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今週の一枚(2014/12/01)



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Essay 699:岬の先端〜救援ポイント

 写真は、ウチの近所の街路。ジャカランダもそろそろ終わりで、ラベンダー色の花びらが道路に散ってキレイです。うちの庭も毎日掃き掃除をしてもしても追いつかないという。

 このジャカランダの色に、ちょっと遅れて咲く水色の花とちょい朱色がかった赤い花(いずれも名前を知らないのだが)とのコントラストがなかなか綺麗です。写真がヘタクソでいまいち感動がないけど、現物みると「おほ〜」とか思いますね。涼しげで生理的に気持ちいい。

 最近、ウチの近所系が多くて、近場で間に合わせてる、手抜いてる感もあるんですけど、きれいなんだからしょうがないよ。


「天は自ら助くる者を助く」の理論構成


 今週のお題は、つい先日皆さんのお世話をしているとき話してて、「あ、そういうことか」と自分で喋って自分で納得してたものです。この種の話(他人と会話していると思わぬ気付きが降ってくる)ことはよくありますし、このエッセイのネタの多くはその種のものです。

 よく「天は自ら助くる者を助く」とか言いますよね。"Heaven helps those who help themselves."が本文らしいのですが。聖書かなんかに出てくる言葉かと思ったら、意外と新しいです。サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles)という人が、「自助伝(Self-Help)」という著書の序文で述べたものらしいです。このスマイルズ(いい名前ですな=たくさんの笑顔)先生って、1812年-1904年で幕末の志士よりも一世代上くらいの人らしいです。聖書に比べたら、そう古い話ではないです。

 意味は、すぐに他人に助けてもらおうとはせずに自力で必死こいて頑張ってる人だけが神様のヘルプを受けるよってことで、安易は他力本願はダメよ、まずは自分で努力しなはれってことですね。

 その意味するところは経験的にも同意できるし、道義的にも行動的にも美しいんだけど、気になるのはその理論構成ですね。「なんでそうなるの?」と。ここで「天は〜」とかいう話にしちゃうと、話がちょい離陸して、ともすれば「信じる者は救われる」的な宗教的、微妙にオカルティックになっていくような気もして。これじゃあ説得力ないんじゃないかって。

 ま、説得力あるんですけどね。丸呑みにしちゃえばいいし、丸呑みにしやすい発想ではあるんだけど、でも、改まって「どういう因果関係でそうなるのか?」ってメカニズムがわかったほうが納得しやすいだろうと。

 そのあたりを考えてみました〜って話です。

「天」の意味 〜「他人」「世間」

 まず「天」の意味ですが、一つには他人とか世間という意味があると思います。独力で頑張ってる人を、世間は/他人は助けたくなる、と。こう考えると分かりやすいんじゃないか。

 確かに、ぜーんぜん努力してない人、てめーでは一歩も動こうはせず他人ばっかりアテにして、それで上手くいかないと「だって、教えてくれなかったんだもん」「誰も何にもやってくれな〜い」「皆冷た〜い」とかブータレてる奴がいたら、誰だって蹴飛ばしてやりたくなるでしょう。「ええ加減にせえよ」と。

 世の中には「思わず助けたくなる人」と「その気にならない人」がいると思います。これは人間のタイプというよりは、同一人物であっても、助けたくなる場合とその気にならない場合とがあるのでしょう。

 では、どういう場合に助けたくなるのか、なぜ助けたくなるのか?です。
 いろんな理由があると思うのですが、ぽっと思いついたのは、僕のプロパーである刑法理論に「応報的正義観念」というのがあって、それじゃないかと。

