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今週の一枚(2014/09/15)



Essay 688:応仁の乱とガラパー天国

 写真は、信号待ちしてて爆笑したアホな広告。

 これは貸倉庫の壁に掲げられている「貸倉庫いかがっすか」という広告なんだけど、マンガのセリフの"I need more space"という部分がキモ。"space"がダブルミーニングになってて、「もう少し空間が欲しい〜手狭なので倉庫を借りよう」という文字通りの意味と、男女間の微妙な言い回しで、意訳すれば「僕達は、もう少し距離を置いた方がいいじゃないかと思うんだ」という意味でつかう「空間」ですね。さらに「暑苦しいんだよ」「もう少し一人にさせてくれよ」「別れよう」という意味まで含んでいるという。だから”What do you mean?"(まあ、何を言うの?どういう意味?)という女性のリアクションになるという。

 しょーもないといえば、ほんとしょーもない単純な一発芸レベルのギャグなんだけど、これを作る広告代理店、それにGOサインを出す広報担当。なかなかいい馬鹿センスしてるな〜と。


 えーと、何を書こうとしていたんだっけ?
 「あ、今週はこれでいこ」と着想が浮かぶ時があって、たまにはメモするけど、大概はそのままになって、「なんだっけ?」でそれきりってケースが多い。でも断片的に覚えている場合もあって、今週はそれ。

 しかし、頭のなかに残ってるのは「自分がアホであることに早く気づいたもん勝ちゲーム」ってフレーズだけ。なんだこれ?なんでこんなこと考えたんだ?えと、、、記憶を遡らせて、、、ああ、そだそだ、スコットランド独立の話筒井康隆の「アフリカの爆弾」の話だったんだ。はい、これだけで「ははあ、なるほどね」と今週の展開が読めた人はもう読まなくてもいいです。まあ、こんな妄言で分かるわけないとは思いますが。

グローバルな普遍性とローカルな特殊性、中途半端な中間団体

 前提というか背景にあるのは、ず−っとこのエッセイでも書いていること、これから国家というもの存在感や役割が低下していくだろうという「いつもの話」です。

 前回紹介した論考のなかに「インターナショナル」と「グローバル」の違いに言及されていて、なるほどと思ったのですが、「インターナショナル」というのはもう古いのですね。あれは世界に国家があるのが大前提になってて、国家と国家の間を行ったり来たり(国+際)って概念なんだけど、「グローバル(地球)」はいきなり地球単位で考えて、そのなかで細かく分かれた国家なんか眼中にない。それらは、おしなべて単なる「ローカルの特殊性」として括ってしまう。IBMの社訓の”Thing Global, Act Local"をそのまま地でいってて、これはグローバル企業のみならず、シェア経済で紹介したように、そこらへんのお兄ちゃんの小遣い稼ぎですら地球丸々ひとつの市場と捉える。ネットでつながれるところは全部市場。

 グローバルの普遍性とローカルの特殊性のカップリングで稼ぐというか、泥臭いまでに濃厚なローカル個性をいきなり全地球に産直で売る。だからローカルにおいても「日本」なんて大雑把なこと言ってたらダメで、九州でもダメで、佐賀県でもまだ広すぎて、さらに分かれてきめ細かな配慮をしなければ。つまり地球フォーマットと「おらが村」フォーマットをズームレンズのようにシームレスのようにやっていくということですね。

 ローカルの特殊性〜文化的にまとまったエリアというのは、それほど大きくない。一つの県内部でも歴史的に細分化されている文化圏があります。調べてみたら、明治の廃藩置県で最初に出来たのは3府302県にも及びます。次に統合して3府72県。以後69 → 60 → 59 → 35 → 43県と猫の目のようにクルクル変わってます。佐賀+長崎県=肥前の場合、最初は、唐津県、鹿島県、小城県、蓮池県、佐賀県、平戸県、福江県、大村県、島原県、長崎県、厳原県の11県に分割されていた。まあ、そのくらいが本来のサイズなんじゃないですか?江戸時代はそれでやってたんだから(以上出典はココ)。

 そうなると今の国家という単位は帯に短し襷に長しで、どうにも使い勝手が悪い。グローバル展開には小さ過ぎるし、ローカルには大きすぎる。でも国家という単位に上手く適合(てか寄生)している人達は、これからも国家単位で物事が動いてくれないと困る。だからなんだかんだで「国家らしい」話題を前面に出す。ところが「国家らしい」といっても、もともとが19世紀の軍事国家モデルだから、やることといえば戦争くらいしかない。だから紛争だのナショナリズムを煽るという、もう見てて涙ぐましいくらいの努力をなさっておられる。ほんでも、それに乗っちゃう可処分時間に恵まれている(ヒマな)人達もいるけど、多くはそんなんどうでもいいっしょ?老後の年金どころか来年の雇用すらヤバそうな今日このごろ、「長生きリスク」やら「老後はホームレス」みたいな寒そうな風景が頭をよぎる昨今、今のうちからアウトドアライフのノウハウに精通するとか、「ハチワンダイバー」の二コ神さんのように川辺で釣りして将棋三昧の老後もいいよねとぼんやり思ったりとか。

 このように極大ベクトルと極小ベクトルに二極分化していく世界の流れに対して、「中間団体」の国家あたりが右往左往するのは当然でしょう。ダイエーの流通革命で卸業者さんが淘汰されていったのと似たような話ですね。

