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今週の1枚(2012/07/30)



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Essay 578 :「蜘蛛の糸(エスカレーター)」の生成と消滅

 写真は、シドニーの本当のチャイナ(上海)タウン、 Ashfield 。
 シティのチャイナタウンは論外にしても、シドニーのチャイナタウンは、北はChatswood、南はHurstville、北西はEastwoodなどありますが、密集度と質ではAshfieldがベストという気がします。Chatswoodはですね、僕の家から近いからアクセスは便利なんだけど、同じチャイニーズでも何となくチャライんですよね。経済発展した後のバブルチャイニーズっぽくて、美味しい店も少ない(葡萄園くらいか)。Ashfieldは、経済発展する前の昔ながらの大陸に根を生やしたようなネィティブ・チャイニーズで、雰囲気もめっちゃ庶民的。街の佇まいも十数年来このまんまだし、まったくオシャレになろうって気がないし、最近改築したピカピカの市役所が浮いているという。

 写真右側の、黒字にオレンジ色の字の看板のお店が、僕の十数年来の贔屓店です。ココと左端の赤い店の間の3軒はよく入れ替わります。競争激しいんだろうな。でも両端の店は不動。ガッチリ固定客を掴んでいるのでしょう。両店とも味はいい勝負なんだけど右の店(黒オレンジ)は、中華のお総菜を売ってるのがポイント高いです。肉まん以外、日本人には見慣れぬものばかりですが十数品目あります。最近の好みは、カルシウム不足を補う魚の丸ごとフライ。小振りのキスかなんかの小魚、といっても10センチくらいありますが、頭を落としたまま丸ごと塩味でカラリと揚げてます。綺麗に揚げているから中骨もろともバリバリ食べられる。先日、「酸っぱくて辛いキャベツ」に挑戦したのですが、最初は甘酢味で甘いのですが、5秒後に激辛ショックが襲う、でも15秒後には辛さがスッと去る。で、また食べたくなるという。あ、肉マンならぬ野菜マンも美味です。

 しっかし、日本人もあと10万人くらいシドニーに移住して欲しいですね〜。そうすれば日本人街も出来るし、日本の本格お総菜を作る店が経済的に成り立つのに。手間暇かけて、ビシッと作った本格的な日本のお総菜、食べたいですね。田舎のおばあちゃんちに行ったら食べられるというやつ。皆、来てくれい。



 前回から(もっと前から)、続くともなく続いています。
 前回の末尾に、いわゆるお勉強的方法論の「諸症状」として以下のようにリストアップしました。
 長々繰り返して読むのは邪魔くさいだろうから、タックしておきました。
→読み直したい人はクリックして出してください。

 上記は単なる思いつきの羅列に過ぎず、もっと整理できるのでしょうが、要は「発想が受け身になる」「パターン化する」ということです。個別事項を書いていくよりも、まずはその点について触れておきたいです。なぜそうなるのか?

受け身の発想になる理由

 発想が受け身になるのは、受け身にならざるを得ないほど世の中の仕組みが定められ、自分の前にレールがしっかり敷かれていたからでしょう。勉強→進学→就職=会社員というレールなりエスカレーターなりが用意されるようになったのは、何回も書いてますがそんなに古い話ではないです。言ってしまえば「ここ最近の流行」くらいでしかないのだけど、この「最近」も数十年続けば天地開闢以来そうであり、未来永劫そうであるように人は錯覚します。たかだか100年弱(寿命)のタイムスパンしか持っていない人類の、それは宿命的なタイム感覚なのかもしれない。

 とまれ、そういうレールが敷かれているかのように思いこんできたし、思いこまされきた。
 そこでは受け身になりがちという以上に、むしろ受け身になることが積極的に求められ、また受け身であっても差し支えないくらいの感じで世の中が動いてきた。これはその人が無能であるとか、努力不足であるとかいうのとはちょっと違うでしょう。世界観というのは環境認識であり、環境の法則性の認識であるところ、そーゆー社会であればそーゆー認識になって当然です。もし、あなたがはるか昔の北国に生まれ育てば、いかにして寒い冬を乗りきるかが大きな生活・人生課題になっただろうし、赤道直下の沙漠の国に生まれ育てば、「季節?なにそれ?」「そんなことより水じゃあ」って世界観になったでしょう。そゆことです。

