ご存知の方も多いでしょうがアメリカでは今SOPA(Stop Online Piracy Act)と言われる著作権保護(インターネット規制)法案が出ており、GoogleやWikipdediaなど世界的なネットサイトがこれに抗議の意思を表示しています。
一方、先日、アメリカのFBIは著作権侵害常習サイトとして、Megauploadの経営者らを逮捕し、これがまた大きな波紋を呼んでいます。とりあえずの「波紋」は、速攻での報復攻撃ということで、世界のハッカー集団アノニマスがアメリカの司法省だのFBIだの関連諸機関に攻撃をしかけて、瞬く間にサーバーダウンさせてます。You-Tubeで犯行声明も出しており、世界中の掲示板で賛否両論ガンガンやってます。
日本ではIT系やネット系では話題になってますが、普通のメディアでお茶の間にまで届いているのでしょうか?これ、考えていくと非常に面白いのです。ほんと、いろいろなレベルで面白いし、もしかしたら地球温暖化や原発やエネルギー資源問題に匹敵するか、それ以上のカレント(潮流)になるかもしれんなと。2003年頃、新聞記事の「21世紀中に著作権は消滅するだろう、消滅した方がいいんじゃないか」というコラムに触発されエッセイに書きました(
ESSAY111/著作権について)、またJASRAC(日本音楽著作権協会)の暴走ぶりへの批判も2005年に書きました(
ESSAY229/JASRACについて〜起こされた寝た子)。その続きのような話です。
MEGA VS FBI 捕物劇+アノニマス報復
どっから書き始めたら良いものか。
昨今、アメリカが躍起になってネットにおける著作権侵害の取締りをやってます(その子分の日本も親分以上に激しくやってます)。
まあ、気持ちは分かります。ネット上では著作物が無料で取り放題になってますからね。WinnyやTorrentなどのP2Pの共有システム、一般のYou-Tubeやニコ動なんかもそうですが、今回はFBIに摘発されたMegauploadなどのファイル・ストーリッジ(保管) or シェア(共有)サイトがやり玉にあがってます。要はファイルの保管庫みたいなもので、個人で自分のファイルをUPLOADしておいて好きなときにダウンできるという、まあ流行のクラウドみたいなものです。が!悪用が出来ます。てか悪用のために作ってるキライもなきにしもあらず。
保管してあるファイルを自分だけではなく、不特定多数にダウンロード可能にすれば(というか、そうなってる)、誰でもそのファイルを落としてこれます。それが発売直後のDVDでもCDでもスキャンした書物でも、あらゆるデジタル著作物が誰でも好きなように落とせます。
しかし、どこの誰が手間暇かけて自分のファイルをアップロードするのか?また、どこにどんなファイルがあるかなんか分からないじゃないか?またそもそも保管(ストーリッジ)会社はそんなことして何のメリットがあるのか?という疑問が出てきます。
カラクリはこうです。
世界中の各掲示板や個人ブログなどで、こういった著作物保管庫を紹介しているところがあります。もうムチャクチャ沢山あります。そこで検索して欲しいファイルを探し、そのページを見るとどこそこのストーリッジサイトに行って落とせとリンクが貼ってます。そのリンクを辿るとはたして本当にダウンロードできちゃったりします。
ところがストリッジサイトもさるもので、フリーのダウンロードの場合はやたら制限が多い。スピードが遅いわ、1時間に○ファイルだけだわ、ファイルも又やたら細かく分割されて一つの映画を落とすのに十数ファイルを落とさねばならず、一本落とすとまたしばらく待たねばならず、時間になっても認証コードという読みにくい長い文字を延々入力せざるをえず、、とにかく面倒臭いように、面倒臭いように作ってあるわけです。でもって、非常に目につきやすいところに大きく「1日わずか300円でプラチナ会員へ!」と誘うわけです。「かったるいでしょう?面倒臭いでしょう?大した金額じゃないから払っちゃいなよ」と。"Why wait?"とか書いてある。
この誘惑に負けて会員になる人がいたりするのですね。実際そんなに高くないし。会員になったら無制限に、同時に何ファイルもダウンし放題だから一週間だけ会員になろうかな、みたいなものでしょう。1000円かそこらなんだから。
かくしてMegauploadのようにストーリッジ会社はこの会費が儲かります。では、せっせとファイルをUPしてる一般人達はなんでそんなことをするのでしょう?これはストリーッジ会社からキックバックがあるのですね。自分の挙げたファイルを月間○○GB以上ダウンされたら、幾ら払うという。だから、皆さん目の色変えてUPしまくり、そしてここに自分のファイルがありますよということを、世界中のこの種のサイト・掲示板に書きまくるわけです。これ、一般人が趣味でアップしているというよりも、ビジネスでやってるような気がしますね。特にアダルトビデオなんか製作・流通などのどっかの在庫データー持ってるところが組織的にやってるような気がする。
しがし、「そんなシステムで実際にお金なんか儲かるのかな?」と疑問になりますよね。僕も疑問でした。企画倒れだろうと。ところが、FBIのMegaupload摘発で分かったのですが、儲かってるどころの騒ぎではないです。この件についてはネット上で色々な解説がありますが、とりあえずGigazine というサイトの
「Megaupload」閉鎖&FBIが運営者を逮捕、驚愕の運営実態と収益額が判明が分かりやすいです。FBIの訴状によれば、同社の利益は有料会員の会費が約116億円、広告収入が19億円、合わせて135億円というから豪気なものです。