ウクライナとコンビニチェーン

 思うに、これからの国家は、ゆるやかなネットワーク連結というか、小さなローカル集団のまとめ役というか、交通整理というか、それらを会員にして国家サービスをシェアしましょう、会員になるとイイコトありますよとか、フランチャイズの勧誘みたいな感じになるのではないか。シェア経済で紹介したAirbnb社の位置に国家が来る。売るのは国家サービス。共通のフォーマットや手順だけを定めておいて利用してもらい、揉めたり、事故があったら仲裁・解決するってメンテ業務ですね。なんといいますか「新封建主義」みたいな。封建主義って土地・地元主義ってのが本来の語義(左のヘンに土が二つも重なってるでしょ)、本来は地方分権の強さを意味する政体。身分ガチガチ=封建じゃないよ(僕も誤解してたけど)。あれは属性。だから封建「的」身分制度と「的=〜みたいな」が入る。

 (合ってる保証は全くないけど)ウクライナなんかもその文脈でみるとわかりやすいかもしれません。あそこって東西の回廊にあるから、交通の激しい交差点の角のコンビニみたいなもので、で、ローソン(露)とセブン(西側、米とUE)がそれぞれに「ウチのチェーンに入りませんか」とやってるという感じ。そのなかでもお父ちゃんと長女はローソン派で、お母ちゃんと長男はセブン派で、でもローソン派が優勢だという。

 ロシアの方がなんとなく優勢に見えるのは(日本を含む西側メディアの提灯バイアスを除去すると)、これも穿った観測かと思うけど、ロシアの方が「国家サービスのネットワークチェーン」みたいなユーティティ主体でプラグマティックな発想で組み立てるからじゃないかな。そればっかではないけど、まだそういう新しい発想があるように思える。ソ連が四分五裂して独立国家共同体ってネットワーク国家をやってきた一日の長もあるのかもしれない。でもアメリカ(政府を焚き付けてるネオコンちゃん)あたりは、未だに覇権主義とか、国威とか、人権とか正義とかそのあたりの古臭いフォーマットでやっている。いまどき「ハケン」と聞いたら「覇権」を連想する古い世代と、当然のように「派遣」を連想する若い世代の差みたいな感じ。リニューアルしろよって気もしますね。

人間集団の適正サイズ

 そうなると国家というタガが段々緩んできて、もともとの実質的な集団(おらが村)に回帰していくのかもしれないです。

 大体さー、世界だなんだいっても人間の身長は1〜2メートルで大して伸びてないんだから、「このサイズの生き物」には、「このサイズのテリトリー」という大自然の定めたサイズってのがあるんじゃないの?おおよそ半径10キロくらい?徒歩で日帰りできるくらいの距離?そのくらいが「俺の○○」という心理学でいう延長自我のナチュラルな限界じゃないすかね。そのくらいだったら、ナショナリズムとか国難とか無理やりプロパガンダという精神サプリメントを飲ませなくても、ごく自然に「私の〜」と思える。それを超えたらサプリがいる。逆に言えばサプリかましてる時点で嘘臭いと思ったらいいんでしょう。


 スコットランドの独立がリアリティを帯びてきたというのは、そういう人類史的な流れも背景にあるのではなかろうか。独立した後経済的にやっていけるのか、北海油田がどうとか議論されているけど、そーゆーことじゃないんじゃないかな。メジャーメディアであれこれ書いている人らの視点からはそう見えるかもしれないけど、なんか「父っつぁん、ズレてんぜ」って気もするぞ。独立ってさ、家出みたいなもので、経済的得失を考えてやるわけでもないでしょう?それに実利でいっても「実家」に居たほうがお得ですよって話でもなくなりつつあるもん。破産しそうでギスギスしてる実家にいてもしょうがないわけで、同じ苦労をするなら自分らだけで納得できる苦労をしたいよってメンタリティはあるんじゃないかな。

 もともと19−20世紀の国家とか領土とか、帝国主義の分捕り合戦の結果だから無理ありすぎで、いつまでも続くわけがないです。イラクだって、スンニとシーアとクルドで三カ国にすりゃあいいのに無理やり一つにするからモメ続ける。しかしスコットランドのリファレンダム(国民投票)が是非いずれになったとしても、この流れ自体は世界にそれなりのインパクトは与えるでしょう。とりあえずは北アイルランドとか。あれも島の北だけイギリスというのも不自然で、九州でいえば佐賀と長崎だけが韓国領になってるようなものですからね。

 こんな独立の火種は世界中に山ほどありますよね。スペインのバスクなんか有名ですけど、Wikiで見たら、逆に世界で独立の火種を抱えてない地域なんか無いよってくらいです。イギリスだって、知られてないけど、コーンウォール地方とかウェセックス地方とかが強烈な独自性をもってたりするし。アフリカなんか最初から無理やり分割しているから、大戦終了で独立になったとたん、あっちこっちで内戦が起きて、報復が報復を呼んでまだやってるエリアもかなりある。

 もともと今の国家分割なんか一過性のものに過ぎず、世界史の資料集で「○○世紀の世界」で国境やら国やらが色別でぜーんぜん違うように、これからもまたぜーんぜん違っていくのでしょう。それはもう良い/悪いの問題ではなく、人類の自然現象としてそうであるということですね。問題は、それを促す背景というか地下マグマのエネルギーと、それを成り立たせるだけの経済その他の環境でしょう。豆は乾燥した暗所に保存しておけば豆のままだけど、水分と太陽光線があったら発芽するという。それをいまは「火種」と呼んでるだけの話で。


