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今週の一枚(2013/10/07)


写真をクリックすると大画面になります



Essay 639:リアルタイムに作れる「写真でみる戦後史」

〜「昭和の香り」色濃く漂う、じゃあ「平成の香り」って何なの?
 〜2013年帰省記(9)
 写真は京都駅裏手の細い路地と一杯飲み屋さんの赤提灯。
 日本に帰省するとき、京都駅を降りてからこの道をとぼとぼ歩くのですが、「ああ、帰ってきた」って感じがしますね。


 ”帰省シリーズ”9回目。
 「まだやってる」帰省シリーズですが、今週は安心してつかあさい。いつもの鬱陶しい小理屈よりも、写真を中心にしたライトタッチでいきますけん。

別に変わらなくてもいいこと

 今週のお題は ↓ です。ちょっと前にも少しだけ触れましたが。
 
 ★ところで昔ながらの日本は濃厚に存在する。せっせと炎天下の下を路地裏歩きまわっては、「あるある」とか思ってた。70%くらいは三丁目の夕陽のまんまではなかろか。

 何が言いたいかというと、「そんなに言うほど日本って変わってないよ」「別に変わんなくてもいいと思うよ」ってことです。

 日本を出てからはや20年近く(正確には19年と半年)、数年に一度くらいの割合で帰るたびに思うのは、「変ってないな」ということです。それらは社会システムとか新陳代謝のトロさなどの局面に強く感じます。

 ただし、この「変わらないな」感は、30歳以下の人にはピンとこないと思います。40歳以下でもどうかな、微妙かな?

 社会の進展の「早さ」というのは相対的な速度感覚ですから、それ以前の時代の変化を比較の対象として持っているかいないかによって感じ方は違うでしょう。例えば、僕が5歳だった頃(1965年、昭和40年)の大卒初任給は2万4千円。それがわずか10年後の75年(昭和50年)には9万1272円に、20年後の85年には14.5万円になってます。わずか20年間で給料6倍(!)です。この時期に幼稚園から大学まで過ごした僕にとって、これが比較のものさし=「このくらい時間が過ぎるとこのくらい世の中が変わる」になり、それに比べたら、直近20年の日本は「時が止まってる」くらいに感じる。実際、直近20年(1993年〜2013年)の初任給推移は20万円前後でほとんど変化なしですから。

 僕もあのまま日本に居続けたら、長い時間をかけて減速感覚に慣れて、「ま、こんなもんでしょ」って思うのかもしれないけど、幸か不幸か20年前に日本を出てシドニーに行き、そこではかつての日本ほどではないにしても、そこそこのテンポで世の中が変わっているから、主観感覚はあんまり減速していない。20年間前に来たときは、あまりの賃金の安さに馬鹿馬鹿しくて働く気が起きなかった、てか考えることすらしなかったくらいですが、今ではこっちの方が日本の2倍稼げる。シドニーでは毎週1000人人口が増えているとか読んだことがありますが、実際そのくらいの生活感覚があります。直近1−2年だったら中国系よりもインド系が激増しているし、ベビーブームでやたら子供が多いし。


 この「変わらないな」感覚は、街角の風景などにも感じます。
 日本におられる方々からは、大阪駅北がすごい変わったとか、ここがどう、あそこがこうって教えていただけるんだけど、申し訳ないけど僕にはあんまり「変わった」という気がしないのです。新しい建造物が出現して「おお、世の中が変わるぞ!」というくらいのインパクトがないからです。多くの東京市民がバラックに毛が生えたような文化住宅に住み、1DKの「うさぎ小屋」に一家5人が寿司詰めになり、便所は汲み取り式がまだまだ多くてバキュームカーが普通に走ってた時代に、ドーンと東京タワーが建ちました、霞ヶ関ビル36階が建ちましたという「おお!」という感動はない。飛距離が短い。駅前に新しいコンビニが開店しましたってのよりはインパクトがあるけど、「ふーん」というくらい。同じくらいのインパクトを求めるなら、そうですね、大阪駅の下に地下30階の巨大なジオフロント都市が出現した、くらいだったら「おお!」です。

 で、ここが大事なんだけど、街角の風景に関して言えば「変わらないから問題だ」とは全然思わないことです。むしろ変わってほしくない。誰だって「ふるさと」は変わってほしくないでしょう?

