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今週の一枚(2014/12/22)



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Essay 702:度の合わない眼鏡のような違和感

〜シドニー人質籠城事件と日本の総選挙
 写真は、何度か紹介しているラ・ペルース(La Perouse)。
 広々してていいとこです。MIP2のラストシーンにも出てきますよね。

 今はサマータイムの最盛期(夏至だから一番日が長い)で、こういう爽快な夕刻をたっぷり楽しめます。



 先週は、日本では総選挙があって、シドニーではテロかと思われた人質籠城事件が起きて、日豪ともども「社会を震撼させた」と言われそうなビッグイベントがあったわけですけど、でも、ありていにいってあんまり「震撼」してません。一週間経てば、いや翌日になればいつもの同じ日常になって、「そういえばそんなこともありましたね」みたいな感じ。なんなんだこの風化速度の早さは。あなたは震撼としてますか?

 なんかリアリティに欠けるというか、世界の実相と、目に写ってる(マスコミで報道されている)メインフレームがズレていて、それがだんだん度の合わない眼鏡のようにズレが激しくなっている。だから、大きな出来事が起きたはずなんだけど、皮膚感覚ではそうは感じられない。だからすぐに風化するのではないか。

Sydney Siege/シドニー・リンツカフェ籠城事件

 現地では、"Sidney Siege"と題され、日本でも結構報道されたらしいこの事件ですが、リアルタイムに現地シドニーにいた人間としては、メディアのツイッターなど速報で追いかけるともなく追いかけてましたが、別にシティ以外は全然平常通り。僕らも平常通りで、のんびりとドライブしてはランチをぱくついてました。

 すわテロか!?って思われて大騒ぎになったのですが、結局のところ、トチ狂ったおっさんの単独犯行だったいうことで、十数時間かかったとはいえ、基本的には通り魔事件と同じです。亡くなられたショップのマネージャーと、バリスター(コーヒー入れる人ではなく法廷弁護士)さんは本当にとばっちりでお気の毒ですが、でも本質はなんらかのココロの闇を抱えた人が暴発しただけのことだと。

 たしかに紛らわしかったのは事実で、イランからきたし、イスラム国の黒い旗を掲げて、、みたいな感じだったのだが、すぐにアラビア語の読める人達から「あれ、イスラム教では普通の旗だよ」と指摘があり、イスラム国の旗ではないことが判明。このおっさんが、アメリカやオーストラリアのイラクやアフガン侵攻に激しい批判をもっていたのは事実で、常々それを表明して、やりすぎていて事件になったのも事実だけど、でももとはいえばイランから政治亡命してきたわけだし、精神状態もちょっとヤバイんじゃないの?とイラン政府からも連絡があったような人物。対テロ班も警察も途中で身元が割れたみたいで、おそらくは「ああ、あいつか」みたいな感じだったんじゃないかな。

#illrideと共感の原理

 この事件に関して思わせられたのは、政府やメディアのトホホ感というか、名もない普通の一般市民の方がずっと進んでいるという点です。

 特に、事件後ほどなくして自然発生的に広がっていった#illridewithyouは感動的でした。これは、なんかあるとイスラムだ、ムスリムが悪いみたいな見方をされて、社会でバッシングを受けたりするかもしれないって思ったレイチェルさんがつぶいやたもので、「もし、電車などに乗るときに(ムスリムだということで)差別されたり危険を感じたりしたら、私があなたの隣に座るよ、一緒に乗ろうよ」(I will ride with you)って励ましのメッセージ。「もしどっかで怖い思いをしたら、私が守ってあげる、皆が守ってあげる」「クソみたいな差別なんかしない。この世はそんな馬鹿ばっかりじゃないよ」ってことでしょう。この波は、事件進行と平行して、誰がいうともなくオーストラリア広がり、さらには全世界に広がっていった。

 仕事しないとかいい加減とか色々欠点のあるオージーではあるのだが(^^)、こういう部分は、素直にすごいなって尊敬します。いいことするにタメライがない。本質的に人として大事だと思うことに関しては、手間暇惜しまないし、いい加減でもない。こんな偽善的なことをいって他人にどう思われるかってしょーもない自意識(つまりは自己保身)もない。翌日の事件現場には、人々の献花で埋め尽くされているわけど、こういうときに本当に涙流している人とか結構いたりして、「とりあえず弔電でも打っとけ」みたいなカタチ的なことではない部分がある。数年前、メルボルンで通り魔殺人事件があったときも、自然発生的に被害者を悼む人々の行列がストリートを埋め尽くしたというけど、ちゃんと共感する、シンパサイズするって部分がある。

