「アフターダーク」における「生きるための燃料」
「私はね、よく昔のことを考えるの。こうして日本中逃げ回るようになってからは、とくにね。それでね、一生懸命思い出そうと努力していると、いろんな記憶がけっこうありありとよみがえってくるもんやねん。ずっと長いあいだ忘れていたことが、なんかの拍子にぱっと思い出せたりするわけ。それはね、なかなか面白いんよ。人間の記憶ゆうのはほんまにけったいなもので、役にも立たんような、しょうもないことを、引き出しにいっぱい詰め込んでいるものなのよ。現実的に必要な大事なことはかたっぱしから忘れていくのにね」
コウロギはテレビのリモコンをまだ手に持ったまま、そこに立っている。
彼女は言う、「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えているわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たないような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」
コオロギはひとりで肯く。そして話を続ける。
「それでね、もしそういう燃料が私になかったらとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。どっかしみったれたところで、膝を抱えてのたれ死にしてたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼちと引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生き続けていけるんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ」
マリは椅子に座ったまま、コオロギの顔を見上げている。
「そやから、マリちゃんもがんばって、頭ひねって、いろんなことを思い出しなさい。お姉さんのことを。それがきっと大事な燃料になるから。あんた自身にとっても、それから多分お姉さんにとっても」
(村上春樹 「アフターダーク」)
村上春樹の「アフターダーク」は2004年刊行後ほどなく読んでいました。先日、気まぐれにまた読み返していたのですが、、上のくだりにさしかかったところで、「そう!」と思ってしまいました。最初に読んだときには読み流していたのですが、今読んだらガツン!とくる。今回の再読では、このくだりが一番ガツンと来ました。「おお、これはエッセイで書かねば!」とか思って、、、、で、忘れてました(^_^)。さきほど、「おお、そういえば」と思い出したりして。
ところで、僕は
「記憶と死」(Essay378)というエッセイを書きました。「アフターダーク」読んでから4年後の2008年のことです。そこでは年を取った方が昔の記憶がむしろ鮮明になってくるという不思議な現象を書き、死に向う人生の後半戦、あるいは「老後」において本当に何が一番大事な宝物・資産になるかといえば、それは多分記憶なんじゃなかろか、ということを書きました。そのときは、この小説のことなどキレイさっぱり忘れていたのですが(無意識ではつながってたのかもしれないが)、こうして一回自分で記憶の不思議さと大切さを考えてから、今またこの作品を読み直すと、今度は思いっきりガツンと来たわけです。「あ、似たようなこと言ってる!」と。
しかし、このコオロギという変な仇名のお姉さんの言ってることは、真理だと思います。
「似たようなこと」と言いましたが、エッセイで書いたことよりも一歩も二歩も進んでます。僕が思ったのは、もっぱら老境における話だし、記憶をただの鑑賞物として捉えていたのですが、ここでは人生のあらゆる時点に適合し、且つ単なる鑑賞ではなく「燃料」というより主体的な役割を担わせています。
記憶のループ上映会
記憶にそこまで凄いパワーがあるのか?折れそうな心をつなぎ止め、死にたくなるような逆境を乗り越える力があるのか?といえば、確かにそうかもしれないな、とは思います。
目の前の現実があまりにもしんどく、考えているだけで気が狂いそうなとき。或いはそこまでハードではなくても、なにげにイヤ〜な気分に落ち込むとき、過去の記憶の世界に入り込み、お風呂に浸かるようにひたることはあります。一種の空想や、現実逃避なのでしょうが、ふと気がつくと昔のことを考えていたりします。それでいきなり元気百倍!とか救われ
た!ってことはないのですが、現実のハードさを「やり過ごす」ことは出来るような気がします。確かに何らかの「力」はありそうです。
その「力」とは何か?