 だもんで、日本に帰ると、普通の人とは視点が違っていて、変わったところよりも、変わってないところに目がいくのですね。それはあなたが20年ぶりに自分の出た小学校を訪問したときに、「変わってねえなあ」って思えるとうれしくて、「変わっちゃったな」と思うとなんか淋しいのと同じことだと思います。

 そんな目で日本の街角を見てると、うれしくなるくらい変わってないです。
 今回はそんな写真を。

昭和の香り

 掲げてある写真は、わざわざ古ぼけて見えるようにレタッチしてあります。クリックするとレタッチ前の元の画像(つまりリアルタイムの普通の画像)が見えます。

 これは「錯覚効果」を検証したいという意味もあります。
 昔の写真を見ると、いかにも「昔〜!」って感じがしますが、それって被写体のデテールそのものが「昔」なのか、単に撮影技術や写真の劣化によって「昔っぽく」見えているだけなのか、です。昔の写真だって、現代レベルの高画質にリメイクすれば、実はそんなに変わらないってこともあるんじゃないかってことですね。

昭和の香り、てか大正の香り




 さて、いきなり横綱級を出します。

 これはもう、「昭和の香り」なんてもんじゃなくて、「大正の香り」ですよね。なんか、歴史の教科書の「米騒動」あたりのページに掲載されている写真のような佇まいです。でも撮影時期は2013年8月です。

 撮影場所は、さすがは京都、京都市中京区の町中です。

 次の畳屋さんも同じエリアで撮影しました。

 海外にいて懐かしいのは畳です。あの素足にひんやりする青畳の感触は、日本独特の快感でしょう。

 でも畳というのはメンテが必要です。年に最低一回くらいは大掃除の日に畳を全部あげて、庭で天日で干して、布団叩きでパンパンやるという。中身が純粋にオーガニックな植物繊維だけに、これをしないと害虫の巣になったりするのでしょう。そして、適宜、畳屋さんに頼んで、畳表(たたみおもて)をひっくり返してもらう。

 今どきここまでやってる日本の世帯はどれだけあるのでしょうかねえ。
 畳のサイズには東西の差があるのですが(京間、江戸間)、これに「団地サイズ」というしょぼいのが参入した頃が、日本らしさのターニングポイントだったのかもしれません。

 京都は古い家屋が沢山あります。空襲がなかったし。また、古い家屋だから丁寧に作られていてなかなか朽廃しない。バブルの頃の地上げ騒動の際に、それはいろいろな家をみて感じ入りました。根田や梁が良い木材を使ってしっかり作られている。そういえば当時でも借地権料月1200円なんて家がゴロゴロありましたからね。一番すごかったのは、山科駅前の一等地の借地権が年間800円弱!。相続人が大家さんになるのだけど、そんな資産があることを知らず、また店子さんも誰が大家か分からず、債権者不明のまま戦後何十年もずっと法務局に供託していたという。

 それはともかく、言うまでもなく京都は歴史がやたら長いし、「ちょっと前に坂本龍馬はんが来やはりました折」なんてのたまう土地柄、古い家屋があって当たり前、ゆえに畳はあって当たり前、メンテもやって当たり前なのでしょう。お寺さんもぎょーさんあるし。

 

変体仮名


 蕎麦屋さん二枚。
 上の写真は、すぐ上の二枚と同じ場所(京都市中京区の町中)で撮ったもの。下の写真は、これも京都の、えっと三条寺町あたりで撮ったものだったかな。

 今でも普通にあちこにある伝統的なお蕎麦屋さんです。
 子供の頃には、「そば」という字が、なんであんなに変テコな字になるのか不思議でしたけど、これこそ平安時代からある由緒正しい日本語の表記、変体仮名というのだというのを、(高校の頃だったかな)知りました。