応報的正義感情

 応報的正義というのは、人を殺した人は殺されるべきだ、人に害した奴は罰せられるべきだという素朴な感覚、人間が本来自然にもってる正義感です。「正義」とは何か?って法哲学や法思想史でやりますが、代表的な見解が「バランス」です。秤が釣り合うかどうかで、釣り合うと(バランスとれると)人はなぜか納得して、平静な気分になれるが、秤が釣り合わずどっちかの天秤だけが下がったままだと、なんかしらんけど無性に気になる、平静ではいられない。3人の子供がイタズラをして全員先生につかまって、2人は罰せられ(便所掃除)たのだけど、あとの一人が無罪放免だったら、納得がいかない。子供時代に誰でも絶対といっていいくらいよく使う口語日本語は、「ずる〜い!」「きったねー!」です。子供心にもそういうバランスが取れないことをされると滅茶苦茶腹が立つ。つまりは、そのくらい人間にとって根源的な感情だと。

 では人はなぜバランスを好むのかといえば、生きていく上での予測可能性を確立したいという、生存本能に裏打ちされた欲求があるんじゃないかと推測するのですが、そこまで遡るとキリがないので、今回はこのあたりで切っておきます。

 ともあれ、正義とはバランスであり衡平の秤であると。だから正義の女神(テミス、ユーステリア)は片手に天秤ばかり、片手に剣をもっているわけですし、日本の弁護士バッジは、ひまわりの中に天秤が描かれています。

 で、その天秤的な正義と、自助努力とヘルプの関係やいかに?ですが、こういうことだと思います。
 髪振り乱して、必死になって、一生懸命努力している人をみると、周囲はなんか居たたまれない気分になる。なんとか助けてやりたくなのですが、その心理の奥のあるのは、「これだけ努力して報われないというのは気持ち悪い」って感覚でしょう。「あんなに頑張ったのに〜」「神も仏もないものか」って結論やら現実ってのは、やっぱ誰しもイヤなんですよね。少年ジャンプの3大要素の友情+努力がきたら最後は「勝利」で〆て貰わないと納得がいかない。何かイヤな感じがする。ハリウッドでもなんでも、頑張って→ついに勝利!ってのが黄金のドラマツルギーで、これにハマってる限りは楽しい。「どーせ主人公が勝つんだろ」というミエミエの展開であっても、ミエミエだから興を削がれるというマイナスよりも、応報的なセットダウンをしてもらった快感の方が高い。

 水戸黄門なんかその典型で、常に最後には悪者が懲らしめられるというオチになる。間違っても、印籠を見せても全然効果がなくて、「うるせー、ジジー」で黄門様が無残に殺害されてそれで終わりってことはない。たまには「なにそれ?」「印籠ってなーに?」って無知な悪党が居ても良さそうなんだけど、不思議とそれだけは誰もが知っている。それにああいう解決ってどうなの?という疑問もあるのですよ。要するに「権力を嵩にきて」解決してるわけで、これって心情的に自分の味方だからいいようなものの、敵方でこれをやられたらすげー悔しいでしょう。権力の横暴。でもそういう感覚はない。遠山の金さんの桜吹雪だって、現場の目撃証人(遊び人の金さん)が裁判長やってるわけで、これって刑事訴訟法第20条4号「裁判官が事件について証人又は鑑定人となつたとき」の除斥事由に該当するから、本当は裁判やっちゃいけないんですよね。でも、そういう不当感はまるでなく、ひたすら気持ちいいという。つまり応報的快感=バランスが復元する快感というのは、メッチャクチャ気持ちいいということが分かります。

 もっとも「世の中そんなに上手くいくわけねーだろ」っていうリアリズムやニヒリズムから、読者を奈落の底に突き落とすような作品も多いです。これでもかってくらい救いのない物語とか、ありますよね。でも、それって大体後味は悪い。後味悪く書いているんだから当然なんだけど、ここではアート的な作品の良し悪しではなく、「これだけ頑張ったら、これだけのご褒美」という「大宇宙の法則」みたいなものがあって、それを僕ら人間はなんとはなしに知っているし、そのフォーマットが価値観に組み込まれているんじゃないかってことです。

