最近は受験戦争がものすごいらしいです。
何を今更と言われそうですが、殆どの子供達が塾通いをしているとか。「ほとんど」というのも曖昧な表現ですので、もう少し統計的にどうなってるか調べてみると、平成十年度版の国民生活白書に以下のような記述がありました。
「文部省「学習塾等に関する実態調査」(93年)によると,小学生で76.9%,中学生で28.3%の子供がけいこごとに通っている。また,けいこごとも多様化しており,ピアノや習字に加えて,英会話,水泳,バレエ,スケート,絵画などに広がっている。」
「塾通いが増加している。塾に通っている手供の比率は,85年から93年の間に,中学生では44.5%から59.5%へ,小学生では16.5%から23.6%へと高まっている。特に,小学生についてみると,低学年を含めて塾通いをする子供が増えており,例えば,小学一年生では85年から93年の間に6.2%から12.1%へと増加している(文部省「学習塾等に関する実態調査」(93年))。」
だそうです。
これらの数字は、いろんな資料によってマチマチなのですが、中学生の場合、大体半分から3分の2くらいが塾に通っているようです。90%とか極端な数字ではないのですが、特に進学希望が強い子だけではなく、中卒で就職や家業を手伝う子や、暴走族やったりして勉強方面にはまったく興味のない子も含めた全体の数字で半分から3分の2というのは、よく考えたら結構な数字なのかもしれません。しかも、この数値は一貫して比率は上昇しているようです。
僕は生まれてこの方一度も塾や予備校というものに通ったことがありません。司法試験の受験時代も通ったことはないです。正確に言えば予備校を「利用した」ことはあります。予備校の刊行した参考書を買ったり、模擬試験を受けたりとか、です。でも、「通った」ことはありません。僕のように1960年生まれ、共通一次一期生世代にとって、僕のような「塾知らず」は決して珍しい存在ではないでしょう。
このような僕らからすると、とりあえず今の子供たちは「勉強、頑張ってんだなあ」と思ってしまいます。少なくとも僕らのときよりは多大な労力を傾注して勉強しておられるのであろう、と。
人間のアタマの良し悪しなんか、たかが数十年、数百年で変わったりするわけは無いと思います。
思うのですが、変わったのは、「アタマの使い方」なんじゃないか?と。
昔って、手加減抜きにメチャクチャ難しいことを中高生あたりの年齢の子供にぶつけてますよね。「中学生だったらこのくらい」という進度別・発達別に階級付けられた知識や論理をぶつけるのではなく、16歳くらいの少年少女にいきなり世界の最高水準、人類の最高到達点みたいなものを与えている。これは、やらされる側にとっては手榴弾を投げつけられるくらいハードだと思います。しかし、それでも食らいついて咀嚼出来る奴はいるのですね。人間、中学高校くらいまで成長してれば、その程度の知能は発達しうると思います。
でも、その方がいいんだろうな〜と、ふと思います。その方が思考能力も知識も深くなります。単なる断片的な知識ではなく、教養になり、造詣になります。その昔、小学校で勉強するときは中学校の参考書を、中学校のときは高校の参考書を参照したりするのがいっとき(すごい局地的にでしょうが僕の周囲で)流行ったことがあります。そんな1ランク上の参考書なんか難しくて分からないだろうと思いきや、却ってその方が分かり易いのですね。司法試験の勉強のときも、教科書的なもので分からないときは、図書館の書架をめぐって、全何十巻という膨大な解説書を見たり、どっか大学の紀要のマイナーな論文なんか漁ったものです。でも、その方が理解し易いんです。
なんでか?というと、これはキッチリ理由があると思います。
よりレベルの高い、詳細な本のほうが、細かく深い分だけ論理が細かく分解されているから、わかりやすいのです。「なんでそうなるか」とか、「一般にそう言われているけど、実は異論があって、、」とか、細かく細かく見ていった方が、非常に腑に落ちるのですね。納得しやすい。
ところが、ジュニア用に「易しく」解説された本というのは、論理がボコボコ飛んでる分だけ、実は易しくなかったりすると思います。なんでそうなるのかよく分からないから納得しにくいし、分かったという快感もない。だから詰まらない。そのうち「なんでそうなるの?」という疑問すらもたなくなる。いくら行数が短くても理解できなければその記述は「難解」なのでしょうし、量が膨大であっても理解できればそれは「平易」なのだと思います。量の大小は、時間の長短でもあります。同じ原理を説明するのに、1分で説明されるのと10分で説明されるのとでは、ゆっくり時間をとって説明された方が理解し易いのと同じ。
