ここ数年ほど、開口一番「おつかれさま」という挨拶を言う人が日本で増えつつあるようです。これに対する、「ええんか、それで?」という違和感はちょっと前(
Essay 504:言葉遣いのあれこれ)に書きました。
今回は、もうちょいそれを広げて書きます。
人間関係と定型処理というテーマです。
「おつかれさま」の災いと挨拶論
ビジネスチャンス(含む就活)をミスる
安易に「おつかれさま」とか言ってると、人間関係をしくじる危険性があると思います。
具体的には、就活に失敗するとか、取引先を見つけられないとか、友達が出来ないとか、恋人や結婚に不自由するとか、です。そーゆー言葉遣いをしていると、物事が上手くいくケースよりも、うまくいかないケースの方が確率論的に多かろうと。絶対にそうなるとは、勿論言わないけど、そうなる潜在リスクはある。
なぜか?これは簡単。人間関係を定型処理しようとしているからです。
目の前の相手を見ていない、相手の個性や状況に着目しない、他人をただの記号としてしか扱っていないという、「他者に対する本質的な無関心」がはからずも露呈してしまうからです。「お前なんかに別に興味ないし」宣言をやってるというか、かる〜い意味で喧嘩売ってるというか。
目の前にいる人間を大事にしようとすれば(自分にとって大切な人だったら)、出会ったときの開口一番のセリフも臨機応変に変わるはずでしょう。例えば、母親が学校から帰ってきたわが子を迎えるときは、その子の状況に応じてセリフも自然に変化する筈です。明らかにイジメられてきたかのように顔中にアザを作ってきたら、「まあ、どうしたの?」と聞くでしょうし、やたらニコニコして笑いを噛み殺している顔をしてたら「なんかいいことあったの?」と聞くでしょう、傘を持たずにズブ濡れになってたら「まあ、濡れちゃって!早く着替えなさい、お風呂わかすから」とか言うでしょう。
子供が笑ってようが、泣いてようが、常に同じく「おつかれさまです」という母親は少ないと思うのですよ。これに異論はないでしょう。なんで母親は「おつかれさまです」と言わないのか?といえば、相手の個性や状況に着目し、大事なことだと思っているからです。ここで、そんな改まった「挨拶」を家族間でするわけがないじゃないかという人もいるでしょうが、家族間でも「おはよう」「おやすみ」は言う。
同じように、自分にとって大切な恋人や配偶者だったら、その日のその時の変化に応じて、「どうしたの?なんか疲れてるみたい?」「寝てないの、昨日?」「なんだよ、ニヤニヤして」「お、今日は張り切ってるじゃん」とか言うでしょう。デートの待ち合わせで出会って、あるいは帰宅したパートナーを迎えて「おつかれさまです」と言いあってるカップルというのは、そうはいないと思うのですよ。違いますか?
