「2020年からの警鐘」
自宅の本棚を整理してたら、「2020年からの警鐘」(日本経済新聞社)という本が出てきました。1997年に日経紙で連載されていた特集記事をまとめたもので、1997年6月23日に初版が発行されてます。内容の濃さと衝撃度でかなり反響をまきおこした記憶があります。僕の持っているのは8月5日第7刷ですが、わずか一ヶ月半で7刷までいってるということからも良く売れたのでしょう。
パラパラと読むと、これはまあ誰でも同じ感想を抱くと思うのですが、「そのまんまじゃん」という。1997年から14年後の今年ですが、2020年まであと9年を残しながらも、「もう既にそうなってる」という感じもします。
97年といえば、橋本龍太郎首相が金融ビッグバンなど六大改革を掲げてやってた頃です。世界情勢でいえば、グローバリゼーションが本格的に離陸し始め、工業社会から知価社会に変貌し、ついていけないアメリカの中流層は既に没落をはじめつつあり、中国その他の途上国の浮上が予想され、温暖化や資源枯渇、食糧問題も議論されていました。日本国内では、高齢化と少子化が取り上げられつつあり、政官業の固定システムが世界のビジネスから取り残されつつあること、世界レベルのアニメ製作現場での月給10万以下の過酷労働、詰め込み教育の弊害として学力低下、経済不安は雇用不安と老後不安をまねき、老人の孤独死、無気力ムード、夢を持てない若年世代などが掲げられています。そして、ここで思い切った大改革が必要だぞ、やってるんだけどあまりにもこれまでのシステムが強すぎて遅々として進んでないぞ、でもやらないと相当ヤバイことになるぞ、というのが「警鐘」の要旨でしょう。
これらは現在ではなく、1997年当時の話です。14年前に既にそうなっており、既に論じられていた。あまり変わりませんよね。まあ、気象などの世界的な枠組みや、人口などがわずか10年ちょいで変わるわけもなく、同じであっても不思議ではないのですが。
しかし、この14年間、結構それなりに色々ありました。世界的にはアメリカの911テロがあり、対テロ戦争でイラク、アフガンに派兵し、ブッシュが8年やったあと、はじめての黒人大統領が登場しました。中国インドの台頭はもはやクッキリ明瞭になり、グローバリゼーションは予想どおりに進展し、暴走する金融資本がリーマンショックを引き起こし、欧州などの国家財政を揺るがしたりもしています。また、97年段階ではGoogleのグの字もありませんでした。同社が友人のアパートの一室でひっそりと創業したのは1998年9月です。一方日本でも、2001年に自民党の異端児小泉さんが首相になり、また省庁再編が行われ、それまで極悪呼ばわりされることもあった大蔵省が財務省と金融庁に分割されています。でもって2009年には政権交代が起き、2011年は大震災と原発事故が起きた。
ふむ、こうしてみると、ちょっと思うところも出てきます。書き綴ってみましょう。
変わるもの、変わらないもの
今から将来を予想しようとする場合、1997年時点と2011年時点とで基本的な構造・ベクトルが同じものは、今後もそうなる確度が高いと思われます。逆にこの間に生じて、退潮していった物事は一過性のものかもしれない。例えば、2000年代前半に大騒ぎしていた対テロ構造、西欧VSイスラムのような図式は、無くなることはないだろうけど、時代のメインフレームになり続けるかどうかは微妙なところだと思います。
逆に温暖化・資源・食糧については97年よりも遙か昔から一貫していわれ続けてきたことですし、今後も世界のフレームであり続けるでしょう。
また、産業経済の変化でいえば、製造業などの工業からサービス産業主体になり、さらに知価=特殊な専門知識こそが先進国の財産になっていくでしょう。これを消費者サイドでいえば、人々は、何か新しい家電製品や車を買うよりも、またどっかに行って誰かに何かをしてもらうよりも、「面白い話」「本当の情報」を求めるようになる。その傾向が強くなるということです。そうなってますかね?