 ちなみに、ここから自由になるためには、「自分は(普通の)人とは違う」という、時としてトラウマを伴う痛い認識やコンプレックスという「対価」が必要だったりもします。以前「うつ」のところで書いたように、「全世界を敵に廻す」くらいの疎外感とゲリラ戦の人生感覚ですね。このくらい思うと、エスカレーター幻想は消える。てか、エスカレーターはあるんだろうけど自分は乗れない、乗せて貰えないと思うから、必死に自分で道を探すようになる。精神的にはあまり健やかなことではないのだろうけど、ご褒美として発想の自由(になる契機)が与えられる。逆にそこまで痛くなかった幸福な人は、エスカレーターが消えてしまうと途方に暮れかねない。すご〜い長い目で見たら、どっちも損得トントンなんだろうな、世の中良くできてるよなって思うユエンです。

パッケージ志向、受け身志向

 さて、こういう受け身的な発想においては、この社会における自分の将来の進路や人生類型というのは、既に「誰かが用意してくれている」という発想につながりやすい。将来についてもA定食やB定食のように、予め存在する幾つかのパターンの中から「選択」するのであって、ゼロから「創造」するという感覚にはなりにくい。就活に臨んで、「俺が”新しい日本人の生き方”を創造する!」なんて真剣に思っている学生さんは少ないでしょう。いないことはないと思うけど。

 この発想は、この世の全てのアクティビティは常に誰かが用意してくれているという世界観にもつながっていきます。確かにゼロから自分で作っていくよりは、定食なりキットなりを選ぶ方が楽ですからね。これは世代や性別を超えて老若男女全体に広がっているとように思います。もともとそういう民族なのか、それとも戦後にそうなったのかよう分からないのですが、例えば、お中元やお歳暮の「詰め合わせセット」です。

 以前、日本人観光客がオーストラリアのドル箱だった時代、とあるビジネス雑誌に、日本人にいかにモノを売るかというマーケティング特集がありました。そこでは「日本人は"assorted "(詰め合わせ)を好むという顕著な特徴があるので、詰め合わせセットの商品開発をすると良い」と書かれていました。こっちでもクリスマスなどギフト文化が盛んだからセット商品もあるんだけど、日本ほど盛んではないですね。やっぱ一品モノがメインでしょう。組み合わせるにしても自分で決めたがるような気がする。なぜってプレゼントというのは「選ぶセンスと想い」がコアにあるのであって、セット物で済ませるというのは、「あんまり気合入ってません」と言ってるようなもので、そんなに好まれないんじゃないかなって気もします。あと、CDやDVDなどのボックスセットなんかも日本では盛んですね。スーパーに入れば「鍋セット」があるし、出来合のお弁当なんかもそうです。定食やセットメニューも日本はとても強い。

 典型的なのは海外旅行のパックツアーでしょう。確かに海外旅行なんか「ゼロから創造」でやってたら、行き先の選定、治安のリサーチ、宿の予約、お金の移動、航空券の手配、トラブル処理、、全部自分でやらなきゃいけない。それが旅の醍醐味だし、そのくらい出来ないで何が国際化だって気もするのだけど、まあ鬱陶しいですよね。だからおまかせパッケージ。なんでも寿司屋のカウンターのように「おまかせ」。国内旅行ですらそういう流れがある。

 一言でいえば「出来合いのものを探す」ということで、これが受け身志向、パッケージ志向です。

 お勉強的方法論というのは、人生の成功方法をも「出来合のもの」を探すということですね。それがコンビニのノリ弁当であるか、3800円の仕出しの松花堂弁当であるかはともかく「出来合い」という意味では同じ。そして、それはお勉強だけに留まらず、生活全般に及んでいるように思います。

安全&楽ちん志向〜「楽しさ」価値の下落

 受け身のパッケージ志向になると、次に出てくるメンタルは、その方が安全確実だからという安全志向・リスク回避志向ですし、その方がとにかく楽チンだからという「楽ちん志向」です。

