今週の1枚(02.07.15)
ESSAY/ 癒しってなんだ?
日本ではここ数年「癒し」が流行っているようですね。
どのくらい流行ってるのかしら?と思って、検索エンジンで「癒し」というキーワードで検索をかけてみたら、出るわ出るわ。最初の20個くらいをランダムに書き出してみると以下のとおり。
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スゴイですね。まさに癒しブームですね。個人的には「癒し系出張ホスト」と「あなたを癒し隊」がウケましたけど(^^*)。
しかし、これ、なんでもかんでも「癒し」って付ければそれでいいのかっ?て感じもしますね。
実際、やろうと思ったら、どんな言葉にだって「癒し」はつきますもんね。「癒しの町」「癒しの村」「癒しの郷」「癒しの家」「癒しの川」「癒しの山」「癒しのせせらぎ」「癒しの林」「癒しの森」「癒しの木」「癒しの辻」「癒しの野辺」、、、、、自然の風景とかだったらまずバッチリはまりますよね。風景だけではなく、自然の気象現象のようなものでもOKです。「癒しの風」「癒しの雨」「癒しの雪」「癒しの霧」「癒しの虹」「癒しの雲」。
それだけではありません。これがブームパワーというのでしょうか、一見妙な取り合わせだって、なんとなく意味深に見えたりします。例えば「癒しの砂時計」とかさ、時計に癒しもヘチマもないだろうって思うけど、こう書かれると妙に説得的だったりします。「癒しのフリスビー」とか、本来「なんやねん、それ?」と笑える筈なんだけど、「あ、いいなあ、フリスビー。自由に青空に浮かんでいって、あああ、癒されるなあ」みたいな感じで、アクセプタブルになりかねないです。それがイケるんだったら、「癒しのトマト」「癒しのカボチャ」だってアリですよね。
それが嵩じれば、形容矛盾とすら言えるような全く相反する組み合わせもOKかもしれません。例えば、「癒しの騒音」「癒しの戦争」「癒しのストレス」「癒しの殺人」「癒しの口論」「癒しの不協和音」「癒しの罵倒」、、、、、、なんかありえてしまいそうな気もしますな。
でも、「癒しのオーストラリア」っては出てこないで欲しいですな。「癒しのAPLaC」なんてのも(^^*)、願い下げにしていただきたいです。実際の「治癒の実効性」という観点でいえば、オーストラリアというのは、ある意味、最強の癒しツールになると思います。「癒されている」という認識もないまま、妙に元気に呑気になるでしょう。それだけに、妙に癒し文脈で語ってもらいたくないような気もするのですね。
じゃあ、なんでこんなに日本では(日本だけではないと思うけど)、「癒し」がブームになるのでしょうか。
癒し、要するに「治癒」が必要とされるということは、そこに何らかの「病(や)み」「傷病」があることになります。このブームの場合、傷病といってもフィジカルな”右大腿骨骨折”という分かり易いものではなく、メンタルなものや、フィジカルでも軽いもの(慢性疲労、不眠とか)がメインに考えられているのだと思います。
では、どうして、こんなに皆さんメンタルへルスを損なったり、疲労感を抱いているのでしょうか?
