705


  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次

今週の一枚(2015/01/12)



写真をクリックすると大画面になります



Essay 705:神さんの仕事を奪ったらアカン

〜「人事を尽くして天命を待つ」の意味
〜天界の管轄、人間界の管轄
 オーストラリアのネイティブトリーを撮った一枚。
 現物見た時も、木のウネウネ感がアートしてるっぽくて面白くて撮ったんだけど、後でしげしげと写真をみてたら「この感じ、なんか知ってるぞ」「そうか、アボリジナル・アートか」と思うに至りました。

 そして、それがこの国=イギリス人入植者が来てからの現代オーストラリアではなく、数億年スパンで連綿と続くこの大地や世界の根本律なのかも。巨木が一本すっと直立しているわけではない。枝が大中小と序列化されているわけでもない。似たような太さの、ひょろりとした幹。それは「ひねこびた」とすら形容できるくらい複雑に折れ曲がり、でも媚びてない。それぞれの成長時点で素直に日光を求めてこう曲がったのでしょう。曲がっているのも、ひねているのも生きた証。それは個々の人生にも似た、そして群像にも似た。

 オーストラリア人だったら誰でも知ってるドロシー・マッケーンの超有名な詩 "My Country"の一節。"I love a sunburnt country"。「陽灼けした国」の過酷な大地の特殊な動物相・植物相においては、序列を作らず、それぞれが精一杯生きている。

 アボリジナルアートの、一見とっ散らかった、あたかも失敗した曼荼羅的みたいな「無秩序のなかの秩序」、そして偏執的なまでに細かくドットを打っていくモチーフはこれかあって。こういう風景を見て生まれ育てば、そういう世界観にもなるわなと。序列なし。後年やってきた世界の連中がマルチカルチャルになっていくのも、そういう大地だからなのかもしれない。

 なあんて深読みしたくなるくらい、やっぱりアートしてました。人に何かを思わせ、考えさせるものはすべからくアートだと思うし。撮影場所はノースのBerry Island。



 口頭ではよく言うけど、そういえば書いたことは無かったなというネタを一つ。

 一言でいえば「人事を尽くして天命を待つ」なんだけど、もっと砕けた分かりやすい表現でいうものです。だって「天命」といっても、正直いってリアリティないでしょ?少なくとも僕にはリアリティが感じられない。生まれてこの方「天命」なんか一度も触れたことないですもん。この先だって期待薄だし。

 ただ、その言わんとする意味はわかります。
 これを僕なりに解釈するとどうなるか?が、本稿の話題です。

天界の管轄

不可能なことをやろうとしている

 何か頑張っているとき、とても苦しく感じられる時期があります。頑張ってるときは誰でもそうなのかもしれないけど、それでも異様なまでに、もうメンタルがおかしくなるくらいに辛いって場合。

 なんでそんなにツラく感じられるのだろうか?
 僕が思うに、「不可能なことをやろうしているから」ではないか?

 最初から100%可能なことをやるなら、そこまで辛くはないはずです。いつもと同じようにマイカーに乗って職場まで通勤するというのは、普通に可能なわけで、それをやるのがメチャクチャ辛いってことはないでしょう。

 「人事を尽くして〜」系が辛いのは、「うまくいかない可能性があるから」でしょう。受験であったり、就活であったり、愛の告白であったり。もう超緊張しますよね。「もしダメだったらどうしよう!」って思う。

 つまり、この種のツラさは「結果が見えない」ことに基づく辛さだと思います。上手くいく可能性もあるけどダメな可能性もあるという「どっちに転ぶかわからない」=結果の不確実性が辛い。その場合に「やるべきことをしっかりやって、あとは天命に任せろ」って「腹括りの教え」が出てくるのでしょう。

 ちなみに真逆に100%不可能なことだったら、その辛さはまた種類の違ったものになります。例えば高層ビルの屋上から飛び降りて「鳥になって空を飛べ」とか言われても、そんなの絶対不可能です。それを強制されるということは、要するにビルから突き落とされて殺されるに等しい。勿論相当ハードなのですけど、辛さの種類が違う。結果の帰趨にヤキモキするという辛さではないです。

部分的不可能

 換言すれば、人事〜天命系は、ある部分までは可能だけどある地点から先は不可能になる物事を対象にしているのでしょう。

 例えば受験を例に取るなら、願書出して、試験場に行って、答案用紙に自分なりの正解を書いてくる、、ここまでは十分に「可能」であり、それだけで良いなら話は楽です。「答案用紙に名前さえ書けば全員合格」みたいな受験だったら気楽でしょう。