ということは、「おつかれさまです」という表現は、「あなたは私にとってそれほど大事な人間ではありません」宣言でもあるわけですよ。か〜なり危険な表現ですよね。いい度胸してるな〜という。
挨拶が挨拶として成立する条件〜意味性の摩耗消滅
もっとも、自分にとって大事な人間なんてのは、そうそうザラにいるものではないです。一生の間に出会って挨拶する人間が何十万人いるのか分からないけど、そのうちの99%は「どーでもいい」人達でしょう。どーでもいい人達に対しては、どーでもいい処理を施すわけなんで、これは「定型処理」です。ルーチンとして「これさえ言ってれば大丈夫」「失礼にならない」という定型文句で処理していく。
これがすなわち「挨拶」です。
挨拶フレーズの挨拶フレーズたるゆえんは、
@ぞんざいな定型処理をやりつつ、
A定型処理の無礼さを感じさせない
という絶対矛盾をクリアしている点にあると思います。
この絶対矛盾クリアは、言葉が本来持っている意味性が消滅することによって成り立つのでしょう。ほとんど全員の人々が、文言の内容とは関わりなく「挨拶」として使うことで、その言葉の内容が無意味になる。だからこそ純粋に儀礼的な呪文になり、且つその儀礼の呪文を吐くという友好性や敬意だけが純粋に浮かび上がるという点にポイントがある。インディアンが、戦意のないことを表わすために片手を挙げて「ハウ!」というようなもの(ホントにそんなことやってたのか分からんけど)、お相撲さんが土俵で蹲踞して対峙したときに、武器は持ってませんよという意味で両手を広げて平手を相手に示す動作のようなものです。
ここにおいて言葉は「文意の伝達」という本来の機能を消滅させ、純粋に儀礼ツールになり、「挨拶」として通用するようになる。
ところが「おつかれさま」というのは、まだ文意が完全に死んでいない。妙な意味性が残ってしまっていて、純粋な挨拶レベルまで昇格していない。少なくとも日本語を操る話者全員の共通認識になっていない。「こんにちわ」「さようなら」レベルにまでなっていないと思われます。
一方、「こんにちわ」は完全に挨拶になってます。意味性がゼロですもんね。
「今日(こんにち)は」のもともとの意味は、調べてないからよく分からないけど、察するに上代の陰陽道とか道教あたりにまで遡ると思います。天体の運行や様々の原理によって四柱推命やら何やら「今日は○○の日」というのが決まっているという世界観。「物忌み」の日にはどうするとか、方角が悪いから方違え(かたたがえ)をするとかが大まじめに行われていた時代。あの頃は、それがホーキング博士の宇宙論みたいに、最高水準のサイエンスだと考えられていたので、皆それに従った。
迷信深いと笑うなかれ、今から300年後には僕らの科学信仰が笑われているかもしれない。「あの頃は電子というのが本当にあると信じられていたのですな。本当は○○(←21世紀の人類には未知の科学原理)の作用なんだけど、”電子”ってものがあるという仮説が見事にはまるもんだから、早合点してしまったんですね」「アホですね」「そんなの五次元時空間の物質転移実験をすれば小学生にもわかるじゃん」「いやいや科学というのはそういうものですよ」なんて話しているのかもしれません。
ともあれ当時は、「今日はどういう日か」というのが超重要だった。日が悪いときに何かをやると、やることなすことダメダメで、下手すれば死ぬ。あの頃は「医学=お祈り」だったので、いとも簡単に人が死んだし。だから「日を選ぶ」というのが滅茶苦茶大事だったのでしょう。これは現在にも残っていて、未だにカレンダーに大安とか友引とか書いてありますもんね。結婚式を仏滅にやる人は少ない。信じてないけど、なんか気持ち悪い。
そういう背景があって語られる「今日は」はとても意味に満ちていたのでしょう。今では結婚式の司会の冒頭セリフ=「こんにちはお日柄も良く」という表現にかすかに残っているだけで、「今日は何の日」という言葉の意味性はほとんど消滅している。だからこそ挨拶に使える。
