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今週の1枚(2012/08/13)



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Essay 580 :定量化社会と問題(1)

なぜ非定量原理を軽視するようになるのか?
 写真は、Newtownで取った木蓮の花。
 去年も同じ頃に木蓮の花を載せたと思いますが、このピンク色が青空によく映えるのですね。




 前回、定量的原理と「非」定量的原理を書きました。世の中そんなにレンガを積むような定量的なものだけじゃないよって話です。今回は、非定量的な原理の「軽視」が昨今の日本社会(に限らないけど)の問題点ではないかという話を書きます。

 先にサマリーらしきものを書いておくと、
 なぜ非定量的原理の軽視を問題にするのか?といえば、

  「不安」が増大するから

 だと思います。
 ここに諸悪の根源があるような気がする。例えば「うつ」のような精神健康やら、端的に景気が悪くなることやら、向こう見ずなまでのイノベーティブな社会になりにくいことやら。

定量的原理とその問題点(復習)

 一応初めて読む人のために書いておくと、「定量的」なんたらというのは、戦後日本の「お勉強して→良い学校→いい会社→いい人生」というセットメニューというか、エスカレータというか、パックツアーのようなモノの考え方のことです。「お勉強的方法論」と名付けていたものですが、その本質は、レンガを積んでいくような世界観です。一個レンガを積んだら一個分だけ高くなり、二個積んだら二個分高い。一定の行為に対して、ほぼ定まった比率での変化=定量的な変化=が期待できることであり、この定量性を世界観の中心に据える発想を定量的原理と仮に呼んでます。まあ呼び方なんてどうでもいいのですが、基本となるコンセプトはそういうことです。

 この定量的方法論は、とても「堅実」に見えます。安心です。
 また、頑張れば頑張っただけのことはあるので、「アリとキリギリス」的な因果応報の正義感にもかなうし、「頑張ろう」という明日の希望にもつながる。

 いいじゃん、問題ないじゃんって思われるでしょうが、問題あるんですよ。
 これも繰り返しになりますが、記憶喚起のために書いておきます。

 第一、この世界は必ずしもレンガ積みのように動いているわけではない。
 人生や物事の成就には、常に運や偶然という凸凹が不可避的につきまとう。
 そもそも、自分がこんな顔して、今の両親の子供として生まれて、世界の端っこの離れ小島の国に生まれたというのも、ただの偶然であって(それを運命とか宿命とか呼ぶかは別として)、レンガ積みの結果ではないです。

 ここで、いや前世で頑張ったからポイントが貯まって、天国で来世のありようを選択するオプションが増えて、その選択の結果として、今の時代にこういう生まれ方をしたのだという「お話」を作れば、それは確かにレンガ的でしょう。だけど、そうであるという保障も確証もない。

 また人生の重大な柱になるような出来事〜多くは「人との出会い」ですが、一生の親友とどういう出会い方をするか、生涯の伴侶が誰になるか、自分の子供はどんな人間か、どんな仕事、どんな同僚上司、どんな趣味を持つか、どこに住むか、、、自分の意思で決める部分もありつつも、多分に偶然で決まることが多い。

 もちろんレンガ的な努力も必要です。良い出会いがありそうな場所に行くこと、そこで出会いが成就できるような魅力的な自分になること、その出会いを出会いと気づくだけの感性や、その縁を大事に育んでいく努力、、、それらはいずれもレンガ的です。しかし、最終的なキメの部分は、ガラガラポンのくじ引きのような偶然で決まる。もしかしたら出会わないかもしれないし、最悪の出会いをしてしまうかもしれないし。もう全然わからん。だからレンガだけではやってはいけない。人生における重要性が高ければ高いほど偶然の寄与率が高くなる。これが一つ。

 第二に、もっぱら右脳系のクリエイティブな創作活動や、発想・着想、アイデア、センス、直感、、、などは、レンガ的な論理で動いているわけではない。100頁本を読んだら1個アイデアが出て、200頁読んだら2個アイデアが出るという計量的なものではない。出ないときは全然出ないし、逆に猫に餌をやってるときに閃いたりもする。いつ天から降ってくるかわからない。この不可思議なサムシングこそがダシの素になるのであって、これを欠いたまま、理屈や技術だけで作り上げたものは色彩や潤いに欠ける。上手いし良くできているんだけど、プラスチックみたいな質感で魅力に乏しく、フックがない。

