今週の一枚(2014/11/24)
Essay 698:規定演技から自由演技へ〜40代の話その2
写真は、ウチの近所の夕焼け。場所はどうでもいいんだけど、一応いうとArtarmonのMowbray Rdの路上にて撮影。
「お」という夕焼けがあったので。
いつも思うのですが、夕焼けでみるこっちの木って、なんとなくアフリカみたいなワイルドさがあります。
「お」という夕焼けがあったので。
いつも思うのですが、夕焼けでみるこっちの木って、なんとなくアフリカみたいなワイルドさがあります。
無重力状態になる40代
先週の補充というか、続きを書きます。
ちょっと分かりにくいかったかもしれず、僕自身も書き足りない感あるんで。
先週は40代になったら何かとヤバイらしい、その理由はそれまでの方法論が通用しなくなる(身体的にも人生・社会的にも)ということ、だから40になるまで「やることやっておく」といいよって話をしました。その「やること」って何よ?それをすると何がどんな具合に役に立つのよ?って部分を、もうちょい書きます。
あ、40歳云々って、そんなに数字的に厳密なものではなく、「大体そのくらいになると」というアバウトな感覚ですので、そこんとこよろしくです。人によっては20代後半にそうなるかもしれないし、人によっては60代にそうなるかもしれない。また、ゆるゆるとそうなる人もいるし、ある日を境にガラリと急変する人もいるかもしれない。それは人ぞれぞれ。ここでは考え方の概略がわかればいいです。
無重力状態になる
一つのものの考え方、あるいは比喩なんですけど、例えば、40歳以降になると「無重力状態」になるんだって考えるといいかもしれない。
30代までは、何となく「重力」があります。
世間的に「やるべきこと」が決まってたり、押し付けられたり、レールが敷かれてあったり、エスカレーターがあったり、まあうざったいんだけど、分かりやすくもある。それさえやってれば「地に足の着いた」を生き方をしているって安心感もソコハカなとくある。
小学生から就職までは、とにかくガッコ行って〜、勉強して〜、受験やら就活やら定期的に関門があって〜とか、人生双六のマスが比較的ハッキリしてます。別にそれに従う義理はないし、無視しても構わないんだけど、従うにせよ反発するにせよ、そういう「道」らしき線分がひかれており、考えるための一応拠り所にはなります。
でも、40歳すぎるとその線分が消えていくんですよね。真っ白な世界。もうどこにいって何をしても良いというすごい自由がある反面、誰も何も教えてくれない、参考にしたくてもお手本もない。重力がだんだんなくなって、ふわふわ無重力空間に投げ出されるような感じです。そういう生理感覚は特に感じないと思うのですが、考えてみればそうだろうと。
そういうのって、これまでお手本やルートに沿ってやってきた人にとっては結構キツいと思います。
恐怖に彩られた道
もちろん40歳過ぎてもまだまだ道は続いているし、それらしきルートもありそうに見える。でも、意味が違う。確かにそこにはルートらしきものはあるんだけど、道を進むことに伴う快感が減る。ルート通りに進んでも、今までのような快適な進行感はないし、着実な安心感もまた減ってくる。なぜなら(前回の繰り返しになるけど)、健康面での不快感が高まるし、仕事や社会的な充実度がアップするかというと実は意外とそれほどでもない。そうであるかのように語られているけど(”仕事盛り”とか)、そんなの放っておいても経済が拡大していた上昇局面の上昇業界の上昇部局に限った話であって、一般化はできない。多くの場合は、頭打ちになりながらも同じことの繰り返しになって新鮮味は失せる。と同時に、手かせ足かせが増えてくる。仕事でも板挟みの中間管理職だわ、家庭でも子供の学費やら住宅ローンやら親の介護やら、なんだかんだで負担は増える。
