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今週の一枚(2014/05/26)





Essay 672:攻撃的健康

 より納得のいく健康破壊のために  
 写真は、Manly Wharf の薄暮。
 秋から冬はすぐに日が暮れてしまうのですが、その代わり夕空が綺麗ですよね。


健康とは

 ふと思いついたのですが、健康にも二種類あるんじゃないか?と。

 なんと表現すればいいのかわからないのですが、仮に(A)防衛的な健康と、(B)攻撃的な健康としておきます。

 Aは普段の日本語で語られている「健康」と同じ意味内容で、今あなたがなんとなく思ってる「健康」概念です。健康であること、そのこと自体に価値があるという。

 Bが違うのです。ちょっと、というか、かなり変わった健康観です。
 Bは、何のための健康か?という目的指向性が強い。もちろん健康であれば気持ちが良いわけで、健康自体の価値については否定はしません。ですが、それよりも「やりたいことをやるためには健康でないと困る」という前提条件整備みたいな要素が強いです。

 う〜ん、このくらいの説明では「同じことじゃん」って言われそうだな。もっと極端な言い方の方がわかりやすいか。「より納得いく健康破壊をするためには、最初に健康であってくれないと困る」という言い方にしましょうか。

 「今日も元気だ、タバコがうまい」というフレーズがあります。
 昔は普通に使っていたけど、今のご時世、「タバコ吸ってる時点で既に元気じゃないじゃん」とか突っ込みどころ満載でしょう。僕は若い頃からスモーカーですから、このフレーズの意味は生理的によくわかるし、つまらないツッコミは入れません。だって実際そうですもん。健康でないとタバコっておいしくないです。風邪引いたり、ストレスで煮詰まってる時に吸うよりは、一仕事を終えて「ふう〜」という達成感とともにやる一服が一番おいしい。喫煙による健康破壊は行われるのでしょうけど、コレで死ぬなら死に方としては一番文句はないよ、妙なストレスや放射能で体調壊すくらいだったらタバコで壊したほうがマシというか、つまりは「納得のいく健康破壊」です。しかし、それをするためには、まず健康であらねばならないという。

 これも前回(非合理的なことをやりたいからこそ、合理的に努力する)のと同じパラドキシカルな言い方なのですが、気持ち良い健康破壊をするために健康になる、ということですね。この種の一群の論理を、僕はひそかに「ドミノ理論」(世間で言われている国際政治系のものとは別)と呼んでます。「ドミノは倒すために並べる」という「壊すために作る」系です。「行って帰ってくる」系というか、その帰り道が爽快で楽しい。豪快にスキーで駆け下るためには、まず頑張って丘を登らないといけない。お金も同じ、なんでも同じ。金は使うために稼ぐのだ。反AのためにAをする。

生きること=健康破壊行為

 ここには、生きること=健康破壊行為という、もの凄い前提があります。

 なんで?って思われるでしょうが、だってそうじゃん。
 何をどうやっても最後の最後には死ぬわけです。健康破壊が生命維持レベルを超えてしまってドボンになる。日本人の死因の一位はガンとか心疾患とかいいますが、マジョリティはいわゆる老衰であり、時間が経てば経つほど身体のあちこちがぶっ壊れてきて、「もうあきまへんわ」になる。ではなんで老衰になるのかといえば、細胞の再生時においてDNAのコピーミスが重なっていくからでしょう。こうしている間にも毎秒もの凄い数の新陳代謝が行われ、確実に少しづつミスが発生し、積み上がっていく。

 奇妙な言い方なのですが、なんで死ぬの?といえば、「生きてるから」です。生きるためには新陳代謝で細胞再生をしないとならない、しかし再生作業には遺伝子転写異常がどうしても生じ、時間が経てば経つほど(長く生きれば生きるほど)、ダメダメ細胞の数が増えていき、あちこち機能不全が生じ、最後には全体にちゃんと動かなくなるという。これは人体に限らず、パソコンだろうが、車だろうが、「寿命」というのはそういうものでしょう。「経年性劣化」と呼ばれるものですね。最大の敵は「時間」であり、こればかりはどう足掻いても勝てない。勝てるんだったら不老不死になって、誰でも100万歳や1億歳まで生きてしまう。

