みんなの好きな『シンクロニシティ』−−−というわけで、おもてだって語られることは少ないけど、聞いてみると意外と皆知っている、というのが心理学者ユングだと思います。「フロイトは常識として知っているが、本当にピンとくるのはユング」という方、結構いらっしゃるでは。
この人の読まれ方というのは、心理学の知識が深まるとかそういったレベルじゃなくて、もっと身近に「ああ、そういう具合に物事考えるとスッキリしそうな気がする」という部分だと思います。「そういうことって世の中にあるんじゃなかろか」と皆うっすら漠然と思ってること、「世界の不思議」「人生の不思議」を、何らかのネーミングをしてバシッと言うのですね。シンクロニシティ(意味のある偶然)なんてその最たるものでしょう(真面目にこれを読み出すと異常に難解だったりしますが)。そういえば内向性/外向性という概念もこの人が言い出したのではなかったっけ。言うたらポップなんですね。
ユングに関する『ユング心理学入門』(河合隼雄著:培風館)という本、ずっと昔にパラパラと拾い読みをしていたのですが、「ああ、それって言えるかも」とちょっと感銘を受けた部分がそこかしこにありました。
その中でも、未だに「これは結構重要な指針になるよなあ」と思えるのが
クロノスと
カイロスという概念です。
クロノスとは、知ってる方も多いでしょうが、ギリシャ神話(だっけな)の『時の神』ですね。カイロスも『時』なのですが、クロノスとカイロスとでは意味が違う。
カイロスってのは、上手く言いにくいんだけど、『恋に落ちる“時”』、『仕事を決意する“時”』、遊んでばかりいた奴がある日もっと真面目にやらなきゃと思う『時』、こういう『時計で計れない時』のことです。何かとても大切なターニングポイントを意味する『時』です。漢字で「時」と書くより、平仮名で「とき」と書いた方がしっくりきますね。
これに対して、時計で計れる時は、クロノス。
前掲書の239頁に、
『自己実現の問題と、このカイロスの問題は密接に関連している。
今まで外向的に生きてきたひとが、内向的な生き方にも意義を見出さねばならぬとき、あるいは女性との交際に無関心に勉強ばかりしてきた学生が、心を魅せられる女性にふと出会ったとき、これらのカイロスを大切にしないと、この人は自己実現の道を誤ることにもなる。
しかし、カイロスをあまりに大切にしすぎて、クロノスを忘れてしまうと、生きてゆくために必要なペルソナを破壊する危険もある。、勤務時間や、面接時間、劇場の開演時間、恋人との約束時間、これらすべてのクロノスを守ることは、一般の社会人として必要なこととなっている。
そして、なかにはクロノスばかりを大切にして、そのなかに流れるカイロスには無関心になってしまう人もある。実のことろ、恋人に会うとか、素晴らしい芸術の鑑賞などは、正に、『その時』にすべきであるのに、これらをさえクロノスに従わせねばならぬのが現代の悲劇かもしれぬ。』
と記されています。大体、意味分かりますよね。
相撲の立会いなどは、本来、『戦うべきとき』というカイロス的時間なので、何分何秒でやれとかいうデジタルなものではないんだけど、現代的制約で、『制限時間』という折衷的なものが出てきたとか。
改めて思うのですが、この『カイロス』と『クロノス』という概念、すごく良くわかるし、巧いこと言うなあと思います。確かに、何年何月何日何時何分とかいうクロノス的時間とは全然別個に、『そうなるとき』ってあるでしょう。
例えば、あなたが付き合ってる人と一番最初にKISSしたのは何時何分ですか?ずっと見つめあって話をしてる。動悸が早くなってくる。そういった時の流れのある地点で、何故か会話がふと途切れ、唇が合わさるわけで、この時点、この『とき』、これがカイロスなんだと思います。決して、『午後4時半に○○ホテルロビーで待ち合わせ』等というクロノス的感覚ではないでしょう。
あるいは、それまで似たようなことをやりつつ今一つ盛り上がらなかったのに、何故かそのときに限って異様に盛り上がってしまい、嘘のように出来てしまうとき。生まれて初めて自転車に乗れた瞬間。前から知ってる曲なのに、なぜかそのときには心に染みいるように入ってきて大好きな一曲になってしまうこと。それまで異性として意識してなかった人なのに、ある瞬間を境に強烈に意識するようになるとき。長いこと生きていれば、そんなマジカルな「とき」の一つや二つ、あなたにも経験あると思います。
