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今週の一枚(2014/12/29)



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Essay 703:WEB女工哀史

〜いわゆるスマホ対応について思うこと
 今週は恒例のハーバーブリッジのNYE(New Year Eve)の花火があります。
 この写真を撮影したのがちょっと前の頃なんだけど、すでにブリッジの橋梁中央付近に、花火用のディスプレイ型枠が組まれてますね。

 でもって、いかにも夏!って感じの雲が良かったので、選びました。



 え〜、アホな話ですが1日勘違いしていました。こちらのクリスマス&ボクシングデーの「気分は既に元旦」に曜日感覚ズレてしまったのか、今日は土曜日〜とか思ってたら日曜日で、つまりエッセイの締切日でした。「げげ!」と思って、やおらキーボードに向かってパコパコ打ってます。こういうときは、テーマらしいテーマを決めずにとにかく書きましょ。

いい加減してくれ、Webデザイン

 先日、Googleさんからメールが来ました。「おたくのHP、スマホ画面に対応してまへんで〜、あれじゃアカンで」と、Web Master Toolなどに登録している関係で、わざわざ言ってきてくれたわけです。関西弁じゃないけど。

 かなり前からサイトのスマホ(or 携帯)対応は言われていたわけですけど、これだけボリュームのあるサイトで「対応って言われてもねえ」ってほったらかしにしてました。特にスマホ以前のガラケー表示では「もう無理」って感じで。

 ところがスマホになって多少は見えるようになって、今回カミさんがゲットしてiPhone6のデカイ版などを見てると、このくらい画面が大きいならスマホでネットというのもアリかなって気にはなります。iPadなどのタブレットサイズだったらそこそこマトモに表示されるし。

 んでも、自分がスマホ使わないので(出先で仕事メールのチェックするくらい)、さほど真剣に考えてなかったのだけど、Googleさんがあんまり言うので調べてみたら、やっぱ半数くらいはスマホでアクセスしてました(それもiPhone+サファリのシェアがダントツ)。こんなサイト、スマホで読む人いるんか?と思ったら結構いる、と。

 おっしゃ、じゃあスマホ対応というのやったろうじゃんってやり始めたのですが、既に挫折気味。こんなもん「やってられっか!」です。まずはそのあたりの話を。

弱者救済としての対応

 Googleさんのいう「スマホ対応」って、要するに最初に「スマホ画面に対応しまっせ宣言」をカマして=「meta name="viewport" content="width=device-width, initial-scale=1"」とかいう呪文を唱えるかどうかでまず見てるみたいですね。いや、他にも沢山ありますよ。でも総じていえば、スマホは回線がしょぼくてブラウザとしては劣弱だから「弱者にやさしくし」的な配慮といっていいでしょう。やれ画像サイズは小さくしましょうとか、グーグル関係の読み込みとかそのあたりは後回しにしてもらいましょうとか、なんか20世紀の頃のサイト作りに逆戻りしたような感じです。

 なかでも一番大きいのは、ディスプレイのサイズ対応でしょう。パソコンの画面は横長だけど、スマホは縦長。横に向ければいいんだけど基本はタテ。しかもパソコン系1920pxなどのド迫力大画面に比べて、しょぼいのだと320pxとか240pxとかもある。まあ、今現在だったら480pxくらい?ウチのサイトは僕が使ってる1680pxサイズに合わせているんだけど、この横幅を4分の1まで圧縮するとなるとやっぱキツい。スマホ縦サイズで映画見ているというか、ドアの隙間から覗きこんでるみたいな感じ。

 それに合わせて、ディバイス(スマホなど通信機材)の表示サイズが1024px以上のときはこうして、768から1023まではこうして〜とか、「@media screen and (min-width: 768px) and (max-width: 979px)」みたいな呪文を、それぞれサイズ別に並べてCSSに書き起こして、それを読み込ませるってことになります。

 これが面倒臭いです。もーねー、これまではとりあえずの画面レイアウトを考えてタグ配置とか工夫してたんですけど、それを3種類も4種類も同時に考えないといけないという。これだけでも死にます。せっかく苦心のレイアウトもグシャ!だし。

