写真は、Iron CoveのRodd Parkっつっても分かりにくいですよね。Drummoyne〜Fivedock〜Haberfieldに切れ込む入江です。いいですよね、このあたりは。静かな水辺が広がって、気持ちいいし、水も綺麗だし。初冬の陽射しが優しいし、、て、けっこう冬なのに強烈だけど。
でもって、隣では、平日(月曜)の真昼間っから犬と水辺で遊んでる壮年男子オージー二名がいるわけで、彼らはどうやって生計を立てているのだろう。てか、それを撮ってるこっちこそどうなんだ?という。
資本主義が行くところまで行ってドン詰まりになり「ポスト資本主義」になった場合、なにがどうなるか?ときどき考えます。
まあ、ドン詰まりまで行かない、ポスト資本主義なんか来ないって見解もあろうし、そうなのかもしれませんが、少なくとも現在の資本主義なる方法論が万人を救済するものではない、というのは明らかになりつつあると思います。ま、ここの議論はさておきます。それだけで本が何冊も書けるくらいのボリュームがあるだろうし、そんなの書く知識も元気もないですから。ここでは「このままコレが未来永劫続くの?」「いや〜、それは無いんちゃう?」ってくらいの軽い感じで始めます。
漠然と結論らしきものをポンと投げ出してみると、これからは(既に今でも)、「生き方」みたいなものが「商品」や「資本」になっていくのではないか?ということです。
こう言ったところで何がわかるわけでもなく、山ほど注釈をつけないとならないのでしょうが、まず最初に言っておきたいことは、これまでも「ライフスタイル系の商品」というのは沢山あったけれど、それらとは違うという点です。バブル前の金ピカ80年代には、「リッチでアンニュイなアーバンライフ」という歯が浮くようなコピーで、そーゆーライフスタイルが提唱されたり、「それっぽく演出する小道具」が売れました。「金曜日にはワインを買って」みたいな。この種のことはいつの時代にもありますが、結局は「小道具」の売買に過ぎないようにも思います。
今僕が書いているのは、それらしき演出をほどこす小道具や大道具(豪邸とかヨットとか)ではなく、「こういう生き方」「ああいう生き方」という粗削りのパターンであり、ざっくりした方向感覚であり、それにまつわるモロモロです。
抜本的なニーズ〜生き方が分からん!
なんでこんなケッタイなことを思いついたのかといえば、なんとはなしの皮膚感覚、生理感覚ですが、そのへんに皆のニーズが高まってるように思ったからです。ま、錯覚かもしれんけどね。
まず、現在から未来にかけて、「どう生きていけばいいのか、よう分からん!」という感覚があると思います。日本だけではなく、先進国はわりとそうでしょう。従来の方法論への漠たる懐疑、もっと普通の言葉でいえば「上の世代がやってきたようなやり方」で人生が最後まで成り立っていくような気がしない、という感覚です。年金破綻だの国債がどうだのという経済指標やデーターはさて措いて、特に才能に恵まれているわけでもない普通の人が、親や先生の言われるままに普通に頑張っていけば、それでまあまあ人生は安泰でしょ!、、、って素直にそうは思えない今日このごろ。
これまでは〜
封建バリバリの江戸時代は、生き方なんか頭ごなしに決めつけられて、武士の子は武士に、百姓は子々孫々ずっと百姓ということになっていて、ライフスタイルもヘチマもありませんでした。牢獄みたいで息苦しいけど、それはそれで選択に悩むということはなかった。
明治期以降はどうかというと、手に職系の町人・職人は意外とあんまり江戸期と変わらず、丁稚や見習いで入って、修行して、番頭になって暖簾をわけてもらって独立して、まだ弟子を取って、、というパターンが続いています。これは現在でもわりとそういう部分は残っているでしょう。昔ながらの伝統職であればあるほどそうで、落語家とか板前さん、各地の名産物(独楽、将棋の駒師・盤師、凧作り、漆塗師)とか。但し、トランジスタによって真空管が駆逐され、デジタル印刷によって写植や活版職が先細りしたり、時代が変わって売上が落ちたり、後継者難で断絶したり。トヨタ本社を頂点とする町工場の膨大なヒエラルキーも、相次ぐコストカッティングの下請け搾取に苦しんだり、本体の大企業がコケて消滅するので、自ら海外に工場作って海外の会社と取引したり、それなりに有為転変はあります。一方、社会の中枢部やアッパークラスに進むコースは、帝国大学にいって官僚や財閥にいくか、陸士や海兵に入ってエリート軍人さんになるというルートがありました。
戦後は、これらが学歴偏差値に一元化されていきます。高度成長で第一次産業(農林水産)は人気がなくなり、職人系も「勉強が出来ない人がやるもの」という不思議な偏見にさらされ、猫も杓子も学歴に向かいました。実際「ホワイトカラー」が高収入高ステイタスであったという輝かしい時期も確かにあった。その民族大移動のような、ある意味レミングの自殺行進のようなの流れの度合は、それぞれの個性(偏差値)に合わせて、ウイスキーをお好みで水割りにするように希釈して適当にやっていた。生のストレートで濃いのがお好きな人は幼児の頃からお受験やって、酎ハイみたいに薄くてとりあえず乾杯用に一杯だけって薄い感じの人は、二流だろうが、三流と言われようが「とにかく大学」って感じ。
オートメ化の流れ
そんなこんなで、これまでは「こう生きろ」というモデルがあったわけですが、段々とそれでは成り立たなくなっている。なぜなら資本主義というか最先端の金儲け(ビジネス)方法論が、どんどん人減らしを図っているからです。別に意地悪でリストラしてるわけではなく、技術やシステムの進化によって昔ほど人手がいらなくなっているってことです。グローバルなアウトソーシングもそうですが、機械化・自動化・オートメ化もすごいです。ガソリンスタンドでセルフが増えた分だけ店員さんの職はなくなるし、スーパーのセルフレジが増えればそれだけパートさんの首が切られる。もともと「機械」という存在そのものが「人力を機械に代替する」という本質をもつので、機械が増えると失業が増えるのは、言うならば理の必然でもあります。