 はい、だんだんわかったと思うのですが、自助努力を尽くしている人というのは、ハタから見てたら「ほっとけない」存在になっていくんですよね。常にそうなるかどうかは後述のように付加要素で吟味しますが、大雑把にいえばそう。自分がこの人の立場になったらやるだろうと思うような努力は全部やって、さらにそれ以上にあれもこれもやってる。もうこれ以上なんかあるんか?ってくらいやってられると、これで報われなかったら嘘だろうって気分になる。

 なんでそんな気分になるのかといえば、バランスが悪いからでしょう。それぞれの価値観で「この程度努力したらこの程度の報酬」というバランス感覚があり(細かくは人それぞれだが)、それを大きく逸脱する実例が目の前にあると、自分の価値観や世界観が揺らぐから気持ち悪い。これで報われない世間というのはクソだろう、クソであって欲しくはないぞ、だって明日は我が身になるかもしれんのだし、そんな世の中であっていいはずはない。でも、何も起きない。ひたすら徒労に見える。あーもー、誰かなんとかしてやれよ、気になるじゃないか、あーもー、じゃあ俺がやるぞという感じ。

 ということで、「自ら助ける人」というのは、それが真摯で誠実であればあるほど、それが懸命であればあるほど、周囲に対して「思わず助けたくなるフェロモン」を濃厚に発散するんだと思います。

具体例

 話が抽象的なので多少具体例を述べますが、オーストラリアにきて最初の一週間シェア探しをやれば分かると思います。半泣きの顔をして地図とにらめっこしているアジア人がいたら、誰だって助けたくなる。特にオーストラリア人の感覚では、ハッピーであることが権利であり、平常状態であり、さらに進んで「義務」ですらあるので、ハッピーでない人を見ていると、すごーく気になる。このボランティア大国の社会では、何かしたくなるのでしょう。またチャレンジャーを好み、トライすることを尊ぶ西欧的な冒険的価値観においては、トライしている挑戦者が半泣きでアンハッピーになってたら、もう居ても立ってもいられない、意地でも助けたるって感じになる。だから、"Are you OK?"って、まるで蝿のように近寄ってくる。

 ところが、一段落して、ある程度平静になり、そんなに困ったことがなくなると、あんまり寄ってこない。僕なんか20年以上いるから、もう全然。オージー、最初の頃はみんな優しかったのになあ、今は全然優しくないなあって(笑)、そゆことだと思います。

 ということで、やるべきことは全部やってるという自助努力を尽くした状態、主観的には「必死に頑張ってる」状態になると、周囲(天=世間や他人)のヘルプを受けやすいって現象が起きるのだと思います。

 もうちょいシリアスな例をあげましょう。自己破産や債務整理などの案件でもそうです。貸金やら売買代金踏み倒された債権者は怒り心頭なんだけど、それでも債務者によって「あいつは許せる/許せない」が出てきます。大した努力もしたように見えず、へらへらベンツ乗ってゴルフ三昧やってて、それで借金パーです、返せませんとか言われたら「ふざけんな!」って気になる。僕も債権者さん達とは電話や面談で何十人となく接してますが、やっぱ皆さん見てますよね。「そらまあ、腹は立ちますけどね、ほんでも、あんな姿見せられたら、待ったらなしゃーないでしょう」って好意的に言う場合もあれば、「なんや見とったらヌル〜いことばかりしくさって、それで倒産です許してくださいって言われてもね、そら通りませんわ。いっぺん地獄に落ちてくださいって気になりますよ」って。

 もちろんそこには誤解があったりもします。ベンツ乗ってるのは、銀行や金融機関に対して儲かってるフリをしなきゃいけないからであり、ゴルフやってるのは起死回生の受注をゲットするために必死に接待してるんだけど、まあ、世間からは遊んでるように見えるとか。そのあたりは懇切丁寧に説明して、わかってもらったり貰わなかったり様々です。ただ、誰もが裁判官のような感覚で、「これは助けたらなアカン」と「これは助けんでええ」という判断をしているってことです。その基準になるのは、素朴な応報的な正義感だと思います。

