日本語の変化とメンテ
よく言われるように言葉は生き物ですから刻々と変わります。日本語もそうで、年々微妙に変わっていきます。前にも似たようなことを書いた記憶がありますが、海外に行ったきりの鉄砲玉生活を20年近くやってますと、日本語のメンテナンス=新しい言い回しや語法をアップデートさせていくことになります。幸いなことに僕の場合は、ほぼ毎週、日本から産地直送の取れたてピチピチの若い人達が来てくれ、数日間おつきあいするので、この種の作業にはそれほど不自由しません。
これは感染のように自然に「うつる」場合もありますが(風邪もうつったりして免疫抗体の更新もしてますが)、実は結構意識的にやって(聞いて)いたりもします。この場合、いわゆる「流行語」や若者言葉なんてのはどーでもよく、さらに「流行のモノゴト」もどうでもいいです。無視。なぜなら、この種のことは寿命が短いので覚えるだけ無駄だし、むしろ妙に引っ張られて全体のセンスが悪くなる危険もあるからです。注目するのは、使用する人の数が徐々に増えてきて、いわゆる「人口に膾炙」してきた部分、日本語がパーマネントに変化していく部分です。定着したかどうかですね。
具体例を挙げるとわかりやすいのでしょうが、うーん、そうですね、「てゆうか/てか/つーか」とか、「ありえない」とか。どっちも昔からある日本語なんだけど使われ方が変わってきていますよね。「ありえない」ももともとは、"impossible"で論理的に成り立ち得ないというサイエンティフィックな使われ方だったのが、「雨降ってきたよ」「えー!ありえなーい!」という単純に"No!""I wouldn't accept it"という"Oh my God"的な強烈な感情的反発を意味するようになり、さらには"unthinkable""incredible"という「考えられないくらい途方もない」という程度の強調を意味する一般語法に変わってきているでしょう。「ありえないようなハイパーインフレが襲った場合」とか。
「結構〜だ」というのも、僕も便利だからよく使いますが、昔よりも頻用されるようになりましたね。「結構そういう人っていますね」と。「結構」というのはその昔は「もう結構です」という"no"の意味、あるいは「結構なご趣味で」という使い方が多かったと思います。今の「結構」に対応するのは、「割合」「割と」という言い方でした。若い人(当時の僕から見たら年上だったが)の多少崩れた言葉遣いでは「ワリカシ」なんて言ってる人もいましたね〜。今となっては死語ですけど。
「です」の”で”を省略して「す」だけで喋る語法もここ10年くらいでリバイバル復活のように増えてきました。体育会系ノリの「オス!」、お相撲さんの「ごっつぁんス」みたいに、何でも最後に「ス」をつけておけば良いというという「無理やり敬語」「安直敬語」。これはタテ社会性が強い体育会系ノリに親近性があるのか現場・ガテン系でも好まれており、また暴力団関係者でもよく使われていました(幹部クラスは使わないけど)。だからバブル期にはあんまり流行らなかったですね。しかし、ここにきてまた復活してきたような気がします。これって経済状態に対応しているのでしょうか。
あとは、「めちゃくちゃ」を「めっちゃ」とハネるのは関西弁ですが、関西系お笑いの全国区化とともに全国区なっているのでしょうか?名古屋弁の「めちゃんこ」は、同地出身の鳥山明氏の「Dr.スランプ」でいっとき流行ったかような気がするが、全国化してはいないのではないでしょうか?「超」なんたらというのが、「超おもしろい」と形容詞を修飾する用法ではまだスラングの域を脱していないのですが、「就職の超氷河期」と名詞化する場合にはアリでしょう。「ヤバイ」が"very good"という逆の意味を併せ持つようになったのもここ10年くらいだけど、これもスラング以上には上れないでしょうね。
英語をもっと滑らかに喋りたい人は、自分が日常的に喋っているしゃべり方に対応する英語表現を探し出してストックしておくといいです。日頃自分が使っていない日本語表現での訳を記憶しても、そもそも使ってないから、いざというときに出てこない。よく言うのが、「てゆうか」が"actually"です。この言葉も英語圏(少なくともシドニーでは)ではよく使われる言葉で、あまりにも多用しすぎなので、SBS(NHK第二放送みたいな局)ではスタッフ間で"actuallyを使ったら罰金○ドル"とかやっていたと、ずっと前に放送でやってました。この話も前にしましたね。でもその使用頻度の多さと、意味からして、「てゆうか」て言いたいときは"actually"と言っておくと通じます。これを、「てゆうか=○○と言うよりもむしろ」と置換し、"in other word"(別の言葉で言えば)と言ってしまうと、ちょっと口語のニュアンスとしては固すぎる気がする。「超」なんたらは、汚いカジュアルな用法でいえば"fuckin'"でしょう。もう「超」以上に使う人もいますね。5秒に一回という(^^*)。しかしこの種の"four letter word”をキチンとした席で言うのは、日本語の「超」以上に自殺行為なので注意。