これを産業や雇用でいえば、グローバリゼーションと相まって先進諸国で空洞化を招き、今後も招き続けるでしょう。なぜならその国で最も価値を生み出す根幹産業が工場→サービス→知価と変遷するにしたがって、相対的に価値が下がった分野に大きな投資を向ける必要はないからです。この流れがグローバリゼーションを生み、グローバリゼーションの進展によって一層加速されるという相互フィードバックを起こしている。
これを雇用面に置き換えていえば、誰でも出来るような人手仕事よりも、高度な付加価値をつけることが出来る「人材」にニーズがシフトする。単純に量的な問題でいえば将来的に雇用が増加する見通しは少ないという厳しい話になりそうです。オーストラリアの企業のカスタマーサポートセンターがインドにあるようなもので、誰にでも出来るような仕事は、より賃金の安いところに持っていく。また世界の発展により賃金は安くてもそれなりの品質を供給できる国々がどんどん増えている。この流れは世界レベルなだけに一国がどう頑張っても止められないでしょう。
知価とネット
また「知(情報)」そのものに価値がシフトすることと、ネット社会の発展は連動しています。今更だけど。物財やサービスというのは、現物や現場という三次元的物質的なものだから、世界的に流通するといってもコンテナ船で運んだり、飛行機乗ったりしなければならない。しかし、情報それ自体はデジタルに馴染みやすいからネットとの親和性が高い。2000年以降のグーグル、ツイッター、Facebookの爆発的浸透はそれと軌を一にしているのでしょう。
そして、非常に展開が速いのもこの世界の特徴で、つい先日の新聞を読んでたら、mixiの世界版ともいうべきMySpaceがFacebookにユーザーを取られて落ち目になり、わずか35ミリオン(35億円、ドル100円換算で)で叩き売られてました。数年前に500ミリオンでマードックのNewsCorpに売られたものの、今回ついに十数分の1の価格で投げ売りされているという。今は日本のmixiも凋落傾向にあると言われていますし、ツイッターも落ち目になりつつあるという話も聞きます。今はFacebookの天下のようでありつつも、来年くらいになったら又全く違ったコンセプトのネットサービスが登場してきているでしょう。
ただこのネット社会が世界に何を生み出すかは未知数です。中東のジャスミン革命のようにツイッターやFacebookが、これまでの政府や権力者の情報統制を打ち破る民主化ツールになるのでしたら、話はめでたいのですが、そうは一筋縄ではいかんでしょう。もし本当にその流れになり、世界の権力者がそれに注目すれば(もうしてるけど)、かつての東西冷戦時代の諜報合戦みたいなことがネット上で起きることもありえます。WikileaksでのハッキングVS各国政府でも語られましたが、サイバー・ウォー(ネット戦争)の時代というのはこちらの新聞で良く出てきます。実際、かなり色々な規制もするようになってきている。
これがハッカー集団VS政府当局の争いだったら、僕らも対岸で見物してればいいわけですが、ネットで世論が作られるようになれば、当局もこれにチョッカイを出すでしょう。その手法は、最先端の大衆心理操作や広告技法を用いた洗練されたものになるだろうし、ナチスのゲッペルスみたいな天才が出てきたらお手上げでしょう。かつてNTT出身の自民党の世耕議員がチーム世耕を率いてネットでの世論形成作業をしたとかしないとか、こんなのは皆知ってるから可愛いレベルなのですが、本気で巧妙にやられたら結構キツいです。情報操作は政権維持のイロハですから、昔から沢山のノウハウがあるだろうし、日々開発されているでしょう。「嘘も百万回つけば真実になる」と言ったのはヒトラーだったか、そういう側面は確かにある。例えば、これも指摘を受けて「そうかもね」と思ったのですが、今回の原発事故で東電社員と名乗る人のブログが東電擁護をブチ上げて炎上していたというのも、100%ヤラセという可能性もあるわけです。わざと挑発的なことを書いて、激発させ、大衆の不満のガス抜きにするという。