 今では、一音一字表記の例外としては、「お」&「を」の一例だけに減ってしまいました。でも、ときどき「い」「え」など「昔の字」は見かけますよね。その他は、過去の依頼者である明治生まれのおばあ様のお名前が「と」の変体仮名で、初見では全然読めまなかったという遭遇例があります。あとはこの「そば」のメチャクチャ難しい字。

 この機会にちょびっと調べてみましたが、変体仮名というのは、実は数えきれないくらい大量にあるらしく、もともとは漢字を崩して使ったものです。楷書が草書、行書になって、さらに簡易化されたもの。「そ」の難しい字は「楚」の簡略化されたものです。

 変体仮名を一覧で見るための資料としては、変体仮名のフォントを売っておられるKOIN変体仮名さんのページがわかりやすいです。右の画像は、同サイトにフリー版として掲げられていた文字一覧ですが、それすら一部に過ぎず、同ページにはこの3倍くらいの量の文字が収められている正式版の一覧 表があります。

 今の平仮名・片仮名ももとは同じで、無数にある変体仮名の中から無理やり人為的に抜粋し、一音一字にしたものが現在の平仮名として残っています。それを行ったのは1900年(明治33年)、日露戦争のちょっと前。最終的に廃止されたのは1922年(大正11年)。それでも人名としての使用は残り、人名でも新規登録が許されなくなったのは1948年(昭和23年)の戸籍法改正からですから戦後の話です。

 つまり、平仮名の他に変体仮名という特殊文字があるのではなく、もともと平仮名というのはむちゃくちゃ大量にあり、そのうちのほんの一部だけが現在に至るに過ぎないということです。しかもその淘汰の過程も、行政的・権力的に為されたものに過ぎず、民衆や文化によって自然淘汰されたわけでもない。平仮名は、ほぼ平安末期に出尽くして、あとは書体(フォント)の変遷はあれども仮名文字そのものは増えておらず、いわば千年近くそのままやってきたものを、明治期においてその大部分を権力的に捨て去ったとも言えます。

 これがいわゆる「近代化」というものの実態で、なるほど統一国家を作るためにはこういうこともしなくちゃいけない。秦の始皇帝も太閤秀吉も新国家建設のために度量衡の統一など行いますが、「便利にするために」「それまでの文化を廃棄する」という作業工程になる。お隣の中国でも文化大革命のときに漢字が大幅に簡易化されて、「すごいことするなあ」とそのときは思いましたが、何のことはない、日本でも同じことやっているのですね。

 でも、この変体仮名をみて、古い書簡や書物など「達筆すぎて全然読めない!」と思っていたのは、実は変体仮名だったという場合が多いのでしょう。いま改めて書体フォントを眺めていると、「あ、この字、見たことある」というのが幾つもあります。でもここまで来ると、漢字の行書体なのか仮名なのか区別が微妙ですね。てか、本来的にはないのかもしれません。パターン化された崩し方・象徴化=仮名なのかもしれないですし。

 しかし、現在レベルに「アホでもわかる」ように簡易化したとしても、それでも読めない漢字があったり、PCやネットの普及で、書けるはずだった漢字が書けない!ってことも増えてきました。このままいくと、やがて22世紀頃には「仮名はかけるけど漢字は書けない」というのが日本人の平均になり、25世紀頃には「昔はいちいち字を手で書いてたらしいよ」「うそ!?」って話になり、40世紀くらいになると、筆やペンなどの筆記具が絶えて久しくなり、銅鐸や土偶のように「何のために使われた器具なのかわからない」「おそらくは宗教や祭祀の道具ではないか」なんて、まことしやかに論議されているのかもしれませんね。人類の「進歩」とはなんなんだろう。

