前回(Essay 634:「商品だけ買っていれば幸福になれるんじゃないか?」という途方もない錯覚)から続きます
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前々々回のネタ出し箇条書きから以下の部分を抜粋し、膨らませて書いてます。
★「日本にはないもの」「およそ想像もできないもの」が外には唸るほどある。多分、この世界の実相の1%も理解しないまま終わってしまうかのように怖さがある。実相というのは世界のあり方のほか、自分自身の本当の形であるとか、押し殺してきた生理的願望であるとか、物事がうまくいくやり方も含む。
★オーストラリアにいたら100%わかるとかというと、せいぜいが3%くらいしかわからない。でも、「あとの97%があるんだろうな」というのは感じられる。
★日本の社会の特質は「自己完結性」と「商業性」にあるのだと思った。どちらも必ずしも悪いことではない。特に閉鎖的な社会で幸福な人生を送るのは、それはそれで全然アリだと思う。が、自己完結性と商業性がこれほどまでに両立している例は珍しいという気もする。南海の楽園の孤島とか自己完結的なエリアはあるが、そこでは原始共産的な相互扶助の色が濃くなる。お金いらないって感じ。逆に商業性が強まれば普通シルクロード的な開放性やロマン性が出てくるもの。だから自己完結×商業性というのは珍しい、というか本来ありえない組み合わせなのだけど、結局その噛み合わせの悪さが本質的な問題なんかもね、と思った。
前回の要旨タイトル
世界観が揺るがない
世界観のふわふわオムレツ
世界観凝固剤
日本ユニーク論の嘘
海洋国家の開放性
同質性を基調にした豊かな国内市場
ガラパゴス化はいつから生じたのか
日本人同士のオタク市場
商品社会における世界観の歪み
商品主導の世界観と商品成立の第一条件=理解可能性
商品成立の第二の条件=利潤可能性
総じていえば、この世界は、僕らが理解できないことだらけだし、商品化できないものの方がずっと多い。そして、「理解可能性」と「利潤メカニズム」というキツ〜い二大条件をカマされた「商品」の狭苦しい活動範囲よりもずっと自由で、ずっと広く、そしてずっと面白い。
華麗な商品群によるメスメライズ
ということで、「商品がやたらデカイ顔をしている」日本の状況について前回書いたわけですが、商品がデカい顔をしているということは、商品をゲットするために必要な「お金がやたらデカい顔をしている」ということでもあります。
そして本当の問題は、そんなものに「デカい顔」をさせてしまっている世界観の画一性や硬直性だと思います。
華麗で優秀な商品群が日本の国内市場を埋め尽くしているのだけど、その商品群の華麗さが災いして僕らの世界観を限定している。そうなると「拝金主義」とまでは言わないまでも、それにニアリーな感覚が出てくる。「この世は銭ズラ」「金さえあればいいのさ」とまでは思わないけど、「お金がないと死んじゃう」「お金がないと幸福になれない」と過度に思い込むこと。それと裏返しになるのが「なんでもお金で解決しようとする」「お金以外の解決方法が思いつかない/実行できない」という解決方法の限定性です。さらに前回述べた「商品的特性」を持たないもの=理解できないこと、解説されないこと、保証がないことを必要以上に怖がるなどの弊害も出てくる。
こういった社会が楽しくてハッピーな人だったら別にいいんだろうけど、僕としてはそれほど楽しくもハッピーにも感じられないのですね。別にそれが不幸だとは思わないけど、みすみすハッピーになる機会をミスっているというもどかしさは感じました。「もっと他に幾らでもやりようがあるじゃん」というか。
便利でなんでもある、のか?
