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今週の一枚(2014/06/15)





Essay 675:女神の席は空けておけ

必然の祭壇、偶然の降臨
 写真は、紅葉&薄暮のChatswoodの住宅街。
 今気づいたけど、小さなサイズにしてぱっと見ると、京都御所みたい。こんな風景、学生時代によく見たし。



 今週のお題は、「成功する経緯というものは事前には読めない」「大体思ってもみなかったルートをたどるもんだ」です。

成功経路不可知の原則

不確定要素と未来予知

 「どうやって成功するかなんかわからない」「事前の予想はほぼ全部外れる」というのは、意外なように見えて当たり前の話だと思います。

 なぜならそれって一種の未来予知であり、神様や超能力者でもない限りそんなことが出来るわけがないからです。どんなに緻密な成功への計画や予想を立てても、実際にやってみたら必ずやどっか違ってくる。100%同じってことはまず無いでしょう。

 ここで「今からラーメンを作って食べる」という計画を立て、実際にその通りに調理&食事ができた場合、「100%出来たじゃないか!」っていうツッコミはあるでしょう。そうですね。でもそんなこと言えば「今から10秒後に私は呼吸をしている」とか幾らでも100%予想は立てられます。でも、それって「成功」なのか?

 ここで言っているのは「成功」=「こうなったらいいな」という夢や希望が叶うことです。素敵な伴侶をゲット!ビジネスを立ち上げて軌道に乗せて大発展!とかいう話です。

 言葉の遊びに聞こえるかもしれないけど、そもそも100%確実に達成可能なことを人は「成功」とは言わないし、うれしくもない。「よし、今からトイレに行って用を足そう!」と立案し、実際にトイレに行って用を足すような行為は、「やりたいこと」を「やり遂げた」ことに違いはないでしょうが、それは夢や希望というのとはちょっと違う。出来て当たり前だし、そこには何の感動もない。

 ある行為&結果を「成功」と感じ、達成感や喜びを感じるのは何故かといえば、「失敗する可能性があるから」でしょう。それも失敗するのが通常でめったに上手く出来ないようなことであればあるほど、つまり失敗率が高く成功率が低いほど、それが実現した時に「やったあ!」って大きな喜びを感じる。甲子園やワールドカップで優勝するとか、ノーベル賞取るとか。

 どっちに転がるかわからないという不確定要素がバリバリあり、その不確定性が「成功」という概念を力強く輝かせる。でも不確定なだけに予想は出来ない。つまり予想できないからこその成功だってことで、成功=予測不可能性って等式で結んでもいいくらいです。

 ここまではいいです。簡単な話です。ヒネリがかかってくるのはここからです。

到達経路の曖昧化

 「よし、今度の夏休みは沖縄旅行だ」という近接的な行動目的→さらに「○○大学に受かりたい」という希望→「音楽でメシを食えるようになれたらいいな」という夢という具合に射程距離が長く&目標がデカくなるほど、それまでの到達経路はボヤヤンと曖昧になります。

 目的がはるか遠く、大きくなるほどに、何をどうやったらいいのか分からない。「次の週末にBBQをやろう」くらいだったら、誰と誰に声をかけて、天気予報を調べて、予算を出して、買い出しに行って、、、と具体的な行動プランは見えてくる。しかし、究極に遠大な目的、例えば「幸福な人生」なんてのは、どこから手を付けていいのか途方に来れます。異性への願望だって、具体的に「○○さんと結婚したい」だったらまだ考える切り口はあるけど、「どっかにいい人いないかな〜」くらいに漠然としてくると、「西の方角に吉あり」「ラッキーカラーは赤です」という、これまた曖昧模糊とした方針しか示されない。

 つまり、夢や成功が遠くて大きくなるほど到達経路が霧につつまれてくるし、仮に成功してもその具体的な経路は想定外になりがち。そもそも経路の想定自体ができなくなる。それは理の当然であり、それで良いのですが、問題は、その曖昧さにイラ立って墓穴を掘ることです。もっと明瞭で確実な成功ばかりを追い求めようとする。こうなると人生のデフレスパイラルで、明瞭になるほどにリターンが少ないし、積み上がっていかない。より割の良い時給仕事のゲットの仕方が向上すれば確かに近視眼的には実入りは増えるけど、大きく投資をしないから大きなリターンもないし学びも気づきもない。かくして「その日暮らし」的なパターンに落ち込んでいくという。