英語の"good morning"も、どんなにしょーもない朝にも使う。朝っぱらから見るからに凶悪な黒い雲がもくもくと空を覆い、不気味な雷光が走り回っていても「グッド」モーニングなのだ。もう意味性がない。なさ過ぎて、現場では"good"すら省略して、ただただ皆で「朝!」「朝!」と声を掛け合っているという、意味性を考えたらとっても間抜けな状況になっている。挨拶ってのはそういうものでしょう。
いずれにせよ、それが挨拶として定着するためには、長い年月を経て意味性が脱色されていく必要があるということです。
挨拶「不成立」の場合とそのリアクション〜「違う種族」には通用しない
繰り返しますが、「おつかれさま」は、まだその境地にまで達していない。この先10年、20年、100年後に意味性が完全に脱色し、挨拶言葉として昇格するかどうかも微妙なところでしょう。
現時点においては、3才の幼児から116才の最高齢者まで全ての日本語スピーカーの共通認識になってはいない。まだまだマダラ模様で、非常によく使って完全に挨拶として定着しているグループもいれば、全然そうなっていないグループもある。その意味では、依然として「はやり言葉」の域にあると思います。
このように「生煮え」の言葉を迂闊に使うと、話者の意図に反して、挨拶の儀礼的敬意よりも言葉本来の意味性が濃厚に出てしまい、「俺が疲れているかどうかなんか、なんで会ったばかりのお前にわかるんだよ?」「いい加減なこと言うんじゃねーよ!」という、リスキーな反作用を招いてしまう。
挨拶が挨拶として機能しないこと。これはヤバイです。
「とにかくこれを言っておけば大丈夫」→「相手の個性や状況なんか見る気ないもんね」「だってそんなに大事な人ではないもんね」という「無礼きわまる定型処理」性だけが露骨に浮き上がってしまうからです。結果として、挨拶の効果(対話者との友好親善の促進)とは全く真逆にいってしまう自殺ツールでもあるわけですな。
それが証拠に「おつかれさま 不愉快」あたりでググってみたら、色々な意見や現場の戸惑いが出てきます。その是非/正邪はどうでもいいです。その言葉の何が「正しい」かなんか、この際どーでもいい。問題は「人によって受け取り方がマチマチである」という事実です。もともと定型処理は無礼な毒物劇物なんだけど、「人口に膾炙(かいしゃ)」という解毒酵素が働くことによって解毒される。十分にカイシャされていなかったら毒性が残ってしまう。
いずれにせよ、言葉というのは相手がどう感じるかであり、機能的に有効に作用するのか/しないのかというプラグマティックな話です。そしてリスクがあるならそのリスクを綿密に査定し、使える局面を正確に選定すべしってことです。
とりあえずこれから就活を狙うとか、起業を考えている人は、こんな下らないレベルでコケてたら大損ぶっこきますので知っておいた方がいいんじゃないの?ってことです。てか、10代20代のコドモ達に、世のオトナ達は教えてあげているのだろうか?言葉というのは、使い方ひとつ間違えただけで首が飛ぶほどの凶器性を持っているということを。これは解職という意味だけではなく、本当に殺害されることもある。古来、口を滑らせたが故に権力者の逆鱗に触れて殺された人のいかに多いことか。「舌禍」という言葉もあることだし。
総じて言えば(あくまで一般論に過ぎませんが)、そのグループの知的水準、とくに言語的水準が高い(言葉の使い方について非常にセンシティブな職業=弁護士とか文筆業とか役人とか)では、この種の定型処理を嫌う。平均的な日本人よりも言語感度が良いから、相手の言語レベルの稚拙さをすぐに見抜いてしまう。ゆえにレベル高めの就活を狙っている人にとって、迂闊な言動は「僕は馬鹿です宣言」になるので地雷になりうる。
逆に「口動かすよりも手を動かせ」という肉体系、現場系、ガテン系の場合は、言葉に重きをおかないで、行動に重きを置くので、挨拶なんか「元気があって歯切れが良ければそれでよい」という話になります。もともと「おつかれさまっス!」は、ヤクザ用語で、今のように2010年前後に普遍化するはるか以前、80年代よりさらに昔のヤクザ映画やマンガにもよく出てきます。刑務所を出来てきた兄貴分に対して言う言葉ですな。本来がガラの悪い言葉ですわ(言い方一つではあるが)。転じて肉体系の体育系部活、応援団、さらには現業仕事系(美容院で頭洗って貰ったあとの店員さんの挨拶)に広がっていったのでしょう。