よく「日本は便利で、何でもあるからいい」とか言いますが、僕個人の感覚でいえばあんまりそうは思えないです。
そもそも「便利であること」はそれほど大きな価値を持たないのではないかって意識があります。もちろん谷底まで水を汲みに行くよりは、水道があったほうが便利で良いのですが、その程度に大雑把に「便利」であれば良い。英語で"killjoy(興醒め)”って言葉がありますが、あまりにも便利にしちゃうと「興を削ぐ」と思います。テキトーに不便だからこそ面白さが出てくるんでしょうって思う。
それに、そもそも本当に便利なのか?という疑問もある。
こちらのように携帯のSIMだけ200円で売ってるとか、SIMロック解除が自由とかいうのはあまりないし、免許の更新も鬱陶しいし、戸籍や住民票など面倒臭いシステムもあるし(オーストラリアはない)、ATMは未だに24時間じゃないし、低所得者への負担は重いし、福祉は少ないし、高速道路は死ぬほど高いし、どこが便利なんだよ?って思う。日本で便利なのは「小物を買うこと」くらいであり、根本的に、自由に生きていくこと、自分なりの幸福の形をフリーハンドで描いて、それを実行するための支援環境に関してはあまり便利ではない。てか端的にいって不便だし、やりにくい。
また、「なんでもある」ともあまり思いません。思ってたら最初からオーストラリアなんか来ないです。商品的にもそうです。あるものはそれなりに魅力的だし、楽しいし、それは素晴らしいのですが、ターキッシュブレッドやミッシュとか売ってないし、無いものはほーんと全然無い。
でもそんな商品的なバラエティなどどうでも良くて、やっぱ大事なのはその人だけの個性をちゃんと認める環境やら、ワイルドな生きる歓びやら、フレンドリーな人と人との接点が少ない。身も蓋もないストレートな情報も少ないし、メディアにおける意見の多様性、政治過程における「こうすればああなる」という分かりやすい因果関係も少ない。そして何度も言ってるけど「理解できないもの」「想像もつかない」もの、つまりは「この世界の確かな手触り」みたいなものが乏しい。
お金を使っても解決しない環境
だけど日本に滞在して一週間もすると、徐々にその環境に慣れていってしまうのですね。その辺りが恐いなあって思いました。
最初の一週間は、どの店のどの商品を見ても欲しいとか、買いたいとはぜーんぜん思わなかった。自販機も全然使わなかったし、買うものといえばタバコと交通費くらいで、殆どお金は減らなかった。しかし、一週間以上たって段々慣れてくると、凄まじいばかりにお金が出ていくようになります。適応しちゃうんでしょうねえ。物価は確かにオーストラリアよりも安いものが多いのだけど、これだけ頻繁に使えばオーストラリアにいる以上にお金がすぐに無くなる。これはヤバイと思いました。
オーストラリアって、そんなに魅力的な商品がないから、物欲が湧かない。お金を使う楽しみも少なく、日本みたいな享楽消費が少ないです。怪我をしたからバンドエイドを買うみたいな、必要性にかられての消費が多い。
そもそもお金を使っても大して物事が解決しないのですね。宅急便送っても届く保証はないし、修理に出しても直ってる保証はないもんね。大金はたいても、それで事態が劇的に良くなるというものでもない。これは大金であればあるほどそうで、こっちの弁護士費用とかコンサルティング費用とかそのあたりの高級人件費は死ぬほど高いんだけど、いくら払っても物事が解決していかなかったりもします。改築を依頼すればあちこちにミスやらガタやらあるし。
また、タバコだろうが書籍だろうがガソリンみたいに時と場合で値段がコロコロ変わるし、沢山買った場合の割引率が異常に高い(10倍買っても値段は3倍程度とか)、玉ネギからアンティークまで物の目利きが出来ないと何をどう買えばいいのかわからないし、セカンドハンド市場も個人売買で非常に盛んであること(中古車売買の約半分はディーラではなく個人売買であるとか)など、物を買うこと、お金を使うには、かなりスキルが必要です。
つまり、日本では当たり前になっている「お金を使うことで解決するという方法論」が、日本ほど通用しない。てか日本の基準でいえば、ほとんど無駄というような場合すらある。それに、お金を使う事自体が難しい。アホみたいに使ってたら大損こくし、それなりに相場も鑑定眼もなければならない。