 この劣化を出来るだけ遅延させるために「健康」という概念がでてきて、できるだけ「大切に使いましょう」という話になるのでしょう。

健康と幸福の微妙な関係

 しかし、単に長いことを生きれば良い、劣化を遅延させれば良いというだけ、それが唯一絶対の目的だったら、既に実用化されているらしいコールドスリープ(冷凍睡眠)になって、半永久的に氷漬けになってれば良いわけです。それか、生まれた瞬間から生命維持に最適なカプセルみたいな中に入って死ぬまでうつらうつらと眠っていれば、とりあえず時間だけは稼げます。それでいいのか?というと、よくない。やりたいですか?と言われたらイヤですよね。そんなの事実上死んでいるのと同じだし、余程の事情(現在の医学では治療不可の難病)でもないと、やらないですわね。

 ということは劣化遅延(長生き)することが最終目的ではないということです。時間以外の目的は、これは個々人の自由ですが、まあ、例えば生きてハッピーになることとしましょう。沢山ハッピーになりたいから、沢山時間が欲しい、だから長生きしたいと思う。生きてても楽しくないし、この先も改善の見込みがゼロであると確信したら、人は自殺を考えるのでしょう。

 しかし、ハッピーなこと、楽しいことというのは、常にそうだと決めつけはしませんが、往々にして健康に逆行するようなことが多いです。例えば、規則正しい生活とか食べ物には気を使い節制してとか、それはそうなんだけど、健康に益する行為というのは概してツマラナイ物事が多い。成人病予防やダイエット的には、目の前に超絶的に美味しいケーキがあろうが、一口食べたらそこは極楽浄土という美味であろうが「あきらめろ」です。完全に栄養に配慮した、要するに病院食みたいなものを朝の6時と夕方6時に食べて、10時にはもう就寝しなさいと。夜ふかしなんかしたら死刑。ましてや夜中にネットとかやって興奮したりしたら、視神経もやられるし、交換・副交換神経系のバランスが壊れるから、市中引き回しのうえ磔獄門。このような刑務所のような生活をしてたら健康にはなれます。しかし、それが楽しいか?という別問題です。

 つまり、健康とハッピーとは時として矛盾する。常にとは言わないが、する場合が多い。

 ああ、健康に悪いことってなんて気持ちがいいんだろう、なんて楽しいんだろう(^^)。
 実際、「健康的な生活」と「禁欲的な生活」って結構ニアリーでしょう?全く重なりはしないけど、70%くらいはエリアが重複しているような気がするぞ。逆に「欲望の赴くままに」ということをやっていると、成人病やらなんやら健康によろしくなさそうなイメージがあります。

"それなりの理由"がないと

 いや、もちろん、健康であり且つ楽しいというライフスタイルはあります。
 嘘だと思うなら、オーストラリアで(てか世界中に、日本にもあるが)、ホストと波長の合うWOOFFにいって自然に囲まれて、晴耕雨読のシンプルな生活をしたらいいです。あるいはちょっと厳しいファシリティ(施設)、例えば禅寺に住み込みで修行するとか、どっかの瞑想院にこもるとかして、昼間は作務で汗を流していたら、健康=幸福という、それこそ絶対矛盾の合一のような、まるで梵我一如みたいな境地になるでしょう。それは否定しません。おお、なんと素晴らしい。