 もちろん、ここでもレンガ積みは一定限度で有効です。着想を得るための土壌作りはレンガ積み作業です。素晴らしい曲想を得るためには膨大な音楽を聴くべきだし、それを形にするためには音楽理論や技術にも精通している必要もある。良い文章が書きたかったら、数千冊単位で本を読むしかない。長い長い積み重ねによって、発酵し、醸造し、センスが磨かれる。それは全くその通りでレンガ積みは大事です。

 でもレンガだけではダメで、それにプラスして、その人だけの「触媒」が必要でしょう。大豆を煮ただけでは豆腐にならない。「にがり」を入れないと固まらない。
 その触媒は、子供の頃にお父さんの肩車で見た夕陽の綺麗さであったり、思いっきりフラれて土砂降りの雨の中でズブ濡れになって大泣きした経験とか、幼い頃に読んだ童話の挿し絵であったり、何気ない同僚の一言で深く傷ついたことであったり、その人だけの「なにか」が種子となり、たまたま日光と水分に恵まれ、レンガ積みで耕した肥沃な土壌で発芽するのだと思います。でも、そういった「創造の奇跡」がいつどうやって訪れるのかは分からない。一生に一回だけ訪れてそれだけって場合もある。一曲だけ超名曲を作って、あとは全部凡作ってこともあるのだ。ゆえにレンガだけでは物事は成就しない。レンガは大量生産できるが、奇跡は大量生産できない。


 以上の二点により、レンガ積みには限界があるということです。

 なお、繰り返すようですが(必要だから千回でも繰り返すけど)、レンガ積みが意味がないとか、無駄だとか言ってるんじゃないですよ。僕らが日常において出来るのは、結局はレンガを積むことだけなんだから、それはとてもとても大事なイトナミです。でもそれだけでは足りないと言ってるのです。必要だけど十分ではない、と。

 じゃあ、あと何が必要かと言えば、非定量的な「なにか」です。
 それを偶然と呼ぼうが、天の声と呼ぼうが、運と呼ぼうが、それは趣味。場合によってより相応しい言い方があるのでしょうが、いずれにせよ「非レンガ」であり「非定量」です。


 これは何を意味するか?
 この世界や自分の人生は、決してレンガのように堅実ではありえないということです。予測可能ではないし、その通り物事が進んでいくわけでもない。アリとキリギリスのような因果応報が常にキッチリ生じるというものでもない。不安定で、気まぐれで、時として暴力的なまでに理不尽な偶然力に翻弄されざるを得ない。

50年スパンの大き過ぎる”いい加減な”法則性

 しかしながら、大きな意味では因果関係も法則性もあるのでしょう。
 ものすご〜く視点をパンして、それこそ50年〜一生スパンでみれば、「まあ、よく出来てるわ」ってくらい、世の中というのは良くできている。因果の流れはちゃんとあるし、公平も正義もそれなりに大雑把にはある。

 お金持ちになって贅沢三昧の日々を送れるようになったとしても、いざその立場になったら予想もしてなかった苦しみもある。お金が無いときは貧乏で苦労はするのだけど、その代わり無償の善意を感じる幸福もある。ヘタにお金があると、今度は鮫のような連中が寄ってくるから迂闊に他人を信じられなくなる。他人の厚意を受けても、財産目当ての下心を邪推したりして素直になれず生きてて楽しくないとか。権力や実力を極めて、頂点に立つのは素晴らしいことですが、今度は「お山の大将俺一人」状態になる。「孤高の人」といえば聞こえはいいけど、トモダチのいない寂しい奴ってことでもある。滅多にモテない人が初めて恋人が出来たときは、スキップして通学するくらい嬉しいものだが、モテ期に突入して幾らでも出来ると今度は嬉しいよりも、面倒臭くなったり、鬱陶しくなる。