じゃあどうしたらいいか?といえば、一つには、これは過去に何度も書いている「ライトパーソンをつかむこと」です。玉石混交のこの社会では、ダメダメでいい加減な人も多いのだけど、逆に日本にはちょっと居ないくらい有能で仕事の早い人もいる。そういう人に当たったら、嘘みたいに物事が早く済みます。また、「こうするといいよ」という方法や知識を教えてもらうことです。大事なことはネットや書籍に書いてない。だから、いかに人と交わり、いかに人と巡り合うかです。これはお金という方法論ではゲットできません。それは「いい友達になれる」という人間力がものをいう。
それにオーストラリア人の特性なのか、お金を貰ってやる普通の仕事はいい加減なのだけど、お金がからまないボランティアとか純粋に善意でやるような場合は、信じられないくらい熱心に、また有能に動く。はっきり言って仕事以上です。だから、多少のお金をもってきてオーストラリアに移住してきている富裕な人々よりも、10ドルレベルで四苦八苦しているワーホリさんの方が、オーストラリアを確かに楽しんでいるだろうし、素敵な体験も沢山していると思います。お金に頼ってるうちは、この国の妙味はわからんよと。
このようにお金という呪縛が少なくなるというか、お金に頼ってもしょうがないというか、お金に依存しにくい環境になってくると、世界観のバランスもまた変わっています。「お金による解決」がそれほど神通力を持たない反面、それ以外の解決方法、例えば「人による解決」「発想を変えて解決(=災い転じて福となす等)」という方法論を幅広く考えるようになる。
なにか享楽的な消費をするときでも、まず「今日はなんだか美味しい本物のピザが食べたい」という「目的」というか「欲望」がドーンとあります。商品広告などに引っ張られて購買欲が生じるのではない。購買欲を生じさせるような麗しい写真とかそんなにないですし、レストランの前を通っても文字ばっかりのメニューが貼り付けてある場合が多いし、さらにそのメニューを見ても食べたこともない、理解も想像も出来ない一品が多い。
だから「はじめに意思ありき」で、まずは自分で考えて、思いたち、自分で動くしかない。日本でよくある「何となくお金を使っちゃう」という局面が少ない。というか「何となくお金を使う」ということ自体がしにくいです。
これはある意味健康的なことで、まず自分の人生なり生活があって、そのうえで自分の欲望なり欲求が自然に出てきて、それを自分の頭と手足で具現化していって、その一連の過程で必要に応じてお金が出ていくというパターンです。商品や広告によって、自分の意思形成過程が邪魔されない。まあ、全く影響がないってことはないのですが、日本のように華麗な商品群によってメスメライズ(幻惑される)される頻度は、段違いに少ないです。
麻薬のようなお金
日本はこの逆で、楽しいからお金バンバン使っちゃうんですよね。
適当にお手頃価格だから、財布の紐も緩む。でもチリも積もればだから、ふと気づくとかなり散財してしまう。恐いな〜って思った。
でも本当に恐いのはお金が無くなることではなく、自分の意志や欲望形成過程にここまでチョッカイ出されると、自分が本当に何したいのかわからなくなっちゃうことでしょうし、発想や思考が限定されていくこと、ひいては世界観が小さくまとまっていってしまうことだと思います。100円玉数枚、せいぜいが万札数枚で、ここまで多様でお手頃な喜びが得られてしまうと、適当に楽しいからそれでいいやみたいになって、あんまり大きなことや本質的なことを考えなくなる。考える必要すら感じなくなる。いつの間にか視界が狭くなっていく。
この環境は結構キツいなって思いました。
なぜならお金や商品によって調教されているから、喜びを得るためにはすぐにお金を使ってしまう。使う機会は幾らでもある。でもすぐに使ってしまうから、あっという間にお金がなくなる。本当はお金以外でも幾らでも楽しさは得られるし、誰だってそんなこと知ってるんだけど、その時点では発想が限定されてあんまり思いつかないから、お金がなくなって寂しい思いをする。
これってもしかして麻薬みたいなものじゃないか?って思って、ちょっとゾッとしました。