仮説その1としては、別にいきなり病み始めたわけではなくて、昔っから客観的にはそういう状況はあった。ただ、ネーミングによってそれを認識するようになっただけだという考え方です。これは100%とは言えないけど、ある程度はあたってると思います。
「癒し」という言葉がブームがなりだしたのは、実は10年くらい前だと思います。僕が日本にまだいる頃からチラホラ出てきてました。「多分、この言葉、流行るだろうなあ」と漠然と思ってましたが、ここまで流行るとは。しかし、「癒し」登場に先立つ20年くらい前だと思いますが、「ストレス」という言葉が流行り、完全に定着しました。それまで「ストレス」なんて言葉は日本人はほとんど誰も使ってなかったですし、そういう概念自体なかったです。疲れはイコール肉体的疲労であり、精神的疲労なんかあまり考えもしなかったです。実際、昔っからある健康ドリンクって、「ファイト一発!」「肉体疲労、強壮滋養」というフィジカル一発モノですしね。
というわけで、別に昔っから精神疲労も癒しも存在していたけど(存在しないわけがない)、カッコいいネーミングがなかったこともあって、誰も気にしてなかった。特に意識することもなく、自然にやっていたし、自然に治ってた。まあ、それが本当の意味での「自然治癒」なんでしょうけど。
仮説その2は、本当に精神疲労が亢進していっているのだという考え方。
戦後期〜昭和30、40年代の高度経済成長のときに比べて、人々のストレスは確実に増えてきているという説です。これもありうると思います。ちょっと前の、Age of Uncertanity/不確実性の時代で書きましたが、ここ10年20年で世の中は加速度的に複雑になり、見通しがきかなくなってきて、不安心理が増大しているのは、こと日本だけの問題ではないです。だから、精神的に疲労を感じたとしても無理はないです。
第二に日本独特の理由として、「こうすれば人生OKさ」みたいな人生設計がことごとくコケてきている事情があげられるでしょう。今の世の中、高学歴を身につけて、やり甲斐のある職に就き、収入もステイタスもまずまずで、老後は年金でバッチリさ!みたいな能天気なことは言えなくなってきてます。人間、「これでいいんだ」と心から納得できることだったら、いくら肉体的にハードであっても精神的にはそうそうメゲないと思います。雪のちらつく早朝からグランドに出て練習するのは肉体的にも精神的にもかなりハードですが、「行くぞ、甲子園!」とか思ってる限り、「いい汗かいたな」ということで、そうメンタル的には疲れないでしょう。でも、「もしかしたら全く無駄な徒労かもしれない」と思ってたらやってられないですよね。もう、歩くだけでも疲れます。生きてるだけで疲れるかもしれない。意味ののない苦労はズンとこたえます。
なお、こういった人生設計の変更を促す背景事情である経済のグローバル化とか人口高齢化は特に日本だけのものではありません。が、日本においては、その影響は一層強いでしょう。何故なら日本の場合、これまでの高度成長に、個々人の人生観から社会システムにいたるまで、余りにも過剰に適応してきたからです。今更急には変えられない。変えるにしたって、どう変えていいのかその理念モデルも見つからない。「学歴社会の終焉」なんて30年も前から言われてるんだけど、じゃあそれに代わるより新しくて輝いてる教育モデルがあるのか?というとよくわからない。「会社に頼らず、国家に頼らず、常に安心しないで軽度のテンションを保ちつつ、自主独立に自分の人生を切り開いていこう」とか言われたって、子供の頃からそういう具合に育ってなければ、いきなりやれるわけもない。また、次の世代にそういう子供を育てようといっても、親がわかってなければ育てようがないという問題もあります。
第三に、さらに日本特殊な事情としては、時代の変化のスピードが異様にトロいという問題があります。僕は、本来、日本人は変化に強い民族だと思ってます。それは明治維新にせよ、第二次大戦終了後にせよ、世界史的にも異様ともいえる変わり身の早さを見てもうなずけます。