成功目標自体が変わる

 子供の頃の夢や野望(「巨人の星になるんだ」みたいな)が、そのまま一生継続するってことはマレだと思います。そもそも最近の子供、てか僕が子供の頃ですら既にそうでしたが、「大きくなったらパイロットになるんだ!」みたいなことはあんまり思わないでしょう。あなたは何か思いましたか?学校で先生に無理やり書かされたり(卒業文集とか)くらいじゃないですかね。僕なんかも「そう言われても、そうねえ、強いて言えば」という程度で、テキトーに工場の工員とか大工になりたいとか書いたもんです。多分直前に見た工場見学(森永の工場に行ったぞ)の影響があったんだろうけど、「なんか作る」ってのをやってみたかったのね。夢がないって言われたらそうだけど、でも、リアルに小学校高学年ってそんなに無邪気じゃないですよ。確かにその頃は高度成長時代だったけど、それは世間が成長しているだけで、自分が成長する保証も実感もないしさ。

 そういえばあの当時「今は高度成長です」というリアルタイムの感覚なんかほとんど無かったと思いますけど。そりゃ目の前の道が舗装されたり、テレビがカラーになったとか変化はあるけど、それが高度成長だっていう実感には結びつかない。その程度の変化だったら、今だってガラケーがスマホになったりしてるでしょうに。それに「高度成長」とかこのテの時代の名称なんか、天皇の諡みたいに死んでから名付けられるもので、終わってみないと分からない。バブルだってそうだったし。だから今だって、あと20年くらいしないとどんな時代だったのか適切なネーミングや位置づけはできないでしょう。

 話がそれましたが、成功目標って、あるように見えて意外とないものです。またあったところでコロコロ変わります。空の雲のように絶えずカタチは変わるし、寿命のきた蛍光灯みたいに点いたり消えたりする。「コンビニに弁当を買いに行く」という目標ですら、交差点で信号待ちしている間に気が変わってラーメン屋に行くかもしれない。コンビニ店内に入ったら、「お」という雑誌を発見して立ち読みしたり、旧友に偶然会って「おう」とかいって馬鹿話してそのまま飲みに行っちゃったり、「あ、あれも買わなきゃ」とか買い込んでいるうちに肝心の弁当買うのを忘れたりもする。そんなもんです。

 オーストラリアに留学・ワーホリで来る時点では、英語能力とか将来のキャリアの足固めとか思ってたりするのだけど、実際にあんなことやこんなことやってる間に「ワインの世界にとりつかれた」「ブラジル人と結婚することになった」って変わるかもしれない。自信がつくにつれ、そして世界の広さと楽しさが分かるにつれ、「そんなもん決めんでええ!決め打ちしたら勿体ない」「もっと大事なことがあるだろが!」って気分になったりもする。そんなもんスよ。

 面白いのは夏冬パターンというか、結婚する前は「結婚したい」と思い、したらしたで「自由になりたい」と思ったり、就職する前は「就職したい」と思い、したらしたで「会社辞めたい」って思う。暑い夏には冬がいいなと思い、冬になったら寒いから夏になればいいのにと思う。そんなもんスよ。

 これも成功経路が読めないという意味では一つの類型になるでしょう。経路もクソも、成功目標それ自体が消滅したり、移転したりするのだから。
 

技術習得過程の非認知

 その技術体系がより実戦的になればなるほど、どうやって習得したのか自分でも分からないことが多いです。確かに上手になったし、マスターもしたんだけど、それを習得する過程が自分のことながら曖昧でよう分からんという。てか、ハッキリ分かる方がおかしいんだけど。

 例えば母国語です。普通に生きてたら自然とネィティブと呼ばれる最強王者の地位にいる。第二言語者が、どんなに優秀でどんなに努力をはらっても中々到達できない神レベルの技術最高峰なんだけど、いつどうやって上手くなったのか、その過程が自分でもわからない。「生きてたらなんとなく」覚えたとしか言えず、学校の国語の授業がどれだけ寄与しているかもわからない。考えてみれば変な話ですよね。あれだけ膨大な知的体系を知らない間に身につけてしまうという。