 光り輝く黄金も、それはゲットするまでの間の話であり、一旦手中に収めたその瞬間から、感動の長期低落が始まる。瞬間ごとに錆びていき、鉄クズのようになっていく。で、「こんなもんいらん!」で捨ててしまった瞬間に、それはまた黄金の輝きを取り戻し、喪ったモノがいかに貴重であったかを慟哭しながら後悔する。

 それが悲しい人間のサガというやつで、話が逸れるのでこれ以上突っこまないけど、要は右脳と左脳がバラバラの原理で動いているからでしょう。人間の感情というのは理屈どおりに動かない。理屈を完成させると感情は白けているし、感情を優先させると理屈が破綻してムチャクチャになる。たまたま両者が一致するときもあるが、それは列車が離合するような瞬間でしかない。

 こういうアンビバレンツな(相反する)人間が、必然と偶然のアンビバレンツな世界に生きているのであるから、短期的にみれば偶然に翻弄されてモミクチャにされるのだけど、長期的にみればみるほど、なんだかんだで帳尻は合ってくる。似たようなところに収斂されていく。世の中、ほんとに良くできていると思うのだ。

 それは例えば多感な中高生時代。リアルタイムには、あんなことやこんなことで天国に昇ったり地獄をみたり、壊れたエレベーターのように一喜一憂するのだが、やがて時が来て卒業してしまえば「いろいろあった」になり、30歳を越えて振り返れば「青春時代のヒココマ」に収斂されていく。50年も生きると、少なからぬ知人が離婚したり、破産したり、自殺したり、早期ガンで死んでしまったりする。自分だって、予想もしていなかった経路で、予想もしていなかった場所で、予想もしていなかった日々を過している。多くのが物事がムチャクチャに進行するのだけど、でも、結局は「いろいろあった」というところに落ち着いていく。これが100年も生きれば殆ど全ては純粋に確率論、要するにAが先に来るかBが先にくるかの順番の差でしかないのがより明瞭に見えるだろうし、死んでしまってからは「結局、皆死んじゃうんだよな」と終着点は誰しも同じという当たり前の事実に深く納得するようになるのでしょう。

 しかし、こういった大きな因果、大きな帳尻は、デカすぎて見えにくい。
 地震みたいなもので、100年に一度の地震は、今日来るかもしれないし、99年後かもしれない。たまたま出くわすかどうかはまさに理不尽で暴力的な「運」としか思えない。しかしながら、40億年の地球のタイム感覚からすれば、100年に一度なんてのは取るに足らない「微差」に過ぎず、まさにメトロノームのようにカチコチ正確&規則的に生じているだけなのでしょう。しかし、あっという間に死んでしまう人間のタイム感では、実感的にそれが「規則的」だとは到底思えない。

 同じように、人生上のあんなことも、こんなことも、50年くらい生きていると、「ははん、なるほどね!」と得心がいくことも増えてきます。しかし20-30年程度のタイム感では、いくら理屈で説明されても感覚的には分からんってことになるでしょう。

 これをもう少し身近な言い方に変えると、年長者は得てして「まあ、人生、なんとかなるもんだよ」とか、「結局は、おさまるところにおさまるよね」とか言うもんです。非定量的な偶然や運命的な要素も、「一生懸命頑張っていれば、良い出会いもある」くらいのアドバイスにしかならない。

 これって別に意地悪で言ってたり、無責任な気休めやナグサメを言ってるつもりはないのですね。心底「そうだよなあ」と思ってるし、「そうとしか言えない」からそう言ってるだけなんだけど、何しろ話があまりにも漠然とし過ぎているし、因果関係の流れも不透明。てか全く見えない。そこにはレンガのような堅実さはカケラもない。「そのうち、いいことあるさ」くらいの投げやりで曖昧なコトバにしか思えない。

 だから、年少者からしたらそんな気休めのような説明では納得しにくいから、「も、もし、何ともならなかったら?」と考えてしまうのですよね。で、「そ、そのときは、ど、どうしたらいいんでしょうか?」と聞いたら、「まあ、そのときはそのときだわなあ〜」という輪をかけて「いい加減」な返事が返ってくるから、「もう、話にならん!」とか思っちゃうんですよね。