 しかし、実際には落ちる可能性があります。もしかしたら自分の知らない領域ばかり出題されたり、他の受験生のレベルがえらく高くて相対的に劣ってしまったり、論述問題や面接系は採点官の主観によって左右される度合いも高い。これらの「変数X」というか、不確定要素があるから、100%確実とは言い切れない。

 そしてそれを100%までに高めることは、まず絶対に不可能だといっていい。どんな問題が出るかわからんし、採点者の主観なんてそれこそ予想しようもないですし。これは受験でいえば最高得点者だって、あるいは出題採点をしている人だって、自分で受けてみたら100%とはよう言えないでしょう。何が起こるかわからないのが世の中ですから。

 したがって、不確定要素、多くの場合は「運の要素」が入ってきます。不確定なんだから確定できない、絶対大丈夫という100%保証は無理。つまりはその限りにおいて「不可能」です。

 でも、それをもひっくるめて「絶対合格」とやろうとしたら、こりゃあ苦しいですよ。
 だって部分的に言えば不可能なことをやろうとしているんだから。不可能なことは出来ません。だからこその「不可能」なんだし。それを「絶対やり遂げる!」というのは、そんなもん無理に決まってます。無理をやろうとしているからしんどい。それだけのことではないか。

運と上手につきあう

 運を100%支配することは、あなたが神様でも無い限り不可能です。コントロールできないことを「運」というのだから。もし自分の思い通り支配できたのなら、それは不正でしょう。サイコロ賭博で、サイコロの中に鉛を仕込んでおくとかいう類のイカサマです。

 繰り返しますが、誰も運を支配できない。買った馬券は必ず当たり、渡る信号は常に青になっており、株でも買った銘柄が必ず値上がりする、、、そんなこと誰にも出来ない。そうなるために必死に努力はするし、上手くいく場合もあるが、無限に勝ち続けることは出来ない。

 運は支配できない。出来るのは、運と「上手に付き合う」ことでしょう。
 人事〜天命系は、要するにこの運と上手に付き合いなさいねってことだと思うのです。

それは神様の領域

 くどいようだが、運は人間には支配できない。
 それは神の領域でしょう。

 別に神を信じているわけではないんだけど、そんなこと(運支配)が出来る存在を言葉で表現すれば「神」的な存在になっちゃうだろうし、別の表現をすれば「天」ですよね。だから「天命」だと。

 その宝くじが当たるかどうかも、就活で採用通知がくるかどうかも、一か八かの起業で成功するかどうかも、勇気を振り絞って告白してフラれるかどうかも、すべては「天の配剤」であり、神の思し召しであり、み仏のお導きであり、アラーの神だったり守護霊様だったり、、、、もうなんでもええけど。

 天なり神なりが「あかん!こんなんで成功したらお前増長するやろ?もっと修行せえや」って言ったり、「とりあえずプロポーズはOKにしといたるわ。せやけど結婚した後で今の三倍しっかり修行してもらうで」とか考えて、「はい、OK」「はい、ダメ〜」ってやってるのでしょう(笑)。

 ということで、さきほどの部分的不可能=運の不確定要素は、人間の領域ではなく、神様のお仕事なんだろうね。

 で、恐れ多くも人間ゴトキが、神の領域に手を突っ込んで、神の仕事を横取りして上手くやろうとか考えてるからこそ異様にしんどく感じられるのだと思います。そんなん無理無理無理。無理なことしてるからしんどいんやんか〜。当たり前やん。

 神さんの仕事、奪ったらアカンで。このバチあたりが。

人間界の管轄

人事をつくす=ベストを尽くす、そんだけ

 結局僕ら人間にできる事は、ベストを尽くすしかないです。Do your best! 

 それだけ。
 たったそれだけ!超簡単!
 それにさ〜、どっち転んでも、それしかやること無いじゃん。
 他に何かやることあるの?