歴史とか地理などの「社会科は暗記科目」と言われますが、でも「暗記科目」なんて言ってる奴に限って出来ないと思います。歴史も地理も、論理と因果関係のカタマリのようなものです。歴史も細かく見れば見るほど、「なるほど」の連続になります。その当時生きていた人々のナマの生活を、匂いすら感じられるほどに、また映像に出来るくらいにビジュアルに想像できていけば、「どうしてそういう出来事が起こったのか」もまた分かるでしょう。なんといってもエンドレスの連続ドラマですし、超大河ドラマなんですから。
「織田信長が明智光秀の反乱によって本能寺で殺されました。本能寺の変といいます」という教科書的記載だけだったら、これは賭けてもいいけど、読んだ翌日奇麗さっぱり忘れるでしょう。これを無理矢理覚えようとするから暗記科目という言い方になるのでしょう。信長がいかにぶっ飛んだ天才革命児だったか、それがゆえに人の心や命を斟酌する神経が欠落していたか。明智光秀が、美濃の名家に生まれ技芸教養をたっぷり吸収した線の細い秀才タイプであったか。そのため信長のような上司の下で、どれだけストレスを溜め込んでいたか。信長によって荒木村重や佐久間盛重など「謀反の恐れあり」「用済み」と判断された同僚たちが、次々にリストラ=殺されていくのを見ながら、発狂せんばかりの過酷なノルマを与えられた光秀が遂にキレた、、、ほんと、中間管理職サラリーマンの悲哀を絵に描いたような事件だったと僕は思うわけですが、こういうドラマなり、因果関係まで説いている本を読めば、「なるほどね〜」という気になるでしょう。
地理だって、「なるほど・ザ・ワールド」なんていうくらいなんだから、「なるほど」のカタマリでしょう。こういう地形だから、こういう気候だから、こういう宗教だから、こういうライフスタイルになるのだとか、こういう特産物があるのだとか。どうしてイタリアはトマトやオリーブ食ってるのに、ドイツはジャガイモ食ってるのか、どうしてイギリスワインというのはないのか。どうしてアジアは米を食べて、ヨーロッパはパンを食べるのか。結局は植物の北生限界とかいう話になっていくのでしょう。米は寒い地方では育たないが、麦やジャガイモは育つ。麦が出来ればビールも出来る。小麦が出来ればパンもできる。日本でも寒い北海道では、ジャガイモとビールだったりしますもんね。サッポロポテト、サッポルビール。ワインだって、もとになるブドウが育たなかったら作れるわけがないし。だから、オーストラリアワインといっても、後からやってきたワイン技術を持っているドイツ、イタリア系移民が広めたものだと思います。
この世界の森羅万象、どんなことでも細かく見ていけば、必ずそこには「なるほど」という論理があります。もちろん、世界最高の頭脳を結集しても、未だにどーしても分からないものも沢山あります。でも、そこまでいけば、それはそれで「謎」「ミステリー」になるわけで、好奇心をくすぐります。
何の話をしているのかというと、勉強というか、モノゴトを知るというのは、出来るだけ細かく、突っ込んで徹底的にやった方が理解し易いということでした。論理の鎖がブチブチ切れてる「易しい」ダイジェスト版は、論理がぶっ飛んでる分、それだけ読んでいてもわかりっこないです。分からないものは頭に残らない。だから覚えられない。
理解できるものは何らかの感動を呼び、ほっておいても「暗記」なんかしないでも印象に残り、記憶に残る。1ページにまとめられている「易しい」ダイジェスト版を、ウンウン唸って10回読んで結局わからないくらいなら、10ページにわたって書いてある詳細な「レベルが高くて」「難しい」本を「ふんふん」と読んだほうが、時間的にもよっぽど早かったりします。だから、レベルというか、純粋な知能難易度でいえば、易しいと言われているほうが実は難しいのではないかということです。
「青少年に手加減抜きに世界最高水準をぶつける」というのは、実は学校の教室以外では当たり前の話だったりします。音楽でもスポーツでも、10代で世界チャンピオンになる奴はいますし、10代でなれなかったらもうなれないというエリアもあります。ピアノを習ってる人は、10代はおろか小学校に上がるかどうかという時期から、世界最高峰の天才ピアニストの演奏に触れていたりします。文化祭のためにエレキを始めた少年たちも、十代前半で世界最高レベルのプレイに触れてガビーンとなります。Hi-lowsというバンドの「14歳」という曲は、14歳でラジオ聴いて、それで一生が決まってしまうくらいガビーンとくることが歌われてますが、こういう幸福な経験は多くの人にあるでしょう。
