今週の1枚(02.05.20)
ESSAY/ICACとサラサラ社会
前回の続きです。
前回、最近シドニーでちょっと新聞ネタになっていた建築許可(development applications)に関わる政治家の汚職について書きました。分譲マンション/住宅を造成・建築するための許認可について、政治家がいわゆる「口きき」をして建築を承認させていたということが問題になっていたわけです。
この件に関して次のように3つの感想を抱きまして、
@オーストラリアでも似たような汚職はあるのね。でもってイチイチ大騒ぎになるのね
AICACという独立官庁がこの汚職を摘発したのですが、やるじゃん、ということ
Bシドニーの不動産開発はもういい加減にしてくれないか
@Bは既に前回書きましたので、今回は「ほお」と思ったAについて書きます。
ICAC(The Independent Commission Against Corruption )という組織があります。
この官庁名はなんと訳したらいいのでしょうか。直訳すれば「対汚職独立委員会」とでも言うのでしょうか。これでは日本語としてイマイチ馴染まないので、日本風にすると「腐敗防止独立委員会」「汚職撲滅特別対策委員会」とでも言えばいいのでしょうか。
オーストラリアの政府機関を見てますと、「こんな機関、日本にもあればいいのにな」「日本にもあるけど、お飾りじゃなくてちゃんと仕事してるじゃないか」と思うことがママあります。今回のICACも独自調査をやり、市会議員の汚職を暴いているわけですが、すごいのがその調査方法でして、ニュースを読みますと、汚職議員の電話の会話が証拠として載ってたりします。どうも盗聴録音したみたいですね。盗聴という捜査方法がどこまで許されるかは一つの問題ではありますが、いずれにせよハンパな調査ではなく、これはもう「調査」というよりも「捜査」といっていいでしょう。
ここにICACのサイトがあります(さっきアクセスしたらしっかりサーバーエラーでした。まーた”土日にサーバーがコケたら月曜の朝までコケっぱなし”という例のオーストラリアパターンかもしれませんな。ったく。ダメだったらまた時間を置いてアクセスしてみましょう)。このなかの、”Independence and accountability”という項目(ここ)に書かれてますが、この機関は議会直属であり、時の政府や官僚に従う義務はない独立委員会であると。さらに読み進むと、"Under the ICAC Act and other legislation, the ICAC is given extensive powers, which in most cases exceed those given to the police, to perform its investigative functions." ” ICAC officers can, with specific written authority, enter premises and inspect and copy documents. Warrants may be obtained to search properties, use listening devices and intercept telephone calls.”ということで、時としては警察をも上回る捜査権を与えられ、その方法は捜索差押に留まらず、電話盗聴にまで及ぶとハッキリ明記されてます。
つまり「汚職を無くしてきれいな社会を」というパンフレットを配ってるだけの毒にも薬にもならない気休め的な組織ではなく、高度にプロフェッショナルな捜査技術と、それを行うだけの法的権限(警察権力)を委ねられた、ちゃんと「牙」も持っている組織なんだということです。実際、「必要があれば盗聴も可」という権限を与えられても、盗聴なんかいざマジにやろうと思ったら、しかもアパートの隣室のおねーさんのエッチな会話を盗聴するのではなく、現職バリバリ市会議員の私用電話を盗聴しようと思ったら、そうそう素人に出来るものではないでしょう。またその会話("fxxking" を連発するもろにナマナマしい会話)をメディアに公開しちゃうところも凄いけど。
ちなみに盗聴は当然のことなが捜査令状が必要です。"Telecommunications Act 1977"という法律によって、犯罪捜査機関が電話盗聴をすることを認められているようです。盗聴は、いわゆるワイヤータッピングという「盗み聴き」だけではなく、今回の事件で報道されているように、携帯電話のSIMからSMSを取り出すという方法もあります。SIMとは、Subscriber Identity Moduleの略で、 こちらの携帯電話の中に埋め込まれるユーザー識別のチップですね。SMSはショートメッセージサービスで、文字メールです。こっちではiモードなんかないので、非常に短文のものしか出来ませんけど。
