け右のリモコン操作の鉄人28号(古い)みたい人々が生成されるのみならず、日常生活においても自我や個性に乏しい人間的魅力に欠けた人間が量産される。行動規範は「みんながやってるから」的な大勢迎合的なものになる。まあ、みんながそれで幸せだったら、それでもいいでしょう。珊瑚礁の一角みたいな人生でもそれはそれで幸せかしらん。ほんでも、みんなが不仕合せで愚痴たらたら、でもガマンだけが人生さ、諦観だけが真実さ、、だったら、本来幸せなはずな人でもそっちに無理やり引きずり込まれるアホらしい事態も起きる。珊瑚が死んだら自分も死ぬみたいな。実際今この瞬間にも大量に生じているでしょ。ときどき、「なんでそんなにネガに考えるの?」と僕からみたら感心するくらいですよね。もうね〜、「後方二回ひねり伸身宙返り」くらいの高難度で複雑な思考経路をたどって不幸になってるという。「え?え?もっかい言って」ってくらいの。器用なもんだな〜って。

 今、僕は、特に日本のことだけではなく、人類社会共通の民主主義と衆愚政治みたいな話をしています。

 ほんでも、日本には独自のツイストがあり、そして何がその原因なのかを考えていくと、この「恥の文化」とやらではないかと思うのですよ。

 オーストラリアにせよ他の世界中の国々にせよ、アホアホなことをやっているのは人類共通の愚かさとしてあるんだろうけど、でも一点決定的に違い、そこが救いになるのは、自分の意見をいうことを「恥ずかしい」とは思わない点です。

 いや、もう、ほんと感動しますよ。大聴衆の前で、はいって手を上げてマイク貰って発言するのは勇気いるし、僕でもビビるけど、でも全然ビビらない。それ以上に感動的なのは、「よく、そんなしょーもないこと言えるな」って意見を堂々と展開する点です。これ、日本人だったら恥ずかしくてよう言えんぞってことでも平然というし、皆も平然と聞いている。すげーもんだなって思った。

恥ずかしいけど誇らしい

 紙幅も迫ったので、いよいよ冒頭に回帰していくんだけど、マイノリティになることが恥ずかしいこと、またマイノリティの極致である自分(なんせ一人なんだもんね)を出すのを恥ずかしいと思ってたら、皆と違う自分のあり方自体を恥らう心理にもなりますよね。自分だけちょっと毛深いから恥ずかしいとかさ、愚にもつかないやつ。美意識や好き嫌いがちょっと違うだけで疎外感抱いたりさ。

 それに「みんな」と言ったところで、語るも愚かしいほどドマイナーな小集団のなかでの話でしょ?大体やね、地球レベルでいえば日本列島自体がドマイナーでしょ。一夜にして日本沈没しても翌朝には誰も気づかないくらいの。そりゃアフリカ大陸が消えたらすぐに気づくだろうけど、日本列島くらいだったら、よっぽど注意深くないと気づかんよ。嘘だと思うなら、あなた、今この場でアリューシャン列島の絵を描いてごらんよ。どれだけ正確に描けますか?その程度の存在っしょ。はたからみてたら。その日本に1億人以上という大量の人間がいて、自分の集団というのはせいぜい数人の仲良しグループや、30−40名のクラスでしかない。比率なんぼ?0.00000001% くらい?これのどこが「みんな」なのよ。もう井の中の蛙なんてもんじゃなくて、その蛙の中の細胞の、その中のミトコンドリアがゴルジ体と違うから「恥ずかしい」とかそんなレベルでしょ。正味客観的な事実は。

 しかしそのミトコンドリアが全世界にも匹敵して見えるという、凄まじく歪んだパースペクティブがあってやね、そこでウンウン悩んでいるという。いずれにせよ、そこで自分のあり方自体に恥ずかしさを感じてしまえば、自分と対面して、自分と語り合うこと自体が恥ずかしくなってくるわけでしょう。

 そうなると何がアカンかといえば、「没頭していると恥(世間)が消えるの法則」が起動しなくなるのですね。なぜなら、心底没頭するためには、まず「やりたい〜!!」という強烈な欲求が要るんだけど、自分の魂の声を聞こうとしなくなってるからそれが出てこない。そんな「みんなと同じで〜」くらいのクソぬるいモチベーションでは絶対駄目だし、皆と同じ〜って言ってる時点で皆(世間)が消えることなんかありえない。

 さらに、それの何がアカンの?というと人生楽しくならんやん!
 そもそも自分のライフって気がしないんじゃない?

 冒頭で述べた数例、例えば愚かな恋愛にせよ、ドンちゃん騒ぎにせよ、やってる最中は夢中すぎてようわからんかもしれないけど、あとになって後悔することは少ないですよ。むしろ、それこそが自分が生きてきた証として誇りに思うと思う。

 もちろん、同時に穴があったら入りたい〜ってくらい、こっ恥ずかしい思いもするんだけど、でも誇らしい。

 自分のこれまでの来し方を振り返って、一番楽しい時期を思い出してください。特にいい仲間に恵まれてあんなことこんなことやってた時期。すごい楽しかったと思うのですよ。で、判で押したように皆さんこう言うのね。「あの頃は、馬鹿ばっかりやってたな〜」って。馬鹿ですよ、「馬鹿」。自分で言ってるんですよ。ピンポンダッシュみたいに到底人に自慢できるようなことではなく、愚劣といえばこれ以上無意味で愚劣なものはないだろうってことをキャッキャとはしゃいでやっている。でもそれが楽しい。客観的にはめっちゃ恥ずかしいことなんだけど、それも重々承知で、恥ずかしさも感じるんだけど、でも後悔はしない。あれがあったから今もやっていけるんだくらいに思うし、自分のバックボーンになってたりするし。

 恋愛なんか最たるもので、我ながらよくそんなアホなことをって思い出し絶句するようなことをする。あらゆる周辺状況を冷静に分析検討すれば、絶対にやってはいけないってことばかっかりやってたりする(笑)。遠距離恋愛とかになると、お前は松本清張の「点と線」か?ってくらい、時刻表を読み込み、およそ無理目のスケジュールを強引にたてたりする。貧乏でピーピーいってるくせに、大枚はたいて列車や飛行機に乗って、ターミナルで束の間の逢瀬。わずか30分か1時間だけ会ってまたトンボ返り。コスパ超悪すぎ。そこまでしてまで会いたいか?っていえば、会いたいんだよな。そういえば僕も金がないからドンコーで京都から延々乗り継いで、三島駅に午前3時に降りて、夜が明けるまで意味なく三島の街をさまよってましたねえ。もうヒマでヒマで。でもって朝日がきれいね〜って、バッカじゃなかろかって19歳。でも、誇らしげ。

 ということで、親愛なる諸賢諸侯におかれては、「恥ずかしいけど、誇らしい」ことに旧来に倍してお励みいただきたく。

 また、くれぐれも、諸兄諸姉の唯一にして絶対なる魂(価値観)のアクセス・上書き権を、自分以外のどっかの馬の骨の集合体である世間とやらに委ねることのなきように。ぼけっとしてるとハッキングされまっせ。






 

文責:田村