サマリー
人間が何かの行動を起こすとき、大きく分けて二つの動機付け(モチベーション)があると思います。
苦痛を回避・軽減したいというモチベーションと、楽しいから、気持ちいいからという快楽ベースのモチベーションです。苦痛(回避)系モチベーションと快楽(追求)系モチベーション。長ったらしいから略して「苦モチ」「楽モチ」といいます。お餅みたいですね。「苦餅」と「楽餅」って。もうすぐ正月だし。
「なんじゃ、それ?」って方のために幾つか例を挙げます。
苦モチは、例えば熊に襲われて逃げるような場合が典型的ですが、「熊に殺される」という「苦痛」を回避することが、「逃げる」という行動のモチベーションになっているわけですね。そこでの目標は「無事に逃げ切って生き延びること」です。
これはものすご〜く分かりやすい例ですが、そんな「殺される」なんて分かりやすい苦痛が日常生活にゴロゴロ転がっているわけではないです。実生活において、その「回避されるべき苦痛」はもっとボヤヤンとたたずんでいます。例えば、「クビになりたくない」「路頭に迷いたくない」「負け組に転落したくない」「仲間外れにされたくない」「いじめられたり、馬鹿にされたりしたくない」「なんとなく不安」、、などなどです。
後述しますが、ハッキリ言って日本社会における行動モチベーションはこの苦痛回避系が多いです。
いわゆる「恥の文化」にしてもそうですが、「恥をかきたくない」=「恥をかく」という「苦痛」をいかに回避するかという。
一方、快楽系モチベーションは、好きなアーチストのチケットを徹夜で並んで買うような行動です。
なんでそんなご苦労なことをするの?といえば、「○○をナマで見たい」という「快楽」を求めてのことです。
まあ、お分かりですよね。
で、それが何か?というと、幾つかありまして、最初にサマリーを言ってしまえば、
@、苦モチと楽モチとでは、もう圧倒的に楽モチの方がモチベーションが強いし、成功しやすいこと
A、本来楽モチでやるべきことを、なんだか知らないうちに「苦モチ」でやってしまっており、みすみす失敗しているケースが多いこと
B、また、この両者は考え方一つですので、一見苦モチでありながらも、楽モチに転化し、成功率をあげることができることです。
なぜ、苦モチよりも楽モチの方が成功しやすいのか?
これは簡単で、論理的にたやすく導き出せると思います。
最初にコトバの問題ですが、ここで「成功」とか「失敗」とか言いますが、まあ、正味の話、なにが人生における「成功」なのかは究極的にはわかりません。出世すればいいのか、美人の嫁さん貰えばいいのか、セレブになれれば成功なのか?まあ、そのあたりは価値判断でしょう。
ここではそんな価値判断とか難しい話ではなく、単純に「成功=目標達成」とします。
つまり、「成功」=「やろうと思ったことを実現できること(目標達成)」です。
さて、目標達成までのプロセスにおいては、当然のように色々な困難や障害が発生します。
常に、絶対に、発生するというものではないけど、まあ、発生する場合が多い。なぜなら、絶対にトラブルが発生しないようなことなど、僕らはわざわざ「目標」とか「成功」とか思わないからです。例えば、「自分の家にトイレにいって用を足してくる」なんてのは、ぎっくり腰で歩くのもままならないなら格別、普通は楽勝に達成可能。せいぜい先に家人に占拠されていて「早く出てくれ〜!」ってことくらいでしょう。このくらい確実に成功できるようなことは、いちいち目標/成功なんて思わない。思いますか?「近所のコンビニにいって弁当買ってくる」とかさ、目標!成功!とか思わないでしょ。
やっぱそこに目標意識、成功概念が出てくるのは、それなりに難しいことです。うまくいくかどうか分からない、てか上手くいかない場合の方が多そうだ、よっぽど頑張らないと無理かも、、という。例えば、就活を勝ち抜いてナイスな職場をゲットするとか、それでメシが食えるくらい英語が上達するとか、資格試験に受かるとか、オーストラリアの永住権を取るとか、映画スターになるとか、、、、かなり難しい。なかには普通にやってたらまず無理ってくらいの高難易度もある。