振り返ってみても、なんでその時にそう思ったのかよくわからない。「なんとなく」とか「なりゆきで」とか、説明にもならないような説明をくっつけてみるけど、要するによく分からん。良くわからないのだけど、その結果は重要で、その後の人生に少なからぬ影響を与えるとき。
古来日本語で、「物事には『潮時』というものがある」とか「時の氏神」とか言ったりしますが、似たようなものなのでしょう。「時の神様」がやってきて、『ほれ、今やんなさい』と仕向けてくれてるような感じ。
だから、カレンダーとか時計で刻まれる時とは別個に、もうひとつ『時』というのは流れているんだよ、その時の流れをきちんと意識するといいよ、というのが、この概念の味噌なのでしょう。
話、バコーンと横道に逸れますが、能條純一という漫画家の描く世界、例えば「翔丸」なんかでは、やたらめったらクロノス的時間が登場します。
「○○は過ぎし日の記憶を追った。脳裏にたちこめる深い霧のなかに一人の女の姿をみつけたとき、おもわず○○は受話器を取り、電話をかけていた。10月27日午後1時37分であった。」とかね。別にそんな詳しい日時なんかどうでもいいと思うのに、異常に几帳面に記す。これって、カイロス的時間を、無理やりクロノス的時間にコンバートして、その無理が一種の不自然さとともに、シュールな雰囲気を出しているのでしょう。確かにあの人の描く世界は、「すごくリアルなんだけど全然リアルじゃない。ムチャなんだけど妙ににリアル」という不思議な空間ですね。ところで「月下の棋士」はまだ連載しているのだろうか。
さてカイロスですが、人は皆、そういうカイロス的時間を持っているのでしょうし、これからもやって来るのでしょう。
まあ、これもよく考えると全然ミステリアスな話ではないのでしょう。
例に出てきた『相撲の立ち会い』においても、自分の闘志というか、アドレナリンの分泌によって身体にエンジンがかかり、精神的にもスッと集中できる、心身両面の最高点があり、かたや相手においても闘気が最高点に達し、その両者がミックスした「最適時点」というのは客観的にあるのだと思います。これも、脳波やら筋肉やら、身体中に電極付けてモニターして記録しておけば、ある程度デジタル的に「この時点」というのが分かるのかもしれませんね。
『彼女/彼氏とファーストキスをしたとき』なんてのも、似たような文脈で解明されるのかもしれません。ついでに「いきおいで、手をだしてしまった」なんてときの「いきおい」って何だ?というも、似たようなものなのでしょう。
言わば、バイオリズムのような自分の心身の調子の問題と、客観的な環境条件が整ったという問題、この主観客観の最高一致点ということなのでしょう。自分がいっくら盛り上がってても相手がその気になれなかったりしたら、ファーストキスには辿り着かないということです。
ただ、問題は、仮に心電図その他で心身の状態が完璧にトレースできたとしても、そんなに四六時中身体に電極埋めて生活してられるわけではないことです。ましてや、相手の気分の盛り上がり、たまたま訪れた千載一遇の好機なんてものを機械的に判断することはほぼ不可能ですから、結局『感じる』以外に判断のしようがないことですね。
僕も、相棒福島も、柏木も、それぞれが思うところがあって日本を離れてオーストラリアにやってきました。
先日、ふと思い出してこのカイロスの話をしてましたが、皆一様に「ああ、それはあるね」とピンときてました。皆似たような時期に渡豪してるのですが、来るにあたっての動機や環境は勿論千差万別(三差三別か)です。でも、「なんでその前年に来なかったのか?」というと、やっぱり1年でもズレていたら、絶対来れなかったのではと思うのです。「絶対」というのは言い過ぎにしても、かなり違ってたんじゃないかなあと思う。
これはもう皮膚感覚に近いのですが、山のような不安を抱えつつも、何の成算もないにも関わらず、「ああ、今、行くべきなんだろうな」と不思議と思えるときというのがあるという。
あれも不思議でして、その準備活動は大変で、あれこれ奔走したりするのですけど、その大元となる「オーストラリアに行く」という部分は、なんかすごく軽く決めちゃったような気がします。いや「軽く」というと語弊があるかな。心の奥底の留め金がカチリとハマり、そのハマり具合が、何の抵抗もなくすんなりハマるものだから、「軽く」という表現になってしまうのです。あたかもジグソーパズルで正解のピースがスポッと所定の位置におさまるように。