 でも、「身に付ける」という行為自体がそういうものだと思います。
 自転車が乗れるようになる、縦列駐車が出来るようになるのは「やってりゃそのうち」であって、クイズの解答のように、「そうか、そうだったのか!」という具体的に何かの解答があるわけではない。コツやカンドコロというのはそういうもので「やってるうちに」「なんとなく」分かるものです。

 だから英語が出来るようにならないという悩みも同じで、あれは「なんとなく」できるようになるものであって、そんなに朝顔の観察日記みたいに経時観察出来るわけがないし、できたら嘘ですわ。そりゃ「出来るようになった気がする日」というのはありますが、その逆に「元の木阿弥の日」もありますからね〜。

 なんで自分でわからないのか?思うに一つは「馬鹿だから」でしょう(笑)。人間の短時間記憶領域のバッファはそんなに広くなく、それを超えるボリュームの物事だったら理解できない。何かの技術、例えば予備校生の「鉛筆廻し」だって、このタイミングでこの筋肉をこの程度動かし、手の角度はこのくらいにするという大脳の各機能、第一次運動野とか連合野とか視床下部とか記憶に関する海馬とか、それら記憶と判断と筋肉への神経伝達のコンビネーションがある。高校の頃だったか、そのリアルな経過を黒板に書いて教えてもらったことがるけど、信じられないくらい複雑な人体のメカニズムがそこにはある。しかもコンマ数秒という超高速で補足修正しながらやっている。その全てをコンピューターのログのように記述してプリントアウトしたら本一冊になるくらいの膨大で複雑な情報量になるでしょう。こんなもの一度に理解できるわけがない。それは例えば電話帳一冊まるまるその場で全部覚えろというようなもので、人間の情報処理能力を遥かに超える。そこまで人間は賢くない。「馬鹿だから」ってのはそういう意味です。人間というのは「自分でやってることを自分で理解できない」もので、もう最初からそう作られている。

 そして二つ目には、モニター器官がないからでしょう。「あ、いま海馬が動いているぞ」「伝達信号がいま連合野を出ました」なんてことはモニターできない。何度も繰り返しやっていくうちに、「もっと弱く」「もっと長く」とか脳内で修正に次ぐ修正を行っているうちに、やがてぶっ太い「鉛筆廻しセット」という一つの神経筋肉連動体系が洗練され、確立していく。それが「上達した」ってことなんだろうけど、その経過を逐一、というか全くモニターできない。この世で何がブラックボックスかといえば、自分の頭の中くらいのブラックボックスはないでしょう。

 ということで、モニターできないから上達過程を理解するための原データーが上がってこない、上がってきたところで、あまりにも膨大だから理解できないってことだと思います。鉛筆廻しや、自転車や、けん玉や、パスタのアルデンテ茹で方やら、僕らは沢山のコツや技術を持ってますが、どういうメカとプロセスでそれを習得できたのか、それがわからない。分かるわけがない。

 そして、英語やら、ある専門職の実務技術体系というのは超膨大なボリュームがあります。英語でも「こういうときは、こういう表現はしない」という実際の現場記憶と、過去にやった辞書的記憶、さらに文法的な記憶、そしてそれを発語するときの舌筋の位置や力、息を吐き出す強さやそれをコントロールする横隔膜の位置と動き、、、そんなものが数千、数万という単位であるわけで、それこそ電話帳数千冊のボリュームがあるでしょう。それを「英語が伸びない」という「サクラサク」みたいな一行電報みたいな情報処理をしている時点で既にヤバいっすよ。

 専門職の領域では、単なる知識だけではなく、患者がこういう顔色でこういう動きをするときは○○、でもこの種のことを言う患者は大袈裟に言う傾向があるとか、弁護士でも、依頼者がこういう言い方をするときは大体どっかで嘘を言っているとか、そのあたりも長年の職人経験で蓄積されていき、電話帳数万冊レベルになっていきます。「上達」「習得」「経験」というのは、そういうことでしょう。「一芸に秀でる人は多芸に秀でる」と言いますが、何か一つの技術を真剣に習得した人は、技術を修得するということが生理感覚としてわかるから、「あ、これは20年ものだな(修得するまで20年かかるな)」とか分かる。僕も、こっちにきて2−3ヶ月で英語は「あ、これは司法試験の10倍難しいな、ま、一生モンだな」とわかった。わかったらジタバタしない。今日も晴れたら野良作業〜って感じで、淡々と日々を過ごし、一生を終えるって感じで取り組める。

