先週は長すぎたし、今週は多忙で時間もないので手短にいきます。
いきなりですが、集団はなんのためにあるのか?論です。
とりあえずは「生存確率をあげるため」でしょう。弱い草食動物が群れをなすように、皆でかたまっていれば襲われにくい。あるいは皆で手分けして狩りをしたり農耕をした方が生産量が多いとか、集団内部で専門分野に分かれてやった方が生産効率は高くなるとか。
これらは「集団」という方法論を使うことで生き延びようというものであり、それゆえに、その集団・組織の根本ドグマは、皆で豊かになること。一人でも多くの人を少しでも満たされるようにすること。「最大多数の最大幸福」でしょう。
それは分かるのですが、しかし人間の集団組織というのは、それだけではない。
生存のための効率性以外の理由、組織原理がほかに二つあり、その二つは真逆のベクトルを持っているように思います。一つは最弱者のための集団、もう一つは最強者のための集団です。
最弱者を保護する
前者=弱い仲間を皆で守るために集団が動くという原理です。うろ覚えですが、象やシマウマなどでは襲われた時に群れの中心に弱い子供を入れて守るとか。
人間でももちろんあります。端的な例は家族でしょう。
その昔なにかで読んだのですけど、日本人の家族間の呼び名の法則性=常に最年少者を基準にして呼称が決まると。例えば、夫と妻は、子供が生まれると(その子に意識が生じてコミュニケーションができるようになってから)、パパとママと呼ばれるようになります。そして、孫が出来たらおじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれる。その子、その孫が目の前おらず、彼らとコミュニケーションを取る場合でなくても、他の家族の間でもそう呼ぶ。「あら、おばあちゃん、どこにいったのかしら」と。そこには「孫からみたらおばあちゃん、子から見たらお母さん」という相対概念ではなくなり、課長や部長などの役職みたいな半固定的な名称になる場合が多い。
これは兄弟でも同じで、一番下の末っ子を基準に呼称の席次が決まります。3人兄弟だったら「大きなお兄ちゃん」「小さなお兄ちゃん」と呼ぶ場合が多いでしょう。長兄・姉を基準にして「小さな弟」「大きな弟」とは呼ばない。呼んでた人っていますか?聞いたことないんだけど。
これが日本人だけのものなのかどうか、全民族の風俗を知り尽くしているわけではない僕は知りません。でも、英語ではブラザー・シスターにあんまり年齢的上下関係を意識しない(elder sisterとかあまり言わない)です。総じて、個人主義よりは家族主義、そして長幼の礼など年齢基準が強い部族社会になるほど、そうなるような気もします。
それが何か?というと、「最弱者基準説」だということです。
仲間内でもっとも幼少で、もっとも弱い存在(孫、末っ子)を基準にして組織メンバーのポジションがきまる。
こういった不文律の習わしがあるわけですけど、僕は「いいな」って思います。それは人間として自然な感情でしょう。まあ、大体において赤ちゃんや幼児は可愛いですよね。末っ子も可愛がられます。最弱者は、往々にして最愛の対象だったりします。弱い=か弱い=可憐=可愛いと、おおむね等式で結べるような自然な感情がありますし、その素朴な愛情をもとに最弱者目線で皆の役割やポジションが決まる。
そして、「なぜそこに集団があるのか」「なんで皆ダンゴみたいに群れているの?」という根本理由が、「一番弱い奴を守るため」というのは、人間の集団原理としてすっと腑に落ちます。
これは単に感情的なものだけに留まらず、「生存」(種族保存)という意味でも腑に落ちます。次世代を大事にししない種族はやがて滅びますから。そもそも赤ちゃんはなぜ可愛いのか?(人間にかぎらず動物でも) 「可愛い」という客観状態は無いわけで、実際には「可愛く感じる」のでしょうが、それが自然の情愛に感じられるというのは、最初からDNA的にそう設定されているということでしょう。小さくて弱いものを可愛く感じる、保護したくなる、そういう感情が湧き起こるように本能に組み込まれている。進化論的にいえば、そういう感情性向をもつ種族の方が次世代を大事にするからより生き延びることが出来たのでしょう。その意味でも、次世代を大事にしない集団があれば、それは遠からず滅びる。