「〜ス」は、これは対応するのがないけど、オーストラリアにおいては「マイト」と「サー」の中間くらいでしょうか。「OKス」というのは、"OK, mate""OK, sir"というような感じ、、なんだけど、そもそもが無理メな表現なんですよね。「OK」というのはカジュアル過ぎて元来敬語になりえない(英語でも日本語でも)。だから「ス」をつけて無理やり敬語にしても本来敬語になってない。だから同格的な「マイト」の方が正しいんだけど、そうなると「ス」のもつ敬語的なニュアンスが消えちゃうので「サー」をつけるという。でも、"OK, Sir"というのも頭の悪そうな英語で、この頭の悪そうな感じが「なんでも”ス(サー)”をつけときゃいいんだろ?」的な安直敬語な感じに似てる。ちゃんと言いたかったら(営業先や就活で)、それもハイレベルになればなるほど、「了解(承知)しました」「かしこまりました」と言うべきであり、英語でも"I understand, Sir""Certainly, Sir"とちゃんと言うべきでしょう。ちなみに洋画を見ても、軍隊などでは何でもかんでも必ず「サー」をつけますね。「フルメタル・ジャケット」などでも"I don't know, Sir!"とか言う。これも無理やり敬語に近く、また旧日本軍(特に陸軍)の語尾に「デアリマス!」をつけるのに似ている。一種の業界方言でしょう。
「いいじゃん!」「イケてんじゃん」みたいな単純な褒め言葉は、"It's cool"とか"awesome""nice""great"でいいのですが、英語は肯定的な形容詞が山ほどあるので、ボキャを豊かにしておくのが実戦的なコツだと思います。「いっつもコレばっか」にならん方がいい。ワクワク感を出すのなら、"wouldn't that be something!"あたりでしょうか(Google検索かけてみると山ほど同名の洋楽曲がありますよ)。この種の口語英語は、歌詞や洋画DVD、あるいは小説で拾ってこれます。しかし!こういう勉強ばかりやってて、骨格となる文法部分をおろそかにしていると六本木の不良外人の日本語みたいな英語になります。「チョット、いいじゃな−い、べつにー」みたいな(^^*)。就職した後、同僚との会話には役に立つと思いますが、そういう英語しか使えなかったらそもそも就職できないです。これは本論に関係するのであとでネッチリ書きます。
言葉遣いの人間関係破壊力
言葉遣いというのは対人関係において破壊的な影響力を持ちます。
それは、某ヤンキー氏から「てめー、誰に向って口きいてんだ?」とスゴまれたら一発で分かるでしょう。彼は何に不快感を抱いているかというと、あなたの「口のきき方」であり、「言葉遣いが悪い」と言ってるわけです。まるで生徒指導の先生が言うようなことを、彼ら不良少年も言っている。これは何を意味するかというと、言葉遣いというのは万人共通の原理であり、親や学校で押しつけられるお行儀やキレイゴトに留まるものではないということです。場合によってはあなたが半殺しにされるかどうかという命掛けの実戦スキルなのだ。
ヤンキー諸君は、あなたが間違った言葉遣いをすると、すぐにその場で罵倒や暴行を加えて親切にその過ちをただしてくれます。しかし、世間の大人はもっと底意地が悪く、あなたがいくら言葉遣いを間違えようとも何にも言ってくれません。そして後から「一発殴られた方がはるかにマシ」という厳しい制裁を下すのです。すなわち就職試験で失敗する、営業先から取引を打ち切られる、なぜか自分だけ昇進できない、クビになる、、といった不利益な処分を下します。大人は恐いです。にっこり笑って人を斬る。ねえ、一発殴られた方がまだしもマシだと思いませんか。
では、なぜコトバの使い方一つでこうも周囲の扱いが変わるのでしょうか?いいじゃん別に、意味が通じるんだから同じことじゃんって気もするですが、事実はそうなっていない。なぜか?
それはコトバの使い方は、その人の人格、能力を映しだす窓であり、目の前にある対象をどう考えているかを最も端的に示すからです。あなたに対してそーゆー言葉遣いをする人間は、そーゆー人間だし、あなたをそーゆー風に思っているからです。もちろん、言葉遣いという外見と内面がズレていることは良くあります。口は汚いのだけど、実は温かい心の持主だったり、フランクに付き合おうしているのだけど、ついブッキラボーに聞こえて、それで損をしている人というのはよくあります。だから、言葉と内面はイコールではない。しかし、世間はイコールに見ようとします。なぜか?メンド臭いからです。
メンド臭い他者理解
はい、ここで、よい子の世間講座です。
「人は、他者を理解するための労力を惜しむ」という大原則があると思います。
「人は見た目が九割」という本がベストセラーになりましたが、なんで見た目だけで決めようとするのか、一歩立ち入ってその人のことを深く理解しようとしないのかといえば、面倒臭いからでしょう。とにかくその「一歩」が面倒臭いんだわ。見た目ダメだったらもうダメで決定!「実は〜」みたいな鬱陶しいことやりたくない。なんでそんなに物臭なのだ?といえば、一つには人間というのは本来怠け者だからです。怠け者だからリモコンとか使いたがる。立って歩いてチャンネル変えることすら面倒臭がる生き物なのだ。
もう一つは忙しいからです。あなたがオーストラリアをラウンドし、人里離れたファームでWWOOFなんかをすれば、大自然と数人の人しかいないからゆっくりする時間はあります。気持ちいいでしょうね〜。でも、普通に(日本で)暮していたら、物や人が溢れかえっています。いったい一日にどれだけのモノゴトに接し、情報の取捨選択をしなければならないか空恐ろしいくらいです。通勤途上その他で膨大な数の他人をみるし、スーパーやTVでは商品がうなりをあげているし、ネットではメールやらブログやら山ほど情報に接します。掃除洗濯の日常家事も普通にあります。ある程度主だったものでも毎日数十の「案件」があなたの決裁処理を待っている。そんな中、赤の他人に割く時間は極めて乏しい。実際にはコンマ数秒くらいじゃないかな。メールボックスのDMメールを削除するくらいの時間。この瞬きするような間に、最優先に扱わねばならないことか、それともシカトして良いことか重要度を判断します。見た目がダメなら、もうダメ。