 今の日本人、というか日本市場における消費者の指向性は、安全+楽ちん(便利)方面に、洗脳だか自発的だか分からないけど、偏ってるような気がします。本当はゼロから資料をひっかきあつめ、首っ引きになって立案し、あれこれ試行錯誤して、汗まみれになって何かを成し遂げる方が絶対面白い筈なんだけど、そういう手間暇かかることは敬遠したいというメンタルになってて、「手間暇かける喜び」みたいなものを忘れていってるような気がする。これは世代に関係なくそうで、一億そろって「安心の〜」「らくらく〜」方面に進軍している。

 逆に言えば「面白さ」という価値が社会的に下落しているのかもしれませんね。
 多少面白くなくても、ちょっとばかり質が劣っても、お手軽な方がいいという形にシフトしているというか、なんかそんな風に見えるんだけど、違いますかね?インスタント食品が出回り始めた頃、よくそんな議論がでてたけど、これだけ広まってしまったら、もう何を今更って感じでしょうか。で、今更ながら普通のものを「スローフード」とか言ってみたり。そんな名前がついた時点でもう「普通」じゃないんだろうなあ。で、「本物が失われていく」という定番の話になるのだけど、その「本物」のなかには「美味しさ」の他にも「面白さ」とか、ひいては「生きていく楽しさ」なんかも含まれているんじゃなかろかって気がします。

 雑誌やネットの広告、DMなんか見てても、このテの傾向のコピーが多いです。「〜するだけ」とか「安心保障」とか、「楽して〜」とか、「〜感覚でOK」とか。あとやたら「無料」「タダで」とか廉価性を訴えるものが目立つ。あのあたりの「情報」って今の日本はどうなってるの?を計るうえで結構な探査針になりますよね。

 余談ですが、こういう見方=広告コピーの傾向から何事かを推察する等=は、日本にいるとき以上に、外国に来てから思うようになりました。多分必要に迫られたんでしょうね。見知らぬ異国環境下でまず気になるのは「こいつら何考えてるの?」ということで、それは広告の切り口や訴求ポイント、商品や商店の種類、質、数、値付けとか思わぬ所にその社会の価値観が現われたりします。例えば中古車でも機能に関係ない格落ち部分では全然値が落ちない実質主義であるとか、日曜や祭日の賃金が二倍化するくらいホリデー至上主義とか、どこの街にもペンキ(塗料)屋が必ずあるDIYの盛んさやそれを裏付ける不動産市場(土地ではなく建物に値が付き、その値付けは築○年という形式ではなく、メンテや改築の程度という実質に比例する)とか、ヒントは幾らでも転がってます。この世の全てには必ず何かの意味があるから、視界に映るもの全てがヒントになる。

ハード&デンジャラスな社会での方法論


 ところで、こういった受け身型発想、安全&機能性志向というのは、ハードでデンジャラスな世の中においては優秀な方法論になりえます。

 前近代的な身分制度ガチガチ社会だったら、生き方の選択なんかろくに与えられない。外敵が多く、野獣や野盗がうようよしている世界では、迂闊に"自由に"歩き回ったら襲われてしまう。インフラが乏しく、谷底に水を汲みに行くような環境では、便利であるかどうかは生死にかかわる重大事になる。受け身(環境への強制順応)+安全+便利というのは、生存のための不可欠な条件になる。

 しかし、まがりなりにもある程度の自由と安全が保障され、最低限のインフラが整っている段階になると、これらの方法論だけでは足りなくなります。今の世の中で外食をしようとすれば、「毒殺される恐れがない」とか「食べてる最中に熊に襲われない」とかそんなことは基準にならない。美味しいとか、雰囲気がいいとか、リーズナブルとか、勝負デートには向いているとか、もっと立ち入ったレベルで探すでしょう。レストランとか趣味だったらもっとパーソナルに展開された基準で考えるのに、人生とか就職とかになると、まだ昔のハードでデンジャラスな感覚基準が残っている。

 でもね、逆説的な物言いですが、不自由である方が楽であるとも言えるのです。
 選択の余地すらなかったら選択に頭を悩ます必要もないし、とにかく生存することが唯一無二に課題になれば、やるべきことも自ずと決まってくる。そんなに頭を振り絞ってウンウン唸る必要もない。細かな実践的なダンドリレベルで大体事が足りてしまう。しんどいんだけど、やることがハッキリしてるから客観的にもそんなに誤ることがないし、その意味では精神的には楽です。