当然、「目標達成=成功」プロセスには、数々の困難が予想されます。
そして、そこでのポイントは、いかに困難を乗り越えられるのか、いかに持続的にやり抜けるかという、打たれ強さやストレス耐性が決定的に重要になります。
多くの目標というのは、言ってみれば「真剣にやり続けていたらなんとかなる」ものが多いです。常にベストな方法を模索し、膨大な量の努力を注ぎ込めば、だいたいは成功する。いわゆる成功者の体験談を聞いてみても、「成功するべくして成功する」というか、やっぱりやることやってるし、しっかり考えてますもん。全員がそうだとは言わないけど、そういう人が多い。もちろん「運の要素」もあるけど、運ですら「数撃てば当る」という手数の問題に還元できたり、まれに訪れるチャンスをゲットできるかどうかは、やっぱり日頃の精進だという努力論に還元されたりする。絶対成功するとは言わないけど、やることをちゃんとやれば成功歩合は高くなる。
要するに「やりゃあいいんだ、やりゃあ!」の世界です。
いかに短期間に、いかに意味のある行動を、いかに大量且つ集中的に注ぎ込めるか。
何をやってもそこそこ成功する人と、何をやってもダメダメな人の差というのは、大体において、この「やりゃいいんだろ?」という腹の括り方の差だと思います。
さて、そうなってくると、、、もうお分かりでしょう?
苦モチの人と楽モチの人とでは、ここで決定的に差が出てきます。
楽餅系の人は、楽しいから、やりたいからやってるわけですから、基本的に疲れないのですね。好きなことやってるんだもん。好きだからやってるので、やってる時間は快楽色に塗られる。好きな料理を食べているとか、好きな音楽を聴いたり、マンガ読んでるようなものです。そりゃ体力的に疲れたり、精神的に飽きたりというのはナチュラルにあるでしょうけど、その程度。しばらく休んだらまたやりたくなる。
だからその過程で出てくる苦痛もそんなに苦痛に感じない。例えばカニが好きな人がカニを食べるのは快楽です。しかし、細かに見ていくと全てが快楽で彩られているわけではなく、けっこう苦痛もあるのですよ。「殻を剥くのが面倒臭い」という「苦痛」はちゃんとあるのだ。でもカニ身を食べる圧倒的な快楽からしたら、そんなものは苦痛のうちにも入らない。どうかすると、シコシコ殻を剥いている辛気くさい時間すらも含めて、トータルとして快楽だと感じるでしょう。
ところが苦モチ、すなわち出発点が苦痛回避である人の場合、苦痛に弱いんですよね。すぐイヤになってしまう。
もちろん苦痛の種類が違うから一概には言えませんよ。回避すべき苦痛が強力だったら耐えられる苦痛も多いでしょう。例えば、熊に襲われている場合、「死ぬ」という苦痛に比べたら、走るのがしんどいとか、足が痛いとか、息が切れたとかいう苦痛は相対的には小さいから(死ぬよりはマシだから)頑張れる。てか頑張らざるを得ない。
でも、これって以前
エッセイで書いた "Lesser of two evils" の発想です。AもBも邪悪なんだけど、より邪悪度の少ない方を選ぶ発想。どちらも苦痛なんだけど、より苦痛度の低い方を選ぼうという。どこまでいっても苦痛だけの世界なのだ。
受験勉強や就活を頑張るのも、勉強や面接という苦痛よりも、不合格・無職という苦痛の方がずっとキツそうだから、lesser evil(よりマシな悪)を選ぶ。
しかし、これには落とし穴があります。基本が苦痛回避だから、より楽ちんな方向を選びやすい、そして元もこも無くすという大きな罠がある。
受験でも、勉強がイヤすぎて苦痛回避を考える人が陥るのは、推薦入学やOA入試はどうかとか、コネはどうか、裏口入学、さらに、そもそも学歴なんか今の時代では無意味だよなとか理論武装に走ったり、とりあえず受かればどこでもいいやとか目標水準を下げて楽になろうとしたり。もともとが「楽になる」ことが行動ベースにあるから、楽になりさえすれば何でもいいわけですわ。就職でも、コネだのなんだの使って、それでもダメなら、今どき就職して意味あんのか?とか、また理論武装に走る。
