前回から続きます。今回は前フリなしでいきなり本論へ。
定量化社会の弊害(承前)〜世界観の歪み
行きすぎた定量化社会は、管理による息苦しさという精神を蝕むだけではなく、「世界観を歪める」という副作用を持つと思います。
社会生活の多くがデジタル情報処理化されるということは、デジタルの定量原理によって僕らのモノの見方が影響され、ひいては固定されていくということでもあります。なんでも定量的&計量的に物事を考えがちになると。それをまた「正確」であると勘違いすること。これ、かなり根深くそうなっていると思います。
料理本
その昔、料理本で「カップ○杯、小さじ2杯」という計量的な記載をすることは、とんでもなく革命的なことだったそうです。お名前は忘れたけど、その革命的なことをやった人がいたそうです。どこで読んだんだっけな〜、AERAの「現代の肖像」だっけな。いざ探すとなるともう見つからないです。
これまで料理の本職の世界では、そんなものは「適宜適量」でよく、あとは職人的なカンの問題であり、そのカンを養うこと=料理の上達だった。この方の偉大だったのは、それをいちいち「○グラム」という計量的な記述に直していった点です。料理人が「このくらい」といって示した量を、その場で計量カップやハカリで計らせてもらってメモを取っていったという。
こういう計量的なやり方には、現場のプロ達からは「ふざけんな!」と猛烈な反発があったそうです。昔から「加減」のことを「塩梅(あんばい)」といい、塩をひとつまみ振りかけるにせよ、その「ひとつまみ」は素材の鮮度や質、料理の内容、当日の気温や湿度によって千変万化する。それを見切るのが「腕」であって、○グラムと一律表記するのは職人芸の否定にもつながる。
しかし、家庭料理においては一般人が作るわけですから、「カン」「適当」とかいわれても分からない。だから、反発を食らい、時には面罵されながらも、必死に食い下がってデジタル表記の料理本を作った。大変なご苦労だったそうです。
本職の方々の違和感や言い分も分かるし、この革命的な料理本を作った人もエラかったと思います。
でも、今となっては定量表記の方が当たり前になってしまった。
ここに問題があるのでしょう。アバウトにしか表現できない非定量的なものもあるのだけど、それを定量化してしまうと「なにか」が失われる。
塩○グラムという定量化、デジタル化は、ある程度の指針にはなるでしょうし、大きなヘルプにはなります。しかし、あくまでも目安に過ぎず、「ゼロよりはマシ」という、いいとこ7-8割の精密度でしかない。
本来、料理というのはもっと自由なものだし、その本質は大袈裟にいえば「食材(自然)との対話」であり、ある意味では料理本の固定的なレシピーに逆らうところから始まるとすら言える。「いや、俺はこうした方がいいと思う」「この場合は違う」と批判的に取り組むこと。それは一見料理本に逆らっているようでいて、実は順行しているのでしょう。逆らうとか対決するというかいうことではなく、これも「対話」する。
料理本の著者だって、素材や環境の違いを百も承知していながらも、諸般の便宜を優先させて、泣く泣く無理矢理一つのデジタル表記にしているわけです。そうでなければダメと教条的に押しつけているわけでは絶対無いと思う。そして、デジタル表記にすることによって「こぼれ落ちた大事な部分」を拾い上げるのは読者の役目でしょう。作者が提示するアバウトな基準+読者の創造性が組み合わさって、はじめて作者の言いたいことが甦る。
こんなことは、普通の「大人」だったら、いやちょっと気の利いた中学生だったら分かることで、それが人間の知性ってものでしょう。
ああ、だが、しかし、一旦数値化されたら、金科玉条のように教科書化し、教条化していく。その本質に思いをめぐらせ、深く考察することもなく、「だってこう書いてあるも〜ん!」と無批判に盲従する人々が出てきたりもする。
年齢〜「成人」
定量的世界観に、僕らがいかに骨の髄まで毒されているかを示す別の例は、年齢です。
年齢を基準にした物事がいかに多いか。