それと、僕らが権力者の隠したい嘘を知るというネットの効用よりも、僕らが隠しておきたいプライバシーを彼らが知るというデメリットの方が大きいかもしれません。ネット社会になればなるほど個々人の趣味嗜好や行動なんか筒抜けです。Googleにしてみれば、あなたが何時何分にどのエッチなサイトを見ていたかも丸わかりだし、パスワードその他も幾ら暗号化を施していても、その本体からすればモロバレでしょう。その他、防犯カメラや路上カメラで一個の人間の行動を把握するのは昔以上に簡単です。そんなものが無かった頃でも、いわゆる秘密警察や特高、公安部は動いていたのですから。オーストラリアでもペドフェリア系(児童ポルノ)のサイトにアクセスしていた一般市民がガンガン逮捕されパソコンを押収されていますし、数年前のクロヌラ暴動でもSMSメッセージの受発信から関係者は順次逮捕されています。これがまだペドや暴動という誰もが頷く領域だからいいのだけど、悪用されたらと思うと鳥肌が立つ。Googleは「邪悪なことはしない」というのが会社のコンセプトですが、今は未だラリー・ページなど創業者がいるからいいようなものの、そのうち売りに出され、どっかの誰かが買い取って悪用しないとも限らない。何もそんな難しいことをしなくても、検索順位をちょっといじくるだけでいいんだし。
これらを考えるとネット万歳!とは気軽に言えないのですね。今回の原発事故を受けて、おそらく今の日本は原発につき「維持」か「脱」かで、大袈裟に言えば国論が二分しているでしょう。難しい問題です。でも、原発推進当局が「邪悪な」意図でネット世論を操作しようとすれば、出来ちゃうんですよね。ネットの掲示板とかブログなんか無限に見えて限りがあるから、1000人も雇って原発擁護の意見を24時間書かせ続けたら大勢は傾くかもしれない。それも心理学や広告のプロがつききりで文案を練り、「非現実的な寝言いってんじゃねーよ!」から「私もとても不安です。でも、もう少し現実的に考えることも必要だと思うんです」という穏当なところまで幾つかのパターンを用意する。あるいはもう1000人も雇わなくていいから、それを自動的に投稿できるようなロボットプログラムを走らせておくだけでいい。
幸か不幸か、今はネットに世の中を動かすほどの力はないです。ネットだけやってると、なんとなくネット万能感が出てきたりするのだけど、それは幻想だと思う。この現実の世の中を動かしているのは、まだまだ「金」とか「暴力」とか「コネ」とかいう伝統的なアナログ要素でしょう。だからそれほど激しいネットの被害もないのだろうけど、しかし、この先どうなるかは分からない。個人的には、ここが一番読めないところです。
詰め込み教育とゆとり教育
面白いところでは(面白がってる場合ではないのだろうが)、1997年時点では、まだ「詰め込み教育の弊害」が語られていたのですね。今はゆとり教育がバッシングを受けていますが、ゆとり教育が始まったのは2001年です。でも2005年にはもう見直し論議が起き、脱ゆとり(再詰め込め)になるのが2009年の一部前倒し実施からです。こうしてみると結構レスポンスが速いんですね。
さて、97年に語られていた「詰め込み教育による学力低下」ですが、「2020年からの警鐘」によれば、96年に国際教育到達度評議学界(そんなのがあるんだ)がまとめた数学と理科の国際比較によると、「考えを書く設問に対する日本の子供の正答率は41カ国中37位」だそうです。○×方式だと上位3位なのだが、「理由を書け」式の問題になると37位。つまり「物事を多角的に捉え、自分の言葉で表現する能力」が国際レベルで大きく劣る、と。このあたりが暗記方式の詰め込み教育ではダメだ!という話になり、ゆとり教育になっていくわけですね。それだけみたら間違ってないと思うし、そういう詰め込み教育で育った連中(僕らも含めて)が今日の日本を招いているのも事実。
また、ちょっと面白い国際統計も紹介されています。「良い職業に就くための学歴指数」はドイツが一位2.52、日本はなんと13カ国中12位の1.34で、日本は実は全然学歴社会ではなかった、という結果が出ています。逆に言えば、海外先進国でいい職に就こうと思えば、それだけ学歴が大事なのですね。アメリカとか結構キツいみたいですし、お隣の中国や韓国なんかも受験は壮絶らしいです。
また、ベネッセ教育研究所が96年に行った調査で、小学5年生に「幸せかい?」と聞いて「とっても幸せ」と答えたのは、中国が75.1%、NZが42.6、アメリカ39.9、日本は26.3%でドベだそうです。中国の一位は、97年当時だったら、ちょっと思想教育&洗脳っぽい部分も疑われるから取りあえず保留にしておいて、それでも日本の子供のハッピー度は低い。「将来の夢」を聞いて、「仕事で成功する」は韓国60.2%に対して日本は20.6%、「良い親になる」はアメリカ63.6%で日本は21.2%、「お金持ちになる」もNZ32.3%で日本12.1%でいずれも最下位。これは96年調査ですから、96年の時に小学5年生(11歳)だった人も、2011年の現在には26歳になってます。今、26歳のあなたは同じ質問にどう答えますか?