明治維新にしたって、西欧列強による植民地化の危機という状況は、アジアにせよ、アフリカにせよ、南アメリカにせよどこでも同じだった筈です。しかしこれまでの伝統システムを破壊して大変革をしないと立ち向かえないと真剣に思い、且つ死に物狂いで実行して成し遂げたのは日本くらいでしょう。あとは殆ど全ての国が植民地化されてしまったし、その後遺症は現在なお続いてます。韓国だって自国を建て直す暇もないまま未だに南北に分割されているし、アフリカの内戦ももとを正せばご都合主義の植民地政策のなれの果てとも言えるわけですし。あのとき日本が明治維新をやってなかったら、かなりの確率で南北というか東西日本に分割されていたでしょう。東京以北はロシア、以西はフランスかアメリカあたりに取られて、東西冷戦のハザマでベトナム戦争みたいなことになってたかもしれません。そうなったらボートピープルになった多くの日本人がオーストラリアにやってきて、カブラマッタあたりに日本人町を作っていたかもしれません。やるべきときにガツン!とやらないと、いかに100年祟るかですね。
なお植民地化の例外として思いつくのは、政治的交渉の巧さで常に中立をキープしつづけたタイです。ちょっと余談ですが、僕もそんなに詳しくないけど、タイの歴史は興味深いと思います。もともとマルチカルチャルで開放的な政策であったうえに、ラーマ5世などの王様が賢かったようで、「門戸を開いて、自由にしつつ、要諦は押えてイニシアチブは離さない」というクレバーなことをやってます。また、日本軍がやってきても、うまく交渉して日本の植民地化を免れてますし(だから反日感情の少ない珍しいアジアの友好国でもある)、日本が負けるときには自由タイ運動の一環で戦勝国になるという。
ところで、タイの人は自国のお米に自信をもってますし、客観的にもタイ米は世界でも有名のようです(世界的には日本の米は無名でしょう)。随分前、日本が米不足になったときに、タイの人たちは優先的に日本に輸出してくれたんだけど、そのあたりの歴史的&現代的事情が全くわからず、自分らが食ってる米が短粒種という世界でも超少数派であることも知らない世間知らずの僕らは、「タイ米はまずい」と大声でわめいてタイの人達の気持ちを踏みじったといわれてます(結構世界的に報道されちゃったし)。無知がいかに人を傷つけるか、ここまでくると無知も犯罪に近いと思いますが、これからオーストラリアなど海外に出られる方、英語の勉強かたがた世界常識も身につけておくといいです。無知は言い訳になりませんから。クラスルームや、シェア先、ステイ先で気まずい思いをしないで済むように、そして豊かに会話の花が咲くように。こちらに来てから皆が欲しくなる本というのは、いい辞書、簡単な文法書の他に、日本や世界について簡単に概説した本です。「リトアニアって何処?」みたいなことになりますから。
閑話休題。変化に強い日本人という話でした。
ただ、日本人が強いのは、変化のなかでも、マグネチュード9レベルの巨大で急激な変化なのでしょう。一夜明けたら天地が逆になっていたくらいの大変化には強い。さっさと割り切ってリアリスティックに事柄を進めていきます。そこまで徹底的にぶっ壊れてしまうと、逆にスガスガしいというか、パワーが出てくるのが日本人なのでしょう。
しかし、徐々に変革、、というのには弱い。
なんというのか、冬の朝になかなか寝床から起きられないように、いったんコタツに入ったらトイレに立つのも面倒臭い、といいますか、「慣性の法則」が強いのですね。これ、化学に強い人だったら日本人みたいな物質を連想するのではないでしょうか。分子結合が異様に安定していて、たとえばマイナス30度でも99度でも全然変わらないけど、100度になったらいきなり爆発的に溶解するような物質。
まあ、「徐々に変革」というのがうまくいった例は世界的にも少ないかもしれません。どこの社会にも抵抗勢力はいるし、それによって改革は骨抜きにされちゃう危険は常にあるし。しかし、そうは言っても、イギリスのサッチャーさんにせよ、オーストラリアの白豪主義からマルチカルチャルへの180度転進にせよ、(随分前ですが)ニュージーランドの規制緩和にせよ、政治主導で世の中変わったというのは欧米の場合は結構あります。あれはもう、伝統なんでしょうね。権利の章典から、フランス革命から、アメリカの奴隷解放から、「外圧によらずに全部自分たちで変えてきた」という自信とプライドが民族的な遺伝子に入ってる国と、入ってない国との差というのはあるのかもしれません。