 非定量原理=偶然とか運命のいたずらを面白がって賞味できるようになるためには、「それでも何とかなるもんだ」という分厚い経験に裏打ちされた実感がベースにあってこそです。世の中レンガだけじゃないよと聞いても、「当然じゃん」「だから面白いんじゃん」と思えるようになる。

 「視野を広く」とよく言いますが、広くするのは何も空間的に広げるだけではなく、時間的にも広くすべきでしょう。これもいちいち50年生きないとダメってことでもなく、また50年生きても狭いまんまって人もいるとは思う。これは訓練である程度出来るっしょ。常にとは言わないまでも、意識的に50年、100年単位で物事を考える癖をつけるといいです。「100年後の日本はどうなってるか」です。これも「分からない」で投げ出すのではなく、できるだけスッポンのように食らいついていく。「100年後」だって、絶対いつかは現実に来るんだもんね。

非定量的な原理は理解しにくい

 上の話からもう少しエッセンスを抽出すると、定量的な原理は理解しやすいが、非定量的な法則性は理解しにくいということです。

 それはそうでしょう。レンガ一個積むと10センチ上がって、1日に一個積めて、全部10メートルの高さがあったら幾ら日数がかかるでしょうかと、定量的なものは計算しやすい。でも、「もしかしたらイイコトあるかもしれないよ♪」という非定量的な原理は計算ができない。また、その「イイコト」とやらは一体いつどうやって訪れるかも全然分からない。ただ「感じるだけ」でしかないから、ぼけっとしていると見過ごしてしまう。来るか来ないか分からないし、来たところで姿が分かるわけでもないようなものは、もう計算の要素には出来ない。そんなアヤフヤなものはどうでもいいわってなるのも、まあ、当然のことだとは思う。

 しかし、非定量原理がいかに分かりにくかろうが、アテに出来ないかろうが、無視して良いわけではない。これをシカトしてると、なんか詰まらな〜い、そこそこ出来は悪くないんだけど、無機質でテイストのない人生になってしまいがちです。

 だからこそ悩むんですよね。

 これは今に始まったことではなく、人類は古来から連綿と悩んできたのでしょう。

 その証拠に、この種の悩みに対する人生的回答として、「これでもか」というくらい様々なコトワザや金言が語り継がれてきています。「人生いたるところに青山あり」とか、「禍福はあざなえる縄の如しとか」、「苦あれば楽あり」とか、「渡る世間に鬼はなし」とか、「犬も歩けば棒に当たる」とか、「瓢箪から駒」とか、、、

 これらの諺の要旨は、「イイコトも悪いことも適当にまぜこぜにやってくる」&「でも、まあ、結局は何とかなるもんだよ}ということに尽きます。それだけのことを手を変え品を変え、喩えを変え、レトリックを変え、人類は連綿と申し送り事項にように伝えてきた。では、何故こんなにも大量に語らねばならなかったのか?といえば、「分かりにくいから」でしょう。

 この種の「悟り」は、人生何十年かやってると誰でも自然に思うことであり、「悟り」「真理」というほどご大層なものではないです。だけど、ある程度のスパンで場数を踏まないとわかりにくい。

 古来、血気にはやったり、焦燥に駆られる若い人達に対して、村の年寄りは諄々と諭していたのでしょう。その際のこれらの言い回しを援用し、そして「昔の人は〜」「年寄りの言うことは聞くもんだべ」という、「昔の人」「年長者」の権威性で強引に納得させてきた。「経験者は語る」の説得力です。逆に言えば、理屈で納得させるのは難しいのでしょう。「まあ、お座り」「ようお聞き」と押しつけるように納得させてきたし、それで上手くいっていたのでしょう。


 さて、今日の日本社会(世界も)の問題性というのは、この非定量原理との付き合い方がどんどんヘタクソになっているという点です。

 そして、それは現代社会が、どんどん定量社会になっていったからだと思います。
 以下、その点について書きます。

社会の定量化傾向

 なぜ日本社会が定量化していったか?これも二つあると思います。

 一つは、社会が平和で、どんどん経済的にも豊かになり、システムが整備されていったことです。これは非常に良いことです。いいだけど、物事には必ずサイド・エフェクト(副作用)があります。