お金中毒というか、お金依存症というか。もう切れたら終わりというか、本当はそんなこと無いんだけど、ついついそう思い込んでしまう時点でアディクションではないかと。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、あの吸引力はすごいなって思いますよ。
中途半端なお金の手段性認識とゴチャ混ぜ美徳
こういった変テコな状況は、幾つかの要素のからみ合いによって生じているのでしょう。
それは、
@前々回に述べた日本社会が本来もっている同質性をベースにした世界観
A前回述べた国内市場の偏重によるガラパゴスひきこもり傾向
に加えて、一般的なバックグラウンドとしては、
B大きなビジョンを描くよりも、細かなスペックの差異にこだわるオタク的性癖と、
C近代日本の成功体験である発展途上国的な経済至上主義〜コツコツ勤勉で忍耐さえすれば幸福になれるという方法論、
もあり、これらの要素が相乗効果をなして、今日に至るのでしょうね、たぶん。
Cについて多少思ったことがあるので、以下補足的に書いておきます。
成功体験が災いしている点
戦前の日本のアイデンティは軍事力だったと思います。
もともと西欧列強の脅威という軍事的危機感が明治政府の「建国の動機」だっただけに、軍事にこだわるのは当然であり、第二次大戦で一敗地にまみれるまで「喧嘩が強い」ことが日本のバックボーンだったと言ってもよいでしょう。
戦後に奇跡の経済成長をしてからは、経済力があること、お金を持ってること、それらの富を生み出すべく一生懸命働くことが日本人のアイデンティティになっていったと思います。それはそれで良いのですが、問題は「しかない」みたいになってる部分です。
なまじ経済だけで成り上がった国なだけに、この世のさまざまな価値基準のうち経済だけが突出して強くなってしまったキライがあります。しかも、戦後日本の経済成長の原型になったのは、官民ともに皆で力を合わせて頑張って質の良い商品を作り、安い労働力コストを利用して輸出攻勢をかけるという発展途上国型の方法論です。それは「真面目にコツコツ」という農耕的な方法論でもあります。グローバル市場を前提に世界戦略を練るとか、商品や組織について革命的なイノベーションやリストラを「これでもか」というくらい波状的に繰り返すことではない。先月100頑張ったら今月は101頑張ろうという、質的飛躍ではない量的蓄積です。
「経済」を僕ら個々人の生活レベルに置き換えれば「仕事」です。そして経済が日本社会における突出した基準になるということは、仕事もまたそういう地位を占めるということで、仕事をしてこそ一人前であり、どんな仕事をしているかがその人の価値を決める。さらに、経済の中でも「コツコツ農耕型経済」がスタンダードになるということは、人生のスタンダードもそうなるということでもあります。
すなわち、真面目に努力して→受験や就活についての抜本的疑問を押し殺して→好条件の給与所得者になり→優秀な事務処理能力と組織順応的な忍従ストレス耐性をもって組織内部で成功することが、戦後日本における「人生の成功パターン」であり、勝ち組とされる。
社会もまたこれら勝ち組に対して、高額な退職金や天下りで報いようとするし、それらの「ご褒美」を安定供給できる組織基盤(利権複合体)も形成されていきます。一本の単線棒状の成功パターンを基軸にして、そのうえにあれこれが付着し、絡み合い、珊瑚礁のような構造になっている、、、というのが、戦後日本社会の構造原理になっている。
世間の目と免疫抗体
言うまでもなく、こんなスーパーワンパターンな発想には、「もっと他にもいろいろあるだろが?」ってツッコミどころは満載です。それはいっても、そればっかり何十年もやってると、なかなかそうは思えなくなる。
今さら言うのも気が引けますが、人生における成功やら勝ちを判定できるのは、他でもないその人だけです。あなたの人生の通信簿を採点しうる絶対権限は、あなただけの一身専属的な権限です。そりゃあ周囲からダメダメ言われてたら、チクショーとも思うだろうし、今に見返してやるとも思う。しかし、いざ実際に自分が、例えば超難関の国家試験を合格して、人も羨むステイタスと収入を得て「世間を見返す」ことが出来てしまえば、今度は周囲からいかにチヤホヤされようがぜーんぜん嬉しくないのだ。自分の経験でもまさにそうで、要は自分が納得するかどうかしかなく、それだけです。