 そこで思うのは、これからの国家は、ある程度の歴史的文化的、そして何よりも心情的な共通属性を持った小さなエリアをゆるやかに結合していくネットワーク国家になっていった方が良いのではないかと。国家レベルの物事、スケールメリットが有効な分野と、会員相互間がスムースに連結できるためのコネクションの手順(プロトコル)の編纂調整作業をするだけで良いという。それを連邦と呼ぼうが、フェデラルと呼ぼうが、ネットワークと呼ぼうが言葉の問題に過ぎない。

ネットワーク国家化はできるのか〜各国の底力

 世界各国をみていった場合、そういう国家モデルの変容についていけるか?というと、考えてみたら案外やっていけるような気もしますね。まずアメリカだけど、これヤバそうでいながら、ヤバいのは経済だけで、あとは結構マトモというか、ある意味理想的かもしれないなと。

 その国、その集団には、建国の精神というか、そこの構成員だったらストンと腑に落ちる美意識とか道徳・美徳観念があるのでしょう。原始憲法とでも言うべきか。アメリカをアメリカたらしめている一番の要素というのは、「きかん気の強さ」「鼻っ柱の強さ」、どんな困難があっても絶対乗り越える、乗り越えてこそのアメリカであるというフロンティアスピリッツ、ヤンキー魂みたいなものではないか。その反面として優勝劣敗の荒っぽくもギスギスした文化、ルーザー(負け犬)は徹底して馬鹿にされるという辛い部分もあるんだけど、このあたりは表裏一体でしょう。そして社会のプロトコル(根本的な論理則)は、自由と平等(公正)でしょう。この概念に対しては公的にも私的にも一目置く。これがあるから人種の坩堝&ネィティブ虐殺&黒人奴隷の巨大な負の遺産を背負いながらもまがりながらもあの大きな国を維持しているのでしょう。

 この「自由と公正な競争」という概念はクリアでわかりやすく、それがゆえに人類だったら誰でも参加可能で、それが大きいなと思う。ネットワークの連結基準というのは、できるだけ誰でも参加できるように明瞭で合理的な方が良い。信号の赤は止まれ/青は進めのように。そこで読めない文字が浮かび上がってきて、それを解読できた人だけが信号の意味を知ることが出来る、、なんて複雑なことやってたら誰もが参加できないし、ネットワークになりにくい。例えばユダヤ教国のように、ユダヤ人、ユダヤ教徒でないとダメだったら、もうその時点で広いネットワークは作りにくい。以心伝心みたいな濃厚なローカルカルチャーはあってもいいけど、それが社会のルールやプロトコルになったらしんどいです。

 言うまでもなくオーストラリアもアメリカと同じくアドバンテージがあります。白豪主義でゼノフォビってた時期もあるけど、「フェアゴー(公正)」と「マイトシップ(助け合い)」は今でもオージーの美点であるし、人生が幸福であることが権利であるだけではなく義務ですらあるくらいのハッピー至上主義、トールポピーの反権威主義や庶民主義など、世界から来た移民達にとっては非常にとっつきやすい。これは僕自身の体験として言えます。日本のウラとオモテが入れ子になってる社会から来てみると、めちゃくちゃわかりやすい国だなと。これだけ表裏が少ない、無いことはないけど日本に比べたら無いに等しいくらいそのまんまの国というのは、どの民族がやってきても、すぐに参加できるし、参加者同士の連帯感も出てくる。いいもの持ってると思います。

 そういう意味では欧州はやはり世界史の先端をいってると思います。
 あそこは昔から国家がアメーバーのようにくっついたり離れたりしている。ドイツだって、もともとは260だっけ?細かな地域国家の集合体のようなもので、北部の弱小豪族だったプロイセンがグングンのしていってドイチュランドという国家を作り上げただけのことで、もとはボヘミア(チェコ)もスロバキアもポーランドもオーストリアもハンガリーもあそこらへんはゲルマンとスラブの民族自治領みたいな感じでしょ。それに神聖ローマ帝国というワケのわけらない国家がカスミのように薄くたなびいているっていう。イタリアだって統一したのはつい最近でしょ。一応の形になったのは明治維新の頃だけど、現在の領土になったのは第一次大戦後(サンジェルマン条約)ですし、それでも未だに北部同盟とかシチリア同盟とか火種はあるし。だから本当はベネルクス三国みたいな規模が適正なんかもしれません。ルクセンブルグは神奈川県くらいの広さしかないし、結構大きそうに見えるオランダだって九州サイズしかないもんね。

 で、それらがEUを作り、通貨の共通、国境自由のシェンゲン協定というネットワーク・プロトコルを整備している。EU、その前身のECでも出来た頃には、長く続かないだろうとか言われていたけど、未だに保ってますからね。あれはあれで大したもんだと思いますよ。

 一方BRICKSはどうかというと、ロシアと中国は逆に非常に中央の統制がキツいファシズム的な国家と思われがちだし、そういう実体もすごくあるのだけど、両国ともアメリカ以上に少数民族入り乱れる国。中国では政府に認定されているだけで55民族(Wiki、あるいはココ)、ロシアに至っては182民族(wiki、あるいはココ)。中国では漢語だけではなく各民族言語を並行して学ばせているし、ロシアも各共和国の公用語認定されている言語は26言語にも及ぶ。まあゴリゴリに圧政を強いてるんだろうなってイメージもありつつも、実体はよくわかりません。ただ、問題点は多々あるんだろうなと思われながらも、曲がりなりにもマルチカルチャルな状況を無視するのではなく対応しようとはしている。少なくともそういうことに慣れている。
 ほかのBRICKSも大体そうで、ブラジルも世界中の民族が来ていてブラジル人=地球人って感じだし、そしてそれ自体が歴史的に一個の宇宙みたいなインドなんか最たるものでしょう。