 大体ですね、これまでもブラウザによって表示が異なる、しかもブラウザのヴァージョンによっても異なる、paddingやmarginの解釈が違うとか頭の痛い問題がありました。そして極めつけはインターネット・エクスプローラー。登場以来、終始一貫使いにくくてクソブラウザの代表のような地位を延々十数年以上キープしているIE。常に周回遅れで「未対応」だったりして、世界中のサイト作成者達に「だーもー!」ってマウスバンバン叩きつけさせているIE。しかもマイクロソフトお墨付きだから「親の七光り」でそのIEのシェア率が一番高かったりして、無理矢理にでも対応しないとならない。もう「わざと意地悪してんじゃないの?」って思うくらいで、無能な世襲代議士っていうか、阿呆ボンが社長やってる会社の従業員の悲哀というか。IE用に特別に読み込ませるJavaScpritとか涙ぐましい小技があったりもします。

 しかし、スマホ対応になるとこんなもんじゃないです。
 なんせiPhoneとかアンドロイド系で違ったり、サファリを使うかPuffyを使うかブラウザによっても違うようです。もう順列組み合わせでいえば、携帯のメーカー×機種ヴァージョン×表示サイズ×ブラウザ×ブラウザのヴァージョンによって無限ともいえる表示パターンが出てきて、その全てに綺麗に対応することなんか到底不可能じゃないかと。

フラッシュがダメ

 まだあります。スマホはなんだか知らんけどAdobeのフラッシュに対応してない点です。これまで動画をいれるのは大体フラッシュでやってたんですけどそれが全滅。ウチも幾つか動画があって、確かにスマホでは読みこまない。「きゃー」ですよね。

 スマホで読み込ませるためには、それなりに方法があるのですが、これがまた面倒臭い。タグそのものはHTML5を使えば簡単なんだけど、動画ファイルそのものが違う。これまでのflvファイルではダメ。だから、h264のmp4ファイルにするんだけど、それだけだったらまだいい。問題はmp4だったら全部いけるかというと全然ダメなことです。やれWebMとかやれOGVとか耳慣れないフォーマット動画しか受け付けない機種がある。徐々に出来るようになってるとはいえ、まだまだ発展途上。

 でもって、これまでのflvファイルをまたぞろ変換かけるのですけど、理屈はしらないけどflvって圧縮効率いいのでサイズが小さくなってくれるんだけど、これをmp4とかにすると倍以上のサイズになる。しかも3形式もやってたら6倍くらいになる。

 一方では通信回線が必ずしもよくないスマホの場合、「動画サイズは極力小さくしましょう、3MBくらいにしましょう」とか書かれてるのもあって、馬鹿野郎、ドン!とデスクを叩きたくなります。それまで削りに削って8MBくらいに抑えていたのが、スマホ対応にするとビヨーンと20MBくらいになるんだぞ、出来るかいって。

 大体やね、通信回線しょぼいの前提にスマホ作ってんだから、サイズの小さいFLVやフラッシュが読み込めるように設計せんかいや〜って思うのだけど、これってAdobe社(Flash) vs Apple(iPhone) vs Google(Android)の企業間闘争があって、マルチプラットフォーム競争っていうか、経営戦略っていうか、金儲け争奪戦の話でしょう?このあたりでシラけてくるのですよね。数学的理系的合理性があってのことならまだ許せるけど、結局金かよ?ってオチだもん。

 このあたり、テクノリジーの進化!未来のデバイス!とかいっても、純粋理工系ファクターが半分で、あとの半分は文系(社会科学)系ファクター。つまりは「政治」ですよね、政治。それはいいけど、末端にしわ寄せがくるんだよな。

HMTL5

 これ機会にそろそろ潮時かな〜?でHTML5.0を勉強したんですけど(これまでHTML4.01でやっていたんだけど)、結論的に言えば、5って意味あんのか?です。

 まあ、世界のHTML文法を編纂しておられる科学者(これはそう呼んでも良いと思う)の方々の御努力はわかるんですけど、なんつーのかな、規則のための規則って感じになってないか?って、法学プロパーの自分は思ってしまいます。

 HTML5の中核コンセプトは、(聞きかじりですけど)「文章構造の整理」=各ページの内容によって、header、article、nav、asideなど、これは頭書き、これは内容、これはナビゲーション用の表示、これは余談って感じに、ぱっとみて内容をきちんと整理しましょうってことでしょう。でも、それって理想主義的過ぎるんじゃないの?そんな誰もが論文書くみたいに考えて書いてないよ。ほんとの理想は、頭のなかにぱっと思いついたヒラメキみたいなものを、できるだけ損なわずに、できるだけ簡単に表現できることじゃないの?技術ってそのためにあるんじゃないの?