ともあれ、ここ10年の日本の改革ですが、遅々として進んでないような気がします。部分的には進んでいるのだろうけど、なんか僕ら庶民の立場からしたら、鬱陶しい雲が徐々に減っていって、青空がのぞいて、陽光が降り注いできた、、、、という感じにはなれない。本質的には何にも変わってないんじゃないのか、というかむしろ悪くなっているんじゃないか?という気すらします。
日本の改革というのを見てると、既得権をもっている「強い人たち」が隠然として勢力を持っていて、本来こういう人たちは改革案で損をしなければならない筈なんだけど、魔法を使ってるのか、なかなかそうはならない。この「一見改革実は退行」みたいな”魔法”は
、強い人たちとタッグを組んでいる官僚などの「賢い人たち」が、素人にはわからないように改革法案というプログラムにバグというかウィルスをしかけたりして果たされます。
企業にしたって、リストラとかいっても、「まずお前が辞めろ」みたいなおエライさんはなかなか辞めない。引責辞任とかいっても、「代表権のない会長」とかに収まってしまって、相変わらず隠然たる勢力は残してたりします。でもって、ワリを食うのは「弱い人たち」で、行き場がなくなって自殺したり、ホームレスになったり、家庭が崩壊したりしている。で、「準弱い人たち」は、だんだん自分の番が来るのを待っているという。
社会改革にその種の悲劇はつきものだとはいえ、そのあたりの不公平感はぬぐえない感じがします。そして単なる不公平だったらまだしも諦めもつこうが、結局この種の改革というのは、これまでのシステムの悪い部分が、より露骨に悪くなっていくだけじゃないのか?という根本的な疑問、要するに全然改革じゃないんじゃないか?ということです。
とどのつまりは、「強い人たち」が相対的に「弱く」ならないと、そういったパワーバランスが変わらないと、何も変わらないのでしょう。「もっと強い人たち」が登場しなければならない。これまでは外国や外圧がそうだったけど、自律的に変えていくなら、それは個々の国民がまとまってパワーになるしかないです。国民集合パワーというのは、なにげに思ってるよりも遥かに強力で、これに太刀打ちできる組織は日本にはないです。政府だろうが、官僚だろうが、山口組だろうが、CIAだろうが、投票による民主制というプロセスによってパワーが発生する以上、選挙での最強団体が最強パワーを持つことにかわりはないです。既得権をもってる強い人たちがこれに対抗するには、「シラケさせる」か、あるいは「まとまらせないように個別バラバラにして圧力をかける」くらいでしょう。それ以上露骨にやろうと思ったら、ジンバブエみたいに選挙妨害とか不正ですが、そこまでは日本では起きないでしょう。自衛隊の戦車が出てきて投票に行かせないとかは、まあ考えられませんしね。でも、それ以前の段階の、無関心派の育成と個別バラシ作戦で済んでいるという。
ともあれ、なかなか物事が進まない。早く進んでもらわないと、僕らみたいに普通の弱い人たちは困るんですよね。なぜなら改革途中においても僕らはゴハンを食べねばならない。旧体制から新体制に移行するまでの間にも食べねばならない。幕末→明治のようにチャッチャと物事が進んでくれると、「剣術習ってどっかに仕官」というルールが「勉強して役人になる or 商売を興す」というルールに変わりますから、生きていく方向性が見定め易い。戦後のように「士官学校にはいって軍人になる」→「闇物資扱う商人になる」とかね。しかし、今のように、進んでるだかなんなんだか分からないと、どっちをやればいいのか分からんのです。
例えば「これからは個人本位の時代だ、実力主義だ、会社人間よりもアントレプレナーを!」とか言われたってですね、銀行は金貸してくれないし、収入なくても健康保険料は取られるし、まだまだ日本人は肩書きを重んじるから結婚式の席次ひとつでも大企業の方が上座だったりするし、一事が万事まだまだ社会そのものが旧体制のままだったりします。非常にやりにくいです。ベンチャーなんたらとかいって持て囃されたりしても、結局二階に昇って梯子を外されるような目にあったりします。だから、まあ、当面は旧体制でいきましょうか、ほんじゃやっぱり受験は相変わらず大事なのね、就職するんだったら大企業の方がいいわけね、、、という感じになっていってしまう。