応用例 

 ラウンド周遊に出る皆に場合、「早く無一文になるといいよ〜」とか、いつも無責任なことを言ってますが、別に無責任なわけではなく、その方がドラマが始まりやすくなり、総じて上手くいきやすいからです。

 これも同じ理由で、お金がそこそこあるうちは「お金に頼る」という方法でいくから、必死感が出ないのよね。いよいよなくなってきたら、仕事も選んでられないし、宿代すらもヤバくなるから、必死になって仕事探しをする。レジュメひとつ配るにしても気合が違う。「どうせダメだろうな」で配ってると「私を雇わなくてもいいですよ」オーラが出てるから相手も本気にならないけど、マナジリ決して配ってるとその真剣オーラが相手にも伝染る。また、宿で必死こいてやってると、皆よくしてくれるし、自炊したご飯を「一緒に食べようぜ」誘ってくれたり、仕事の後釜を廻してくれたり、あれこれ話しかけてくれたりもします。そういうときって、基本皆さん善意で接してくるから、「いい人」になりやすい。本当はけっこう邪悪な人でも、そのときばかりはいい人になってしまう。路傍の捨て猫に餌を上げてる時は、ヤクザだって「いい人」になるのだ。

 学校で弁当忘れて、昼飯抜き!って「きゃー」な展開になったら、クラス中から弁当カンパを受けるでしょ?「ちょっとこれ、食べない?」とか皆が少しづつくれて、結果的に「焼け太り」というか、普段の倍くらいの量が集まるという。ラウンド先のバッパーで全財産盗まれた人がいましたけど、そうなると周囲の皆から物心両面にわたるカンパが物凄く、仕事も廻してもらうわ、飯は全部無料でついてまわるわ、宿のオヤジさんも無料にしてくれるわって。

 結果的に経済的に得になったりするんだけど、それ以上に、必死で頑張ってる人ってのは素朴に尊敬されるし、好感をもって迎えられるし、相手も基本「いい人」モードになってるから、友達も作りやすいんですよね。

 ところがテキトーに金もってると、テキトーに何か買って、テーブルの隅で一人でモソモソ食ってそんで終わりってなりがち。あらたまって会話するきっかけにも乏しい。友達できない。それがまた傍から見てたら、一人で自足しているようにも見えるし、「ああ、一人が好きなのかな」「邪魔しちゃ悪いな」的にあさってな気遣いを産み、ますます、、、という。

 金なんか遅かれ早かれ無くなるんだから、とっとと無くなったほうがいいぞっていうのはそゆ意味です。お尻に火がつかないと、シャイな日本人は行動を起こさないしね。

 これを別の言葉でいえば、いい意味で必死になってる状態というのは、その人がもっとも輝いている、魅力的に見えているときでもあるのですよ。下手なお化粧するよりも何倍もフェロモンが出ている。男女問わず、人を引きつけるんだと思います。恋というのは、大体、「真剣でひたむきな横顔」なんかを目撃しちゃったときにぽっと発生したりするでしょ。

「天」の意味その2 〜純粋確率

 もう一つの「天」の意味は、自然現象や数学的論理です。
 自助努力をしている人は、およそやるべきこと、考えうるような手は全部打っているので、単純に成功率が高まるという、拍子抜けするくらい簡単な話です。

 でもね、人間というのは同時に怠け者でもあります。手を抜けることはトコトン手を抜きたいと思う生き物ですわね。

 駅前に公園があって、公園沿いに歩道があったとしても、通勤通学の皆さんは、道路に沿って直角にカクっと曲がるのではなく、公園の植え込みや芝生の上をナナメにショートカットして通ろうとするよね。あまりにも皆が通るから、土も芝生も踏み固められてケモノミチみたいになってたりしますよね。わずか数メートルの直角道沿いを面倒臭く感じる、近道できるものならあらゆる機会に近道したい、それが人間。