だから「深刻に考え詰めて検討の挙句決断しました」というものではないです。確かにそれ以前に色々考えてはいるのですが、それは「自分はどうやってったら面白いのかなあ」というレベルの話で、いわば前段階では色々考えるのですが、こと「そうだ、オーストラリアに行こう」という部分については、天から降ってきたようなものです。
天から降ってきて、留め金がカシリとかかるようにハマるものですから、後で揺れ動くこともないです。一夜明けたらその気が失せたなんてことも全然ないし、いろいろ段取に困窮してても「だからやめよう」とは思わなかった。数年後の現在に至るも、その決断を後悔したことは1秒もないです。時間がたてばたつほど「あれでよかったんだ」と思います。
オーストラリアに来たあとというのは、嘘のようにのんびりしてるわけで、僕はまた本来の出不精に戻り、もう2年半も日本に帰ってないし、NSW州の外にも滅多に行かない。こんなに動かない人が、なんであのとき?と思うのですが、だからそれは「カイロスがきてた」のでしょう。そう考えるのが一番しっくりします。
いろいろ「どうしてオーストラリアなんですか」と聞かれましたので、それなりに理由付けも挙げられますし、それはそれで間違いないのですが、僕が挙げる理由が100個あったとして、その100個が完璧に整ったとしても、それだけでは多分僕は来なかったと思う。そんな「口で説明できるような動機/理由」だけでは、案外人間って動かないのではなかろうか。人が動くには、プラスアルファが必要で、極端な話そのアルファさえあればそれで動くのではなかろうか。そんな気がします。
「オーストラリアに行く」なんて大事でなくても、カイロスの有無が問われる場面というのは、日常生活でいろいろあると思います。
あなたにはありませんか?時期的には充分なんだし、理屈からいっても今やるべきだとは思うのだけど、何となくピンとこない。潮が満ちてない。『まだ、その時期じゃない』って思うとき。反面、メチャクチャ早いようなんだけど、直観的に『今だ』というとき。
思うのですが、結婚(ついでにいえば離婚)なんか、この感覚に近いのではないでしょうか。「うーん、人柄といい、条件といい申し分ないんだけど、なんか心の奥底にハマらないなあ」ということや、逆にどう考えても早すぎるしみすみす苦労するだけなのだろうけど、「これはもう結婚するしかない」と思えてしまうような場合とか。
話、またまた逸れますが、その昔女性の適齢期が24歳なんて言ってた時代(もう「時代」と形容すべきくらい昔のことですよね)、クリスマスケーキ説なんてのがマコトしやかに語られてた時代があります。あれも、本来カイロスで語るべきモノゴトを、強引に「24歳」というクロノス的座標で捉えてしまってる無理があったように思います。だから、結局自然消滅のように、現在ではそんなこと言う人も殆どいなくなってしまった。
うーん、というよりも、あの時代は=高度経済成長やら平均寿命が今より10歳以上短かかった、女性の就労条件などなどの環境下においては、24歳くらいが客観的カイロス条件としては良かったのかもしれません。まあ、こんなことは一概には言えないのですが。
ところで、カイロス、カイロスと言っていても、社会生活を送る以上、クロノスが大切なことは言うまでもありません。商談するのも『気が向いたとき』でやってたら埒開かないですし。しかし、そうかと言って、『分刻みの仕事』『スケジュール管理』とか、『あ〜忙しい』のビジネスマンやってると、【生命と運命の時間】であるカイロスが通り過ぎていくのを見過ごしてしまう危険もあるのでしょう。
『忙しさにかまけ』という面白い日本語の表現があります。一つのことに熱中しすぎて他のことを顧みる余裕のない状態を言うのですが、目先の忙しさにとらわれ、本来やるべきことを先送りにしてしまうことなのでしょう。
でも面白い言い方ですよね。正しく忙しいのであれば、「なすべきこと」のプライオリティに基づいてやるだけの話で、他に重要な事柄があるから、優先度で劣後する物事が出来ないのは当たり前の話であり、何ら問題ではない筈です。それなのに「忙しさにかまけ」と、ネガティブに表現するというのは、なぜなのか。一つには目先の忙しさにとらわれてると優先順位の判断を間違えがちということなのでしょうか。例えば、極端な例ですけど、家が火事になって、預金通帳の代りにボロ鍋ひっつかんで出てきてしまうように、忙しさにパニックになって、正常な判断が出来なくなるということ。