この逮捕劇も面白いです。同社の経営はやたらグローバルで、サーバー数は1000以上、アメリカの他オランダなど従業員も世界9カ国に及びます。しかし、会社自体の規模は小さく、従業員わずか30人に過ぎません。社長のキム・シュミッツ(通称「キム・ドットコム」)はドイツ(&フィンランド)国籍でNZと香港に居住。37歳、高卒。身長約2メートル(1.98)体重129キロの巨漢は(
Wikiによる)、濡れ手に粟で放蕩三昧だったらしく、押収された高級車輌・バイクはベンツをはじめとして30台。FBIがヘリコプター二機出動させ、キム社長はショットガンで待ちかまえ、、、という、ハリウッド映画ばりのビジュアル展開だったそうな。
いやあ、面白いです。不謹慎かもしれないけど、火事と喧嘩は江戸の花なのだ。それに後でもその理由を述べますが、不謹慎に面白がってていいとも思うのです。
もともと米国政府や著作権を喧しくいってる音楽業界(ミュージシャンというよりはレコード業界)に対して快く思ってなかった人々が、これをキッカケに反撃に出てます。上述のアノニマスの報復ハッキングですが、ここでDDoS攻撃(協調分散型DoS攻撃、Distributed Denial of Service attack)という聞き慣れない単語が英字新聞の紙面に踊っています。ターゲットになるサーバーに容量以上のアクセスを一斉に行うことによってサーバーをダウンさせてしまうことのようです。彼らのターゲットになったのはアメリカ司法省、FBI、ユニバーサル、アメリカレコード業協会(RIAA), アメリカ映画協会(MPAA), ブロードキャスト社などです。司法省なんかアタック開始わずか70分で閉鎖に追い込まれています。
世間の反応もマチマチだし、本来守られるべき著作者(ミュージシャン)などの反応のマチマチです。さっそくラッパーのDan Bullによる
"MEGAUPLOAD Protest Song"なんてのが見られます。英語字幕つきなのでポーズを押しながらゆっくり再生すれば意味分かります。また、Megauploadに、違法ではないビジネスユースのファイルをアップしていた一般ユーザー達もサイトが閉鎖されたことによる損害賠償を司法省相手に提訴するとか。その請求総額や原告団も膨大な数になりそうです。このあたり、日本と違って西欧系の連中の立ち上がりの早さというのは凄いものがあります。おかしいとおもったら速攻で反撃に出る。スピードは力なりです。
国家を超える存在
地球規模の意味〜台風みたいなもの
今回のFBI摘発を受けて日本でも多少の報道はされてます。が、例によって「日本にも影響はあるのか」論が多いです。「乗客に日本人はいませんでした」的な「対岸の火事」的なスタンスというか、相変わらず内向きな印象を受けます
でも、この件に関しては「海外」「対岸」とかいう概念は存在しないです。大体かのキム君だって、国籍はドイツやフィンランドだし、居住地はニュージーランドや香港だし、アメリカに行ったことがあるかどうかすら分からない。でも「そんなこと関係ねえ」って感じでアメリカのFBIがへリを飛ばして逮捕するわけです。アメリカの著作物が侵害されたら、行為者の国籍や住所がどこであるかなんか関係ない。だから、このテのサイト、P2P、あるいは友達から無料でアメリカの著作物のDVDをコピーして貰ったりしたら、ある日突然FBIがやってきて貴方が逮捕されることも、理論的にはありえます。国境とか対岸なんて観念は無意味です。
誰もがいうことですが、ネットというのは地球規模の現象であって本質的に国境なんかない。それは台風に国境がないのと同じことです。台風○号が日本に上陸する予定ですが、入国手続に手間取っているようですなんてことが無いのと同じ。オーストラリアでシコシコ書いている僕の拙文が、今日本にいるあなたのディスプレイに表示されるように、本質的に国境というものは障害にならない。
それを国家組織単位で対処しようというところに本質的な無理があるのでしょう。これも国家の行政指導で台風の進路を誘導することが出来ないのと同じ。確かに今回、FBIはメガを潰しましたけど、この種の全てのサイトを潰したわけではないし、潰せるわけもない。また、対応も被害回復という「事後処理」であり、それは台風が通過したあとの土砂崩れなどの被害回復と同じであって、ネットそのものを誘導規制することは出来ない。
なお、それでも日本国内の事情が心配な方は、
MEGAUPLOAD事件、SOPAとの関係は?日本も影響ある?で、この方面に詳しい弁護士さんが非常に冷静に答えてくれてます。結論的にいえばそんなに心配しなくてもいいよと。
国家を超えた”社会”の出現
ここからさらに波及して思うのは、いつも書いてるようなことで悪いのですが、「国家」ってなんなんだろう?ということです。19世紀からの国家単位で経済や社会が成り立っていた頃の「国家」は強力でした。でも、20世紀の終わりくらいから21世紀になると、これまで強かった国家も、そんなに強くなくなっていった。時代が変わっちゃったんですね。昔は小憎らしいほどに強かった父親も、年を取って、時代についていけなくなって肩を落としているみたいな感じで、ちょっと可哀想な感じがするくらい。
これまでのところ最大の社会は国家でした。だから、なんとなく「国家>社会」という観念が染みついてます。「国際社会」と言い方もあったけど、国家を単位とする国家の寄り合いみたいなものです。しかし、ここ数十年、地球単位で物事が動くことが多くなり、国家を単位とせず、国家に頼らず、国家を超える”社会”が出現してきます。そうなると従来の枠組みでは対処しきれなくなる。FBIのメガ摘発とそれに対する世界からの報復は、いち国家であるアメリカが、国家を超える世界社会に喧嘩を売って反撃を受けているという構図と捉えられなくもあります。そこが興味深いです。
→長くなったこともあり、ここから先は硬い話なのでバサッと割愛します。読みたい人だけクリックして表示させてください
その昔は(今でも多くの場合はそうだが)、大抵のことは国家レベルで管理規制すればなんとかなりました。
