今回は、前回の続きというか、補足説明みたいなことを書きます。
前回、中高時代たくさん読書をしたから国語の試験には不自由をしなかったこと、これに比べて数学など他の科目の成績は悲惨だったと書きました。これに関連して、補足したいのは以下の2点です。
@. 僕ごときの読書量などたかが知れたものであり、ほんまもんのプロ連中の造詣はケタ違いであること
A. 数学などの科目がダメだったことを、僕自身決して良いとは思っておらず、数学などの重要性を軽視しているわけではないこと
です。
まず@ですが、僕は僕自身「読書家」だとは思っていません。これまでのべ数千冊は読んでると思いますが、その程度の分量で「読書家」を自称するなどおこがましいと思ってます。自分のことを読書家と言われるくらいだったら、まだしもギタリストと呼ばれた方がアイデンティティにフィットします。
前回述べたのは、中高校や入試くらいだったら鼻歌まじりでやれる程度には読んだというだけです。本来の趣旨は、誰だって、なにかにちょっとハマって、ムキになってやってたら、学校の試験程度のレベルだったら幼稚に見えるくらいのところにはすぐに行くよ、ということです。要するに、広い世間のそれぞれの専門領域のレベルからしたら、学校や入試のレベルなんか屁みたいなものだということですね。
読書に関していえば、読んでる奴は読んでますもんね〜。これは音楽と同じで、聴きこんでる奴は聴いてますからね。
それに僕の場合、読んだっていっても、単に「目を通して、スジをおいかけた」程度の読み方しかしてません。いわゆる眼光紙背に徹するような精読ではないです。「川端文学の精髄とは?」なんつっても全然言えないし、外国の文学でも原書で読んだことなど一度もない(せいぜいがペーパーバックどまり)。
まあ、僕程度でしたら、日本に数百万人はいるでしょう。これですら思い上がった推測であると思います。仮に100人中トップであったとしても、日本の人口1億人で計算すれば、その程度の人間だったら、全国に100万人いるんですからね。同じように世界に6000万人くらいはいる、と。日本に100万、世界に6000万もいたら、こんなもん「特技」でもなんでもないですよ。「ちょっとカジった」と言うことすらタメライを覚えるような程度で、履歴書の趣味・特技の欄に書いていいものかどうかすら悩むという。
ちなみに「100人に一人でも、全国で100万人」というのは、「広い世間の物凄さ」を理解するためには覚えていていい方程式だと思います。中学高校で天下取ってていい気になってたとしても、その程度の奴だったら、全国で東京ドーム何十杯分もいるという。100人で一番ケンカが強かったとしても、運転が上手かったとしても、歌が上手かったとしても、英語が喋れたとしても、自分程度の奴はこの狭い日本に100万人はいると。
逆にいえば、世間に出したらまるで凡庸な実力しかなかったとしても、中学高校で天下取る程度のことは出来るということです。ちょっとなにかにハマって、学校の向こう側に広がってる世間を臨むような視界までいけたら、学校の試験ごとき物の数ではない。もう一ついえば、学校の試験の成績ごときは、「ある一時期○○にハマったことがありますか?」というアンケート調査程度のものでしかないということですね。常にそうと言い切ってしまうことは出来ないにしても、そういう視点は持っていても損はないでしょう。だからそれで自分の適性を思い込んだり、あるいは自分の能力を過小評価する必要もないと思います。
次にAですが、数学が出来なかったことを正当化するつもりはないです。やはり出来ないよりは出来た方がいいし、客観的な重要性でいえば、数学は決して国語に劣るものではないと思います。
よく、数学は実社会に役に立たないといいます。四則計算以上のことは実社会では必要ないし、四則計算だった電卓叩けば済むことだからそれすらも重要ではないという言い方もなされます。そういう側面も確かにあるでしょう。しかし、そこで終わってしまっては余りに大事なものを見落とすことにもなりかねません。
「スクラップジャーナル」という個人でおやりになっているホームページがありまして、雑誌などから考えさせられる記事をピックアップしてきて紹介し、私見を付するという地道なことをおやりになっている良質なページだと思います。そのなかに、(FILE−031)数学学習が階層の固定化を防ぐ(西村和雄:京都大学経済研究所教授)という非常に興味深い記事の紹介がなされています。出典は「論座」2001年9月号 14-15頁だそうです。