最強者のエゴ
ところが真逆の原理も人間社会にはあります。最強者基準説です。
かつての王朝や戦国大名のように、最強の覇者・王者の個人的な願望を実現するために組織があるような場合です。アレキサンダー大王にせよ、秦の始皇帝にせよ、ラオウにせよ、度外れた強者が出現し、そいつの自己実現のために軍団が形成され、王朝が作られる。
これは最強者のための組織です。そして、最強者は(初代であれば概ね)同時に最有能でもあるから、社会のシステムは合理的に一新される場合が多いし、とりあえず強力だから防衛的にも安心だし、他国を攻めるから豊かにもなる。物材が豊富、経済も良いということになって、そこに人が群がる。要するに絶対の忠誠を誓う代わりに「強者のおこぼれを頂戴する」ということでバーター関係が生じ、就職類似の関係性が生じる。
余談ながら、このような最強者を基軸とした組織集団であっても、それぞれにキャラの差というものはあるでしょう。時代遅れになった旧弊を打破し、新秩序を打ち立てるという「世直し」的な社会再構成というプラス面が強くでる場合もあります。始皇帝だってかなりアグレッシブに中国統一をしたけど、完全法治主義を敷き、度量衡を統一したという社会インフラ整備のプラス面はある(焚書坑儒の文化的マイナスもあるが)。織田信長の天下布武だって、中世の既得権益集団(宗教組織と座の専売の商業システム)を武力で叩き壊して楽市楽座を開き、人材登用も門地門閥を廃し、実力主義を徹底させるなど、日本を中世から近世まで持っていったという功績はあります。その過程で相当血も涙もないことをやってるけど、そういうプラス面はある。
論者の史観によって違うのでしょうけど、歴史的なプラマイ収支勘定は、一般に最強者個人のエゴ、誰もシェアできない個人的願望が強すぎる場合はマイナスに評価される場合が多く、個人エゴよりもプラス側面の方が大きい場合は英雄として評価される傾向があるように思います。ヒトラーだって、ユダヤ人や身障者、同性愛者はほとんど皆殺しにせんばかりに迫害したけど、それ以外の内政面では意外と優秀で、かなり平等公正にやったと言われてます。アウトバーンは作るわ、フォルクスワーゲンは作るわで、ドイツという国・民族を最強にプロデュースすることに関しては有能だったのでしょう(だからこそ支持されたのだろうし)。しかしながら余りにも個人的エゴが強すぎるし、やることが無茶苦茶過ぎたし、何よりもよって立つ世界観であるアーリア民族優越思想がトンデモ学説だっただけに後世の共感を呼ばなかった。多くの人々を無慈悲に殺戮するだけなら、三国志の曹操もそうだし、ジンギスカンなんかもそうなんだけど、曹操にはどことなく「覇者の哲学」らしきものがあるし、感情にまかせてやってたわけではなさそうだし、ジンギスカンもしかり。でもヒトラーには、いじけたコンプレックスの裏返しというか、どっかしら脆弱で病的なものを感じさせるから、なんか共感できないんでしょうねえ。キモいというか。
いずれにせよ、最強者のエゴを基軸につつも、現世利益の増強という現象が起きる。そこに生存確率の最適化とう契機が生じ、それを目当てに人々が集まり、集団・組織が形成されるというパターンです。
これは最強者を頂点基準とする組織・集団原理であり、赤ちゃんなどの最弱者基準説とは真逆の関係にあります。
さて、これは抽象的な理念モデルであって、実際の(特に現代の)人間集団は、どちらかに極端に振れているものでもないし、それぞれの要素がごちゃ混ぜになっているでしょう。別の言い方をすれば、「弱者保護」と「強者のエゴ」というのは、電気のプラスとマイナスのような二つの極性であり、どのような組織にもこの二つの要素は常に入り込んでいるように思います。
珍しい例ではこの二極性が合体したり衝突したりもするのでしょう。人間以上にか弱い生き物を大事にしようという理念が行き過ぎて、生類憐れみの令をだした将軍綱吉とか、予言を恐れて赤ん坊を皆殺しにしたヘロデ王とか(多分に誇張されているらしいが)。
弱者を切り捨てる限界事例