 ところが自由に豊かになればなるほど、制約が弛んでくるから、「ねばならない」「〜しかない」という限定性が薄らいで、何をやっても良くなる。それだけに決めきれなくなる。夏休みの宿題で自由課題が一番苦手だという人にはやりにくい世の中になっていきます。何をどうすればいいのか見当もつかず、それを考えているだけで無駄な時間が過ぎていく。分厚いドリルをやるのはしんどいし、時間もかかるけど、時間さえかければ出来るからその点では楽なのですね。

 人生設計やライフプランも同じことで、窮屈極まる世の中で、選択もヘチマもなく上から押しつけられるくらいだと、生き方について悩むなんて余地もない。それをこなすのに精一杯です。戦時下の日本だったらモンペ穿いて日の丸打ち振って万歳やってりゃ良かったし、北朝鮮いけば偉大なる首領様を賛美していればいい。楽です。それにガチガチの世の中だから、不自由な反面、安定性もあるのです。いずれ大きく崩壊するかも知れないけど、日々の現実としては何がどうなるものでもないから計画も立てやすい。軍事色の強い国家では、士官学校を優秀な成績で出てエリート士官になり、いずれ目立った勲功を立てて一気に上に這い上がっていけばいい。ナポレオンしかり、ロシアのプーチンしかり。

 つまり、世の中に制約が多く、社会の中で生存していく方法が客観的・物理的に制限されていた方が、創造や選択の幅は狭いので成功への道筋はパターン化しやすいし見えやすい。そこでは自分の生き方も発想もパターン化・受け身化していた方が都合が良いともいえる。もちろんそこでも個性や創造性は大事でしょうが、それが無くても生きていけるし、あまりにも創造性が強すぎると社会的不適者として弾き出されてしまう。

 日本を近現代史を振り返れば、百姓の子は百姓でしかなかった江戸時代から明治の世になり、どんな貧しい寒村の三男坊であろうが、勉強さえ出来れば立身出世でき、末は博士か大臣かという「坂の上の雲」時代になった。当時としては革命的な出来事でしょう。それまでいっくら勉強が出来ても、四書五経に通じても、洋学を極め自分で辞書すら作っていても「就職」という意味では非常に限られていた。幕府や各藩の教授方に召し抱えられるのは新井白石などごく一握りの者でしかなく、自分で学校を「起業」して成功するのは緒方洪庵の適塾とか稀有な例でしょう(それとて幕末だし)。あとは塾の講師のバイトのような寺小屋の師匠くらいです。現代の高級官僚や大企業のエリート正社員はぜーんぶ門閥家柄で旗本や家老が独占していた。ところが御一新でそれまでのエリート層が自動的に全員リストラされ、しかも近代化で数倍規模の人手が要るようになったので、勉強すれば途方もないリターンがあったし、それが世のため人のためにもなった。なんて幸福な。地獄に垂れる蜘蛛の糸のようなもので、蜘蛛の糸は一本(しかしぶっ太い)しかないから迷うこともない。

 戦後の成長期も、これに似たような状態になり、明治期の学者様・官吏様のようなご利益は薄いけど、それでもホワイトカラーの正社員様としてある程度の保証がなされるように思われた。

 これまで述べてきた「お勉強的方法論」もこの文脈の中にあり、それが特効薬的な効能として語られる背景には、日本社会の不自由性や拘束性、貧困性が背景にあってこそでしょう。そこが地獄であればあるほど、蜘蛛の糸はクッキリ見えるの法則です。しかし世の中が豊かに自由になれば、天国になってしまえば、蜘蛛の糸はただの「蜘蛛の巣」みたいになって価値が下がるし、見えにくくなる。

エスカレーターの製造過程

 これを個々人ではなく、国家の立場から見ると、時代がハードなときほど国家のあり方も見えやすい。

 戦国時代や帝国主義の時代においては、とにかく物理的・軍事的に「強い」というのが至上命題になる。富国強兵です。それしか生き残る道はないから大変なんだけど、やることは見えてきた。だから国家が国民に求めるモノ、社会が個人に求めるものもハッキリしていた。絢爛たる身分や容姿ではなく、ゴリゴリの実力、優秀な俊英を求めた。そして全国から見所のある若者を探し回り、集め、徹底的に教育を施し、将来には幹部として登用するというルートが作られる。