その意味では「人は見た目が十割」と言ってすらよい。もっとも、これはマーケティングという初対面・第一回接触限定での話であり、ある程度継続関係を経ると見た目の重要度は激減します。「見慣れる」という逆要素が混ってくるからです。美人は三日で飽きる、ブスは三日で慣れるといいますけど、「慣れ」という要素は非常に強力で、トイレ掃除のCMのように「サッとひと拭き」で見た目効果を減殺していく。だから、身近な近親者ほどその人の変化(病気で痩せてきたとか)に気づきにくい。一番見慣れている存在は言うまでもなく自分自身であり、だからこそ、いつまにか太っていることに気づかないのですね。ちなみに「見た目」に関してもう一つ言うと、これって目の不自由な方にとってはまったく無意味です。ゼロ割。それは身障者レベルに目の悪い僕もそうで、目の悪い人ほど自分の視界を信じないから、見た目をそんなに重視しないのだ。逆に音とか、言葉とか、雰囲気オーラとか、言動の首尾一貫性とか、それ以外の感覚が鋭敏になる傾向がある。いやあ、見た目9割で判断できるくらいの視力が欲しいものです。
それはともかく、人は他人を理解するためにそんなに労力を掛けないってことです。ゆっくりそんなことやってるヒマがない。またそもそも興味もない。人間というのは世界に65億人もいる極めてありふれた物体・現象ですので、こんなありふれたものに興味を持てというのが無理に近い。そして、言葉遣いというのは、見た目と並んで、いやそれ以上にその人の内実を示す記号情報です。無愛想な物言いをすれば不機嫌、猫なで声を出していれば下心アリ、、みたいに、その人の内心を表わす。いやこれも真実表わしているかどうかは分からんのですが、少なくとも第一次的にはそう思える。先のヤンキー事例でも、口のきき方で暴行沙汰になるのは、言葉遣いに彼に対してどう思っているかが表われるからです。
上下関係は人間社会の鉄のオキテ
次に、人間社会の掟には「上下関係」という鉄の戒律があります。封建時代や絶対王権の下では、上下関係に逆らうか、逆らうそぶりを見せただけであっさり死刑にされたりもします。例えば不敬罪であるとか、武士による町民の「斬り捨て御免」であるとか。多数の構成員からなる社会においては、構成員間での身分関係、とりわけ上下関係は重要視されます。これは人間社会だけではなく、集団を営む生物〜サル山でも蟻塚でも同じです。1+1=2というのは、「+」は加えること、「=」は等価であることなどの「決め事」があって初めて成り立つ理屈であり、この決まりどおりやらないとモノゴトが進みません。これをアルゴリズムといったりもしますが、上下関係などの人間の身分関係は集団社会におけるアルゴリズムといってもいいでしょう。これがコケたら集団がマトモに機能しなくなる。だから、ここは子供のうちから徹底的に躾けるし、儒教でも忠孝など人倫体系は絶対的なものとされる。そしてこの上下身分関係は現代においても広く生き残っています。サルや蜂ですら守っている大自然の本能法則が、そう易々と無くなるわけがないか。
ここで誤解混同されがちなのが自由平等原理です。「天は人の上に人を造らず」というよりに万人は本質的に平等であり、そこに上下関係はなく、上下関係を強調しようとするのは封建的な身分制度や家父長制度の復活というアナクロニズムである、、、という主張もあります。それはそれで正しいし、僕もそう思う。しかし、人間が本来的に平等であることと、社会に上下関係という「お約束」がないということは別次元の話です。平等というのはあくまで「本質的に」というレベルでの話であり、非本質的な「機能的」「便宜的」なレベルにおいては幾らでも上下関係はありえます。
サッカーチームで能力や適性でポジションが決まったり、最終的な決定権限が監督やキャプテンにあるというのも機能的、便宜的な身分&上下関係です。コンピューターなど技術用語では、複数のデバイスがあり、主たるデバイスが他を制御するとき「マスター・スレーブ」と言いますが(HDDのCドライブをマスターにするとか、二台以上のディーゼル機関車を接続するとき一台目をマスターとするとか)、これなんか端的に「ご主人様と奴隷」という確固たる上下関係があります。
戦後日本の民主化過程については、もしかしたら元ネタとなった近代人権思想が正しく広まっていないのではないか?と思われるフシがあります。例えば、民主主義とは決して「素晴らしい」ものなのではなく、単に"least evil (bad)"(害悪を最小限に抑えるシステム)に過ぎず、本来ならば「チッと舌打ちしながら我慢して使う道具」に過ぎないこととか。「話し合って決める」というのは滅茶苦茶かったるいシステムであり、迅速性や効率性をいえば専制政治の方がよっぽど早いです。しかし、暴君が出てきたときの被害の大きさを考えれば、まだチンタラやってる方がマシである。時速100キロで爽快に突っ走って事故死するくらいなら、イライラしながらも20キロでトロトロ走っている方が「まだしもマシ」という理由で民主主義が取られているだけに過ぎない。ビバ!デモクラシー!とかいうけど、もともとそんなに嬉しい制度ではないのだ。平等原理も、何がなんでも平等という結果平等や悪平等を肯定するものではなく、平等なのはあくまで本質であり、実際的な局面では「異なるものは異なるように、異ならないものは異ならないように扱う」原理です。
これらは国家というシステムの取扱説明・マニュアルに過ぎず、何よりもそれらの根源にあるのは「個人の尊厳(Dignity)」です。人は、ただ「人である」という一点のみにおいて誰からもレスペクトされなければならないこと、つまり「他者をレスペクトせよ」というのが根本原理なのだけど、何かそこがスルーされている気がします。だからこそ平等と上下関係という「原理」と「機能」が未分離になり、ごちゃ混ぜになっているのではないか。