法律上の年齢基準は幾つもあります。女性の婚姻は16歳からで男性は18歳、成人は20歳、少年法上のなんたら○歳とか、被選挙権は衆議院が○歳とか、沢山ある。
でもそれらは、大量一括処理をするという社会システムの必要性からなされたものにすぎない。選挙権も普通選挙という一切の差別を撤廃する点に意味があるのだから、敢えて一律デジタル処理にする点に眼目があった。しかし、一歩本質に踏みいれば、バイクの免許は16歳で、普通免許は18歳というのもどれだけ合理性があるのかよう分からないし、結局は、「はい、この線から入っちゃいけないよ」で便宜上描かれた線に過ぎない。「ま、大体こんなもんでしょ」程度のものなのだ。だから実体は違う。
それなのに、20歳になったら「せーの」で成人式とかやる。
18歳に引き下げるべきなど議論はあるが、年齢(だけ)基準&一括処理という発想に対する議論はあまり見当たらない。
昔の元服は「適当に」やっていた。「そろそろこいつも大人の仲間に入れてやってもいいだろう」という判断が下されたら、通過儀礼としてやるもので、大体12-18歳の間で適当に(としか思えない)やっていた。もちろん年齢という数値も大きな指標にはなったと思うけど、年齢だけで決めていたわけではない。女性の場合はもっと簡単で初潮を迎えたかどうかが大きい。赤飯炊いて「ママになれるようになった」ことを祝い、自覚を促す。
年齢という一律判断ではなく、もっと実質的に考えても良いのではなかろうか。
現代日本において「成人=大人」と呼ばれるためには、どういう実質を備えなければならないのか?どれだけ成長すれば「一人前」としてみなされ、大人社会の中に入れて貰えるのか?どっかの部族のように槍一本でライオン倒してこいとか、そこまでゴリゴリの実質説でなくてもいいけど、イニシエーションはどんな部族でも大切にしてきたし、年齢という定量数値を一回設定したら、もう実質は考えなくても良いってものでもないだろう。
12歳で一人前になる人もいる反面、40歳過ぎても「お前はまだダメ」と拒否られる奴がいても良いはずです。今は成人式があまりにも形式的になったがゆえに、その意味も薄らぎ、そもそも参加しない人も多い(僕も出なかった)。今となっては単なる和服のファッションショーになっているだけで、要は七五三の延長のような気もする。
もちろん七五三が悪いわけでもないし、時系列的のある特定の一点を「節目」として捉え、あらためて成長を祝うとか、日頃考えないことを考えるようにする風習の有用性は分かります。元旦なんかその最たるものでしょう。それはいい。風流文化としてわかる。でも、それだけなの?ただの儀式でいいの?という疑問です。
僕の定義では「大人」とは、周囲の人々あるいはこの社会に対して、GIVE&TAKEの関係で、与えるものが貰うものよりもトントンないし大きいかどうかであり、貰うものが多いうちは「子供」扱いして良いと思ってます。
英語の場合はもっと厳然たる(でも曖昧な)概念があって、"boy"から"man"と呼ばれるためにはそれ相応の実質が要求される。女性もただの"girl"から"lady"と呼ばれるためには、相応の威厳と人間性が求められる。
ボブディランの往年の名作、「風に吹かれて」の冒頭もそうですよね。
”How many roads must a man walk down. Before you call him a man ?”
「その人が「(一人前の)男」と呼ばれるためには、いったいどれくらいの道を歩かねばならないのだろう?」
「ここまでいけたらイッチョ前」という問題は、これは大事な問いでもあるから、それぞれがちゃんと考えた方が良いのでしょう。少なくとも一律にデジタル的に処理して、それで一件落着って問題ではないと思います。
年齢(その2)〜就職差別
同じように年齢という計量重視の弊害は、就職などによる年齢差別にも現われています。これは別のところでさんざん書いてるからバサッと端折るけど、「35歳以下」とかよくありますよね。そうではない職場も増えてきてるとは思うけど、まだまだ珍しくはない。
そもそも、なぜ就職において年齢がそこまで決定的な役割を果すのだろう?