 アダム・スミスなどあの時代には「共感原理」というのが大いに論議されたらしいって(「道徳感情論」とか)、大学のパンキョーの社会科学概論でやって、その頃はよくわからんかったけど、確かに共感、なんらかの感情移入がそこにないと社会というのは成り立たないようにも思います。近代経済学の祖であるスミスがそれを言っているという点がミソで、この世は金勘定だけじゃないよ、という。

思考のフォーマットの胡散臭さ

 これに引き換え、、ってことはないけど、マスコミの事後報道は、やれ誰それが英雄的行為だったとか、遺族が悲嘆にくれてとか、いつものパターンのドラマ仕立てで読む気にもならない。また、テロだのなんだのとかいうのも、もとはといえばアメリカやら西欧が中東にちょっかい出してるからだし、911すらもインチキ臭くなっているし、「お前らがそういう方向に水路付けしてるだけだろ」って感じもする。さらに、犯人が保釈中の身だったことから、なんで保釈するんだとか、「結果論でもの言うなら誰でも神様になれる」的な阿呆が出てきたり。なんかね、正義だのテロだのなんだのコケの生えたようなフォーマットに押し込めようとしている気がして。

 物事の本質は、ある日突然、インノセントな人が、悪い冗談のように死んでしまうという、どーしよーもないこの世の理不尽でしょう。村上春樹のモチーフ的な。僕らができるのは、その悲しみをシェアすることだし、また、くだらないとばっちりで悲しむ人を未然に防ぐことだと思う。出来ないことは共に悲しみ、出来る事(くだらない差別の防止)は小さなことからでもやっていく。いずれにせよ誰かが誰かに「寄り添う」という、人として最も原点的なところでやろうという。全然マトモじゃんって。ほんと政治とかマスコミとかなんのためにあるの?って気がする。

 あと、警察の行為に対する批判的な検証って行われているのか?メディア読む気にならないのでまともに探してないですけど、あんまり見つからなかった。最後に警官隊が踏み込んで銃撃戦になって犯人と二人の人質が死んだわけだけど、誰のタマが当たって人質は死んだのです?検視や弾道検査すれば一発だと思うけど、もうやったらしいんだけど、一人は犯人で、もう一人は銃弾と心臓麻痺らしく、おそらくは犯人と警察からの二発だと言われているけど、警察は黙秘してます。調査が終わるまで言わないらしい。別に警察を責める気はないし、彼らも必死で頑張ったとは思うんだけど、一応、検証は検証で公正にやるべきちゃう?ネットでは、なんでスナイパーは狙撃しなかったんだって疑問のあげられているようだし。どことなくメディアが当局に及び腰なような気がするのは、気のせいでしょうかね。

日本の総選挙

 自公「圧勝」という言葉がひとり歩きしてますが、「圧勝」なの?という疑問もあるなど、選挙結果そのものよりも、その周辺がいろいろと興味深いですね。

骨折り損のくたびれ儲け〜誰も勝ってない

 一番のポイントは、共産党が躍進したことよりも(批判票の受け皿としては一番明確だったし)、石原慎太郎や田母神センセの次世代の党がほぼ全滅したことです。19議席が2議席にしか残らず、しかもその二つは平沼&園田という自民党時代でも重鎮レベルだから地元では勝って当然でしょう。

 よく世間では「はげしい右傾化」とか言われたりするんだけど、この選挙結果”だけ”を額面通りに見れば、「はげしい左傾化」と言うのが正しい。まあ、今の時代、右だの左だの、保守だの革新だの色分けすること自体、「尊王か佐幕か」みたいな時代遅れな発想だと思うから、どーでもいいんだけど。

 総じて言えば、「骨折り損のくたびれ儲け」ってやつではないか。どこも勝ってない、どこも得していない。

 強いていえば、共産党くらいだけど、あれは昔から「参加することに意義がある」的に独自に動くから、結果的に批判票を分裂させて与党の別働隊って非難が止まないくらいで、政権側としては対立軸としてはとっても安全パイだったりして、そこがちょっとくらい勝ったところでそれほど影響力もない。