 日本はもともと「無常観」の国であり、全ては流れる川のように、ぱっと咲いては散る桜のように変遷していく。形あるものはいつかは壊れ、逢うは別れの始めであり、だからこそ一期一会の瞬間美を大切にした。変わることの虚しさを一種の諦念で受け止めるとともに、そこに独特の「美」を見い出すという、かなり洗練された「大人のセンス」を持った民族なのでしょう。

 しかし、「明日はどうなるか分からない」というのは日本に限らず、その昔は普通の風景、普通の感覚だったのでしょう。西欧のクリスチャンの食事のグレイス(お祈り)で、今日を一日無事に生きることが出来たことを神に感謝します。無事であること、生き延びたこと、ただそれだけのことが感謝を捧げるような出来事だと認識されている。逆にいえばそれだけハードな時代であり、「明日死ぬかもしれない」というのは、誰もが普通に考えていたことなのでしょう。少なくとも現代人よりは遙かに切実に思っていたでしょう。

 そういった環境においては、定量的変化といっても現代ほどの力強さと堅牢さを持たなかったでしょう。気象観測技術や農業技法が未発達だった頃は、いくら努力してレンガを積上げても、季節外れの台風一発、あるいは冷害一つで村々では餓死者が出たでしょう。また、封建社会の身分制のように「何をどう努力してもダメなものはダメ」という厳然たる壁がドーンとあったりもします。さらには、日々平穏に暮らしていても、戦があれば問答無用で兵隊に駆り出されるし、自分の村が戦場になったらそれこそ根こそぎ荒廃させられる。流行病も常にあるし、新生児は死んで当たり前でもある。

 そういう状況で生まれ育てば、人々の非定量的な事象・原理に対する感性はいやが上にも鋭敏だったと思われます。ずっと昔にエッセイ(雑記帳)で書いた「カイロス(潮時)」の感覚も研ぎ澄まされるだろうし、「天の声」(らしきもの)も聞くだろうし、「虫の知らせ」「イヤな予感」も敏感に皮膚で感じたでしょう。現代人よりはずっと鋭かったと思う。突発的・偶発的なものを、そーゆーものだとあるがまま受け入れ(そうするかしないのだが)、それと付き合って生きていくから、その原理を織り込んだ世界観になっていく。

 でも、成熟した現代社会では、そうそう「明日死ぬ」というのがリアリティを持つこともないし、突発的偶発的なことは起きるのだけど、それほど頻繁に何もかもぶっ壊すようなこともない。東北地震のようなインパクトを持ったことが、昔は3年に一回くらいあったのかもしれません。冷害、蝗害、河川の氾濫、野盗、疾病などなど。でも今は違う。あそこまで悲惨なことは、そう何度もあるものでもない。

 そして一方では人権も民主的なシステムも整っている。そりゃ満足できるレベルではないかもしれないけど、消費税増税に生命の危険を感じることなく気楽に反対することが出来る程度には整っている。昔だったら年貢の負担増に反対して直訴や一揆を起こしたら、問答無用に磔・死刑です。経済システムも、教育も、医療も、運輸も何もかもがどんどん整っていった。予定されたことが予定通りに行われて当たり前。宅急便は時間単位で指定でき、実際またその時間に来るという世の中です。

 つまりはどんどん定量的に、計算可能な社会になってきている。
 しかし、その分、非定量的な物事に対する免疫とか対処法が忘れられていった。
 これが第一の原因。これは日本に限らず先進国をはじめとして世界規模で起きていると思います。

 第二の原因が、日本独自の戦後の経済成長です。終身雇用の年功序列の、大学→サラリーマン→一生安泰カルチャーと、それを裏付けるだけの経済的実質です。これはもう何度も書いたので割愛します。