しかし、その集団のキャスティングボードを握るのは、そんなに強くも弱くない、しかし数では圧倒的大多数を占める普通の構成員でしょう。彼らの去就がその集団の方向性や、価値観の力点を決めていく。「彼ら」は、僕であり、あなたであり、普通の人間です。普通の人間だから、普通に素晴らしく、普通に醜悪でもある。
例えば、なにかの遭難事故にあった場合、まず老人や女子供を先に避難させろという黄金律のようなルールがあります。しかし、それら弱者を押しのけ、背中を踏みつけてでも我先にと逃げ出す場合もあります。前者は善人の集団で、後者は悪党の集団かというと別にそんなことはなく、同じ集団でも場合によって行動パターンが違ってくるのでしょう。
前者の場合は、女子供を先に避難させてもまだ自分らも生き残れるという余裕がある場合でしょう。後者の場合は、もっと切羽詰まって一刻の猶予もならない場合。ちょっとでも遅れたら即死ぬような局面では、理性も人道も吹き飛んでしまい、ただただ個の防衛本能が優先するという。
ある農村では今年不作になりました。飢饉というほどではないけど食料は潤沢ではない。そんなときも人々は老人や子供に優先して食料を配給しようとします。戦後の食糧難でも、多くの親はまず子供を食べさせたといいます。全員がそうだというわけではないでしょうが、そういう人が多かったと。しかしながら、村にハンパない飢饉が遅い、飢餓がいよいよ切羽詰まってきたら、「しょうがねえ」ということで弱者切り捨てモードになります。楢山節考にように年老いた親を山に置き去りにして狼に食わせ、生まれたばかりの赤ん坊の顔の上に濡れた半紙を置き、また冷えた川にじゃぶじゃぶはいっていって堕胎する。そんな話は日本全国、いや世界中でいくらでもあります。
前にも紹介したと思いますが、小松左京氏の「闇の中の子供」という短編小説はそのあたりの古今東西の事情を、SF仕立てながらも該博な知識をもとに鋭く指摘しています。「菅原伝授手習鑑」から始まり、ヘロデ王の赤ん坊の虐殺、幼い兄妹が飢えながら森を彷徨うヘンゼルとグレーテルの寓話の意味(口減らしのために森に捨てられた)など。農業技術がまだ発達しきらず、決定的に貧困で、決定的に食えなかった人類の歴史。
可愛い我が子を自らの手で殺すという途方もないトラウマ。「ごめんね、ぼうや」と慟哭する親達には、キリスト教の原罪意識にも似た罪の意識が焼き付けられたかもしれない。それを癒やすためでしょうか、水子地蔵というのはかなり古くからあるそうです(尤も水子供養という形で広まったのは戦後に檀家制度が崩壊したお寺の”新商品”であり、統一教会などの霊感商法とも言われているが)。「一つ積んでは父のため〜」という「賽の河原地蔵和讃」だって「親よりも先に死んでしまった親不孝」というタテマエになってるけど、なかには親の手にかかって殺されたケースも多々あったでしょう。もちろん誰の責任でもない疾病や事故死もあるでしょうけど、そればかりではない。そのあたりの、血と涙でドロッドロになってる庶民の心象風景がわからなかったら、ほんとの日本史や文化習俗もわからんのだろうなあって気がします。
このように最弱者基準説も極限状況になってくれば往々にして捨て去られる。最大多数の最大幸福をはかるために、「足手まとい」になる者を切り捨てていく。
もちろん素晴らしいことではないが、居丈高に断罪するのもはばかられます。好きでやってるわけではないだろうし、誰だってその立場になったらわからんよな、という。「カルネアデスの舟板」という刑法総論に出てくる理屈があります。松本清張の短編小説の名前にもなってるけど。「緊急避難」の法理です。難破して海に投げだされ、かろうじて小さな船板に二人がつかまっている。しかし木片は小さすぎるので二人がつかまったら沈んで二人共死んでしまう。そこで生き残るために一方が他方を蹴り落として溺死させるという極限状況で、さてそれは殺人罪なのか?という。これは襲ってきた人間を返り討ちにする正当防衛とは違って、別に誰も悪くない。ただただ自己防衛本能として他人を害することは「悪」なのか?という問いかけですね。
現代の刑法解釈論では精密な議論をしますが(急迫性や法益の衡量など)、ここでは大雑把に、本当は望ましくないんだけど、弱者をやむを得ず切り捨てても、ギリギリ仕方がないんじゃないかってことはあるのか?って話です。あるならどこに境界線を引きべきか?