昭和歌謡と酒場の世界





 左の写真は同じく京都の木屋町付近です。

 一枚目の「13番路地」という、なぜか13番だけが残っている、まるでゴルゴ13への秘密の連絡方法(賛美歌13番とか)みたいな不思議な場所は、現在でもリアルに実在します。見つけたときはちょっと感動しました。

 これを見ると、「五番街のマリーへ」という古い歌謡曲を思い出します。73年にペドロ&カプリシャスがリリースしてヒットした曲ですが、リアルタイムには全然知りませんでした。社会人になって、当時大嫌いだったらカラオケを強制的に歌わされる際に、「この童謡みたいなのだったら歌えそうだし、なぜかこれを歌っておくと無難に済む」ということで覚えたものです。「琵琶湖周航の歌」「京都慕情」「蘇州夜曲」なんてのも、よくこの機能から選ばれますよね。今もそうなんかな。

 しかし、歌いながらも意味不明でした。「五番街ってどこ?」「マリーって誰?日本人なの?」という。その染み通るような叙情性はわかるんだけど、背景になる物語世界がよくわからない。上海租界とか海外の居留地の話?それとも戦後の進駐軍相手の街娼や赤線の話?この前振りになる曲が「ジョニーへの伝言」という曲らしいんだけど、これも「ジョニーって誰?」の世界です。いっとき、英語名をつけている芸能人がやたら多く(ペギー葉山とかフランキー堺とか)、あの頃は今以上に英語名が馴染み深かったのかもしれません。

 それはそうと、昭和歌謡、アイドル系ではなく演歌の世界において切っても切れない関係にあるのが「夜の酒場」の風景です。正確に検証したわけではないけど、なにかといえば夜の酒場でお酒飲んでるイメージがありますし、実際にも歌詞にアルコールが出てくる度合いは高いでしょう。

 あれ、なんででしょうね?洋楽には、あまりそういうイメージがないのですね。高らかと愛を歌い上げるイメージがあります。まあ、歌詞の意味をそれほど突き詰めて考えていないから単にそう思ってるだけかもしれないけど、でもなあ、Moon Riuverも、イパネマの娘も、Fly me to the moonも、Close to Youも、A Song for Youも、酒はでてきません。

 ちなみに"A Song for You"はメチャクチャいい歌詞で、「私が死ぬときには思い出してね、確かに二人は一緒だったときもあったのだと(when my life is over remember when we were together)」と人生レベルの愛を歌っている点では演歌に通じますが、”I love you in place where there's no space or time”だもんね。「時も空間もないところで愛してるわ」で、すでに哲学的ですらある。多分、生涯でたった一人愛した人なのでしょう、でも色々あって一緒になれなかったのでしょう、ただの親しい友達として振舞っていたのでしょう(I love you for in my life you are a friend of mine)、でも自分の気持ちに気づいて欲しいし、見通して欲しいと思っているのでしょう(Darling can't you please see through me)、ステージの上では何千人もの聴衆の前で愛を演じてたけど、今は二人だけ、この歌を歌うわ、ということで、成就してないけど成就している、時も空間もないところでしか愛し合えず、しかし時も空間もないところでは確かに気持ちは通じ合っていたという一生レベルの恋愛を歌ってます。老境になってからこそ歌える、本物の「大人の恋歌」ですねえ。でも、やっぱり酒は出てこないのでした。

電器屋さん、床屋さん





 以下の写真はぜーんぶウチの実家の近所、つまり京都駅の南の徒歩圏内です。シリーズ冒頭に書いたように、今回は親孝行帰省だったので、あちこち出歩かず、基本、家にへばりついてました。だから写真もいつもの帰省シリーズのように美しい日本の風物系が少なく、べたーっと地べたに密着系が多いです。

 だからこそ、「うわ、変わってねえもんだな」という今回の発見がありました。いや、実際、近くに住んでても意外と知らないもので、家の近所がこうなっているということを初めて知りました。実際に住んでた頃は原チャリでびやーっと走ってただけですからね。しげしげと見るという機会は殆どなかったし、使う道も限られていた。人間、知ってるようで案外知らないもんです。