その意味=ロングスパンの人生論でいえば、「世間の目」とか「周囲の評価」というのは、唯一無二の基準ではなく、傾聴に値する意見ですらなく、むしろ耳を貸してはいけないものであり、ひいては「毒虫」のようにひたすら忌むべき存在ですらある。なぜにここまで激越な調子で言うかというと、「世間の評価」というのは、マイナスだったら(馬鹿にされたら)めちゃくちゃ腹が立つくせに、プラスになっても嬉しくないという特性を持つからです。つまりマイナスはあるけどプラスはない、ひたすらあなたのQOL(Quality of Life)を引き下げる方向でしか機能しない。ということはその稼働特性においては、悪性の病原体とまったく同じだからです。
まあ、世間ではこのプラス面で喜んで満足している人もいるかもしれませんが、今度は「その程度で満足してしまう人生」という、きっつ〜い首枷をはめられているようなもので、それ自体が不幸である。また、実際にそういった特権的地位についている人達は、世間からチヤホヤされているのが嬉しくて、それが生き甲斐でやっているのではなく、逆にストレスで心身がボロボロになるくらいの重責を果たそうとして、そこに何らかの自分だけの使命感ややり甲斐を感じてやっているのだと思います。はたで見るほど楽しくはないだろうし、それどころか孤独で厳しい状況ではあるのでしょう。その極端な例が天皇陛下で、彼は世間からチヤホヤされる、チヤホヤされるしかない存在なのですが、だからといって「いえ〜い、俺ってサイコー!」って有頂天ハッピーになってるようにも見えないのですね。いや、本当のところは分からんですけど、でも、かなりの確率でサイコー感はないと思います。むしろその立場を宿命として諦観的に受け止め、その重責をマジに厳粛に受け止め、その職責を果たすことに何らかの使命感と生き甲斐を感じておられるのではないかと思います。
以前にも「なるほどの旅」で書きましたが、日本社会における成功の本当の果実とは、こういった世間の目のアホらしさにとことん納得できて自由になれること、免疫抗体を得ることに尽きると思います。学歴コンプレックスから自由になりたかったら、とりあえず東大に入っておけと、そうしたら馬鹿らしくなって自由になれるぞと。
しかしながら、しょーもないものを「しょーもない」と認識するためだけに、ほぼ一生分の努力を傾注しなきゃいけない社会ってどうよ?と思いますね。これがツッコミどころのその1です。
お金の手段性認識
ツッコミどころのその2は、お金や経済の手段性、そしてその手段性が中途半端にしか認識されていない点です。
どのような生き方を選ぶにせよ一定の経済基盤は必要でしょう。しかしそれは、あくまで手段として必要なだけで、究極目的でもなんでもない。それは手段に過ぎないのだから、徹底的に手段として(それ自体に価値性をおかずに)合理的且つドライに考えれば足ります。「足りる」というよりも、ドライに考えたほうがむしろ理にかなってるし、間違いが少ない。
例えば、お金が必要だとしても、その獲得方法はなにも就活=給与所得者になること=に限定されるわけではないです。こちらの小学校で「お金を稼ぐ方法は二つあります。一つは給与、一つは投資です」と教えるくらい、給与所得と並んで投資所得というものが並列的な手法としてあります。それは単に株やFXという投資(投機)行為だけではなく、お金の運用利益(利回り)=イールド(yield)というという根本概念を知ることです。原資が1000万円あるとして、不動産投資をしたら年利いくら、株だといくら、そしてビジネス投資(自分で起業するか、他人のビジネスに投資するか)をするとリターン率が幾らであると並列して考える。就活に成功するために学資の高い教育を受けたり、難関試験に挑むことすら、時間と費用の「投資」である。オーストラリアでは、厚生年金に相当するスーパーアニュエーションすらも投資として考える。