 自助努力って口でいうのは簡単だけど、実際にやると異常に大変ですよ。実働的には大したことないけど、心理的に面倒くさい。直角道みたいな感じがするんだわ。「別にそこまでせんでも、、、」「何とかなるんじゃない?」とか思うものです。客観的に10個の手段があったとしても、せいぜい2か3くらいしかやらなくて、あとの7−8手段は手付かず。やろうとしない。

 多くの場合、その怠け心は仕事の局面で徹底的に矯正されます。僕も散々ぶっ叩かれて覚えさせられた。「まあ、そこまでせんでも」って面倒臭いから勝手に思い込んで、そーゆーことにしてさぼってたりすると、ボスの蹴りが入るね(笑)。「やれることは全部やれ」「コケたときは手遅れ」だと。先輩や上司から叱られる理由ナンバー1は常に「詰めが甘い!」ですよね。千回やって千回勝てるまで気を抜くな、千回勝っても気を抜くなと。もっとスマートに、もっと確実に、もっと手早く勝てる方法があるか、朝から晩まで考えろ、思いついたら即実行しろと。仕事なんか、つまるところは「面倒臭さとの戦い」であり、どこまで面倒臭がらずにやれるかが、その人の実力を決する。

 ところが怠け者の人間にそんなこと出来るわけもなく、多くの場合は失敗して覚える。「し、しまったあ!」と悔恨・苦渋で胃が裏返ってトコトン思い知らされる。「まさか?」ということが実際起きるのが世の中で、ヘイヘ〜イ♪って楽勝街道を爆走してたと思ったら、逆転ホームラン打たれるわ、いきなり道路がなくなって谷底に転落するわ。もう恐いのなんの。経験積めば積むほど恐くて目が離せなくなるし、念には念を入れて、さらに入れてって、考えうることは全部やるようになり、かくして人はプロと呼ばれる実力を涵養するのでしょう。

 ということで結果的に自助努力するようになります。仕事が出来る人って大体そう。ぱっと思いつくようなことは全部やってる。その上でさらに模索してる。

 あとは単純に客観確率の問題で、物事を成就するためにあれこれ手段を講じていればいるほど成功確率が高くなるという、子供でもわかるようなクソ当たり前の話です。ハタからすれば単なるラッキーのように見えながらも、ラッキー女神を降臨させるために、ローラーで地均しをして、シコシコと祭壇を築きあげている。

 これを「天」が助けるという表現になるのですが、まあ「天」ですよね、自然現象なんだから。

結論〜岬の先端にて待て

 ということで、以上をまとめれば、とにかく出来ること、やれることは全部やってみる。

 ビジュアルな比喩でいえば、地続きになっているところは全部歩いてみて、行けるところまで行く。
 そして岬の先端まで行く。
 ここから先はもう海です、飛んでいくしかないです、翼がないとダメですって岬の先端まで行く。

 岬の先端まで行って佇んでいると、不思議なことに大きなコウノトリがバッサバッサと翼をひるがえして降りてきて、「背中に乗りなさい」と言ってくれるんですね〜(笑)。

 でもコウノトリは岬の先端にいる人しか救わないよ。
 そこがコウノトリの停留所であり、救援ポイントなのだ。
 だから岬の先端までとりあえず行け、と。

 コウノトリという比喩に納得出来ない貴兄、あれは赤ちゃんを運んでくる鳥であって、救援する鳥ではないという主張を譲りたくない貴女には、別の比喩をさしあげましょう。よくベトナム戦争を描いたハリウッド映画とかで、ベトコン相手に戦ってきたアメリカ兵が、ジャングルの切れ目みたいなどっかのポイントで救出ヘリに救い上げられたりしますが、あんな感じですね。岬の先は、ヘリが降りてくる救出ポイントのようなものなのでしょう。救出ポイントまで行かないでジャングルの真ん中で待ってたって、ヘリも降下できない。世の中には「救援されやすい場所」というのがあるのだと思います。