いずれにせよ楽ベースだから、本質的にストレス耐性が生じるような精神構造にないわけです。「やりゃあいいんだ」の「やる」が出来ない。すぐ楽しようとするし、すぐに逃げようとする。たった10歩真っ直ぐ歩けばいいだけのことを、最初から「しんどそう」で諦めたり、1歩目で脱落したり、ガマンしたけど6歩目でダメになったり、9歩目までいったけど後一歩の詰めが甘いとか、いろいろでしょうけど、いずれにせよ「成功」はしにくい。なぜなら、年中「もっと楽な道」が視界にチラチラするし、なければ「どっかにあるんじゃないか」と幻想を紡ぐ。そしてそっちに浮気しようとする。
一方、ベースが「好きだから」「楽しいから」でやってる人は、そのあたりのブレがない。てかブレようがない。
「徹夜で並んでライブチケットを買う」という行動でも、他の選択肢はありますし、反対動機もありえます。やれ「CDで聞けばいいじゃん」「動画でも幾らでも見れるじゃん」「ライブなんか音が悪い」「酸欠になるかも」「将棋倒しになって死ぬかも」とか幾らでもある。それをわざわざライブで見たいのは何故か?といえば、理屈はいろいろあれど、究極的には「見たいから」「気持ちいいから」しかないでしょう。そりゃ「もっともらしい理由」は幾らでも言えますよ。「実際に目の前で見て音楽的教養を深める」とかさ。でもそんなの嘘臭いですよね。「見たいから見たい!」であり、何故そんなに見たいのか?といえば「だって、凄いんだもん、カッコいいんだもん」「楽しいもん」という子供がダダこねてるような話になっていく。本当にやりたいときは、大体そうですよね。
美味しい物が食べたいとか、○○さんと結婚したいとか、温泉に入りたいとかいうのも、なんで?ととことん問い詰められたら、「だってやりたいんだもん!」になってしまう。問答無用の「だって〜もん!」構文の世界になってくると、も うそこにブレはない。他の楽ちんなオプションなんか、オプションの名にも値しない。脇道に逸れない。圧倒的な「快楽」が脇道にそれることを、失敗することを、許してくれない。
大体、なんでもそうですが、ある程度のレベルで成功をしようとしたら、数年から十年以上の長期間かかるものです。短くはないです。その間、ずっとコンスタントにやり続けられるのはどっちか?です。そうなれば、快楽モチベーションをベースにしている人が圧倒的に有利なのは火を見るよりも明らかでしょう。もう、ヒマさえあれば練習しているんだから。
楽モチ系の人が問題になるとしたら「飽きた」ということで続かなくことですが、それもこれも最初の時点でどれだけそれを深く好きか、楽しいと思うかにかかってます。天職レベルに、これさえ出来たらあとは何も要らない、これが出来るんだったら死刑になっても悔いなしだったら、そんな心配もないでしょう。もし、そのレベルで「飽きる」という事態が生じたなら、それはそれで人生の転機です。より広い視野を得て、新たな世界観や人生観を構築する時期になったということでしょう。それは成功以上の成功でしょう。
以上は、楽餅の方が苦餅よりも成功歩合が高いという話でした。
楽モチを苦モチに誤解する。そしてみすみす失敗する愚
これはメチャクチャあります。
僕の仕事に関連していえば、留学、ワーホリ、永住狙いで「海外に行く」ということですが、とりあえずドーンと立ちはだかる壁は「英語」でしょう。
当然のことながら、渡豪前/中/後と皆さん英語を勉強し、僕なんか滞在18年目にしてまだやってて、「17年目よりは伸びたかな」と思ってるくらいです。では、なんで英語を勉強するのか?です。
ここって本来は快楽系のモチベーションが来るべきでしょう。英語が話せることが素晴らしいのではなく、それによって世界中の人々と意思疎通ができ、感情疎通もでき、いい人間関係が結べる楽しさ。この楽しさ、充実感、温かさは、体験した人でないと分からないと思うのですが、本当にいいもんです。大袈裟ではなく、「人生究極の目的」といってもいいくらいです。人によって得られる快楽は、何ものにも勝る。