単に道を歩いているだけ、歩くために歩いているだけって虚しさが出てくる。「責任」という名の両肩の重みは増すけど、それが充実感につながる人ばかりではなく、負担に感じる人も出てくる。そしてその負担が道から外れる恐怖をさらに助長する。30代までが成長に彩られた道だとしたら、40代以降はそこから外れる恐怖に縛られて皆が歩いているから、結果的に踏みしだかれて道のように見えているだけって感じにもなる。そうなると「この道でいいの?」という迷いも出てくる。このまま老いぼれて死んでいくのか、それだけの人生だったのかって気分にもなる。
かくして、大地に両足を安定させてくれていた重力は、肩に移動してズシッと背骨にこたえるようになる反面、足元は徐々に不確かになっていく。これを表現するのに、重力が失せて無重力になると言ってるわけです。そして無重力という比喩は、この後で述べるプラス面(自由)をも意味してます。
ぶっちゃけ、もし誰もが充実の中高年時代をエンジョイしてたら、朝晩の通勤電車に揺られているおっちゃん達の顔は、ああまでも消耗してはいないでしょうよ。僕が高校生だった昭和の成長時代ですら、朝晩の地下鉄東西線で彼らのゾンビ顔を3年間見せつけられて、「ああ、このままいったらヤバイ」と真剣に思って、自由業しかない!って腹を括ったわけですよ。もし本当におっちゃん皆が「仕事盛り」でエンジョイしてたら、朝晩の通勤電車はもっと明るいはずですよ。高校生の僕が見て「ああなりたい」「カッコいいなあ」って憧憬の眼差しを向けたでしょう。それこそ部活帰りの高校生がどっと乗ってくる通学車両みたいに、デカいスポーツバッグさげてエネルギッシュなオーラ出しまくっていたでしょう。
蒸発と脱サラ
というわけで40歳過ぎてもルートはルートで残っているけど、総じて言えばあんまり楽しくない。必ずそうなるというものでもないけど、自然のなりゆきで言えばそうなる(楽しくならない)場合も多いだろうと。今の若い人は知らないだろうけど、「鬱」なんて言葉が出てくるよりもずっと前(昔は単に「ノイローゼ」と言ってたっけ)、経済成長時代の日本で普通に流行ってた言葉が二つ。「蒸発」と「脱サラ」です。蒸発というのは、仕事も家庭も何もかも放り投げて逃げちゃうことです。昔のテレビで残された家族が、「あなた、帰ってきて!」と涙ながらに訴えるコーナーが普通にありました。奥さんが蒸発するケース(大抵は他の男と)もあって、旦那さんと子どもたちが「ママ、帰ってきて〜」とやってましたね〜。すごいでしょ?脱サラは会社を辞めて起業することで、マイナーだけど「脱主婦」なんてのもあった。いまは"脱"原発だけど、当時の"脱"はそれ。
じゃあどうする?ですが、だからここで一回、線を引いておいたらいいと思うわけです。
「こっから先は別世界」と。
ここから先は別世界
ここから先は、これまでのやり方や価値観でやってるだけならジリ貧になっていくんだから、全然別のアプローチをした方が良い。メイン路線は変わら(れ)ないまでも、少なくとも選択肢や技の数は豊富にしておいた方がいい。バリエーション、レパートリーを豊かにしておく、と。「みんな」が減ってひとりぼっち
そして、具体的に何をどうする?といえば、これはその人の置かれている状況によって千差万別であって、一概には言えない。言えるわけがない。「みんな」と同じって大勢に従う方式でやっていっても、時間とともに「みんな」が減ってきて、ついには一人ぼっちになっている。遠足の帰り道みたいね。それが40代。これが小中学生だったら、置かれている状況にそれほど大きな差があるわけでもないし、又、工夫の余地も乏しい。とりあえず学校通って、友達と遊んで、給食食べて、宿題やってという大筋は大体同じです。高校大学になると偏差値輪切りになるから、「みんな」の数が数分の1に減ります。同い年であっても全然違ったルートになっていく兆候が出てくる。そして就職時期でまた分岐する。どの業界、どの職種、どの地方で働くかによって、同じ方向に進む「みんな」の数は数十分の1くらいになる。小さな会社や組織に入ると、新入社員の女の子でも次に年が近い人が50代だったりして、もうこの時点で「みんな」はなくなる。大きな会社だと同期入社がいるけど、それでもその後のあれこれで一人退社し、一人左遷され、一人出向の片道切符、一人海外赴任になり、、、でどんどん「みんな」は減っていく。