例えば、駅前の商店街がダイエーなどのスーパーの進出によって潰れるという問題がありました。このレベルだったら、国家は大店法や建築許可などで調整をすることも可能です。しかし、今日、個人商店が対抗しなくてはならないのは、ネット通販などであり、それも楽天などの国内市場ではなく、香港などの国際的な通販だったりします。これは日本国に規制や保護を求めてもムダです。国家が出来ることといえば、関税を高くするとか、通関手続きを煩雑にするという「いやがらせ」レベルでしかない。今の自由諸国で、中国のように強権をもって国外へのネット接続を強制的に切断するなんて論外でしょう。
今世界で活躍している巨大企業は、世界中に製造&販売拠点を持ち、本社機能なんぞどこにおいても構わないくらいです。登記上の本店所在地だって「本籍」のようなもので、連結財務と税法上の関係で最も有利なところを選ぶだろうからケイマン諸島になったりもします。既に数十年前の時点で、マクドナルドやコカコーラという米国を代表する企業の社長にアメリカ人が殆ど居ないという現象が始まってましたが、今は「アメリカの企業」といっても「なにがアメリカなの?」かよく分からんです。かつてここから始まったという歴史的沿革?故郷感覚?エピソード?「法的所有者」という意味で株主と定義しても、株主がまた法人や機関投資家だったりするし、それらがさらに多国籍化してるから、もうわけ分からん。
なんでこんなことになってるのか?それはビジネスの本質が「偏在」にあるからだと思います。
Aエリアでは豊富にあるものがBエリアでは乏しい。だからAのものをBて売りさばけば儲かる。東京は都会だから米がとれない。だから農地の米を持って行けば売れる。一村全員が米を作ってたら、その村には米屋は要らないです。「偏在」がないからです。皆は持ってないけど、なぜか俺だけが持っているモノ(物財でも知識でも技芸でも)をゲットし、あるいは○○にいけば安く手に入るというところを見つけ、市場にそれを売り出すというのがビジネスの原則パターンです。そして地球規模でその活動が出来るなら、他に先んじてスィートスポットを見つけた奴の勝ちというゲームになる。だからかつての植民地競争のようにどんどん広がる。より安くより高品質というマックスポイントの拠点を発見し、あるいは育てた奴の勝ちです。売るにしても、現地の価格よりも安くて良いモノを持って来れた奴の勝ちです。だからどうしたって、より広くグローバルに動いた奴の勝ちなんですよね。
こういった動きそのものは、まさに台風のようなものですから、国家規模で規制しようとしても本質的には無理。空洞化で国内失業率が悪化しようとも、企業に「行くな」とも言えない。言ったら潰れるだけですから。そこに現代国家の苦悩がある、と。同じようなことを何度も書いてて恐縮ですが。
すでに経済やネット世界においては、地球まるごと一つの「社会」となりうるような実体が形成されつつあり、その限りでは「社会>国家」になってしまっている。「世界市民」というと陳腐な表現ではあるけど、それらしき存在が薄らぼんやりと出来つつある。
今回のFBIのメガ摘発は、国家が国家以上の社会に対して喧嘩を売ったようなものだと思います。そして、アメリカというイチ国家を超える「社会」からの反撃を受ける。もともとメガ自体が、国家という枠を超越して、世界中の連中を相手に直接商売していたわけです。逮捕閉鎖によって影響を受ける人々も世界的にいます。だから世界中のハッカー集団(参加者9000名だそうな)にサーバーをダウンされ、世界各地から天文学的な賠償請求をされる。
ちなみに現在のハッカー集団がどれだけのことが出来るのか、僕は専門ではないのでよく分かりません。が、もし天才のような連中がゴロゴロいて協力しあってやったら、素人考えでも何でもできると思いますよ。サーバーダウンどころか、金融機関のオンラインを切断し、さらには勝手にデーターを書き換えられたらどうなるか。勝手に送金されちゃったり、知らない間に預金残高がゼロになるような出来事が世界同時多発に数万件規模で起きたら、もう経済はパニックになるででしょう。もっと恐いのはGPSシステムを狂わせ、飛行機の離発着の誘導データーを改ざんしたら航空事故が多発するだろうし、軍事システムに入り込んで、衛星のレーザー鏡面角度を書き換えたり、ミサイルの慣性誘導プログラムを書き換えたら、自国のミサイルがいつの間にか発射されて自分のところに落ちるという無茶苦茶なことも起こりえます。要するにコンピューターに頼っているものは全て信用できなくなるわけで、一気に原始時代に逆戻りってことも理屈の上では可能でしょう。
そういうことが本当に出来るかどうか分かりません。でも、未来永劫絶対にないとは言い切れない。それよりも恐いのは、そういうことをする人達が一体世界のどこにいて何をしているのか、基本的に全然わからないということです。目の前の公園のベンチでやってるかもしれないし、キリマンジャロの山頂で衛星経由でやってるかもしれない。これまでは人類滅亡だの世界破滅だのをするのは国家の専権事項(戦争)でした。しかし、今は国家以外の何だか分からない存在にもその力が生じつつある。
ということで、国家という管理を超えた存在、見方によってはユートピア的に美しく、見方によっては恐ろしくブキミな存在が、日に日に形成されているということです。今はまだ始まったばかりでしょう。生まれたての赤ん坊のように自我もないし、無自覚なままだと思いますが、今後この流れはどんどん膨らむものと推測してます。これまでの国家的な枠組や発想では対応できない。また国連のような国家の集合体のような存在でも対応は難しいでしょう。