なお、大手予備校の予測によると、少子化によって2014年の入試の受験者総数は96年の30%も減り、合格率は90%になる。ましてや2020年には受験の意味すらなくなると。それをふまえ、同書では「それでも入試にこだわる親や社会の意識が変わらなければ、「何を」学んだかを問う世界に通じる教育にはなっていかない」と結んでいます。
以上はただの抜き書きで、「だからどう」ということが言いたいわけでもないです。96年当時そうだったものが、2011年現在にはどうなっているのでしょう。事態は改善しているのでしょうか?ちょっとすぐには資料が見つからなかったので単純比較は出来ませんが、興味あります。
でもって、「ゆとり教育によって本当に学力が下がったのか」問題は実は非常に複雑で、論者によって意見が180度違います。
Wikipediaに色々な統計結果が示されていますが(
別窓)、僕がみた感じでは何とも言えないです。下がったのもあるし、上がったのもある。下がった派の論者のように言われる苅谷剛彦さん、断定できない派の神永正博さんも、よく調べてみると別にゆとり教育の是非を言ってるわけではないです。もっと深いことを論じておられる。ちなみに苅谷氏の略歴をみてたら僕の高校の5年先輩でした。「へえ」と思って調べてみたら、彼の「日本には学歴以前に社会階層があり、学歴は階層の結果にすぎない」論や「学習や実績を求める意欲の少ない者ほど、むしろ自己有能感が強い最近の現象」論はなかなか刺激的でした。
でも一番「なるほど」と思ったのは、「学力低下は錯覚である」で書いた神永さんが、「若者の学力低下を商売にしているところからは相当な反発があって、かなりひどいことを書かれたこともありました」との一言です。ああ、なるほどね。なんでゆとり教育がどうとか騒いでいるのかな?教育の効果なんか10年以上のスパンをおいて見ないと分らないのに、実施後わずか5年でもう見直しが始まっているのは、結局コレなんかなと。以前
婚活ブームに疑問を感じた時と同じで、それを商売にしている人達が沢山いるわけですね。そして何よりも、昔の詰め込み教育を懐かしく思う国民が相当数いたということでしょう。「警鐘」に書いてあった「それでも入試にこだわる親や社会の意識」ってやつでしょうか。
実際、統計結果でみる”学力低下”ですけど、仮に低下があったとしてもこの程度だったら昔の世代だってそうだと思いますよ。僕らの世代だってちょっと上の世代からみたらバカだもん。我ながらモノを知らないにもほどがあるって思うし。また社会に出てからも勉強をしないという意味では、世代とか年齢層に限らず、地滑り的に低下していると思う。また若年世代バッシングは、エジプト時代からあったのは周知のことだし、僕らがハシリと言われた新人類もそうだし、さらにその下の世代も「宇宙人」「エイリアン」とか人間扱いされてなかったもんな。今はもう40代で会社の中堅幹部くらいの人達だって「人として不可解!」くらいの勢いで罵倒されていた記憶があるぞ。
そうだ、酒鬼薔薇事件が起きたのもこの本が出た1997年で、当時14歳の少年が近所の児童を複数殺傷し、被害者の頭部を学校の校門に晒し、警察に挑戦状を送りつけたと大騒ぎになってました。当時14歳の少年世代も「不可解」呼ばわりされていたけど、今はもう27歳です。援助交際をやりはじめた初期世代はもう30歳以上のいい歳でしょう。いずれにしたって「ゆとり」以前の教育下のことで、別に教育内容と因果関係があるかどうかは分からないけど、確かにゆとり以降になると上の世代が全く不可解!という現象はそんなに起きていないです。たまたまかもしれないし、単に報道されてないだけかもしれないけど。
教育論って、因果関係の検証がやたら難しいくせに、誰でも何かは言えるもんだから、やり始めたら泥沼になりがちなんだけど、それに振り回される現場の先生が一番可哀想だって気がしますね。まあ「現場が一番可哀想」なのは、カスタマーセンターでも、原発でも、イソ弁さんの法廷でもなんでも同じなんだけど。
詰め込み教育の弊害と言われた家庭内殺人も、息子が父親を殺したのと、父親が息子を殺したの二つのヴァージョンがあってそれぞれ大騒ぎになりましたが(覚えてますか?)、「警鐘」にも触れられています。そこでジュネーブ大学のクラメール教授の指摘が引用されているのですが、少子化社会になると赤ん坊は大人の心の世界で育つから両親に気に入られようとして「赤ん坊業」を演じるとか。長じては「子供業」を演じ、自分本来の気持ちと家庭内ペルソナの二重人格がやがて自己矛盾を起こして破綻する人もいるとか。でも、これは「いい子」に育った人共通のもので、いわば家庭環境の問題であり、学校教育とはあまり関係ないような気もします。しかしながら、親や社会の価値観が学校の偏差値的価値観とリンク&シンクロした場合(90年代に盛んに語られた、宮台氏の「社会の学校化」など)、学校と家庭に回路が通じ、「子供業」の内容が「偏差値獲得業」になるという意味では学校教育もまた関係あるのでしょう。でもなあ、それは「回路が開く」ことが問題なのではなかろうか。
ただ、まあ思うのですが、なんで教育改革をやろうと思ったかという原点は、「自分で考えて表現する能力」を高めるためであり、それが今後グローバルに知価社会になっていく対応策だからでしょう。この路線そのものは全然間違ってないし、自分の言葉で表現するのが普通の日常である海外においては、一貫して日本人の弱点であり続けてます。だから議論は「自己思考・表現能力」が増進したかどうかで判断すべきであり、それまで「そんなことが出来てもしょうがない」と言われていた歴史の年号や数学の公式の暗記などの部分が低下したかどうかではない。しかし、その「出来てもしょうがない」部分が出来なくなったのでアタフタしているような気がして、なんだかな?って気がします。
で、この14年間で改革できたのか?「相当ヤバイこと」になっているのか?