 あと、音声や動画、さらにアプリの導入などできる事が増えるのもあるけど、これは上記のようにブラウザによって、機種によって千差万別だから、実際問題意味ないです。もう「出来る」って言われてから数年たって、もう今どきこんな旧タイプを使ってる人はいないだろうって時点までいかないと、恐くて使えないから結局意味ないんだもん。

 そしてこれまで出来たことが出来なくなってる。かなり昔から皆が使ってたcenterタグとか、fontタグがダメとか。僕も、これまで出来てたレイアウトが、どーやっても出来なくて悩んでます。こーゆーの止めて欲しいんですけど。別に表示されれば何だっていいじゃん、そこに美しい整合性なんかなくなってさあ。もともとインライン要素とかブロック要素とか、そのあたりの基礎で頭むにゃむにゃになってるのに、コロコロ変えんといてほしいわ。

 よく検索すると「これからはHTML5が標準装備の時代で〜」とか書かれているけど、それってWEBデザイン屋さんの営業トークじゃないのかな?

 ほかにも、スマホの場合はマウスがないから、マウスフーバーのワザがダメ。マウスを乗せると画像が大きくなったり、ドロップダウンが自然にはらりと開いてプルダウンメニューが表示されるとか、頑張って勉強してやったけど、全部無駄。撤去。まあ、スマホでもドロップダウン出来るんだけど、あれメチャクチャ面倒くさいから、もうこの際いいやって。

スマホ対応、やめようかな〜

ビューポイントの陥穽

 でもって、カミさんのお下がりのiPhone5を使って自分のサイトや他のサイトをみたりするんだけど、正直いって「スマホ対応」って要るの?って根本的な疑問に行き着いたのでした。

 そりゃまあ全然表示されないとかだったら問題あるから修正していくけど、ディスプレイのサイズによって表示を切り替える「ビューポイント機能」は、正直どうなんかなあ?って思うに至りました。これをしないと小さく表示されちゃうんだけど、そのためにピンチアウト拡大とか出来るんだから、拡大してみてそれで読むのに支障なければ、その方が良くはないか?と。

 なぜって、大きく表示されればいいってもんでもないからです。
 やってみてわかったんですけど、スマホのビューポイントの小さな画面用に組むと、無駄に字が大きくなったり、フォントサイズ指定があんまり効かなくなったり、全体の活字のバランスがおかしくなることが多い。わざわざ小文字にしている更新の注釈なんかがタイトルのようにバーンと表示されたりしてさ。しかも機種やブラウザによってそこが微妙に違ってくる。却って読みにくいじゃん。

 さらに、多少活字が小さくなって、拡大しないと見えないにしても、とりあえず先に全体像が見えたほうが、読むべきコンテンツかどうか、この先どういう話になるのかがわかって良いのですね。ビューポイント使ってディスプレイサイズを限定してしまうと、大きく表示はされるんだけど、大きくしか表示されなくて、逆に小さくして全体を概観するってことが出来ない。長〜い巻物みたいなのがダラダラ続くだけってレイアウトになってしまうので、良くないんじゃないか?

 まあ、そのへんも含めてレイアウトをしろってことなのかもしれないけど、ハンパなく情報量が多いサイトの場合、そんなにパキパキ割り切れるもんじゃないし、そこを割り切ってしまうと結局全体が見えなくなるから分かりにくい。

 ということでGoogleはんは、やたらビューポイントをお勧めになるわけですけど、どんなもんかな?って気がしてます。

 てなわけで、やりはじめたスマホ対応ですけど、いきなり「やめようかな〜」って気分にもなってます。
 まあ、これは言葉の遊びで、スマホ対応をしてないわけではなく、通り一遍のありきたりのスマホ対応策では本当の意味での「対応」になってないんじゃないかって、よう分からなくなってる、結局やらないのが一番いいのかも?とか思ってるってことです。もちろんケースバイケースなんだけど。