面白いので引用させていただくと、
筆者(西村教授)は他の仲間とともに調査を行い、興味深いデータを導きだした。それは3つの私立大学経済学部の卒業生を対象に、大学受験の際に数学を選択したグループと、選択しなかったグループに分けて、卒業後の所得を調べたのである。その結果、数学受験者の所得が明らかに高いことがわかったのである。特に共通一次試験後の卒業生では、平均所得の差が107万円と開いたという。日本では、一般に親の学歴が高いほど、子どもの所得が高いという調査結果があるが、数学受験者の場合、親の学歴とは関係なしに平均所得が高かったのである。つまり数学の学習によって、「親の所得にかかわらず高い所得を得る手段になり、階層の固定化(金持ちはいつまでたっても金持ちで、貧乏な人はいつまでたっても貧乏から抜け出せないということ)を防ぐ役割を果たしている」といえるのである。
というくだりがあります。そして、「(西村氏は)目には見えないかもしれないが、数学は日常生活の中で役に立つと訴える。数学(に限ったことではないのだろうが)を勉強することで、論理性が養われ、『たとえ勉強した科目そのものを忘れても、いったん開発された脳の論理的思考力という形で残るであろう』からだ。そしてそういった論理的思考力は『その科目とは直接関係のない学問や日常の仕事に役立つのである』」と結ばれます。
どうして数学だと親の所得と関係なく高所得を得ることができるのか?この点に対する深い記述はありません。数学学習によって得られる論理的思考力が、人生の種々の局面で有効に発揮され、結果として社会的に成功し易いのではなかろうか?という推測はされていますが、もとよりそういった因果関係は、余りに複雑すぎて検証や論証に馴染まないともいえます。
ただ、世間で言われている「実社会の役に立つ」ということを、より平たく、よりナマ臭く翻訳すれば、「沢山お金を稼げる」ということにもなるでしょう。そういう意味では、数学くらい「実社会の役に立つ」科目はない、ということになりそうですな。
数学が実社会でどの程度、どういったプロセスで「役に立つ」のかは分かりませんが、もともと授業内容のナマの内容と、実社会での必要度が直接リンクすることはマレだと思います。直接役に立つかどうかという点でいえば、小学校低学年くらいの内容をやっておけば、つまりは昔の寺小屋の「読み書きそろばん」程度やっておけば十分だとも言えるでしょう。
だって、皆さん、学校で習ったこと、今どれだけ覚えていますか?光合成のメカニズムを説明できますか?被子植物と裸子植物の違いを言えますか?律令国家ってなんのこと?音楽の「へ長調」ってどういう意味?連体修飾語と連用修飾語はなにが違うの?数学に限ったことではなく、この程度の小中学生レベルのことですら知らなくても、別に実生活には支障はないでしょう。ましてや高校レベルともなると、全く不要といっても構わない。アイソスタシーやATP回路など、内容の説明はおろか、どの科目で出てきたかすら分からなくたって別に構わないですよね。作家の曾野綾子氏が「私は二次方程式もろくに出来ないけど、六十五歳になる今日まで、全然不自由なかった」と述べたそうですが、不自由のある/なしでいえば、ハッキリ言って小学校から一切行かなくたって構わないっちゃ構わないと思います。四則計算くらい別に学校に行かなくたって出来るもん。
あ、一応言っておきますと、曾根綾子さんの発言のコンテクストは、おそらく「直接役に立たないことをやっても仕方がない/役に立つことだけやるべきだ」ということでなく、教条的に「中学生だったら○○を知らねばならない、教えねばならない」なんて堅苦しく考えることはなく、また二次方程式が出来ないことは人生にとってそれほど重大なことでもなんでもないではないか?という、至極まっとうな指摘だと思います。だもんで、僕としても彼女の発言に異論を唱える気はありません。発言部分だけを捉えれば全くそのとおりだと思います。ただ、「不自由があるかないか」だけで教育の内容を決めていこうという具合に、本来のコンテクストを離れて引用され主張される場合には、それは違うと思うのですね。
思うのですが、そんな「実生活に直接役に立つかどうか」という観点それ自体が貧乏臭いというか、頭悪いというか、スカタン(死語か)なんだと思います。実生活に直接役に立つかどうかでいえば、高校の正規の授業で運転免許取らせたり、ファーストエイドの資格とらせたり、履歴書の書き方、賃貸マンションの借り方、安くて美味しい料理を教えた方が役に立つでしょう。