 これこそが蜘蛛の糸(エスカレーター、レール)の製造過程であり、蜘蛛の糸を這い上ってくるエリートがまさしくエリートであった時代です。だから客観的にも明瞭にパターンがあった。というか意図して作った。戦後成長時代も同じようなことで、あの頃「期待される人間像」(1966年(昭和41)中央教育審議会の答申が元ネタ)なんてコトバが流行ったのは、一定以上の年齢層だったら覚えておられるでしょう。「期待されて」たんですよね。なんて分かりやすい世の中だったんだ。

 何を長々と書いているかというと、そこにエスカレーターがあるとしたら、なんでそんなエスカレーターがあるのか?誰がどういう目的で作ったのか?の背景論や原理論です。そこから推論すれば、エスカレーターを必要とする現実の状況が変われば、エスカレーターもまた変わるし、場合によっては薄らいでいくし、現にそうなっているということです。

 これからその「薄らぎ」を書きますが、ここで押えておきたいのは、日本人の人生憲法のような受け身的パターン認識、そして安全・安心・効率主義(=これはかなり昔から堺屋太一氏が戦後日本の三大宗教みたいに述べておられた点でもあるが)が出てくる時代的な必然性です。そーゆー時代だったからそーゆーふーに思った、それはそれで間違ってなかったと。それが一つ。

 もう一つは、その前提が変われば結論も変わる筈なんだけど、いまだに昔の戦後日本的なるものを引きずっているという方法論の後進性こそが問題であるということです。世界的にみれば、今の日本ほど豊かで、平和で、便利な社会ってそうそうないんだけど、もうこれ以上安全・安心・効率を求めなくてもいいじゃんって。

 まあ、それが必要なのは分かるけど、それって僕らの「得意科目」でしょ。なんか勉強がヘタで受験で失敗する典型例のように見える。得意科目ばっかり勉強しても既に90点取れているから最大で10点しか加算されない。むしろ同じ時間と労力を苦手科目に充てた方が総合点は遙かにUPする。でもやり慣れた得意科目ばっかり勉強するから結果につながらない。安全や安心が興味の的だから、次から次へと不安と恐怖のネタを開発しているような気さえする。敵キャラエスカレートの法則で、これもキリがない。

 便利さについても同じで、オーストラリアのクソ不便さに慣れると、不便であることの妙な自由さを感じたりします。だいたい都心の大通りの大交差点の信号が平気で壊れてたりするんだもんね。でも、お巡りさんがのんびりやって来るまでの間、皆、信号ナシでもテキトーに譲り合い、呼吸を読みあって交互に通行するんですよ。これが中々スリリングで、でも人間の原始的な秩序感覚があったりして、面白いんですよ。また不便であるがゆえに、ハンティング的なゲーム性が出てきたりとか、いい加減過ぎて笑っちゃうとか、達成感があって楽しいとか、「楽しいってこういうことだったよな」と原点回帰の思いを抱くのです。なんてのかな、いい加減であることによって巧まずして生じる人間的なユーモアや楽しさみたいな感じ。でも、日本の場合、この種の楽しさからどんどん遠ざかっていってるような気がする。「面白さ」「楽しさ」に対する要求水準や審美眼みたいなものが低下しているというか、価値を見いださなくなってきているというか。

 でも、ほんと、「楽しい」というのは、ちょっとくらい不安で恐いくらいの方でないと生じない(お化け屋敷やジェットコースター、冒険とか)、ちょっとくらい不便で不自由でないと(釣りやキャンプ)面白くならない。人間、適当に恐い思いや不便な思いをしないと楽しくならず、一定期間「楽しい」「面白い」という感情が生じないと精神がぶっ壊れるように出来ているんじゃないかな。うつになったりとかさ。その方がよっぽど「危ない」と思うけど。ま、これはテーマがズレるのでこのくらいにしておきます。