 ほんでもそれを腹くくってやるためには、それ相応のモチベーションが要ります。WOOFFや禅寺修行も、「〜体験」というテンポラリーなものだからやれるのであって、それが一生を通じてのライフスタイルになるのだとなったら話は別でしょう。その道に踏み切るには、かなり「なにか」ないと難しいでしょうね。その昔の「出家」みたいなもので、やったら最後、もうネットもできません、友達と飲みにいって馬鹿騒ぎも、少なくとも健康を害するような深酒は無理。どんちゃん騒ぎも、暴飲暴食系は全部ダメ。「爛(ただ)れた性生活」なんてのはもっと無理。爛れてなくても基本ダメ。タバコも博打もダメ。食べ歩きも、ウインドーショッピングもダメ。ひたすら早く寝て早く起きて、梅干し&味噌汁&おかゆの日々。焼き肉とビールなんて夢のまた夢。「1Q86」に出てくるどっかの新興宗教の集団生活みたいな話ですよね。そこまで禁欲的であって、それが楽しいか?と。

 それを敢えてやるには、それなりの理由(条件)が必要です。早い話が、禁欲による不快を凌駕するだけの「快」がそこになければならない。これは色々なパターンが考えられますが、例えば「やり尽くした」「飽きた」パターン。酒も女も博打もドラッグも、もう散々やりました。あの手この手で財をなし、贅沢三昧やりました。心ゆくまでやったんだけど、そこまでいったからこそ「なんか違うんだよなあ」という根本的な部分に欠落感が芽生え、でもって自然と同化するような禁欲的な生活をしてみたら「これだよ、これ!」とドンピシャとハマったという。その昔の出家ってこのパターンが多い。やるだけやって「虚しい」と思うという。

 そこまで贅沢してないけど、都会生活や社会生活で、精も根も尽き果てた、もう上っ面だけ他人に合わせて、朝から晩まで嘘ばっかついてる生活が嫌だ、なによりもそういう自分が嫌だ、大嘘ぶっこきながら美味しいものを食べても美味くもなんともねーよという、精神的な部分に大きな欠落と渇望を感じ、それを満たすというパターンもあるでしょう。新興宗教のコミューンなどは、この種の精神的充足感がなによりも上位にくるから成立するのでしょう。

 あるいは「肉体改造」系のフェチ快楽もあるでしょう。自然食にして、規則正しく生活すると、こんなにウェストが細くなりました、だるさや慢性疲労もおさらばです、快食快眠快便です、ああ楽しい、気持ちいいわ〜という「これだけインプルーブ(改善)されました」という「落差的快楽」です。そうなってる状態の快感もさることながら、そこまで自力でもっていけたという部分に自己実現的快楽があるという。これがゲームとして面白い。肉体改造フェチであり、これはステロイド飲んで筋肉増強して鏡の前でポーズ取ってるのと同じとも言えます。あ、別にそれが悪いとか行ってるわけじゃないですよ。その楽しさはよく分かるし、よいご趣味ですと申し上げたい。

 同じようなゲーム派では、多くのWOOFFなんかもそうだと思うけど、起業的快感というのがあると思います。しこしこ自分らだけで有機栽培やって、それで人生成り立たせるのは大変です。そんなに簡単に収穫できないし、天候に左右され、害虫にボロボロにされ、じっと手を見る日々もあるでしょう。やっと収穫に成功しても、自給自足しうるだけ満遍なく作るのは無理だから、売らないとならない。でも、どこへ?どうやって?ということで、流通経路やら販路の開拓、WEBを利用した広報戦略、PayPalとの支払い契約に頭を悩ます。さらには余暇時間と設備をつかって自然体験ペンション経営をやってみたり。これらは難しいゲームを制覇するようなもので、そんな夢見る夢子ちゃんのメルヘン物語でやってるわけではない。NPOでもなんでもそうだけど、一般にメルヘン的なことをやろうと思えばバリバリの商社レベルのビジネスマインドが必要でしょう。でも、それを立ち上げ、軌道に乗せるところに独立起業の醍醐味がある。自家製ジャムを販売したり、より単価の高いアロマのエッセンシャルオイルを抽出精製したり、あるいは週の半分は都会に住んで不動産ビジネスでしっかり稼ぎ、半分は田舎の農場で過ごすような生活にしたり、そこはさまざまです。いわゆるオーガニックビジネスなんですけど、それが面白い。その難しさが燃えるという。