自分も相手もこの種の同じグループに属しているなら、それはそれで挨拶として問題なく成立する。しかし「違う種族」には通用しない。
そして、結果として、しかも皮肉なことに、現在では就活などの局面で、その人の「世間や視野の範囲」を測定するツールになっている側面があると思いますね。大学生とか20代ってなんだかんだいって社会経験も少ないし、世間も狭いです。それは良いし、無理もない。問題は「どれだけ狭いか?」であり、「どれだけ狭いということを自覚しているか?」ですわね。仲間内で通用する常識が、世間一般ではどれだけ通用しないか、そのリミットをどれだけ正確に見切っているか、見切ろうという努力を計っているか、その人の社会センスを計る格好の試金石になりえます。
僕が採用官だったらどうするかといえば、それが道路工事の会社の現場作業員を募集しているなら挨拶は内容ではなく声が大きいか、ハキハキしてるかで見るし、それがホワイトカラーで特に富裕(高齢)層やインテリ層を相手に商売をするなら、言語センスの良し悪しは致命的だからそれを見るでしょう。当たり前っちゃ、当たり前の話です。言語センスの悪い奴に、取引先に行かせたり、記者会見とかやらせたら大災厄を招きかねない。
そして、狭いタコツボ社会にいるかどうかの自覚度は、採用にあたっては、その人の「伸びしろ」を測定する尺度にもなりえます。狭い村社会がこの世の全てだと思ってる人は、新しい社会に入っていった時におそらく適応障害を起こすんじゃないか?という懸念がある。その懸念がどれだけ正しいか、どれだけ実証的データーに裏付けられているかはこの際どうでもよく、そういう懸念を招くリスクがあること、そのリスクを察知する能力があるか・ないかが更に遡ってポイントにもなるでしょう。
手抜きしたら、それなりのリターン
ということで、「おつかれさま」が良いか悪いかを一義的に決するかのような議論はある意味ではナンセンスでしょう。それはその人のバックグランドと、その人と話している現場の状況と、どういう側面でその人と付き合うのかという、全要素をブチこんで総合的に、しかも一瞬一瞬に判断することになります。
少なくとも僕はそうします。常に出来ているかどうかは分からないけど、そうありたいとは思います。なぜなら、人間に対しては出来るだけ定型処理をしたくないから、定型処理は他者に対する侮辱でもあるからです。
「おつかれさま」が、その人のバックグランド=腕一本の職人気質という背景から出てきているのであれば、それは職業的な”方言”としてレスペクトします。しかし右も左も分からんガキンチョが、一生懸命背伸びして、これなら失礼にあたらないだろうという未熟な発想で語っているなら、それなりに受け止めます。「失礼に当らないように気を使う」という面が強かったらその礼節心をありがたく頂戴しますし、ぞんざいな定型処理的側面が強い場合は「あ、そーゆー奴か」と受け取ります。誰でもそうするじゃないかな?
何度も言いますが、定型処理=「これさえ言っておけば」というのは、目の前の個人の個性・状況に注目する気は「ない」ということであり、さらにその深層心理を掘り下げれば「出来るだけ対人関係に手抜きしたい」ということでもあるのでしょう。そして「おつかれさま」がいいか/悪いかという一義的な議論は、それが定型処理の土俵にあがって語られている時点で既に終っていると思うのでした。
だいたいAといえば失礼で、Bと言えば大丈夫という発想そのものが、マークシート的に愚劣です。人と人との接触というのは、言葉以外にも無数の要素があります。相手の背景、状況だけではなく、言い方もあります。声の調子や語調の強弱の他、目を合わせているかどうか。さらに視線の種類もあります。ひたと凝視するのか、穏やかな包み込むような視線か。日本人の場合、お辞儀や目礼の有無・程度もあるでしょうし、西欧人の場合にはボディランゲージや握手もあります。