かくして40代、「平均的な日本のサラリーマン」であっても、それはあまりにも漠然とした「平均」で具体性がない。これまでの軌跡(キャリア)や前提条件(家族が入院したとか)によって、そのあり方は無数になる。転職一つとっても、職歴・技能やら希望年収やら勤務地やらで、同じパターンというのはない。ここに至って「みんな」も「お手本」も消滅します。一人ぼっち。誰でもそう。
全部自分オリジナルで決めるしかない
ということで、ここから先はお手本がないんだから、全部自分で決めていくしない。似たような環境の人の体験談を参考にするにしても(遺産の下心もあって親と二世代住宅を建てるとか、それが相続税改正で風前の灯になりそうだとかさ)、あくまで参考でしかなく、各家庭の風景やら、転職可能性やらは、本当に千差万別で、「こうやれば大丈夫」ってモデルがない。あるわけないですわ。そりゃあるかのように装うことは可能ですよ。でも大体が商業的な釣り広告文案ですよね。「老後のために」ってやつ。資産形成のためにマンション買えとか、相続税対策になるぞとか、保険に入れとか、株をやれとか、金を買えとか、サイドビジネスをやれとか、フランチャイズに加盟しろとか。でも、これありすぎて分からんし、それって「上手くいったら」の話でしかないから、アテにならない。「これで安心の老後を」とかよくDMにあるけど、それって「宝くじが当って資産形成した○○さん」と同程度の話であって、その宝くじが当たるかどうか自体は分からんのよね。だもんで、もしその種の話に興味があるなら、金払ってでも懇意で本当に信用できる税理士やFP(ファイナンシャルプランナー)さんを作っておくといいです。オーストラリアだったらホーム・アカウンタントね。税制や行政規定って超面倒くさいくせに、知らないと損すること多いし、それに年中変わるし。
というわけで、40歳になったら(一応の仮のラインとして)、なんもお手本がない、自分の一存で全てを決めるしか無い、無重力状態になるんだって思ったらいいんじゃないかと。
そして、そこで何をやるかは、40年間培ってきた「生きてきた全ての知識とスキル」がベースになるでしょう。
40年間、世間的なルートを一応の基準にしながら進んできた。あれやれ、これやれと言われるままこなしてきたら技も力もそこそこ身に付いた。体操でいえば「規定演技」のようなものです。最低1回は○○を入れろとか。
でも、40過ぎたら、それらをフル活用して「自由演技」をするという。持ち時間は「寿命まで」です。人生の後半戦の40年は、よりオリジナルに、よりしたたかに、より大胆に、より柔軟なスタイルでやっていく。ただでさえ負担が重くなってくる時期にそれをやるんだから、ハンパなパワーやスキルじゃダメっす。しがらみ泥沼にも足を取られないだけの強靭な足腰のバネがいる。40代までにそれを磨いておくといいよ〜、ということです。
何が役に立つか
どんなことでも役に立つ
基本、なんでも役に立ちます。学生時代の貧乏旅行の経験とか、バイトでの体験とか、デートしたり振られたりしたこととか、飲み会での馬鹿騒ぎも、珊瑚礁の海でも、子供の頃に読んだ童話の本でも、小学校の飼育係でウサギに餌を上げたことでも、、、、なんでも役に立つ。お手本がないということは、全方位でやれるということで、360度全てを射程にするならば、知らなくて良いことなどこの世に一つもないです。知っておけば知っておくほど、体験すれば体験するほど、「○○なんかどうかな?」という発想の幅が広がる。知らなかったら、そもそもそんなこと思いつかない。
さらに、いろいろやっているなかで、大体の「当たり」がつくようになります。○○をやろうとする場合、どのくらいの難易度なのか、予算的にどのくらいかかるのか、ここは無駄だから大幅に節約できるとか、隠れ費用があるとか、諸手続でもこうすれば早いとか。
例えば、一度も畑仕事をしたことがない人が、単なる脱都会だけの思いで菜園をやろうとしても、そのしんどさがピンときてないし、植物育てる難しさ、そしてその楽しさはわからない。分からないでやってみて、「こんなはずでは」でどっか〜ん!ってなったら目も当てられないでしょ?