 結局は反復練習しかないわけだけど、それでも上達するのが巧い人と下手な人はいます。まず第一に反復の重要性をわかっているかどうか。一つのイディオムや例文を覚えるにせよ数回口中でボソボソやるのではなく、一単位100回くらいのボリュームでやらなきゃ。ギターやピアノの難しいパッセージの練習だって、朝から晩までそればっかやるってときもあるし、プロになるほどそれをやる。剣道の素振りだって柔道の打ち込みだって、一生レベルでは数百万回という途方も無い反復をする。第二に、単に繰り返しているだけではなく、意識的になっているかどうか。同じ例文暗証100回でも、60回目と70回目でどこが違ってるか自分でモニターする。脳内モニターは出来ず結果モニターしか出来ないんだから、せめてそこには注意を払う。「ここでつっかかる」「th発音の直後sが続くところでモタる」とかね。ギターの三連フレーズの練習でもタタタと均等にならず、タタータとかタータタとかズレがちで、それがどれだけ矯正されたか自分で絶えずチェックをかます。つまりは「意識的な反復」をというのをやってるかどうか、その重要性を知ってるかどうかですね。何か一つ傑出した技術を身につけた人は、そのあたりを無意識的に知っているから、他のことをやっても早く上手くなる。

 以上、いくつか成功パターンが読めない理由を上げました。しかし最も本質的なことは以下の点でしょう。

成功には偶然というダシが必要であること

 これは過去に何度も書いてますし、それだけ取り出して、「ESSAY 539/「ひょん」〜神の一撃」あたりに詳しく書きました。この項目は、これを再読していただければそれで結構です。

 って、面倒くさくて読まないだろうから、ここで要旨を述べると、人生における曲がり角や、成功にいたるキッカケというのは、大体において単なる偶然です。「ひょんなことから」という、まるで思ってもみなかった偶然があなたの人生を変えます。リアルタイムにそうは自覚しないだろうけど、後になって振り返ってみたら、「ああ、そうなんだ〜」ってしみじみ分かる。

 例えば、僕の両親が出会ったのは、これも前に書いたけど、母が務めていた会社で突如盲腸の痛みを感じ、階段の踊場でうずくまっていたところ、たまたまそのビルに商用で訪れたのが父で、「どうしたんですか」「大丈夫ですか」「救急車だ」という映画のような出来事でつきあうようになったらしいです。もし、その日にオヤジがその仕事がなかったら、あるいは信号一本待ってる間に他の人が助けてたら、僕はこの世に存在していなかったってことになります。

 出会いなんてそんなもんでしょう。絶対に事前に想定できないです。誰と結婚するかという超大事なことでも、いや大事であればあるほど、事前には絶対わからない。そりゃ婚活パーティとか、思いっきりそれを想定している場もあるけど、それでも具体的に誰と出会うかなんかは行ってみなけりゃわからない。クラスメートに初恋をしてとかいうパターンだって、誰と同じクラスになるかも、どの人を好きになるかも、事前には絶対わからんですよ。

 同じように、あなたのパーソナリティを形成する種々の価値観や好き嫌い、例えば○○という作家が好き、マンガが好き、音楽が好き、旅行が好き、、、、というのも、なんでそれが好きになったの?といえば、もとを質せば「たまたま」でしょう。暇つぶしに本屋に寄ってたまたま目についたとか、友達がたまたま貸してくれた、飲み屋の有線に流れてたとか、そんなの100%偶然です。売れているものは漏れ無くチェック!って今時珍しくまだやってる人もいるかもしれないけど、チェックをしたけど、どれを好きになるかは、これまた分からんでしょうに。

 そして実業家でも、あるいは市井の人々の半生を聞いてみたら分かると思いますが、まず間違いなく、「○○との出会いが私の人生を変えた」ってエポックメイキングな「なにか」があるはずです。「どっか」で「なにか」に出会うんですよね。なにかというのは人かもしれないし、作品かもしれないし、単なる風景かもしれないし、それは全然わからない。いつそれが天から降ってくるのかわからない。事前には全く想定できない。