結局は、その人の真摯さ、誠実さ、温かさ、フレンドリーさが出ているかどうかでしょう。そして、それは全体のオーラによって直感的に感得できます。太陽のような明るい笑顔で両手を大きく広げて「やあ!」って言ってくれたら、 OR ふきのとうの芽吹きのような初々しい、はにかんだ笑顔でペコリと頭を下げてくれたら、それだけで素敵な出会いが始まるという気分になります。
究極的には「○○と言うべし」なんて、言葉の内容なんかどうでもいいんですよね。英語学習の所で何度も書いてますが、人間のコミュニケーションにおいて言語の占める割合なんか高々十数%に過ぎない。80%以上はそれ以外の要素(雰囲気やオーラ)によって決まる。言うべきコトバの内容なんか、英語だったら「ハ〜イ!」でいいし、日本語だったら「どうも」でいいのだ。フレンドリー路線で行きたいなら、「これさえ言っておけば」なんて発想そのものが根本的にアウトです。大切な人を定型処理するな、です。
逆に儀礼的な局面であれば、儀礼的に洗練させよであり、それは保守的でトラディショナルに洗練させておけば間違いがない。儀礼というのは本来そういうものだからです。意味もなく、ただただ七面倒臭いことを順序正しく正確にやるという、その七面倒臭さを乗り越える意思と行為に、相手に対するレスペクトが宿るという構造を持っているのだから。お相撲さんの土俵入りにせよ、武道の礼にせよ、お焼香の作法にせよ、極めつけは天皇の即位の礼にせよ、ひたすら複雑なダンドリをしっかり記憶し、ビシッと正確に演じるところに真摯な畏敬の念が表現される。だからここでも「これさえ言っておけば」という「手抜き」心は、アウトです。
ま、早い話、人間関係にせよ何にせよ、手を抜いたら、手を抜いただけのリターンしかないよ、という当たり前の原理です。「〜さえ」とか「〜と言っとけばOK」とかいうクソぬるいフォーマットに載せている時点で、「お前はもう死んでいる」でしょう。
ちょっと不思議なんだけど、そんなに考えるのが面倒臭いの?そんなに他人と接するのが邪魔くさいの?考えたり、他人と接したりするのが楽しくないの?本当の問題点はココにあるのかもしれないです。
定型処理とロマンス系
以上はビジネス局面ですが、次に重大な副作用があるのはロマンス系です。つまりは恋人が出来ない、結婚相手がいないという。
「女の子」という定型処理
世の中にはモテてる人がいます。あるいはモテ期もあります。
もちろんルックスというスペックである程度の効果が上がるしょうが、それだけではない。
僕の昔の友人関係でもよくモテる奴がいまして、ちょっと見ないともう新しい恋人が出来ている。でも、あれは「モテる」という表現とはちょっと違って、女性と仲良くなるのが上手ということであり、さらに正確にいえば「仲良くなる過程がスムースで自然」だということです。
共通要素としては「女を女として見ない」ことだと思います。少なくともテクニカルにはそのツボを押えている。ここ、注釈が必要なのですが、女性としての魅力を全否定するとかそんなこと言ってるわけではないですよ。そうではなく、女性という「属性」ではなく、まずワン&オンリーのその人の個性に着目し、それを優先させることです。
つまりは、ここでも同じく「定型処理をしない」ということです。
目の前のイッコの人格に着目し、集中し、理解しようとして(少なくともその素振りは見せ)、そしてまず人間的に仲良くなる。フレンドリーな雰囲気になる。その過程がスムースだということですね。女の子と簡単に仲良くなれる人って、女系家族、つまりお姉ちゃんや妹が沢山いるような環境で育った人が多い気がします。彼らはにとっては女性が特別な存在ではない。当たり前の存在でしかない。女性に対する無駄な幻想も、無駄な力みもない。だからナチュラルに話しかけられるし、ナチュラルに物事が進む。「いい男には大体既に奥さんがいたり恋人がいる」というのも同じ原理が働くのだと思います。女そのものは見慣れているから、ナチュラルになる。
これがですね、「女の子という定型処理」をすると結果は往々にして悲惨でしょう。
まず、相手の個性に着目しないという点で、人間関係の基本で重大な侮辱をカマしているわけですね。女だったら誰でもいい、セックスできたらそれでいいみたいな、セックスオブジェクト扱いであり、人間扱いしていないという。この根源的侮辱でまずイエローカード。