ところがこの楽モチ系のアクティビティの筈だったものが、たやすく苦モチに転化します。転化というよりも「転落」といってもいいくらいですが。
何かといえば、英語が出来ないことによって「恥をかきたくない」とか、騙されたり、シカトされたり、舌打ちされたり、誤解されたり、という「ツライ思いをしたくない」という具合に目標設定が変わってしまう。辛い思いをしたくないから、つまりそういった苦痛を回避したいから、だから頑張って勉強しよう!という。
これ、言っちゃ悪いけど、アホです。
刺激的な言葉でごめんなさい(^_^)。でも刺激的な言葉をつかってまで注意喚起したいですね。そのくらい大事なところだし、そのくらい致命的な思い違いだからです。もう生きるか/死ぬかくらいの差がある。
第一に苦モチ系で英語を勉強する場合、まず殆どといって良いくらい英語はモノになりません。なるわけがない。英語というのは、僕らの日本語がそうであるように、現場で使って(喋って、聞いて、読んで、書いて)覚えていくものです。それを効率的に(=10年かかるものを1年に)圧縮する促成栽培として英語学校があったり、文法その他の技術があるのですが、基本的には現場で覚えるものです。それはもう水泳のように、自動車の運転のように。
ところがその大事なプロセスである「現場」が、苦モチ系の人にとっては最大に避けたい苦痛なわけでしょ?苦痛(英語で恥をかく)を避けるためには、同じ苦痛(現場で英語で恥をかく)を経なければならないということで、もうこの時点で「ひでぶっ」って爆発しますよね。「絶対矛盾の自家撞着」ってやつです。水に入らねば水泳は上手くならないし、車に乗らなければ運転は覚えられない。苦痛によってしか苦痛を乗り越えられないという。だから、いざ現場に出て、この身も蓋もない大矛盾に直面した時点で立ち往生してしまう。1年いても、10年おっても英語は全然ダメって人は、日本人に限らずどの民族にもいくらでもいます。英語から逃げてる奴が上手くなる道理がない。
第二に、それでも現場を踏まずに一人で籠もって勉強することは可能です。文法バッチリ、語彙力万全。でも、肝心の現場で威力を発揮しなかったら、つまり現場慣れや現場度胸がなかったら、英語は出来るようになったけど全然友達はできないとか、そもそも使う場面がないという悲しいことになります。それって、要するに「英語が出来る」うちに入らないと思います。肝心な部分が抜け落ちているんだもん。
第三に、これがもっともありがちですが、「英語恥」を避けるというのが第一主題になるのだったら、「要は英語を喋らなければいいんだ!」という「画期的な発見」をしてしまったりします。つまり「英語を使わなくても用を足せる」という環境を探し、構築するようになる。「日本語OK」ばっかり探すようになり、結局日本人同士つるむ。ネットで調べ物をするのもまず日本語でしか探さず、英語文献は探そうともしない。要するに、英語を勉強しに来たんだけど、いかに英語から逃げ回るかが滞在期間のメインテーマになってしまう。狩猟に行った筈なのに、野生動物から逃げ回っているうちに日が暮れるようなものです。
なにがアカンの?といえば、そこに「快楽」がないからです。
そりゃあ英語で恥ずかしい思いもするし、辛いこともあるけど、でもそれを上回る「楽しいこと」があるかどうかが決定的なポイントになります。そもそも英語を喋ることは「楽しいこと」なのですね。それは、もう、ぜーんぜん通じなくても、それでも楽しい。
言葉に頼らなくても、態度やオーラによって意思疎通することは全然可能です。てか、逆に言葉「だけ」で意思疎通すること、さらには感情疎通することは殆ど不可能だと言ってもいい。それは、言葉の喋れないペットの動物達と楽しく遊べることからも分かるでしょうし、職場や学校でテキトーに周囲に調子合わせているだけの「言語的には100%通じているけど気持ち的には0%しか通じてない」という現象からも明らかでしょう。
