最近シドニーでちょっと新聞ネタになっているのは、建築開発許可(development applications)に関わる政治家の汚職です。分譲マンション/住宅を開発造成・建築するための許認可について、政治家がいわゆる「口きき」をして建築を承認させていたということが問題になってます。
シドニーは(というかオーストラリアは)、建造物や景観に関する規制が厳しいように思います。
僕も専門的に詳しく知るものではないのですが、町並みを見渡してみれば、日本と随分違うような気がします。誰でもすぐに気がつくのは、”看板や広告が少ない”ということですね。これはかなり少ないように思います。また、実際に規制も厳しいらしく、ビルに看板一つくっつけるのに、えらく面倒な許認可が必要だという話を聞いたことがあります。
看板の承認がなかなか下りないのと関係しているのでしょうか、既に移転したあとにも看板がずっと残ってたり、移転した新しいオフィスに全然看板がなかったりすることはマレではないように思います。ちなみにこちらのオフィスはコロコロ移転します。数年前に訪ねてみて、また行ってみようと記憶を辿りながら行ってみても全然見つからず右往左往することもよくあります。官公庁のオフィスも気楽に移転しますので、半年前の情報でも疑ってかかった方がいいと思います。例えば、現地で学生ビザを取得/延長するオフィス=移民局の学生ビザの係ですが、その昔はロックスの本庁にあったのが、数年前にロックデールというところに移転し、さらに最近はセントラル駅の裏手に移転したそうです。ここ3〜4年で2回も変わってますな。
また仮に移転していなくても、看板自体が少ないので、住所を頼りに尋ねてみても、どこにあるのかよう分からんということもママあります。僕が皆さんを語学学校見学でお連れしたりするのも、ひとつにはシドニーに着いたばかりの人に住所と行き方だけ教えてもようたどり着けない、辿り付けたとしても異様に時間がかかって効率が悪いという問題があるからです。それこそ住宅街にあるGP(お医者さん)とか歯医者さんなんか、普通の家にしか見えなかったりします。どこから見ても全く普通の家なんだけど、実はパソコン売ってたりすることもありますし、そう言えばAPLACの事務所自体がまんま普通の家ですからね。
語学学校で思い出しましたが、ある語学学校が学生数の増加に対応して上のフロアまで借り増しし、パーテーションを仕切りなおすなどの工事をしてたそうですが、「工事それ自体は簡単なんだけど、役所の許可がまだ下りてないんだよ」とボヤいていたのを覚えています。「やたら沢山の許可がいるみたいなんだよ。RTA(陸運局)の許可まで要るらしいんだ。なんだってRTAなんか関係あるのかさっぱりわからないんだけどね」と。
建築に関わる許可手続は結構厳格のようで、庭に駐車スペースを作るとか、家内部の改築、裏庭にテラスを増築するくらいでも許可が必要であり、それらの申請は申請内容と番号を記した公的な書面を誰もが見れるところに掲げておかねばならない、、、ような気がします。、、と曖昧なのは、僕もよく知らんので確信は持てないのですが、町を歩いていてこの種の「改築申請書」が道路に面して掲示されてあるのを何度か見たことがあります。
「どうなってんのかな?」と思って、自分の住んでるエリアのローカル政府である、Lane Cove Councilのホームページを訪ねてみました。いろいろ見てますと、「既に承認がなされた案件」「現在審査中の案件」が一覧でズララと出てきました。
審査中の案件を見ていきますと(左フレームのDevelopment Applications /Currently Advertised をクリックしてください)
、、これがやっぱりかなり細かい。
”New carport & pergola for a 2 storey dwelling””CARPORT TO FRONT OF DWELLING””Internal alterations & double garage”なんてのが載ってます。前庭に駐車スペースを作るとか、内部の改装程度でも、いちいち申請を一般公開しているわけですね。しかも個々の申請について異議や意見がある人は、コメントボタンを押して(メール送信モードになる)意見を言えと書いてあります。なかなかうるさそうですな。
こういうことを、日本でどれだけやってるのかよく分かりません。試しに川崎市のサイトを見てみました。なんで川崎市かというと別に深い理由はありません。僕が小学生の頃住んでいたという程度の縁です。