 そりゃお百度踏んで「祈る」というのはアリでしょけど、それは祈る以外にやることがない人の場合ですよね。
 受験でも、受験生本人が「合格しますように!」と朝から晩までひたすら祈り、護摩を焚いて赤々と照らされ髪振り乱して真言を呪して、日本全国津々浦々を駆け巡って合格祈願お守りをコンプリートして、、、などとやってるヒマがあったら勉強せんかい、勉強!ですよね。それが一番有用でしょうに。

 結果に対して客観的に最も有効だと思われる実働を積み重ねていくしか無いのだ。いかなる場合も。

 だから自分の思うところのベストを尽くす。頑張る。それだけでいい。
 そっから先は神(運)の領域だから、迂闊に手をだしたら、神の逆鱗に触れて地獄の業火に焼かれまっせ。

各論(あてはめ)が大事

 以上は総論で、本当は個々のケースにあてはめる各論が大事だと思います。

 つまり、個別のケースにおいて、ここまでは人間界、ここから先は天界(運)という線引をちゃんと出来るかどうかです。

 いつもこの話をするのは、シェア探しのお手伝いをしているときですが、最初にシェアの電話をするのは誰でもメチャクチャ怖いです。なんせ英語で何言ってるのか全然わからないのに、それでも電話をするという。もしガチャ切りされたらどうしよう、もし全然インスペクション(見学)のアポがとれなかったらどうしよう?皆出来てるのに自分だけダメだったらどうしよう?と不安になります。

 でも、そういった「結果」については、天界に属する出来事なので責任を負わなくてもよろしい。たまたま電話をかけた相手がシャワー中で電話を受けられないかもしれないし、"It's gone(もう決まっちゃった)"かもしれないし、その直前に夫婦喧嘩が始まって虫の居所が悪いかもしれないし、、、、無限ともいえる不確定要素があります。その全てに責任なんか負えるわけがない。単なる運の問題過ぎない。そこに「アポが取れない自分はダメな人間なんだ」「もうオーストラリアでやっていくことが出来ない」とか過大な意味付けをしてはならない。

 実際、他の箇所でも書いたけど、過去最高で41連敗(42だったかな?)した実例があります。もう運が悪いのも極まれりって、かけてもかけても、出ない、話し中、出ない、出ない、出ない、It's gone、出ない、It's gone、話し中、電波悪くて通じない、スィッチ切ってる、出ない、話し中、it's gone、会話の最中電波が途切れてそれきり、出ない、、、、もうかなりメゲそうになります。

 でも、41回かけてダメだったときにやるべきことはたった一つ=「42回目をかける」こと。それっきゃないでしょう?前に進むと決めたら前に進むしかない。いつもいいところまで話が進むけど、しゃべり方が傲慢だから向うの気分を悪くしてダメになってるとかいうなら、内容について吟味する必要もあるけど、まだそこすらたどり着いてない。相手が電話を取るかどうか、話し中かどうかなんか、純然たる運でしかない。

 運の問題(天界)は、数学的確率の問題でもありますから、期待値はどんどん高まるし、統計学でいう「平均値への回帰」という巨大な力が作用するに決まってる。案の定、41回目まではダメだったけど、42回目以降は潮の流れが変わって、かける電話かける電話ビシバシ通じて、その相手が揃いもそろって超いい人達ばっかで、アポもバンバンとれて、、、、ってなりました。そうなって当然でしょう。やたら雨ばっか降り続く時期もあるけど永遠に続くわけではないのと同じ。

 そういった運の問題は、神様の領域だから責任なんか負わなくても良い。僕らに出来るのは、ベストを尽くすことだけ。「電話をかける」という行為をするだけ。だから、最初の電話をするときに、「電話かければいいから。アポが取れるかどうかという結果なんかどうでもいいから」って念を押します。そりゃアポが取れたらうれしいし、大きな自信になりますから、そこまではやりたいですけど、でもそれは運。おみくじ引いて大吉が出るかどうか、神経衰弱ゲームで二枚同じのを引き当てるかどうかです。

 次にとったアポ先まで出向くのもドキドキです。もう初めての海外の街、知らない公共交通機関、ただでさえ地図読むのが苦手なのにたどり着けるのかしら、ちゃんとアポ通り待っててくれるのか、すごく嫌な人だったらどうしよう?とか、台風前の水平線のように黒雲不安が次々に湧き出てきます。でも、これも運でしょ。ここでの人間界のお仕事は、頑張って行くこと、相手がいたら話をしてくることです。結局一つも見れませんでしたでも構わない。やることはやったんだし、ベストは尽くしたんだからそれでいい。結果的にどうなるかがポイントではなく、メゲずに、腐らずに、ベストを尽くせたかどうかがポイントでしょう。