----と書いたものの、これは難しい。なかなか考える切り込み口が見つからない。そこでちょっと迂回します。ドンピシャではないのだけど、「そういえば」ということでニアリーな経験を書きます。
別にしんどい局面ではないのですが、同じ作業をしているときに、ずっと同じ記憶のワンシーンが頭にこびりつくことがあります。例えば、このエッセイですが、一本書くのに1〜2日、時間にして断続的に十数時間はやってると思いますが、その間、どういうわけだか過去の記憶の風景がエンドレスで再生されることがあります。常にというわけではないですが、時々そういうことがある。
そのシーンは、例えば30年以上の高校時代、昼休みや部活の帰りによく立ち寄っていた近所のパン屋さんだったりします。そこでボリューム満点のコロッケパンや焼きそばパンを買ってたわけですが、通りに面しているパン屋さんの佇まい、なぜか記憶のなかではいつも晴れているのですが、オーニング(日よけのひさし)がクッキリと影を落としている映像が脳内のスクリーンに再生されます。あるいは小学校時代、学校の帰りに近所の空き地で野球をやってた頃の光景。夕焼けの黄金色のなか逆光シルエットになっている情景とか。あるいは最初にシドニーに来た頃、フィッシュマーケットで山ほど買い出しをしてしまい、腕が抜けそうに重い思いをしてブリッジロードを通りながら、当時の住んでいたグリーブのフラットに帰る道の光景(なぜかこれも晴れている)。日本で仕事してたときに事務所でコピー取ってる風景なんてのもあります。事務所近くの、梅田新道の交差点を入ったお初天神の路上が上映されるときもあります。
いずれも「だからどうした?」という取るに足らない日常の記憶です。でも、それがエッセイを書き終えるまで、終始一貫というわけではないけど、気がつくとまた同じ風景を考えるという感じで、エンドレスで再放映される。丁度、なんかの拍子でどっかで聞いた曲のメロディーが耳にこびりついてしまうときがありますが、それの映像版です。
これは僕だけのことなのかどうか分かりません。他人に確認したことはないので。また、最近だけの傾向ではなく、昔からそうです。大体、忙しげになんかやってる時ではなく、ものを書いたり、単純作業をやってるときにそうなります。深夜の事務所で準備書面を書いてるときとか、本屋の倉庫のバイトで朝から晩まで返本を仕分けをしているときとか。今の自宅の芝刈りをしているときとか。基本的に単調な仕事をしているときになりやすい。
面白いのは、必死になって一夜漬の勉強をしているときとか、どうかすると試験を受けている最中ですら、そういう現象は起きることです。頭を120%フル稼働させ、余計なことなんか考えている余裕はない筈なんだけど、なぜかBGMのように過去の記憶シーンが頭のどっかで鳴っているという。あれはなんなんでしょうね?あなたにはそういうことがないですか?
そして、生きるか死ぬかのようなハードな局面や、非常にしんどい情況においても、同じ現象が生じるのかもしれない、と推測します。
僕には、文字通り生きるか死ぬかという極限体験=遭難や事故など=はありません。しかし、過去の仕事柄、下手すれば刺されて死ぬかもという局面はありましたし、大試験の最終局面などは文句なく人生かかってました。胃が裏返しになりそうなストレスだったら幾らでも経験はあります。体調が激悪でのたうちまわるときもある。そういうときも、全く関係ない過去の記憶の断片が頭の片隅で鳴ることがあります。常にというわけではないけど、そういう場合もある。
乗っていた船が難破して、暗い海を板きれにしがみついて長時間救助を待っているとき、あるいは冬山で遭難して雪洞でじっと救助を待ってるとき、その人の頭の中には何が映っているのか?といえば、やっぱり過去の記憶なんじゃないかと思うのですね。もしかして、死の床について昏睡状態になっている人の頭の中も同じかもしれない。
それは上映時間数秒の短い記憶のリフレインの場合もあろうし、もうちょっと尺の長いストーリー性のある記憶の場合もあるだろうけど、幾つか共通点があるように思います。
一つは、脈絡の無さです。
「なんでそんなこと思い出すの?」というくらい、現状の局面とはまったく無関係な出来事を思い出す。「そういえば過去にも似たようなことがあったな」「こんなことなら○○しておけば良かった」とか、そういった論理的な飛び石がない。もちろんそういうことを思うときもあるでしょうけど、それはまだ「考えている」のであって、ここで述べている「いつの間にか記憶のループ上映会が始まっている」というのとはちょっと違う。上映会の作品選定は、自分にも全くわからない。そして、コオロギ姉さんが言うように、その記憶が「重要」であるかどうかは全く関係ない。取るに足らない、些細な記憶でも全然構わない、というか、取るに足らない記憶こそが好んで上映される。