 はたまた、そういう「生きざま」をすること、先生ぶん殴って退学になるような、資本主義に中指突き出して、弾き出される面白さがあります。電気は自家発電、水は自分でダムを作り、蒸留システムを作るところから原始的な生活を敢えてやるという、ライフスタイルがそのまま自分の「作品」になるようなことをする楽しさもあるでしょう。

 こうしてみると、単純に「健康だから」やっているというだけではないみたいですよね。健康な筈の有機農場で、でもビジネス的に成功するために、WEBデザイン作業を徹夜して頑張ってやっているという。頑張りすぎて身体を壊したり、目を悪くしたり。「健康だから」「健康になる」だけでは、人は動かないし、物事は進まないのかもしれません。それにプラスアルファがないと。そして、現場においてはそのプラスアルファがこそが大事であったりもする。

健康破壊の選択肢

面白いことの健康破壊

 より積極的に健康破壊をする場合もあります。いや、べつに健康破壊をするのが目的なのではないのですが、やってることはほとんど破壊行為ではないかと。とりあえず格闘技なんかそうです。ボクシングだろうが空手だろうが、殴られたら痛いわけだし、ヘタすれば、ってヘタしなくても、捻挫や打ち身は当たり前、普通に肋骨とかへし折れるし、歯がぶっとぶし、殴りすぎたら手拳が複雑骨折したり、やり過ぎたら網膜剥離になったり、しまいにはパンチドランカーになって一生廃人です。なにが健康破壊って、これくらいわかりやすく「破壊」しているものはないでしょう。

 でも、やる。なんで?といえば、もう「面白いから」でしょう。スポーツというのは健康に良いと言われてますが、それは日頃運動不足の人が適度な運動をする場合の話であって、プロアマを問わず、のめり込めばのめりこむ程健康にヤバいことが生じます。柔道やラグビーはやればやるほど出っ尻鳩胸になるし、まあ健康といえば健康なんだけど、とりあえずはカッコ悪くなる、スマートと言われる体型ではなくなる。寝技もやり過ぎると耳が潰れるしね。

 しかし、そんなのは序の口で、ちょっと間違えたら死ぬって競技も多いです。何度も引き合いにだしている登山もそうだし、レース系もそう。自動車系やセスナ操縦、ヨットなどの海洋系は、ミス、事故、遭難するケースが後を絶たない。当然、そうならないように万全をつくするのだけど、本当に「万全」を尽くすなら最初からやらないに越したことはないです。でもやる。面白いからです。

普通に生きてるだけで健康破壊

 別にスポーツや競技に限らず、端的に普通に働くこと自体が健康破壊と言えなくもない。

 徹夜徹夜で残業しまくってる場合は典型的ですが、バブルの頃「24時間戦えますか?」なんてお気楽なことを言ってたわけですが、24時間も戦ってたらダメでしょう。ましてや滋養強壮・疲労回復なんか、ドリンク飲んで済ませてたらダメでしょう。そこまで極端ではなくても、睡眠不足のまま朝に無理やり起きる時点でダメだし(多少の無理矢理は節度ある生活のために必要ですが)、ストッキングやらハイヒールはいたり、ネクタイ締めて、満員電車にじっと我慢で揺られているのが健康に良いか?と言われたら悪いでしょう。朝から晩まで座ったままモニター眺めたら、これはテキメンに腰にきます。下げたくもない頭を一つさげる度にストレスはたまるし、それが積もり積もれば精神のみならず肉体健康も蝕むでしょう。工場やアミューズメント系は、どっちもバイト経験があるからわかるけど、その騒音に一日中浸ってたら気が狂いそうになります。まあ、慣れるんだけど、慣れたら良いのか?それで問題解決なのか?といわれたら疑問符がつく。