 そして、多くの物事というのは、どっかに転換点がきて、それがそれまでの蓄積を質的に変性させる。酵母みたいな、触媒みたいな役割を果たす。起承転結でいえば「転」がきて、それでなんとか形になっていくという経過をたどる場合が多い。単なる大豆の煮汁でしかないものが「にがり」という触媒をいれることで豆腐になるとか。あるいは「お好み焼きひっくり返し」みたいなドンデンがくるときもある。起業してやってても、ひょんなことから○○と知り合いになり、そのツテで○○という仕事を廻して貰い、それが縁で大きく成長って感じです。

 この偶然、この触媒は、成功するためのダシのようなもので、それがないと単に量的に積み上がっていくだけで質に転化しない。でも量が積み上がっていけば、どっかで質に転化するポイントがくるでしょう。しかし、それがいつ、どんな形でそうなるか、それは誰にもわからない。

 これは話を逆にしたら分かりますが、想定外の出来事で失敗することは世の中沢山あります。乗ってた山手線が人身事故でストップして遅刻しました、アイスランドで火山が爆発して飛行機が飛びませんとか、想定外の不幸はよくある。念願のマイホーム!を建てたと思ったら、大津波でドドドと流されてしまいました、放射能で住めなくなってしまいましたって気の毒なこともある。

 想定外の出来事で不幸になることもあるなら、想定外の出来事で幸福になることだってあるはずだし、実際にもある。その歩合はトントンでしょう。なぜって、それが幸運か不幸かというのは人間の勝手な価値観に過ぎないからです。デートの日に雨が降ったら不幸だけど、大嫌いなマラソン大会の当日に雨が降って中止になったらラッキーに思う。でも自然現象は、独自のパターンで降ったり晴れたりを繰り返しているだけですから。ちなみに、これって面白いことにセットでやってくる場合が結構ありますね。僕の両親の場合も、盲腸で突如苦しむ(想定外の不幸)、これによって出会いがある(想定外の幸運)という。これを人々が長年観察し、自分でも経験してきているから、例えば「災い転じて福となす」という諺があるのでしょう。こういう言葉が数百年残っているということは、それが誰でも経験するありふれた法則だということでしょう。全然間違ってたら残ってないって。

実戦的な応用編

 ということで、いつものパターンですが、一つのメイン現象やら法則が分かったら、じゃあそれを日常生活でどう応用したらいいか、実戦的なサブ理論の展開です。

理屈で考えるとおよそ成功するような気がしない

 なんらかの偶然、想定外の出来事でうまくいきました〜なんてことを、事前に予想することはできないし、そんなご都合主義的ラッキーを考えているだけで虚しくなります。

 これってシリアスに考えていけばいくほどそうなる。「なんだか分からないけど、そこで運命の出会いがあって〜」なんて言ってたら、あるいは事業計画書に書いていたら、「阿呆か」って言われちゃうでしょう。そんな取らぬ狸の皮算用をしてどうするとか、見通しが甘すぎるとか、まあ、そう言われても仕方ないでしょう。

 でも、ほんとそうなんだわね〜、結果的に成功した物事でも、理屈で考えているとおよそ成功するような気がしないのですな。僕がやってるシェア探しのサポートでも、「100%相手の言ってることが聞き取れない」という前提で組み立てます。事実聞き取れないしね。でも、それで実際に誰でもシェア先を見つけている。それも10件以上は見て決めている。なんでそんなことが出来るのか?そこは理屈は色々言えますが、でも、普通に考えたら「そんなもん、何言ってるのか分からないで、出来るわけないだろうが!」で終わりでしょう。どう考えても無理!ってことが、やってみたらほとんど例外なく成功している。

 これには2つあります。一つはその「理屈」とやらが間違ってるからです。一見そう見えますよ、もう鉄板にそうに決まってるじゃんレベルに思える。でも現実が理屈どおりにならないんだから、その理屈はスカだってことでしょう。これを言い出すと長くなるので、一つだけ例をあげると、口頭での言語コミュニケーションが100%無理なら何も出来ないっていうなら、じゃあ聾唖者の方は社会生活を送るのは不可能なのか?です。そんなことないでしょう?