二つ目は、静的・持続的な局面で生じることです。内省的になるときといってもいい。
友達と飲み会でどんちゃん騒ぎをしているときは、こんな現象は起きない。目の前に次々に新しい展開が起きて、それに心を奪われていたり、集中しなきゃいけないときにはこうはならない。逆に、典型的なのは「海に漂流」パターンで、しんどい情況をじっと持ちこたえなければならない場合です。耐久的な局面です。不安に苛まれながらも、じっと待っていなければならない場合。あるいは病気のように苦痛に苛まれながらもひたすら忍の一字で堪え忍ぶ場合。静的・持続的な場合です。
ただし、必ずしも身体的に静止している必要はないです。動いていてもいい。単純作業などの場合が典型ですが、単純作業ではなくても、こういう書き物をしている場合や、試験を受けているとき、あるいは車を運転しているときに生じる。そして、それ以上にハードに変化する場合、頭も身体もかなり激しく酷使する場合にも生じる。経験はないけど昔の侍がチャンバラやるときもそうだったんじゃなかろか。なぜなら、近似的な経験として、僕が柔道の試合に出ているときとか、バンドのステージに上がっているときもそうなったりしましたから。これらは単純作業と違って、相当に精神を集中し、瞬時に的確に身体を動かさねばならないのですが、そういうときにもなる。
これらは一見バラバラのようですが共通項があります。「内省的になるとき」です。静止や単純作業をすると外界からの刺激の乏しさから自然と内省的になりますが、強く意識と精神を集中しなければならないときも内省的になります。逆にパーティなどで盛り上がっていて、色々な人から声をかけられ、意識があっちこっちにとっ散らかってる時には上映会は起きません。
なんというのか、意識を一点にキューッと集中し、何かに没頭していると、意識野にスキマが出来て、そのスキマを埋めるように演し物が催されるような感じ。人間の意識のひろがりを例えば体育館だとすると、生徒が中央に集まってしまったので、体育館の四隅がガラガラになり、その空いてるスペースで上映会をやっているという感じ。球場に試合を見に行って、クライマックスで手に汗握ってグランドを注視しているのだけど、スタンドでは「コーラ、いかがっすか」という声が聞こえて、聞くともなく聞いている感じ。あるいは、真剣に生きるか死ぬかの別れ話を喫茶店でやっているのだけど、窓の外でちり紙交換の声が聞こえていて、これも聞くともなく聞いている感じ。
そして、その「上映会」は邪魔なことなのか、余計なことを思って注意力が散漫になるのかというと、意外とそうでもない。かなり微妙な区別ですが、「考えている」ときは集中力が削がれます。過去の回想にひたっていて、クルマの運転を誤るということはあるのでしょうが、しかし、それは「考えている」ときです。上映会ではない。上映会の場合は、考えてないです。なにしろ上映される映像に殆ど意味がないですから。無関係、無内容な、なんでこんなことが頭に浮かぶのかさっぱり見当もつかないけど、最後までいって針を上げないレコードのように、ゴトン、ゴトンと同じシーンがループ再生される。しかし頭の片隅でそうなってるだけで、とりたててそのことについて考えるわけでもない。
リズムによるトランスと自動演奏
さて、では、なぜ、そうなるか?です。
素朴に疑問です。なんで上映会現象が生じるのか。
といって、結局正解なんかないと思うのですが、幾つかの仮説は思いつきます。
一つは、繰り返しのトランス効果によるリズム感と集中力です。
人間の活動にはリズムが必要だと言いますよね。ジョギングしているときも、自分のペースとリズムを守るのが大事だと。速くなったり、遅くなったり不規則だとすぐに疲れてしまう。しかし、リズムをキープしていると結構なことも淡々とこなせてしまう。つまりは消耗度、疲労度が少ないということで、同じ生体資源を持ちつつも、リズムをキープした方がより有効に身体・精神を稼働させることが出来る。言うならば燃費が良い。