解決不能な問題

 ところが、本当の問題はもっとあって、幾らその通りにやっても「そのとおり動いてくれない!」ってことがママあることですね〜。どっかでタグや呪文が間違ってるんだろうし、大抵は何かが間違ってたりするのだけど、それを見つけるまでがえらい大変。 だけど、間違ってるわけではないのになぜかその通りに表示されないという、ブラウザか機種かなんだかわからない理由(多分なにかのバグ)でダメってこともあります。

 スマホではこう見えますよ〜って表示してくれる親切なサイトが幾つかあって利用しているのだけど、Aサイトで表示される各サイズの表示と、Bサイトとで見比べてみるとその時点で既に違ってることもあります。どっちなんだ!という。

 もう、こうなるとどうやっても限界あるよね〜。とりあえず試行錯誤の結果うまくいってるんだけど、なんで上手くいってるか実はわからんとか(笑)。もう、どっかで適当に諦めないとダメですわ。

誰のため?何のため?

 ただし、単なるとほほ話でもないのですね。やってて、「ああ、そうなんかな」って思った部分もあります。

 レイアウトって要するに「見てくれ」なんだけど、ものすご〜く大事なようでいて、視点を3センチくらいズラすとどーでもいいじゃんじゃないの?って気もするのですよ。

 HTML5のこと考えてる時に思ったんだけど、こういう問題って突き詰めていくと設計思想、さらには表現やコミュニケーションをめぐる哲学らしきものまで至るのかもしれません。

 この種の約束事って、表現者の立場から考えるベクトルと、受け手(視聴者・読者)の立場から出発する二つがあると思います。「わかりやすいサイト構成」というのは、もっぱら受け手サイドのメリットを重視しているわけで、それはそれで大事です。でも、思うのは、まずはクリエイターだろうと。表現者に、出来るだけストレス少なく表現させてやるのがまずは原点じゃないかな。だって、そこでストレス溜まって肝心な表現物のレベルが下がったら意味ないもん。あとで幾ら読みやすくしようがなんだろうが、原形の出来が悪かったらしょうがないわけで。読みやすいわかりやすいってインターフェイスは勿論大事だけど、それは内容あってこその話でしょう。レイアウトや表示の関係上、本当は書きたいことを泣く泣く削ってたりしたら、本末転倒じゃないか。

いつのまにやら商業ベース

 まあ、一般のネット世界にそんな「表現」「創作」って類のものがどれだけあるのか?って現実的な視点はあるでしょう。商業サイトの場合は「商品のディスプレイ」がサイト作成のコンセプトになるわけで、それ以上でもそれ以下でもない。また表現者(執筆者やコンテンツ製作者)とWEBデザイナーは一般に分業体制になってる場合が多いわけで、僕のように書いてる人とWEBデザインから何から全部一人でやっているというのは、比率からいえば圧倒的に少ないのかもしれない。だからそういう「アマチュアのたわごと」みたいなことを言っても虚しいのかもしれない。

 でもさ、ネットってそういうことなの?って根本的な疑問があります。
 それじゃあ要するに「商業スペース」としてしか見てないわけで、価値的には新幹線の沿線の立て看板や、電柱の広告と大差ないわけじゃん。そうなの?って。

 商業が全然入り込んでこなかったネットの黎明期は、アマチュアのハム無線みたいな世界で(だからこそ「ハンドルネーム」っ言う〜トントン・ツーってモールス信号を打つ「ハンドル」からきてる)、素人のヒマ人の好事家がやってる世界でした。それだけに自由で、流行ってない分、今のSNSよりもずっとのびのびしてて、ヘンテコなサイトが山盛りあった。また今から思えばHTMLも非常にシンプルで、適当にやってたら誰でも出来た。つまり製作者・表現者とWEB化する技術者とが多くの場合同一人だったし、その程度の難易度だった。

お手本と創造性

 でも、それでいいと思うのだよね。その後どんどん「進化」していって、だんだん素人には手に負えなくなるくらい複雑になって、WEBデザイナーなんて当時には存在しなかった職業も出てきた。僕のように、白紙のテキストファイルに全部手作業でタグを打ち込んで作ってるのは「鶴の恩返し」の機織り職人みたいなもんでしょう。