 写真の一枚目は、「あ、ある!」とうれしくなった昔ながらの豆腐屋さんです。オフクロに言ったら、「そんなもん今どきないよ」(オフクロも知らなかった)「あるってば!」という会話になったのでした。

 2−3枚目は、昔ながらの町の電気屋さん。「中間層の出現による豊かな国内市場によって、日本の家電産業が急速に発展した」と経済論でいつも書かれている、そのリアルな実体です。量販店が出てくる前は、ほんと日本のどこにでもありました。パナソニックは昔「ナショナル」ブランドで売ってました。「ナショナルのお店」、あちこちにありました。ちなみに正式に松下がパナソニックに社名変更したのは、つい数年前の話らしいです(2008年)。同じようにどこにでもあったのが東芝。芝浦製作所と東京電気が合併して東京芝浦電気になって、略して東芝。

 このあたりは昔のテレビでもおなじみで、「明るいナショナル〜」というテーマソングや、サザエさんがテーマソングの最後に「この番組は明日を作る技術の東芝で云々」とか、一定年齢層以上の方だったら覚えておられるでしょう。日立の「この木なんの木、気になる木」も同様です。ほんと、日本というのは家電産業とともに発展してきたのですな。

 2枚めと4枚めは、これも懐かしい「理容店」。床屋さんですね。あの白、赤、青の螺旋シンボルは、日本独自のものではなく、もともとは西欧(中世ヨーロッパ)のもので、だからこっち(シドニー)でも見かけることはあります。Wynyardあたりの古い一角では、昔ながらの床屋さんがあったりして、"just a trim, please"とかやってるんでしょう。

三丁目の夕日的な、巨人の星的な




 これも全部ウチの近所の写真です。

 「ほう、まだあるのね、こんな町並み」って思ったのですが、「まだある」どころか、そっちの方が多いくらいじゃないかな。

 僕も中高校生の頃は、東京のド下町(佃、もんじゃ焼きの月島の隣)に住んでたので、ほんと「巨人の星」そのまんまの「長屋」って感じでした。玄関はドアではなく、ガラスのガラガラ引き戸だし、「上がり框」(あがりかまち、と読む)なんてあってさ。二階に物干し台があって。

 ダイニングテーブルなんて洒落たものはなく、「ちゃぶ台」、てか電気コタツを夏は布団抜きにしてそのまま使ってたという。そういや下宿してる頃もそうだった。

 当時の風呂は、当然、銭湯でした。その前に新興住宅地の一戸建に住んだことも、14階建てのマンションにも住んでたことがあって、中学になってからいきなり10年ぶりに銭湯生活になったんだけど、意外と楽しかった。風呂広いし、金かかってるからちゃんと洗うし、気分転換になるし。

 今どき風呂がない家なんかあるんか?と思われるかもしれないけど、もしそうなら銭湯という存在が消滅している筈です。で、調べてみたら、東京都内の銭湯の数の推移によると、昭和40年に2641軒だった銭湯は、平成22年に801軒まで減ってます。激減っちゃ激減なんだけど、しかし、「東京にはまだ800軒も銭湯がある」「過去45年間で3分の1程度までしか減ってない」とも言えるわけです。まあ、アクアセンター的、スーパー銭湯も出てきて、家に風呂がある人でも銭湯にいくから一概にいえないけど、1965年当時からみてまだ3割残っているというのは、ある意味すごいんじゃないか。家に風呂がない世帯も、マジョリティではもちろん無いけど、でも珍しい存在ではない。

 このあたり、メディアなどで紹介される日本と実際の日本とは違う。メディア系はどうしても物語的、商業的バイアスがかかって、実際よりも美しく魅力的に描く傾向がありますよね。バブルの頃、金妻などトレンディードラマと呼ばれたドラマ群は、「そのくらいの仕事と所得でこんなところに住める訳ないだろ!?」って、ありえない設定でしたもんね。思えば、あのあたりから、妄想的な日本像が出てきたのかもしれません。