同じリフの繰り返しが延々続くクラブミュージックなどの場合、だんだん頭はトランス状態になります。古代のダンスもそうだったでしょうし、魔法の呪文やマントラや経文なども同じ事の繰り返しが多い。これはリズムキープと同じ原理だと思うのですが、同じ事を繰り返していると、人間の身体というのは一種の自動演奏のようになり、省力化を図るのだと思います。その昔「10回クイズ」というのが流行りましたよね。「ピザ」と十回言わせたあとに、膝を指さして「ここは?」と聞くと、「ヒザ」とは言えずに、つい「ピザ」と言ってしまうという。これも自動演奏システム現象の傍証だと思います。
この自動演奏状態が精神に及ぶと、あんまり他のことを考えず一つのことに集中出来るようになる、という効果になるのでしょう。雑念や邪念を消す効果がある。それに「繰り返し」は生理的に気持ちいいですからね。
記憶の上映会、あるいはメロディこびりつきの無限ループは、コレなんじゃないかと思います。なにかを頑張ってやらねばならないとき、一定期間精神を集中したり、耐えなきゃいけないとき、頭の片隅でメトロノームのように同じリズムの繰り返しをすることによって、しのぐという。これはロードワークやレガッタなどの練習で、伴走するコーチがピッピと笛を吹いてリズムを刻むのと同じ効果をもたらすのではないかと。
そういえば中学生の時に読んだ多湖輝著「ホイホイ勉強術」でも、適度なBGMは人間の集中力を増大させるとありました。クラシックがいいそうです。あまりに単調なリズムだと眠くなり(お経とか電車の音とか)、逆にビートが強いと集中力が乱れる。適当に単調ではなく、適当に複雑なのがいいそうです。全くの無音だと、人は却って集中出来なくなると。わかるような気がします。
多分、人間が長時間意識を集中させることは不可能なのだと思います。100%集中できるのは、ほんの数秒間くらいなのかもしれません。柔道でも技をかけたり、かけられたりという刹那のコンマ数秒にはマックスに集中しますが、それ以外は試合中でもマックスにはいかない。だから、ある程度継続的に集中しようと思ったら、せいぜい意識の90%くらいしか集中させられず、残り10%は遊んでしまう。これをほっておくと他のことを考えたりして集中が乱れるので、適当になんかタスクを与えて静かにさせておく。それがBGMクラシックであり、記憶の上映会なのかもしれません。余剰意識を上映会の方に集めておいて、他に散らないようにまとめておくという。
身体状態のセッティングの復元
第二の仮説は、身体活動の処方箋・レシピー説です。
なーんの根拠もないんですけど、もしかして僕らの過去の記憶というのは、単に出来事の記憶だけではなく、それを体験したときの身体のセッティングまで記憶しているのかもしれない。何を言ってるかというと、脈拍とか、血圧とか、ホルモン分泌とか、副交感神経系とか、脳内快楽物質とか、、、そういった身体の状態の記憶、言わばセッティングが保存されていて、その記憶を思い出すと、そのセッティングのとおりの体調が再現される----と言ってしまうとちょっと違うな。ある記憶を引き金にしてある特定の体調になる、Aという記憶を再現すると、Aダッシュという身体情況になる。
例えば、よく聞く話ですが、梅干しのことを考えると口中に唾が溜まりますよね?脳内で何かを考える、何かの意識や記憶は、それとつながっている身体セッティング=梅干しの場合には唾液の分泌量の増大=が引き起こす。なぜ唾液が出るかといえば、酸っぱい味を想像して、また直近未来にやらねばならない消化活動の準備を身体がやり始めたということですよね。でもって、唾液は分かりやすいのですが、しかし「消化の準備」は唾液には限りませんよね。おそらく唾液が出ると言うことは、消化に備えて胃の中の状態(胃液の分泌とかPH濃度とか)も微妙に変化しているかもしれないし、アクティブな交感神経系よりも生命維持の副交感神経系が若干強めになるとか、アドレナリンの分泌を抑えるとか、そういうことも起きているのではないかと思われます。
だとしたら、Aという記憶を再生していると、Aの関連する体調セッティングが自動的に立ち上がっていっても不思議ではないのではないか。もちろん、バリバリにそうなるわけではなく、せいぜいが梅干し=唾液程度のことなんだろうけど、多少なりとも精神や体調を好ましく安定させる方向に働くような気がします。そこにおける記憶とは、こういう具合に体調をもっていけというレシピーを記載した処方箋みたいな存在になる。