それは個々人の倫理観なんだろうけど、僕としては「(自分の)生命の危機」でしょうかねえ。ま、それだって、親たるもの子供のために笑って死ねって意見もあろうし、それはそれで魅力的なんだけど、いざ他人を非難弾劾する場合、あるいは自分が非難される場合、それはちょっと理想主義っていうか、偽善といっては言い過ぎかもしれないけど、微妙なんじゃないかなあと。だって、リアルの死の恐怖ってすごいですよ。僕も別に修羅場をくぐってきたわけじゃないけど、溺れた時の苦しさとか、断崖絶壁に立った時の恐怖感とか、ちょっと怪我をしたときのズキズキした痛みとか、「あれの数十倍の苦痛」とかいわれたら、もう人格維持している自信はないです。マトモにものが考えられるような状況じゃないんじゃない?って。
あと、社会防衛という見地もあります。例えば感染。むっちゃ強力な新型ウィルス。死亡率100%で絶対に死ぬしかないという死神みたいなウィルス。それに罹患した小さな女の子がいた場合どうするか?隔離しますよね。隔離して全力で助けようとするけど、助けようとした段階で既に感染する、もうどうしようもないとなったら、見殺しにせざるを得ない。可愛そうだで隔離をやめたら人類滅亡するかもしれない、そこまでいかなくても被害者は莫大な数になる。あるいは、ある街が途方も無い罹患率になったら、自衛隊で街全体を包囲して外には出させないって事態もあるでしょう。少数のために大多数が共倒れになることはないという事例はある。
めっちゃ心情的にはツライし、美しくもないんだけど、でも弱者を切り捨てないといけない事例というのがあるのだろう、認めたくはないがゼロではないだろうと。ただし、それは出来る限り無い方が良いし、ギリギリの線としては「生命危機」だろうなと。それですら、あとで皆で罪の意識をひっかぶって生きていくという条件付きでです。
そんでも、生命危機なんかよりもはるか手前で弱者を切り捨てたりしますよね。世間体のためとか、金のためとか、見栄のためとか、あるいは何の利益もないんだけど単に弱者保護が面倒くさいとか、しまいには弱者が目障りだとか。
それはさすがにアカンでしょうってことになってるし、これに異論はないとは思う。でも、ある。それも結構ある。何なんだろうねえって。キャスティングボードを握る僕ら普通の人達ですが、心身満たされ幸福なときは最弱者保護の麗しい世界に親和性を持つ。しかし、満たされてないからか、満たされ過ぎてさらに強欲ドライブがかかってしまったからか、最弱者基準説を放棄してしまう場合もある。おー、やだやだって感じ。
強者になびく
次に、僕らが反対の極である「最強者エゴ」になびく場合はどういう場合か。
最も簡単にいえば「逆らえば殺す」と脅迫されている場合です。超強力な軍隊が村に進軍してきて、従えという。逆らう者は引っ立てられ、見せしめに残虐な殺され方をする。皆ビビる、従う、というパターン。
そこまでいかなくても、強者に従ったほうが「得」だという損得勘定もある。寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろです。最強の組織に入ったほうが、給料はいいよ、潰れる心配はないよ、いい思いが出来るよと。だから参加する。その組織の根源エネルギーがトップの個人エゴであったとしても、取り敢えず強くて豊かなものに人々はアリのように群がる。大企業に就職するのと同じことですね。