 言うならば、現代社会の生活というのは、もう普通に生きてるだけで、がっしがっしと健康破壊をしていると言えなくもないわけです。これは先ほど述べた、時間の経過による老化という健康破壊とははっきりと違うレベルのものです。経年性の健康劣化は、これはもうどうしようもないことです。DNAの複写の際のテロメアやらいう物質がすり減っていくんだから、頑張ってどうなるものでもない。でも、無理な労働、肉体や精神への過負荷による健康劣化は、敢えてわざわざやってるわけで、話のレベルが全然違う。

 ではなんでそこまでやるのか?といえば、労働に関して言えば、「面白いから」という理由以上に、「生活のために仕方ないから」「他に選択肢がないから」という理由が多いでしょうね。

だからこその選択と納得

 こうしてみると、右に行こうが左に行こうが、どこにもいかないでじっとしていようが、何らかの形で健康破壊は着々と進行しているってことですよね。最終目的地が究極の健康破壊=死であり、そこに向かって刻一刻と進んでいるという大前提からすれば当然の話であり、これはどうしようもない。

 だからこそ、どういう理由と目的で健康破壊をするのか?っていう納得と選択が大事だと思うのですよ。

 Aをやって健康を破壊するのと、Bで破壊するのとでは、Aは許せるけどBは許せないというのが、誰にでもあると思います。ダイエットでも、美味しいものを食べて太るのはまだ納得いくけど、クソ不味いものを食べて太るのは納得がいかない。大好きな恋人を寒空の街角で待っていて風邪をひくのはまだ許せるけど、好きでもない奴を待ってて風邪を引くのは納得出来ない。

 健康というのは状態概念ではなく、消費概念なのでしょう。とある特定の状態がパーマネントに固定するのではない。時間(寿命)も健康も限られている。こうしている間にも減っていく。基本、増えるということはありえず、ひたすら減るだけ。

 イメージとしては、あなたはゲリラで一人でジャングルを彷徨っている、手にしているのはAK-47でもなんでもいいけど、銃火器です。当然残弾には制限がある。下らないことに弾を使ってしまうと、肝心なときに弾切れになってすごーく切ない思いをする。だから、弾丸の管理には慎重にならざるを得ない。この弾丸=健康です。

 その減らし方を最小限に済ませようというのが健康管理や健康増進なのでしょう。この種の「いかに減らさないで済ませるか」論は、世の健康論にいくらでも氾濫しています。

 しかし、そうやってセーブした虎の子の健康を、ではどこで消費・破壊するのかという議論は少ない気がします。健康が「限られた資源論」だとするならば、いかに節約するかも大事なことけど、限られた資源をどこに重点的に配分するかという分配論も同じくらい大事なのではないか、ってのが今回のお題です。

 えてして「○○は健康に悪い」という「有罪宣告」が出たら、あとは情状とか量刑みたいな話で、「即刻やめろ」とか、あるいは必要悪みたいに「ほどほどにね」「控えめに」とかいう方針がサジェストされて話が終わってしまう。なんか物足りないのです。それだけかい?と。そこにはメリハリってもんがないじゃないか。重点配分しなきゃ。たとえ健康に悪かろうがなんだろうが、本人が納得してたらやりゃあいいじゃないか。そんな防衛だの節約だのやってるだけじゃなくて、攻めるときは攻めなきゃ。弾丸が惜しいのはわかるけど、行くときは行くべきでしょうと。

健康の家計簿

 その予算の重点配分を考えるためには、トータルマネジメントみたいな巨視的な視点が必要なんじゃないかとも思います。健康食品を山ほど買い込んで、ランチタイムにはせっせとジョギングして、そのためのギアも揃えまくって、快眠用のギアも調度も頑張って揃えて、、、そのご努力は大変なもので、素直に頭が下がります。