傍証にもなるかどうか分からないけど、上映会で再生される記憶というのは、どってことない記憶が多いのですが、それだけにごく平常時の身体状態の記憶が多い。買物しているとか、道を歩いているという、ありふれた日常の場面であり、そんなに精神が激しく乱れる驚愕とか悲嘆の記憶ではない。精神が激しく揺れている記憶の場合は、逆に記憶に引っ張られて精神も乱れます。ムチャクチャ腹が立ったときの記憶が甦ると、「ああ、思い出しても腹が立つ!」と心は波立ってきますし、おそらくはアドレナリンも分泌されているでしょう。また悲しい記憶を再生すれば涙腺はゆるむ。
ということは、どってことのない日常のヒトコマの記憶を無限ループで再生させていれば、精神や体調は平常状態へ向うのではないでしょうか?暗い海で一人で漂っているとき、死の恐怖にかられて無闇にジタバタ身体や精神を動かせば、それだけ体力気力を激しく消耗し、かえって生存確率は減る。できれば適度にリラックスして、体力の消耗を避けた方が好ましい。しかし、生きるか死ぬかの時にリラックスしろというのは無理難題です。そこで、平常時のどってことない記憶を再生することで、出来るだけその心身の動揺を抑えるのではないか。
また、単純作業や、精神を集中しなければならないときも、出来るだけ心と身体を穏やかにして円滑に作業が出来るようにした方がいいです。よく勝負事などでは「平常心」が大事だと言います。情況は異常なんだけど、そこで心まで異常にしてしまったら、身体や精神は速やかに動かない。死を目の前にしつつも、脈拍も呼吸はあくまで正常に、心はゆったり落ち着いているのが最上とされます。剣の極意ですよね。神速の剣は、あくまで脱力したリラックスした状態から生じる。「肩に力が入ってたらダメだ」というのは、どんなスポーツでも、また仕事においても言われます。だとすれば、平常心を保つには、平常時の記憶を再生してやれば良い、と。その効用があるから、自然と身体と脳はそれをやっているのではないかという仮説です。
いやあ、まあ、かなり眉唾なんですけどね。でも、なんかそれに近いような原理はあるような気がします。
でも、実際問題、「癒し」ってコレでしょう?心が波立ったり、身体がしんどいときに、気持ちいい音楽や映像を流すことで、落ち着いてリラックスした精神や体調をもたらそうということですよね。癒しグッズは、観葉植物やCDなどの外在的なギアでやりますけど、記憶上映会は自前の記憶でそれをやっているのではないでしょうか。
生きていくための燃料
しかし、上の二つだけではコオロギ姐さんの教えにはまだ遠いです。コオロギさんはもっと深いことを言ってます。また「頭の片隅で無限ループ」のような再生のされ方ではなく、かなり意識的に思い出して、その記憶内容をしっかり味わっています。上記の「迂回」考察を経て、いよいよ本題にアプローチしていきましょう。
さて、確かに、過去の素晴らしい記憶を再現して、良い気持ちになったり、元気になることはあります。「そうだよな、あの時だってしんどかったよな、でも出来たよな」とか励ましにも使ったり。しかし、そうなると記憶の内容の良し悪しが意味をもってきます。つまり「良い記憶」でないと意味がない。でも、コオロギさんは記憶の内容なんか全く関係ない、火にくべる燃料なのだから内容は問題外だと言ってます。
ふむ、これはどういう意味だろう?全く内容を問わず、どんな記憶でもいいのだけど、過去の自分を思い出すことで救われるというのはどういうことか?いうと、多分こういう意味だと思うのです。
微妙に処方箋効果に近いのですが、過去の自分を思い出すことによって、
生きていく平衡感覚のようなものが甦るのではないか。「もうあかん、もう死ぬしかない」みたいなときって、かなり平衡感覚が崩れています。激しく精神が動揺しているときの表現として「呼吸の仕方も忘れる」というのがありますが、身体の動かし方から、心の持ち方から、どうやって生きていけばいいのかすら分からなくなる。あるいはぎこちなくなる。そんなヘロヘロなときに、過去の自分、内容はともかくごく普通に平衡を保っている自分を思い出すことで、
「身体と心の動かし方を思い出す」という機能があるのではないか。
あるいは精神的にヤバいときって、かなり視野狭窄になってるし、自分が自分であることもよく分からなくなっている。そんなときに過去の平常だった自分を思い出すことで、アイデンティティを再構築する、「ああ、自分ってこうだったよな」と思い出すことが出来る。また、現在の地獄的な情況は、長い年月で言えばほんの一過性のモノに過ぎないという広い視野も獲得できる。だから心が落ち着く。大丈夫、自分はまだ自分のままだ、今はしんどいけど今だけだ、こんなの本来の姿なんかじゃないと思えるという。
なんというのか、過去の自分が、今のヘタレの自分を支える「つっかえ棒」みたいになるということです。