でも夏休みのバイトで北海道で1ヶ月やってました、オーストラリアのウーフで有機栽培農家を6軒滞在して働いてきましたとなったら、大体どんな感じかは分かる。それが自分に向いてるかのどうかもわかる。さらに炯眼の士は、単にバイトの金稼ぎではなく、有機栽培をやりながら、それも腐りやすい野菜で、いかにして採算ルートに乗せるか、その工夫とか生きた経営学のケーススタディが出来ます。腐るから加工品にしよう。チーズを作ろうとか、オリーブオイルにしちゃおうとか。さらにアロマを生成すれば、腐らない上にかなり付加価値がつくから利幅は大きいし、モノが小さいから流通コストも安くなる。じゃあ、その場合の流通ルートはどうやって開拓するのか、ネットで広告するときにはどうか、SEOはどうする、口コミで広げていくにはどうする、その種の雑誌やNPOに取材に来てもらうように招待状を出そうとか、ものすごいノウハウがそこにはあります。へたなビジネス学校行くよりもバイトする方がはるかに学べたりもするのだわね。学ぶ奴は、いつでもどこでも、ちゃっかりしっかり学ぶし、学ばない奴は単に仕事がきついとかブータレて終わり。
だから、全てが役に立つし、まさに「生きてきた全て」が問われるのが40代ってことです。自覚的に生きてきたのか、ボケっと流されてきたのか、それが試される。「答え合わせ」みたいな感じね。
ちなみに、ワーホリいいよ〜ってお気楽に僕がオススメしてるのは、これがあるからです。40代の予行練習なのよね。ワーホリってなんもしなくていいし、何でもできるから、無重力なのですよ。そして「生きてきた全て」が問われるのも同じ。そこで「生きてきた全て」の何たるかが身体で何となくわかるから、これから先もどう生きればいいのかが何となく身体でわかる。いいチャンスです。
反面、自由な筈のワーホリをやりながらも、ルートがないと一歩も動けないとか、塗り絵まがいの作業しか眼中に入らないという、これまた40代と全く同じような状況も生じうる。益々もっていい練習だし、やり方次第で1年間で10年分の人生経験積める。でも、下手したら0.1年分しか積めないし、もっとヘタしたらマイナス5年になったりもするのだけど(トラウマ出来て却って怖くなったり、負け犬意識が染み付いたり)、その怖さもまた無重力ならではですよね〜。でもさ、「生きる」って本来そーゆーもんだべ。遅かれ早かれ40代になったらそうなるんだし。つか本当はゼロ歳児からそうなんだけど、道があるから適当に誤魔化せたし、見て見ぬふりも出来ただけでしょ。
ということで、40歳まであれこれ散々やり尽くしたという「遺産」で、あとの後半戦を食っていけるくらいになるといいです。
音楽は十代の遺産
「遺産」とか言われてもなんかピンとこないかもしれません。でもね、僕らは多くは、音楽、マンガ、小説、映画、その他の趣味、あるいはスポーツ、、、そういったものの大部分を「十代の遺産」で食ってたりしませんか?年取ってきてつくづく思うのは、「ああ勉強しないでマンガ読んでて良かった」と(笑)。同じように小説読んで、音楽狂ったように聴いて、自分でもやって、それがあるから今も快適に生きていける。もう十代の頃の自分、多分に生意気なクソガキだったけど、今目の前に居たらぶん殴ってるかもしれないけど、でも感謝です。いい仕事してんじゃん>十代の俺、です。もちろん20代以降も多くを学んだり、摂取しているんだけど、十代の頃にギンギンにカルチャー系の基礎体力つけているから、摂取しやすいし、理解もしやすい。それがどれだけデカいことか。
これは部活のスポーツ系でも言えます。中高時代にビシッとやって身体作ってる人は、やっぱ大人になっても違うもんね。それとはちょっと違うかしれないけど、僕の柔道部やってカタチだけでも黒帯とったら、とりあえずはその後の人生、フィジカルにそんなに人が怖くはなくなる。相手がなんにもやってない素人だったら、そう負ける気はしないし、体格が一緒だったらまあ大丈夫と。これがほんのちょっとでも何か齧ってる人だったら勝てる気はしないけど(格闘”技”というのは、それほどのものなのだ)。その物理面での対人恐怖がなくなるというのは、やっぱその後の人生でも大きいですよ。特に弁護士なんて喧嘩商売ですから。まあ、でも実際に使ったことは一度もないです。「人の首を絞めて失神させる技術」を使う局面なんかゼロで当然だけど、メンタル的な効用は大きい。
他のことでも多々あります。海外にしばらく住んで、それも無一文で地べた這いずりまわるような生活をしながら、それでも愉快に過ごせたら、海外怖くなくなりますからね。苦手意識が得意意識になるし、それなりのノウハウもスキルもついてくる。