ちなみに、SIMは簡単に手で外せますから、自分の携帯電話からSIMチップを外して別の携帯電話機に入れたら、それがあなたの携帯電話になります。メモリーしてある住所録やセッティングも全部移行します。僕は、今の日本の携帯事情についてよう知らんのですが、日本のはそうなってないのかしら。チップが簡単に移動できるから、いくらでも本体だけ買い換えられるし、だから本体だけ質屋で売ってます。また、自分の携帯のバッテリーがあがったりして、しかも重要な電話が掛かってくることが予想されるときなんか、友達の携帯を「ちょっと貸して」と拝借してチップを交換すれば、かかってきた電話を受けることができます。このSIMにメッセージサービスの文章も記憶されてますから、時間差で”盗聴”出来てしまうわけです。というわけで、今回の事件でも、"I am so F***ing angry with you! you are so sly & depulicitous! You cant be trusted!" なんて メッセージも公開されちゃうわけです。ところで、"duplicitous"(二枚舌)なんて面倒くさい単語、よく携帯で入力するよなあ。
以上のようにICACは強力は捜査権限をもってますが、それだけに強力なアカウンタビリティ(説明義務)も厳格に定められています。独立性を獲得するためには、それだけ透明で強い説明義務を負うわけですね。例えば、議会直属として議会の監督を受けたり定時報告をするだけではなく、コミッショナー(長官)の任期は5年に限り再選は許されないこと、プライバシー法と情報公開法の適用を受けること、オンブズマンの検査を受けること、最高裁が紛争について管理することなどなど。
もっとも、だからといってACICが完全無欠な正義の味方であると過信するのは早すぎるでしょう。オーストラリアも日本と同じく比較的大きな政府系で、それだけに行政の非効率や事務遅滞はヒドイものがあります。いわゆる ”red tape”です(お役所で公文書を赤い紐で束ねていたことから、転じて官僚的な形式的で非効率な事務手続を意味する)。移民局にビザの申請したけど待てど暮らせど音沙汰が無く、完全に忘れられているなんて話はザラですし。ですので、ACICであろうが、お役所一般のドン臭さからは逃れられていないと思います。
オーストラリアと日本の政府機関のnatureというか、資質を比較していくと非常に面白いと思います。ちょっと研究したら、おそらく本一冊くらい軽く書けると思います。どなたか政治学や社会学やってる人で調べて本にしてくれませんか(^^*)。
なにがそんなに面白いのかというと、双方のお役所の構造的な欠点のタイプがまるで違うように思える点です。オーストラリアの場合は個々人(特に末端)があまりに無能だから事務がグチャグチャになって進まないというのが最も大きなガンだと思います。一方日本の場合はどこの職場にも生き字引のような人がいたり、親切な窓口の人がいたりしてて、末端の優秀さと熱意が事務の整合性を支えているのだけど、もっと大きく構造的に腐敗しているという。
一方オーストラリアの場合は申請をしても、担当者がド忘れしたまま放置したり、放置したまま辞めちゃったり、いい加減な嘘を教えたりすることは、まあ、かなりザラです。実践的には、"never trust "ってな感じです。しかし、賄賂を包むと急に仕事がはかどるとか、それとなく要求されるなんてことは無いです。そのあたりは世界的にみてもクリーンだとは思います。また、昨今の外務省問題のように、組織ぐるみで長年にわたって公金着服をしつづけてきて、現場では誰もそれが悪いことだという意識がなくなっているモラルハザードもそれほど顕著でないように見えます。ただしドン臭い、と。
日本の場合は、個々の業務はクリーンだと思いますし、世界的に見てもかなり優秀にこなしていると思います。それは誇ってもいいのでしょうが、大きなところで癒着が生じ、全体が大きく歪んでいるという問題があったりするわけですね。厚生省が血液製剤のエイズの危険性を知りながら、学会とか製薬会社とかの思惑に一緒にひきずられて見て見ぬふりをしてきたり、外務省がイチ議員に過ぎないムネオちゃんにいいように牛耳られたり。だいたい”族議員”なんて利権の象徴みたいなワケのわからん人種が棲息していたり。はたまた、組織内部の不正は身内を庇う意識からなかなか表沙汰にならないし、仮に表沙汰になっても、口裏あわせてトカゲの尻尾切りで対処しようというあたりとか。