 今個人でゼロからサイトを作ろうと思ったら、基礎からHTMLやるのはハードル高すぎて、ブログとかワードプレスとか「出来合い」のサービスを利用するって話になったりしますよね。でも、それ変じゃん。なんで、世界中みんなで「学校給食」っていうか、中国や北朝鮮の人民服みたいなお仕着せフォーマットを使わなならんのよ。結果として、どこに言っても似たり寄ったりの外見になっていく。似たようなテンプレート使うからしょうがないんだけど、似たようなテンプレートを使うしかないってあたりが、なんか違うんじゃないかって。日本全国どこにいっても似たような「駅前広場」になってるかのような。

 もっと恐いのは、単なる便利なテンプレートが、やがてお手本になり、教科書やマニュアルになって、さらに「標準」になり、「理想」になり、教条主義的な「聖書」みたいになっていって、しまいにはネットやサイトとは「こういうもの」って発想の型がはめられていくことです。「お手本」というのは、ある意味では表現や創造の天敵であって、創造とは発想の型枠との戦いなんだと思うわけですよ。どんだけ「変」か、どれだけケッタイなことを思いつけるかどうかが勝負というか(笑)。

 僕の場合は、インターネットが出てくる前、HTML以前、パソコン通信やワープロ通信と言われてた頃からやってました。新しいもの好きなミーハーだったので。あの頃って、テキストだけで全てを表現する世界で、フォント指定(大きさ、色など)すら出来ないという、今の感覚ではありえないくらい不自由な時代でした。でもね、だからこそ今でも使われている「顔文字」や、2chでよくみる記号絵なんかも作られた。それがほんとの創造性だと思うのですよ。名もない庶民の苦心の策というか、遊びココロというか、本当に面白いのはソレでしょう?って。

 その昔、よくサーバーがヘンテコなことになって、チャットしてても全然表示されないって事態が起きました。発言者のハンドルネームは表示されるんだけど、発言内容が出てこないという。そのときに、皆が諦めるかというと、さにあらず。今度は、一回一回ハンドルネームを変更することで、ハンドルネームの名前だけでコミュニケートするという。もう俳句以下の字数制限のある中で、それでもコミュニケートしようとする。つながろうとする。人類の「業」というか、懸命に手を差し出そうとするあたりが中々に感動的だったりもした。でもそれが原点じゃないかしらん。

現状の外観図

 今のネットの状況はどうなってるかというと、

(1)Apple社やらGoogle、Micro Softやらの巨大資本のプレーヤー達が植民地時代の帝国列強のような陣地争いをしていて

(2)それに電子機器メーカーが320pxのスマホディスプレイと、4000pxの巨大TVディスプレイを同時進行で作るから(8K=8192pxも出てくる)、同じ絵でありながら極小300でも極大8000でも同じように見えるサイト作りという妙な話になって

(3)一方、W3C(World Wide Web Consortium)では、HTMLの規格を、まるでユダヤ教のパリサイ派の律法学者のように厳密に決めて勧告を行っているなか

(4)大企業が豊富な資金力でWEB製作者を雇ってカッチョいいサイトを作り、SEO対策もバッチリやり

(4)一般市民はブログやWPなどの「学校給食」を食べ、且つ発想が限定されていく

 って、ワケのわからんの状況になってるのではないかと思ったのでした。

レイアウトの付随性

   「だーもー!」を繰り返して、マウスバンバン叩きつけながらつらつら思ったのは、所詮レイアウト、されどレイアウトで、レイアウトとか読みやすさって大事だけど、大事にしすぎてもアカンよなってことでした。

 もう表示が乱れてもいいじゃん、それがどうした?って開き直りも大事かも?って。クリエイターサイドに立つと、どうしてもそのあたりの「こだわり」というか、微妙な色の違いやフォントの大きさの差にもこだわってしまいます。頭のなかに「こうしたい」という完成図が出来て、それを表現したいから、そうならないと無茶空茶腹が立つという。