 でもね、とつい思ってしまうのです。それを頑張ってやるよりも、今の仕事を辞める方がもっと効果的なんじゃ、、、とか。

 健康の貸借対照表やら家計簿みたいなものがあると面白いですよね。まあ現実的ではないけど、この無駄な通勤苦痛で健康度が20点ロス、でも小学校時代の親友にばったりあって喫茶店で大盛り上がりの2時間を過ごしたので精神健康度30点獲得、上司Aが大嫌いで顔を見るだけで3点ロスで今日は16回も見てしまったので合計48点もロス、、、とかなんとか。

 そうしてダーッと並べて、「どこに無駄な支出があるか」ですよね。

 これは経済的にも換算できる部分もあるでしょう。例えば家賃1万上積みして環境の良い、部屋は狭くてちょっと駅から離れるけど、公園の向かいのような眺望の開けたところに住んだほうが、この陽も射さない薄暗くて、夜帰ってくるときも治安ドキドキしなきゃいけないところに住んで疲労が取れず、毎月1万5000円も健康食品を買ってるよりも、トータルでは得かも?とか。

 こういうリストラ・マネジメントのコツは、いかに大きな部分を動かすかだと思います。小さな部分は、分かりやすいし幾らでも改善点が思いつく。だからそればっかやりがちです。でも、それをやり始めると、やれトイレットペーパーの長さは一回20センチまでとか、コピーは〇〇だけとか、いじこい話になりがちで気が滅入る。その割には思ったほどの節約効果がない。

 僕がオーストラリアに来たのも、別に健康がどうとか考えたわけではないですが、、、、あ、でもガンマGTPがどうしたとか、ストレス性で十二指腸がどうとか言われてたし、このままいったらこりゃ死ぬなとは思ったけど、まあその程度でメインではないです。もっと漠然と人生的にリストラ・マネジメントをしたいな〜と思ったのですけど、直感的に、これは細かいところをイジイジいじってもダメだなとは思いました。もっと大きな部分をドカン!と変えないと。ドカン!でなければ意味ないなと。

 で、やってみたら分かったのですが、大きなところを変えるのは、そりゃ大変は大変ですけど、思ったほど大変ではなかった。「あれ、出来ちゃった」みたいな。「なんだ、それだけのことか」という感じがあります。そして、大きなところを変えると、小さなところは付随的に全部自動的に変わるので、結果的な手間暇でいえば遥かにお得で、楽なんですね〜。仕事でも、最近バテ気味だから今度の件は〇〇君に振っちゃおうかなとか、新人の○君が扱いづらいスネ夫君だけど今度ガツンと言うべきかとか、住まいについても、このカーテンもそろそろ変えなきゃとか、本が増えて本棚におさまりきれないとか、生きてりゃその種の「案件」は常に数十くらいあって、日々そのやりくりに四苦八苦しています。しかし、大きな根本が変わると細かい部分は嘘みたいに全部消滅。そりゃそうですよ。職場の悩みは辞めたら消えちゃうし、住まいのあれこれも引っ越してしまえば消滅ですもんね。うわあ、こりゃあ面白いわってなくらい。

健康であるべき理由

 このエッセイでもときどき「お達者ネタ」をやります。直近では気圧と偏頭痛がどうのとか。でも、健康のための健康というよりは、わりとハッキリした目的があります。

白内障

 今、コンタクトレンズを再発注しているのですが、オーストラリアの場合、オプトメトリスト(Optometorist)、日本語では検眼士と訳されているようですが、その人のチェックを受けます。てか、もっぱらその人とだけ話をします。医師でもあるけど販売員でもあるという。

 そこでは単なる視力検査だけではなく、特殊な器具で目の状態をチェックし、視界が黄色くなったり、ハレーション起こしたりする薬を入れてさらに検査され、眼球それ自体の写真も撮りました(永住権者のメディケアだったらバルクビリングで全部カバーだけど、これはオプションで35ドルだった)。でもって、新しいコンタクトでも、3種類着用し、2種類に絞り、さらにそれを5セット送ってもらい、日々着用することでどちらが良いのかを選ぶ。さらに着用状態のまま、もう一回検眼チェックを受け、近いところが見えるように微修正を施し、、って、かなり念入りにやります。過去の記録も全部カルテに揃っているし。