つまり、お金を得るための方法は無限に近いほどバリエーションがあり、なにも「給料」だけが唯一の道ではない。極端にいえば、額に汗して勤勉に働くことも、宝クジにあたることも、道端でお金を拾う(1割礼金を貰う)ことも「金は金」です。給与だろうがギャンブルだろうが、お金そのものに上下貴賤はない。ギャンブルというと眉を顰める向きもあるでしょうけど、保険業務などはまさに数学的確率論をもとにしたギャンブル(外れることもあるから)であるし、不確定な要素を介在させたリターン狙いなんだから、全てのビジネスが何らかの意味でギャンブル性を持つといっても良いです。いくら努力しても売れないときは売れないんだし、運の要素が不可避的に混入するし。
以上、お金が問題になる局面は、シンプルにお金の問題として考えれば良く、それは実利的数学的に考えれば足り、それ以外の感情移入や価値移入をしないし、してはいけない。
資本主義における資本家と従業員の立ち位置
だいたい「資本」主義というくらいなんだから、それは資本あってのシステムであり、資本主義のメジャーなプレイヤーは言うまでもなく「資本家」です。労働者ではない。労働者がメジャープレイヤーになるのは共産主義でしょう。
ビジネスというのは、資本をより増幅するために行うものであり、それは自分の資本で自分がビジネスをやる場合もあるし、他人のビジネスに出資してリターンを貰う(投資)もある。商才がある人と資本を持ってる人が常に同一であるとは限らない、というか普通は別々の人間だったりするから、資本(出資者)とビジネス実行者(経営者)を相互補完的に結合させるシステムとして株式会社というメカニズムが編み出されたわけですよね。
そして、会社における「従業員」「労働者」というのは、ビジネス遂行における単なる「(人的)設備投資」にほかならないし、その程度の存在でしかない。これがドライな原点でしょう。
資本主義というのは経済的強者(お金持ちと経営者)のためのシステムであり、そのままの形では大多数の人々に害悪(搾取)を撒き散らす毒性を持つから、共産主義に向かうのでなければ、その毒性を中和するべく適切な修正がなされなければならない(修正資本主義)。だとしたら、資本主義社会において、資本家でも経営者でもない大多数の労働者が行うべきシステム本来の役割は、カウンターパワーとしての「修正」機能であり、それは搾取的状況を是正するための労働運動その他の行動でしょう。それこそがお金というもの、そして資本主義経済というものから出てくる本質的な立ち位置だと思います。会社のために滅私奉公することは、大きなシステムからすれば本質的な役割ではない。
勤労の美徳の価値源泉
繰り返しますが、お金というのは手段的なツールに過ぎないのだから、もともとがそれほど価値あるものではない。「あると何かと便利」というだけで、それ以上でもそれ以下でもない。一個の人間が、本当にムキになって追求すべき諸価値(それは人によりけりだけど)は、もっと別の領域、つまり家族であったり、他者との幸福のシェアであったり、自己実現などでなされるものであり、補助ツールにすぎないお金や経済に多くの感情移入をしてはならない。またしてしまうと話がややこしくなる。
ところが、そこで「ややこしく」なってしまっているのが日本社会なんだと思います。お金に関するモロモロが未分化のままゴチャ混ぜになっている。
例えば、「勤労の美徳」というのは確かにあるけど、これも過度に強調されている。あるいは過度にお金とリンクされている。
勤労の美徳の美徳性はどこから来るかというと、「生きようという意思と行為の本源的な価値」にあると僕は思う。自分が生きるために、あるいは家族を養うために、自らの意思で黙々と荒野を開墾する行為と意思の素晴らしさである。と同時に、その行為はお金以外に社会的な価値を持つことが当然の前提になっている。調理人が皆のために良かれと思って、美味しい料理を作ることに腐心したり、教師がどうすれば子どもたちを正しく導けるか必死に考えたりするその「利他性」「社会奉仕性」の尊さにあるのだと思います。