増改築の項目では単なる増改築でも建築確認申請の対象になること、確認済の表示を建築現場に掲示することが定められています。 他にも捜してみたのですが、一件一件全ての申請を表示し、「文句がある人はメールしましょう」とまでは書いてないようです。
しかし、まあ、開発や建築一般について、建築基準法や都市計画法などの法律レベルの規制があり、各自治体の条例やガイドラインがあって、はたまた相隣関係があって、それぞれに許認可手続が必要であるという大雑把な流れは、日豪それほど大きく違うものでもないようです。そして、また、容積率の誤魔化しみたいな違法建築ないし違法スレスレ建築が行われ、それをいかに巧みにやるかが施行業者の腕の見せ所みたいな部分も、日豪それほど大きな違いはないようにも思います。これは、オーストラリアの建築家と雑談する機会があったのですが、「似たようなことはオーストラリアでもあるよ」と言ってましたから、多分そうなのでしょう。
大雑把な流れは同じでも、許認可のスタンダードや厳しさ、あるいは周辺住人の監視の目の強さは、やはりちょっと違うなと思う部分があります。なんだかんだ言っても、オーストラリアの方が、都市も住宅エリアも奇麗です。まあ「奇麗」という言い方が適当かどうかわかりませんが、スッキリはしてるように思います。ネオンも少ないし、「動くネオン」はもっと少ない。キングスクロスのコカコーラくらいじゃないかな。また、日本の歓楽街のビルのように、一つのビルに飲み屋の看板が10個も20個も付けられているという光景はありませんから。看板も、壁にべたっと張りついている形のものは多いですが、アーケードの軒先にぶら下がってるモノを除いては、ビルから突き出している形のものは少ないです。
オーストラリアの町並みがわりとスッキリして見えるのは、単に人口密度や家の大きさだけでもないと思うのですね。なぜなら、日本の場合、人口密度が低そうな高級住宅地でも、看板は結構出てますし、また必ずといっていいほど電柱に広告が張り付いてたりします。電柱広告は、家の大きさや人口密度と関係ないですからね。あるいは、列車に乗ったりすると、田園地帯にボコボコ大きな立て看板が立ってたりしますが、あれも日本に顕著な傾向だと思います。
そのあたりは、「商業的なもの、人工的なものは出来るだけ視界から除去する」という発想がどれだけ強いかどうかにかかわってると思います。そして、それは、都市の美観を比較的に大事にする傾向にある西洋と、大阪や香港に顕著なように美観よりもエネルギッシュな商魂に傾いていきがちな東洋の文化の差なのかもしれません。
またまた余談ですけど、美観を害する筈の商業広告も年月がたてば風景に馴染んでしまい、それ自体がなにか懐かしい一つの(美観とまでは言わないにせよ)「風景」になることもありますな。
何を言ってるかというと、田舎ののどかなバス停、2時間に一本しかバスが来ないような木造の掘立小屋みたいなバス乗場がありますが、そこに昔懐かしいホーロー製の看板で、「オロナミンC」とか「オロナイン軟膏」の絵が書いてあったりしますと、妙に懐かしいですな。
→こんな画像です。
インターネットをサーフィンしてきて拾ってきました。いや、インターネット、いろんなものが転がってますな。
余談ばかりで恐縮です。本題(らしきもの)に帰ります。
今回の事件で僕が「ふーん」と思ったのは、以下の3点です。
@オーストラリアでも似たような汚職はあるのね。でもってイチイチ大騒ぎになるのね。
AICACという独立官庁がこの汚職を摘発したのですが、やるじゃん、ということ
Bシドニーの不動産開発はもういい加減にしてくれないか
ということです。
@は、とくに言うまでもないでしょう。日本だってこの種の話は腐るほどあるでしょう。ありすぎて、もう、日常慣行になっているのではなかろうか。バブルの頃のゴルフ場建築ブームのときとか。ゴルフ場を一つ作るためにはお役所のハンコが500個要るというのを何かで読んだ記憶がありますが、マトモにやってたらいつになったら完成するのかわからない。そこで、地元の「先生」の出番ですということで、「ここは一つ先生のお力におすがりして」いろいろスピーディーに物事が運ぶようにお願いすると。
人間なんか、ある意味、金に群がるクソ虫みたいなもので、金が大きければ大きいほど沢山の人が群がる。で、比較的巨額のお金が動くのは、何といっても不動産とそれに伴う工事です。と同時に、不動産というのは、私有財産でありながら公的影響が非常に強いですから、規制も多く、公的機関の関与も強い。そこで公的機関の裁量を自分の思うがままに動かせたら、莫大なお金が転がり込むことになります。田中角栄元祖の土地の錬金術ですね。誰も見向きもしない田舎を荒地を二束三文で買い占めておいて、あとからそこに列車を通して駅を作れば、その地価は数十倍に跳ね上がります。まさに魔法の杖の一振りで、泥が金に変わるわけです。というわけで、新幹線を何処に通すか、どこに駅を作るかからはじまって、農地を住宅地に転用するいわゆる農転における地元の農業委員会のジイサマ達に鼻薬をかがせるところまで、イロイロな人がイロイロなことに奔走するようになります。