他人と接すること、他人と自分とで好感情を交換し合うこと。それがもう帰り道に自然とスキップしたくなるくらい楽しいことだということ。それが全ての原点でしょう。それなくして、コミュケーションツールなんか身につけても意味ないですし、身につけられない。
僕がやってる一括パックは、そのあたりが一つの眼目です。人によりけり、英語レベルによりけりだけど、初中級だったら、まず意思疎通の楽しさを思い出して貰うのが最大限のポイントです。最初はシェア探しでも、電話で何を言ってるのかさっぱり分からないから超恐怖ですけど、実際に会って話していくと、結構通じるし、何よりも人の優しさに触れられる。楽しい。あったかい。面白い。もっとやりたいと思う。その快楽に気づくことで、通じないしんどさや恐怖は逆に希薄になっていく。通じないことが恥だという意識も減る。ビビリもなくなる。
その代りに出てくるのが、目の前にいるこの陽気で親切なおっちゃんと、もっとキチンと向き合いたい、もっとちゃんとお礼を言いたい、もっとちゃんと分かり合いたい、もっと突っこんだ話をしたい、もっと良くなりたい、もっと楽しく、素晴らしくなりたいという楽モチです。
つまりは英語が楽しいのではなく、人間が楽しいのですね。その楽しい人間から、美味しい快楽蜜をチューチュー啜るためにカニ身ほじくりスティックのような道具が英語なだけです。
カンのいい人はやりはじめてすぐに「ああ、なるほど」と洞察しますが、要するに僕がやってるのは、学校が始まる前に、英語学習に対する抜き差し難い苦モチを→楽モチに転化させることです。恥ずかしいから勉強するのではなく、楽しいから勉強するようにする。この転化なくして、どんな学校に行こうが、どんなに勉強しようが、効率悪悪ですから。
以上、本来は楽モチの筈なんだけど、それを苦モチに誤解してしまって、みすみす成功歩合の極端に低いフォーマットに転落して失敗する愚、ということです。
この類例は山ほどあります。大学進学なんかも、本来はアカデミックの知的興奮という「快楽」主導であるべきだし、なんたら試験や競争なんかも、ゲームやレースみたいなもので「攻略する楽しさ」があるわけです。そこに妙にハマってしまって、何のために戦ってるのか分からなくなる愚劣さも又あるのだけど、少なくとも辛いばかりではない。およそ人間のやってることで、本来的に栄養分(快楽)がないことなんか少ないです。どっかしら「面白い」「楽しい」のですね。
苦モチ→楽モチに逆転嫁する
あなたがもし何かをやろうとしている場合、そのモチベーションは、苦モチなのか楽モチなのかを分析し、苦モチだった場合は、それを楽モチに転化させるといいです。
そんなことが出来るのか?といえば、大体は出来ると思いますよ。そもそも快楽追求といい苦痛回避といい、突き詰めれば盾の両面でしょう。「アメと鞭」みたいなものですから。成功すれば天国で、失敗したら地獄という意味では同じことであり、天国を夢見て頑張るか、地獄に堕ちたくない一心で頑張るのか、いずれにせよやることは同じ。ただし心のフォーマットが違うだけ。
だけどネガティブ面(苦痛)ばかり重視していると、ポジティブ面(快楽)が見えなくなります。同じ事をやっているのにこれはメチャクチャ損です。とりあえず楽しくないし、またこれまで書いたように成功歩合も極端に下がる。イヤな思いをし続けて最後には地獄に堕ちるわけですから、こんなトホホな話はない。賢いやり方とはとても思えません。
でも、なんか知らないけど、日本社会はコレが多い。
常に視界を地獄方向ばかりに向けて、いかに地獄に堕ちないで済むかという方法論の組み立てをしようとする。受験しかり、仕事しかり、人生の組立てしかり、人間関係しかりです。
日本人に生まれてまず教えられることは、「人前で恥をかかない」ことであり、「人に後ろ指をさされない」ことであり、学校に入れば「仲間はずれにされないように気を使うこと」であり、進学/受験は学歴で劣って「惨めで割損な落ちこぼれ人生を歩かないため」にであり、就職は「負け組に転落して生活が不安定になったり、人生計画が立てられないのを防ぐため」であったり、仕事は「老後において物質的にみじめな思いをしないため」だったり、、、