最近では、やたら「無人」なんたらを見かけます。やれメルセデスが約100Kmの自動運転に成功したとか、Googleが無人航空機メーカーのTitan Aerospaceを買収したとか、アマゾンが目的地まで30分以内で配達する無人機を導入検討しているとか。また3Dプリンターの実用化によって多くの熟練工が解雇されるらしいとか。そんなピカピカな最新の話でなくても、例えば1975年に5万人もいた日本の外国航路船員数は、2002年段階で3000人まで減少しているそうです。そんな話は山ほどあるでしょう。
ある行動(労働)を徹底的に解析し、共通パターンを抽出し、そこに一定の方程式やプログラミングができたら、そしてそれを実行出来る現物(機械とかシステムとか)があれば、それだけ人手は要らなくなることになります。
医療だってそうですよね。問診表をマークシートで細かく回答してもらう→回答によって導かれる検査をやってもらう(検査もオートメ化できる)→その検査結果をさらに解析するプラグラムにかけて→「はい、風邪ですね、お薬出しておきますから、暖かくして寝てください」という診断書と処方箋がプリントアウトされて出てくる。これを3分間写真のブースのような形にして街のあちこちに設置したらそれで大概の風邪は病院イラズ医者イラズです。でもって、微妙なケースだけ「医師の診察を受けてください」という回答が出てきて、それをもって通院する。今は医師法やら何やらで出来ないですけど(オンラインの薬販売にせよ)、やろうと思えばできるでしょうし、医療費の国家負担が耐え切れなくなったらやるかもしれない。そうなったら、医師の必要人数は激減するでしょう。あるいはオンライン(スカイプとか)などでの診療(+処方)が認められるようになったら尚更です。
弁護士だって、よくある事件の領域(破産、交通事故、離婚など)について、細かくマークシートに答えてもらって割り振っていけば、アバウトなところは出来ます。いっときこれで弁護士や司法書士が潤っていた過払い返還訴訟なんか、簡単な給与所得者の確定申告みたい、もっと言えば中学三年の数学の宿題みたいなもので、空欄部分に数字を書き込めば、あとは頭使わずに出来ますもんね。少なくとも大雑把な仕分けくらいだったら、YES/NOで答える精密なフローチャートを作れば出来ます。もっといえば、裁判だってある程度の量刑相場や賠償相場があるんだから、オートメ化することもできる。自己破産の申請同廃やら罰金の略式なんか、弁護士や裁判官というよりも、事務員さんと裁判所書記官だけでやってる部分が大きい。
どんな「仕事」も緻密に分析していけば、大体のところはオートメ化できる。大体、バクチという極めて人間的な行為ですら、巨大投資ファンドがコンピューターによって超高速で自動的に売買しているんだから、なんだって出来ないと嘘です。肝心なのはそのプログラムとアルゴリズムの作成で、これで数千億円くらいかかるかもしれないけど、一度投資して作っておけば、その後の人件費の節約は計り知れない。
かくして人間がやるのは、機械では処理できない「はみ出した微妙な部分」だけってことにすれば、雇用人数だって、どうかしたら10分の1で済むかもしれません。というわけで失業率90%になりましたとさ、と。
余談〜でも、それが未来社会じゃなかったの?
切ないような話でいて、でも昔はそれが「未来社会」だったんですよね。なんでもコンピューターとロボットがやってくれて、人類はのうのうと寝て暮らして、好きなことをやっていればいいって。確かにその通りになりつつあるのですが、違うのは人間サマのポジションで、昔に夢に描いていた「のほほんと寝て暮らす」のではなく、失業して困窮して、人によっては自殺してることです。あれ?こんな筈では、、、ですよね。
いや、しかし、全部機械がやってくれるなら、ほんと寝て暮らせるよな社会システムにすりゃあいいじゃんって根本的な疑問はありますよね。それも一つの人類の方向性でしょう。てか、最初はそのつもりだったんだから「初心貫徹」ですよ。完全にサステイナブルな自律システムを作って、あとはメンテだけやってればいいって形にして、皆で寝て暮らすという社会。でもって、何もしないのに寝て暮らせるって時点で、既に資本主義は崩壊してますよね。というか資本主義以前の「働かざるもの食うべからず」的なドグマ、社会の根本律みたいな部分が変わる。あれは必死こいて労働しないと人類が死滅する、少なくとも個々の個体は死ぬという貧しい時代のドグマであって、機械が全部やってくれるなら大前提が変わる。
多分、長〜いスパンでいえばそうなるかもしれません。
空想ですけど、とりあえず「これさえあれば絶対死なない」という基本3点セットみたいな機器が980円くらいでコンビニ(その頃にコンビニがあるのか疑問だが)で売られるようになるとか。セットの中身は、そこらへんの草とか土とか適当にミキサーみたいなものにぶち込んで廻したら、勝手に原子分解や分子再構成をやってくれて、一日に必要な必須アミノ酸とかビタミンとかを人工合成してくれて、あとはそれを摂取すればいいだけという完全サプリメント自動製造機というスグレモノ。そしてお味もよろしい。そのあたりの人口味付は偽装大国日本でお得意でしょ。
食事がクリアしたら、あと生存に必要なのは環境で、これは大きく防寒(暑)と治安に分かれます。温度は自動的に身体の数ミリ周囲を磁気バリアかなんかで断熱シャットアウトすれば究極の防寒着になるでしょう。零下50度でも気楽にゴロ寝できる。同じように、身体の周囲に電磁バリアを張る装置があれば、外敵からも身を守れます。バリアを偏光仕様にすれば外からは覗けないようになるからプライバシーも守れる。このようにメシ&防寒&安全が絶対確保されたなら、そこらへんで野宿してても、山奥に修行にいっても大丈夫という980円セット。ま、その頃には、ティッシュのように無料で配られているかもしれない。要領さえわかれば幾らでもコストダウン出来ますからね。財政破綻している国家だって、年金払う代わりにこのキットを配っておけばとりあえず人は死なないから究極のコストダウンになります。