エスカレーターが消える理由

 で、前提が変わるのでエスカレーターが薄らぐ話でしたよね。

 これは簡単で、自由が増えているからです。
 拘束が薄らぎ、自由度が高まれば高まるほど、これさえやっておけば大丈夫という限定性が薄らぎ、その「これさえ」方法論の成功率が下がるからです。

 なぜか?だって自由なんだもん。
 世の中広いですからね、とんでもないこと思いついて実行する奴が出てくる。その人間の営みがイノベーティブ(革新的)であればあるほど、立ってる絨毯をひっくり返されるように世の中がガラリと変わる。物事の仕組みがかなり根本的に変わる。

 そして現代は、世界的に自由に豊かになってるので、そういう革新的で、それがゆえにハタ迷惑な奴は世界的に出てくる。もう毎分毎秒、ツイッターのように世界のあちこちで変なことを思いついて、やり始める人々が出てくる。そんなに大成功する人間は少ないけど、それでも絶対母数は日に日に増えているから、馬鹿にならない数であり、確率であり、スピードになる。

 あ、スピードといえば、世の中、平和で便利になってるから益々加速されますよね。安全・安心・効率が逆に僕らの敵になるという皮肉な現象です。例えば、その昔は国際貿易なんか生きるか死ぬかのビジネスでした。遣唐使でもなんでも結構な確率で難破して溺死してたし、陸路行けば山賊やら関所やら。だから強力な軍隊を護衛に付けたり、そもそも制海権を得るために戦争したりしてたけど、平和で治安も良くなればそういう心配も無くなる。技術が進歩し滅多に船も沈まなくなる。さらには、いちいち自分で出かけて+商談して+商品を運んで+代金を貰って+持ち帰らなくても、ネットで売買して、クレジットやPayPalで決済して、フェデックスで送れば済む。すごい安全、安心。すごい便利。だから世界の片隅で誰かが革新的なことを思いついても、昔だったらそれが世界に広まるのに100年かかったところが、いまでは1年もかからずに広まったりする。変化のスピードが速くなる。

 周知の具体例を挙げれば、例えば、Googleが日本の(世界の)TVや広告業界に打撃を与えてますよね。
 日本のTV広告(CM)というのは年間2兆円にも達していたビッグビジネスですが、供給者は限られていた。官庁による電波の制限割り当てでTV局の新規参入は極度に制限されていたし、広告代理店も大手、特に電通が圧倒的に強かった。TVのCMの広告価値や値付けは、いわゆる視聴率から算定されるのだけど、視聴率を調べるのはビデオリサーチ社の事実上独占状態であり、且つこれは電通の子会社だったりする。いわばお手盛り。そんなこんなで原子力村みたいに、官界・TV局・広告業界でぬくぬくやってきた。日本の状態のままだったら殆ど永続しかねないくらい安定的だった。

 しかし、Googleという黒船がやってきて、破格に安く透明度の高い、そして費用対効果がハッキリ分かるネット広告を打ち出したことによって、揺らいでいるといいます。まあ、Googleだけではないけど、全体の統計でいえば2007年に日本の総広告費が7兆円でピークに達した後、11年には5.7兆円まで落ちているそうです。簡単にいうけど、でも1兆3000億円、20%も売り上げが落ちるというのは大変なことですよ。

 細かな議論は別として、ここで思うのは、思いも寄らないところから絨毯をひっくり返されるということです。Googleを立ち上げたラリーペイジだって、最初は普通に検索システムの研究をしてただけで、別に日本の広告業界を変革しようなんて思ってなかったでしょうからね。まわり廻ってそうなっている。で、今は、まわり廻やすくなっているし、まわり廻る速度が格段に速くなっているということです。


 また別例では、エッセイ557で紹介した、オーストラリアの新興ビジネスであるフリーランサーコムです(シドニーのPyrmontに本社がある)。新興国(に限らないが)にアウトソーシングするネット専門会社ですが、これをeBayや楽天のように個人単位で出来るようにしているのがミソです。実際にその会社のHPを見ていただいたら、その恐さと凄さが分かると思います。世界中で登録しているプロフェッショナルは、今みたら400万人、累積案件240万件。