飲食店系や現場系のバイトをしばらくやれば、あの感覚が身につく。それなりに荒っぽいけど、でも陰湿ではないという。現場ならではの論理則や、価値判断もわかる。なによりも身体で理解する。同じように、接客や営業廻りをしばらくやれば、そのしんどさも、面白さも、工夫のあれこれも分かる。ビジネス=営業っていってもいいくらいで、そこがダメなら、なにやってもネックがくる。就活なんか一番最初の「営業」ですよね。どんな人、どんな客が来てもうまくやっていく、うまく流し、上手くまとめる。「人慣れ」もするし。
あとは異性関係。これもアレコレあったり・なかったりで、ひと通りの基礎修行を終え、免許皆伝とはいかないまでも「切紙」ないしは「目録」くらいにはなっておくとか。日舞で言えば「名取」くらいとか。
後半戦開始の一応の目標
それらをまとめれば、(1)この世界のなにがどう楽しいのかのネタやアイデアを沢山もっている
(2)ある目的を実現するために、何をどうすればよいのかの社会技術を持っている
これらのノウハウがしょぼかったら、さあ自由だ、無重力だ、360度好きにやれって言われても、出来ないですよ。でも、アイディアと技術が豊富にあったら、夏休み開始の子供のように「キャッホー!」でしょう。
ま、早い話が、40代までに「あれがやりたい」「これもやりたい」ってものを沢山持っておくといいです。くそお、今は忙しいし金もないけど、金とヒマができたら(それが至難のワザなのだが)、絶対○○をやってやる!ってのを幾つも(出来れば10個以上)持っておくと、楽しい後半戦が待ってます。
別にどんな下らないことでもいいですよ。10万ピースのジグソーパズルを作りたい、そんなの売ってないから原画を描くところから自分でやるとか。どっか田舎の安い家を無料同然で借りて30畳くらいある巨大ジオラマを作るんだとか、子供の頃に挫折した「地下の秘密基地」を大真面目で作るんだとか、10年がかりで10分の1スケールの戦艦大和を全部自作で板金から溶接までやってしまうとか(呉の大和ミュージアムに本当にあるらしい)。オージーがよくやってるように、事故車のシャーシーを3万円くらいで買ってきて、あとは全部中古部品と自作で自動車を一台作ってしまうとか(車検も受けてナンバーも貰う)。なんでもいいんですよ、この世で最強のティラミスを探して世界中を旅するでもいいし、世界で一番美味いカレーをこの手で作ってやる、でもいい。シドニーのドラモインの街道沿いにあったボート屋さんに"Big Boy's Toy"って看板かかってたけど、わかってるなあって。
大事なのはその趣味を持っていることではなく、その趣味を発見できるセンスであり、ネタを持ってるかどうかです。そしてそれを実現するための世間知や技術も。世間知のなかには「金稼ぎ技術」も勿論入ります。だからより効率よく稼ぐ方法も知ってるし、逆により少ないお金で豊かに生きる方法も知っている。金があるならあるなりに、無ければ無いなりに楽しくやれる。金が無ければもう終わりなんて、技術無さ過ぎ。その辺りの弾性値が高くないと、自由だといっても絵に描いた餅ですからね。
変わらなくても全然構わない〜ただし言い訳はきかない
そんな自由自在に40代以降を構築できる人なんてごく稀にしかいないぞ、って声もあるでしょう。ただでさえリストラに怯え、転職可能性は年々低くなり、でも生活は年々苦しくなり、維持するだけで精一杯ってところに、何が「自由に」じゃあ、寝言いってんじゃねえよ、って思う人もいるでしょう。だったらそのままやればいいじゃん。結果として既定路線のままであったとしても、別にそんなのは個々人の自由なんだから、好きにすればいいじゃん。変えなきゃいけない義理はない。
でもな、40過ぎたら他人や状況のせいには出来ないぜ。よほど特殊な事情があるならともかく(冤罪事件で捕まって30年も刑務所に入れられていたとか)、「どんなにイヤでもこれしかない」って状況を作ったのは自分なんだもん。そりゃ色々と同情すべき点はあるかもしれないけど、でもその言い訳を40過ぎたら誰も聞いてくれないし、同情もしてくれない。
転職できそうなスキルもないのもそれを磨くことを怠ったのは自分だし、会社がポシャって路頭に迷ってもそうなる兆候はあったはずだから先見の明が無かっただけだし、悪い女(男)にひっかかったのも自分の意思だし、人間関係マネージをできなかったのも自分。まあ、言い訳無効ってのは実は10代でも20代でも同じなんだけど、それでもお義理ででも同情や慰めはしてもらえたり、支援してもらったりもする。親も金出してくれるかもしれない。でも、それもせいぜい40歳までじゃないすか?それ以上ウダウダいってたって、誰も聞いてはくれないよ。