年齢による能力差というのは、年齢がいけばいくほど激しくなる部分もあります。それも当然で、学ぶための持ち時間が長くなればなるほど、それを無駄にしたか有効に使ったかの差も比例して激しくなるのが道理。だから年齢なんぞによって能力や人格なんか全然測れない。それは理屈の上でもそうだし、経験的にもそうでしょう。
それに、一般に年齢があがるほど学習時間が長くなるから、より賢く、より人格円満になりそうなんだから、仮に年齢差別を認めるにしても、「○歳以上」というならまだしも(国会議員の被選挙権のように)、「○歳以下」とするのは理屈に合わない。映画の子役のように、特に若くなくては意味がないような職種は別として、一般事務とか普通の仕事だったら年齢が上の方がより優秀な確率も高いのではないか。
にも関わらず「○歳以下」としているというのは、それなりの現場の合理性があるのでしょう。察するに、日本の場合、年齢が上がるほど「素直さ」が失われる。プライドばかりが高くなって、使いにくくなるというのが大きなマイナスポイントとして意識されるのでしょう。でも、これも本当にそうか?という疑問もあります。くだらないプライドは若い奴の方が強い気もするし。まあ人それぞれじゃないなのか?と。
話は逸れるのですが、いったい日本では「成長」ということを真面目に考えているのか?という、いつもの疑問につながっていきます。30歳、40歳と年齢が上がるにしたがって、より完成された人間として魅力を増していくという具合に物事を考えない。ひたすらしょぼくれて、劣化していくような感じ。アンチエイジングなんかもそうだけど、若く見えるとか、若くあることに価値を置くことに違和感があります。なんで年相応に美しく、成熟しようという発想にならんのだろうか?なんか時と共にどんどん失われているという「喪失的世界観」がある。
その延長線上というか、むしろ起点付近にあるのが、最初から話題にしている新卒採用でしょう。学校を出たばかりの時点に最大の価値があり、そこから離れれば離れるほど価値が下がるという生鮮食料品みたいな発想。これも「喪失的世界観」の一つの形態でしょう。最近は、卒業後3年以内は第二新卒として扱うとか多少は緩めているけど、いずれにせよ「新卒して扱う」という発想フォーマット=生鮮食料品的であることに変りはない。言うならば「3日前の食品でも”新鮮”といっていい」という流行の「食品偽装」のイチヴァージョンという気もするし、なんたらシーベルトの基準値を恣意的に上げたり下げたりしているのにも似てる。
いずれにせよ、言いたいのは、年齢ってそんなに大事なの?そんなに決定的な意味を持つものなの?ってことです。
また、そこに決定的な意味を持たせている社会があるとしたら、そういう社会ってどうよ?です。
そしてより抽象的にいえば、年齢という定量・計量的なものにそこまで振り回されてていいわけ?という問い掛けです。
啓蒙活動やスローガン
「40歳になったら○○検診を受けましょう」とか数値化された呼びかけはよくあります。
確かに定量化した方が分かりやすいし、啓蒙活動にはなります。「そろそろかなと思ったら成人病検診」とか曖昧なことを言うよりも、「30歳になったら検査を受けろ」という一義明白な指針を設けた方がやりやすい。それはわかる。
しかし、なんでもかんでも「数値目標」を掲げるのが良いのかどうかは疑問です。節電「15%」についてもそうですし、いつぞやのメタボ基準なんかもそうです(まあ、これらは数値そのものが議論大アリなのだが)。成人病についても、○歳になってからとか、塩分○グラム取るととか言われてますが、逆は必ずしも真ではないし、過剰な意味づけも良くない。タバコを吸ったら肺ガンになりやすいというのも、喫煙者は絶対ガンになるかというと別にそういうわけでもないし、非喫煙者でも肺ガンになってる人は幾らでもいる。そういえば、ちょっと前に真逆な統計結果(喫煙者の方が肺ガンにならない)が出てちょっと話題になりましたね。あるいは若くして成人病といわれている病気にかかる人もいるし、若年で認知症になる人だっている。