 でも、これ音楽でもなんでもそうだけど、製作者「だけ」がこだわってるって部分も大きいのだよね。ドラマーはこのスネアの音の抜けが気に食わないとか、書道家はこのハネの部分の勢いがしょぼいとか、すごくこだわるし、アートってそういうもんだと思うけど、でもそんなもん普通の人は気にしないよってエリアも多いのですよね。X(Japanが付く前の)YOSHIKIが、最後のピアノの一音が気に食わなくて、そこだけ録るために丸一日以上費やしたとか言ってたけど、その気持は分かるんです。あれだけ高速ドラムを叩きつつも、全部オカズを変えているって本人だけのこだわりも分かる。でも、そんなのリスナーは気にしないよという。

 どっちが正しいって話じゃなくて、製作者には製作者エゴがあり、それがモチベーションになりモチーフになるんだけど、でもそれも「ほどほどにね」ってことです。書道家やYOSHIKIはそれが表現のメインだからこだわるのはわかるけど、HPって別にレイアウトを美しするためにやってるわけじゃないので、第一に来るのは何を書くか述べるかで、「見てくれ」は二の次でしょう。そりゃ見やすいに越したことはないけど、「越したことはない」程度。

 逆に読み手の立場になったら、面白いかどうかが全てで、面白かったら多少読みにくくても気にしない。そこで気になって、読みにくいからやめようかってことだったら、要するにその程度のコンテンツだったってことでしょう。小学生の下校時、原っぱに落ちていたエロ本を発見し、重苦しい沈黙のなか、悪友達と食い入るように見てたわけですけど、あの雨に濡れてページがひっついて、慎重に一枚づつはがしていた作業、「読みにくい」っていったらあのくらい読みにくいものもないんだけど、でも読む(見る)という。情報のゲットって、つまりはそういうことだと思うのでした。例えが変かもしれんけど。

 だもんで、スマホ対応も結構だけど、本末転倒になったらアカンよねって今更ながら思うのでありました。

WEB女工哀史

 どっかのサイトで書いてあったけど、スマホ対応とかいうのもWEBデザイナー達にとってはハタ迷惑な話だと。めっちゃくちゃ面倒臭くて、作業量が何倍にもかさむわりには、クライアントの満足感がしょぼい。究極の完成形が「普通に見える」だけだから、感動がない。

 一昔前のフラッシュをバリバリ使ったサイト作りとかだったら、ぶわ〜っと画面が変化して「おお」という感動があったから、WEB制作業者さんもクライアントからお金取りやすかったと思うのですね。クライアントさんも「お金を出す甲斐」がある。でも、地味を絵に描いたようなスマホ対応って、その意味ではしんどい。

 営業さんが「もちろんスマホ対応もバッチリですよ!」で仕事取ってくるんだろうけど、取ってこられる現場の方はいい迷惑つか、給料上がらないけど仕事量だけが増える。たまらんだろうなって。

 僕の場合は、クライアント=末端製作者で全部一人でやってるから、自分の中でのペース配分やら割り切りをすればいいだけで、その点楽といえば楽です。面倒臭かったらやらなければいいだけのことです。でも、宮仕えなり、仕事になるとそうはいかず、その日々は、「ああ野麦峠」の女工哀史的なソレではないかと、ひそかに同情を禁じ得ないのでした。

 でもって、繰り返しになるけど、iPhoneとかスマホでフラッシュ対応しないのは、要するにapple社(もとはといえばジョブスの趣味)とadobe社が仲が悪いだけのことで、それが根になって、フラッシュ使うとSEO上不利だとかワケのわからん話になってて、なんだかなあ、です。

 明治時代のあの頃、外の世界は帝国列強が植民地獲得競争をやり、末端では田舎から出てきた少女達が奴隷的な労働環境でギッタンバッコン機を織るという図式がありました。なんで少女が田舎から出てきたかというと、明治維新で貨幣経済が農村に浸透し、それまでの物納(米を年貢で納める)が否定され、現金収入のない農村がさらに貧困化し、無知な農民を小作人として搾取する地元のブラック地主資本家階級と都会に出てきた彼らを搾取するブラック政商財閥企業があって、、、という、なんか図式は全然変わってないよな〜って思ったりもします。



 

文責:田村