日本における「抵抗勢力」の本質とは、結局は僕ら自身なのでしょう。「早く変わらないかな」と願いつつも、とりあえず今日明日変わる様子はないから旧システムでメシを食わざるを得ない、それが結果的には旧体制支持勢力になってしまって、抵抗勢力になってしまっているアイロニカルな部分はあると思います。
皆さん、改革したいんだと思います。そりゃ既得権者は変わって欲しくないだろうけど、圧倒的大多数はなんだかんだでワリ食ってるわけだし、先行きジリ貧なんだから変わって欲しいと思ってると思います。少なくともこのままでいいとは思ってないでしょう。そうでなければ小泉さんが首相になれはしないだろうし、また断行不足を理由に支持率が下がりもしないでしょう。ただ、世の中変わるには、まず自分が変わらねばならない。変わればいいな〜と思いつつ、自分がブレーキになってしまっている。しかし、変わりたくても、次のゲームのルールと目的地がある程度ハッキリ実感できないと飛べない。崖から崖に飛び移るにせよ、向こうの崖が霧に隠れて見えないんだったら恐くて飛べないです。
まあ、そんなこんなで進んでいないのでしょう。展望も描きにくいのでしょう。これだけ進まないと本当に変わるのかどうか真剣に疑問にもなってくるし、その疑問が深刻になるほどに閉塞感も高まるでしょう。だから、「癒し」なんでしょう。
くだくだ書いて本筋が見えにくくなったのでちょっと整理。
日本人がどうしてここのところメンタルに疲れるようになったのか?でした。
仮説その1は、「ストレス」とか「癒し」とかネーミングされることによって意識してきたということ、仮説その2は実際に疲れるようになってきたこと。その理由は、@世界的に不確実性の時代だから、A特に日本の場合、高度成長に過剰適応してきたので変えるといっても変えにくいから、Bさらに日本特殊の事情として、変わる変わると言いながら、なっかなか変わらないこと、特にここ数年の閉塞状況など、が挙げられるということでした。
これらの事情もそれなりにモットモなんですが、僕としては第三の仮説もあったりします。
これだけ猫も杓子も「癒し」「癒し」の大合唱みたいになると、臍曲がりな僕はなんとなく「けっ」と思ったりもするのですね。なんというか癒しを求める心理それ自体に共感できない部分、妙に不自然な部分も感じるのですね。で、この不自然さというのは、上の二つの仮説からでは納得しにくかったりします。
じゃあ、なんなのよ?というと、上手くいえないけど、うーん、なんか、もう「生き物として変!」って感じ。日本人がなんか「変な生き物」になっちゃってるというか。動物として共感できないというか。ちょっとSF入ってるというか、未来小説に出てくる妙に頭が大きく進化してバランスがおかしくなってる人間みたいな感じ。
もともとはこの異様に高度にシステマティックになった状況と、それが閉塞している状況が元凶なんでしょうけど、そういった変な環境に適応するためには、人間も変になっていかざるを得ないのでしょうか。
オーストラリアをはじめ、他国一般的にそうだと思うのですが、メンタルとフィジカルのバランス、肉体性と精神性のバランスが、日本よりもフィジカルにシフトしてるように思います。逆に言えば、日本の場合、これは伝統的にそうだと思うのですが、文化的にそれほど肉体性を重んじていないんじゃないかな。あんまり文化的にマッチョではない。マッチョを尊ばない。そりゃ、鎌倉文化のようにマッチョ性が強い文化もあったけど、平和が続くと平安文化とか江戸文化とか、なよっとした感じになっちゃう。戦時中なんて、最もマッチョであってしかるべきなんだけど、それですら精神性の方が強い。マッチョ文化というのは単純な物質主義でもありますから、喧嘩に勝つには、まず人数多くて、武器も多く、たらふく栄養のあるものを食って、ぐっすり眠るべし(要するにアメリカ的なんですな)、、ということですが、日本帝国陸海軍、特に陸軍は神風だのなんだの精神優位になっちゃってる。