 てかね、極小政党であっても、是々非々で進んで他党との連携をとれば、キャスティングボードが握れるし、結局一番政策に影響力を与えられる(二大政党のオーストラリアでは、無所属議員の帰趨が重要案件の成否を握ることはよくある)。でも共産って、潔癖症なんだかしらないけど、それをしたがらないから、持ってる議席ほど国政に影響力がないのですよね。だから勝ったといってもね、という。

 自民は議席を減らしているし、自民(てか安倍ちゃんの個人的野望らしきもの)は、次世代勝たせて、平和平和とうるさい公明切りして憲法改正をって胸算用だったんじゃないかと思われるところ、自分は減るわ、次世代はほぼ消滅するわ、逆に公明の存在感が増してしまったという。しかも絶対協力してくれなさそうな共産は増えるわ、さらに沖縄は全敗だからアメリカとの間もキツそうだし。「圧勝」という語感とは裏腹に、前途多難って感じがするけど。そもそもやる前よりも悪くなったら「勝って」ないんじゃないの。「圧」以前に「勝」じゃないんじゃないの?自分から仕掛けた喧嘩で、やらない方が良かったんだから。

 公明は議席を微増させたけど、しかしあの低投票率で勝つ=組織票の強さを意味してて、且つ今の日本で組織票が強いってのはあんまり世間のイメージは良くないんじゃないか。僕なんか正直いって「気持ち悪い」とか思っちゃうもんなあ。いや組織票の何が悪い?って言われると別に悪くはないんだけど、でも現在の状況で、しかも過去自民と連携してやってきたことを考えれば、普通疑問のひとつや二つは出てくると思うのだよね。なのに、右向け右でロボットみたいに動いている感があって、それがね、なんかヤダ。それにあそこも共産と同じで、ちょっとくらい議席が伸びたからどうって感じでもないし。

 民主は、本来ならこれだけ敵失があったら党勢倍増か1.5倍増になっても不思議ないんだけど、対立軸を打ち出せなかった点がダメだし。維新は意外と健闘したものの、今となっては存在意義が何なのかよくわからない集団になってしまっているし。それに批判票の受け皿になるはずの民主が候補を立ててない選挙区も多くて、仕方なしに消去法的に維新になったって場合も結構あるかも。僕の場合なんかまさにそれで、なんだよ選択肢ないじゃんって思ったものでした。

 だからどこもそれほど勝ってないんじゃないかって。
 それ以上に、投票率が史上最低レベルに低かったから、選挙制度そのものの敗北だとも言えるし、その意味では全部負け。頑張って投票した人達も努力の甲斐がないから負けたようなもんだし。最後に棄権した人って、要するに「不戦敗」でしょ。てか参加しなかったことで、後で何かの形で祟るかもしれない。真面目に何かを変えようと投票してる人からしたら、憎むべきは無関心の棄権者であって、知らない間に他人の憎悪を買ってるかもよ。少なくとも僕の目の前にそういう人がおって、僕がその人のなにか有利不利を決定できる立場にあったとしたら、多分そんなに有利な方にはしないような気がする。「そーゆー奴かあ」って先入観持っちゃうから。だからあんまり口にしない方が利口かも。

度の合わない眼鏡

不正選挙論

 そんな個々の選挙結果がどうとかいうよりも、その周辺が面白いなと思います。

 ひとつは不正選挙です。最初はマイナーカルトな陰謀論でしかなかったんだけど、選挙の回を重ねるごとに着々とメジャー化しているような気がします。今回からは、次世代党の不本意な退潮に釈然としないネトウヨ君達が参加してきたみたいだし。

 ま、負け犬の遠吠えって言ってしまえばそれまでなんかもしれないけど、でも一般市民的に見ても、「そうかあ?」という釈然としない感じは残る。自分の実感と世間の動向とがビビットに対応してない。投票やって30年以上、昔はもっと「やっぱ、皆も同じようなことを考えているのね」的なフィット感がありました。多少の予想のズレはありますけど、まあこんなもんでしょって。でも、それが徐々に不自然にズレてる感はある。

 だからただちに不正だとか直結するわけではないけど、靴の中に小石が入ったかのような違和感がある。その点だけですよね、「皆も同じようなことを感じてるんだ」って部分は。

 都知事選も結構そうだったし、今回に至っては望遠レンズで開票作業を撮影した人がいたり、それを解析してみたり、あれこれ議論になっている。かつて日本人がここまで自分らの選挙の公正に疑問を持ったことがあっただろうか?という。