今後世界はどうなるか?ですが、テーマは「国家を超えた”社会”の生成と発展、そして新しい”社会”を動かす原理や秩序はどうなるか?」です。新しい秩序=それは国家や権威という「他者(力)よる統治」ではなく、「自己規律による統治」という人類史的に新しい段階があるのではないか?その段階を人類はクリアできるのか?という巨視的な興味があります。まあ結果が出るのは100年以上先の話だと思うけど。
自律統治
読み直して「自律統治」の意味が不明瞭なので付記しておきます。例えばハッカーの存在です。世界最高水準のネット技術を有する連中がいます。彼らの多くは、既存の組織でネットセキュリティを構築する職について給料を貰いつつ日々頑張るでしょう。しかし、有名な「矛盾」の故事=どんな楯(タテ)でも貫く矛(槍)と、どんな矛でも防ぐ盾が同時存在しえないように、ネットを守るも侵すもやっているのはしょせん人間しかおらず、結局はより優秀な人材がどちらの側に就くか?問題なのだと思うのです。さらには彼らが世界の現状を見て、クソだと思うか or 素晴らしいと思うかです。こんなものは壊した方がいいと思うか、守るべきだと思うか、非常にパーソナルな心情で決まる。多くの人々が壊す方向に向えば、自然と壊れる。どう感じるか、どう行動するか、これらは直接民主制における投票行為のようなものであり、それが自律統治という意味です。
まあ、大きな意味では人類はずっと自律統治でやってます。別に異星人や神様がわかりやすく仕向けたわけでもない。終局的には自分らで決めてきたし、多くの場合は意に反する結末になりつつも、それでも人間以上の存在がいない以上、自分らでやるしかない。自律統治以外の形態はありえないといってもいい。そして自律統治の形態も、原始母系社会から、農業発見(→余剰生産力→軍事力)によって男系武力社会になり、地域豪族社会、古代中央集権社会、封建的地方分権時代、近世的都市国家時代、そして産業革命以降の近代国家時代から戦後の現代国家時代に至ってます。現在のような形の「国家」というのも、あった方が良いと思う人々が多数だったらからこそ存在しえたのでしょう。だから今後、人類の(無意識的な)自律意思で、新たな姿にヴァージョンアップするのも全然アリでしょう。
一方、「統治」というのは終局的には人間関係論であり、人間関係が終局的には意思疎通に基づくものだとしたら、意思流通方法はこれまで上→下の上命下達しかなかったところ(支配層が本気になればマスメディアも支配できるし)、ネットその他の技術進展によって意思流通の形態が変わった。だから自律統治形態もまた変容してくるんだろうなってことです。これは30年以上前から言われていることだけど、それがどう変化していくのか、まだまだ見えないのだけど、見えないだけに滅茶苦茶面白いし、興味があると。
先ほど「無責任に面白がってればいい」と書いたのは、今回のFBIの捕物劇など、こういった巨大な流れのおそらくは数百ステップあるうちの1ステップに過ぎないだろうから、直ちに大騒ぎするほどのこともないから。しかし意味するところは巨大であり、その意味を「世界のみんな」が面白がりながらも真剣に考えているってことです。
こういう局面では、深刻な顔して何も考えないのではなく、ケラケラ笑いながらも頭の中は高速で回転しているのが望ましいでしょう。さきに紹介したラップの内容なんかまさにこれで、洒落のめしながら、かなり先まで見通してる。この種の新しいモノに接するときや、未来を直感的に推論するときは、旧来の価値判断を完璧にニュートラルに殺して、良い/悪いで判断しないことが大事だと思います。深刻になるのは「困ったもんだ」「違法だ」とかいうのも保守的な発想に引きずられている証拠。だからケラケラ無責任でいるくらいの方が、良し悪しに囚われずにズケッと先が見えたりするものです。価値判断や対策を考えるのは見えたあとの段階でしょう。まずは虚心に見ること。
著作権適正縮小論
ところで、新しい勢力が徐々に勃興すると、旧勢力からの強烈な反動があります。アンシャン・レジュームですね。今回のメガ摘発も、結局はここに位置づけられると思うのですが。
事柄は著作権論になっていくのですが、将来的に著作権ってどうなっていくのかな?と思うのです。要らないんじゃない?というか、すっごくシンプルな原点的な形態(ミエミエの盗作とか)以外は適合しないんじゃない?というか。
確かにネットにおける現状=著作物が無料でガンガン取得できてしまう状況は、違法か適法かといえば違法でしょう。法解釈はどうあれ、お金払って買うべきものを勝手に取ったらそれは「泥棒」でしょうという自然の感情もあります。また、これによってアーティスト達の生活が成り立たなくなり、人類からすぐれた文化は失われてしまうという大きな視点の問題もあるでしょう。
ということで、「違法ダウンロードはやめましょう」とか言われると、素直に「そうだよな」と思ってしまうのがおおかたの、善良で遵法意識に富んだ日本人の発想だと思います。そこは良いところでもあるのですが。しかし、僕はそんなに善良でもないし、ひねくれてるから「そうかあ?」って思います。著作権=保護すべき、侵害=悪いことというのは、ある意味ではお上に刷り込まれた固定観念だと思いますよ。
著作権が実際に裁判などになった紛争事例を見てみると、正直者のクリエイターが作品をパクられて可哀想に、、みたいな「童話」みたいな事例は殆どないです。多くは企業利権のゴリ押しや欲と欲のつばぜり合いのような事例。個々人レベルで揉めているのは、子供の喧嘩のような感情的な争いで、その攻撃材料として著作権を使ってるとか。あと、80年代以降アメリカの産業保護のためにやたら知的所有権が武器に使われた。日本国内では、アメリカと違ってフェアユース(公正で許容できる著作物の使用)の範囲の極端に狭い日本法をさらに狭くしようという、業界の利権保護に使われているといっていい。
善良な日本人が善良に連想するような、善良な著作権の使われ方などどれだけされているのか?
そして音楽業界や出版業界などは、本当に保護に価するのか?