ただし日本の場合、マンションを造成するくらいでイチイチ代議士が暗躍したりはしないと思います。オーストラリアの場合、どうも日本のレベルからしたら大したことない建築物件でも市議会の承認決議が要るみたいなので、そこに細かな案件にでも代議士が暗躍する余地があるのでしょう。日本で政治家が絡んでくるのは、もっと大規模の開発であるとか、あるいはもっと違った形態でしょう。例えば、自分の息のかかった業者連中を潤わせるために公共工事の入札に手心を加えるとか、無理矢理産廃設備を作るとか。
さて、話は段々(Aをすっ飛ばして)Bに移ってきてますが、不動産というのは、前述のように、ひとつひとつは個々人の私有財産ですが、それが集積すれば町になり、都市になり、住環境になります。昔の日本は、それまで”向こう三軒両隣”ということで、それなりに下町情緒なり地域コミュニティがあったのが、バブルの嵐によって、地上げで皆さん立ち退いてしまったり、銀行の口車に乗ってしまって狭苦しいペンシルビルを建ててしまったりで、かなり景観が変わったと思います。いわゆる”しもた屋”が軒を連ねるエリアや住宅街が、ワンルームマンションやコンビニ、月極駐車場に変わってしまったりします。
それがいいかどうかはともかく、一軒一軒は、オーナーさんのそれぞれの個人的事情で自分の不動産を売却したり改築したりされたのでしょうが、それが集積すると、町の風景は変わっていきますし、町の性格や雰囲気もまた変わっていくということですね。
ところで、僕がはるか昔に住んでいた川崎市の多摩丘陵では、放課後チャリンコを漕いで”魔女のいる沼”を探検したり、雑木林の中で迷子になったりしました。僕が迷ってピーピー泣いてた鬱蒼とした森みたいなエリアは、今では小田急線の新百合ヶ丘駅になってます。あの頃は、広場や空き地には不自由しませんでした。丘陵だからちょっと高台の坂の上に立てば見晴らしが良く、夕闇に沈む富士山が見えたりしたもんでした。小田急不動産が造成を始めたころで、造成前の整地段階のような空き地が随所にありました。だから、場所によっては、ガランとした広大な整地上に人っこひとり見えなかったりすることもよくありました。まあ、だだっ広い割にはまだ人が少なかったのでしょう。
人口密度が適度に少ないというのはイイコトですな。子供時代に、広々としたところで走り回ったり遊んだりした経験というのは、大人になってみれば結構貴重なものだったように思います。子供の頃に見ていた風景は、確かに僕の原風景の一つになっていますし、それが今の僕の(やや大陸的な)性格を育む土壌になったとは思います。そういえば、あの子供の頃のイメージって、なんだかオーストラリアに似てます。オーストラリアに来たのも、その頃の感性が多少影響してるのかもしれません。やたらだだっぴろい所で、夕陽に照らされながらぽつんと一人で佇んでいる感じというのは、一貫してかなり好きですし。中学になって、東京の下町に戻ったとき、あまりの人口密度の高さや校庭の狭苦しさにビックリしたのを覚えてます。ちょっとしたカルチャーショックでしたね。ですので、「あ〜、だだっ広いところに行きてーな」と心のどこかで焦がれてたのかもしれません。
何が言いたいかというと、「家が無い(密でない)」ということや、閑散としていることというのは、あれはあれで貴重な財産、いわば環境財産みたいなものなんだろうなということです。それに、適度に自然があること。自然といっても「大自然」のように「大」がつかなくてもいいです。でも、日本の公園のように青写真があって計画整備されたものではなく、武蔵野の雑木林のように、「適度にほっておかれた」自然というのが大事なんだろうなあと思ったりします。
というわけで、不動産というのは私有財産でもありつつ、公的財産でもあるのでしょう。「俺の土地に、俺が好きに家を建てて何が悪いか?!」と言う人もいるでしょうが、それは「悪い」です。何が悪いか?と問われれば「ジャマ臭いから」です。
ところで、シドニー。かなり人口密度が濃くなってきました。もういい加減にしてくれという感じですね。