 そりゃ選挙に不正はつきものさってくらい、選挙活動で実弾(現金)が乱れ飛んだり、村八分による恐怖の組織票統制があったり、利権誘導があったり、もう「清き一票」という表現が「それってギャグで言ってるのか?」レベルなんだけど、それでも投票用紙の開票や集計作業に不正があるってことまではなかった。それをやったらおしまいだろって線引はあった。だって、それが出来たら選挙なんか全く無意味になるもんね。

 それが公然と語られるようになってきている点が大きいと思います。
 何かっていうと、皆さんそれだけ「社会の実況中継」のような政府の公式見解やメディアの報道を信じられなくなってきているってことだし、ネットなどを通じて「本当はこうなってるんじゃないの?」という推測が、もう単なる推測ってレベルを超えて現実的に議論されるようになってきているってことです。

 東北地震以降の3年余で、日本人が何を一番学んだかといえば、「信用出来ない(してはいけない)」という懐疑精神だと思いますね。思想史で中世と近代を分けるメルクマールとか言われる。昔からメディアについての批判は多かったのですが、それは内容の真偽よりも、興味本位だとか低俗すぎるとか報道のあり方や切り口についてのレベルでの批判でした。んでも、ここ数年は、「それ、嘘ちゃう?」って事柄の真偽レベルで疑問が出てくるという。その昔に「お笑い北朝鮮」とかあったけど、今は「お笑い日本」で、もう全体に「それってギャグでやってんのか?」って感じね。総理の言動自体がギャグになってる。批判されたら、イヤホン外して「聞こえませ〜ん」って、ずっと前に「今日、耳、日曜」ってギャグCMが流行ったけど、おまえはヨシモトか。

 また、それを裏付けるような情況証拠が多すぎ。開票不正が疑われるんだったら、そしてそれが痛くもない腹を探られるって心外だったら、疑いを晴らす措置は幾らでも取れるわけでしょ。行政異議申立やら裁判所の適式な命令やらで、とある選挙区の全投票用紙を公正な場で再度集計しなおし、その全てを撮影し、リアルタイムで放映するとか。でもやらないのはなぜ?と。

 事柄は選挙に限らない。国策捜査からの連綿たる検察の不審な動きもそう。猪瀬知事が徳洲会から5千万貰って袋叩きにあったけど、本当は徳洲会資金100億円のうちのわずか5千万であって、あとの99.5億円はどうなったの?というと追加報道や捜査の動きはまるでわからない。「あれはどうなったのだ?」という話が多すぎ。

日本だけじゃない

 この釈然としない感覚は日本だけではなく、世界的にそうだと思います。

 さきのシドニー人質事件でも、微妙に違和感がある。そのあたりを突っ込んでるネットもあって、例えば Sydney Siege Exposedってサイトでは、一般市民から、「ここ、ヘンじゃないの?」って部分が投稿されています。

 またMultiple Smoking Guns Expose Sydney Siege as a Big Lieにまとめて書かれていますが、まあ、典型的な陰謀論ではあり、それはファーフェッチ(far fetched〜無理やりのこじつけ、我田引水)だろって部分もありつつも、「ふむ?」と思わされる部分もあります。

 世界の陰謀論の”通説”は、NWO(New World Order〜新世界秩序)というのがあって、ごく一握りの支配層が全人類を支配しようという全体主義化を意図していると。そのためにテロ戦争でもデッチ上げて、どさくさ紛れに、アメリカでは愛国者法やら作って、ガチガチに人々の権利を抑えこもうとしているとかなんとか。今回のシドニー事件も「a psychological warfare operation conducted against the people of Australia on behalf of the nascent New World Order totalitarian state. A project that apparently enjoys overwhelming support from Australian politicians and Security forces(NWO全体主義を構築するため、オーストラリアの人々を相手におこなれた心理的な戦争であり、あきらかにオーストラリアの政府や諜報機関から圧倒的な支持を得ている)。