定量化社会の弊害〜管理社会化

 こういう社会は、豊かで安定していて良いのですが、同時に息苦しい社会にもなります。

「いい加減」を許さない便利さの追求&末端神経肥大症

 何もかもがシステマティックに整っているのは便利で良いのだけど、今度は「整っていなくてはならない」社会になり、整うことに協力させられることになります。「いい加減」「適当に」というユルくて、曖昧で、人間臭い処理方法が許されなくなっていく。工場でも、列車の運行でも、宅配便でも分刻みのスケジューリングをこなすように求められる。

 特に日本人は、意味なく細かいことにこだわる末端神経肥大症みたいな精神(病的)傾向があるから尚更でしょう。熨斗袋に包む諭吉さんの顔の方向には細心の配慮を払う癖に、「この世に生まれて何をしたいのか?」と大きなことはまるっぽ考えない。

 一円違っただけで全員残業で帳尻合わせる銀行が、バブルがはじけた途端、帳簿と実際との大きなギャップが出来て途方もない税金を注ぎ込みましたよね。いま新生銀行になっている長期信用銀行なんかヒドイもので、嘘で塗り固めた報告書を出しまくって破綻。国が注ぎんだお金はなんと8兆円前後、最終的に損失として国民にツケが廻されたのは4−5兆円と言われています。元凶といわれたドンのような人物(杉浦敏介氏)は退職金9.7億円、刑事訴追も時効で逃げたという(結局2億だけ返したが)。その是非はともかく、ここでは、僕がよくレトリックで使う「1円単位では正確だが1兆円単位ではいい加減」な日本の末端神経(だけ)肥大症です。これ、病気だと思うよ、ほんと。

 今すぐでも改めるべきだと思うのは、宅急便の集配指定の時間です。あんなん適当でいいのだ。むちゃくちゃ不便だけど不便でいいのだ。というのは、事件をやったことがあるので分かるのだが、トラック運転手さんの労働環境、過酷すぎ。あれでよく生きているよな、事故らないのが不思議なくらいですが、やっぱり事故るんですよ。それも一番眠くなる早朝頃に、小学生の登校の列の中に居眠り運転をして突っこんでしまうとか。それもこれも過酷な価格競争、集配時間、トラッキングサービスです。

 それにひきかえ、オーストラリアの宅急便はすごいですよ。届けてなくても届けたと嘘言うのは結構あるし(僕も言われた)、集配センターに電話しても「運転手が配達したと言ってる以上どうすることも出来ない」で終わり。ガチャ切り。これはムチャクチャで、ここまで真似しなくてもいいけど、荷物が数時間や半日遅れたくらいでギャーギャー言うのはやめようぜって思いますよ。そんなに大事なら自分で運べよ。そこで便利、便利でやってるから、とばっちりでどっかの子供が殺される。まわり廻って子供殺してまで便利になりたいとは、俺は思わんぞ。事情を知らないでそう思うのは仕方ないけど、内情を知ってるだけに、多少の不便は甘受した方が結局トータルでは良くなると敢えて言いたい。

 同じように、私鉄と競争し、ありえないくらい過酷なダイヤを課し、それを守らせるために安全指導に名を借りた日勤教育という事実上の懲罰を課していたJR西日本。それが可哀想な運転手を追い詰め、その精神を蝕み、運転中に意識脱落を生じさせ(真相は究極的には分からないまでも、多分そうだと推定される)、2005年4月25日、JR福知山線脱線事故を起こし、死者107名、負傷者562名。殺された人は、本当にとばっちり以外のなにものでもない。さぞかし悔しかったことでしょう。無念というのも余りあり、安らかに眠ってくださいとすら言いにくい。安らかに眠れるわけないだろうと思うもん。

 しかし、こんな事例は日本社会の氷山の一角に過ぎず、似たような話は大小さまざま今日も明日も繰り返され、”犠牲者”の数は静かに増えて続けている。この犠牲を無駄にしないためにも、僕らは学ばねばならないのだと思う。「角を矯めて牛を殺す」(何かを良くしようとしてやりすぎて、結局全てを破壊してしまう愚かさのこと)ような末端神経肥大症は治療しなければならない。それは、ときとして殺人的でもあるのだから。