で、興味の一番の本体は、「警鐘」で提言されているような大改革がこの14年間で実行されたのか?それとも遅々として進まず予言通り「相当ヤバイこと」になっているのか?です。
当時、日本の問題といわれていたことを要約すれば「同族的な閉鎖性と自己改革能力の欠如」になるのでしょうが、これは改善されたのかといえば、YESでもありNOでもあると思います。「全然ダメなまんま!」という向きもあろうかと思いますが、曲がりなりにも進むところは進んでいて、そう何もかも悲観的にならんでも良いとは思います。あれだけ大合唱していた規制緩和だって、今では「規制緩和がけしからん」なんて声もあるくらいなんだから、進んだのでしょう。絶対に崩れないと思われた自民党の一党支配もついには崩れて政権交代も起きたし、国費の無駄遣いと言われた点でも一応事業仕分けとかやってる。それが満足すべきレベルか々かといわれればネガティブになるでしょうが、97年段階ではそれを言うこと自体、夢物語のように思われていたんだから、ダメはダメでも一歩前進でしょう。もちろん満足せよとは言わないけど、そう何でもダメ出しばっかして結局何もやりませんでしたってのが「自己改革能力の欠如」の最たる形態でしょう。
また、非正規雇用の拡大やワープアとか言われていますが、97年段階では「2025年には失業率13%になる予測もあり」、硬直的な終身雇用システムからフレキシブルな労働形態への移行が言われていたのですから、その通りになっているといえばなっている。まあ、美化・糊塗するつもりはないけど、非正規雇用などの「フレキシブルな」形態が広まらなかったら、単純に失業してそれで終わりになってた可能性も、またあると思います。だから良いとは言わないまでも、あちらを立てればこちらが立たないわけで、立たないところばっか見てギャンギャン言ってもしょうがないだろって気もします。
あとですね、官僚支配やら政財官のトライアングルの支配構造が変わらない点ですが、これは変わらないですね。はい。ただし、前進はしていると思います。なぜかといえば、これまで「知っている人しか知らない」ようなマニアックな議論だったのが、段々国民の常識になって来つつあるからです。JALもコケるべくしてコケてますし、会社更生法による再生スキームでの企業年金カット問題で、(準)国営企業にシロアリのようなたかる天下りとかOBとかの問題があぶり出されています。小説「沈まぬ太陽」で描かれていた利権寄生虫の実態ですが、こんなことは「知ってる人」だけの玄人話だったのが、徐々に常識化しつつある。これは前進だと思います。
そして今は東電です。より国家の根幹にかかわる政財官の聖域にまで話が進んできています。もちろん話は簡単に進むわけではなく、結局「力の強い奴は強いままかよ」という無力感にうちひしがれるかもしれないけど、それでもメスは段々患部本体に進んではきているのですね。以前はそんなことが話題になることすら滅多に無かったですもん。
ちなみに電力会社、もうめっちゃくちゃ強いですよ。これは前にも書いたけど、電力会社が強いというか、あそこらへんは経産省やら大学やら文字通り政財官学の結節点ですから。これはAERAの2011年6月20日号の記事に書いてありましたが(「管降ろしと東電マネー」、57頁以降)、東電というのはさすがにソツが無く、満遍なく政治家に献金をばらまいています。東電という法人ではなく会長以下約60名の重役が個人名で献金をしています。またパーティ券も、与野党を問わず気前よく買ってあげてたみたいです。他方、民主党の一部組織基盤である労組経由もあります(電力労連)。もう政治対策万全でしょう。ただ面白いのは、政治家の中で東電にお金の無心に来なかったのが二人だけいるという話です。一人は小泉純一郎、そしてもう一人は菅直人首相だそうです。この二人はある意味では東電フリーなのかもしれない。
原発は国策でもあるので、推進派の議員も沢山いて、自民党のエネルギー政策合同会議の委員長は元経産相の甘利議員、サブには経産省出身の細田議員、参与としては東電顧問の元参院議員の加納氏。また事故後の5月31日に発足した「地下原発推進議員連盟」に参加するのは、会長の平沼議員(「立ち上がれ日本」代表)の他、羽田、森、安倍、鳩山の歴代首相、さらに谷垣自民党総裁、亀井国民新党代表、民主党の石井、渡辺という錚々たる顔ぶれらしいです(これもAERAの6月6日号による)。