でもこれがあったらとりあえず人生OKですよね。究極のひきこもり用のコクーン(繭)というか。これら全てが太陽光電池で動くんだったら、世界のどこでも好きなところにいって、日がな一日本を読んだり音楽聴いて暮らせるわけです。その気になったら死ぬまでそうしていられる。コンテンツは衛星経由で無限にダウンロードできるし。メシは自動〜でOK、テントはバリアでOKですから。
そうなると暇やエネルギーを持て余した人が、猛烈に仕事をしたくなったりする。その頃には仕事は趣味でやることになっていて、お金(その頃に貨幣があればの話だが)を払って仕事をやらせてもらう。ディズニーランドの乗り物みたいな感じね。全体のシステムをメンテする職はあるんだけど、そんなの僅かな人数で足りるから、それをやりたいという人たちが殺到し猛烈な競争率になり、仕事をするために巨額な賄賂が乱れ飛ぶという。面白いよね。でも、文化って暇を持て余した貴族が作ってる部分が多いから、人類総貴族化したら、とてつもなく文化が進むかもしれません。なんせ皆ひまだから、全3000巻の大河小説や、一曲演奏するのに1ヶ月かかるという超大作もできるかもしれない。
余談が過ぎました。とりあえず今はそうなってないので、失業したらヤバイ、お金がなくなったらピンチという前提で世間が廻ってます。だけど、お金を稼ぐ術である職そのものは地球規模で減っている。新興国の発展によって新たに職が増える部分もあるけど、先進国では減っている。全部ひっくるめて言っても、大きなメカニズム(進化)が=せっせと職を減らす方向で動いている以上、まあ減るでしょう。少なくとも既存の職は減る方向にある。
もうちょいスパンとエリアを絞ってミクロで直近未来でいえば、マックジョブのような低所得の時給仕事は増えると思いますが、逆に年収単位の高給勤労職は減るでしょう。以前に書いたようにアメリカの統計でも、中間層がどんどんリストラされ、低所得者に追い落とされている。大企業の部長サンもクビになり、時給○ドルという低賃金の職場を、二つも三つも掛け持ちして月収10万ちょいという状況になってたりする。精巧なピラミッドを建築しましょうみたいな産業構造になっていくから、設計施工や企画経理を担当する超優秀な中枢部がいればよく、あとは大多数は石引き人夫でいい。極論すれば中間層や正社員なんか無駄、要らないってことでしょう。全産業がそうだというつもりはないけど、確かにそうした方が効率よく稼げる場合が多い。
日本でも会社内失業者が465万人とか、その数字の信憑性はさておき、そう言われています。企業としては今日にでもクビにしたいってことでしょう。だから、一回葬り去られたホワイカラー・エグゼンプションみたいな法制化がまたぞろゾンビのように語られている。石引き系マックジョブは人手が足りないから失業率は改善されるかもしれないけど、でも、今の時代に「失業率」なんか出しても意味無いでしょ。実質賃金が増えているのか減っているかです。でもって日本は減っている。厚生労働省の速報値によると、実質賃金は10ヶ月連続して減少し、基本給(所定内給与)も23ヶ月連続減少している。所定外給与(残業代とか)は増えているんだけど、でもエグゼンプション制度って残業代ゼロ制度で、それを言ってるわけだからやっぱ見通しは明るくはない。
そうなった場合、と言うかもうなってるけど、どうしたらいいの?どうなっていくの?です。
当然考えられるのは、生き方戦略の再構成です。
こういうことはこれまでにも何度もありました。
時代が変わり、生き方が変わる
過去のケーススタディ
江戸時代に下級武士の子として生まれた人間の生き方戦略は、学問や武術に励んで優秀になれば、藩の師範方や教授方に取り立てて貰えるということでした。もう蜘蛛の糸のカンダタみたいな細い希望です。一昔前のブラジルやタイで低所得者層の男子として生まれたら、サッカーやムエタイのプロ選手になるしかないみたいな感じか。しかし、明治維新で雇用主である藩そのものがまさかの大消滅。出世どころか超大量解雇です。剣術やっても廃刀令。これってすごくない?です。WEBデザイナーになったと思ったらインターネット禁止令が出たようなものです。もうどーしよーもない。根こそぎ〜って感じ。そんでもって時代は洋学=西欧近代科学の時代。それまでの蘭学系の時代です。勝手な想像だけど、おそらく江戸時代の蘭学ってごく一握りの酔狂な連中がやっているだけで、今で言えばUFO研究家みたいな存在だったんじゃないかと思われるのですが、そのUFO知識で将来が決まる時代になったという感じっすかね。すごいよな。
かくして大量失業した武士階級は、生活地盤を根こそぎ奪われ、武士の魂でありプライドの源泉であった苗字帯刀特権を奪われ、わずかばかりの涙金で路頭に放逐されます。で、どうなったかというと、中には「士族の商法」のように起業するけどド下手だからどんどん破産する者もいる。全国で士族の反乱が起きたけど鎮圧。食うに困って北海道に流れたり、あるいは募集(屯田兵)ないし強制労働をさせられたりします。あの当時の北海道って、まだワイルドだったろうから、腕に覚えがあればある程度生きる余地はあったのかもしれません。アメリカ草創期における西部みたいな感じですかね。でもって、日本が韓国や満州に進むと、大陸浪人になったりして、まあどこに行っても粗野なだけにあまり歓迎されていない。もちろん時代を見据えてきちんと業態転換した武士も沢山いたでしょう。優秀な人は新時代の政権でもそれなりの地位を占めましたし。静岡名産のお茶は、徳川家の故郷に帰ってきた大量の旧幕臣や、大井川人足(橋がかかったので失業した)が開墾したものと言われてます。