 便利になることによって、或いはアレコレ細かな「いい加減で人間臭い」部分を潰して「きちんと」なるように修正することによって、僕らは天国に向かっているのか、それとも地獄に向かっているのか?しかし、全体の方向は、人間の自然のユルさを許容する方向ではなく、あれしちゃダメ、これもダメというどっか高校の校則のような方向に進んでいく。車内で携帯使っちゃダメ、路上タバコはダメ、刺青もダメ、、、ダメダメ規制の「角を矯める」方向ばかりが目立つような気がする。これは日本だけの傾向ではなく、オーストラリアもそういう部分があります。

 しかし、多少なりとも法律を囓った人間として言わせてもらえば、この種のあれしちゃダメ系の法律(禁止規範)を増やすことによって世の中良くしようと思い始めた時点で、その社会は死にはじめるのだと思う。イキイキした、楽しい人間集団は、それが活力にあふれているほど、この種の規範を必要とはしない。仲の良い幸福な家族は、ドタバタと無秩序に物事が進行するけど、それが活力でもある。しかし「夕食は家族と一緒に食べる」「夕食中はTVも携帯も禁止」などという細かい規則を作ってシレっと晩飯食ってる家庭は、もうその時点で問題を孕んでいるのだし、そういう禁止条項を増やすことによって事態が好転する可能性は低い(ただし「躾=discipline」はこの限りにアラズ。あれは人間の本能獣性の矯正調教なのだから禁止で良い) 。ゆえに禁止禁止と連発し出した時点で〜禁止すれば何とかなると思うような精神のバランス失調が生じた時点で、その社会は死にはじめているのだと僕は思う。

それは便利ツールではなく管理ツール〜ますます強くなる他人と世間の目

 ICカードやスマホによって「面倒な手続きから解放」されるとかいいますが、面倒臭いことの恩典もあるのだ。例えば、今もやってるのかどうか分かりませんが、クラスの出席を取るときに「代返」というズルがありました。友達が自分に代わりに「はーい」と答えてくれるという。5人分の代返を頼まれて、その都度の声色をわけて答えていた豪の者もいました。こういった行為は確かに「不正行為」ではあるけど、僕らの人生に可愛い不正行為は潤滑油でもあります。イタズラとかズルをするから楽しいんじゃん。でも、スマホやカードを教室に入るときにピ!ってやれば出席を取る必要はありませんとか、ピ!すら必要なく、持っているだけで勝手に信号をキャッチして出欠確認出来るという。代返できなくなるよね。

 何もかもが網の目のように張り巡らされているので、乗車カードでいつどこから電車に乗ったかを、防犯カメラでいつどこに居たかを、道路上の設置されたNシステムによっていつどこで誰とドライブしていたかを、さらには携帯電話のGPS機能で、あるいはネットでどんな検索ワードで検索したか、どんなサイトをみたか、どんな商品をチェックしたかまで、事細かにどっかの誰かに把握されている。プライバシーもヘチマもなく個々人の行動の全てが丸裸にされていく。

 これらのことを可能にする技術的基盤はデジタル記号(情報)化でしょう。
 その形式に変換することによって、膨大な情報を瞬時に処理できるようになる。それは確かに便利なんだけど、それは利用者の便利さよりも、管理者の「管理」の方により強力に便利になる。そのうち、生まれた途端、首筋に発信器付のマイクロチップでも埋め込まれるような世の中になるかもしれませんね。ペットみたいに、SFみたいに。

 これらをひとことでいえば管理社会化がどんどん進行し、息苦しくなっていくということです。

 もともと「他人の目」「世間の目」を気にして生きている集団が、これ以上「管理視線」を増やしてどうする?という気がする。精神がおかしくなっちゃっても不思議ではないですよ。すごーい細かいところまで、箸の上げ下ろしまで○だの×だの採点されつづけ、いつもドアの隙間から誰かにじーっと見られているようなものですからね。