とまあ厳しい言葉を投げつけられる、、、わけではないです。誰かにそう言われるってこともないだろうし、世間がそう見ているってもんでもないです。しかし、それより何倍もキツい「現実」が何よりも雄弁に毎日語りかけるでしょう。
よくいるじゃん。繁華街の片隅や、駅のホームで泥酔したおっちゃんが、恨みと嫉妬で濁った目で目の前を通り過ぎて行く人々を見つめて、「け、馬鹿野郎〜、スカしてんじゃねえぞ、こら」とか、あるいは聞くに堪えない卑猥な罵声を投げかけたりとか。そう言うのは自由だし、誰もそれに対して改まって反論や罵倒はしないでしょう。でも「誰にも相手にされない」という現実が、なによりもキツい。家に帰っても待っているのは冷えきったコタツ。女房が子供連れて出て行ったあとの、蛍光灯も白々としたガランとしたキッチン。賞味期限切れの牛乳。そういった「現実」に対して、どんな言い訳もどんな責任転嫁も無効でしょう。よく知ってるだろうが、そんなことくらい。
それもこれもあれもどれも全部自分の招いたことなんだから、全部ひっくるめて受け入れなさいな。したくなくても、受け入れるしかない。
ならば、むしろ積極的に受け入れた方がいい。受け入れられるように30代までにあれこれやっておくといいです。仮にそれまでと1ミリも変わらない生活をして、レールにしがみつくような生き方であったとしても、あれこれ知ってたら納得感が違う。あれもこれもあらゆる可能性を考えた結果、これがベストだと思えたら万々歳でしょう。
例えばこの子が大学に出るまで、結婚するまでとか、とにかく愛する者の困った顔は見たくないんだ、それが一番デカイんだって価値判断ができたら、その価値判断に自分でとことん納得できたなら、あとは胸張ってしがみついてればいいです。この子のためなら盗みだろうが人非人だろうが、自分は地獄に落ちてもいいから絶対守ってやるって。それはそれで充実するでしょう、毎日戦っているんだからさ。リストラされそうなので、土下座してまで懇願しているおっちゃんとか、あそこまでプライド捨ててやれるのは、それだけ家族を愛しているんでしょう。実はけっこーカッコいいと思うけどね。惚れられるんだったらそういう男に惚れられるべきっしょ。家族のために身体張れるんだから。てめーのチンケな見栄のために家族を犠牲にする男よりはずっと良い。でもって、そういう人は、家族の存在を足かせだとか負担とかの言い訳にしようとは思わないでしょう。むしろそれをモチベーションにするでしょう。
後半戦の基礎体力
でも、そんなに尽くしたのに、カミさんは男作って出てっちゃうし、一人娘はグレて覚せい剤でパクられて刑務所行きだったりして、結局ひとりぼっち。キツいよなあ、しんどいよなあ。まあ、一杯やんなよ、、てなレベルで考えているわけです、僕は。この状況で、それでも「け、ザマあねえや」ってへらへら笑えるくらいが40代以降の基礎体力だと思うのですよ。年食えば、いろいろな人の人生見てくるわけで、僕の親しい友もこの年代で自殺したし、早期ガンで他界したのも一人じゃない、年収数千万の売れっ子だったのが一転落魄し最後はドヤ街かどっか餓死同然ってケースもあった。色々見てくれば、そりゃ色々思うよ。ま、そんなもんしょ。実際、ある日突然余命1年とか宣告されるかしらんのだし、知らない間に自分の子供が殺人犯になってたりするかもしれんのだし、ある日帰ったら自分の連れ合いが何の前触れもなく首括ってるかもしれないんだし、40代以降の風景ってのは、そんなのがボンボン出てくるわけですよ。むろん確率的には少ないだろうけど、この先後半戦、まるで無傷ってことはないでしょ?なんかあるぞ。
だもんで、それらをクリアできる程度の基礎体力はいるし、さらに楽しくやっていくだけの知恵も度胸も技術もいる。いつの日か、朝歯を磨いたら、突然ゲホゲホ咳き込んで、掌見たら赤い血がベッタリついてる「初めての喀血」ってこともあるかしらんわ。俺もあった。その掌をじっと見ながら、ヤセ我慢でもなんでもいいから、ニヤリと笑って「ほお、そうきますか?」とでも嘯(うそぶ)け。鏡の中の不安そうな自分の顔に向かって、「よお、相棒、シケたツラしてんじゃねーぞ」と笑いかけるくらいの余裕、、なんて本当は無いんだけど、でもそこはカッコつける。本当にカッコつけるのはそういう局面だろう。それが出来るようになるための前半戦で、ここで怠けていると、あとがしんどいです。今は40代の話をしてるけど、50代になったら「気分は死刑囚の控室」になりますからね。60代はまだ知らんけど、どんどんハイレベルになっていくんだから、頑張らなくちゃ。
それだけの基礎体力をつけた上で、割りきって遊ぶのだ、と。
さあ、待ちに待った自由演技だ、好きにやらせてもらうぜって。
先憂後楽ではなく先楽後楽
思い残しのないように