記憶にある「滋養」
ただ、上に述べたような「こましゃくれた」機能論だけではなく、記憶には、なんかもっと根源的な意味があるような気がします。なんだか分からないのだけど、記憶には人を生かしていく「滋養」のようなものがある。
「なんか分かんないけど」なんて言ってしまったら、この立論は意味がなくなっちゃうし(^_^)、また意味を突き詰めれば結局上と同じ事であり、同じ事をざくっと文学的に言ってるだけなんかもしれないけど。でも、「なんか」あるぞ。コオロギさんは「燃料」と表現したけど、僕の感覚では「滋養」といった方が近しい気がする。「燃料」という燃焼や爆発など動的ダイナミズムを伴う感じではなく、もっと身体の細胞に染みわたっていくような静かな作用のような。ま、「生きるイメージ」の個人差だけの問題なのかもしれないけど。
ところで、内容に意味がある記憶も沢山あります。というか記憶というのは本来そうしたものだろうけど。何らかの体験をすることで視野が広がり、物事の意味がより正確に分かり、世界が豊かに色づいていく。その過程で中核的な役割を果すのは記憶であり、ある記憶が原風景になったり、価値観の源泉になったりするし、あるいはトラウマになったりもする。
その意味で良い体験をし、良い記憶を得ることは、生きるために必須の課程であり、それは生きることと殆ど同義であるとも言える。呼吸や心肺活動が、ある意味では生きることと同義であるように、より良質の記憶を得るいくことは、生きることと同義なのでしょう。泣いたり、笑ったりという感動が人生をイキイキと形作っていくとすれば、それらの感動体験は記憶という煉瓦になり、一つづつ積上げられ、やがて人生というその人だけの宮殿を造りあげていく。
しかし、せっかく持っている宝石のような記憶の煉瓦も、時として忘れてしまう。むしろ忘れている場合の方が多いかもしれない。今ブチ当ってる人生の難局を解決するヒントになるような記憶、ヒントどころか解答そのものであるような記憶を、本当は持っているクセにすぐに忘れてしまう。「アフターダーク」という小説では、主人公がそれを探し当てる感動的なシーンが描写されています。
ちょっと前にも書いたことがあるけど、僕らは全ての「答」をもう知ってるのだと思います。ただ忘れているだけ。極論を言ってしまえば、無心に遊んでいた幼児の頃の記憶だけで、人生の殆どはどうにかできると僕は思う。これも何度も書いているけど、オーストラリアにやってきて子供の頃の記憶が沢山よみがえってきた。「ああ、この感じ、忘れてた」「なんでこんな大切なこと忘れてたんだろう?」と何度思ったことか。
しかし、そういった「意味性のある記憶」だけではなく、普通にコンビニで買物をしている記憶のように、どってことない、意味性のないような記憶でも、それでも意味はあるのでしょう。「意味性」はないけど「意味」はある。それは燃料として、あるいは滋養として。
なぜなら記憶というものは、すべて「自分の記憶」だからです。
それが記憶として残っている以上、それを記憶した主体(すなわち自分)の関与は絶対にどこかにある。内容的に他人の体験であろうとも、無味乾燥な数式や英単語であろうとも、それを聞いたり、見たり、感じたり、そして覚えた主体はまさに他ならぬ自分自身であり、記憶というのは過去の自分が生きていた証拠のようなものなのでしょう。
記憶を甦らせ、再生することは、過去の自分を再生することでもあり、過去の自分の「生命パワー」を食べるようなものなのでしょう。だとするならば、それが何らかの燃料性や滋養を含んでいない筈はない。
結局のところ、月並みな結論なんかもしれないけど、やっぱ「生きている」ということはとんでもなく凄いことなのでしょうね。単にボケッとしてるだけでも、生きるということ自体に否定しがたい「力」が宿っている。だからこそ、それを思い出すことは、未来の自分を生かすエネルギー源にもなりうる、ということでしょう。そして、だからこそ記憶の内容は問わない、どんな些細な、どんなしょーもない内容の記憶であっても構わない。
そこからもう半歩足を踏み出せば、例えば今現在、ぱっとしない生を送っていようが、かなりダメダメな日々であろうが、そんなこととは関係なく、それにはやはり意味がある。意味性はないかもしれないけど、意味はある。「はあ〜」とため息をつき、途方に暮れて見上げた夕焼け空。その記憶が、20年後の自分を支え、救うことになるのだから。
→※実は次週もこの続きを思いついて書いちゃいました。まだ読む気力のある人は
こちらへ。
文責:田村