大変なのは武士だけではなく、一般農民もそうです。それまでは米穀経済だったから貨幣なんか必要なかった。税金(年貢)は収穫物で払えばいいから、いかに収奪がきつかろうがその意味では楽です。しかし御一新以降、お米(収穫物)での現物納付はダメ、お金で払えって言われてしまうから、生産物を換金しないとならない。しかし草深い田舎に生まれ育った人々に、現金収入や納付なんか、そう簡単にできない。そのへんの中学生にアルゼンチンの株式を買えって言ってるようなもので、何をどうしたらいいのかわからない人が多かったでしょう。かくしてビジネスマインドあふれ目端の効いた商人が買い叩きにくるわ、農家に現金を高利で貸すわで、あれよあれよという間に収奪され、借金まみれで身動きできなくされる。それらと結託した地元の大地主に土地を渡して、小作人という農業サラリーマンのような、ありていにいえば農奴のような存在に叩き落とされる。それでもお金がないから、都会に働きにでて資本主義勃興期における使い捨ての下層労働者として収奪されるか、女性は人身売買の対象になるか、はたまた食うために軍隊に志願し、アホみたいな作戦によって異郷の地、例えば203高地で殺されたりする。
もう食えないということで一村あげて夜逃げするというケースもあったそうです。村上春樹の「羊をめぐる冒険」の中には、主人公が暇にまかせて北海道地元史(十二滝町史だっけな?)を読む下りがありますが、そこでは本州のどっかの村あげて逃げてきた集団が、アイヌの青年を道案内にやとって、絶対に追手が来ないであろうド辺鄙な奥地に行き、開墾する歴史が語られてます。あるいは海外に逃げた人々もいます。逃げるっていっても、政府や関連業者の手引があったわけで、要するに移民政策というか棄民政策ですよね。国をあげて原野商法やってるようなもので、とある村はブラジルに、とある村はカリフォルニアへ、ボリビアへ、ペルーへ、ハワイへいき、「騙された」と嘆いても後の祭り。現地で塗炭の苦しみを味わう。よくハワイの日本語は移民元であった広島弁であるとか言われますよね。ほかにも、バブルの頃に日本で働こうという外国人労働者を「じゃぱゆきさん」とか呼んでたけど(又似たようなことやろうとしてるけど)、もともとは「からゆきさん」で、明治期に海外に叩き売られた日本人女子です。各国に日本人娼館が建設され、その実態をレポした山崎朋子氏の「サンダカン八番娼館」は有名。あの頃、女性は普通に「商品」だったのでしょう。
時代が変わるということは
長々何を書いているかといえば、「時代の基礎構造が変わる」というのは、そーゆーことなんだなあって慨嘆したいからです。明治維新・明治時代というと、暗黒の封建社会が打破され、ぱっと電灯がともったかのように明るく華やかな文明開化〜ってイメージがありますが、リアルタイムにみていけば、結構大変な時代だったのでしょう。ある意味では、単に喧嘩に負けただけの第二次大戦後よりもずっとしんどかったのかもしれない。
ここで学ぶべきは、これまでの生き方方法論が、ほとんどゼロといっていいくらい通用しなくなること。これが第一の点。
第二に、一部の先見の明のあるアントレプレナーにとってはチャンスの宝庫だけど(日本に財閥が出来たのもこの時期)、多くの人々にとっては翻弄され、収奪されるというツライ話になりがちだということ。
第三にそれまでの階層はあまり関係ないことです。庶民階層であろうがエリート階層であろうが時代に乗り遅れたら終わり。それまでの超絶的な支配階級であった大名や藩主であろうとも、最初は華族様として持ち上げられつつも、次第にジリ貧になっている。太宰治の「斜陽」の世界です。
「生き方」が商品になることの意味
要は、「なにをどうすればいいのか分からない」ってことだと思います。
この先、どんな産業が伸びるか分からない、日本社会の基礎構造もどうなるかも分からない、何をどう生きていけばいいのか分からない、という。
だからそこに大きなニーズがあるでしょう。もっとも今はまだ、大部分は潜在需要だと思います。まさかそんなに激しく変わるとはニワカには信じられないし、これまでの「成功への回廊」が薄ぼんやりしてきた程度だと思います。だけど、旧来の方法論が曖昧になればなるほど、「じゃあ、どうしたら、、、?」というニーズはこれから顕在化してくると思われます。
ニーズやデマンドがあればサプライが生じる。需要は供給を産み、経済を産む。
「これからは○○だあ!」という。バブルの黎明期は「これからは財テクの時代です!」とか叫ばれた。そして皆傷ついた(^^)。
ほんでも、今の時代、そこまで「だあ!」って力強く言い切れる明確なものは無いでしょう。無いから困ってるというか。
じゃあどうするか?といえば、各人がそれぞれに自分の好きなように展開していくしかないでしょう。ある人は自信に満ちて独自の道をゆき(そんな人は少ないだろうけど)、多くの人はおっかなびっくり独自の道をおずおずと進む。それは人の数だけ道があるだろうし、新しい方法論、新しいルートもまた無限に出てくるでしょう。皆で暗中模索をして、皆で試行錯誤をする。そして、何か一つの正解があるわけでもない。それでいいと思います。むしろ一つではなく、無限にバリエーションが出てくるのが好ましい。
自分なりの道を進んでいくうちに、あんなことがあり、こんなことがあり、紆余曲折があり、兎にも角にも今はこの地点まで来ました。この道程で、誰でも何かを感じるし、何かを学ぶし、気持ちも変わる。また、具体的なノウハウも沢山覚える。
そして、それを後から来る人達に伝えること、何かの参考してもらうこと、そういう作業がとても大事なのではないかと思うのです。
その「何かの参考にしてもらう」という部分が、いろいろな形でビジネスなり、生計を立てる一つの基軸になっていくのではないか?というのが、本稿の主題です。
抽象的でわかりにくいので、もう少し具体例をあげます。
APLACの場合