人間社会には、そして人間社会である現在日本にも確固として上下関係はあります。機能的に、便宜的に、です。別にそこで上位に来る者が人間的にも価値があるなんてことは全く関係ないです。価値の優劣があるとしたら、あくまで機能的。Aさんが打った方がBさんよりも得点できそうだという一点でAはBより価値があるというだけに過ぎない。平等が誤解されがちであるように、上下関係においても誤解されがちで、それが日本社会の一つの特質をなしているとは思います。それは公私混同というか、仕事とプライベートの境界が曖昧で、仕事=人生である日本社会のありようから反射的に生じる誤解なのかもしれませんが。
機能と合意の争奪戦
さて、言葉遣いに戻ります。言葉というのは、それを使う人間について様々な情報を提供してくれますが、局面局面で求められる個人情報の内容は変わります。例えば恋人間では「私のことどのくらい好き?=愛情の全局面的優越性」が最重要テーマとしていつもぶら下がってます。うっかりこの点を軽んずるような言葉遣いをしてしまうとややこしいことになります。例えばあなたが真実多忙を極めていても、「そんなこと」「しているヒマはない」などと口走ろうものなら、たちまち「それどういう意味?」と両国間に緊張が走ったりします。まあ、このあたりは多くを語る必要もないでしょう。
プライベートにおいては各自頑張っていただくとして、ここではもっと世間一般のこと、最も利害がキンキンに尖ってくる仕事や就活エリアの話をします。就活に臨むとき、あるいは取引先に重要な商談をしに行くとき、この言葉遣いは非常に重要な意味を持ちます。
就活において問われるのは「この世間(と会社)でやっていけるかどうか」です。プロ球団の選手募集や劇団のオーディションみたいなものですね。そしてその中でも前提条件として問われるのは「この社会というゲームの仕組とルールを知ってるか?」という一般常識です。オフサイドのルールも知らずにプロサッカーチームに入ろうとすれば、「もうちょっと勉強してきてね」と言われてしまうという。
この社会のルールの最たるものは上下関係でしょう。それは職場や仕事というのが、親睦団体ではなく、営利目的のビジネスという「機能」に純化したフィールドである以上、当然に出てくることです。組織内部においては、軍隊と同じように上命下服の指揮命令系統が正しく発動しなければ組織体として動かない。また、組織外部、とりわけ対顧客においては、顧客の方が「上」であると想定されます。
後者についてはちょっと注釈が必要かもしれません。
ビジネスというのは利潤の追求であり(そうでない社会的使命も多々あるが、しかし本質においては)平たくいえば
「お金の争奪戦」です。ラグビーのボール代わりにお金を奪い合うわけですね。スポーツの場合は力づく(技づく)でボールを奪いますが、実社会で力づくでお金を奪ったら犯罪になっちゃいますから、代わりに「相手の合意」を得てお金をゲットします。つまりお金の争奪戦は、相手の
合意の争奪戦であると言い換えてもいい。プロポーズみたいなものです。ここに二人の人間がいて、一人は相手の合意が欲しい、もう一人は気分次第でどうでもいいとしたら、この両者の関係は対等ではないです。「一方当事者の自由意思によって他方の利害を決定できる」というポジションがある場合、決定権限がある人間が、このゲームにおいては「上位者」になります。
上位下位というのは権力関係においてよく用いられる表現ですが、そもそも権力というのは二者以上の人間がいた場合の「自由意思の優劣関係」「意思の影響力の強弱関係」だと思います。Aの自由意思よりもBの自由意思の方がより相手に多大な影響力を持つ場合、Bの方が社会的な(人間関係的な)「力」があることになります。ぶっちゃけた話「どっちのワガママが通るか」ですわ。その意味からいっても顧客の方が一般的に優越し、「上」と言っていいでしょう。もちろん市場の需給バランスによっては売り手市場のように逆転する場合もありますが、原理は同じです。
僕らが社会に出て行くということは、何らかの方法で「食い扶持を稼ごうゲーム」に参加しているということです。サバイバルゲームです。サバイバル能力のない奴は脱落すると。もっともそれは人間本来の価値でいえば、「パチンコで負けた」程度の意味しか持ちませんから必要以上に大袈裟に考えることはありません。たかがゲームです。しかし、されどゲームで、ゲームをやる以上は勝ちたい、そしてどっかチームに入りたいなら優秀なゲーム遂行能力をアピールする必要があります。その第一条件としては、「ゲームの仕組とルールを知っているか」です。当たり前といえばこんな当たり前のことはないのだけど、意外と盲点になっているのではなかろうか。なんでこの世に上限関係があるのか、あっていいいのか、どの程度であるのかということです。それは「機能」だからであり、合意の争奪戦だからです。
合意の前提にくるコミュニケーション
一般世間で言葉遣いが重要視されるのは、それが組織機能に直結し、対外的には合意争奪戦に関係するからです。
合意というのは、両当事者のコミュニケーションの結果によって産み出されるものです。したがって合意の前段階にはコミュニケーションがあり、巷の就活現場で「コミュ力」とかやたら言われるゆえんでもあります。余談ながら、企業の方から「コミュ力重視」なんてクソ当たり前の採用基準を言うのもどうかと思います。それは死因を「心不全(心臓が動いてないというだけ)」とするようなもの、いわば採用基準において「人間であること」「猫じゃないこと」といってるようなもので、具体的には何も言ってないに等しい。それかそんな「人間であること」レベルまで持ち出さないとならないくらい昨今の受験者のレベルは低いのかしら。ともあれ、コミュニケーションが先行し、そしてコミュニケーションには当然のことながら言葉が重要なファクターになります。