だけど「直接」役に立つことばっかりやっててもダメなんだと思います。
また、僕らが生きていく上においては、直接役に立つようなことで、且つ一般的に教えられるような事柄なんて、実はそんなに多くないのではないでしょうか。直接必要なことって、その個々人のライフスタイルに限定された、非常に個人的で特殊なことだと思うのですね。
例えば、今の僕に直接必要なことというのは、日々の英語や、運転技術、パソコン技術などでしょうが、これとて限定された範囲のものであります。運転といっても、より大事なのは、「木曜日の午後4時30分ボンダイからチャッツウッドまで走るとして、もっとも速く走れるルートはどこか」とかいう限定された道路知識だったりします。英語にしたって、ゼネラルにできるかどうかよりも、自分の業種に関した単語や用法です。語学学校に皆さんを紹介して僕はコミッションをいただくわけですが、そのときのインボイスの書き方とか、GST(消費税)の乗せ方とか。パソコンでも、非常に原始的なホームページの作り方とメールの受発信ができればいいわけです。
その他生活全般でいえば、今使ってる芝刈機のガソリンとオイルの混合比率とかですね、掃除機の交換用ダストバッグの型番とかですね、そういった「知識」が「直接」「必要」なのですが、そんなものは学校で教えなくてよろしい。生活してれば自然と覚えます。
このような生活/仕事に必要な知識や技術は、自分の生活が変われば簡単に変わります。早い話が、僕が日本に住んで弁護士やってたときは、以上の知識/技術は一切必要ではありませんでした。別に、英語いらんかったし、車乗ってなかったし、パソコンもやってなかったし、芝刈りしたくてもマンション住まいだったし。今現在日々使ってる知識も技術も、英語をはじめとして殆ど全部こっちに来てから習得したようなものです。でもって、それでいいです。その代わり当時必要だったのは、リアルタイムで大阪地裁第六民事部で、自己破産申立をしてから破産宣告同時廃止決定が出るまでどのくらい期間がかかるかという知識、交通事故の後遺症等級認定申請におけるコツ、真正登記名義回復請求訴訟での訴状の書き方、ひいては、木曜日の午後1時に京都家裁で遺産分割調停期日を入れつつ、午後4時の大阪地裁岸和田支部での和解をいれるのはスケジュール的に大丈夫か?とかそういうことだったりします。今となっては、何ひとつ必要ではないです。
結局、「直接役に立つ」とか「知らなくたって不自由ない」とかいうけど、それって具体的にどういうことなのよ?ということです。
なにが「直接」でなにが「間接」なのか、どういう状態が「不自由」なのか、それすら明らかではないと思います。
話をもっと原点に戻して、学校教育に限らず、僕らが知識や技術を習得するのは何故か?です。どんなイイコトがあるから、勉強したり、覚えたり、習ったり、調べたりするのか?です。
一言でいっちゃえば、「その方がハッピーになれるから」なのでしょう。
じゃあ、なんで知識や技術を修めておくとハッピーになれるのか、です。
これは種々の次元があると思いますが、例えば、
@、世界の森羅万象を知っていればいるほど、より多くの機会に楽しむことができるから
例えば、各地の地理や風土に詳しいほど、旅行に行きたくなる目的地が増えるでしょうし、同じ物を見てもその感銘はより深いでしょう。音楽に造詣が深ければ深いほど、本当の名演に触れたときの陶酔的なショックは深くなるでしょう。
A、世界のことを知れば知るほど、自分がハッピーになる道筋が沢山見えてくるから
古代史のロマン、デザインの奥深さ、映画の感動、株投資の知的スリル、最先端物理学の摩訶不思議さ、なにげない日々の生活の滋味、彩りに満ちた百花繚乱の世界を知れば知るほど、自分の進路や選択肢は広がるでしょう。
B、知っていればいるほど、より広く、深く、複雑に自分の出来ることが増え、より多くの楽しみを見出しうるから
英語ができれば出来るほど海外での就職機会は増えるでしょう、英語プラスアルファの特技があれば尚更チャンスは増えるでしょう。パソコンでも知ってれば知っているほど、安く、多機能で自分のニーズにあったパソコンを自作できるでしょうし、プラグラミングを知っておけば自分の求めるようにソフトを作ったり修正したりできます。このようなダイレクトな知識ではなく、論理的思考能力を鍛えておけば、理解できないことも理解できるようになるでしょうし、計画をたてるにあたっても破綻少なく出来るでしょう。