 世界中どこでも独立の火種があるということは、世界中どこでも異なる民族や集団同士でどうすれば上手くやっていけるかをずっと模索しているといってもいい。成功しているとはいい難いのだろうが、そういう前提でやってきてるし、努力もしている。つまり、国家とは、最初から異なる人々との融和点を探るという機能がある。この点、勢いで日本を単一民族とか言い切っちゃう日本の政治家とか、日本一般の国家像とはもう根本的に違うといっていいのでしょう。いずれにせよ多民族を抱え、バランスを取ることに腐心してきた国は、そういうことに苦労しているし、慣れてもいる。ネットワーク国家的な機能を最初からもっている。だから移行するにしても、比較的し易いんじゃないかな。

 まあ、だからといって簡単に済むとは思ってません、全然。ロシアだって人数的にも経済的にも支配しているロシア民族は、あの広大な領土の西側にベターっと張り付いているだけで、真ん中から東(シベリアとか極東)なんか「別に要らないじゃん」って気もするのだが、しかし、その辺鄙なエリアに豊富な資源が眠っているから簡単に手放すわけにはいかない。中国だって中央アジアの油田に近く、ロシアやインド、中東、EUに近いウィグルとかそのあたりは手放すわけにはいかないって台所の事情があるのでしょう。ヘタしたらウクライナみたいに取り込まれてしまうし、それを懸念する。だから無茶苦茶やるという。これだけの前提だったら、この先も似たような状況で強権性が和らげることは難しいでしょうが、しかし、今後エネルギー技術の進化が進むに連れて、何がなんでも資源!って感じにならなくなっていったら、話もまた変わってくるかもしれない。ただ仮にそうなったところで、強烈な全体国家であるがゆえに美味しい思いをしてきた寄生虫みたいな勢力はいるだろうから、それがどこまで突っ張って、どうなるか、でしょうねえ。

 ただ、ここでは国家の役割が変容して、なんでもかんでも規制かまして全体主義的にやるのではなく、ゆるやかな連結、国家サービスのシェアであり、会員募集中みたいなノリになったとしても、全てを叩き壊してゼロから作るとか、どうにも対応できずに国家体制が大壊滅するってもんでもなさそうだな、ちょこちょこっとリフォームしたら結構使えそうなんじゃないの?ってのが、ちらと考えたうえでの(本当にチラだから大した考えでもないんだけど)、発見でした。

日本のガラパゴス天国

素質はいいんだけど状況的には絶望的な

 で、日本はどうかというと、これは結構望み薄っていうか、絶望的なんかもな〜って気もしますね。そういうフォーマットの発想が最初からないし。違うものを適正に配置して微妙なバランスを取るという、ヤジロベエ的な、天井から吊るす赤ちゃんのガラガラみたいな、バランス感覚こそが命って発想ではなく、皆まとめて同じにすることで解決するって方法論に馴染みすぎてるでしょ。日本ではマジョリティこそが人権を享受でき、マイノリティになるとなにかと損。それが本能的に身に染み付いてるから(上の世代ほどそう)、買い物の選択でも、人生の選択でも「皆はどうしてますか?」「イチオシはどれですか?」という基準を使う。マジョリティに入ることが最も生存確率が上がる社会の、それは生存本能だと思います。

 かといって生来の日本人、文化的なDNAでいえば、これも10年前から延々述べているけど、このくらいマルチカルチャルの多文化環境に馴染みやすい民族もいないってくらい、素質はいいものもってると思う。もう理想的といっていいくらいの素質はある。社会的にもそれはある。だもんで、日本国民全員を1年くらいどっかの外国でひとりぼっちにさせて、それなりにあれこれ体験させてあげれば180度変わると思いますよ。僕だって、海外のかの字も興味がなかったんだけど(だからこそ来た=一番縁遠いことをやらないと自分のテリトリーは広がらないから)、来たらすぐに馴染んだもん。実際、毎日のように来てる人のお世話してるけど、最初にアクティベートスィッチを押してあげるだけ(ここが経絡秘孔のようにキモなんだけど)でこの環境にすぐ慣れる。

 手垢のつきまくった陳腐な「自分探し」は、日本にいる日本人こそすべきだと思いますです。だって、間違ってるんだもん。蝶になれるのにサナギや芋虫でとどまってるというか、自分が白鳥であることに気づかないまま死んでいく醜いアヒルの子というか。あ、勿体ない。何が勿体ないって自分をちゃんと使えずに終わっていくいくくらい勿体ないことはない。