もうひとつ、日本の場合のかなり本質的な欠点は、前々回の「早食い死亡事故」でも書きましたように、「気休め的」な施策が多すぎることです。権力乱用防止のためのお目付け役的な機関、自浄機関が一応は設置されているのだけど、多分にお飾り的であると。最高裁判所も違憲立法審査権があるんだけど、「自衛隊は違憲!」と中々言えない。「高度に政治的だから司法判断はひかえるべき」とかいう統治行為論とかで逃げる。議員定数不均衡も、違憲とはいうのだけど、じゃあ選挙は無効にするの?というと、しない。行政事件訴訟法の事情判決の法理だったかしら、「やっちゃったもんはしゃーないんじゃない」という法理を使って、ドンと踏み込まない。アメリカみたいに、議会でインタネット品位法案が可決されたと思ったら、即座に最高裁が違憲判決を出して葬ってしまうようなことはしない。
同じように、日本の公正取引委員会は「吠えない番犬」「吠えるけど噛まない番犬」として弱腰が言われます。これもアメリカの公取がマイクロソフトに喧嘩腰で臨んでいたのとはかなり違うと思います。オーストラリアでも、今月に入って、公取(ACCC)が、発電(変電)装置会社のヤミカルテルを告発したのをうけて、連邦裁判所はSchneider、WTCなどの各会社に億単位の罰金を課しました、また、各社社長個人にかなり高額の罰金(家が一軒買えるくらいの)を課してます。その1週間前には、石油会社のカルテル疑惑で一斉立ち入り調査をしてます。
ちなみにACCC(The Australian Competition and Consumer Commission )ですが、よう頑張ってると思います。サイトはhttp://www.accc.gov.au/about/fs-about.htmにありますが、このなかのメディアリリースを見ても、あちこちに戦線を展開しているのがわかります。もっとも、日本の公正取引委員会も頑張って仕事をしてると思います。このページをみると
最近の公正取引委員会の仕事がわかりますが、地味に頑張ってますよね。
ただ、比べてみると、オーストラリアの公取の方が「遠慮がない」というか、巨大企業、時には政府そのものに対して噛み付いています。オーストラリアは経済規模も小さく、すぐ巨大企業の独占になりがちなだけに、ACCC/公取も喧嘩三昧の日々を送らねばならないのでしょうが、それにしても、年がら年中、カンタス、オプタス、テレストラ、銀行連中相手に喧嘩してます。特にアンセットが潰れてカンタス独占になりそうなのでピリピリしてるみたいですし、今もケーブルテレビでオプタスとFOXTELがジョイントするのに待ったをかけてモメているようです。そういえばオリンピック前に完成した有料高速道路(Eastern Distributor)の入口の交通規制(一方通行とか)について、出来るやいなや「自然に走ってると高速道路に入らざるを得ないように仕向けている」と州政府を告発してましたな。たしか、あれで道路規制が変わったような気がします。
ちなみにACCCのメディアリリースのページは面白いですよ。「携帯電話の誇大広告について」とか、結構身近で騙されやすい部分についての注意喚起にも役立ちます。同じように、消費者保護でしたら、フェアトレーディングのサイトなんかも面白いです。http://www.dft.nsw.gov.au/にあります。
また、日本には警察内部の権力犯罪を審査する準起訴手続/付審判請求というのがありますが、関係者の努力に関わらず警察一家の庇い合いの壁に阻まれ、なかなか警察内部に踏み込んでいけない。とかく、お目付役/自浄装置がうまいこと働かず、なあなあになって結局何の役にもたってないというのは、日本に顕著な傾向だと思います。これは役人や政治家だけではなく、株式会社の監査役が何の役にも立ってないのと根は同じでしょう。
総じて言えば、オーストラリアなど西欧系の場合、末端現場が無能なんだけど、第三者機関や自浄装置が遠慮会釈なく、むしろ好戦的と言えるくらいチェックをカマしてくるの対して、日本の場合(アジア全般の傾向かもしれませんが)、末端現場か相対的に優秀なんだけど、第三者機関や自浄装置が馴れ合いで機能しにくくなっていたり、癒着して大きく歪んでしまう傾向があるように思います。
なぜか?それはもう戦後の日本人のメンタリティと、生き方そのものに関わってくるのだと思います。