 具体的に見ていくと、たとえばエクセルでのデーター入力業務の入札状況を見ると、400頁のクソかったるいデーター入力を、パキスタンのおじさんが「納期5日で50ドルでやってやる」と申し出ています。朝から晩まで数字の入力やって日給1000円にもならない。それでもやるというのが世界の恐さであり、パキスタンではそれでもいい収入になるのでしょう。

 「グロバーリゼーションとはこういうこと」ということで、毎日でも見てるといいですよ。背筋が寒くなるから。この会社だけでも累積240万件、600億円相当(実際に先進国本国でやればその数倍)の仕事と賃金が新興国に流出しており、それだけリストラが広まり、失業者が増えるということです。毎秒毎秒増えており、加速している。

 しかし、グーグルやフリーランサーですら、ここ数年急激に出てきただけであり、来月になったらもっと新しいアイディアをひっさげた誰かが出てくるかもしれないし、これが数年スパン、数十年スパンになったらどうなるか、もう全然わからないです。

 appleもiPadの次はiTVを出すという話を読んだことがあります。まあ、流れとしてはそうでしょう。このまま技術が進み、廉価化がすすめば、というか今時点でも既にそうだけど、大画面TVがPCの役割を果し、YouTUBEその他の無料動画の画質も昔のようなショボイものから今はかなり向上し1920pxレベルでも普通にある。大画面で再生しても全然問題ない。そうなればもうTVなんか見ないという層がますます増える。だから当局や業界としてはダウンロードを「違法」化して必死に火消しをするのだけど、津波の前の防波堤くらいでしかないだろうなあ。MegauoloadのFBI摘発以後、あっという間に新興業者がまた雨後の筍状態だもん。

 で、もっと想像を先に進めると、今度はYouTUBEなど世界中に散在する数百万の動画の中からセレクトして「番組」を作るという会社が出てくるかもしれない。「可愛い子猫動画特集」とか「ブラジルビジネス特集」とか、海賊版のサンプリングというか、「まとめ」サイト的に要領よくまとめて、そのプログラムを選ぶと1時間なら1時間、番組のように充実して効率よく楽しめるという。そして参照回数によって広告料が支払われ、個々のUPしたビデオ製作者に還元されるとか。

 ただ、まあ、ネットは儲からないからなあ。GoogleもFacebookも苦戦してるし、広告料だけってのはやっぱキツイんだろうな。だから食うに困っていつ個人情報売買業者になるかわかったもんじゃないという脅威論も語られるわけで、そうなるとネットにプラスして一枚も二枚も上乗せした、とんでもない発想によるとんでもないビジネスが出てくるかもしれません。そんな最先端の最先端のようなところで、既存の大企業化したメディアがついていけるか?ついていけるだけのスピード感を持てるかという難しいだろうなあ。

 しかし、ネット「後」もあります。行き着くところまで行ったら飽きるんじゃないかな。世界中の情報、動画、画像が瞬時に何処ででも最高画質で再生できたとして、それも慣れたら、「それがどうした?」ってなるんじゃないか。だって絶対的な制約があるのですよ。どこまでいっても所詮は二次元でしょ。ディスプレイというプラスチックの板きれの上での話でしかないし、90%の時間は「見てるだけ」です。触れるわけでもないし、食べられるわけでもないし、温度もないし、抱きしめられるわけもない。人間がこの地上で得られる快楽の絶対値ではかれば、そんなに高い快楽度とも言えない。だから、よりダイレクトで快楽値の高い、ネットとかITとかいうのとは全くかけ離れた地平で何か出てきそうな気がします。

 ま、それはともかく、この先、なにがどうなるか分からんという話でした。
 世の中自由になってきているのですから、どんなものが飛び出してきても不思議ではないし、だからいつ絨毯を引っ張られて、自分の立ってる地面(生活基盤)が根こそぎ崩壊って目に遭わないとも限らない。

 「自由」とは本来そういうことでしょう。
 自由であり、安全であり、効率的であるがゆえに、僕らの生活は豊かで便利になっているけど、その代償として、人生はどんどん不安定になっている。これも「世の中よく出来てるわ」という慨嘆につながるのですが、ほんとそうですよね。

 自由と安定は二律背反である場合が多い。
 なぜなら、自由=可動性領域が広い=よく動く=あまりじっとしてない=安定してない、ですから。

苦手科目という美味しい果実

 はい、じゃあ、こういう現実において、どういう方法論で対処したらいいのか?です。

 エスカレーターでいいのか?
 そんな蜘蛛の糸が今の世の中ありうるのか、一瞬あったとしても永続するのか?