 なんでそこまでやるのか?というと、僕の場合は理由があって、強度の近視なので将来的に(てか、もうそんな先の話ではない)白内障だったかになって失明するリスクが高い。要するに、老化とともに失明するかもって恐怖の話です。やっぱ見えないのは悲しいですしね〜。それに、オーストラリアは紫外線が強く、皮膚がんがよく言われるけど、白内障の原因になりうる。医学的に詳しい話は知らないけど、まあそういう話があり、オーストラリアの紫外線はハンパじゃないし、また自分自身のリスクも高い。だったら気をつけなきゃです。コンタクトは面倒臭いし偏頭痛の原因になりがちなので、実際にはメガネが多いのですが、それでも定期的にチェックを受けるのはそういう意味です。

 いくら矯正してももともと弱視に近いくらいの近視なので、多分他の人よりも全然見えてないのだろうけど、それでも僕にとっては「限られた資源」であり、それは気を使う。同時に、まだ見えるうちに見ておこうという意識も結構あります。それも、珍しい景観をみるとかじゃなくて、庭の緑にせよ夕焼け空にせよ、街角にせよ、見落としがないようにしようという意識になってます。本当は感動モンのすげーものがあるのに、ここに素晴らしい”美”があるじゃないかってことでも、自分がアホだから見落としているってことを少なくしようと。

 資源というのは節約するだけでは片手落ちで、有効”活用”しなきゃ意味が無いですから。見れるうちはちゃんと見なきゃって。あと、そういえば、ネットやる時間もだんだん減ってきてますね。見てる分だけ視神経酷使してるわけで、「目を壊してまで見るほどのものか?」というフィルターがだんだん効いてきているというか。

死ぬ当日まで稼ぐため

 もう一つは、こっちがメインかもしれないけど、その昔書いた「老後なんかねーよ」ということです。若いときにせっせと貯めて、その預貯金で悠々自適の老後なんか自分の世代ではないと思ってますし、「もしかしたら」とか思うよりも、「ねーよ」と決めつけた方が戦略立てやすい。それであったら儲けものってくらいね。

 じゃあどうするの?といえば、死ぬ当日まで働け、です。働けるようにしておきたい。なんつっても「稼ぐに追いつく貧乏なし」ですからね。これは別項で書きたいのですが、貯めるのってメチャ難しいです。特に昨今の日本を含めて世界の経済環境では難しい。また貯めたものをキープするのも難しい。それに比べたら稼ぐのはまだしも簡単。そんなに「簡単」ではないかもしれないが、しかし、工夫の余地や自由度は高い。

 でも、それをするにも身体があかんようになったらお手上げですからね。

 ああ、その意味では、それこそ老婆心になるのですけど、若い人の場合、特にワーホリ年齢のように20代から30代にかけての人の場合、30歳過ぎたら気をつけろとは言いたいです。どうも見ていると、30歳過ぎてからどんどん個人差がついてくるような気がするのですよ。70歳になってもトライアスロンに出ている人もいれば、40歳くらいでもう廃人のように老けこんでしまう人もいて、そりゃもう見ていて背筋が凍るくらい差がついてくる。だから30歳すぎたら気をつけろと。ま、その年令に格段に深い意味はないんですけど、過去の自分に説教することを考えると、20代だったら言われても聞かないだろうな〜と(^^)。30過ぎてからでしょ、「やべえ」って真剣になりはじめるのは。