 物事をネガティブに捉える理屈なんか幾らでも言えますよ。例えば英語を頑張る〜とかいっても、中高6年やってダメだったものが、いまさら出来るわけないだろう?出来るくらいだったらとっくに出来るようになってるぞ、というのもそうです。この理屈は一見鋭く正鵠を突いているようで、実は全然スカタンです。なぜって、なんで中高6年やったのに出来なかったのか?です。その原因を分析しないで単純に延長線を書いている時点でおかしい。第二に「出来ない」の定義が曖昧。中高の頃はテストで点数をとるのが成功だったけど、現場ではそうではない。テストは独力でやらねばならないけど、現場には現場の機微がある。あ〜う〜必死にやってたら、「こういうこと?」って向こうから幾らでも助け舟が出てくる。もう船団のように出てくる。テストだって、船団レベルで助け舟出してくれたら上手くいってたかもしれないのだ。だから状況が違うものを単純に比較している時点でおかしい。第三にモチベーションや必要性が違う。第四にリアルな教材が豊富であるという点で違う。しかし、同時にやっぱり今回もダメでしたって人も多い。むしろそっちの方が多い。それは何故か?なぜある人は上手くいき、なぜある人はうまくいかないのか、そこまで分析しないと理屈ではない。

 ほんでもそんなに緻密に考えられないのですよね。考えられるようになるのは、自分が出来るようになってからです。だから出来ない段階では、しょーもないネガティブな、一見もっともらしいヘッポコ理屈にやられちゃったりするわけです。その点は気をつけたらいいです。

 第二に、想定外のダシや触媒が天から降ってきて、それで成功するというメカニズムがわかってない、という点です。これが致命的。

 これは特に今の閉塞JAPANにありがちな雰囲気で、「おっしゃあ!」って成功した人がウジャウジャいたら、てかほぼ全員そういう体験をしていたら、雰囲気もエンカレッジ(勇気づける)するものになるでしょう。成功のなんたるかを皮膚感覚でわかってる人は、「そんなもんやってみな分からんだろうが」「ウダウダ言っとらんと動かんかい」っていう要諦がわかる。もちろん脳天気にイケイケなわけではなく、リスク査定もするし予想も計画も立てるけど、慣れてる人は、「ま、最悪いっても大体こんなもん」ってアタリがつくから過度にビビらない。そのあたりの「見切り」が正確にできるから可動領域や自由度が高く、攻めどきに一気に踏み込んで攻め込めるから成功率が高い。でも成功した経験が少ない、そもそもトライすらしないって人が多くなったら、「大丈夫?」「無理に決まってるじゃん」的なムードになってしまいがち。かくしてクソ理屈がエピデミックのように蔓延するという。

 やったことない人や、トライしたことない人の理屈ばかり聞かないように。もちろん傾聴すべき点も多々あろうが、鵜呑みにはしないこと。なぜなら、第一に本当のところは彼らにもわからないということ、第二にトライしなかった自分を正当化したいという心理が無意識に働く(やらなくて良かったのだと思いたい)からバイアスがかかる。話を聞くなら、成功した人からも聞くべきであり、もっとも聞くべき人は「失敗したけど後悔してない人」です。この人は、成功という結果オーライで何もかもバラ色に塗りつぶすという弊害からは免れているし(実際には成功者ほど苦くて渋いことを語る傾向があるけど)、失敗しても最低限これだけは得られるというカッチリしたものを持ってるからです。一番地に足がついている。

 マイケルジョーダンの有名な語録に「『お前なんかにできるわけがない』って言う人の言葉に耳を傾けてはいけない」ってのがあるといいます。有名だから知ってる人も多いだろうけど。曰く、「俺もさんざんそう言われた。彼らはやらなかったんだ、取り残された気がして寂しいんだ、仲間が欲しいんだ。そして君にも仲間に入って欲しいんだ。だからそんなこと言うんだ」と。

幸運の女神の席は空けておけ 

 標語的に言えば、こういう↑ことでしょう。
 なんらかの想定外の幸運の女神が、天から降りてくるときがあるのだけど、理屈で全部埋め尽くしてたら、女神様が降りてきても座る場所がないわけですね。でもって「お呼びじゃないのね」ってばかりに立ち去ってしまう。ああ、勿体無い。