詳しくは知らんのですが、ヨーロッパ、特にイギリスなんか、エリートはまずもって肉体的にもエリートでなければならない。血筋も家柄もいいけど、同時に抜群に頭が良くて、且つ抜群に腕っぷしが強くなければならない。エリート大学になると、伝統的にラグビーやったりレガッタやったり、知的エリートが同時に筋肉ムキムキだったりする、、、実際にどうなのかは分かりませんが、そういう理念型はあります。オーストラリアでも、全日本チームを子供扱いに出来るぐらいラグビーは強いですが、その選手というのが実は昼間は弁護士だったり、官僚だったりするのも珍しくないです。
これは別にムキムキ至上主義ではないと思うのですね。人間として、というか生き物としてのフィジカルな喜び、それは食欲にせよ、性欲にせよ、スポーツにせよ、ファミリーにせよ、立場や身分や年収に関係なく人間だったら自然に必要とするようなエリアの欲求をおろそかにしていないのだと思います。どんなに成功しても、お金が儲かっても、それで生身の肉体をもつ人間としてバランスを崩すようであっては意味がない、という意識が日本よりも強いのでしょう。だから、かなり気合入れて遊んだりします。それもアウトドアで、キャンプやったり、ヨットやったり、泳いだり、走ったり。日本でもそうしている人は沢山おられるでしょうから、なんかずっと見てると、日本の場合、「健康にいいから」という「健康」という”観念”に引っ張られて走ってる部分があるような気がするのですが、こちらはもっと素朴に「走ると気持ちいいから」というか、それを身体が望むから走ってるような感じがします。
このようにもともとが肉体性よりも精神性にやや傾いてる日本が、ここのところさらに精神性につんのめっていって、肉体性とのバランスがかなり悪くなってるような気がするのです。
変な喩えかもしれませんが、家にじっと篭っていると、運動不足になります。血行が悪くなり、新陳代謝が悪くなります。そうなると身体も妙にダルくなってきますし、気持もだんだん塞いできます。生体反応・生命反応が低下するというか、「生きてんだか、死んでんだか」みたいな、不健康でドヨヨ〜ンとした感じになっていきます。心身ともに。そんでもってちょっと動いただけで疲れやすいとか、だるいとかになっていく。そういう場合は、頑張ってちょっと運動して、血のめぐりをよくすれば、エンジンが廻りだすから自ずと精神も溌剌としていきますし、代謝を活発になり、老廃物の排出も速やかに進む。
日本の場合、それに近いものがあるんじゃないかな?と感じたりもするのですね。本質的に運動不足なんだから、もっと運動すればいいものを、運動不足によって陥った諸症状を緩和するための、その場限りの対症療法としての「癒し」といってるような感じがするのです。
ここで「運動不足」と言っているのは比喩でして、別に皆でジョギングすればそれでいいってことを言ってるわけではないです(わかりますよね)。生き物としてあるべき肉体性のバランスが欠けてしまっているので、代謝が悪くなって、それが慢性化していくにつれ、どんどん壊れていっているのではないか?ということです。
ここで僕がいっている「肉体性」というのはなんなのかというと、もっとも生き物として自然な欲求であり、骨太な自然な欲求をベースにしたライフスタイルであり人生観だと思うのです。それは、子供が力いっぱい無心でグランドを走り回ってるような「思いっきり生きる」ということであり、「人生、やりたいことをやる!」ということなのでしょう。そういった、「野生児のような逞しさ」です。
そういった野性的な肉体性をどんどん喪失していって、「高度にソフィスティケイト」されたといえば聞こえはいいけど、人工的技巧的になっていき、生き物として肉体性の希薄な存在になっていってるよな気がするわけです。
例えば、癒し系でいうなら、「海の音のCD」とかあったりします。でも、そんなに海が好きだったら海のそばで、窓から紺青の海原が見えるような、あるいはサンダル突っかけて浜辺に散歩できるような家に住めばいいんですよね。この単純素朴な子供のような欲求をもっと大事にしたらいいと思うのですね。それが出来ないから、「代替策」としてせめて海の音でも、、という感じじゃないですか。そりゃ、簡単に海に近くには住めないでしょうよ。そりゃ、そんなところに住んだら仕事がないかもしれないでしょう。でも、そこを何とかするのが人生の戦いでしょうという気もするのですよ。また、そういったところでも皆が気持ちよく住めるように産業経済の再配置を政治がするべきであり、そういった政府を作るのは外ならぬ自分以外にいないんです。