日本の都会の感覚からすれば、全然スカスカではありますが、都会生活に慣れた日本人だってこちらに来ればスタンダードも変わります。ウチから近所の商店街まで徒歩10分くらいですが、10分歩いている間に5人以上の人にすれ違ったら、「ああ、今日は人が多いな」と思ってしまうというくらいスタンダードが変わります。
こちらでは、”hi-rise”と言われたりしますが、いわゆる高層マンションですね、これがアチコチに増えてきました。高層といっても、日本みたいに20階とか30階とかではなく、4階建てくらいでもけっこう問題視されてます。でも、これ、問題視すべきなんですな。二階建てですらない平屋家屋が樹木の間に点在してるような住宅地では、たとえ4階建てでも景観が壊れる。まあ、「景観」というほどの明媚な景観があるわけではないので、なんというのかな、僕個人の感覚で言うと、全体の空気がナチュラルでなくなっていくのがイヤなんでしょうね。最新の瀟洒なデザインのセキュリティビルであるほどに、いかにも「人工物!」という、アーティフィシャルな感じがしてイヤなのでしょう。これが昔ながらの古臭いフラットだったら、まだ許せるものはあります。
「無用の用」といいますが、自分の住んでる空間や時間には、「なんだかよく分からないモノ」が一定必要なんだと思います。合目的的にみれば全くの「無駄」なんだけど、でも無駄がないと人間おかしくなってしまうという。オーストラリアでも僕は古い家が好きなのですが、それはランパスとかサンルームとかスタディとか呼ばれる、廊下でもない、リビングでもない、ベッドルームでもない、無駄っちゃ無駄なスペースがあるからです。この無駄なスペースがあるだけで、家全体がどれだけゆったりしてくるか、その心理的な効果は実は計り知れないと思っています。日本旅館には、本間のほかに、よく窓際に2畳くらいの広さで、向かい合わせに藤の椅子が置かれているスペースがありますが、あれがあるかないかで部屋のゆったり感は大分違うと思います。オーストラリアの新築物件って、こういう無駄なスペースが少ないのですね。こんなスペースを設けたところで、3BR(ベッドルーム)とかカウントできませんからね。
住んでるエリアでも、こういう”無駄な”スペースは必要なんだと思います。ここは住宅地、ここは商業地、ここは公園と厳密に区画されちゃうよりも、正体不明な空き地とか、雑木林とか、お寺の境内の裏手で草ぼうぼうになってて寺の所有地なんだかよく分からんところとか、普段気にしないけど、なんだかよく分からないスペースってのが必要なんだろうなと。
だから、○○ニュータウンのようにかなり造成計画されちゃったところって、個人的にはあまり好きではないです。この種の人工的に整備されすぎた所に人間が長いこと住んでると、人間が本来持ってる毒気みたいなものが逃げていく場が無くなるような気がします。昨今の日本でワケのわからん事件が起きたりして、その現場がこの種の新興ニュータウンだったりするのは(例えば酒鬼薔薇事件の須磨ニュータウンとか)、あながち偶然ではないような気もします。もっとも郊外型犯罪における要因は多種多様であるでしょう。ただ、酒鬼薔薇事件における彼の場合は、タンク山でしたっけ?そういうワケのわからんエリアでこそ、彼は一番なごめたんだろうなという気はします。
同じように「無駄な時間」「無駄な友達」「無駄な本」というのは、あっていいのだし、あった方がナチュラルでいられるような気がします。その本来の機能から”ちょっとズレたあたり”でこそ、人はくつろげるのかもしれません。勉強机、書斎机があるにも関わらずキッチンテーブルで宿題やったりしませんか、ソファに腰掛けるよりも床にペタンと座り込んで(ソファは単に背もたれにしか使ってない)TV見てたりしませんか。バリバリの本来の用途だけというのは、なんかちょっと、肩が凝るというか。
それはさておき、ハイライズ/高層建築ですが、これが住宅街にやってくると、「何となくナチュラルじゃない」という漠然とした話だけではなく、具体的にいろんなトラブルが出てきます。ハイライズは集合住宅ですから、当然人口密度があがります。人口密度が上がるということは、単に人が増えるだけではないです。もっと大きな影響は、人に伴って車が増えるということです。オーストラリアでも、集合住宅分だけの駐車スペースは中々確保できませんから、付近の駐車スペースが一杯になります。これは結構深刻で、クルマでそのエリアにいっても段々駐車するのが難しくなってきます。同時に、クルマが増えるので、道路がビジーになり、朝晩のラッシュ時には今までの信号や道路規制では捌ききれなくなり、渋滞が起こると。またクルマが増えれば事故も増えるし。