当初、政府が考えていた東電解体、発電・送電分離案は行く末どうなるか分からない情勢です。どう考えても賠償負担に耐えきれるわけないから債務超過で倒産、それも再建型の会社更生でいくのが法的にはスジだと思うのですが(あのJALでさえ会社更生なんだし)。会社更生法の何がいいかといえば、法的な手続きなだけに全て裁判所の下に公開され、密室で決まる度合いが少ないし、決まったとしても異議申立てその他の手続があることです。もちろん重要な部分は政治的経済的な交渉で決まるのだけど、それでもまだ透明度は高いし、JALに稲森さんが就任したように、これまでの業界とのしがらみ度も低い。その上で、発電と送電を分離すとか、売買電を積極的に認めるとか、分割化するとか、これまでの国家支配の聖域を解体する千載一遇のチャンスでもあります。
でも、そこを解体されたらたまったものではない人々も沢山いますし、そういう人達だからこそ日本を動かす実力を持っている。経産省の中にも電力閥・東電閥がある。経産省からは13人が電力会社に天下りしているそうです(これもAERA4月25日号22頁)。取り締まる側が取り締まられる側にポンと移動するという。一般に政官を問わず、地位が上の人ほど「一枚噛んで」たりするから、政官ともに脱原発を唱えるのは、まだ美味しい汁を吸わせて貰っていない若手や傍流が多い。しかし若手や傍流には権力がない。
一方、財界も東電救済のために三井住友銀行をはじめメガバンクが3月末に2兆円もの緊急融資をしています。潰れそうな会社によく気前よく融資するよなあ、中小企業だったら見捨てるくせに。近時も大手保険会社も数千億の追加融資をしています。これで会社更生とかになったら、彼らは債権放棄や減額を迫られるから大変なことです。そこでメガバンク経由の東電救済案が4月に浮上してきます。東電の負担額を潰れない程度(6500億)に上限設定し、あとは政府保障、つまりは国民負担で済ませよう、融資も全部政府保障という虫のいいプランです。まあ銀行としてはそうしたいだろうな。これを経産省(の電力閥)経由で政府に浸透させようとすると、逆に国庫を預かる財務省が反対するという構図ですね。政府も上限設定はしないという発言を4月段階ではしています。が、東電から毎年1兆円以上の設備投資を請け負っている財界、経団連の米倉会長は「国の全面支援は当然」と東電擁護の発言をしています(AERA5月16日)。
そんな中で管降ろしが着々と進行しているわけですが、うさん臭いよな。管首相もアホだの無能だのボロカス書かれ放題なんですけど、でも、僕が思うに、今の日本は首相の有能無能なんか、ある意味では大した問題ではないと思います。そんな一人で全てが分かり、全てを決断できるわけではないのだから。どういうブレーンを持ち、どういう方向に進むかの大まかな部分が大事であり、それは即ち「どういうシガラミを持っているか」だと思う。その意味でいえば、市民運動家あがりで官僚嫌いな(厚生省エイズ事件など)管氏と、二世議員ながら意地でも異端街道をひた走っていた小泉氏が一番シガラミが少ないでしょう。トップなんか諸葛孔明である必要はなく、孔明がいなければ延々とドサ回りをやっていた劉備元徳でいいのだ。百戦百敗だった漢の高祖劉邦でいいのだ。大事なのは妙に素人臭いわかりやすさというか、「聖なる虚空」というか、何か話が通りやすい公平さみたいなものだと思います。
ときに、AERAも書いてないけど(まあ、書けないと思うけど)、もう一つ東電とマスコミというシガラミがあるでしょう。東電の広告費の多さは多くの人が書いているけど、例えば
河野太郎議員のブログ(
別窓)や
福島みずほ議員(
別窓)の指摘のように東電自体は18位だけど、電力業界全体では単純計算でその3倍になり(総電力の3分の1を東電がまかなっているから)、また電事連や政府公報なども合わせたら一位のトヨタを抜いて、広告収入によって成り立っているマスメディアの最大のお得意さんになっている。