運に負けるのはクレバーさの問題

 世の中こんなことばっかりです。そこに不確定要素(運)が入り込むのであれば、いずれも同じ構造になります。自分の店を開けば、全然客がこない日もあれば、来る客来る客全員ヤな奴ばっかって日もある。車を走らせれば、信号運が良い日もあれば、悪い日もある。上司に叱責される日もあれば、褒められる日もある。

 世の中には「何をやってもうまくいかない人」というのが居て、いろいろな原因が考えられるけど、大きな理由は、「ちょっと不運が続くとすぐにメゲてしまう」パターンだと思います。3回連続ダメだったら、もうやる気がなくなる。ああなんて俺は無能なんだとか、これは自分に向いてないとか、到底無理なんだとか。物事にもよるけど3回ぽっちで何が分かるものでもないのに、分かった気になる。

 運に過大な意味付けをしてはいけないし、運に負けてはいけない。この部分のストレス耐性はメチャクチャ重要だと思います。人生で一番大事な能力かもしれない。それを「根性」と呼びたければ呼べばいいですけど、僕は根性とかいう以前の問題だと思います。むしろ根性の問題とは位置づけないクレバーさであり、そのストレスへの耐久力というよりは、そもそもそれをストレスとは感じない洞察力の問題ではないか。

 つまり、これは運の問題だ、天界の仕事だって見抜けること、冷静に全体構造を見極められるかどうかという賢さの問題だと思います。やってる物事のスケールや奥行きを考え、標準偏差というか「運のバラつき」の大体の規模を見極めること。シェアのアポだって、多くの場合は空いてる部屋を貸すだけの話で、別にそれを本業にしているわけではない。たまにそれを家作運用として本業のようにやってる人もいるけど、大多数はプライベートな話です。だから電話も、向うにすれば「私用電話」なんだから勤務時間中に電話にでるかどうかもわからない。晩飯時だからでなくても不思議ではないとか、週末にこれだけ晴れてたらそりゃ海に行ってるだろうなとか。さらにオージーをはじめとする世界の人々のいい加減さを考えれば、アポの時間にいるかどうかもあてにならない。むしろ時間通りちゃんと来る人の方が少ないくらいです。

 実際のシェア探しでは、そのあたりの全体構造と大体のカンドコロはお教えしますが、自力でなにかをやる場合でも、ざっくりした全体構造は掴むように心がけると良いと思います。これは天界ではなく人間界の仕事です。パチンコでも釣りでも1万回に一回しか勝てないなら、ここまで流行ることはないでしょう。そんなに勝率低いんだったらやる気もなくなる。パチンコの出玉でも、適当にそこそこ結果が出るくらいには仕組んでいる筈だ、愛想尽かされたら商売あがったりですからね。適当に夢を見させて、いい思いもさせて、でもトータルでは損をさせる(店が儲かる)くらいのところに設定しているだろうってのは容易に予想がつくと思うのですよ。でも、これ、「根性」ですか?

 他方、全体構造といっても大雑把にそうだというだけの話で、ピッチリなにもかもそうだというのではない。そこには当然ながら偏差(バラつき)がある。例えばラウンドのファーム仕事探しでも、この時期のこのエリアは◯◯の収穫時だから仕事が多いとか、もう収穫終わったから仕事がないとか、大勢としてはそうだろうけど100%そうなるわけがない。ちょっと考えればわかると思うのだが、大体全ての農家が同じ作物を栽培しているとは限らないです。それに仕事は何もピッキングなどのハーベストジョブ(収穫作業)に限ったものではない。プランティング(植え付け)だってあるし、ウィーディング(草むしり)だってあるし、納屋の掃除やら農機具の手入れやらもあろう。さらには純然たるプライベート要因だってある。例えば奥さんが実家に帰っちゃったから人手が足りなくなりましたって場合だってないわけではない。そのあたりは偏差・バラつきの問題で、ちょっと仕事が見つからないだけで、「このエリアはもうダメだ」「何をやっても無駄だ」と思うのは早計に過ぎるでしょう。