人が増えることによる影響は他にもあります。(道路のような)公共財インフラの一人当りの割り当てが減るわけですから、公園でバーベキューしようと思ったらもう満席になっている、レストランにいったら満席になってる、スーパーにいったらレジで前よりも待たされるようなった、子供の幼稚園のウェイティングリストがさらに長くなった、、、などなど、いろいろな影響が出てくると思います。いや、「思います」という予想的なことではなく、生活実感としてハッキリ不便になってきてます。不便さは、また、生活コストにはねかえってきます。楽勝に路駐できたのが、出来なくなると、高いお金払って有料駐車場に行かねばならなくなったり。ああ、最後にチャイナタウン界隈で路上駐車できたのは、何年前のことだろうか。
ですので、自ずと適正な人口規模というのがあるのだと思います。
それを超えると、これまでのインフラだけでは何をするにも窮屈になってくるし、これが生活のゆとりに微妙に影を落としてくるのでしょう。朝晩の渋滞が激しくなれば、早起きせなならんし、帰宅も遅くなります。可処分時間が減りますし、可処分時間の減少は、生活のセカセカ・イライラ化を招きます。そんなこんなで大袈裟に言えば、前よりも生活のハッピー度が減ってきたりするのだと思います。
そうは言っても、シドニーの人口はウナギ昇りであります。人は増えるわ、住むところがないわで、やれ開発、ほれ開発ということになるのでしょう。また、延々長続きしている不動産ブームですから、家は作っても作っても飛ぶように売れてます。それにですね、シドニーというのは坂が多く、海が深く切れ込んでいて入り江が多く、さらに高い建物が少ないから、幸か不幸か、ちょっと高い建物を建てたら、そこからの眺望はかなり素晴らしいのですね。これはもう世界三代美港というだけあって奇麗なもんです。僕も、ハイライズは庭がないからキライなのですが、眺めの良さだけは惹かれるものがあります。
ですのでハイライズを建てたくなる気持ちも分かるし、入る人も気持ちもわかります。決して不自然なことや不正議なことが行われているわけではない。しかし、だからこそ、それだけに公的規制というのは一層適正になされる必要があると思いますし、今回のケースは、氷山の一角ではありましょうが、個人的にも腹立たしくもあります。
シドニーで開発・造成・建築をやろうと思ったら、専門家でなければ分からないくらい複雑な法規制がかかっているそうです。ただ、これは全ての法に言えますが、その法規制が複雑であることと、その規制が実効的であることとは全然別のレベルの問題です。むしろ、複雑であるがゆえに、その複雑さを逆手にとって色々なループホール(法の抜け道)をいくことが出来たりします。それが単純な一本道だったら近道のしようもないけど、迷路のように入り組んでいたら、それなりに近道やズルをする余地もあるということです。そして、建築規制もまさにそうなってると言われています。カウンシルの承認も、いろいろ面倒くさい規定がありつつも、実態はザルに近いとも言われています。
えーと、今回はこのあたりで一旦切ります。
本当は全文書き上げたのですが、ちょっと長すぎるので半分に切っておきます。ちょうどこのあたりが半分なのですね。
では続きは来週。来週は、BICAC(The Independent Commission Against Corruption )について書きます。
そのかわり、写真をちょっとサービスしましょう。
上の大きな写真は、グリーブポイントに建築中のマンションです。
この建築工事を見たときは悲しかったですな。「ああ、あそこにも作っちゃうんだ」って。
グリーブって、グリーブポイント(先端の岬のようなエリア)にいくまで、入り江沿いにずっと散歩出来まして、そのあたりが、「なんだかよく分からんエリア」で、結構ナゴめるのですね。強いて区分すれば「公園」なんだろうけど、殆どろくすっぽ整備されてなくて、「適当に放っておかれている感じ」が、なかなかGoodだったわけです。でもって、上の大きな写真は、今もなお残されている「よくわからんエリア」から、建築中のハイライズを撮ったものです。
→右の写真は、上の大きな写真の撮影場所の水辺付近です。「なんだかよく分からんけど、妙になごめる場所」という感じがソコハカとなく伝わってきますでしょうか?クリックすると大きくなります。
あと写真を二葉。
ボコボコ建ちまくっているハイライズのマンション群の写真です。左はBalmain、右はPyrmontの風景です。
もう、これだけ見てたら、建造物の雰囲気といい日本とそんなに変わりませんな。
写真・文/田村
文責:田村