まあ、その割にはマスコミもあれこれ書いているのですが、これだって二重三重にフィルターがかかってのことだと思います。あんまり露骨に擁護論を書いたら逆効果だし、「このくらいだったらいいでしょう」ってレベルの話だと思います。したがって上記のことだって、別に真相究明でもなんでもななく、「ま、いいでしょ」レベルのことだっていうのは、頭に入れておいていいでしょう。
だからこそネットの出番だ!とかいうと、これもあんまり期待してないです。理由は上に書いたように、ネットだって彼らは操作できるからです。1000億円レベルで広告費を出している電力業界ですよ、その1000分の1の1億円でもネット対策費に使ったらどれだけのことが出来るか。何も別に国民全員を原発教の信者にする必要なんかなくて、一進一退でいいもんね。賛成反対で延々議論やってたら、幾ら議論してもキリがない気もしてくるし、皆もいい加減疲れてくるし、飽きてもくる。そのうち段々どうでもよくなってくる。頃合いを見計らって、段々高度を落としていってソフトランディングでしょう。政財界でうるさい人物をスルーして、何となく収まるところに収まるようにするという。
だもんで僕が注目しているのは個々の政策や決定ではなく、全体として大きな力学構造がどれだけ変わったかです。仮に、東電解体、発電・送電分離が出来ました!といっても、よーく見てみたら、新たな利権の構図がしっかりちゃっかり出来ちゃったりしているかもしれないし、多分そうなっているでしょう。でも、それでもいい。一歩前進だしね。それに、同じ利権構造が出来るにしても、クリーンエネルギーの方向で出来て欲しいですけどね。こっちの方がむしろ大きく甘い汁が吸えるぞってなったら変わるかもしれないです。
1ヤード前進
話は戻って97年の「警鐘」ですが、さすがに日経新聞でも2020年までにこれほどの地震が起きて、これほどの原発事故があるとは予想してなかった(まあ、しないですよね)でしょうが、それによってここまで支配構造に迫って来れたというのは、ある意味、天から降ってきたチャンスであり、禍を転じて福となすチャンスでもあると思う。てか、これを良い方に廻さないと亡くなった方に申し訳ない気もする。
しかし、国家社会の改革というのは、一気に何もかもできるわけがなく(僕らの私生活すらそうなんだし)、アメフトのように「今回は○ヤード前進」って感じで、少しづつやっていかねばならないと思います。で、今回は何ヤード進むかです。
でも、総じて思うことは、97年時代に警鐘が鳴らされていたことは、2011年にもそのまんまだし、おそらくは2020年にもそう変り映えはしないでしょう。でも、2011年現在で問題視されていたことは、97年にも殆ど問題視されていたわけで、なにかがドラスティックに悪くなったというものでもないのですね。
そこで思うのが、先ほど引用した苅谷教授の「学習や実績についてやる気のない人ほど自己有能感が強いという最近の傾向」です。これは平たい言葉でいえば、「ダメな奴に限って妙にエラそう」ということで、日本社会においては嫌悪される人格類型で(日本に限らないが)、いわゆるモンスターペアレンツや、えらくクソ我が儘な若年層という形で日常的に見聞し、人々の不快感を高めていると思います。このあたりが日本の劣化感につながるのかもしれません。でも、こういうタイプの奴は海外には結構普通にいますし、適当にそれなりに扱われています。日本でもグローバリゼーションが押し寄せてますから、こういう連中は、世界流に適当に(日本的にいえば「情け容赦なく」って感じでしょうか)、扱われるでしょうからそれはそれでいい。それに、自己有能感で一人で天狗になってる分には害も少ないです。逆に落ちこぼれ意識と劣等感からグレて犯罪に走られるよりはマシです。
でも、僕が気になるのはその逆のパターン。実力もあり、向上心も努力もする人ほど自己有能感が「ない」ことです。僕のやってる一括パックという”特訓”は、基本的にやる気のある人が来ます。しかし、ここ最近、妙に自信のない人が散見されます。「もっと自信持てばいいのに」って、励ます頻度が段々増えてます。もっとエラそにしてなさいな、もっとつけ上がっていいよって。昔はこんなに言わなかったけどなあ。こっちの方がちょっと心配です。