僕がやってるAPLACは、Association for Pluralistic Life and Cultureの略称ですが、Pluralisticってところがキモです。「多元的な」「複数の」という意味です。人の生き方や文化(生活の楽しみ方)は、めちゃくちゃいろんなバリエーションがあるよ、どれでも好きなものを選べば良いよ、実は選択肢は山ほどあるよ、その豊富な選択肢を祝福し、楽しもうという互助会みたいなもの、って意味です。
それが僕のポリシーであり、言わば政治的主張でもあります。それこそが、今の(20年前も)日本において最も必要とされることであるという。普通日本で弁護士やってたら、死ぬまで弁護士やるでしょう。それが当たり前のありようだったのが、何をトチ狂ったか、何の成算もなくオーストラリアくんだりまでやってきたら、これが思いっきり面白かった。最初の頃は、適当に楽しんだらまた日本に帰って弁護士続けるかも、、みたいなシナリオもあったんですけど、そんなの最初の数日でほぼなくなった。こりゃ日本で弁護士なんかやってる場合じゃないわって。へえ、こんなのアリなんだ!?なあんだ、好きに生きればいいんだってのが僕にとっては衝撃で、それが嬉しくて、それが初期衝動。でもってそれは20年経っても全然変わらないです。
当時、そして今も思うのは、この自分自身の存在が、そんな滅茶苦茶やっても異国でハッピーになってるという事実が、母国日本に対する最大の貢献になるだろうと。「え、そんな人が実在するんだ」という事実が、人によってはある種の希望になるかもしれないし。同時に、それが最高の政治的主張になるだろうってことです。政治的ってところで違和感を抱く人もいるだろうけど、僕の思う21世紀の政治ってのはそれ。ウヨとかサヨとかいうのは20世紀前半の文字通り「前世紀の遺物」だと思ってるし、いまどきそんなものを基軸に本当の世の中は廻ってないよ、どうしていいのか分からない人が「わかる」過去の方法論にしがみついてるだけって思います。政治というのはつまるところ、個々人が、そして皆が、どうすれば最高にハッピーになれるかその方法論であり、それだけに焦点絞って純化すべきだと。だったらそれをやりゃあいいじゃん!他人にやってもらわずに、まずは自分で動けよ、ってのが政治的主張。
それをやるに至った経緯、そしてやりはじめて四苦八苦して、あれこれ覚えていったこと、それぞれをこのHPに書いてますけど、それらは「こういう生き方をする場合のノウハウ」であり、そういう生き方をすると何をどう思うかであり、「何かの参考になれば」です。
最初の頃は、あれこれビジネスっぽいネタで考えてもいたんですけど、それをやると何をやっても尻すぼみになるっていうか、なんか展開していかない。既にやってる人も沢山いるし、長くやってる分だけ彼らの方が上手だし、何よりも自分自身がやっててもあんまり楽しくない。だから、ほどなくして、あんまりビジネスっぽく考えるのはヤメにしました。えーい、もう、思ってること感じてること、そのまんまぶつけたれ〜と。
僕がやってる一連の”業務活動”をみると、これでお金が稼げるって部分は異様に少ないです。ビジネス的には留学エージェントで学校紹介してコミッションをもらうというのが収入分になるんだけど、それとは関係ない部分が多い。多すぎるくらい。シェア探しのサポートだって、やってる最中は4時か5時に起きて、せっせとネットの掲示板の広告を見て(1日に3-400件くらいある)、それをピックアップし、入居日や諸条件を見て取捨選択し、エリア的に分類し遠近順に並べ直し、且つ一口メモ(ここは行きにくいから〇〇番バスに乗れとか)を書き、今週は地図まで作成し、プリントアウトするまで2−3時間はかかります。それが毎日。だけど収益性って意味でいえば100%無駄です。
他にもメールは山ほど貰いますし、中にはヘビーな相談もあるし、今だって人生相談的なものを数本抱えていますが、どれをとっても収益性はないです。将来的に営業展開になるってこともあるけど、既に数年前にお世話した人から場合も多いですからね。メールだって、ものによってはシャカリキになって書くから、1本書くのに2時間くらいかかることもある。そうこうしていると座業が続いて腰痛になる(^^)。
経営コンサルタントが査定したら、「お前、阿呆か」って怒られると思います。なんでそんなに儲からない部分にばっかり精力を注ぐのだ?と。
でも、それをやらないと僕がこれをやってる意味がないのですね。海外でハッピーになるといっても楽な作業ではないし、誰でも行けば良いというものでもない。ここがカンドコロとか、ここでコケがちであるとか、そういうポイントはあるのであって、そこをサポートしないでどうする?という。
で、思うのですね。何やってんだろ、俺?って。
要するに「生き方」をぶつけているというか、生きざまを売ってるというか、それがそのままビジネスになってる部分はあるなと。日本を離れて海外に暮らすというやり方もあるよ〜、でも永住権とか大変だよ〜、生活のノウハウはこうだよ〜、小手先でやるよりも物の考え方や発想を変えると楽だよ、例えば○○はこう考えるといいよ等を「何かの参考にしてもらう」と。目論見どおり「参考にしてもら」ったら、それでいいのか?といえば、それでいい。それがいい。それで楽しいし、それで嬉しい。楽しくて嬉しかったら、それでもういいじゃん。それ以上あれこれ考えるなって感じ。
そして、いわゆる収益部分というのは、一連の活動のうちに一部分だけあればそれでいいや、と。全部が全部収益性に連動する必要はないんじゃないか、一部だけあったらそれで十分なんじゃないか。
これは経済モデルでいえば、昨今の新自由主義や資本主義的な方法論とは違う方向性、ある意味では真逆な方向性です。いかに無駄を排除し、コストカッテイングし、効率性と収益性を高めるという経営モデルではない。それどころか、いかに無駄に増やし、非効率的にやり、収益性を落とすかに血道をあげている、でもその方がうまくいくという。
でもってこれが新たな時代のヒントになるのかな?って気もちょっとしてます。