なお、近親者や恋人、友達など親しい関係になればなるほど言語以外の情報が大事になります。あるいは初対面でもシェア探しのように「一緒に暮す」という持続的な関係を持つような場合も同じく「人柄」「人となり」が大きなファクターを持ちます。企業の採用においても、この理屈は当てはまり、「こいつと一緒に仕事をしていきたいなと思わせてくれる人」が採用基準になり、それは詰まるところはより大きな「人間性」になるでしょう。その点は当然に見る。しかし能力面として、最低限のレベルをクリアしていて貰わないとダメであり、そこで言葉遣いが注目されるのだと思います。
なぜなら実際の仕事においては、持続的な関係をとる上司同僚だけではなく、取引先や一見のお客様、さらに官公庁や同業の付き合いなんかもあるわけです。一期一会に近いような一回的な、淡い関係。そしてそれが一回的で淡いほど、それは機能的、便宜的な関係になりがちですから(具体的な処理案件があるからこそ会っている)、一般ゲーム遂行能力が強く要求されるでしょう。すなわちそこで求められるのは「味わい深いあなたの個性」ではないです。社会の一パートをソツなくこなせる能力=「社会人として恥ずかしくない態度」をキチンととれるかどうかです。名門企業になればなるほどこのハードルは高くなり「○○社員として相応しい(高水準)の物腰、立居振舞い、そして言葉遣い」を要求されるようになります。
言葉遣いはぞんざいだけど、実はハートフルで温かい奴がいたとします。友達になりたいタイプです。でも友達だったらいいけど、社員にはしたくない。なぜなら、そいつを使いに出して行く先々でトラブルを起こしたり、看板に泥を塗ったり、まとまる話をぶちこわしてきてくれたら会社としては溜ったものではない。要するに「パシリひとつ出来ない無能者」として扱わざるを得ない。とりあえずは通常の「挨拶回り」が出来るかどうか、次に葬式に行って恥をかかない程度に振舞ってこれるか(香典をちゃんと袱紗に包み、袱紗から取り出す作法を知ってるか、弔意をちゃんと失礼無く言えるか)。これがパシリレベルです。さらに上級になるとトラブったときに現場に出て行っておさめてくる力が求められ、さらに監督官庁の視察や税務署の査察に対応してボロを出さない高度な応対、海外企業との合弁交渉を円滑に進め、より上になると政治家や闇の勢力と侵さず侵されずのバランスを取れるかどうか、、どんどんレベルは高くなります。とりあえずは普通に挨拶が出来、普通の言葉遣いができるか、これがボトムラインです。
そして、ここがダメならもうダメですし、その判断は早ければほんの数秒で下されてしまう。先ほどの世間の掟「他人を知るための労力を惜しむ」を持ち出すまでもなく、エントリーだけで数万人、面接だけでも数百人レベルでやっていく場合、採用官の視点は、どうしても「いかに救うか」ではなく「いかに数を減らすか」になるでしょう。ダメな奴はバサバサ切っていきたい。あなたが担当者でもそう思うでしょう。だから、面接などで「あのさー」とか言った瞬間にもう終わりでしょう。「あのですね」なんて言い方もダメだろうな。人生のかかった大事な局面でそんな言葉遣いしか出来ないような人の言語能力など推して知るべしであり、大事な商談の席でまたぞろヘマをやらかすかもしれない。またその程度の状況把握能力しかなく、要するにゲームの仕組やルールの理解に欠けていると思われる。そして、お金をはらって時限爆弾を抱え込む義理は、会社にはない。
もちろん会社としてもそんな表面的なことよりも特殊技能や、深い人間性を知りたいと思うでしょうし、そのために努力もするでしょう。なんせしょーもない人材を採用したら、あとで社内で矢面に立たされるのは人事部ですからね。「こんなカスばっかつかみやがって、馬鹿か、お前ら?」と言われますから(^_^)。しかし、それもこれもボトムラインをクリアしてこその話です。
実戦論〜何が「正しい日本語」なのか
かしこまった公的な席であればあるほど、またあなたが高い年収を求めれば求めるほど、「正しい日本語」を使った方が成功率が高くなるでしょう。だから正しい日本語を使いこなせるに越したことはない。かといって、別にプライベートや友人同士でも「正しく」ある必要はないし、そこはカジュアルにやればいいのですが、「改まろうと思えばキチンと改めることができる」という「最高速度」みたいな能力はあった方がいいでしょう。日頃30キロで走っていても、いざとなったら200キロ出せると。日頃30キロで、いざとなっても40キロだったらアカンと。
リトマス試験紙としての天皇陛下
では何が正しい日本語か?というと、これが難しいです。僕もよう分からんです。でもそんなギリギリに詰めた国語学者レベルの見識は必要ではなく、まあまあ普通の日本語でいいとは思います。僕がよく持ち出す「リトマス試験紙」は天皇陛下です。ある日本語表現がスラング、あるいはカジュアル過ぎるかどうかを判断するためには、天皇陛下に喋らせてみて不自然かどうかです。スラングだったら笑っちゃいますから。例えば、「ムカつく」「キレる」というのは日常でよく使いますが、天皇がそう喋ってるところを想像したらおかしいでしょう。逆にいえば、あの人は360度どこを切り取っても完璧であるように努めているということで、さすがに日本最古の老舗のプロだと思います。本物の貴族ってああいうものなのでしょう。