音楽”業界”の自業自得
著作権でガンガン文句をいって規制させようと必死なのは、レコードや映画業界という大企業でしょう?アーチスト本人ではない。勿論アーチストでも著作権保護を訴える人は多いですし、それは間違ってないけど、逆に今日のシステムそれ自体に異議申立てをする人もいる。一方、商業音楽、映画というのは、巨大企業がアーチストを保護というよりも搾取している場合もあり、その場合のアーチストなんか現場の下請け労働者みたいなものだったりします。
もちろんレコード会社には儲ける権利があります。だけどそれは天賦不可侵なものではない。
そもそも、なんで彼らが儲かるようになったのかといえば、エジソンさんがレコードを発明したからでしょう。つまり技術の進歩によって、「録音→再生」ということが可能になったからです。それまでは音楽というのはライブ以外に存在形態が無く、音楽産業といってもサーカスの興行主のような感じでしかなかった。それでも人類は音楽を捨てなかった。圧倒的多くの時代は、音楽「業界」すらなく、民謡やフォークソングや田楽という形で人々は楽しんできた。あるいは雅楽や宮廷音楽として強力なパトロンがついた。
今日あるのは、エジソン以降の技術の進展、つまり記録&再生技術が出来たからでしょう。それでも昔はレコードという複製が難しい媒体しかなく、音質が劣るカセットで録音するしかなかったから、ちゃんとした音が欲しかったら原本である(これも複製なのだが)レコードを買うしかなかった。つまりは差別化が出来た。しかし、よせばいいのにデジタル記録技術なんか開発するもんだから、複製が容易になり、差別化が出来なくなった。そしてネットの進展によって現在のようにダダ漏れ状態になってしまったわけです。
技術の進歩によって発生した音楽業界が、技術の進歩によって滅んだとしても、それは当然の帰結ではないですか?特に日本のレコード会社は家電メーカーが親会社というパターン=オーディオ機器を売るためにコンテンツであるレコード会社を作ってきた(非家電系のエイベックスなどが出てきたのは90年代以降)。デジタル開発は言わば自分で自分の首を絞めているもので自業自得。CDなどは自分らで作った新しい技術なんだから、それに対応するように進化するしかないでしょう。それを著作権だのなんだの国家にチクって罰して貰おうだなんてスジが違う。少なくも「ヤキが廻った」という気がします。そんな姿勢でいるから、僕も「旧体制」としてカテゴライズしようという気になる。現状維持を望むようになったら、そしてその維持のために他者の力をアテにするようになったら、「お前はもう死んでいる」です。
さらに言えば、一国の政治が、退場すべき落ち目の旧勢力に引きずられているようでは、その国自体が落ち目になるし、逆に落ち目の国ほどそういう旧勢力の言いなりになる。
イノベーションを怠けたツケ
端的に言えば、メガのように儲かるシステムを、レコード業界や映画、TV業界は、なんで自分で開発しなかったのか?です。第三者にやられてしまった時点でもうダメでしょう。なんつってもコンテンツは自分らが一番持ってるんだから、もっと儲かるような売り方をすれば良いのに。旧態依然とした価格や販売体系のシガラミに囚われているうちに、無料という究極の価格破壊にやられてしまった。
でもね、ユーザーだって、いちいち検索してサイト探して、作品探して、ストーリッジサイトいって、しち面倒臭い手続きを踏んで、丸一日がかりでダウンロードするくらいなら、本家本元で素直に落とせたらその方がいいですよ。完全無料は商売あがったりでしょうから、だからそこはメガのように会員制にすればいい。1日300円でダウンロードし放題とか。それでも塵も積もれば山になりますし、その塵山でキム君は高級車30台乗り回してたのでしょうが。
売れもしない過去の作品在庫を経費払って保管してるくらいなら、データーをサーバーに入れておいて、勝手にダウンさせて日銭が入ってくるシステムにしたほうが結局は儲かるんじゃないのか。それに、どのアーチストのどの作品がどれだけダウンされたかというのは明瞭にわかるんだから印税配布にも不便はない。
もちろんこれによって従業員数は大幅にカットされることになるし、規模も9割方縮小でしょう。メガが従業員30人で世界展開して135億円稼げたんだから、ぶくぶくに膨れあがった既存の業界組織は壊滅でしょう。でもそれがビジネスのオキテでしょ?栄枯盛衰。炭坑は閉鎖され、真空管はマニアの存在になり、連絡架橋が出来ればフェリー業者は倒産し、ダイエーやイオンによって駅前はシャッター街になり、空洞化で工場は閉鎖され派遣は雇い上げになる。あんたらだけではないのだ。皆そうなのだ。なぜ特別扱いしてやらねばならぬのだ。
そもそも、CDにしても電子書籍にしても何で同じ値段なのだ?「同じ」というのは二つ意味があって、一つは内容にかかわらず、新刊の値段が大体一緒なのは何故?CDも新刊本でも、今でも馬鹿高いと思うけど、それにしてもどのミュージシャンのどの新刊も大体似たような価格帯というのはどゆこと?これは制作費がかからなかったら安くていいやとか、これはミュージシャンサイドでも実験的な一枚だからとりあえず聴いてくださいでドンと安値で売るとか、これはもの凄く手間暇掛けて作ったし内容も最高だから高い値段をつけるとか、そういうメリハリがない。本にしても、似たような厚さと装丁だったら似たような値段。おかしくないか?
他の商品はもとより、他の著作物、例えばアートにせよソフトやゲームにせよ、そのあたり一本づつきっちり値付けをしてるじゃないか。値付けというのは生産者と消費者の真剣なコミュニケーションの一態様なのだ。どんな商品だって値付けには苦労するのだ。それを、なんで音楽や本は一律なのよ?2300円の新刊本が、いきなりブックオフや楽天で200円くらいで叩き売られてたりするのは、ある意味では恥なことではないのか。
これは再販価格にも絡む論点なのだが、自由価格である古本屋や中古レコード屋の場合、内容によってキッチリ値を付けている。「さすがによく知ってるわ」と感心するくらい、いいものには高い値段がつき、駄作だったら二束三文です。古本屋でできて新刊でできないのは何故?と。
内容にかかわらず製造&流通コストは一緒だからという言い訳が出てくると思うのだが、そんなもんどんな商品だってそうだわ。それに、仮にそうだとしたら、今度はダウンロード販売や電子書籍のように製造流通コストの掛からないものは何故安くしないのだ?