大体、そんなネットでエロ画像をダウンロードするようなフォーマットで生身の人間に接していたって、相手は引くだけでしょう。「お、お、お、女の子〜!」とばかりに、スタマリング(どもり)でスタッガリング(ヘロヘロよろめき)な風情で、暑苦しく迫ってこられたら、「なんかヘンなもんが来たで〜」で普通は逃げますよね。ま、これはマンガチックに描写してますけど、言わんとすることは分かると思います。
ここで新たな原理としてあげられるのは、
「人間関係で定型処理をする人は、定型処理をされる」という原理です。
「女の子はこう言えば落とせる」「耳元で○○と囁くと効果絶大」みたいな、愚にも付かない定型知識をモトにして定型的な迫り方をしている人は、「カラダ目当てにつきまとってくる有象無象のクソ男子」という定型処理をされてしまうわけですな。
相手のキャラを認めない人は、自分のキャラも立たないです。私は定型処理をするような定型的な人間でーす、定型的な雑魚キャラでーす、と宣言してるようなものだから、対応も定型的になる。ならざるをえない。自業自得ってやつですな。
第一ステップと第二ステップ
以下は余談です。
もっとも、スムースに仲良くなっただけでは、「いい友達」が増え、「いい人」と思われるだけなので、恋人や結婚相手にまで昇格はしません。
そこでステップ2の男女フォーマットに変化させる必要があるのですが、ここはマジカルでミステリアスな段階です。私ごとき浅学非才な輩には、到底皆様にご披露するようなコツもノウハウもありません。
ただ言えるのは、ステップ1(人間的つきあい)あってこそのステップ2(男女関係)だということです。その人の個性を理解し人間的に親しくなったという土台をもとにして、その尊敬すべき個々の個性や属性のうちに「女性としての魅力」を認めるという。
女性も男性も、あなたも私も、他人に認められたい、認められるとうれしい自分の個性は幾つかあります。多くは人格的なものでしょうが、中にはフィジカルやセクシャルなものもある。「女性的(男性的)魅力がある」と言われてイヤな気になる人はいないでしょう。ただし、それもこれも人間的に認めてもらった上での話でしょう。
ステップ1をすっ飛ばして、フェロモン系「だけ」が強調されると、ステップ1(人格的部分)はどーでも良い、アホでも馬鹿でもナイスバディでエロかったらそれで良いって裏の暗喩も出てきてしまうのでそれがダメってことなんでしょうねえ。早い話がおっちゃんの下品な振る舞い=「ねーちゃん、ええケツしとるやんけ」的な言動になってしまうからNGだと。そこまで露骨な表現はしないにしても本質的には同じだと。これは、女性の容姿容貌を褒めるような言動すらセクハラとして訴えられることとリンクしています。別に褒めたらダメってことではなく、そこだけ浮き上がってしまうと、セックスオブジェクト的な視線として被侮蔑感情を生み出すから問題なのでしょう。
アホみたいな公式的に言えば、ステップ1>ステップ2で、人間的付き合いの土台よりも広く男女的な要素がはみ出してはダメだよってことなんでしょうねえ。ま、一概に言えるわけもないのだけど、ワタクシの貧弱な経験で僭越に言えば、ステップ2なんかちょっとで良い。うどんにかける七味唐辛子くらいの割合でいいんじゃないかと思いますけど。まずは相手の人間的長所を探し、認める。思慮深いとか、アートの感性が鋭敏とか、自分のスタイルをもっているとか、幾らでもありますよ、そんなの。その上で「どうしたの?ぼーっとして」「あ、ごめん、いや、すごい綺麗な髪してるんだなって、つい見惚れてしまって、いや、なんでもないです、忘れてください」くらいの感じでええんだろうなって。
ま、でも、これは理屈で言ってるだけで、自分の半生を振り返ってこんな前頭葉が痒くなるようなことを言った記憶はないです。うーん、ないと思うぞ。そんな小細工弄さなくても、1→2は、いくときは自然にいくしなあ。いかないときはカミナリ様が落ちてもいかないしなあ。テクニックとかそういう問題なの?って気もします。