しかし、日頃使い慣れている日常用語ほど、ついうっかりポロッと言ってしまったりするのですよね。特に動揺を誘うような質問をぶつけられたときとか。ですので、就活生に限らず、社会人だったら日頃から整備点検しておくといいです。例えば「ムカつく」は禁じ手だったら、じゃあどういう言い方だったらいいのか?「カチンとくる」もまだカジュアルですね。心やすい上司と話すくらいなら角は立たないでしょうが、かしこまった席ではNGでしょ。「腹が立つ」「カンにさわる」というのもまだまだカジュアルかな。相手のことで「お腹立ち」「ご立腹」とは言うけど。まあ、「腹に据えかねる」「感情を害する」くらいがいいじゃないでしょうか。「超〜」は当然ダメ。即死レベルにダメ。「いささか」「大変」「非常に」などと言い換える。なんでつい言ってしまうかというと、言い換えオプションを思いつかないからでしょう。だからスペアタイヤのように日頃から用意しておくこと。英語と同じように全部紙に書くといいです。「スピーキングが上手くなりたかったら、まず書け」の法則です。
では練習問題。「だからさー、俺もちょっとヤベーなーとは思ったんだけどさ、そこは、まあ、イキオイでさ。てか今更断れねーじゃん」を正しい日本語に書き換えよ。これを思考時間1秒未満で喋り始められたら、とりあえずはボトムライン通過でしょう。
年齢層上でややコンサバエリアにボールがある
まあ、社会人といっても全ての社会人がこんなに喋れるわけじゃないし、できなくてもガンガン稼いでいる人はゴマンといます。ただ、それはそれを上回る特殊技能など何かの力を持ってる人の場合です。僕らフツーの、コネなし、金なし、特殊技能なしである場合、やっぱりサラリーという形でサバイバルゲームを展開する場合が多く、そうなるとやはり一般原理の上下関係ルールでやっていかねばならない。そして、ゲームで高得点を上げようとすればするほど、言語能力が高く、しかも傾向としてはややコンサバになると思います。多少古い言い回し、折り目正しい言い方の方が好ましいと。
なぜかというと、より多くのお金をゲットしようと思えば、より多くのお金を持ってる人々のいる世界にいかないとならない。そして日本の場合、文系と理系だったら、まだまだ文系の方が権力を握ってます。日本の技術は日本の宝なんだけど、その家宝をマネージメントしているのは文系。そしてより競争率が激しく難易度の高い企業なのだから、平均的な日本人よりもずば抜けた日本語能力を持っている連中の巣窟だくらいに考えていていいでしょう。東大出てて当たり前の世界だし。これは英語世界でも同じで、年収高い人の方がキチンとした豊かな英語を喋る。多くの例外はあれども、一般的にはそう。
そしてさらに彼らの中でも誰が一番お金と権力を持っているかといえば、それは年齢が上の人達でしょう。戦後日本の給与構造は上になればなるほど高給、高リターンになるし、企業の上位層あるいはリタイアして悠々自適でやっている人達です。彼らは戦前戦後の修羅場を乗り越えているだけではなく、実際に頭もいい。特に旧制中学とかナンバースクール出身の連中はずば抜けている。昔のインテリは本当にインテリだったし。趣味で漢詩詠んだり、詩吟やったりしているので、その日本語ボキャブラリーは、今の日本のメディアでみかけるレベルから懸絶しているといってもいい。
はい、じゃあゲーム開始で、もっともお金の集まってるところに切り込んで行くにはどうしたらいいでしょうか?です。ボール持ってない人にチャージかけても意味ないし。やはりきちんとした日本語が書き、話せることでしょう。彼らの採点基準は、何となく思ってる以上に高いでしょうしね、僕なんかのレベルではダメダメでしょう。手強いぞ。そして、again、思い出して欲しいのだが、合意は相手の自由意思で与えられるものであり、自由意思に正しいもヘチマもない。彼らの採点基準がいかに間違っていようが、正しい/間違ってるの問題ではないのだ。これもプロポーズと一緒で、「俺を結婚相手に選ばないお前の判断は間違ってる!」といかに高らかに糾弾しようとも事態は何も変わらない(むしろ悪くなる)。自由意思ってそういうものです。気まぐれ、ワガママと言い換えてもいい。だから難しいんですよ、人間相手のゲームというのは。
そして、これは何も特権的なエリート階級だけの話ではないです。「俺には関係ないわ」と思った人、それは違うぞ。自分がその仲間にはならないかもしれないが、その連中が客になることは十分にあり得る。そして試験の面接のように、日頃全く接点のない人々と話をする機会だってあるわけだし、日頃接点のない人と話す場合であればあるほど、あなたの人生が大きく転回する局面だったりするのだ。「チャンス」というのは本来そういうものなのだ。また人の縁はどこでどうなるか分からない。もしかしたらあなたの配偶者の両親(舅姑)になるかもしれない。「関係ない」なんてことはありえない。
もう一つ。これは全体になだらかなピラミッド構造になっていると思われます。頂上付近だけ、雲の上の天上界のように孤立しているわけではない。そのすぐ下、そのまた下と段々畑のような構造になっている。富士山でいえば五合目くらいまで下りてきたとしても、それなりの言葉遣いは求められる。2合目から3合目に上がるにしても同じ原理が支配している。
「お疲れさまです」への異論
その意味でいえば、最近よく聞く「お疲れさまです」「お疲れさんス」は、僕から見ても違和感あります。これ昔書いた「それではご返答のほど〜」が実は失礼な言い回しであるのと同じように、無批判に使ってるとマズイんでないの?という懸念もあります。
どっかの誰かが、「ご苦労様」は目上が目下に対していう言い方で、「お疲れ様」は目下が目上にいう言い方であり、したがって「お疲れさまです」と言っておけば失礼はない、ということを言ったのが広まったのかも知れません。これには二点異論があります。本当かよ?って。
一点目は、これは諸説あって、どちらも目上が目下をねぎらう言葉であり、目下から使うことはおかしいという見解もあることです。確かに僕の日本語感覚からいってもどちらかが目上からで、どちらかが目下というのは変だと思います。