(1)いかに非効率的に、でも楽しく、人間的人生的に意味のあることをやるかに傾注する、(2)収益部分は全体のほんの一部でよい、というやり方だと、今の資本主義的な行き詰まりは回避できそうな気がするのですよ。非効率的で人間臭いことをやるから、オートメ化やアウトソーシングが出来ない。人間がやらないとしょうがない。そして膨大に無駄を含むから、人は幾らいても良い。リストラしなくても良い。
こうして考えてみると、これってNPOの方法論でもありますな。あるいは、Googleの初期の方法論に似てるかもしれない。あそこも最初は精巧で膨大な知的資産(検索システムや地図やら何やら)を全部無料で開放するという経営原理からしたらありえないことをやってます。もう初期衝動一発というか、こうした方が良いから、こうした方が面白いからという部分でまず動き、あとで「どっかで儲かれば良い」と考える。でもって広告収入で儲けるとか。もっとも今のGoogleは大企業化してしまったし、超巨大化し市場でガリバー寡占を果たせば、お金は向こうから歩いてやってくるという昔ながらの方法論にいってるような気がしますけど。でも、ま、最初はそうだったと思います。
ま、このへんは煮詰めてないので、また別の機会に。
例えばアラフォー海外
別の事例。最近、いわゆるアラフォーの女性から、難しいとは承知でいながら海外に行きたいというメールがよく来ます。30歳前後のギリホリ界隈でその種の話があるのは珍しくないですが、40歳界隈でってのは最近の傾向(偶然かもしれないけど)です。もちろんワーホリは取れないし、永住権だって年齢的な制限はあるしで、何かと難しいのは皆さん百も承知です。それでもやりたいと。
既にそのくらいの年齢で来られている人もいますし、こちらであれこれ体験していく中で、日々の暮らしにやり甲斐を見出し、健康に楽天的になれている人がいます。その実例を「例えば〜」でお伝えしたりしますが、それで「ああ、もうそういう人がいるんだ」って勇気なり希望なりを抱かれたりもします。
もちろん、それで全てが上手くいくってもんじゃないですよ。現実的に永住権やらの生計基盤が成り立つためには、まだまだ道はありますし、有形無形さまざまの偶然やスパイスも必要とされます。そんな、これさえやればOKさってものではない。しかし、それをやった方のナマの実感や体験というのは、これからやろうという人には、やっぱり大きいと思うのですね。最初はこう思ってた、なにもかもがクリアに見えないと恐いと思ってた、でも実際にやり始めてみたら、なんてことないことが楽しいし、充実感があるし、それを日々感じているうちに、別に全てがクリアに見えてなくてもいいじゃないかって気になってくる。実際にやることによって自信もつくし、自信がつけば「そのときはそのとき」って考え方も出来るようになるし。少なくとも「ああ、やるんじゃなかった、大失敗」とは思わないとか。でもって、具体的にはいくら位資金があると、こういうビザを取ってこういう生活はできるし、バイトはこの程度でやると、週にこのくらい入ってくるし、、、とか。
今の段階ではそれで何がどうなるってものではないですけど、その「先人の経験」というのは、やっぱり価値があると思います。だったら、、、と思うのですね。自分でやるだけやって、行けるところまでいって、ある程度満足できたら、そのレベルまでについては他人に言えるし、アドバイスも世話も出来るだろう。アラフォー専門の留学エージェントやら現地サポートのビジネスになるんじゃないかと。
誤解してほしくないのは、すぐさまビジネスに「なる」ってことが言いたいわけではないです。おっかなびっくり、でも自分が良いと思った方向に進み、頑張ってきたこと、それらの体験そのものが一つのビジネス資産になりうるという、その可能性を言いたいわけです。新しい時代の資本主義の(あるいは資本主義以外のなにかの)、「資本の原始的蓄積」になりうるのではないかと。
ここで「就職に有利」などの「人に使われてなんぼ」の発想だけでやってたらダメだと思います。その経験をキャリアにと思うか、単に「遊んでばっかり」と思うかは、とある企業のとある採用担当者の主観によって決まってしまうからですし、どっちかといえば旧体制の腰が残ってる企業にそれを評価させるのは難しいと思うからです。(不)特定個人に生殺与奪を握られてしまうというカタチでは宜しくないのではないか。逆に、不特定多数=広く世間全部を相手にするなら、100人が100人理解しなくてもいいわけです。100人に一人、あるいは1万人に一人くらいの理解者でも良い。その方が熱烈な理解者になってくれる。それでメシが食えたら、それでいいじゃんという。
それにこの先、マックジョブ的な時給仕事はそこそこあるだろうと思います。まだしばらくはある。オートメ化のコストの方が高くついてしまうという領域です(それも時間の問題かもしれないけど)。それが人生の全てだったらツライもんがあるかもしれないけど、自分で一つ本業というか、サムシングを抱えていたら、その種の時給仕事は当座の方便と割り切れるから気分的に楽でしょう。役者志望やミュージシャン志望がバイトに励んでいるのと同じことですから。それを夢と呼ぶか、ライフワークと呼ぶか何と呼ぶかはどーでもよくて、もっとも自分らしい最も嘘がない「なにか」がありさえすれば、人は結構やっていけると思います。
無限にあるバリエーション
別に海外に限った話ではないです。
福島在住の人が、やっぱり気になるから他県に引っ越したい、でもコネもツテもない異郷で何がどうなるのかさっぱり分からん、恐い、二の足を踏むってケースは多々あろうでしょう。既にそれを実践している人、沢山おられると思いますが、私の場合はこうだったということを教え、場合によってはあれこれ現地で教えて上げることは可能でしょうし、これも実際にNPOでやられています。