そのあたり幾らでもやりようはあったと思うけど、十年一日のように同じシステム。そしてやることといえば、やれリージョンコードだ、やれCCCDだ、町のダンススタジオに踏み込んで数百万円の請求をしたり、セコい防止策ばかり。もうとにかく現状維持。なにがあっても現状維持。絶対現状維持。そればっかやってたら、そりゃあ時代から取り残されるだろうし、潰れて当然です。いや、極論すれば、潰れるのが正義ですらある。他の業界はそうやって潰れそうになりながら、必死に企業努力してるんだから。
またTV業界。電波という公共資源を郵政省(総務省/郵政公社)と持ちつ持たれつで独占し、制作費を叩いて下請ばっかいじめて、それで高給を取っている。世界を舞台に互角に戦ってるパナソニックの社員の給料の1.5倍の給与を広告代理店社員が取り、2倍の給与をTV局社員が得ていると言われる。「嫉妬」を原動力にした批判は醜悪だから避けるべきだけど、嫉妬抜きにしても、これが公平公正か?視聴率が落ちて、潰れそうだからといって、それでまたガンガン圧力を掛けてYouTubeなどから削除させてる。
またJASRAC、日本著作権協会。これも過去に書いたけどおかしいですよ。ゲシュタポみたいに、市井の個人(喫茶店やダンススタジオとか)をねらい打ちにして、罵倒を浴びせかけ、法外な賠償額を請求するような手法をいつまでやっているのだ。2005年に書いたけど、今ちらっと調べたがその後も一向に改まっていないようです。挙句には2008年4月に公取委の立入調査を受けているんだけど、それでも相変わらず。最近ではアップルのiCloudの音楽配信に反対して、日本のユーザーは利用できないままになっている。
総じて言えば、いずれも既得権でぬくぬく保護された連中が、ろくなイノベーションもしなかったツケが廻って新しい時代の波に押し流されてるだけじゃん。それでキーキー言って、”正義”を振りかざして、税金使って取り締まれだと?甘ったれんじゃねえって気もするのですよ。
その他の保護正当化論点
第二に、現在の商業音楽は(音楽以外にも著作物は沢山あるけどとりあえず)、著作権だの国家的保護に値するのか?という根源的な視点があります。広告代理店と二人三脚で莫大な広告費をかけたり、TV番組やCMとのメディアミックス、アーティストの私生活までガチガチに管理するイメージ戦略、ルックスやフェロモンまみれにして売ったりとか、これが1000年後まで保存すべき大切な人類の文化遺産なのか?保護してやらねばならないようなものなのか。ひどい言い方をすれば一般大衆とやらに投げ与える「餌」のような作り方をしてないか。
第三に、著作権保護がなくなるとアーチスト側の生活が成り立たないという問題です。しかし、もともと芸術家の生活なんか成り立たないのだ。メジャーデビューして生活し続けられる人間など宝くじよりも乏しい確率なのだ。皆それを分かってその世界に入ってきているわけでしょう。創作というのはゼニカネじゃない、それが原点です。違いますか?
より原則論をいえば、好きな音楽、好きな創作をするという時点で本質的な目的は達成されている。「好きなことをやる」という最高目的以外のこと、オーディエンスにせよ、それによる販売収入にせよ、副次的なものでしかないでしょう。芸人ってのはそういうものでしょう。大体、今の世界の情勢(特に先進国)で、「好きなことが出来る」というのはとてつもなく贅沢なのだ。大多数の人はやりたくもない仕事をやっているのだ。だから好きなことが出来て、それでオーディエンスがついて、キャーキャー言われたら、それでもう満足したらええやん?と。大衆音楽の原点は「文化祭のステージ」であり、強烈な創造欲求と強烈な自己顕示欲、それでしょう。そこが満たされたらもういいじゃないかと。
ゼニカネのために創作するならそれもまた良しですが、だったら一般経済の原則に従えです。これも前にも書いたけど”商法”には著作権がない。百均というシステムとか、リアカーで焼き芋を売るとか、メイド服のウェイトレスがサービスするとか、寿司がぐるぐる廻るとか、これを最初に開発した人は偉大だと思うけど、彼らの”創造”には著作権保護はないし、印税も入らない。あっという間に類似品が出回る。それでも頑張ってる。どこよりも早く突っ走ることで創業者利益を生む。それが生き馬の目を抜くビジネスってもんでしょう。商売道においてパクリは必ずしも禁じ手ではないのだ。著作権だの知的所有権だのいうけど、頭を使っているのはあなた方だけではないのだ。どんな業界、どんな人でも死ぬほど頭を使ってビジネスやってるのだ。
第四に、著作権なんたらというビジネス形態が破綻したとしても、尚も彼らが生き残る術はあるし、ビジネスチャンスはまだまだある。ちゃんと進化すればいいじゃないか、ということです。これは項をかえて述べます。
著作権ビジネスの将来
高度な付加価値
旧来のビジネスモデルを破壊したところで、音楽、映画、出版業界も生き残ることは全くもって可能でしょう。CDの小売店だって、どこも売り上げを下げている中、逆に売り上げを伸ばしている店もあるという記事を読みました。何がポイントかというと、音楽が好きでたまらない従業員達が、個々のCDに自分なりの感想を書き込み、お客さんはそのPOPが面白く、指標になるから買いに来る。
付加価値をつけること。ビジネスの基本ですよね。単に右から左に商品を売るのではなく、ソフトを売る。「この音楽がいいよ」という一種のコンサルティング産業です。夜眠れないから癒し系の音楽が欲しい、でもどれを聴いたらいいのか分からないという人に、「こんなんどうですか?」と曲単位で試聴してもらって、買って貰う。売った分だけコミッションが入るというビジネス。お店のBGMを曜日ごとに変えたいのでチョイスしてくれとか、「元気がでるパック」「雨の日の午後パック」「秋の夜パック」をセレクトして販売するとか。それもその場で試聴&セレクトしてオリジナルなものを作ってあげる。個々の作品の詳細解説は別途、処方箋のようにプリントして渡してあげる。