 より具体的に言えば、水も漏らさぬ緻密な計画を立てるにしても、絶対にどっかに「あそび」を入れておけってことです。キチキチに計画を立て過ぎないことです。

 これは色々なパターンがありますが、例えば予算にせよ、時間にせよ、随時変更可能なようなゆるいプランにしておく。あるいは、「おお」と思うことがあったら、緻密に組み上げた計画を全部チャラにできるくらいに肚を括っておけってことでもあります。「そうなりゃ話が別じゃい」っつって全部キャンセル、ゼロから組み直しって出来るかどうか。

 具体例を述べれば、例えば旅行に行きますよね。でもって通例、ギッチギチの予定を立てまくったりして、限られた予算で最大の成果って感じで、コスパ極大化に走ります。わかります。ほんでもね、どっかの街角で素敵な出会いがあるかもしれんのですよ。あるいは「え?なんだあれ?」というビジネスのヒントが転がってるかもしれない。あるいはアドレナリン系のイベントらしきものは何にもないけど、そこには「豊かな時間」があったりして、そこに身を浸すことで自分が静かに変わっていくかもしれない。

 いや、何があるか分からんでしょ。階段の踊り場で盲腸だってあったんだからさ。
 観光地めぐりしてたら、大体同じようなところを行くから、「やあ、又会いましたね」ってな感じで自然と親しくなったりするかもしれない。単なるアバンチュールや新手の詐欺かもしれないけど、でも真正な出会いかもしれない。そのときに、「ああ、遅れる、もう行かなきゃ」みたいなキツキツの予定を立ててたら、それで終わりですよね。そこで「もう後の予定は全部キャンセル、大出費になるけど、それでもいい」って腹を括れるかどうかです。イケてる組織のトップは、猛烈に忙しいけど、よくコレをやるでしょ。「今日の午後の予定は全部キャンセル!」とか、臨機応変の即決が出来る。逆に言えば、それが出来るだけの気構えと体制を常日頃から整えているのでしょう。

 まあ、幸運の女神なんかそう滅多に訪れないし、それが分かるのは何十年も経ってからかもしれないから、実際の感覚としては、「ふーん、おもしろそうだな」という直感や気まぐれを大事にすることですか。あるいは、緻密な計画を完全に遂行することに喜びを感じるという官僚魂みたいなメンタリティから自由になることとも言えるでしょう。予定通りいかなくたって全然OK、むしろ予定がどう変わるか、どういう偶然に出会えるか楽しみだなあって、そのくらいの感じでいるといいんじゃないでしょうかね。スケジュール帳が真っ白だと不安、、という話もあるけど、何言ってんだい?って、白ければ白いほどウキウキしてろ。

ODDはGOD〜必然の祭壇を築いて偶然の神を降臨させること

 最後に、成功した人を見てると「成功して当然」ってくらい色々やってます。もう人によっては「鬼」と化している。「それだけやりゃあ、そりゃ出来るわな」って誰もが納得するくらい実はやっている、というケースが多い。

 羽のない扇風機がありますが、その開発者(ジェームス・ダイソン氏)のインタビューがこっちのメディアに結構前に載ってたので読みました。彼は掃除機で成功したのだけど、あの掃除機の開発に15年かかり、なんと5127の試作品を作っているそうです。凄いよね、5000回失敗してもめげないという。そのインタビューを今探してたら、それとは違うけどNo Innovator’s Dilemma Here: In Praise of Failureというのがあって、彼が引用しているエジソンの言葉がもっと凄い。エジソンは1093の発明(パテント)を成し遂げたけど、失敗例は1万件以上あるそうです。で、有名な言葉が(知らんかったけど)、“I have not failed. I’ve just found 10,000 ways that won’t work.(僕は失敗なんかしていないよ。単にそれがちゃんと作動しない1万通りのパターンを発見しただけさ)” と。成功する人は言うことが違う。やることが違う。

 彼らのレベルからしたら、仮に何かに1000連敗しても、そんなの「失敗」のうちにも入らないのでしょう。ようやく慣らし運転が終わって温まってきたかな〜ってなもんでしょう。「絶望は愚か者の結論」とは、よく言ったものです。