つまりカタチだけ「働けば良い」というものではないし、お金を得るからエライというものでもない。確かに多くの場合は「正業」といわれるもので、社会に何らかの有益な貢献をするからこそ対価としてのお金を得られ、またそこで働くことは、原則として世の中に貢献しているものとして推定される。でもそれはあくまで「推定」であり、そういう場合が多いという「属性」にすぎない。そうでない場合もあるし、働くことやお金それ自体が美徳の根拠になるわけでもない。あくまで他者の幸福を増進するという実質こそが価値の源泉です。もし単に「稼働」「金銭」だけで良いのであれば、通行人に因縁をつけてカツアゲをやってるチンピラだって「額に汗する勤労の美徳」を体現していることになるし、公害企業の証拠隠滅まがいのインチキレポートを作成することだって勤労の美徳として賞賛されねばならない。
目的性が曖昧だと、手段が繰り上げ当選される
金銭というのは「所詮ゼニカネ」にすぎないのだけど、そこで「しょせん」と突き放す以上は、ゼニカネに代わり、ゼニカネ以上の強大な価値体系や目的を自分で持たねばなりません。目的があるからこそ、手段は手段として正しく位置づけられる。
とは言うものの、自分なりの人生の目的やら、夢やら、「かくありたい」という理想を持つのは、これはこれで大変な作業です。お金を儲けるよりもある意味ではもっと難しい。だけど、その難しいことをやってこその一人前の人間でしょう。自律的意志をもつ個人たりうる。
その目的は、別に明確に言語化出来るものである必要はないし、過去にしつこいくらいの書いているように、むしろ言語化できる方がおかしいってくらい曖昧なものであって構わない。しかしカチンとした強度は必要でしょう。あたかも温度のように、あるいはサウンドのように、目には見えないし、明瞭にすることは出来ないのだけど、確かに強く感じるもの。
ここで個人の自立性や主体性を持ち得なかったら、手段の目的化が始まります。選挙における繰り上げ当選みたいなもので、本来が第二順位のツールであるお金稼ぎが第一順位になってしまう。そして、第一順位になることで、そこにあらゆる人間の美徳が付着する。前述の勤労の美徳しかり、忍耐心、克己心、他者を思いやる気持ちであったり、革新性であったり、そういった人間本来の「よきもの」が全部お金(仕事)にリンクしていってしまい、手段がますます神性を帯びてきて、手段ではなくなる。
まず、自分だけの強烈な(お金以外の)価値体系を持っている。持っているからこそお金については「所詮ゼニカネ」と足蹴にするくらい突き放して思えるし、そこで足蹴にできるくらいだからこそドライで客観的な判断もできるのだと思います。
例えば、儲からないと思えば「え、もう?」というくらいとっとと閉店する。従業員も血も涙もないくらい簡単にクビにする。それは設備投資なんだから、不要設備は一秒でも早く除去。それはもうスポーツやゲームと同じで、利潤の最大化というゴールに対してもっとも有効な手段を積み上げていくだけ。それが上手な人間、それに成功した人間、つまり財を成したお金持ちに対する社会の評価も、いうならばその程度のもので、スポーツが上手とかギャンブルが上手だという程度のものでしかなく、賞賛はすれどもズバ抜けた存在でもないし、財力以上の社会的影響力も持たないし、持たせない。
一方、従業員も、お金がもらえるから働くだけの話で、契約によって合意された権利は徹底的に使う。年次有給休暇は完璧に使いきるし、それを咎める上司や経営者はルール違反者として厳しく社会から糾弾される。なんでここまでドライに出来るかといえば、しょせんゼニカネであり、人間本来の価値体系は全然別個のフィールドにあると思っているからでしょう。
美徳と悪徳のゴチャ混ぜ状況
しかし、目的不在の「繰り上げ当選」によって、手段のくせにやたらエラそげになってしまう中途半端さが日本の問題だと思うのです。
そこが中途半端に未分化になっていると、なんでもいいから仕事らしきこと、お金稼ぎをしていれば人間として一人前で、それが出来なければ人間として未熟であるような妙チキリンな錯覚が蔓延する。また、同僚たちの苦労を慮って、つまりは「他人の幸福のために」年次有給休暇を敢えて取らないという、これまた変テコな人間としての美徳がはびこる。ブラック企業のめちゃくちゃな労働環境は、資本主義本来のルール(公正な競争)からいっても違反しているのだから、いわば許されざる「反則」であり、レッドカードが出されなければならないのに、そこで文句を言わずに黙々と働くことが、ストレス耐性のある一人前の社会人であるかのような感覚にもなる。一方では、諸般の事情で生活保護を受けている人は半分乞食であるかのように見下げられたり、不必要な恥辱すら感じて、福祉の実質を空洞化させる。つまりは資本主義に必要な「修正」がどんどん貧弱になっていく。