なお、例外的に、10代から20代前半みたいな生物学的に「繁殖期」「発情期」にある年代は、「人格なんかどーでもいい」という状況もあります。昔で言えば夏祭りの後みたいに、そこかしこの草むらでセックスをし、夜這いをかけるという。ナンパをしにいくために男子が集まり、ナンパをされるために女子が集まるという、ほとんど「乱交一歩手前」みたいな場もあるわけですわね。
そういう場においては、人格もクソもないですから、見た目のフェロモンがモノをいうでしょう。ステップ1なんか無いも同じ。これは繁殖期にある男女だけではなく、スワッピングパーティだの秘密パーティでも同じことです。しかし、ま、長い人生と広い世間全体からしたら「ごく一部の世界」でしかないです。
余談から本題に回帰すれば、つまりは定型処理をするとろくなことにならないという話でした。
これは、「結婚相手」という定型処理も同じことでしょう。まず仲良くなって〜、自然とイチャイチャしたくなって〜、イチャイチャするパーマネントな時空間が欲しくなって〜、ほんでもって誰にも文句言われたくなくって〜、だったら結婚というシステムを我が社でも取り入れましょうってなダンドリじゃないすか?結果としてそうなるだけの話で、別にそうなるためにやってるわけでもないし、本末転倒じゃないかな。。
本末転倒でいえば(また余談になるのだが)、日本のマスメディアでアベノミクスを持ち上げているのですが、あれ不気味というか、「提灯記事はこう書く」というお手本というか。誰もが指摘してることだけど、インフレというのは「結果として」なるから意味があるのであって、インフレから入って景気を良くするってどゆこと?と思います。なんでインフレ=景気が良いかといえば、モノが沢山売れる→生産販売のために人手不足になる→賃金が上がる→生産コスト(人件費)があがるから値段も上がる→インフレになるという、風が吹けば桶屋が儲かる論理ではなかったのだろうか。桶屋に補助金出したら風が吹くとでも言うのか?要は人手不足になるかどうか、給料があがるかどうかがポイントであり、給料が上がらずインフレになったら、これは地獄でしょう。
まあ、僕もそんなに頭が良くないのでリフレーションの理論なども咀嚼しているわけじゃないです。でもねえ、本当にそうなの?って気はしますね。そもそも上の理屈だって19世紀の発想で、生産や販売は地域的条件によって限定されるという大条件あってのことでしょう?財貨や人の移動が大変だった頃は、山脈一つでエリアが分断され、とある地方で生産し、とある地方で販売消費してたという地域限定があった。そのエリアにいる労働者の数が限定されているからこそ、生産が活発になれば人手不足になり、賃金が上がるという理屈になる。でも今はボーダレスになりつつあるので、別にそのエリアで生産し雇用しなくても、もっと安いところで生産雇用しうる。人手不足にならない。それがグロバーリズムってやつでしょう。だとしたら大企業がウハウハ儲かったとしても、それは安いエリア(日本以外の)で生産したりアウトソーシングした結果、人件費圧縮の結果だという場合も多いだろうし、現にそうでしょう。つまり企業が喜んで「景気」とやらが良くなっても、国民にはあんまり還元されない。てか逆に首切られたり、給料減らされたりする。それは2007年までの好景気を振り返っても、あるいはお隣の韓国の状況をみてもそうです。
今取り組むべき問題は、従来の枠組みから外れつつある国民経済をどうしたらいいかである筈なんだけど、なんでお金をジャカジャカ刷ってインフレ誘導したら良いのか僕には分かりません。そもそも発想が古いし、その古い発想を規準にしても本末転倒だし。そりゃ、お金を増刷すればいっとき流動性は増えるから浮揚効果はあるでしょう。また行き場をなくして困っている海外投機マネーも入ってくるでしょう。でもそれもこれも一過性の話であり、いわば覚醒剤を打って元気に見せてるだけじゃないかという根本的な疑問があります。そんなアベノミクスならぬシャブノミクスみたいなことやってて意味あんのか?って話を、なんで普通に大々的にしないんだろ?って。どうせ参院選までの茶番であるというのが国民の暗黙の常識なんですかね。