C、@〜Bと表裏一体になりますが、知っていればいるほどアンハッピーに陥らずに済むから
この世界の複雑な美しさと可能性を知らなければ、単に「大人になってサラリーマンになってリストラされて年金が破綻して、、、」みたいな将来像しか描けなくなって詰まらんでしょう。応急処置法を知らないと助かる命も落とすでしょう。政治を知らんと、止めるチャンスを逃して、いつのまにか戦争に突入しワケもわからないうちに死んでるかもしれません。
まだまだ色々あると思います。
思うのですがこの世界の懐の深さと、一人の人間が生きていくことのドラマ性を考えたら、直接役に立つとか立たないとか、そういったケチなレベルの話にはならないではないか。ある知識Aがなにかの局面Bに寄与するかどうかなぞ、枝葉末節のことだと思います。
国語もですね、出来ればそれなりに人生広がりますし、うまくもいくでしょう。
要するに言語コミュニケーション技術ですから、それが上達すれば、自分の言いたいことを過不足なく、また誤解なく他人に伝えることができるわけですよね。反発を買うこともなく、むしろ大きな共感を得られたりするわけです。言い方一つで相手が敵になったり味方になったりするのはよくある話です。また、「上手く言えない」がゆえに、中途半端な理解や同情を押し付けられて鬱陶しいということも少ないわけです。その意味でいえば、もう、魔法のような技術とも言えます。
数学だって、論理的明晰性を養うことはどれほどメリットが深いか。
なるほど二次方程式は直接生活に出てこないでしょう。しかし、二次方程式を解くだけの論理性やパターンは、実際の生活ではいくらでも出てきます。XとYの二つの変数が登場する二次方程式って、僕が思うに、「意見の違う二人の人間を同時に満足させるにはどうしたらいいか?」ってことなのではないか。社員旅行の幹事をやってて、課長はとにかくゴルフをやりたい、OLさん達は宿のクォリティと温泉にこだわる、どうしたらいいか?ということだと思うのですね。XにはX独特の条件があり、YにはYの事情がある。それぞれの事情を満足させつつ、その関係性を明瞭を認識することだと思うわけです。
当然のことながら実際の社会では二次方程式どころか、登場人物がドカドカ出てきますので、20次方程式、50次方程式になったりします。例えば、今の会社を辞めてオーストラリアに移住したいと思ったとしても、ビザの問題、親の意見、職場の上司の意見、友達の意見、彼や彼女の意見、老後の問題、現地での生計、日本に帰国したときのための安全ネット、もう同時に考え、同時に満たさねばならない条件が何十も出てきます。それらを全て明確に把握し、同時に成り立たせていくのは、結局のところ方程式的思考法だと思うのですね。だから、生きていく基本スキルでもあると思います。
理科だって大事です。酸化還元、腐敗などの基礎メカニズムを理解しなくて、どうして食品の衛生が理解できるのか。ガーデニングやってて土壌が酸性になったときは石灰を撒くとかいっても、土壌が酸性ってどーゆーことか、酸性になるとなんで悪いのかについて正確な理解があるのと無いのとでは全然違うと思います。ベースとなる科学知識の正確な理解は、一定の揺ぎ無い知性を生み出し、ほとんどデマに近いくらいの半可通科学知識(たとえば○○は健康に良いとか悪いとか)に振り回される愚劣さを防ぐ。
社会だって、この社会のメカニズムがわからずに、どうやって就職するのか。日本や世界の産業構造や国際経済のなりたちが分からずに、どうして業種選択ができるのか、どうやって人生設計をするつもりなのか。
これらのことは習ってる時点ではいずれも直接は役に立ちません。それだけ見てたら全く無駄といってもいいくらいでしょう。
でも、本当は確実に役にたってるのだと思います。それは、断片だったら殆ど意味の無いような無数の知識を統合し、使えるように編集しなおしていき、一つの識見レベルまで高め、さらに深く広く確かにしていくという、「強靭な知性」を生み出すのでしょう。
つまり知識が大事なのではなく、知識の習得によって、知識を使いこなす「主体である自分」が練成されていくのだと思います。いっくら知識があったって、百科事典のCD−ROMに囲まれていたって、それを使う主体がアホだったら何の意味もない、ということだと思います。
写真・文/田村
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