そもそもなんでそうなるのかが分からない。敬語や日本語の一般原則(僕が勝手にそう思ってるだけだが)、より面倒臭い言い方の方が敬意度が高い(これは英語でもそう)、大和言葉よりは漢語の方が格調が高く感じる、からしたら、「おつかれ」という訓読みよりも、「ご苦労」の音読みの方が固くて改まった感じ、かしこまった感じが強いではないか。「おつかれ」はもっとカジュアルで、もの柔らかく、フレンドリーな感じがする。また「お疲れ」と「ご苦労」の語感で言えば、ご苦労の方がより偉業を成し遂げた感が強い。「お疲れ」は、なんかそのへんコンビニにお使いにいって帰ってきた程度の軽い疲労をねぎらう語感があるが、「ご苦労」は、戦時中に「戦場の兵士のご苦労を思え」と言われたように長期にわたる物凄い苦労をも含み、それに対する見上げ目線の仰角が高いような気がする。
同疲労度のタスクをしても、目下がやるよりも、目上がやった方が、より大袈裟に言わねばならないという上下関係原則からしたら、むしろ話は逆で「ご苦労様」の方が目下には相応しいのではないか。また、より丁寧に言うため「ございました」をつける場合、「ご苦労様でございました」に比べて「お疲れさまでございました」は微妙に変な感じがする(まあ、僕も言うけど、半ばユーモアとして言う)。それは「お疲れ」が「ございました」に対して軽すぎるからでしょう。同じように「御苦労」とは書くが「"御"疲れ」とは書かない(変換しないよ)。つまり「お疲れ」の方がより上位機種への互換性が乏しい。
さらに僕の日本における実際の経験でも、目上が労をねぎらう場合「お疲れさん」ってよく言ってたし、僕もボスからよく言われた。「やあ、お疲れ〜」って。自分が目上の立場だとして、目下からどちらを言われたら感じがいいか?といえば、正直なところどちらも違和感があります。不快感ってほどではないけど、「うん?」って感じ。それは労苦を「ねぎらう」という行為それ自体が、目上から目下(ないしは同格)に対するものだからでしょう。「ねぎらい」というのは一種の「褒め」であり、その前提には「査定」「評価」があります。部下から「よく頑張りました〜」って褒められる(ねぎらわれる)イワレはない。目下から目上の者の労苦について言及する場合は、「たたえる」「しのぶ」という言い方になるはずで、原則的にはご苦労もお疲れも目下から言うのはおかしいとも言えます。
もっと精密に言えば、お疲れとご苦労は対象が違う。「おつかれ」は文字通り今現在「疲労している」という「身体の現状」についての表現
であり、「ご苦労」は過去に成し遂げた「行為(の大変さ)」について言う。だから長いフライトのあと疲労困憊して出てくる乗客にパーサーが声を掛けるとしたら「お疲れさまでした」がフィットする。でもやってることといえば椅子に座ってただけだから、偉業達成的な「ご苦労さまでした」は微妙に合わないと思いませんか?また、両者は併存も出来る。「お帰りなさい。○○の件、本当にご苦労様でした。さぞお疲れでしょう、先にお風呂になさいますか?」という言い方はアリでしょ。
しかし、まあ、そうはいってもドンピシャの表現がないから、目下からも目上に対して「ご苦労」「お疲れ」と言い、その際に「様」をつけるという安直&無理やり敬語に仕立て上げているだけでしょう。もともとがいい加減なコトバなんだけど、コトバなんかそもそもがいい加減なのですから、それが徐々に定着していけばそれはそれで良いのでしょう。ただし、少なくとも、ご苦労がダメで、お疲れが正しいって法は無いと思うぞ。誰がそんなこと言いだしたのだ?
第二点は、こっちの方が重要なのだが、そのあたりの言葉遣いについての問題意識の無さです。機械的に、無理やり敬語として使ってる。なんでも最後に「ス」を入れて敬語にする安直敬語と同じように、とりあえず開口一番「お疲れさまです」と言っておけば間違いがないという言語感覚です。特に会ったばかりで、それまで何をしていたのか分からなくても「お疲れさまです」とか言うのは明らかにヘンです。疲れているかどうかなんか、どうしてお前に分かるんだよ?また、自分が外回りから帰ってきて、上司に対して「ただいま戻りました」の代わりに「お疲れさまです」というのは、疲れているのは自分であって完全に話が逆でしょう。要するに言葉本来の意味を離れてムチャクチャな使い方になっているということであり、時刻的に早くなくても「おはよう」というような「挨拶」として定着しつつあるということですね。
でも、その人とその周囲では定着して違和感がなくなっていても、世間一般で定着しているとは限らない。「おはようございます」もTV業界などでは深夜でも使うけど、それを一般企業で使ったら馬鹿だと思われる。以前、嘉門達夫の歌で、美容院でシャンプーして貰ったあと、周囲のスタッフからあまりにも「お疲れさまでした」「お疲れさまでした」と声を掛けられ、その頭の悪そうな紋切り型挨拶にムカついて、「頭洗って貰うだけで疲れるかい、ボケ!」とツッコミを入れる曲がありましたが、そういう感覚はまだあると思うぞ。あまりにも紋切り型に言い過ぎる、その「何も考えてない感」が、何となく頭の悪さを連想させ、逆に「儀式的に言ってるだけで、心からそう思っているわけではない」という挨拶の虚礼性すら暴露し、言わない方がマシという逆効果を招いているという。
まね、バイト先とか、現場仕事だったらそれでいいですよ。「口を動かすよりも身体を動かせ」の世界ですからね。キチンと身体を動かしていい仕事をしてるかどうかが大事ですから、挨拶なんかそこそこでいい。「うーす」でもいい。しかし、先に述べたように、偏差値高めの文系社会、さらに金と権力の実権を持っている上の古いインテリ層がそれを快く思うかどうかです。それに現業仕事だって、上位にいけばいくほどモノ相手ではなく人相手のマネジメントになるし、つきあう人種も幅広くなるから、自分らだけの言語感覚だけでは対応できない。