 さらにSNSとかやってるとその監視網を一層強化しかねない。黎明期からパソコン通信を激しく利用してたから分かるけど、あれって小さな日常からさらに広い世界へ通じる夢の「どこでもドア」ではありえます。その凄さや素晴らしさは分かる。でも一歩間違えると小うるさい世間が増えるだけってデメリットもある。あーゆーのって誰もやってないから意味があるのであって、誰もがやるようになったら逆につまらなくなる。極端な話、全員がやるようになったら、自分のプライベート情報を、全ての家族、上司、同僚が常時チェックするようになるわけで、そうなったら気が休まらないように思うのだ。

 人間というのは、ある程度の精神の安定を保つためには、それなりに「秘密の場所」というのが居るのだと思う。授業をさぼって行く「学校の屋上」みたいな場所。そこに今自分がいることを誰も知らない、絶対にトレースできない、外界を遮断した場所。秘密の基地であり、多くの子供が「基地」作りの経験があるのは、あれは一種の本能だと思う。アジトが欲しいのだ。サンクチュアリ(聖域)が欲しいのだ。

 そのサンクチュアリに、親や先生や意地悪なクラスメートやいじめっ子や上司や取引先が入ってきたら困るのだ。情報の断絶は精神の平衡のために必要なのだ。情報の断絶があるからこそ、中学時代いじめられていても高校デビューできたのに、今では昔の情報がSNS経由で出回って、どこまでもついて回るから、また高校でもいじめられることになる。

 僕は携帯電話が本格的に一般化する前に日本を離れてしまったけど、本当に良かったと思ってます。あんな仕事してて携帯で24時間追いかけてこられたら精神状態はかなり悪化したと思う。昔は公衆電話しかなかったから、1日出張で出て行ってしまえば、定時連絡以外「知らんもんね」でかなり心が安まった。地方の特急列車の車内で、大量に買い込んだマンガ雑誌のページをめくりながら、富山の鱒寿司なんぞを頬張る秘密の幸福。それが無くなるのはツライ。ましてや、個人でやってるSNSなどのネットを、上司やクライアントが読んでいると思ったら、発狂しそうになってたと思う。だって嘘がつけないじゃん。

 人間には秘密とか嘘とか絶対に必要だって。これはもう「絶対」と言っていいと思う。
 今、日本国民の精神健康を増進させようと思うならば、全ての国民に年間1週間なり2週間の「雲隠れ特権」を付与することを提案したいですね。あらかじめしかるべき役所(警察とか)に「雲隠れします」と届け出ておいて(でないと犯罪被害の場合の捜査が遅れる)、どっかで雲隠れできる。自宅でもいいし、旅行でもいい。その期間、周囲の人々(家族とか、会社とか)は、その人が居ないものとして扱わねばならない。それを理由に減給したり首にしたり、責任を追及したりするのは一切ダメ。

 それで社会は不便になりますよ、もちろん。常時「連絡が付かない人」がいるんだから、仕事も大変でしょう。でも不便でいいのだ。不便だからこそいいのだ。そこを便利にしちゃうと、五人組みたいな相互監視システムが発動しちゃったりするのだ。

 以上、ちょっと話は余談に流れました。
 しかし、こんなことは陳腐な議論で、既に皆さんもご存知でしょう。本当に問題なのは定量化社会が進むと「アホになる」(^_^)、「不安になる」という問題です。つまりは世界観が歪むんじゃないかと。


 以下、200行くらい続くので今回はここまで!もう途中でぶった切ります。以下次回、です。
 
 といいつつ、ちょっとだけ先行して書いておくと、定量社会が進むと、なんでもかんでも「数値目標」「基準数値」が支配してきて、物事の本質が失われるということですね。なんで20歳で成人になるの?とか、年齢を数えることに本質的な意味ってあんの?とか、なんで料理は「塩○グラム」とか計量的なメソッドでやるの?とか。全ての物事をレンガ化すれば、それはとっつきやすいし、いいマニュアルになるけど、レンガにすることによって非定量的な本質が失われる、見えにくくなる。挙句の果てに、レンガの切れ目が人生の切れ目みたいに、レンガが尽きたら死んでしまうかのように思う。でも、どう考えてもレンガでビシッと舗装するのは不可能だから、そこに大いなる不安が生じる、、とかなんとか。その種の話です。



文責:田村



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