医療の専門家、あるいはどんな専門家もよく分かっていると思うけど、こういった数値的な認識は「呼びかけ」「スローガン」であり、別に絶対的な真理として言ってるわけではない。世間の一般人に対して、プラクティカルに注意喚起を促すためのものに過ぎない。塩分取りすぎたら高血圧になるけど、塩分以外にも高血圧になる原因は他にもいくらでもあるのであって、勝手に反対解釈や延長解釈をしてはいけない。
本当の健康というのは、年齢もさることながら、その人の素質、生育環境、現在の生活環境、既往歴、そして種々の現状などから総合的に考えるものでしょう。千差万別の個体差を無視して一律に語る方がどうかしている。しかし「塩○グラム」「体脂肪比率○%」など「数値様」がエラくなり過ぎているキライがある。その意味で、数値だけに囚われるのではなく「ちゃんと本質を考えようぜ」という、料理と同じ構造につながっていきます。
カリキュラムやマニュアル
発達心理学の統計をもとに「○歳になったら○○の早期教育を始めましょう」とか、エクササイズでも「○○運動を2分続けてやって脈拍が○○になったら次に〜」とかプログラム化されている。これも、なんでもかんでも数値化、定量化する。
いわゆるカリキュラムと呼ばれているものも、一定の出席率をキープし、順調に課題をこなせば、はい卒業、学位を貰えるとか、資格を貰えるとか。それはそれで合理的に考え抜かれたものなのでしょうが、しかし、しょせんは一定の数値基準でしかない。ド素人がゼロから取り組むには、なるほど合理的なガイドラインになるだろうけど、大まかな骨組に過ぎないから、あるところまでいったら自分で血肉をつけていくしかない。
より実質的なものを大事にする世界では、一定のことをこなしたら「はい」といってご褒美をくれるわけではない。剣術の免許皆伝なんかも、そう簡単にはくれなかったし、これとこれをやっていたらOKという基準もない。今でも、落語や歌舞伎などの○代目襲名なども、一定の計数的な基準で許可されるものではない。そこには「実力、人格ともに円熟の境地」というファジー満載の、到底数値化出来ない、しかし厳然たる基準がある。
つまり実質を重んじれば重んじるほど数値化しない。できない。
その基準は極めてファジーなんだけど、しかし厳然としたハードルがある。
それは、チームでのレギュラーの選抜でもそうだし、社内での人事もそうです。「あいつは大丈夫」「彼は使える」「あの人ならやってくれる」という判断は、非常にファジーなものですが、しかし厳然たるものです。その集団が実質を知悉していればいるほど、数値的なことは問題にならない。例えば、これまで○ポイント上げたとか、営業成績がどうかということも考慮はするけど、数値よりもその内容を見るでしょう。数値に惑わされず、騙されず、振り回されない。当たり前です。あなただって、何か大事なことを頼む場合、数ある友達の中で誰を選ぶか?そのときに数値的なことを考えるか?てか、そういう場合に数値なんかあるのか?と。
デジタル情報処理とアナログ的「観照力」
「頃合いを見計らって」とか「大分慣れたかなというところで」とかいう「潮時感覚」を、無理矢理「全工程の予想時間の37%を消化した時点で」とか記述したりする。相手が融通のきかない、判断能力のない機械だったら、そうやってデジタル処理するしかない。デジタル情報処理化を進めるってのは、多分そういうことなんでしょう。
しかし、人間は単なる機械ではない。「頃合い」とか「適当」というアナログ的な発想の方が本来馴染みがある。それが証拠に、「ちょっと」「ぼちぼち」「そこそこ」「いい加減」「ほどほど」「まあまあ」「やや」「かなり」など、アナログ的な日常口語表現がいかに多いか?デジタル的に表現しようもないことがいかに多いか?