 その例証は幾らでもできるけど、、、例えば、移り気で、ミーハーで、浮気症で、信心深くなく、思想に凝り固まらず、本当は勉強も仕事も大嫌いで、「いい加減」「適当」という言葉が国民の合言葉のような人々で、いい加減にやりながらも最後には適当に魔法のように帳尻を合わせちゃう能力を持ち、それでも帳尻が合わなかったら(敗戦とか)、何事もなかったようにシカトし、前後の論理矛盾はガン無視できる。なによりも好き嫌いを大事にするから、一旦好きになったら凝るわ凝るわ、なんでも「道(哲学&アート)」レベルに昇華させないと気がすまない、新しいものが大好きで、世界中の珍しい食い物を食べたがって、着物は着ないわ、畳も襖も使わないで民族伝統を足蹴にするような真似をしながらも決していいものを見捨てず、それどころか抱きしめるくらいの愛着を忘れない。トスカーナのワインに、タイの屋台に舌鼓を打ちつつも、おにぎりと味噌汁のソウルフードの地位は決して揺らぐことはない。本当に良い物を見抜くことを大事だと思い、それを作る職人さんを匠として限りなく尊敬し、肉体的に技を究めた者を尊敬する尚武の気風を持ち(儒教文化では本来これらは下賎として蔑まれる)、精神的な清冽さや厳しさを尊ぶ反面、やたら情にもろく、鼻をすすり上げて「ちくしょう、いい話じゃねえか」ってひと肌もふた肌も脱ぐの好きで、祭りになれば南方海洋民族の血が騒ぎ、なにかっていえばすぐに裸になりたがり(これも儒教文化ではNG)、無礼講だの、ええじゃないかだの、勢いで法律を破るのが大好きな人達、、、じゃないですか?僕の愛する日本人って、コレです。コレじゃなかったんですか?寅さんの映画がこっちのTVで放映されたときの英語のタイトルが「ラバブル・ラスカル」(愛すべきいたずらっ子)であったのだが、これは日本人そのものでもある。We are all lavable rascals. そして、なぜか外国にくるとこれに戻れる。なんで自分になるのに、海外まで出てくるなんて七面倒臭いをしなきゃいけないんだあ。

 それが問題で、素材はいいものもっているけど、なぜかそれを生かす社会体制になっていない。もーね、いつからこんなファッキンな状況になっちゃったんでしょうね〜。「真面目で勤勉=日本人」なんて誰が言ったの?そして勉強至上主義みたいなムード。僕らのガキの頃は、少年漫画のヒーローが石田国松とか男一匹ガキ大将とかそこらへんで、勉強が出来ない、やらないことがカッコ良くて、勉強する、宿題をやるってのは、今で言えば「盗撮をする」くらいの反社会的な行為というか(言い過ぎだけど)、これをやったら最後モテないよってくらいのものでした。あと貧乏であることも標準装備で、金持ちの子はただそれだけで引け目を感じないとならなかった。大体マンガでもイヤミな悪い役どころで。あの頃の日本はまだ「らしかった」ですけどね。

 昨今の国粋主義的というか、その種のノリもヤバイです。ま、本質的にはラスカルだから心配してないけど、とりあえずカッコ悪いです。なぜって、どこの国もバランス命で、民族とか○○人とか国家主義的な言動というのは結構気を使うんですよ。ヘタに言及したらいきなり血まみれの騒ぎになるから、それはそれはデリケートな。だもんで欧州のネオナチとかアメリカのKKKとか、そういうのは確かにいるけど、社会のメインストリームからしたら準精神病患者レベルの扱い、ボケ老人が全裸で徘徊してるようなもので、まあ「まあ、しょうがないよね」という。だもんで、昨今のネットやメディアの論調は(海外から日本の状況は素通しガラスのように緻密に把握されているし)、なんかねー、紳士淑女のパーティの会場で「○○○!」とか性器を表す単語を大声で連呼して練り歩いているくらいにこっ恥ずかしいです。「あちゃ〜」って感じ。「美しい国」というよりも、もう薄気味悪い国というか、はっきり言っちゃえば「キモい国」なんだわ。北朝鮮のキモさと同じ。もうそれだけ見てたら列島そのままサティアンって呼びたいくらいだわ。

 1年前に帰省したときも多少は心配してたんだけど、でも、ま、皆さん全然マトモで、「なんだよ、畜生、やっぱ嘘じゃねーか」ってホッとしたんだけど。ほんでも、プラグマチックに言えばですね、あれはあれでいいチャンスだよなって思います。日本人の「みんな」信仰が多少は揺らぐかなというのが一つ。メディアと実感の乖離が進めば進むほど、健全な懐疑心と自己回帰というのが起きるだろう。起きない人もいるけど起きる人もいる。第二に、違うものが周囲にいるって環境に慣れること。第三に、これは冗談だけど、このまま日本政府の圧政統制が極端に強まって、政府の悪口を言ったらとっつかまって拷問で死ぬとかになったら、オーストラリアの永住権の取り方も、これまでのようなSkilled Independentって技術移住だけではなく、「亡命/難民ビザ」が降りるかもしれないなって。アサイラムですね。Asylum Seekers and Refugees。2年くらい強制収容所にいなきゃいけないけど。それに今くらいじゃまだダメだけど、もうちょい気が狂ってくれるとなるかも。

ガラパゴス天国

 さて、そんな日本がいきなり開国〜!なんてするわけないから、じゃあどうするか、世界における日本の役どころですが、やっぱ江戸時代みたいな感じが自然とおさまるところなんかなって思います。ガラパゴス全開のエキゾチック・ジャパンですね。

 世界に向かって開かれて、透明で、公正で、誰にでもわかるプロトコル〜ってのは時間がかかりすぎるから、いっそのことその真逆の方向で売る。もう世界に背を向けて、自分らだけで徹底的に引きこもって、自分らの特殊な世界を作る。そうすると逆に特殊性が出てきて売りになる。アイヌコタンのように、平家の落武者部落のように、アマゾンの部族のように、良いとか悪いとか、便利とか不便とかいう観念を超越して、光り輝くような独自の強烈な個性を主張するという。あまりにも異質だから、世界中から「地球最後の秘境」として、怖いもの見たさの人々が押しかけ、詰めかけ、お金落としまくり〜という。