究極的には、「流動性の少ない生き方」をしてるからだと思います。生まれ育ったところで一生暮らし、最初に入った職場で一生を過ごすという、そこまで極端でないにしても、「一生の間に、最低4回は転職し、4回は家を買い換える」という西欧流の流動志向性は少ない。彼らがサラサラどこでも流れていくのに対し、日本人はもっと生活経済的にもメンタル的にもスティッキー(ベタベタくっつきやすい)なんだと思います。流れていくことに抵抗感がある。そういえば、ホームレスの人を指して”浮浪”者というのも、波に浮いてプカプカ流れている生活スタイルに対する蔑視をどことなく感じさせますな。
もちろん西欧でも生まれたところに死ぬまで暮らし、同じ職場でずっと勤める人は沢山いますし、日本でもあちこち移転し転職してる人は沢山います。だから、ここで言ってるのは、メンタリティの本質とか、生きていくスタイルの中核にある理念型みたいなものですね。その理念型が違うんだろうな、と。
サラサラ流れていく連中、オーストラリア人も基本的にはそうですが、こういった連中は組織にくっつきませんから、組織へのロイヤリティも少ないです。詰まらんとなったら平気ですぐに辞職して、他の仕事を探します。また、年柄年中、下はアルバイトから上は社長に至るまで常に公募しています。自分が育て上げた企業でも、売り時となればさっさと売ってしまいます。だから、同じ官公庁、同じ会社でも、10年前と今とでは、上から下まで全員総取っ替えになっていても不思議ではありません。組織も会社も、それ自体は人格を持たないフレームワークに過ぎない。スポーツのグランドみたいなもので、ある日ある時、誰かがそのグランドを使って試合をし、また次の日には全然違うメンバーがやっているという。
こういうサラサラした土壌には、根の深い癒着の構造は生まれにくいです。そりゃそうすよね、一生懸命、飲ませて握らせていい思いさせてあげても、来月になったら、転職しちゃうかもしれないんですもんね。「今後とも、末永くおつきあいのほどを」と日本人は言いますが、そもそも「末永く」なんて現象が物理的に無い。
このことの帰結として、現場にはいつも半分素人みたいな連中がウロウロしていることになります。皆さん、すぐ辞めちゃうし、すぐ新しい人が入ってくるから、実務に精通してる人が少ない。結果として、前線現場のレベルは、日本人からみたらコンビニのバイトとか、パートのおばちゃんレベルになります。これはお役所の窓口であろうが、大銀行の窓口であろうが同じです。社内教育もそんなにやらず、配属されるや分厚いマニュアルを渡されて「これ読んでおいて」で終わりってケースが多いといいます。だからスーパーのレジと大差ないです。実務レベルはかなり落ちるでしょう。レジで思い出したけど、どっかのハードウエアの店のレジで、「これ幾ら?」と聞いたら、おねーちゃんがふてくされたように”I don't know"と答えたり。
同時に、働く側の感覚でいえば、職場の人間関係なんかそれほど重要な問題でもない。自分も含めて、どーせ皆さん辞めるんだしね。ですので、職場での飲み会なんてのも、日本に比べれば桁違いに少ない。家族意識も生じないし、職場ぐるみの不正とか、身内の庇いあいなんてのも起きにくい。
こういった環境は、日本人にとっては結構寂しい環境だと思います。日本の職場は、それが正社員になり、勤続年数が増えるに連れ、いろいろな人間的なドラマが展開される舞台であり、それが鬱陶しい反面、かけがえのない学びの場でもあり、人間的感動を与えてくれる場でもある。だからなにかというと、すぐ「親睦を深める」なんてフレーズが飛び交うわけですし、親睦を深めたなりの見返りもまたあるわけですよね。となると、どうしても職場や仕事に情が移って当然だと思いますし、それが裏目に出れば、庇いあいが生じ、職場ぐるみの不正が生まれ、さらに長くなると切っても切れない癒着の構造が発生してくる、と。
ですので、自浄装置が働かないのはある意味当たり前です。自分の身内を監視して、コソコソ調べて、チクるわけですからね。もとより自浄機関は、チクるのが仕事なんですけど、最初からそういう行為は日本人のメンタリティには馴染まない。だから、結局、なあななになってしまうという。
もっと突き詰めれば、”個人主義”ってことなんでしょうね。個人主義というのは、寂しいもんです。「結局、この世にはボクひとり、たったひとりぼっち。それが当たり前」というのを、心の奥の奥の方にインストールしてるわけですから。もう世界観から違う。ここの孤独感がバッチリとインストールされているからこそ、ソーシャル(社交)というものが大事にされ、家族というものが尊ばれ、配偶者を愛しつづけようとする。これは日本人のように当たり前にそうするというよりは、かなり意識的にそうしようとしているキライがあるように思います。努力して維持しようという意思的なものを感じます。70過ぎた老夫婦が、どこにいくにも二人で出かけ、手をつないで歩いているのを見ると、そこには日本人にはない、確固たる意思のようなものを感じます。ひとりぼっち”だからこそ”という。