 こういう人たちは、成功して当然ってくらいの営為を積み上げてます。それだけやれば、なんぼなんでも上手くいくでしょうよって思いますよね。だから彼らの成功は、偶然ではなく、必然でもあります。

 でもそれは結果論的にそう思えるだけで、やってる最中はそうは思えないだろうし、「5000回も失敗してるんだから、もう駄目だ」と普通思うでしょう。てか普通3回くらいで諦める人も多いでしょう。そういう暗中模索の試行錯誤の中から、5128回目に成功するわけだけど、それが何回目にくるかは分からないし、なんで成功したのか、どういうヒントを得られたのかです。15年もやってりゃおよそ考えられることは全て考え尽くしたでしょう。それでも「まてよ、この手があるかも」というヒントは、一体いつどうやって降ってきたのか?それは本人にもわからないだろうし、わかるくらいだったら一回目からそれをやってるでしょう。だからほんと天から降ってきたって感じなんだろうなあ。

 しかし、それが降ってきたのも、そこまで営為を積み上げてきたからでしょう。これだけメゲもせずにあれこれトライするからこそ、降ってきたし、降ってきたものを受け止められた。

 成功してしかるべきという必然、それは成功して当然というくらいの実質=緻密な研究や試作、失敗にめげない精神、要するに「努力と根性」(クサいけどそうとしか言いようがないよな)あってのことだと思います。それだけの実質で「必然の祭壇」を作っているからこそ、幸運の神が降臨するのだって感じ。

 "ODD"という英語があります。偶数(even)に対する奇数という意味で、「半端な」「奇妙な」「風変わりな」という意味もあります。複数形にすると「オッズ」になり、成功率や賭け率という意味で日本語にもなってます。この感覚が、僕のいう偶然の神の感じに近いような気がしますね。触媒的な、ヘンテコなプラスアルファが入るからこそ、質的に転換されてなにごとになるという。音楽の曲でも、普通の展開なんだけどどっかにヘンテコな部分が入っていて、それが滅茶苦茶アクセントになって印象深い曲になり、名曲になるという。魔法の一滴ですね。でもそれって狙って思いつけない。もう降ってくるものでしょう。それが神。洒落っぽくいえば、"ODD"は"GOD"なのだなあって。

 でも触媒オッドだけではダメなんですよね。「にがり」だけ持っててても豆腐にならない。やっぱちゃんと大豆を煮こんではじめて、触媒にがりの意味がある。ということで、必然を積み上げて、偶然を待つ。

 究極的には必然も偶然も同じことなんかもしれません。
 それが生じたということは、それが生じるに足るだけの前提条件が揃っていたということであり、物理的にいえば何の変哲もない必然に過ぎないのでしょう。しかしやってる人間の側からしたら、そこが見えないから、あたかも偶然、ラッキー、幸運の女神のように感じる。


 ビジネスで成功したかったら、とりあえずは質の良い商品やサービスを開発して提供するという基本をやらないとダメだろうし、適切な広報も必要でしょう。それでも売れるかどうかは神次第です。でも最初から神頼みばっかで、商品がメロメロだったら女神様も降りてこないよ。異性との出会いでも、魅力的な自分、「そりゃあ惚れる人も出てくるわな」って自分になればなるほど女神も降りてくるでしょう。

 これらをひっくるめて、ぶっちゃけ言葉でまとめてしまえば、成功するかどうかウダウダ悩まんと「やることやっとけ」ってことだと思います。やってて祭壇が築かれてきたら、そのうち神様も降りてくるだろうさって。ま、何の事はない、「人事を尽くして天命を待つ」「果報は寝て待て」という当たり前の話に帰着していくんですけど。

 でも、その天命やら果報が、一体いつ、どういう形で訪れるのか、それは全くわからない。
 成功して当然という必然の祭壇は築け、頑張れ、でも、どういう時期にどうやって成功するかは全然わからないよ、分からなくて普通、それで良いのだって肚括っとけと。

 もっかい言うと
 ウジウジとクソ理屈こねくり回してるヒマがあったら、やることやっとけや。
 そのうち絶対になんか降ってくるから。

 それまで待てるかどうか、
 降ってきたものをちゃんとキャッチできるかどうか、
 それがあなたの器量。

 ってな感じですか。


 
文責:田村



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