 大体日本に住んでると、半径3メートル以内のミクロ社会で自分が浮いたり、ハブられたりするのを極端に恐れるけど、半径1万キロレベルで世界からハブられたり、浮いたりすることについては極端に無関心、なんとも思わないという図太さがありますよね。ある意味、これは貴重な”資源”ですから、この際矯正するのではなく、短所を延ばして長所にしちゃえって戦略です。

 大体大航海時代からはじまった世界の植民地競争で、最後の最後の最後にやってきたのが日本であり、もともとそのくらい辺境な部落的なポジションにあるわけですよ。極東だもん。「極」だよ。「ありえないくらい超東」」って意味だもんね。古来、近場にあるはずの中国すら、「海の向こうには蓬莱という国があって」という「幻の国」扱い。そのために不老不死を求めてやってきたという「徐福伝説」があるくらいですよ。めっちゃくちゃケッタイな国だから、めっちゃケッタイな物もあるだろうという、ほとんど冥王星扱い。

 でも住めば都で、冥王星には冥王星の良さがあって、それも売るほど良さがあって、だったら売ればいいじゃんという。ネットワークで世界が均質化していく流れだとしたら、敢えてその逆張りをするのも一つの手だよなと。江戸時代の鎖国に似てるんだけど、別に鎖国とか改まっていう必要もないし。今のまんまで十分なってるし。それに世の中むちゃくちゃになって、あんなことやこんなことが起きて、ワケわかんない状況になったとしても、それもこれも全部「個性」に出来る、売りになるという。グローバルに背を向けることが、一番のグローバルになってるという、逆説の面白さですね。

日本の将来〜応仁の乱とアフリカの爆弾

応仁の乱

 で、日本国内はどうなるかというと、誰かが「応仁の乱みたい」って書いてたけど、もしかしたらそうかも。中央政府がダメダメ無力過ぎて、何をどうやっても日本を「導く」ってことが出来なさそうで、それが時とともにだんだん皆の頭と心に落ち着いてきたら、長い戦国時代が始まる。

 といっても武力闘争なんか流行らないし意味もないから、違った形で。鎌倉・室町時代からの名家が没落し、どこの馬の骨だか分からない連中が下克上で上がってきて、実力勝負の食うか食われるかをやって、それぞれのエリアで国力・文化の増強をやったり。それでいながら、朝廷に貢物を欠かさなかったり、賄賂送って官位もらったり、公家の娘をもらって箔をつけたりとかはやる。中央と切れてるんだか切れてないんだかよく分からないという。肝心な中央政府、足利の将軍様はその日のメシにも事欠くありさま、公家は娘を大名に売って食いつなぐというアジアの山奥の寒村みたいな生計のたて方だし、天皇に至っては居るんだか居ないんだか、そもそもその存在自体を知らない人がほとんどだという。

 またそんな感じになるのかなと。ただし、武力ではなく、政治でもなく、経済として。経済と言っても経済誌が語るような意味での経済ではなく、文字通り、世において生計を立てるという経世済民の意味で。こういったことが日本各地であれこれ起きるという。知事選なんかもそうかもしれないけどね。全然意図してないけど、それが結果的に世界の流れであるローカル極小単位のネットワーク化の流れに符合していくという、この面白さ。

 なんか段々わかってきたけど、リアルタイムの日本で、一番つまんない人たちがつまんないことやってるのが中央でしょ。個々の小さな地方自治体の方が、「ほう?」と思うような面白い取り組みをやっている。でも中央は、政治も、経済も、金融も、メディアも、死んだ子の年を数えるような中途半端な復古趣味でしかない。高度成長をもう一度って。そんなのもうねーよ、いい加減あきらめろよってか、そんなことは百も承知なのでしょう。だもんで、戦局がヤバくなって満州国から軍部や官僚が国民置いてけぼりにして、しかも金銀財宝持って逃げているような感じ。だってさ年間100兆円も借金増やす予算組んでバラマキをやり、しかも年金基金まで手を付けて株価を上げって、さらに増税をしって、もうマトモに将来のことを考えてないだろって気がします。後は野となれ山となれで、ぶん取れるだけぶん取ってサヨナラしたいのかなって。落日の満州国みたいな感じね。

 もっといえば、ここしばらくは日本全国あちこちで「遺産相続の争い」をやるんだろうなあ。「遺産」というのは高度成長の遺産です。戦後営々と積み上げてきた、資産にせよ、技術力にせよ、知的能力にせよ、それらの争奪戦。だって100兆もの借金予算を組まねばならないってことは、リアルタイムに日本の「甲斐性」では、今の生活水準を維持できないってことでしょう。もしこれが借金は一切ダメとなったら、今の3倍以上税金取らないとならないから、日本のほとんどの家庭や企業は破綻するでしょう。マジに二人に一人以上の割合でホームレスになっても不思議ではない。それが道理でしょう。それが借金できるのは過去に積み上げた信用であり、資産であり、技術や営業力などの生産性です。でもそれが落ち目になってるからこそ、国際競争力も26位とかに下がり、マスコミのダメ度も60位近くまで落ち、ソニーも新製品を出せない。その壮大な奪い合い、椅子取りゲームがしばらくは続くだろうなと思う。

 前に書いた「とばっちり」を受けないようにというのは、そういう愚劣な騒ぎに引き釣りこまれたり、なんか浮足立ったり、まんまと誘導されて高値でタワーマンション買わされて、あとで相続税で全部ぼったくられたり(あんなの一片の法令で幾らでもルール変更できる。敵は後出しジャンケンできるんだぜ)ってバカをみるのは避けましょうってことです。庶民はもっとシタタカにならなきゃね。「上には上のやり方があり、下には下のやり方がある」というのは中国の諺だけど、これってアジアの庶民精神一般だと思います。