この種の人々は、ほっておけば人と人とは結合しない。努力して手を握り合わない限り、サラサラバラバラ分離していってしまう。まるで砂のように。また、そこに「公」と「私」の峻別が自然と起こるのでしょう。「公」は「理」によって動き、「私」は「情」によって動くという、そのあたりの原理は比較的明快のように思います。
しかし、日本人は、まるでゴハン粒のように粘着性があります。人がいたらとりあえずくっつくという。親睦を図り、相互に上手くやっていこうとする。和をもって貴しとなし、全体を大きなオニギリのように構成していこうとする。その延長線上に、日本社会の同質的な曖昧さがあるのだと思います。エッジがなく、公私の境界もあいまいで、社会のどこも濃度が似たようなもので、立場もメンタリティも意見も似たようなものになるという。公においても「情」が大きく入ってきてしまう巨大オニギリ社会。
この均質社会においては、ある組織のAという部署と、Bという部署が全く正反対のことをするということ、つまり自浄機関が身内の犯罪を暴くということに馴染まない。そういう具合に設計してセッティングしておいても、現場の人々の粘着性が激しい利害対立を中和して骨抜きにしてしまう。本来銀行を指導し監督する大蔵省の官僚が、監督される銀行のMOF担の人々と仲良くなり、ノーパンしゃぶしゃぶで楽しいひとときを過ごしていたのは、まだ記憶に新しいところですが、本来先鋭に利害が対立して喧嘩になってても不思議ではない立場の人々が、妙になごんで仲良くなっちゃうという。しまいには最初からそれを見越して、「気休め」的な機関を設置したりする。
個々人がサラサラしている社会では、この種の粘着性にもとづく「なあなあ現象」は無いです。最初に設計されたように、容赦なく真剣でズバズバ切っていく面があります。メンチ切って喧嘩腰でやっていくことが、当然のこととして期待されており、そのとおり遂行され易い下地があるのだと思います。自浄装置というのも因果な商売で、「身内を斬り殺してこそ正義」なわけですが、日本人においてはそれは「情において忍びない」わけですし、西欧系はそれを(日本人からみると)結構平然と斬り殺せちゃうのでしょう。
こういうサラサラ下地があると、社会システムは設計がしやすくなると思います。予定通りのファンクションを発揮するのであれば、複雑に組み合わせてより効果的なシステムを作ることもできる。ICACに盗聴を許すくらい強大な権力を与える反面、ICACに対し喧嘩腰で望めるオンブズマン制度や情報公開制度を適用して歯止めにするとか。まったく逆方向の規制も同時にできる。プライバシーの保護についてはかなり繊細に徹底的にやる反面、情報公開制度もまた徹底的にやる。どっちも徹底的にやる。個別的な事例に即して、ギリギリの利益考量まで計算できる。日本のようにプライバシー保護法が曖昧なんだけど、プライバシーを理由に情報公開を拒まれるという、まさにオニギリ独特のなんでもかんでも一緒くたにして、結局どっちつかずになっちゃうという現象が少ない。
逆に、現場で妙に皆が仲良くなっちゃうオニギリ社会では、鋭く利害を対立させ、そのパワーバランスで均衡をとろうとする権力分立システムが、みな絵に描いた餅になってしまう傾向はあると思います。
というわけで、日本でも、ICACみたいな組織があったらなあと思うのですが、今のままオニギリ状態だったら、それほど効果を発揮せんかもね、という部分もあります。
もっとも日本でも、「牙」を持って、喧嘩腰で臨んでる組織があります。警察のなかの優秀な部分であったり、いわゆる”麻取””Gメン”と呼ばれる麻薬取締官であったり、地検特捜部であったり、国税庁の査察部(マルサ)であったり。彼らの執念とプロ性は、無条件に賛美するのは危険ではありながらも、それなりに評価されていいと思います。
あと希望は、日本人がそんなに粘着質ではなくなってきていることです。そんな”一所”懸命にやっててもしょうがない時代ですし、いやがおうでもサラサラ生きなければならない時代ですから。昨今、連綿と続く各機関内部の不祥事ですが、あれも「またか」でゲンナリする反面、そういう事件が表沙汰になるようになってきた、組織内部で庇いあっている傾向が薄れてきたからだという指摘もあり、そうだとすれば、多少は喜ばしい傾向なのかもしれません。