 そういえば、もうギャグレベルなんだけど、よく「冬だから農作業はないですよね」みたいな話がありますが、君は"冬野菜"の存在を知らんのか?日本だって、鍋料理にいれる野菜、白菜とかそのあたりは冬にとれる。おせち料理に出てくるものもそう。昔は冷凍技術もビニールハウス栽培もないから天然にそうだったわけで、だからこそ「旬」がある。それに農家の皆さんだって生きていくためにあれこれ知恵を絞っているわけで、農閑期だから何もしないってわけでもない。日本は米作が多いので、農作業=米作りカレンダーでものを考えがちだけど、別に農作物は米だけではない。さらに日本の米だって沖縄と北海道では収穫時期は全然違うし、米余りだからやってないけど二期作というのもある。同じ穀物でも麦は一般に初夏に収穫するし。それをミソもクソもごちゃまぜにして「冬だから」とかアバウトな感覚でいたら、そらあかんでしょう。

 いずれにせよ、それが運の要素なのかどうか見極め、さらに精密に「ここからここまで」と査定し、大体このくらいの規模と確率で〜というのは、ある程度考えれば出てくるでしょう。そこを十分に考察せずして、ちょっと不運が続いただけで、もうダメだ、もうなんたらというのは、運に負けているのだと思う。そして、なんで負けるのかといえば、それは根性がないからではなく、クレバーさが足りないからだとも思います。

 なお、やりたくないからその言い訳として早急にネガ結論を出しているってケースも多々あると思います。シェアもファームも探したいけど、そんなにハードにバキバキやるのが恐い、面倒臭い、本音をいえばやりたくない、棚ボタみたいにラッキーが転がり込んでくるなら良いけど、自ら大海を泳ぎ渡るような気力がない、、って場合。

 このような場合、「やるだけやったけどダメでした」って形にしたいってセコい策謀心理が出てきます。カッコつけというか、「やりました」「頑張りました」という体裁だけ整えて、でも本気でやる気は無いという、おなじみの日本の政府・官僚みたいなやり方ね。だもんで、数回やってダメだっただけで「今年は無理だ」「自分には向いてない」って短兵急に結論を出したがるという。これは種類が違う問題でしょう。次に書く「ベストとはなにか」問題です。

ベストを尽くしているのか

 天界(運)のことは天に任せればいい反面、人間界のことは自分で責任領域です。人事を尽くす、ベストを尽くすっていうけど、本当にベストを尽くしているのか?

 いっちゃん愚かしいのは、運不運の波動に翻弄されて、頭と心が劣化して、ベストを尽くせなくなることです。

 受験技術でよく言われるのは、「落ちたときの言い訳を考え始めたら」→「お前はもう落ちている」です。
 問題を解いていて全然手応えがない、「ああ、ダメだあ」って気分が滅入るんだけど、そこでどれだけ自分をキープできるかが勝負。「ああ、今年もダメだ」「親や友達になんて言えばいいんだ」「今年から出題傾向がガラリと変わって」「隣の奴が貧乏ゆすりするから集中できなくて」「やたらガシガシ消しゴム使うから机が揺れて」とか、やってる最中に考えはじめたら、もう落ちてます。

 話は簡単で、だってベストを尽くしてないんだもん。「落ちた時の言い訳を100個考えてそれを答えよ」という出題でもない限り、それを考えているということは、ちゃんと問題を解いていないってことでもあります。そりゃダメっしょ〜。それがどれだけ変なのかは、受験ではなくセックスだと思えばいいです。彼女/彼氏を満足させられなかったときの言い訳を考えながらコトに当たってたらアカンでしょ。もっと真面目にやれ、です。これはシェアだろうが、仕事だろうが、なんでもそうです。

 言い訳なんか落ちてから考えたらよろし。人間、言い訳の天才ですからね〜、どんなアホでも言い訳だけは秀逸なのを思いつくもんです。もしかしたら人間の一生で、累積して一番頭を使っているのは言い訳を考えているときかもしれないってくらい、言い訳はすぐに思いつく。体調が万全ではなかった、不景気だから、氷河期だから、相性が悪かった、誤解された、差別された、天中殺だった、、いや、それが間違ってるわけではないだろうし、部分的にはそうでしょう。でもそんなの簡単に思いつくから、何も受験中にいそいそと準備しなくてもよろしい。不合格発表を見た後の数秒間で幾らでも思いつく。それに、実際には意外にも合格してたりする場合も多いから、そうなったら言い訳をいう機会すらない。


 何がその場におけるベストなのか。これは頭を振り絞って考えたらいいです。でも、正解なんかないですよ。その時点その時点で、自分が得られた情報をもとに、自分で考えて、これが最善って思えることで良いです。てか、それ以外にやりようがないでしょう?