地方再生、てか新生

 でもって、今は生まれた町から一生動かないって人が増えてきた。誰も彼もが憧れの東京を目指したというのは、国家の勃興期で猛烈に人手不足になってた一過性の現象に過ぎないから、考えてみれば、昔に戻ったといってもいい。そんな別にあっちゃこっちゃ行かなくたって、故郷の山河で十分にハッピーになれる。ただ問題は経済で、地方経済の凋落が激しすぎる。

 だったら極小ローカルと極大グローバルをつなげちゃえばいいじゃんって冒頭の話につながります。
 中央に年貢をもっていかれて、施しのように補助金や公共投資をもらって食っていくというモデルは、遅かれ早かれ終焉を迎えるんじゃないか。遺産分割やりつつ、毎年猛烈な勢いで借金積み重ねてたら、早晩資産もなくなっちゃうのが理。そうなったら地方は地方で自分の甲斐性で食っていかねばならない。中央官庁にお伺いたてて、、ってこともしなくなって、勝手にやるかもしれない。中央は怒るだろうけど、でもお金もないし、餌もないし、金の切れ目が縁の切れ目だからそれを抑える権力もない。まさに応仁の乱ですよね。

 ほんでもって、このまま国力がズルズルと下がって、先進国が衰退途上国になって久しく、さらに現在の発展途上国とか新興国(発展も振興もしてないけど)レベルに戻るということは、どういうことかというと、日本経済が良かった頃に皆が行っていた海外のリゾートみたいになるってことですね。だから僕らは、空港で金持ち外国人観光客に、しょーもない観光土産を売りつけたり、面白いところに連れて行ってガイド料もらったり、ホテルのボーイやってチップもらったり、ビーチにいって「爽やかでイケメンの現地の青年」「現地のかわいい女の子」として、アバンチュールのお相手をして、あれこれご相伴に預かり、お小遣いをねだり、結婚してみたり。仕事にあぶれたらギブミーチョコレートです。

 そんなのありえない、国辱だ、そこまでしてまで、、って思うのは、認識甘いっしょ〜。自分らだってそうやって他所の国を見下していたんだから天罰てきめん、てか、別に罰とかそういうことじゃなくて、掃除当番は持ち回り〜みたいな話だと思うよ。それにだから悪いってことでもないのよね。日本だって発展途上国レベルだった昭和の中期のほうが絶対的なハッピー度では高かったと思う。でもそれは経済的に発展してたからではないんじゃないか。後からみると経済成長が全ての理由のように思えるかもしれないけど、リアルタイムの記憶を呼び起こしてみると、まあガキだったからそんな切実は実感としてはないけど、「不況だ」とか「どうしよう」とか大人達が深刻な顔をしてた時も結構あったぞ。オイルショックのときなんか、皆この世の終わりみたいな顔してたもん。

 つまり経済の長期的な上下動と個々人の生活なり幸福感というのはあんまりリンクしないんじゃないの?ということです。それは例えば、通っていた小中高校が、今年いっぱいで統廃合で無くなりますって絶対消滅の段階あったとしても、だからといって思春期の学校生活のあれこれというのは、それとは関係ない論理と環境で出来上がってた(初恋の人とどうしたとか)のと同じなんじゃないか。

アフリカの爆弾

 その昔読んで抱腹絶倒した「アフリカの爆弾」という筒井康隆の小説があるのですが、アフリカのどっかの部族が独立して、中古の核兵器を買うという無茶苦茶な話です。そこの酋長がいいキャラで、白人観光客から金ふんだくっているんだけど、それを説明するのに、「白人が来たら、わしら皆揃ってヘンなカッコして馬鹿な踊り踊る。それがヘンなほど白人喜ぶ。土人は馬鹿だ、面白いって喜ぶ。だからワシらは彼らの優越感をくすぐってやるために、どんどん馬鹿なことやる。馬鹿やるほど白人喜んで金落としていく。確かにワシらはこんなところでこんな生活してるし、彼らほど賢くないのかもしれないけど、でも、結局のところ白人の方がもっと馬鹿」って。記憶だけで書いているから、多分に違っているかもしれないけど、そんなところです。

 それでいいじゃんって思うのですね。日本が経済的に落ち込んで、でもって世界でもガラパージャパンになったとしたら、変なことやって喜ばせてやって、お金落とさせたらそんでいいじゃんって。別にそんなところでカッコつけなくてもいいんじゃないの?と。

 そしてそこから、話は一気に天下国家から個々人のレベルにワープするんだけど、そんなさー、なにもかもカッコつけようと思ったって無理、無理って話だし、自分がデキる人間なんだ、優秀なんだとか、イケてるんだとか、そうでなければ!とか思うこともないんじゃないの。だって、真実は違うんだからさー。そんな誰も彼もが賢いわけでも、有能なわけでもないし、誰もがどっかしら適当にアホだったりすると思う。そこで無理して背伸びして、ありえないような自画像作って、それをトレースするなんて馬鹿なことするから、しんどいんでしょう?