前回も書いたけど、とにかく引きずらないことです。まあ、やり残し感があって、それがモチベーションになるのもいいけど、あんまり引きずっているのもねえ、、、って気がします。
でないとブルセラ買ってるオヤジとか、若い男の子に金注ぎ込んでるおばさんみたいになっちゃったり。政財界の大物でも、なんでそこまで頑張るの?金や権力に執着するの?といえば、究極的には「エッチしたい」「チヤホヤされたい」という子供モチベーションだけだったりして、なんだかな、です。勉強して、先輩の尻拭いして、煮え湯を飲まされて、さんざん苦労して50年がかりでエッチするくらいなら、今やっておけ、です。
ほんと、やれることはやっておくといいですよ。年取ってからそれを叶えようとしても、なっかなか叶うものでもないし、金や権力で強引に叶えられる奴なんか一握りだし、第一その地位に達するまでのエネルギーを傾注したら、もっと簡単に実現すると思うのですよね。そんなの無駄な遠回り。そもそも金や権力でモテたって、モテてることにならんでしょうが。オス世界の論理でいえば、そんな小道具使わないとモテないという時点でもうダメじゃん。ピンで勝負してなんぼ、素手でタイマン張ってなんぼでしょ、それがオスの掟だろ。ゴリラも孔雀もオットセイも、みんな気合入ってるじゃん。
あと、事故やら病気やらいろいろあるし、白内障で失明する前に見るもの見ておけだし、舌や歯がダメになる前に旨いもん喰っとけだし、文句があんならその場で言えだし、いずれにせよ「もう散々やったからいいや」って思えるようになるのが理想だと思うよ。
成仏しろ
あとはしょーもないプライドとか全能感はこの際殺しておくといい。ずっと前に大前研一氏が同じようなことを「成仏しろ」という表現で書いてたけど、そこは同感ですね。口ではいろいろ謙遜するんだけど、でも心の底のプライドは高い、なんも出来ないのだけどプライドだけは高いって場合がよくあるんだけど、40年貰っておきながらこの程度だったら、実質この程度なんだわね。それでいいじゃん。諦めろ。ナポレオンにもダビンチにもなれなかったんだけど、でも、何が不満なのよ。ナニサマのつもり。そして、誰になる必要もないじゃん。自分になればいいだけじゃん。「大したことのない雑魚の俺様」になってればいい。大体70億人が全員ヒーローになってたら、収拾つかんだろうが。
でもそれは成長を諦めることではないのですね。ここ分かりにくいけど、大したことない自分っていう、リアルで等身大の自分をそのまま受けれられるのが、やっとこさ40代になってからで、そこを起点として地道に楽しく成長できるようになる。
30代までは「あるべき俺」と現在地とのギャップや欠落感がモチベーションになりますよね。本当はあそこまでいってなきゃいけないんだけど、でも全然ダメだとか、それがバネになる。そこには「本当の俺」ってのが、実像の50%増量くらいに幻灯機で映しだされているのですね、脳内スクリーンに。だから常に欠落感があり、常に不本意であるという。そもそもダメな自分に悩んだり、鬱になったりするってのが、増量幻影している証拠でしょ。正味これだけだと心底思えたら、ギャップも無いから悩みもないよ。それは例えば「目が二個しかついてないからダメだ」「空を飛べないからダメ」とは思わないのと同じ。
でも、40から先はそうではなく、リアルな自分を基準として、それでどこまでいけるのかってのが焦点になるから、逆に面白いです。子供の頃にピアノやらされた人がピアノ嫌いになって、でも大人になってからやってみたら楽しい!ってのはよくあります。昔は、理想とか基準とかあって、でもそこまでいけないからそこで打ちのめされたり、嫌気がさしたりしてたんだけど、単純に弾いてみたら当たり前だけど素人よりも上手いわけだし、プロになるのは到底無理にしても、純粋に楽器や音楽を楽しむことは十分にできる。そゆことだと思うのです。
別に賞を取らなくてもいいし、誰かに褒められる必要もない。前回、「言い訳は許されないけど、言い訳をする必要もない」って書いたのはそのことで、上手くなくても別に構わないのですよ。要は自分が楽しいか楽しくないか、ほんとそれだけの世界になるから、すっげー楽しくなるのですね。他者との競争とか比較とかそういう”邪念”を払ってみたら、やっぱなんでも楽しいんですよ。
しょうもないプライドを殺して、リアルにとほほな自分を受け入れるご褒美として、でっかい自由と楽しさが渡されるわけで、これは楽しまなきゃ嘘でしょう。だから成仏しろと、仏になった方が自由で楽しいぞ。
会社でも、30代前半で〇〇支店長だったら出世コースとか、〇〇支店に飛ばされたら終わりとか、そんなこんなに一喜一憂してたりするけど、だんだんどうでも良くなってくる。全国各地に転々と飛ばされたとしても、奥さんと二人で全国各地の美味しいものや美しい花鳥風月を愛でるチャンスを愉しめばいいんだと思えるようにもなる。社長だろうがヒラだろうが、温泉は温泉で、何の違いもありゃしない。お湯は差別しないぜ。