 当時、僕の周囲のリアルは、東大出て司法試験受かって裁判官になって10年以上勤務して判事補の「補」がとれた中堅裁判官が、団地に毛が生えたような官舎に住んでて、それがまた千葉県柏あたりにあって、そこから1時間電車に揺られて東京地裁まで通っているという。僕らの司法研修所の寮が松戸にあって、「出世したらもっと遠くに住むのか?」と愕然とした思いをしたのを覚えています。一生懸命勉強して、成功して、そのご褒美がそれかよ?って。

 社会に出たり仕事をする特典は、この身も蓋もないリアルを知ることによって、歪んだ脳内妄想世界観を矯正できることです。教師になれば家庭訪問で色々な家に行くだろうし、営業マンもあちこちの家に行くでしょう。警察や弁護士もほんとにランダムに色々な日本社会のリアルに触れます。それによって等身大の常識感覚、社会的なGPS感覚が正常に作動する。だから判断も誤らなくなる。ところが、こういった機会を持たず、メディアやネットあたりが主たる情報源になっていると、ツッコミがないから、どんどん大ボケが進行して頭の中はありえないような日本像になってしまうでしょう。これは恐い。

 さらに海外に出る特典は、外人さんの目はもっと容赦なく、身も蓋もなく生身の日本を見るからもっと矯正されることです。僕らが鏡に向かうと自然と顔を作ってしまうように、どうしても「よく見たい」という助平根性が出てくるのですが、外人さんはそんなことお構いなしです。オーストラリアに行った最初の年、TIME誌あたりの日本記事読むのが唯一の癒やし(ネットなかったし)だったのですが、そこで出てくる日本の写真が、「うわあ」「そんなの撮るなよ」って身も蓋もない写真。モンペみたいのをはいて一列で田植えやってる写真とか、江戸時代みたいな写真。「何もわざわざ」って思うけど、彼らから見たらそれがリアルな日本に見えているのでしょう。でもって、本当にそういう光景があるんだから否定出来ないんですよね。

事件的、三面記事的な




 写真それ自体はどうってことないんだけど、レタッチすると何やら「いわくありげ」に見えるものを。

 最初の一枚は、阪急梅田のかっぱ横丁のガード下の写真ですが、気分は映画版「砂の器」。大昔の刑事映画で刑事が聞きこみ努力を行っているシーンで出てきそうな感じです。

 2枚目は、大阪市梅田の曽根崎界隈ですが、よく週刊誌の扇情的な犯罪記事に使われそうな写真です。「犯人の〇〇が密会していたホテル」とか。

 ラブホテルの写真なんか何で撮ったのかといえば、この写真をこっちで英語で説明したらどう言えばいいのかなと面白く思ったからです。実際料金説明の看板にも英語が書かれているのですが、休憩=REST、宿泊=STAYはいいとして、サービスタイム=SERVICEってのは分からないんじゃないかな?ホテルなんだから、ルームサービス的なものとして受け取られるかも。しかも、"THEATRE"とか壁に書いてあるのだけど、意味は「劇場」ですよ。何の建物なのか「?」になるかも。

 最後の写真は、普通の私鉄沿線の駅前商店街の写真ですが、これがどういう事件性を?といえば、「平和な住宅街で起きた惨劇」みたいなキャプションがついたりするでしょう。ずっと前の酒鬼薔薇事件とか、一連の。

電車のある風景



 世界に冠たる「鉄ちゃん民族」日本人の心象風景には、電車というものが非常に大きな位置を占めています。このHPの生活体験マニュアル電車の項でも書きましたけど、ほんとに僕らは電車が好き。明治時代の「陸蒸気」の鮮烈な印象のせいでしょうか。「汽笛一声新橋を〜」「汽車汽車シュッポ〜」なんて歌まで作っている汽車電車崇拝癖。電車の雑誌すら売っている。あまつさえ時刻表をお金を出して買うという。