真面目な人ほど無力感に囚われるのかも知れないし、それは日本人の生真面目さで宜しいことなんかもしれんのだけど、それと1997→2011の軌跡がちょっとダブるのです。97年から見れば、大きくいえばあんまり変わってないし、予想通り悪化してることも多々あるのだけど、だけど良くなってることも結構ある。亀の歩みであろうとも、1ヤードづつ前進している領域なんかも多いです。先ほど述べた政治経済システムについてもそうだけど、90年代の家庭の荒廃に比べたら、今の方が皆さん家庭で仲良くなってるんじゃないの?落ちこぼれだ何だで人を差別したり、グレたりする度合も減ってるんじゃないの?終身雇用が壊れて、経済不安は強まるけど、だからこそ目の前の小さなことを大事にしようという、地に足がついている度合いは高くなってるような気がします。でもそれをあんまり自分らで評価しないですよね。なんで?って思う。
僕などは、もう半分外人のようなもので、かなり突き放して日本を見てるからかも知れないけど、そんなに捨てたものではないよと。もちろんグローバリゼーションでハードな時代になっていくのは確かだと思うけど、それは世界のどこでも同じだもん。前回やったように景気好調なオーストラリアでさえ、その種の不安を人々は重く受け止めているのだしね。別に日本だけが抜きんでて不幸なわけでもない。
ここから先は前に「老年期鬱」で述べたことと重複するのですが、なんかメンタルが弱くなってる気がして、それが一番の問題ではなかろうかと。同じような状況を見ても、悲憤やら奮起する感情面での起伏、エキサイトメントが減ってるような。一回戦で常に敗退していたチームが二回戦に進出できたらそれを喜べばいいのに、二回戦で負けたことを気に病む。二回戦を突破したら三回戦で負けたことを嘆き、準々決勝まで進めばそこで敗退したことを、、と、キリがないよね。書いてて、昔に古文の授業でやった和歌の「係り結び」というのを連想してしまいました。必ず「ああ、ダメだ」という「結びの句」につながるという。
今回の原発、東電関連だって、失ったものも大きいけど、得たものもあるのだ。まず何より原発絶対安全VS危険という神学論争が終って、地に足の着いた議論が出来るようになったのは、過去数十年望んでも得られなかった果実だと思います。今後クリーンエネルギーに転化するとしても、数十年がかりの作業で、尚も原発のお世話になる機会もあるでしょうが、その際にも安全管理の透明度その他で、これまでとは違った突っこんだ話ができるようになるでしょう。
また、国家基幹産業の政財官トライアングルにここまで脚光が当るなんて、ちょっと前までは考えられなかったですもん。話が複雑すぎるし、これといってスキャンダルめいたことも少ないので、一般的に話題になることはなかったですからね。それがここまで知れ渡ってきたというのは、一つの前進です。結局、国民の負担で東電を救済するなんて、はらわたが煮えくりかえるような政治決着になったとしてもですね、それでも係り結びの「ダメ」にはいかずに、「よくぞここまで」とまでは思わなくてもいいから、「とりあえず○ヤード前進」と思うようにしたらいいのではないかと。
警鐘を鳴らすのは大事なことだと思うけど、そんな火の見櫓に登りっぱなしで、のべつまくなしガンガン乱打してたら疲れちゃうよ。警鐘もいいけど、たまには後ろを振り返って冷静に到達点を点検し、達成したことを確認し、祝杯をあげるときはあげたらといいと思う。まあ、それをやると際限なく泥酔してしまう危険性もあるのだが(バブル期みたいに)。でも、警鐘を鳴らし続けると感覚が麻痺して、本当の危機感が無くなってしまうデメリットもあります。年中作動している警報ベルみたいに、「ああ、またか」という。グローバリゼーションというのは誰でも知っているけど、オーストラリアのように「仲間の職場を守るために国産品を買おう」というところまでは危機感もないし、行動にも結びついていない。つまりは冷静で現実的なメリハリをつけることなのでしょう。当たり前のことなんだろうけど。
文責:田村