このような社会では、ともすれば金さえ稼げたらいいのであり、金を稼ぐためには多少の理不尽や不正や違法をも甘受すべきであるとされ、お金が稼げなかった時点で、もうダメダメな二級市民であり、そこにどんな事情があるかも斟酌されないようになる。勿論、一人前の大人としては、ある程度は「清濁併せ呑む」器量やらストレス耐性は求められるものでしょうし、単に甘ったれているだけの人々もたくさんいるでしょう。でも、それはそれ、これはこれでしょう。よって立つ価値原理が全然違う。
それなのに、こんなに中途半端にごちゃ混ぜにしてたら、何が美徳で何が悪徳なのかわからなくなるし、美徳によって悪徳を誤魔化すかのようなワケのわからんカオスになるし、現にもうなっているように思います。
かくして、優秀な給与所得者になることが人生の究極形態であるかのような、悲劇というよりもいっそ滑稽な現象になっていく。企業というのは、それがどんなに名門であろうが巨大企業であろうが、しょせんは「金儲けマシン」でしかない。これは敢えてケナして言っているのではなく「営利社団法人」というのは本来そういうものだからです。そして、その営利法人のオーナー(資本家)になるわけでもなく、また経営者になるわけでもなく、従業員になるというのは、単なる設備投資の一部になることであり、金儲けマシンの優秀な歯車になることでしかない。そんなことが人生の究極形態であるはずがないんだけど、不思議とそう思えてしまう。
強者の役目
こういった資本主義諸矛盾に日本独特の中途半端な美徳のゴチャ混ぜ状況の被害をこうむるのは、えてして弱者でしょう。性差別、年齢差別、学歴差別、身障者差別、あらゆる差別に限らず、過酷で理不尽な競争に敗れ去った敗者は常に存在する。そして残念なことに、敗者がいくら声を大にしてその不正を弾劾しても、なかなか声は届かないし、裁判は門前払いを喰らい、ネットでは炎上したりもする。なんだかな〜、です。
この社会の価値序列がなんか変だと思えば、それを正しく矯正すべきであり、じゃあどうしたらいいの?ですが、僕が思うに、その更正はむしろ勝者や強者の役割ではないか。過酷な競争を勝ち抜き、ステイタスも収入も得た人間だからこそ、その欺瞞性を指摘できるし、それを正すだけの権力をも持つ。これはパーソナルな美学の問題だけど、強者はいかにあるべきか?です。弱者を踏みにじるのが強者なのか、それとも弱者を助けるのが強者の役目なのか、どっちがカッコいいかであり、カッコよくなりたいかです。それは自らを強者・勝者という自負やプライドを持つ者だけに課せられた使命、「やせ我慢をする義務」であるとすら思う。武士は食わねど高楊枝ですわ。
それは自らが経営者として人間的な経営をすることでもあろうし、職業的な立場に基づいてそれらの是正を試みることでもあるでしょう。だけど、それだけではなく「しょせんゼニカネだろ?」と足蹴にするという方法もあると思います。自らが勝者として得た強者的利権を、自分で惜しげもなく足蹴にすること。そして足蹴にしても尚、いや足蹴にしたからこそ、いっそう自由で豊かな幸福を得ることであり、また実際に得られたという動かしがたい現実をこの世に作ることです。それが一番世の中を変える説得力があるんじゃないか。いきなり世の中は変わらないだろうけど、一人や二人の脳味噌をキックするくらいの力は持つでしょう。実際、世の中にはそういうことを地でやってる人って、意外とたくさんいるし、そういう話を聞くと、僕も勇気を貰うし。
それは、「もっとカッコつけろ」「もっとハッピーになれ」ということで、実行するのにそんなに辛くはないでしょう?って辛いかな(^^)?やっぱ勿体無いかな?でも、超極端少数派であろう個人的な意見でいえば、そこで辛く思ったり、勿体無いとか思った時点で、やっぱりまだまだ「強者」ではないのだと思うぞ。早く足蹴にできるだけ強くなってくださいませ。僕も強くありたいし、強くはなくても、少なくとも「繰り上げ当選」だけはしないように頑張りたいっす。
文責:田村