 ほんとかよ?って気もしますが、ただね、犯人に脅されて犯人の要求を言わされているビデオがYouTubeに何本もUPされているんだけど、そのビデオの質が怪しいとか、即刻削除されるとか、そこでGeorgeStに爆弾を仕掛けたとか言っているにもかかわらず、GeorgeStの道路封鎖は一切なされていないのはおかしいとか、言われてます。また、犯人も、事件のちょっと前に、シーア派からスンニ派に転向宣言をし、イスラム国支持をブログで書いているというもヘンじゃないか?と。本気のテロだったら、わざわざ事前に耳目を引くようなことをするわけがないだろ?と。それに、この人、要注意人物で2008-2009年はオーストラリア安全保障局の監視下にあったそうだけど、以後は監視から外されてます。また、事件当時も保釈中で毎日警察に連絡をしないと再拘束されるという状態だったわけで、そんな状況でコトを荒立てるような言動をするのか?という。なんか取ってつけた感があるぞと。さらに、、、って、色々書かれているので、興味のある人はどうぞ。

 僕個人は、そこまで深刻に陰謀論を考えているわけではないです。わからんよね〜って。
 ただね、結局何だったの、何がどうなったの?って当然出てくるべき普通の疑問にメディアや当局があんまり答えてなくて、ただただ犯人悪〜、犠牲者可哀想〜、警察優秀〜って一色に染め上げようとしているかのごとき違和感は抱くのですよ。報道も最初の方はもう誘導せんばかりにテロ一色的にやられてたもんね。それが段々、単なるトチ狂ったおっさんじゃないの?って感じになってくると急にトーンダウンした。

 911のビルも、あれ?とマジに思い出したのは、何の関係もない筈の隣のビルが突如崩壊しているというワケのわからない現象があって、だったらそれを徹底的に解明すればいいものを、それらの証拠物になる大量の瓦礫を当局がさっさと撤去して、ろくすっぽ調べもせずに全部破棄しているという点です。なんか証拠隠滅っぽいのですね。

 裁判における事実認定では、いろんな推測方法をとります。今では普通に知られている「秘密の暴露」(本人しか知り得ない事実を述べており、それが客観的事実と合致した場合、その自白は真実だとか)もありますが、ほかに「自ら有利な証拠を容易に提出出来るはずなのに、これをしない」「当然やるべきことをやらない」という点があります。例えば、金を借りたけど、ちゃんと返済したと主張する人が、だったら領収書を出せと言われて、出さない場合があります。これ、最初から貰ってないとか、貰ったけど無くしたとかいうならまだわかるんですよ。でも、貰ったし、実在するし、今も持っているとか言いながら、一向にそれを出そうとしないとすると、なんか決定的におかしいぞと。

 911でもそれがおかしいし、今回の事件でも、あれだけ人質がおって、証言もとれて、弾道検査も検視も終わってるんだから、かなり詳細に最後の局面でなにがどうなったのかわかると思うのだけど、そこは本当に曖昧なんですよね。でもってメディアが、それを突っ込むかというと、全然突っ込んでない。


 ただ、これ一から十まで出来レースだったとしても、人が死んだのは事実でしょう。それすらも嘘だったら別だけど、さすがにそこまではないでしょう。だとしたら死んだ人はいい迷惑(なんてもんでは済まない)でしょう。しかし、失踪したマレーシア航空機、ウクライナで撃墜された飛行機(これもマレーシア航空)の乗客もいい迷惑です。以前書いた「とばっちりに気をつけて」って部分ですが、本当にそう思いますね。気をつけようがないかもしれないけど。

 そこで僕らができる事は、犠牲になった仲間を悼むことであり、懐疑精神を養うことであるでしょう。
 素朴に可哀想と思い、素朴に「あれ?」と思った疑問を大事にすること、その素朴な現実の肌触りを大事にすることだと思います。そして、そういう素朴な態度こそが、もし陰謀論的な何らかの筋書きがあったとしても、それらに乗せられない最も有効なカウンターパワーになっていく。この確かな人のつながりと、乗せられない健全な懐疑というその二点ですね。だもんで、その二点を強力を兼ね備えている#illrideは、やっぱり凄いなって思ったのでした(イスラム悪いテロ恐いって用意された流れに思いっきり釘をさすことになるから)。これ、そこまで考えてやってるわけでもないって部分がいいですよね。素朴な直感が結局は一番正鵠を得ているという。

 その意味で、一般市民である僕らは、メディアや当局の流す、どことなく度の合ってない眼鏡に映しだされた映像や解釈を通すのではなく、それを通さないで、まずは周囲の現実を素朴にみることが、今一番大事なことなんじゃないかって思った次第です。




 

文責:田村