それも既存のCD店だけではなく、アロマショップ、カウンセリングコーナー、病院、介護、エステ、花屋さんやワイン屋さん、ケーキショップ、高級お総菜屋さん、、、、ちょっと特別な豊かな時間を過したい人、音楽によって生活を豊かにしたい人は幾らでもおり、その販路は工夫次第で幾らでもあるとは思うのだ。音楽それ自体は有り余っているのだ。もう一生掛けても、1000年かけても聴ききれないのだ。だとしたらより深く聞き込んでいる人々の「知恵」が商品になる。そういう付加価値の付け方もある。「音楽調合師協会」みたいなものを勝手に立ち上げて業界資格を与えて、「就職に有利ですよ」と訴えて受講生を増やし、、、なんて展開もある。
一方、同じ付加価値でも、やっぱり本当に好きな作品はパッケージで欲しいという人もいる。というか、パッケージそのものが大きな意味を持つ。オマケである未公開映像とかブックレットもさることながら、キング・クリムゾンのファーストなんか存在自体がアートだもん。あれはCDのしょぼいパッケじゃ意味ないわ。アートや、工芸品として価値があり、あるいは蒐集家魂を満足させる一品はあるのだ。
この付加価値は書籍においては一層顕著です。電子書籍もあるけど、文献を調べるとか、データー重視の場合はそれでもいいけど、「本を読むという豊かな時間」という”嗜好品”にはなりにくい。僕も活字中毒であると同時にPCやネットも馴染みはあるが、両方わかる立場でいえば、好きな本、味わいたい本は、やっぱり書物という物体で読みたい。本当に美味しいお酒は、それなりに陶器やグラス、スチュエーション、肴に至るまでこだわりたいし、カロリーが取れればいいという味わい方はしないでしょう。それと同じで、読書だって、電子レンジでチン!みたいな電子書籍だけではしんどい。良本は、ほんまの職人さんが、紙質を吟味し、活字を吟味し、装丁を吟味しまくった、それ自体が芸術品ですから。
TV番組ついていえば、規制なんかしないで幾らでも儲けられるでしょうが。もともとが無料で放送して広告費で稼いでいるんだからさ。これまでの番組は細大漏らさず全て無料ダウンロードできるようにするべきだ。それも1920*1020の大画面から360まで各種取りそろえ、解説やエピソードも満載にするサイトを作って、ガンガン無料ダウンロードして貰う。もの凄い人気サイトになるはずです。アクセス数が一定に達したら、その画面の広告価値はすごいものになります。こっちの新聞サイトでやってるように、記事を読もうと思ったらとりあえず15秒くらいのCMが流れるようにして、そのCM料金を徴収してもいい。もともとが広告収入方式で成り立ってるTV局が、なんでそうしないのか、僕は真剣に不思議なんです。
大体ネットによる著作権がどーのとかいう以前に、その昔はネットは無かったけど無料のFM放送を皆聴いていた。僕なんか大学に入るまでプレーヤー(CDはまだでてなかった)が家になかったので、ラジカセにかじりついてFMをエアチェック(録音)するしかなかった。それか友達にダビングして貰うか。思春期の頃には死ぬほど音楽を聴きまくったけど、考えてみればカセットは山ほど買ったけど、レコード業界には一銭も払ってないのだ。TV番組だって、ネット以前は皆してビデオで留守録してたわけだし、CMは早送りだし、それを貸し借りしてたわけです。
今はネットの違法配信とかいかにも悪いことのように言われているけど、それに類することは形を変えて昔から行われていたのだ。ネットが出てきたからといって本質的に何が違うのか?また、そういう著作権無視のような状態が長いこと続いたからこそ音楽を深く聞き込むようになったり、興味のなかった俳優さんが好きになったりというプラス効果も巨大にあったのだ。実際、アメリカの報告では著作権を保護する経済利益よりも、フェアユース(平たくいえば多少の著作権侵害には目をつぶること)の方が2倍近くの経済効果があるという報告もある(元ネタは
ここ)。
もひとつ著作権フリーでいえば、死後30年とか50年たてば著作権は消滅するし、今でも消滅してしまった著作権フリーのものを売ったりしてるわけなんだから(古典文学とか)、著作権が保護されなければビジネスは破綻するというものでもない。
クリエーターについて
続いてクリエーターサイドについて言います。特にミュージシャンですが、彼らにはライブという強力の武器があります。というか、音楽なんかライブで聴かないと意味がないくらいに違います。最高の演奏をCDで聴くよりも、目の前でド下手な演奏をされた方が感動します。むしろ下手なくらいが感動する。どんなに録音再生技術が進化しようがオリジナルの原音には勝てない。ありふれたピアノでも、目の前で弾かれたら「すげえ」って思うもん。魂奪われる。それだけの力が「音」にはある。だから音楽やってるんでしょ。僕も自分でバンドやって音出してたから分かるけど、自分でやるのは全然違う。ロックでいえばベースやドラムの存在意義が身体で分かる。てかボーカルなんか聞こえないもんね(^_^)。優秀なグルメ番組を見るのと、実際に食べるくらい違いがある。