補充

 以上が概要ですが、若干の補充を述べておきます。

 必死になっているのに助けてもらえない場合があります。自助努力を尽くしているのに、天は全然助けてくれないぞって場合。おかしいじゃないか、おーい、玉が出ないぞ、責任者出てこ〜いって場合。

秤はまだ傾いていない

 一つには自助努力を尽くしていないって場合があるでしょう。
 本人は「これ以上は無理」って思ってるんだけど、傍から見てたらまだまだ努力の余地はある、まだ助けるような場面ではないって場合ですね。あるいは次のステップに進むためには、ここで壁にぶちあたって散々悩むというプロセスが不可欠であって、下手に助けたら本人のためにならないって場合。

 いずれにせよ、基本原理になる「応報的正義=世界観」は同じで、そこで助けなくても正義に反しない場合です。そのくらいの苦労は普通であって、それっぽっちで助けられてたら、逆に不当利得になって、却ってバランスが崩れるという。

世界観がずれている場合

 もう一つは、周囲と自分とで前提となる世界観がズレてる場合です。

 新興宗教大狸教(そんなのないけど)に凝って、世界が平和でありますように大狸様にお祈りをするのじゃ、世界中の人が幸せになるためには、毎日、皆で大声でお祈りをしないといけないのじゃ、さ、さ、皆の衆、私と一緒に祈ろうではないか、どうしたんだ、世界が幸せにならなくても良いのか?自分さえよければそれで良いのか?お前に少しでも人の心があるなら、私と一緒に祈ろうではないか!

 とか言われても、それがどんなに必死であろうとも、その人の世界平和を願う心情に嘘偽りがなかろうとも、また世界平和は自分だって願うところでそこに文句はないのだけど、でも、大狸様ってところが納得いかない。つまりは前提になる世界観が違っていると、いくら必死になられても、助けようという気にはならない。

 それはバランスや応報の土俵にのぼってこないからだと思います。

単純に周囲の世界観がゆがんでる場合

 「このくらい頑張ったらこのくらいご褒美があるべきだ」と素朴に信じられる人は、精神的にヘルシーな人だと思いますし、ヘルシーな精神を養えるくらい社会がヘルシーなんだと思います。

 ところがいくら頑張っても駄目駄目駄目!無駄無駄無駄!って日々を過ごしてきたら、そうは思えなくなる。むしろ、いくら自助努力を尽くしてもダメってのが世界観になる。「天は自ら助くる者を助"けない"」が彼の世界観になり、それが唯一無二の現実なんだと思う。

 そういう世界観がぐにゃって歪んでる人ばっかが周囲にいたら、誰も助けてくれない。そこでは助けないことがむしろ正義(現実)に叶っているからです。これはこれで結構ありがちな。

 その場合の処方箋は「すみやかに離脱」ですね。場が悪い。類友効果でそういう奴ばっか集まるから、まるで瘴気が立ち込めているような、地縛霊がついているような、そんな「場」というのはこの世に沢山あって、そんなところで頑張ってても良くないっす。

 大体なんでそこまで世界観が歪むかというと、黒人奴隷とかカーストとか絶対的な社会条件も一つにはあろうが、本質的には本人の精神の問題だと思います。黒人奴隷制度のまっただなかでさえ、彼らの中には神の愛を称えるゴスペルがあり、嘆きをブルースに昇華させたりしてるし、彼らが全員世を拗ねた犯罪者集団になってるわけでもない。てか全然関係ない。状況がどうあれ、正しい因果応報、信賞必罰って自然の観念は維持できる。だから、そういう世界観って、要するに本人が拗ねてるだけ、グレてるだけだと言っていいと思う。