私ですか?はあ、しがないサラリーマンってやつですよ。なんの取り柄もないですよ。
でも、そんな自分の人生や生活を、今は結構楽しんでいるし、誇りにも思うのですよ、と。
なぜムキになるのか
虚しくなる必要はない
延々似たようなことを書き続けているわけですが、ここはほんと力説したいのですよ。誰も読んでないかもしれないけど、40歳過ぎたらそんなこと気にならないね(笑)。なぜそこまで力説するかというと、一つはリアルにこの先あれこれありそうだからです。終身雇用なんか夢のまた夢になっていくだろうし、年金だってマジやばいですよ。今貰ってる世代ですらヤバイと思う。30代まではレールでっていうけど、レールに乗れる人自体がすでに人数制限カマされて、あぶれる人の方が多いかもって時代になっていくし、その傾向はどんどん強くなるでしょう。
その是非はともかくとして、30代までですら重力が弱くなっている昨今、これで40代になったらどうなるんだ?って怖さも感じるのです。だから、今のうちにココロしておけ、と同時にやり方次第でなんとでもなるぞと、それは言いたい。
特に後半戦になったら、人生の卒業制作みたいな自由課題になっていくんだから、ほんとに、ほんとにどんなことでも役に立つのですよ。エリートでなくても、キャリアがなくても、ひきこもっていてさえ、今感じていること、今頑張ってること、今やってることが、何らかの形で絶対肥やしになります。
作曲とか絵や小説書く人、創造的なことをする人だったら分かると思うけど、結局は個人の人間性の深さが決め手になるのですよね。そりゃ技術面は大いにありますよ。でも上手になったとしても、じゃあ何を製作するの?どういうモチーフになるの?結局何を表現したいの?って話になるのですね。そこが肝心要で、そこがしょぼいと結局いい作品は作れない。でもって、その根本部分の栄養になるのは、子供の頃にお母さんと一緒に食べたかき氷の幸福な色であったり、初デートなのに遅刻して半泣きになって全力疾走していた瞬間であったり、睡魔に襲われながら聞いていた5時間目の授業だったり、出張先の旅館の部屋から見えた風景だったり、するわけです。
40歳以上もこれと同じで、自由製作という創造性の高いものになりがちだから、だからどんなことでも役に立つと。今時点でイケてないとか、うだつがあがらないとか、どうとかこうとか嘆く必要は微塵もなくて、一日24時間生きてることに変わりはないんだから、絶対何かを感じて、何かを経験してるわけで、実はそれでいいのだよと。人間、無駄なことをしてると思うと、めちゃくちゃ虚しくなるんだけど、虚しくなる必要は全くないぞと、これは何度も何度も言いたいですね。選挙カーの上に乗って連呼したいですね。単に頑張れって応援ソングで言ってるんじゃなくて、厳然たる事実だからです。40過ぎてから、どうしようもなくクッキリ見えてくるのですよ。「なるほどね、そういうことだったのね」と。少なくとも僕にはそう思えてならない。
先楽後楽
「先憂後楽」って言葉ありますよね。本当の意味は民が楽しんだあとに最後に王は楽しむ、王はそのくらいの根性でやれって意味だけど、誤解のほうが流布されて、アリとキリギリス的に、あとで楽しむために今はツライ思いをしろって意味に使われます。今は大変だけど、勉強すれば出世できるぞ、老後はバッチリだぞと。でも、それって必ず後半に報われるって保障があるような場合でしょう。技術とか修行系は、単純に物理現象としてご褒美はあります。きちんと練習すればちゃんと上手くなりますから。でもそれを超えて、社会的に恵まれるとか、年金がどっさり出るとか、そのあたりはもう未知数でしょう。
そして僕が「やることやっとけ」「楽しんでおけ」というのは先憂後楽の逆、アリではなくキリギリスになれっていうことのように理解されるかもしれない。でも、微妙に違うんですよ。快楽の深さそのものでいえば、実はキリギリスよりもアリの方が楽しいと思うのですよ。その場限りのものって限界あるんで、やっぱ自分が納得できる努力って楽しいです。それは小さなころサッカーの練習をムキになってやってたのと同じ。
だから苦あれば楽ありって話じゃなくて、前半戦には前半戦の楽しさがあり、後半戦には後半戦の楽しさがあるよ、でも質が違うから、頭を切り替える必要があるよってことを言いたいのです。また前半戦の楽しさは、それが一見修行チックでツライ感じもするんだけど、でも納得できたら辛くない。だから納得しろ、納得できるように後半戦にどうなるのかを今のうちから知っておいたほうがいいと。
文責:田村