 勿論、従来通りの方法論でも通用する部分はかなりあるでしょう。
 フリーランサー・コムで、経理やらプラグミングで入札するにしてもベーシックになる経理知識やらコンピューター知識は必要だし、それらはキチンと教育を受け、実戦を経て自分のものにしなければならない。メシのタネですからね。しかし、それだけでは物事の半分くらいしか達成しておらず、そこから先、それをいかに売り込むかという問題が出てくる。プレーヤーとしての能力は当然要求されるけど、同時にマネージャーとしての能力も要求されるということです。

 だから、ある領域においてはですが、エスカレータはあるけど、道の半分しかいかず、そこから先は自分でジャングルを切り開いていかないとならないということです。自由というのは、場合によっては早い者勝ち原理が支配してて、そういう局面では、皆の後をついていったら百戦百敗ですよね。だって絶対に先の奴に取られちゃうんだから。だから、誰もまだやってないところを一人で進んでいく、つまり、非パッケージ、非パターン、非受け身(つまり超能動的)である資質が求められると言うことでしょ?

 ところがお勉強的方法論でずっとやってきていると、そのあたりが(人によってはだけど)致命的に弱い。苦戦します。

 しかし、絶望する必要なんかサラサラないです。むしろ喜べって。
 だってさ、先ほど述べたように、得意科目をやっても現実は変わらないんですよ。苦手科目こそやらなきゃ。それが致命的に弱かったら、鍛えて強くすれば、劇的に人生が変わるってコトでしょう?大体、人が「苦手」というときは、本当にありとあらゆるトライアルをしまくって、それで苦手という結論に達しているわけではない。大体ちょっと囓って上手くいかないから早々に諦めている「食わず嫌い」が多い。やってみたら、実は天職でしたってこともあるのだ。それに、この種の個人マネジメントは、今の日本社会ではなかなか練習する機会もないのだから、誰か苦手かなんて本当のところは全然分からないのだ。やってみたら意外と得意だったりするかもしれない。

 それに、なにも世界チャンプになれとか、世界人類の過半数が餓死するとかそんな話ではなく、大戦争や天変地異でもない限りそこそこ皆食っていけるんだろうから、平均的に出来ればいいんですよね。そんな難しい話ではないし、そんな難しい話だったら人類絶滅します。でも「平均=皆と一緒に」という意味ではないのですね。その発想だけは変えないとならない。

 それにさ、生活水準が下がった方が幸福水準が上がるってこともある。アウトドアのキャンプ生活なんか、まさに生活水準を下げて幸福水準を上げるような営みでしょう。キャンプ場のカレーは、純粋に冷静に味的にいえばそう大したものではないのだろうけど、なぜか絶対美味いという不思議な現象。だけど、生活水準を下げれば常に幸福になるというものでもない。恐いのは生活を下げたら幸福も下がっちゃったというパターンであり、その分岐点はどこにあるか?です。この魔女算術のような、魔法の方程式を解け、ってことです。

 でも、そのあたりのカンドコロというのは学校の正規のカリキュラムでは教えてくれないし、「勉強すれば何とかなる」という類のものではない。情報を集めたり、人の真似をしたり、出来合いのものを探しても得られない。にもかかわらず、生きていく上においては、絶対に(といってもいいと思う)必要な技術や知識でしょう。

 それを得るためには、、、、というよりも、生まれながらにして普通に得ているのだけど、それに気づくためには、まあ、ほんと色々なやり方があるのでしょうが、今回に書いたことに関して言えば、「楽しさ」「面白さ」の感覚を鋭敏にすることなんでしょうね。量とか見た目とかではなく、質。それも自分にとっての質にこだわるという。ま、言わんとすることはわかりますよね。そして、他人に聞くな、調べるな、どっかに正解があると思うな、です。それこそが、これまでの方法論、お勉強的な方法論なのですから。



文責:田村



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