 「頑張っても無駄」とかいうけど、3日だけ英会話教室いって全然話せるようにならないから「無駄」と思い込んでいるとか、自助努力の絶対量が全然足りないとか、方法論が滅茶苦茶間違ってるとか、自分の苦痛を過大に評価し法外な見返りを求めてそれが果たされないからってグレているケース等が多いでしょう。

 いずれにせよ拗ねてる奴に公正な評価はできっこないし、期待するだけ無駄です。
 それどころか、なまじあなたに成功されたら自分の立瀬がないから(いかにも自分が怠けていただけのように見える=その通りなのだが)、陰に陽に足を引っ張るかもしれない。そんな瘴気立ち込めるゾーンにおったら地縛霊に取り憑かれまっせ〜、とっとと離脱しなはれ。端的に言えば、頑張ってる人間を嘲笑するような人とは距離を置いた方がいいってことです。

間が悪い場合〜自己正当化だけはしない

 これは助ける側の話ですけど、気になる点を一つだけ。
 誰かが頑張ってるのはわかるし、その主義主張にも同意するんだけど、なんかしらんけど手助けする機会を逸してしまったって場合があります。

 募金活動とかチャリティとかやってて、それなりに敬意も好意も持つし、賛同もするんだけど、つい気恥ずかしいとか、タイミングを逸してしまって募金しそこなったり。その場合、イイコトやってるのはわかるし、異論もないのですね。でもついつい素通りしてしまって、結局何の手助けもしてないという。よくあります。

 この場合の処方箋は「そーゆーこともあるさ」で流して、尾を引かないことです。
 間違っても、そこで何もしなかった自分を正当化したらアカンと思います。「け、あんなの自己満足だよ」「意味ないよ」「募金に名を語った詐欺かもしれないしね」とか、やらなかった自分を正当化するために、本来助けようとしていた人達を悪し様に罵るとか。これは罪深いと思うぞ。

 クラスでいじめがあって、本心は可哀想だな〜、助けてあげたいなって思ってながらも、それを言うと自分もいじめらそうだから付和雷同している場合なんかもそうです。そこでは、付和雷同した弱い自分を、将来の課題として抱えていけばいいのであって、それ以上に「こいつはイジメられて当然な存在なのだ」とか正当化したら地獄に落ちますよ。いやマジに。

 そのメカニズムを言えば、その種の自分の心の欺瞞って、自分でも本当はわかってるから無意識に時限爆弾のように深層心理に組み込まれたりするといいます。自分は本当は罪深いんだ、自分は幸せになってはいけないんだってドグマが無意識の奥底にインプットされてしまうから、これほど恐いことはない。それが段々年を取っていくに連れてあらゆる人生の障害として出てくる。現象的には「何をやってもうまくいかない」って人生になったりしがちです。自分で壊してるんだから当然なんだけど(大事な試験の当日に寝坊したり、体調悪くなったり)、この種の「自己処罰の欲求」というのは意外とかなり強力だといいます。

 先日故人になったロビン・ウィリアムスとマット・デイモンの名作「グッド・ウィル・ハンティング」って映画にも出てきますよね。カウンセリングの最後の方で、魂の傷の核心に近づくにつれ、"That's my fault!"「僕が悪いんだ!」って叫び出し、"That's NOT your fault"(君は悪くない)って言い争いのようになり、わっと泣き崩れてブレイクする瞬間があります。心の奥底で自分自身が許せなくて、ロックをかけている。そしてそのロックが解かれて、次の人生のステージに進んでいけるという。この自己懲罰欲求って、ほんとすごい恐いなって思います。つまらん自己正当化は、そのロックをかけてしまうリスクがある。人生棒に振りかねない。地獄に落ちるってのはそういう意味です。それだけは絶対すんな!って言いたいですね。