ほんでも、最強組織の中においても、最強者=創業トップと従属者では行動原理が違う。創業者トップというのは個人エゴ(自己実現)としてそれをやってる場合が多い。いわば「面白いから」やっている。そうでなければゼロから創業なんてクソ面倒くさいことなんかやらないです。同じエネルギーを注ぐなら、既存の組織に入ってそこで出世していった方が得。でも、それはイヤだ、俺は人の風下には立たねーぞ、そんな古臭いことやってたって面白くないぞって思いがあっての創業でしょう。「覇業」「開祖」というのはそういうものでしょう。
だから創業トップは意外と損得では動いてない場合が多い。だからこそ革新的なイノベーションもできるし、だからこそロマンを求めて大コケもする。いずれにせよ「得だから、安心だから」で入ってくる部下連中とは根本原理が違う。通常は両者の利害が一致して、トップの自己実現=組織の成長=構成員の福利がきれいに一致する。んでも、一つ歯車が狂ってきたら変わってくる。
例えば、まああんまり例はないけど、トップが「飽きた」場合です。もう同じことやるのに飽きたよ、会社ごっこやめ、解散!ってなったら、部下連中は大変です。あるいは気まぐれに、もっと他のことやりたいとかいったら、大リストラになる。いずれにせよこれまでの方針を変えようとすると、その方針を前提にしてきた部下連中にとってみたらたまったもんじゃないから反発を食らう。ここで強い王だったら、逆らう臣下を皆殺しにするでしょう。でも、組織が肥大化してるとトップの一存では進まなくなり、「ブルータス、お前のもか」と謀反が起きてシーザーは殺され、古い話ですが「なぜだ!」という言葉とともに三越の帝王だった岡田社長は取締役会で解任されてしまう。最近では武田製薬もローランドも創業者一族と新たな経営陣とで確執があるようですが、組織は誰のものか?論ですね。利害が対立することもある。
さらに組織内部の普通の人達の間でも闘争はある。生き残るために派閥争いはあるし、(創業トップではない)上層部の高給を守るために下の連中をバンバンとリストラする。寄らば大樹の陰ですが、大樹の陰にも熾烈な生き残りサバイバルゲームはある。
あるいは強者がその地位を転落したら悲しいもんです。猿の世界でもどこの動物でもハーレムの王者たるオスが新しいオスに負けたら、みじめに放逐されてしまうことになります。いまをときめく王者も、破産してしまえば、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに、動物の死骸から一斉にノミが逃げ出すように、誰もいなくなる。力と欲による組織はそれが無くなったら雲散霧消する。
以上、総じていえば、最弱者基準という可憐にして潤いに満ちた世界と、最強者エゴ基準という両極があり、その中間を、僕ら適当に優しくて、適当に自己中であるという凡庸な連中が、そのときどきの利害打算や感情で右往左往しているってことだと思います。
で、今の日本は?