これもどんどんビジネス化して儲けたらいいと思います。その際に、上に述べたように、本来の趣旨は絶対に枉げず、犠牲にせず、必要なことを必要なだけサポートしたりする一連の過程、収益性でいえば非常に”無駄”の多い、人間臭い非効率な過程の「どっか」に収益部分があれば良いって発想です。例えば、他府県から移住相談やら生活やら再就職やらいろいろお世話するんだけど、その過程で賃貸マンションの斡旋をすると手数料収入が入ってくるという従来の不動産業みたいな感じでもいいわけでしょ。引っ越し屋さんから紹介料をもらうとかさ、そこが頭の使いどころじゃん。
あのー、これも一項別に書くべきだけど、妙な「アマチュアリズム」みたいなものはこの際徹底的に排除したほうがいいと思います。お金が絡むと「汚い」、無償でやってると「清い」というクソ幼稚な感性。僕の前職のボスが常々言ってましたけど、「いいこと」やってる奴こそ堂々と稼がねばならないと。主観的にも客観的にも人々の役にたつこと、イイコトをやればやるほど収入が増えるという流れにしなきゃいけない。そこを「いや、お金はいいんですよ」とか引いてはいけない。そこでカッコつけたり「清らか」になってはいけない。なぜなら、そうすると廻り回って結果的にイケナイコトをやってる奴だけが肥え太ることになるからだと。そこらへんがハシっこい、でもサービス内容はダメダメな妙な業者に全部持っていかれてしまうだけではなく、それで逆に被害者が増えたり、一連の活動そのものがイカガワシイものであるかようなイメージが出来たり、そのダメージは甚大ですから。
オーストラリアではボランティアが盛んですけど、お金もシビアです。稼ぐものはガンガン稼ぐよね。大体良いことしようと思ったら資金がいるのだ。だから資金稼ぎは生命線であり、ファンド・レイジングっていいますけど集金活動はとても大事なことです。ちなみに官公庁でもガンガン稼ぎます。郵便局でも商品仕入れてチラシ打つわ、SBSでもCM流すわ、市バスでも車体全面広告したりするし。日本のバスだって、外はともなく中には広告があるし、案内テープでは「○○医院はこちらでお降りが便利です」ってやってるじゃないか。税金増やすくらいだったら、頭使って稼ぐべしです。NHKだって受信料取るなら、CM流せばいいじゃん。政府のCMみたいなニュース流してるんだから、今更じゃん。
同じように、田舎暮らしをしたい、スキューバや釣りが好きだから、良さげな海の近くに住みたい。でも、そんなところに暮らして生計が成り立つのか?という人はいるでしょう。でもって、既にそれをやってる人がいたら、自分の場合はこうだったというノウハウを伝授することは可能なわけで、そこに何らかのビジネスの契機があるかもしれない。
はたまた、アート的な生活がしたいとか、アートの中でもイタリアのルネサンス期の作品に触れていたいとか、NYやロンドンあたりのコンテンポラリーアートが良いとか、趣味はそれぞれ。それで実際に生きていくというのは、一体何をどうすればいいの?という。
こんなの無限にバリエーションがあるわけで、それこそ人の数だけあるでしょう。そして、やりたいように生きて頑張っていって、ある程度のところまできたら、それがそっくりそのままキャリアになったり資産になったりするんじゃないのか?ってことですね。
「生き方」が商品になるというのは、そういう意味です。
お金が絡むんだけどお金では解決しない
あと大事なのは、何事かをやる場合に、当然にそれなりに費用はかかります。海外に行くにしても飛行機代はかかるし、学生ビザを取るにも授業料やらOSHC(留学生用の健康保険)がかかったり。
でも、本質はお金以外の部分にある。本質は「好きに生きる」ことであり、「好きに」という部分を純化すればするほど、一般ルートはどこにもなく、ジャングルを切り進むような道なき道をいくことになる。そこでは、その世界で生きていくための力が必要だし、その力は自分で滑った転んだしていく中で身につけていくしかない。そこは仕事と同じですよね。てか生きるってことの本質はそれでしょう。だから、「金は幾らでもあるぞ」的にお金を払って全部用意して貰っても、基本的な生きる力がなかったら、あんまり楽しくないと思います。
だって、全部他人にやってもらうんだったら、赤ん坊と同じで自立できないし、刑務所と同じで自由がない。「好きにやる」ことの本質は、それなりの実力あってのことです。バイクを駆って風になるのさ〜、好きにぶっ飛ばすのさ〜っていっても、最低限バイクに乗るだけの技術は必要です。他人の運転するバイクの荷台に乗ってるだけだったら面白くないよね。でもって荒野でバイクが壊れたとか、チェーンがはずれたとか、点火プラグがかぶったとか、そのへんの応急措置も出来れば出来るほど自由度は高まる。
ということでビジネスになるといっても、何もかもお世話してあげて〜ってパターンだと、やっぱり限界があると思います。本人が好きで頑張るのを、より効率よく学べるルートのアドバイスをしたり等、補助的なものになるだろうし、それでいいと思います。はい、じゃ、まず最初はこれからやってみよう〜みたいな、自然にステップアップできるような感じ。でもって、それって自分自身が好きでやってきた人でないと、そこは教えられないと思うのですよ。何が大事で、何がどうでもいいことで、どこに快感ポイントがあるか、達成感があるかは、本当に自分でやって知り尽くしてないとわからないと思います。
学んで学んで流派を作る
ちょっと話がそれるかもしれないんだけど、僕のカミさんは勉強家で、暇さえあればいろんなセミナーに出てます。キネシオリジーとかレイキとかやってるけど、他にも山ほど受講しているし、独特の嗅覚をもっていて、これは面白そうだ、これはイマイチだって判別して、アメリカにもイギリスにも受講に行ってます。最近も宿題に追われて青息吐息です。