余談が過ぎました。一章別におこしても良いのだけど、それほどのこともないかと思い、ここに挿入しておきます。
で、海外にて
海外に来たら、少なくともオーストラリアに来たら、この種の「定型処理」はできません。全く不可能かというと、そんなこともないけど、難しいでしょうね。
なんせ200民族もいるんだから、民族的に定型処理しようにも、定型が200もあったら覚えきれないし、そもそも知らないもん。それに、そんな「オーストラリア人は」「インド人は」「中国人は」なんてクソ定型、シェア探しやったら一発で木端微塵にぶっ壊れます。「いろんな人がいるなあ」という途方もなく当たり前の現実の前に、類型論なんか何の役にも立たない。
過去に何でも書いてますが、「目の前にいる奴がグッドガイかバッドガイか、ただそれだけだ」という。もう否が応でも目の前の人間に集中しなければならない。
だから気持ちいいんですよね。相手も、目の前にいる自分、ただそれだけに集中してくれるから、バックグランドやら属性やらは遠のいて、一期一会の一挙手一投足、ただそれだけ見てくれるし、ただそれだけで判断してくれるから、とっても楽です。やれ年齢がいくつとか、どの大学でてるとか、職歴は正社員なのか派遣だけなのかとか、そんなの全〜然興味ない。「今ここにいる自分」ただそれだけで判断してくれるし、つきあってくれるから楽です。こっちも今目の前にいるこの人だけに集中すればいい。楽です。てか気持ちいいです。
逆に、永住権の職歴審査や就職における採用においては、異様に精密だから「定型」なんてぬるい発想ではやらない。「IT系です」「ああ、ITね」なんて大雑把な話には間違ってもならない。どの業種のITで、具体的にどういうシステムを、どの程度の人員&予算規模で組み、その役割は具体的に何で、どの程度の貢献度があったのかまで事細かに査定される。要するに「部品の調達」みたいなものだから、1ミリ違っても使えない。だから学歴なんていう定型は大雑把すぎて使えない。そこで学んだ知識と技術を具体的にどういう形で活かし、どういうキャリアをどの程度積んだのかが厳しく問われるだけです。
それゆえに厳しく、大変な部分も多いのですが、でもフォーカスが合ってて気持ちいいですよ。
何よりも、自分の目で見て、自分の頭で判断して、その判断に全責任をひっかぶるのが当然という「個」が立ってる人間とはつきあってて気持ちいいです。「漠然とした世間を象徴するような匿名的なイチ個人」みたいに、人間と話してるんだか、システムと対話してるんだか分からないような気持ち悪さがない。
英語にも定型表現はありますし、定型処理することはあります。「サー」をつけるかどうかとか。ほんでも、日常生活ではそんなのは稀で、それよりもこっちの人は表情豊かだから、「何を言うか」よりも「どう言うか」という要素の方が大きい。
オーストラリアでも口癖みたいに良く言うフレーズは沢山あります。"No Worries, Mate!"なんか典型だけど、「そう言っておけばOK」ってものではない。そうかもしれないけど、その「言う」ってのがかなり難しい。昔の江戸っ子言葉の「べらんめえ!」「てやんでえ!」みたいなもので、TPOが微妙に厳しく限定されているだけではなく、言うべきタイミング、語調の強さ、音程やメロディがビシッと合ってない滑ってしまう。もう民謡の合いの手や、ドラムのフィルインやオカズのように、絶妙な"間"で言わないと感じが出ない。生粋の京都人でもない人が「お越しやす」と言っても浮いてしまうのと同じで、「これさえ言っておけば」という定型文句のイージーさよりも、「どう言うか」の難しさの方がずっと強い。
それにですね、こちらでは一人ひとりの個性が強烈過ぎて(^_^)、ますます「何を言うか」という儀礼定型なんかぶっ飛んでしまうのですね。だってさ、サンタクロースみたいなおっちゃんが本当に目の前に立ってるんだぜ。髭もじゃのソクラテスみたいな奴や陽気なゴリラみたいな奴が話しかけてくるんだぜ。リアルに想像してくださいな。「これさえ言っておけば」って世界じゃないんだよな。
文責:田村