音楽の原点はそこであり、彼らはその音を出すことが出来る。結局、レコードが無かった昔のような原点に回帰していくのだと思います。商業音楽業界がしょぼくなったら、これまでのような東京ドームみたいなショー的なライブはできないかもしれないけど、ライブハウスのような音楽だって十分でしょう。それにクラシックのような世界では、CD/レコードの売り上げ収入なんか微々たるものだし、それを何十人もいる団員に配布してたら本当に些少。それでも続いているのだ。世界最高の格式とプライドを崩さずにやっていけるのは、それを支える優秀なリスナーが聴きに来るからでしょう。
だから思うのですが、ドカンと売れて印税ウハウハという現象は、音楽世界(”業界”ではない)全体でみたら、ごくごく一部のものにすぎない。音楽=著作権みたいな認識は、既存の業界の人には真実かもしれないけど、本来の音楽世界や人類と音楽の歩みにおいては、全然真実ではないのだ。
また、技術の進歩はミュージシャンに福音をももたらしてます。なんせ録音が画期的に簡単になったのだ。20年以上の前にプロトゥールズでHDレコーディングが出来るようになってから日進月歩に楽になってる。流通においても、とにかくレコード会社にスカウトされ、不利な契約を押しつけられ、バンドの仲間は勝手にクビにされ、やりたくもない曲を歌わされ、デパートの屋上で晒しものになるという苦労をしなくても、自分のサイトで無料で聞いて貰ったり、販売したりすることは可能になったのだ。いい時代になったもんじゃないですか。
まとめ〜貧乏貴族のやり方と世界海賊党
すごーく長くなってごめんなさい。無理矢理まとめます。
今もそうだが、これからも日本をはじめ先進国はどんどんしょぼくなるでしょう。相対的にビンボーになるでしょう。ただし、戦後のような貧乏とは違う。何が違う?いいものを知っている、豊かなものを知っているという違いです。
初代が興し、二代目が放蕩し、三代目が破産するのが世の常。「売り家と唐様で書く三代目」という川柳があるが、貧乏はしてても教養はあるし趣味は高い。いわば貧乏貴族のようなものです。「ぼろは着てても心は錦」ってやつで、胸を張ってビンボーになろうぜ。メインディッシュは290円のノリ弁当にするけど、デザートには神戸のケーニヒスクローネのケーキにこだわる。
それと著作権と何の関係があるの?といえば、最初に著作権ありきという発想ではなく、最初に僕らの幸せありきでしょう?と。僕らが、つまり人々がいかに豊かに深い生活が出来るかどうかをまず考え、その上で音楽や書籍などの著作物がどういう役割を果すか考え、その上で法的規制はどうするか?を考えるべきでしょう。それが貴族のやり方でしょうが。カネカネと貧乏臭いこと言ってんじゃないよ。これも大昔に書いたけど、「貧乏」と「貧乏臭い」のは全然違うぞ。
例えば、いまは著作物があふれかえってます。あまりにもありすぎて選べない。わけ分からん。埋もれていた40年前の音楽が良かったりするし、20年前のTV番組が実は良かったりする。でも出会えない。分からない。こういう時代は、とにかく手当たり次第に聴いたり見たりして、あるいは参考になる深い意見を聞いたりして進んでいかねばならない。そして、著作権による販売保護というシステムは、昔の「最初から買いたいモノが決まっている時代のシステム」だと思うわけですよ。国民皆が同じ歌謡曲を聴いて誰もが知っているという。今はもう全然分からん。それがゆえに結果的に皆が離れていくならば、とりあえず著作権もなにもなく無料でバラ撒くくらいでもいいと思うのだ。
完全フリーの治外法権にせよというつもりはないけど、やたらめったら規制規制でいくのは間違ってると思います。時代のニーズに合ってない。というか、時代に取り残されている既得権組織の意向に引きずられていたらこっちまで沈没してしまう。ダメ業界が勝手に沈没していくのは自業自得だけど、その巻き添えを食らって、豊かかるべき僕らの生活まで貧しく引きずり下ろされるのは迷惑です。
法的には、とりあえずは現行法のままでもいいとは思うが、少なくとも著作権法の公正な使用の範囲を解釈で広く認めること。自分のブログで好きなミュージシャンや作家の紹介をし、その場合に歌詞や曲をUPするのを自由に認めたらいい。また、喫茶店やダンススタジオなどで利用するのもフリーにしたらいい。人々がいい音楽や作品に出会える機会を最大限に認めたらいいのだ。試食みたいなものなんだから。それで気に入って買ってくれたらそれでいいじゃないか。
それでダウンロードされたら、、、とケチ臭いこと言わない。メガが潰されてもこの手のサイトは絶対無くならない。それこそ雨後のタケノコのように幾らでも湧いてでる。ニーズがあるからです。クラウドが一般化したらもっとそうなる。クラウド自体がストリージシステムに化ける可能性があるからであり、だからこそ日本の業界は反対しているのでしょう。でも、日本だけが反対しても世界が動く。そして世界のどこの国が、仮に最強アメリカが動いて、躍起になって取り締まっても、国家を超える”社会”が徐々に形作られている今日、どこまで従来の方法が通用するか、です。
最後に世界海賊党を紹介します。P2Pファイルシェア規制やブートレッグ規制に反対する政党。本当にあるのだ、そんな組織が。詳しくは
Wiki参照。といっても日本語Wikiはそんなに詳しくないけど。既に欧州では、ドイツ、スウェーデン、スイスで議員も出しています。
ということで、直ちに何がどうなるものでもないけど、少しづつ世界は新しい局面に進んでいって、非常に面白いのです。でも、日本はなんか真逆な方向にいってて、最新のところでは自炊代行サービスすらダメとか、、なんか、もう日本国内のことを見てると気持ちがワクワクしないよな。なんか暗い気分になるよな。だんだん興味もなくなってくるというか、世界の方が全然面白いですよ。だけど日本だってしっかり世界の一部分なんだけど。
文責:田村