で、何の話かというと、別に大した結論も、味わい深いコクもなく、たらたら書いてるだけです。すいませんね。ほんでも、多少なりともより身近な現実に近づけて、今の日本ではどうなのか?ってことを考えてみます。
まず、最弱者基準説、これは今も健在だと思います。孫を起点にしてお母さんやおじいちゃんというポジショニングは変わってないと思いますしね。
次に最強者基準説、これは公的な面でいえば無いでしょう。そんな織田信長みたいな人物が登場している気配はないし、またあったとしてもそれを許すような政治体制ではない。最高権力者の個人の自己実現やエゴを充足させるために日本という集団なり組織なりが存在するわけではない。そもそも憲法前文に「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」という文言もある。
しかしながら、個々の私企業においてはそういう最強者エゴのケースはありうるでしょう。スティーブ・ジョブズのアップルを持ち出すまでもなく、トップの個人エゴがいい意味で炸裂してくれた方が、画期的なイノベーションが進むという利点もあります。もっともどーしよーもないトップが老害撒き散らしているだけ、でも誰もが戦々恐々として諫言できないだけってトホホな組織もあるでしょう。そこはいろいろ。
こと公的な側面でいえば、最強者のエゴはもうないんだから、あとに残るのは本来の最大多数の最大幸福原理と、最弱者保護でしょう。皆でせっせと社会を豊かにし、弱い人を守るんだと。その意味では、今の社会(日本に限らず)の原理というのは、とってもシンプルだと思います。
だったらそのようにやってるか?というと、まあやってるんだろうけど、先ほどの例でいえば村が不作になっているところから、飢饉に近づいて、村人もちょいエゴイスティックになりかけている、、、くらいの感じでしょうか。
だからこそ、ここで敢えて再確認しておくのも良いのかなと思いますね。家族であれ、サークルであれ、国家社会であれ、なんのためにダンゴのように固まって集団を作っているの?と。なぜ人と人がつながっているの?と。
集団内部で、大樹の陰で熾烈な生存競争があるのは、それはそれとして分かるのだけど、でもそれって集団や社会をつくる理由にはならないと思います。なぜって、集団があろうがなかろうが生存競争はあるんだもん。ジャングルで個別バラバラにやってても、そこには弱肉強食の競争はある。むしろその自然の残酷さを緩和するため、弱肉強食の毒性を薄めるために人は集団を作るのではなかったのか。エゴ丸出しで争うだけならジャングルで良い。でも、それだと可哀想だという心情もあるし、何よりも次世代よりも自分のエゴを優先させていては、その集団そのものの命運が尽きる。
まあ、集団相互の競争ってのはあります。企業間、国家間での闘争。それに打ち勝って皆で豊かになるために、優秀な機能集団を作るんだってね。だから集団内部にも適正な競争があってもいいんだって理屈もあるでしょう。まあ、それは分かりますよ。大会で優勝するために強いチームを作る、チーム内部でレギュラー争いという熾烈な競争があるのは分かる。
でもそれは社会分業の戦闘部隊の選抜のレベルでよく、集団全体がそうなる必要はない。ある農村が野武士に襲われるので、屈強な若者を選抜して自警団を作ったり、七人の侍を雇ったりしたとしても、だからといって村の中の弱者保護の原理がないがしろにされるわけではない。てか、弱者保護のために屈強な若者や七人の侍がいるんでしょ。それを足手まといだからといって、老人や女子供を二級市民扱いにしたり、口減らしに殺したりしてたらアホ丸出しでしょう。なんのために集団を作っているのか。そして、そんなことで次世代も含めたトータルマネジメントが出来ているのか?
多分、思うに、その集団がどれだけしたたかに生き延びられるか、トータルで豊かで強くなれるかは、その集団内部の最弱者をどれだけ大事にしているかによって分かるのではないか。
というかね、最弱者は俺らがぜってー守ってやる、一人も欠けることなく守り切るってやろうとしたら、自然と強く豊かになるんでしょうね。ならざるを得ない。それが一番難しい。一番難しいことを目標にしてやってたら自然と強くなっちゃうよと。先の例では、ウィルスを叩き殺せる知識も技術もないクソ無能だからこそ、小さな女の子を見殺しにせざるを得ない。その悔しさを噛み締めて、二度とこんな辛い思いはしたくないと思うからこそ発展も進歩もあるのでしょう。
それをちょっと困難な壁にぶち当たっただけで、別に自分が生命の危険に晒されているわけでもないのに、そのはるか手前の段階で、「しかたがない」とすぐに切り捨てに走ってたりしたら、つまりはそれだけその集団が弱っちーってことでしょう。自然の摂理に照らせば、生存確率低し。
文責:田村