 戦後日本の発展は、大都市にある各私鉄会社の沿線上に新興住宅地が分譲され、ターミナル駅が商業開発されることによって広がりました。東京の東急、小田急、京王、西武、東武、京成電鉄、名古屋の名鉄、大阪の阪急、阪神、京阪、近鉄、福岡の西鉄。幾つもの電鉄会社がプロ野球球団のオーナーになっていたくらいです。

 僕らの生活圏は沿線の駅を起点にして描かれ、駅にまつわる悲喜こもごもが一生レベルでついてまわる。駅のホームでは片想いの君がいて、車内で痴漢に遭って、家探しでは○○線沿線&「駅から徒歩○分」というモノサシを用いる。駅は別離のステージであり、明治時代は「男子志を立て郷関を〜」と駅で吟じられ、戦時中は出征兵士の万歳三唱の別れの場であり、戦後は集団就職の別れの場であり、そして「♪汽車を待つ君の横で僕は時計を眺めてる」と「なごり雪」で歌われた。

 多くの日本人の記憶には、駅の踏切のカァンカァンという音が刻み込まれているでしょう。もう絶えて久しく聞いてない僕でさえ、脳裏にありありと再現できる、あの音。

 オーストラリアには踏切が少ないです。田舎にいくとあるけど、シドニーエリアには「ない」といってもいいくらいです。もっとも、調べてみるとNSW州には約3000の踏切(level crossingという)があり、うち1400は公道とクロスしているそうですが、踏切のある場所のマップで見ると、シドニーの踏切で一番近いのは、空港近くのGeneral Holmes Driveと交差しているところですが、これも貨物線の引き込み線だし、滅多に通ることもない。あとはGranville付近のParramatta Rdとの交差点とFairfield付近に一つあるだけ。その他はBlacktownからRichmondに向かうド郊外に8つばかりあるくらいで、実際に住んでいる感覚では「ない」に限りなく近い。少なくとも、日本のように、密集する住宅街のすぐそばに踏切があり、ラッシュ時には「開かずの踏切」と化するなんてことは無い。

昭和末期〜平成にかけての風景


 上の写真群は、いずれも昭和50年台前半(80年台前半)まで、つまり今から約30年前の風景といっても、ある程度は通じると思います。そりゃ細かな看板や店舗名などで時代考証をしたら分かるだろうけど、パッと見にはそうだろうと。

 左の二枚は、80年台後半以降っぽいので、カラー写真のままにします。

 一枚目は、阪急十三駅裏の写真で、TSUTAYA(レンタルCD)があって、カラオケボックスがあって、という昭和末期の香りですね。レンタルレコードが登場したのは1980年の黎紅堂からですが、いやあ学生時分はお世話になりました。レコード、クソ高かったんだもん。後発のTSUTAYAは83年に枚方に蔦屋書店として登場、業態を柔軟に広げて今では最大手。どこにでもある。カラオケボックスが登場したのは1985年、最初はJRのコンテナを改造したものが多かったけど、90年に入る頃からテナントビル、一棟まるまるに成長。丁度昭和から平成(元年は1989年)にかけてですね。

 ほんでも、今年は平成25年ですから、平成元年といってもすでに25年前の話です。あんまり変わってないよね。

 最後の一枚は、大阪北区、先ほどのラブホテルの近くで撮ったものですが、バブル期の地上げの跡のような風情を漂わせています。「兵(つわもの)どもが夢の跡」って感じ。




 以上、「写真で振り返る戦後史」でした。
 お楽しみいただけたでしょうか。

 ポイントは、全部リアルタイムの写真でお手軽に出来てしまうという点です。
 つまりは、それだけ「変わってない」と。
 そして、変わってないことが問題なのではなく、心情的にはほっとしているということですね。


 そして、サブタイトルになるのですけど、昭和の香りってよく言うけど、じゃあ「平成の香り」って何なのでしょうね?「これぞ!」ってのはあるのかな。



文責:田村



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