 リアルに物事考えた場合、何がベストであるか?という戦略・戦術部門のレベルアップよりも、やるべきコトなのは重々承知していながら面倒臭がってやってないってケースの方が圧倒的に多いと思います。つまり、「何がベストがわからない」パターンではなく、「ベストはわかってるんだけどやってない」パターンの方が多いと。

 その気になれば簡単に出来ることなのに、なぜかやってないことって山ほどありますよ。「わかってんならやれよ」「さっさとやれよ」ってレベルの物事ですね。そっちの方が多いし、そっちの方が有効。知力の限りを尽くして頂上の高度をアップさせるというよりは、足元に転がってる未完了でほったらかしにしている作業を詰めていくって感じですね。

 客観的に何がベストなのか、それは多くの場合、全て終わった後に答え合わせのように分かるでしょう。事前にはなかなかわからない。また、どこまでが運の要素なのかも正確には終わってみないとわからない。そして、終わってもわからないし、この世で誰一人わからないってこともあるでしょう。競争入札で頑張って応募してダメでした、でも後から聞いた話だと全部談合で話がついていて出る幕はなかったから何をやっても無駄だったとか。しかしさらに追跡調査すると、最終局面で談合が破談になって結果的に純粋な入札に戻っていたととか。さらにさらに某大臣と某知事とで上の方で話がついていて、結局入札がどうなろうとも計画そのものが長期的には取りやめになる筈だったとか、しかし政変があってその事情も変わって、、、とか、こんなの結局誰にもわからんのです。

 これは正解を知るゲームではなく、その時点でどれだけ自分らしく頑張れたかゲームでしょう。自分なりにこれがベストだと思えば、ただ淡々とそれをやればいいだけだと思いますよ。将棋の感想戦のように「ああ、あのときに」って全てが分かることなんか実社会ではマレです。たしか将棋やチェスは「完全ゼロ和ゲーム」とやら言うらしく(山田正紀の「謀殺のチェスゲーム」という面白い小説に出てくる)、ゲームのルールで明確で、盤面の情報や相手の手の内(持ち駒)が100%見えて(不意打ちはない)、、という実社会ではありえない純然たる知能ゲームの場合の話。


 以上、結論としていえば、その時点で自分がベストだと思えることを、ただ淡々とやれば良い。やるべきだと思ってながらやってないってことがないように、面倒臭がらずにやる。ただそれだけだと思います。

 そして、そっから先は、天界の神さんの領域ですから、もう神様に任せる。

 やや乱暴に言ってしまえば、とかく気になる「結果」ですけど、結果?そんなもん知ったこっちゃねえ!って突き放すくらいでいいと思います。足元固めてベストを尽くす、他に何がある?無い。だったらそれをやる。ピリオド。end of the storyです。それ以上考えるな。

 :
 :
 これ、力任せなこと言ってるようで、でも本当にそう思う。
 よく言うでしょ、アーチストがベスト・パフォーマンスに至った時は、自分が無くなる、無心になるって。ウケようとか、唸らせようとか、自己顕示とか、だんだんどうでも良くなってきて、純粋に演(や)る快感が広がっていって、一体化していって、今ここはどこで自分は誰で何をやってるという見当識すら薄らぎ、ついには自我意識すらもなくなっていく。スポーツ選手でもそうだというし、いわゆる武道の極意なんかもその種の話が多い。「己を虚しくして空となる」とかさ。

 仲間内で心底楽しいカラオケで没我の境地に入るように、ダンスしててトランス状態になるように、結局それがベスト・パフォーマンスであり、「ベストを尽くす」ってそういうことだと思うのですね。結果とか見栄とかがチラつくようじゃベストパフォーマンスになってないんじゃないか。「無我夢中」っていうくらいで、自分は無いし、全ては夢の中のように感じる。

 そして、振り返ってみれば、一番楽しくて充実しているときって、その「自分が消えちゃう時間」だったりする。そこには結果もヘチマもないし、自分すらもいない。てかね、長いスパンで考えると、本当に求めるべき「結果」というのは、実はそういう状態になることなんじゃないかな?そのあとにやってくる世俗的な”結果”とやらは、まあ世俗的な残務整理みたいなもんで、過ぎてみれば実はそんなに大事ではない。その時点で、自分を高めて盛り上げていくための仮想照準みたいな感じですかね。



 

文責:田村