 まあ漠然と「気をつけろ」とかいっても無意味だから、わかりやすい基準をあげておくと、50歳になった自分が、ハタチの自分とタイマン張って、勝てとは言わないまでも、いい勝負をしろ、できるようになっておけということです。筋力とか精神力とか、そこらへんの対外戦闘能力に関していば、50くらいではそんなに劣化しないでから。もしかしたら今だったら70歳くらいでもそこそこいくかもしれない。あと、18歳のときに合格した大学に50歳で受けても合格できるようにしておけ、ですね。てか、過去に合格した試験については全部合格できるようにしておけ、です。その種の劣化は一切許すな、「年だから」という言い訳を一切許すな、50になっても駅の階段を二段飛ばして駆け上がれ、です。だってさ〜、死ぬ瞬間まで現役パリパリでいなきゃいけないんだよ?その意味わかりますか。野生動物と同じで、衰えたら食い殺されるんだわ。くだらない劣化なんぞ許している余裕はないよ。

 これも別項で述べるべきなんでしょうけど、頭が良いとか悪いとかいうけど、あんなもん「気合」一つだと思ってます。気合入れて脳味噌を全開にブン廻してしてる人と、気合入ってない人がいるだけだと。記憶力とか大脳生理学とか、あれこれ読み散らかした上での僕の結論は、細かなコツとかテクニックとか色々ありーのですけど、でも本質的には「要するに気合だよ」というもの凄い要約をしています。いや、ほんと、気を緩めたら最後、ズルズルと土俵を割りまっせ。人間の本質は怠け者だから、やらなくてもいいと無意識ででも思ったら、ちらとでも思ったら最後、あっという間に忘れまっせ。一つ前の携帯の番号なんかすぐ忘れる。日本に帰った途端に英語力が激減する。認知症でも、重責から解放されてリタイアしたとか、施設に入ってから、つまり「気の張ってる状態」が崩れたら、一気に進行するとか言いますもんね。気合ですよ、気合。分かりやすいじゃん。

 あと、思うのは、劣化するとしてもその順番と選別ですね。例えば今の仕事であったら、何と何があったら出来るか?寝たきりで失明してても出来るか?と考えていくと、最終的には頭さえマトモに働いていたら出来ると思ってます。人を使わないとならないけど、それでも核心部分は、ノウハウや発想の伝授という知的部分にあるので、頭がいかれちゃったらもうどうしようもないけど、それ以外だったらフォローは効く。同じように、このくらいダメになっても、これは出来る、なにが出来るって常日頃考えおくのは良いことかと思います。

快楽をむさぼるため

 それと、健康である意味ですけど、やっぱ美味しいもの食べたいですから。でもね〜、胃が悪いとか、歯が悪いとかするとせっかくの美味しさが半減でしょう?生きてる意味も半減だよね。って、お前は美味いものが食えたらそれで人生OKなのか?って言われそうだけど、そうですよ、それが何か?です。

 でもね、美味いものを美味いと思って食うのって大事であると同時に難しいんですよ。味なんか誰と食べるかによって違うし、そのときの気分によっても違う。ストレスでぺちゃんこになってるときは何を食っても味がしないし、鬱陶しい席で食っても美味く感じない。だから、「美味しく感じる」というのは、一種の結果であり、合格発表みたいなもので、諸条件そろってないとそうならないんです。だから大事だし、食ってるものが美味しかったらそれで人生OKさといっても良いと思います。

 他にも、楽しいと思えるためには、最低限の健康条件はいるわけです。耳が聞こえなくなったら音楽楽しめないしさ。足腰がダメダメになったら、あちこち歩いて面白いものに触れる機会もガタ減りするし。

 以上の次第で、一口に健康といっても目的指向性が強い健康概念がふと頭をよぎったのでした。

 なんのために健康になりたいのか?であり、単に健康状態を維持するだけではなく、それを積極的に有効活用しないと勿体無いってことです。また健康は消費だから、健康に悪かろうがなんだろうが、納得さえいけばガンガンやればいい。そこはトータルマネジメントでしょう?と。





 
文責:田村



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