 通り魔殺人の犯人とかトチ狂っちゃった人、社会生活が上手くできない人とか、昔優等生だった人とか意外と多いでしょう?「出来る俺」でやってきたのが、どっかで躓いて、出来ない俺になってしまって、そこに必要以上の挫折感なり屈辱感をいだいて、それがケチのつきはじめという。

 だから冒頭のように思うのですよ。自分なんかそう大したこと無いよ、自分がアホだと早く気づいた奴の勝ちってゲームなんだろうなって。あの酋長のように、むしろそのアホさを誇張して、そのアホさを逆手にとって生計を稼ぐってところまでシタタカである必要はないけど、自分を必要以上に高く持ち上げ、その高さをもって自分を支えるとかやってたら、そりゃあしんどいわ。

 僕自身にしても、(前にも書いたが)小学校低学年の時に担任の先生との相性がメチャクチャ悪くて、成績なんかほとんどオール1くらいにつけられ、半ば公然と馬鹿扱いだったけど、でもそれで傷つくほどヤワではない、てか「あ、そうか、馬鹿なんだ」ってのが普通に腑に落ちてて、それが結構財産になってます。劣等生が劣等感持つのは当たり前で、むしろ「正しい事実認識」くらいのフラットの意識で逆にクリアって感じ。だから、その後アホ呼ばわりされてもそんなに腹は立たないし、自分の能力はそこ(=海抜ゼロメートルの絶対馬鹿水準)から自分で努力して獲得した分、キッチリそれだけって明朗会計なところがあるから、すごい話はわかりやすい。

 だから世を拗ねるとか、だからグレるということも全然ないです。思うに拗ねるとかグレるのは、まだ自分が馬鹿だということが腑に落ちて無くて、どっかしら不当に扱われているという不遇感があるんだろうね。でも、そのあたりが腑に落ちてると、別に「ああ、馬鹿なんだから頑張らなきゃな」と普通に思うだけで、で、普通に頑張ってたら「ああ、出来るんだ」って。何かを得るために一定質量の努力をすると獲得できるという、もう何の変哲もない物理現象や、自然現象みたいな感じになっちゃって、そこにアイデンティティがリンクして、鬱になったり有頂天になったりってこともあんまりない。

 だから早く自分がアホであることを認めちゃった方がいいよん、と。どうせ大した奴じゃないんだわ。そりゃそれなりに何かは出来るだろうし、そこそこ大した奴なんだろうけど、それでも人類史を一気に推し進める大英雄とか、百年の一度の天才ではないでしょう?そこがそうじゃないなら、あとはもうドングリの背比べで、僕もあなたも愚かな一般大衆なんだわ。それでいいじゃん。仲間がいっぱいいてうれしいじゃん。で、さすがにここまで馬鹿なのは問題だよなあって思ったら、かつて僕がやったように丸二年かけて世界史を独習しなおすとか、やることやればいいじゃん。それだけじゃん。他になんかあんの?

まとめ

 それが全体の話とどう関連するか?ですが、だから日本が世界からちょっとズレててもいいじゃん。辺鄙なところにあるんだからさ、不慣れなんだからさ、しょうがないじゃん。それを何がなんでも自分を基軸にして、それに合わない世界は間違ってる、日本だけが優れてるみたいなクソ天動説を唱える必要もなくて、まあ田舎なんだからしょうがないよね〜って思ってればいいのさって。それを逆手にとればいい。ほらー珍しいもの沢山ありますよーって。

 未だにJAPANと聞くと忍者だの芸者だのレベルの認識のままの人も多いけど、でもこっちだって「アフリカ=マサイ族」くらいのイメージしかないとか、ブルガリア=ヨーグルトくらいの知識量なんだから、文句は言えないよな。最初にこっちに来た時に、TJという名前の気のいいスリランカ人の秀才君がいて、オー、ジャパン!って目が輝いて、いきなり二本指つきたてて握る、いわゆるニンジャーポーズ取って、子供のような陽気な顔で、「ニンジャ!ニンジャ!」と、ニンジャ・タートルズを見たかららしいんだけど、それが馬鹿にしてるじゃなくて、芯から子供のようにうれしそうで、「ああ、そういうことなんだ」って思った。世界第二位の経済大国で〜とか、そんな御託はどうでもいいんだわ。そんなクソプライド、犬に食わせちまえって。

 だもんで、来るべき東京オリンピックのときには、成田空港で首相以下全員、忍者の黒装束で忍者の指ポーズで、ニンジャ!ニンジャ!って掛け声かけておもてなし、ですよね。それが出来るくらい吹っ切れたら日本の未来は明るいね。それをまた、ガラにもなく常任理事国になろうとしたら、国際社会で名誉ある地位を、、とかいってるから失笑されるわけで、田舎者が蝶ネクタイして合コンに出ている、それもウケ狙いではなくてマジにカッコいいと思ってるような寒さがあるわね。どうせ国際感覚ゼロなんだから、カッコつけたってしょうがないじゃん。大岡越前みたいな袴ズルズルひきずって国連に出るくらいの方が受けるぞ。コスプレじゃないもんね、れっきとした民族衣装だもんね。

 で、そこで開き直るっちゃ開き直るんだけど、そんな自暴自棄な感じではなく、等身大の自分を受け入れて、相手の自分像と、モニターしている自分像をシンクロさせれば、あれこれと楽になるでしょう。その方が却って成功率も高まるってもんでしょ。国家にせよ、ローカル集団にせよ、そして個人にせよ。

 それが、今後の小さなローカル集団の活性化の一つの方向性にもなるでしょう。田舎なんだから東京みたいにいくわけ無いべ、コンビニなんかないよ、でもそれが逆に売りになるという。満員電車で痴漢されてて何が「交通の便」だ、偽装食品だらけでなにが「何でもある」だってことですよ。




文責:田村



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