それとも、優先順位それ自体はいいとしても、それだけでは計れない「大事なこと」というのが人生にはあるのだということなのでしょうか。今日は重要な取引先と商談があるのでどうしても出勤する必要がある。これがダメになると数千万単位でのロスになると。そうであっても、その日はどうしても子供との約束を守って遊園地に行くべきではないのかということ。まあ、普通は出勤するでしょうけど。そうやってその瞬間瞬間を捉えてみれば、優先順位の判断はそう間違っていないかのようですが、大きなスパンでみると、結果として子供はグレまくり、挙句の果てに他人を殺め、家庭は崩壊。一方会社は倒産。「こんなことなら、あのとき商談すっぽかしても遊園地に行けばよかった」と10年後に思うかもしれない。そーゆーことです。
「忙しさにかまけ」という言葉が、後者のニュアンスも含んでいるのだったら、それはクロノス的時間にとらわれ、カイロスが来ていることを忘れるなかれということなのかもしれません。
スケジュールも、キチンとした段取りも全て必要なことではあるけれど、それに全神経をそそぎ込んでると、『もう一人の時の神』が見えなくなっちゃうよ、逆に何かを企画するときは、クロノスに相談するだけじゃなく、カイロスにも相談しておいた方がいいよ、そんなことをこの概念は教えてくれているのでしょう。
さきほど言いましたが、結局カイロスというのは「感じる」以外に測定のしようがないという厄介ものです。何かやろうとするとき、不確定な未来に挑んでいくとき、はたまた今を生きていくこと、そのためには、クロノス的時間ではない、『カイロス』をしっかり感じていくセンサーというのが必要なんだろうなと僕は思います。それを計る時計はどこにも売ってないですし。
カイロスを計る時計はないけど、その代用物ならあります。占いです。政財界の要人達が何故か占いを尊重したりするという話は聞きますが、自分一人では背負い切れないような重大な判断をしなければならない立場におかれると、人知を越えた何かがデーターとして欲しくなるのかもしれません。あるいは「そういうことって実際にある」と体験的に思えるのかもしれません。
さてさて私でありますが、初めてオーストラリアに住み着いたのが94年ですか。あれから3〜4年経過しつつありますが、この間カイロスは全然来なかったように思います。でも、今年からは何となく来そうな気がします。
たまたま去年まで天中殺だったということもあります。別にそこらへんの占ものは盲信してませんが、ただ「数年スパンで波がある」「いいときは、追い風効果で次のステージに登れ、風景もガラっと変わるが、そうでないときは地道にうさぎ跳びのような日々が続く」ということは、経験則上あると思ってます。司法試験の勉強中→合格なんてのが典型的な例です。これもまあ、そんなマジカルなものではなく、数年スパンの蓄積が必要とされる物事をやっていれば、自ずと蓄積期と収穫期があるだけのことなのでしょう。
ただ、その渦中にいる場合、正確に現在位置を示すナビゲーションシステムは無いのですから、直感一発で考えることになるわけです。で、なんとなく徐々に周囲の空気が変わっていくような皮膚感覚というようなものは、あります。それまで全然モテなかったのに、ある時期に限ってやたらモテるとかね。そういうことってあります。「あります」とエラそうに言ってますが、何度もそれを「見逃し三振」みたいなドジをこいてるうちに、「ああ、もっとガンガンいけばよかった」みたいなことを感じてきたからそう思うだけのことです。
イケるときには多少無理めでも思い切って行っちゃう。ダメなときは何やってもボチボチだから、ダメでもともとと割り切って、そういうときはグランドに戻ってうさぎ跳びやってりゃいいんだと。そういう具合に思ってると楽ですね。鳴かず飛ばずであっても、あんまり気にしちゃダメ。「土中の蝉」時代と呼んだりしますけど。
そういう数年スパンの波の判断は、累積する失敗の結果、なんとなく分かるようになったと思うのです。が、数時間、数日サイクルの波については、もう全然わからない。この嗅覚が異様に鋭い人がいますよね。ギャンブラーですね。麻雀やってても、強気/手堅さのメリハリが非常に巧い人、いますね。羨ましい。僕なんかいつも強気でいって玉砕しまくってた。その波がどうにもわからない。人それぞれなのでしょう。
本来は92年の6月に書いた駄文なのでStuido ZEROの方にUpすべきですが、かなり書き足したので新作として雑記帳の方にUPします。
1998年01月10日:田村