そこを、そんなこと出来るわけがない、、、と、妙に諦めてしまってるところがモンダイなんだろうと、僕には思えるのです。自分の人生をなんとかするパワー、さらに社会それ自体を変えていこうというパワー、このパワーは生きていく上で(あるいは民主国家を運営する上で)最低限絶対必要なパワーだと思うのです。国民が諦めてパワー不足になったら、結局そこらへんの陰のオヤジ達がニンマリ得するだけですからね。
そういった本質的なパワー、パワーの源泉となる子供のような素朴な願望、人間として動物として自然に湧いてくる欲求、肉体性、野性、そういったものが希薄になりすぎてないか?と思うのです。で、希薄になった挙句、そんなパワーがあることすら忘れてしまい、代替策のようなオモチャにすがってるような気がするのです。そこになんか根本的な不健康さを感じるのです。
安全無害の擬似コピーのようなオモチャばっかりと遊んでると、つまりはぬいぐるみの犬とばっかり遊んでると、生身の犬と遊べなくなるようなヒヨワさを感じます。犬にちょっとひっかかれたといっては大騒ぎをするとか、しまいには転んですりむいて血が出ただけで大騒ぎするとか。
なんか、ちょっと離れて日本を見てると、そういった擬似オモチャばっかり溢れているような気がします。携帯電話なんかオモチャじゃないですか、ハッキリいって。駅のベンチで皆してうつむいて、あんなちっこい機械に、親指でチマチマ入力して何が楽しい?そんなことするためにこの世に生まれてきたんか?ってな気もします。それだけ四六時中誰かと文章のやりとりをし、誰かと喋ってるんだったら、さぞかし人のハートに突き刺さる文章を書けるんだろうな、コミュニケーションスキルも抜群なんだろうなと思ったら全然そうじゃないし。
精神的な方向にシフトしすぎたら、精神が病んでくるでしょう。そして、その精神の病みを癒すのは精神をいじくることではなく、肉体性とのバランスを回復することだと思います。人間が本来もっている自然治癒力というのはそういうものだと思います。というか、これはもう治癒以前の問題かもしれないですけど。
生きてればいろんなイヤなこともあるし、不愉快なこともある。大事なのは「精神の肝臓」のような解毒器官だと思います。嫌な記憶を分解し、濾過し、無害化していくメンタル機構。それは、例えば健康な忘却であったり、悲劇を必要以上に過大に投影させないための広い視野と深い経験であったり、何度も立ち直ってきた旺盛な回復力であったり、イヤなことと同時に沢山たくさんイイこと、素晴らしいことを体験することであったりします。まあ、要するに「懸命に生きる」というプロセスのなかで、メンタルヘルスを守るための解毒機構も鍛えられていくのでしょう。そして、そのなかで最も有効なのは「納得できる人生を送る」ということなのでしょう。日常的なメンタルな疲労や障害に対抗するのは、そういったことが主たる柱になるのでしょう。
じゃあ、冒頭に戻って、「癒し」ってなんなのよ?です。
癒しは確かに必要です。絶対必要といってもいいと思います。「人間に睡眠は必要だ」という文脈で、絶対必要です。ただ、今日本で流行ってる「癒し」というのは、対症療法というか、本来きちんとした回復能力をもっている人が、補助的に使う程度のものだと思います。本来の回復機構が壊れてしまっているなら、まずそっちを直す方が先決なのでしょう。
「癒しのオーストラリア」と言ってほしくないのは、オーストラリアというのは本来「癒し」ではないからです。結果として癒し機能はメチャクチャあるのですが、それは「癒し」としてそうなるのではなく、本来の回復機能そのものを叩き直すからです。希薄になっていた肉体性、素朴な野性みたいなものを賦活してくれるからです
写真・文/田村
写真:Pyrmontから対岸のBalmainを望む
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