「いい加減にしろ」って気もしますね(^_^)。
要するに「いかに地獄に堕ちないか」論に終始しているのであり、そのための勉強も就職も仕事もなにもかも地獄に堕ちないようにするために「転落防止ガードレール」のようではないですか。なんじゃ、そりゃ?です。いつからそんな風になってしまったのかしらね。
ここで今一度、苦痛→快楽に立て直しておく必要があるでしょう。
恥の文化は確かに日本にあると言われていますが、それはもっぱら人口7%の武士の世界に顕著であり、それも形式的に強調されるようになったのは泰平の江戸期になってからの話でしょう。確かにそのルーツは鎌倉武士の「名こそ惜しけれ」という心意気があるのだけど、総じて言えば「カッコつけ」でしょう。「カッコつけ」という表現が卑近すぎて問題あるなら「凜冽たる美意識に貫かれた行動規範」と言い換えてもいいけど、要は同じ事でしょう。
武士というのは戦ってなんぼ、強くてなんぼの商売であり、専門技術職であり、腕一本で世の中渡っていくプロの自負もある。それはもう格闘家やギタリストと同じで、やっぱり自分の腕に自信があるし、それをちゃんと評価されたい。「あいつは凄い」「あいつは強い」と言われたい。そしてその自己承認欲求は単に闘争・刀槍技術だけではなく、勇気であったり、沈着冷静剛毅な人格についてもきちんと評価されたいし、信義を重んじるという点でもそうです。「武士は己を知る者の為に死す」というは中国古典の「史記・刺客伝」からのフレーズですが、きちんとした自己評価が欲しいし、それをしてくれる人には生命をも差し出して恩に報いる。
つまりは「強くて、カッコ良くて、立派な男になりたい!」という素朴な願望だし、それをちゃんと周囲に理解評価されたい。だから、「あいつは臆病者だ」「信義にもとる男だ」などと言われようものなら、恥辱を晴らすためには腹かっさばいてでも死なねばならぬという、凄烈なリリシズムがあり、言い換えればとんでもないええカッコしい根性があり、カッコつけもここまでいけば「お見事!」です。
ここで原動力になっているのは、「恥をかきたくない」というネガティブな苦痛回避モチべーションではなく、「立派になりたい/そう言われたい」という、ある意味健康で強靱な自己向上欲求であり、自己顕示欲求です。それはもう文化祭ギタリストがクラスの女の子にキャーキャー言われたい一心で必死で練習するように、球技大会でヒーローになるために夜更けまで練習するように、ケナゲな心情であり、健康で明朗なスケベ根性でもあります。
なんでそこまでやるのかと言われれば、やっぱ強く/凄く/上手に/立派になったら気持ちいいからであり、他人からそういう評価や賞賛をうけたら同じように気持ちいいからです。つまりは気持ちよくなりたいから、やせ我慢だろうが、武士は食わねど高楊枝だろうが、意地でも突っ張り通すわけでしょう。つまりは快楽モチベーションに突き動かされているのですね。
これは男に限ったことではなく、女性でもあります。女性には男のように喧嘩の強弱という「男らしい」基準のかわりに、いかに美しいか、愛らしいか、立居振舞に清冽な美を含むかというフェミニンな基準もあります。いかにフェミニストであろうが、「あなたこそが理想の女性だ」と評されて悪い気はしないでしょう。あまりの美しさに周囲に溜息をつけせたいでしょう。それにスポーツや技術に打ち込む心情に男女の差はないです。
さらに日常的な社会生活において、「世間に恥を晒す」とか「後ろ指をさされる」というのは、何も単に周囲の評価や人気コンテストのことを言っているのではなく、「人間として正しい振る舞いをしているか」「お天道様に恥ずかしくない生き方をしているか」という、明るく陽性な価値基準あってのことであり、なにも年がら年中ビクビクと「皆に笑われているんじゃないか」と気にしているような陰性のものではない。そんな苦モチで出てくる話ではなく、誰恥じることなくキチンと、まっとーに生きていくのは「気持ちいい」という陽性の快楽モチべーションに支配されてのことでしょう。