もっとも、「お疲れさまです」と言われたといってその人に悪感情は抱きませんよ。感情の好悪は、何を喋るかよりも、「どう喋るか」という全体的な態度に大きく左右されますから。悪意のない人にはこちらも悪意は抱きません。抱くわけがない。それこそ「巧言令色、鮮し仁」です。「言葉巧みな人は誠意に乏しい」です。
なお、第二点に関連して、ボキャは増やしておいた方がいいです。英語でもそうですか「こればっかり」というのは頭悪く見えるので。もちろん、いかにそう見えようがあなたの人間としての価値に関係ないし、実際に頭が悪くてもそれでも別に胸を張っていればいい。人の尊さというのはそういう部分だけにあるのではなく、そんなものは数十とある美徳の一つに過ぎない。ただ、しかし、就職や仕事という「ゲーム」においては、見た目が10割であり、聞いた感じが10割という、「一秒裁判」をされる恐さがあるので、下らないところで損をしている余裕はないでしょう?ということです。技術でクリアできることはクリアしておけばいい。
じゃあ、どういえばいいのか?ですが、そこで安直に答を求めようとするあたりが地獄への曲がり角です。正解は「自分で考えろ」です。自分の頭で考えられない奴は脳味噌ついてないのと同じだから、その人に知的作業を要求することは出来ないでしょ。日本の一般的な仕事=ホワイトカラーのサラリーマン仕事の大半は知的作業だから、アホに見えたら終ってしまう。
僕個人としては、上司が普通に帰ってきた場合は、「おかえりなさい」って言います。大変な仕事をしてきて、「いやー、まいったまいった」という感じで帰ってきて、その労苦に対して言及するなら、御苦労でもお疲れでもどちらでもいいとは思いますが、ただ表現豊か、バリエーション豊かにやります。かしこまっていうなら、椅子から立ち上がって礼をしながら言うし、「本当に〜」をつけるとか。また、上司が苦労している原因が自分にある場合には、「申し訳ありません」「ありがとうございます」という普通に礼を述べます。もっとカジュアルな感じだったら、「いかがでしたか、現場は?」など水を向けます。いずれにせよ目を見て話すとか、手を休めてそちらに身体を向かせるとか、その種のボディランゲージも伴うでしょう、、、って、なにをくどくど当たり前のことを書いてるのだという気になってしまった。
結局、「これさえやっておけば大丈夫」というようなものは、この複雑な世の中に一つもないです。定型パターン一つ覚えてそれでクリアしていこう、そこで「楽をしよう」と思った時点で、「お前はもう死んでいる」です。その場その場の状況に応じ、その場のニュアンスを出来るだけ細かく把握し、それに相応しい態度を瞬時に選択してやっていくしかない。その状況スキャン能力と、対応の選択肢構築能力の豊かさこそが、一番大事だろうし、企業もそれを求めるであろうと思うのでした。
こう書くとメチャクチャ大変に聞こえるかも知れないけど、でもどんな仕事だってそうでしょう?レストランの接客だって、ほんとに色んな客が来るだろうし、一つとして同じ状況はないでしょう。そしてその状況に応じてどれだけ臨機応変に対応できるかこそが、その人の能力であり、採用企業であれ、取引先であれ、そこを正しく見ているということです。不思議な話じゃないし、条件は誰でも同じなんだから不幸な話でもない。
そして、こんなもんただのスキル、技術、ワザにすぎないのだから、出来るようになっておいて損はないです。いざというときにビシッとした品格のある文章が書けるように、また話せるように。とりあえず誰でも書くような定型・紋切り型はマスターしておく。こんなの大したバリエーションがあるわけでもないから、その気になったら1時間でマスターできるっしょ。「謹啓、時下ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。」とかさ、覚えてしまえば簡単。英語学習に比べたら千倍簡単。多少の決め事もあり、「拝啓」で始まったら「敬具」で終わり、「謹啓」→「謹言」みたいにする。これはHTMLやスタイルシートで「タグが閉じられてない」というようなものでその気になったら簡単。WEBの方がずっと複雑で難しい。それにWEBみたいにチョコチョコ改編があるわけでもなく、覚えておけば有効期限なしに一生使えるんだし、なんてお得な話なんだろう。
で、この種の定型文句を覚えたら今度はこれをカスタマイズする。「こればっか」はアホに見えるから。例えば「時下」ばっかりだったら馬鹿みたいだから、四季に合わせて変化させる。「春宵一刻千金の候」とかあまりに凝ったのはイヤらしいので、「新緑の候」「陽春の候」くらいに押えておく。これもハード版、ソフト版、堅苦しい版、フレンドリー版と作っておくといいです。僕も作りました。「薫風の候」とか好きでした。
最終的には自分の個性がにじみ出てくるように。一般論ですけど、やっぱ出来る人はその人独特の個性、言い回しやユーモアセンスなどがうかがわれます。あざとくなくて、自然と出てくるというのが理想なのでしょう。エントリーシートなどでは、誰もが書くようなことしか書かなかったら厳しいのでしょうね。裏を返せば「誰にでも出来るようなことしか出来ない」「この人で無ければならない必然性がない」という差別化が出来ていないのですから。しかし、「誰にでも出来るようなことが出来ない」はもっと致命的ですから、個性を出せばいいってものでもない。ボトムラインはソツなく押えつつ、プラスアルファを匂わせるというあたりでしょう。「言葉遣い」、難しいですね。でも、それってサッカーにおけるドリブルみたいな基本技術だから、練習しておいて損はないと思います。
文責:田村