昨今袋叩きにあっているムネオ氏も、あの種のタイプの政治家、つまり義理人情の論理とパワーでごり押しにのし上がって横車を押そうというタイプは、ある意味ではティピカル・ジャパニーズ・スタイルともいうべき存在であって、昔だったら珍しくもなんともないのではないか。それが、こうも「存在自体が許せん」的に叩かれるというのは、僕ら自身が、オニギリ的粘着結合というものに以前以上に嫌悪感を感じてきているからかもしれません。まあ、ほんとのところはどうなのか分かりませんが。
ただサラサラ社会は、それだけに空気が乾いて殺伐としやすいです。
「仲良くやりたい」「人に嫌われたくない」というメンタリティは、いい意味では日本人の優しさであります。それがドライなシステムを動かす場合には仇になったりもしますが、矛盾も不正も飲み込んで社会を大きく調和させようという表面張力のような力を持ってると思います。これがサラサラ化していくということは、それだけ利害対立が激しくなり、「うまくやっていかなくてもいいや」という殺伐とした空気を持ち込みやすいです。なかなか生きててシットリこない環境で、それなりに不愉快でもあるでしょう。
だから本当は、サラサラ化すると同時に、「情」に代わる「潤滑油」みたいなものが必要だと思うのですね。西欧の場合は、それは公における「理念」「正義」の観念であり、同時にボランティアなどのソーシャルな接点だと思います。
ドライな「理」によって、人をバサバサ切るからには、何のためにそれをするのか、それが「社会正義」なりなんなり大きな理念に奉仕するのだ、それが正しいことなのだという情理的な確信がないとやってやれないと思うのです。社会正義、ソーシャルジャスティスといった場合、日本人においてはそれこそ「絵に描いた餅」「キレイゴト」的なシニカルなニュアンスが付きまといますが、オーストラリア人の場合は、そのシニカル度は低く、真摯度は高いように思います。ソーシャルジャスティスが果たされない社会に生きているのが、なにか自分のプライドを傷つけるかのように、わりとマジメに怒るし、すぐにデモを組織したり、市長に面会を申し込んだりというアクションに結びつき易い。
オーストラリアでもアパシー(政治的無関心)が問題になってますし、「危機的だ」と叫ばれたりしています。それでも、程度比較の問題でいえば、まだ社会正義というものに対する素朴な信仰というものはあると思います。不正を行った仲間をチクることに対して、社会全体が「それはより大きな正義に奉仕することであり、正しいことだ」というコンセンサスが(日本よりは)ある。日本の場合、「触らぬ神に祟りなし」というか、「ややこしいことして、皆に恨まれたらアカン」という処世術が、やっぱりメインにあるように思います。内部告発者、英語で言うとwhistle blowerですが、タバコ会社の実際にあった内部告発を描いた「インサイダー」という映画(アル・パチーノ、ラッセル・クロウ)がありますが、ああいう映画が作成され、しかも告発者を英雄として迎える社会の土壌というものが、社会の殺伐化を防いでいるのだろうなと思います。
ですので、日本もサラサラ化するのだったら、同時に、シラけてばっかりではなく、理念的なものに対する信仰を深めないと、バランスが取れないんじゃないかと危惧します。「諦めることが大人になること」というのは一面真理ですが、諦めちゃイケナイこともある、と。
同時にボランティア的な社会へのコミットの仕方です。「ボランティア的」というのは、なんというのかな、仲間内ではない社会全体への貢献みたいなものです。日本って、仲間や所属集団に対しては世界にマレなくらい自己犠牲で献身的に頑張りますが、社会全体という抽象的なものになると、あんまり自己犠牲しない。自分の仲間に対してはかなり無理をきいてあげるけど、知らない人が車が故障して困っててもシカトするみたいなギャップがありますよね。
この2点は、全然不可能なことではないと思います。日本人が本来的に持っている「清潔さ」と「優しさ」、これをもう少し身内だけではなく社会全体に投影するようにしていけばいいだけですからね。実際、インターネットのホームページなんか、社会全体にダイレクトにコミットしますから、そこで自己犠牲的に貢献したり、優しさを発揮したりしているサイトは沢山ありますよね。自己犠牲的に奉仕というと大袈裟ですが、要するに、自分の知ってる分野の知識を、初心者の人に「こうするといいよ」と無料で教えてあげたり、メールの相談なんかでも優しく返事を書いたりすることです。だから、「皆、もう、やってんじゃん」って思うのですね。あとは、「なんだ、俺、もうやってるんだ」と自覚して、それを延長投射していけばいいだけなんじゃないかと思ったりもします。難しい話ではないように思いますけど。
写真・文/田村
写真は、Glebe Ptの公園
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