いや、実際、彼女経由で知る世界というのは膨大で、日本で弁護士やったり、単に今の仕事してるだけだったら一生知らんかったろうな〜って世界です。もうちょっとした小宇宙くらいあって、限りなくオカルティックなことから、限りなく医学なもの、哲学なものもあります。彼女自身は、もともとが数学が一番得意というバリバリ理系頭脳で、日本にいる頃は大企業の社長直属のなんたらとかいう部局におって、当時の通産省の役人やら都銀やIBMの連中とプロジェクトチームを組んであれこれ実験的なマーケやっていたというビジネスマインドもバリバリです。そんな人間が、あれだけムキになって私財も時間も傾けて、泣きそうになりながら宿題やってるんだから、そりゃ相当楽しいんだろうな〜ってのは分かります。
でもって世界や日本各地で開催されるモロモロのセミナーなんかも、これが一回数万から数十万でいいお値段するんですよね。わずか数日とかそのくらいなんだけど。それでも受講者が沢山来ているという。おお、そういう世界もあったのね、という。
僕が知ってるだけでも、彼女にはもう膨大な蓄積があるわけで、それだけ色々やって自分のなかで一つの体系が出きているんだったら自分で流派を打ち立てればいいじゃんって思うのですね。でもってそれを言うと、「そんなに簡単にできない」って怒られたりするわけです。彼女の根が真面目なのか、僕が不真面目なのかわからんけど、でも世間では、海外でも日本国内でも、ある程度学んで自分なりに咀嚼したら、どんどん「○○メソッド」みたいな形で独立していく傾向があります。
で、何の話かというと、自分であれこれ好き勝手学んで、もう手当たり次第学んで、これで資格が〜とか、就職が〜とかケチ臭いこと言わんと、知的欲望の赴くまま学んでいってるうちに、自分のなかで何らかの体系が出来てくる思うのですよ。それを第三者にわかりやすく解説するだけで、セミナーが出来て、食っていけるんじゃないかと。や、別に絶対可能とか、簡単だとか言うつもりはないですよ。ただ「なにか」にはなるんじゃないかなと。それが世間に通用するか、支持してくれる人がいるかどうかは、それはあなたが決めることじゃないよ。消費者が決めることでしょ。
これってバンドやってた僕なんかには類似性があるような気がするのですよ。最初は他人の音楽を聴きますよね。これが好きとか、これはダメとか、これがサイコーとか、一人で喜んで聴いている。そのうち「病膏肓に入る」で、単にコンサートやカラオケだけでは飽きたらず、追っかけする人もいるし、自分でコピーしてバンドで演奏する人も出てくる。自分で演奏する場合は、憧れ〇〇のようになりきる。それらしいカッコ、それらしい決めのポーズ、しまいにはそのミュージシャンと同じ○○モデルなんていうギターを買ったりもする。アホっちゃアホなんだけど、でも楽しいんだわね。で、一時期、手当たりしだいに聴きまくったりもします。朝から晩まで音楽ばっか。そして頭のなかに膨大な蓄積が出来てきます。そしていよいよオリジナルを作曲しようという(身の程知らずな)試みに出ます。しかし、最初はオリジナルとかいいながら、ほとんど好きな曲のパクリだったりするわけですよ。「それっぽい感じ」「あれみたいな」とかエッセンスを盗もうとかいいながらも、まんまベタになってしまうという。でも、そのうち段々と自分なりの色が出てきて、これまで聴いてきた全てを前提にしつつ、そのどれでもないという本当のオリジナルが出てくるという。それと同じことなんだろうなって。
これは技芸に全てに共通することだと思います。芸人さんだって、漫画家だって誰でも同じだろうと。ファン→模倣→オリジナルという。学ぶことだって同じだろうと。
そして大事なことは、プロのミュージシャンだって、最初から「よし、これで生計を立てよう」と思って聴いたり、演ったりしているわけではないでしょう。そんなの最後の最後に出てくることで、最初は「好きだから」だけでやっている。その初期衝動が続く人と続かない人の差は「好き」の度合いだと思います。病が嵩じてのめりこんで、いよいよインディーズだ、メジャーデビューだってところで、いろいろとしんどい思いもするだろうし、また上手くいくとは限らない。てか数からいけば大体はダメですけど。でも、なんでそこまで成功歩合の低いことをやるの?といえば、好きだからでしょう。最後の生計部分は帳尻合わせというか、CD出して印税で〜って方式だけではなく、音楽教室開いたり、地道にインディーズやり続けたり、音楽関係の編集やら機材方面にいったり。そこはいろいろやりようもある。
でもデビューして成功しなかったら、それで人生しくじってるのか?といと、別にそんなことはないわけですよ。一時期、好きなことを必死にやれたというだけで、もう良い人生じゃんって思うのですね。本人はどう思うかわからんけど、僕はそう思いますよ。それだけ必死にやったことって、絶対何らかの形で財産になって残ってると思うし。
それにさー、ぶっちゃけ言えば、就活時にバンド諦めて真面目にカタギになってたら、今頃は億万長者になっているのか?って言えばなってないでしょうが。途中で諦めて再就職しようが、最初から就活しようが、正直いって大差ないんじゃないの?そりゃいろいろあるだろうけど、でも、長い目でみてどうなの?特に今みたいな時代は、最初から就活やって正社員になれましたっつっても、そこで鬱になったり、会社そのものが倒産したりってことは普通にあるでしょう。そりゃ20代から30歳前後では差があるかもしれないけど、40歳くらいになったらもう分からんよね。それまでに「色々」あるから、ほんとに。50歳界隈だったら尚更ですわ。
だったら好きなことやった奴の勝ちじゃん。勝ちとか負けとかいうのも変だけど。これまでは、なんとなくカッチリした成功のエスカレーターがあって、それがクリアに見える分だけ、「好きなことをやる」というのは一種の道楽で、極道で、ある意味では破滅への道みたいなニュアンスがあったりもしました。でも、これからの時代、そのエスカレーターが蜃気楼のように霞んでいる時代では、それが逆転しつつあるように思います。そういう「生き方」が一つのビジネスモデルになり、そういう経験が一つの「資本」になるんじゃないかな、少なくともその可能性は前よりも高まっているんじゃないかなってのが、今回言いたいことでした。ぐわ〜、長くなった。お疲れっ!
文責:田村