悪のヒエラルキーと生態系

 最後に余談ですが、普通にナチュラルなどこの子供でもやる程度のイジメではなく、ほとんど病的なまでのイジメの首謀者的連中は、その病的な特性がゆえに後の人生でしっかりしっぺ返しは食らいます。もし貴方がイジメられてたりしたとしても、復讐だとかトラウマだとか考えないで、ほっとけばいいです。それは「天」が代わりにやっといてくれますからね。それに大人になったらそういう連中との距離も自然と広がって、もう二度と出会うことも無いでしょう。もし出会ったら、僕に連絡ください。そのときは法的トラブルって形になってると思うから。

 ここでの「天」とは何か、これはどういうメカ的因果関係があるのか?ですが、いじめっ子って、もっと強い連中からみたら小突き回したくなる存在なんですよね。てめ何調子こいてんだよ的に。暴力ではなく陰湿な奸計をめぐらすタイプの場合も同じで、上には上がいるからもっと邪悪な奴らから目をつけられがち。ツッパった格好してると「ちょっと顔貸せ」って言われるのと同じ。だから、より強い奴もっと邪悪な奴が出てきたら(てか絶対出てくるんだけど)もうヤバイ。本職連中からみたら、しょせんはケチな小悪党に過ぎないから、組織の下部構造に組み込まれたりする。街のドラッグの売人とかさ、摘発されたとき「お前、ちょっと行ってこい」の刑務所行きの身代わり要員とかさ、オレオレ詐欺の受け子とかさ、リスキーなことばっかやらされる羽目になる。

 そうなったらもう極道になってトップを目指すしかないんだけど、そんなの無理。そこで頭角を表すくらい強かったら逆に病的なイジメもしないでしょ。最初から突出して強い奴は、その種のひねくれた歪みもない。彼らがもっている毒は、針でチクチク刺すような陰湿さではなくて、いきなり頭部を噛みちぎるような獰猛さでしょう。

 「虎の威を借る狐」になって羊相手に偉そうにブイブイやってるようだけど、「虎の威を借る狐」って、日常的には虎集団の中にいるし、虎の群れの中ではひたすら軽蔑されるだけの存在でしかない。主観的には結構ツライでしょうね。暴力団内部における哀しいチンピラの立ち位置ですね。世間からは嫌悪されるわ、自分の組織の中では馬鹿にされるわで、案外と居場所がない。結局似たような連中と一緒になってトグロ巻いて、ケチな小遣い稼ぎやるくらいだけど、それだってヘタに縄張り荒らしたりしたら、いきなり組事務所に連れてかれて指詰めさせられたり、それに懲りて夜の街で悪のエリート達にあったらペコペコ挨拶するって感じ。

 結局のところ「強さ」で物事決する方法論だと、自分の強さが限界点を迎えた時点で終わりで、あとはミジメなもんです。強さに頼るものは強さに裏切られる。弱肉強食フォーマットで人生がセットされ、強弱や攻撃防御だけでライフスタイルが決定されてしまうと、助け合いとか信頼とかそういった人生のふくらみがなくなっていく。他者から善意や好意を受ける機会も圧倒的に減ってきて、人生のリソースは自分の強さ/ズルさしかないから、領土が広がらない。だから居場所もなくなる。そーゆー人生。ね、しっぺ返しくらってるでしょ。「天」に任せておけばいいんだよって。

 なお、こういう人達だって、それなりの方法論で頑張って自助努力してるんじゃないか?って疑問があるかもしれないけど、それはちょっと違うでしょ。彼らの方法論の根本アルゴリズムは「いかに努力しないで果実を得るか」でしょ。金が欲しけりゃバイトするのが普通だけど、カツアゲした方が楽だからそうするという。つまり彼らのやりかたは「自助努力しない」ことをモットーとしており、「岬に行かない」ことを旨とするから、天も助けない。それどころか天にいじめられるという。よく出来ているんですよね。



文責:田村