同じように、進学も、就職も、結婚なども、本来ぶっとく陽性の快楽モチベーションがそこにはあります。思う存分自分の好きな領域の知識を貪り、ひとつ、また一つと渉猟する悦楽。学究の深窓で先哲の叡智に触れる喜び。アカデミニズムの快楽は、錐でどこまで穿っていくマニアックな快楽であり、同時に全人類規模の特大風呂敷をばさっと広げる豪快な快楽であり、だからこそ人は学問をやり、孔子様も15歳で「学を志し」た。なぜか。楽しいからでしょう。仕事にしても、今まで研鑽を積み、いささかの自負のある技能をフルにつかって、他人の役に立つ、何か現実を変える、世界を切り開くことの得も言われぬ達成感があるからやるのでしょう。結婚にしても、これまで知らなかった赤の他人と人生を重ねるというとんでもない暴挙を行い、さらにはこの世に存在しなかった生命を誕生させるという神まがいの行為と責任をひっかぶるから面白いのだ。
いずれにせよ、イヤイヤやるような事柄ではなく、あまりの凄さに武者ぶるいしながら、両頬をバンバン叩いて気合をいれて、「おっしゃああ!」で取り組むようなものであり、そこまでするだけの値打ちもあり、また底知れぬ快楽があります。
で、あるにもかかわらず、、、なんだ、勝ち組、負け組?なにそれ?ですわ。そんなレベルで「勝った」ところで、大した快楽なんかないでしょう。負けたら惨めだから勝ちたいのではなく、楽しいからやるのだ。地獄に堕ちたくないからではなく、天国に行きたいから、天国でこの世のものとも思われない快楽を得たいからやるのだ。
これは決して荒唐無稽な話ではなく、例えばスポーツをやってきた人なら分かると思う。野球で、絶好球で真芯をミートしたときの快感。振るという意識もないまま自然に身体が動き、全てがスムースに完ぺきなフォームでスィングし、ボールが当ったときの手首から全身を貫くゾクッとする手応え、そして青空に一直線にボールが吸い込まれていく気が遠くなるような快感。柔道でも、まさに神のタイミングがのりうつって内懐に入り込み、スパン!と音がするように綺麗に一本背負いが決まったときの鳥肌がたちまくるような快楽。バスケで嘘みたいにロングシュートが決まったとき、サッカーでスカッとロングパスが通ったときや振り向きざまのボレーシュートがゴールしたとき、剣道ですれ違いざま美しく抜き胴が決まったとき。音楽でも、クソ難しい超技巧パッセージがなぜかそのときに限って一瞬のよどみもなくビシッと弾きこなせたとき、、、信じられないような快感が身を貫く。
しかし、そんなこと滅多にない。1ヶ月に一回もない。どうかすると1年に一回もない。年がら年中相も変わらずクソ詰まらない基礎連やって、打込みやって、やって、やって、やって、、、と地味なことをやり続けるのは何故か?と言えば、ひとえに「もう一度あの快感を味わいたい」という欲求です。もう中毒みたいなものです。1000時間努力して味わえるのは一秒だけという、投資対効率でいえば極悪レベルに少ないにもかからわず、取り憑かれたようにそれをやる。それだけその快感が濃密で、強烈で、一生レベルに残るからです。
ほら、知ってんじゃん。誰だって、そんな快楽の一つや二つは知ってる筈です。
それはどんな些細なことでもいい、別に社会に賞賛されなくてもいい、要は自分がゾクッと気持ち良ければそれでいい。その対象が犯罪行為でなければそれでいい(結構犯罪に喜びを感じてしまう人とかいるのだけど〜万引きや放火は快楽犯で中毒犯と言われるし)。
「人は何のために生きるのか?」という古典的問いがあるけど、これに即していえば「気持ちいいから」「楽しいから」であり、もうちょっと細かくいえば、「もう一度、あの気持ち良さを味わいたいから」でしょう。
苦痛、そしてその前駆症状である「不安」「恐怖」は、確かに大きなモチベーションになりやすいし、分かりやすくもあるけど、それに脅され、蹴飛ばされて進んでいっても、とりあえず楽しくないし、また成功率も低い。