例えばあなたの職場で「○○商事の○○さんがおみえですけど」「え、今?あー、ちょうど手が離せないんだわ、悪いけどさ、10分ばかりちょっと適当に相手しててくれないかな?すぐ行くからさ」とか言いますよね。でも、その部下から「"ちょっと適当に"って何をどれだけどう適当にするのですか?」「"相手する"って具体的に何をどうするんですか?」とかイチイチ聞かれたら、「だー、もー!」って気分になるでしょう。
以心伝心、阿吽の呼吸とかいうけど、そこまでのテレパス的能力でなくても、漠然としたアナログ表現、殆ど文字的には無内容とすら思えるようなアナログ表現でも、情報の交換は出来るし、それが出来なければ社会人失格ですらある。つまり、アナログ表現をアナログのまま理解できれば出来るほど、「使える」「スジがいい」と言われるわけだし、仕事が出来る出来ないの一つの基準になる。
なぜこんな魔法のようなことが出来るのかといえば、全体をよく理解しているからであり、自分の頭で考えているからでしょう。我が社と○○商事の関係、上司と○○さんの関係、今現在の取引状況、相手が怒っているのか、のんびり顔見せに来ているのか、どういう話をすると支障があり、どういう話だと面白いけど支障がないのか等を、数十項目に及び情報を頭にいれておき、瞬時にその情報処理が出来ること。そのためには、常日頃から「ははあ、だから○○さんには頭が上がらないのか」とか自分で見て理解しておく。それが出来るからこそ、「わかりました、ちょっとお話ししてますね。あ、今度のB型試作器なんかもお見せしちゃってよろしいですかね?」とか突っこんだことも聞ける。そのあたりが出来ると、「使える部下」になるという。
しかし、社会の計数化、定量化がどんどん進んできて、アナログ的な情報処理が出来る人=自分の頭で、大雑把に but 的確に全体像を把握し、そこから幾つかの構成原理を抽出し、組み合わせ、瞬時に演算が出来る人、別な言い方をすれば情報処理のレベルがワンランク高い人ですが、こういう人材が減ってくるとします。
これは既に80年代から言われていたことですが、いわゆる「マニュアル世代」という人々ですね。世代的には僕らなんかもそうです。マニュアルが無ければ何にも出来ないと言われた。まあ、本当に何にも出来ないわけではないけど、自分の頭で観察し、把握し、理解する能力が落ちてきたとは思う。その昔は、「お客様に粗相があった」「気がきかない」でバシバシぶん殴られて覚え込まされるような機会が減ってきたのは確かだと思います。世代で輪切りにするべきでは無いとは思うけど。
かくして、最初は単なる目安でしかなかった数値や計数が、徐々に世界観を構成する重要ピースになり、しまいにはそれだけで世界観が構成されるようになる。「数値様の支配」が始まる。
昔は大雑把で直感的に、しかしかなり正確に「この子は賢い」と地頭の良さを見抜いていたのが、学校教育が普及するにしたがって「学業優秀」という学校成績で頭の良さを計るようになり、さらには細かく点数やら偏差値やら合格可能性なんぞで「賢さ」を計ろうとする。だから、偏差値高い学校を出ているけど、本質的には地頭が悪く、お馬鹿さんという人種も出てくる。人の痛みは分からないわ、気が利かないわ。
個々の細かなデーターはさておき、全体的にみて直感的に本質を把握する力。観察力よりももっと深く、洞察力よりもより広く直感的な情報収集・分析能力。的確な日本語が思いつかないのですが、強いて言えば「観相力」「観照力」とでも言うのか、そういう力があるのだと思います。観相というのは本来人相を見ることですが、顔を見るだけでその人の内心や将来の禍福すら見るという。「観照」は「鑑賞」ではなく、虚心に見て人生や自然の本質を掴むことです。うーん、もっとドンピシャな単語がないもんかな、、、ま、わかりますよね。
で、定量化数値ばかりに慣されていくと、その”観照力”のようなものが減る。健康でも、検査数値だけ一人歩きして、全体を把握することがおろそかになったりする。経済的な数値ばかりを追いかけていくと、生きてて何が楽しいの?みたいな状況になったりもする。
そして、その行くつくところが、「良い学校にいけば人生安泰さ」のような、まるで「塩分○グラム」のような、「ファーストデートは早めに切り上げて爽やかさを演出」みたいな、「人生舐めてんのか?」としか思えないような観念が広まっていったのでしょう。
かくして、「お勉強的方法論」に行き着いていく。
やあ、やっと戻ってきたぞ。
以下、就活やら婚活やらについて書いたけど、例によって書きすぎてしまったので、今回はここまで。
文責:田村