不安にかられ、恐怖に突き動かされてやっているとき、考え直すといいです。火災現場で煙に追われて逃げているなどのエマージェンシーではなく、多少なりとも考える余裕があれば、考えるべき。不安や恐怖をモチベーションにするのではなく、より積極的に快楽主導に組み替えるべきでしょう。
そして、不安や恐怖や苦痛系をマネジメントしたかったら、それはリスク管理論になります。リスク管理論でいえば、そこから逃げるのではなく、むしろそこに立ち向かい、ありとあらゆる「考えたくない最悪の事態のカタログ」を冷静に見極め、シュミレーションする。そして、地獄に堕ちるという前提で、地獄の構造はどうなっているか、どういう苦痛があるのか、それはなぜか、どうやったら苦痛緩和ができるのか、どうやったら抜け出せるのかという地獄の「傾向と対策」を徹底的にやるべきです。地獄はイヤで逃げてるだけなら、それはリスク管理にならない。てか、場合によっては最悪のリスク管理になりうる。が、これはテーマが違うのでこのくらいにします。
最後に、なんで「海外に行くの?」という点について付記しておきます。
ここも根っこの部分が楽モチか苦モチかです。
その目的は人によって違うでしょう。英語に習熟して就職機会を広げたいとか、広いフィールドでより自分らしい生き方をしたいとか。少なくとも何らかの意味で「今よりは素晴らしくなりたい」ということが原点にあるはずです。今よりもヒドくなりたいという人は少ない。これは楽モチ、苦モチ両者ともそうです。
ではさらに突っこんで、なんでそう(素晴らしく)なりたいの?と突き詰めていって、最終的にそっちの方が「気持ちよさそうだから」「楽しそうだから」という楽モチ原点の人は強いです。ここが、本来海外なんか言葉も通じないしイヤなんだけど、日本にいても就職できなさそうだし or 仕事してないと周囲にウザウザ言われるし or 放射能や環境破壊が怖いしという苦痛回避系だと厳しいです。
行くと決めたらいつまでも苦モチ動機を引きずらないこと。成功率が下がりますから。これも以前のエッセイと重複するから長くは述べませんが、日本離脱の理由はそれはそれ。しかし海外に着いてからは、海外の(現地の)原理とメソッドがあり、それはすぐれて快楽モチベーションを基本に据えるべきでしょう。単純に楽しい/辛いのメンタル管理においてもそうだし、またクールに成功率を向上させるためにも。
しかし、何もかもが勝手の違う、360度全部アウェーな環境で、一体どんな「快楽」を得よというのか、どんな快楽があるというのか?といえば、それはあなた次第です。
この森羅万象からどれだけ快楽を引っ張ってこれるか?それがその人の生存能力、ひいては「生命力」の本質だと僕は思います。生命力=快楽抽出能力と言い換えてもいいくらい。
ただ、簡単にイッコだけ書いておくと、とりあえず「命をもう一つゲットする快楽」はあります。
日本にこれまでいた場合、海外生活なんかハッキリいって「来世」みたいなものです。そのくらい接点がないです。日本で何をしてようが、どんな人であろうが、まったくゼロからの「海外デビュー」ですわ。勤務先の都合で海外駐在になるのではなく、自分の意思だけで来ている人はそうでしょう。その継続性の無さ、バッサリ遮断される感じは、まさに来世。
つまりは、もう一つ人生を味わえる快楽があるということです。
ねえ、普通は一人一つの生命/人生なのにさ、そこを欲張って二つもやろうというのだよ、映画一本分の料金しか払ってないのに、二本見ようというのだよ。それも呼ばてもいないのに、勝手に他人の家(国)に上がり込んでさ、クソ図々しいことやってるわけですよ。多少辛くても当たり前じゃん。それで文句言ってたらバチが当る。
ということは、空港で日本を離れたその瞬間から起きたことの全て、体験したこと、得たこと全てが、本来なら得られなかった事柄なんだから、なにもかもが「丸儲け」だということです。もともと生命自体が丸儲けなんだけど、それに輪をかけてもう一つもらっちゃおうという。すごいよね。
それはもうパラレルワールドみたいなものですが、その状況自体が面白くないですか?
言うならば、「不思議の国のアリスになる快楽」ですよね。
文責:田村