サッカーでも、パソコンでも、マンガでも、文芸でも、料理でも、レースでも、釣りでも、物理でも、歴史でも、ロックでもクラシックでも、なんでもそうですが、「14歳だったらここまで知ってたら良い」みたいな制約はありません。それはリトルリーグのように、甲子園のように、インターハイのように、一定の年齢の青少年だけに出場を限定したフィールドはありますが、それは活動の場がとりあえずそこだというだけの話で、子供たちの目に写ってるのは青天井の世界レベルだったりします。だって、天才選手や天才ギタリストのマネをして得意になったりするわけですもんね。
興味の対象としてハマれば、15歳の少年であろうが、そのへんの大人なんか問題にならないくらいの知識とスキルを身に付けます。逆にいえば、子供だろうが、その程度の理解力、吸収力はあるということですね。遠慮なくガンガンぶつけてやっていいでしょうし、またその方がぶつけられる方も面白い。子供扱いされて妙に易しいことを説かれるくらいだったら、メチャクチャ難しいことを遠慮なくブツケられる方が、子供ってうれしいものだと思います。
そして、ムキになって深く没入している領域でこそ、子供たちの思考力、知識、人格が作られていくのだと思います。僕は国語が一番得意でしたが、それって教室習ったから得意になったわけではない。小学校4年生のときに、たまたま家に転がっていた松本清張の「黄色い風土」という長編推理小説を読んだからです。当時読んでたジュニア文庫的な作品からすると、まず量的に10倍くらい膨大だわ、知らない漢字のオンパレードだわで、かなりキツかったのですが、数ページ読んでみて「あれ、俺、これ分かるかも」と思ったら野心が芽生えてきて、国語辞典をひいたりしながらマラソン読書をやっているうちに読破できたわけで、読了したときの晴れがましさというか、充実感というか、それこそ手加減抜きのモノをぶつけられたときの心地よい疲労感と充実感は大変なものでした。で、病み付き。
以来調子に乗って読みまくり、正確に勘定したわけではないですが高校卒業までにかなり読んでます。金がないから毎週土曜日は図書館行ってまして、確か中学卒業までに、松本清張と司馬遼太郎は全集ものを全巻やっつけて、星新一とか江戸川乱歩とか誰でもハマりそうなものも図書館にある本だったら全部読破。高校1、2年は部活で死んでたのでお休みですが、高3の秋になっていよいよ受験勉強、、というときになって、「受験勉強を敢えてしないのがカッコいい」という下らない見栄が流行った(そういう高校だった)のと勉強をしたくない現実逃避とで、純文学ばっかり読みふけってました。夏目漱石全巻読破とか、石川達三、井上靖、新田次郎の山岳モノとか、ドストエフスキー、トルストイ、スタンダール、モーパッサン、もう意地クソになって読んでました。4ヶ月で150冊くらい読んだのではないかな。1日1冊以上は読んでたと思うから。余談ですが、当然翌春の受験は悲惨でした(^^*)。でも、その頃には「大学なんかどこでもいいんだ、要は司法試験に合格すりゃいいんだ」という変な免罪符をゲットした気でいましたから、あんまりビビらなかったという。
これだけ読んでたら学校の国語の試験なんかアホみたいなものです。国語の勉強というのを改ってやったわけではないけど、およそ満点以外取ったことない、といったら勿論言い過ぎですが(書き取りとか国文法とかで落としているから)、何点取って成績がどうだったのか覚えてないくらい眼中になかったです。そのかわり数学とか化学は悲惨でした。今でも覚えてますけど、実点17点くらいで、偏差値34くらいだったときは、さすがに情けなかったですな(^^*)。
余談ですが、高校の同じクラスに、政経だけは抜群に出来る奴がいました。高校生のくせして毎朝日経新聞をマンガのように読んでくるみたいな。1週間前のソ連の閣僚人事までしっかりチェックしていて、背景事情について私見を述べられるという。また、同じクラスに数学だけは天才的に出来る奴がいました。一回、「出題の手違いじゃないの?」と思われるくらい、平均点が30点以下というクソ難しい模試があっても、彼だけは涼しい顔で満点。偏差値100いくつとか、バケモノでしたね。僕は僕で、数学と国語の偏差値が2倍以上違う(40以下と80以上)という。こういう変な奴がいるクラスはそれなりに面白かったです。これだけデコボコがはっきりしてると、張り合うとか平均がどうのとかいう気持ちにならんですよね。もうサッカー部はサッカーが得意、柔道部は柔道が得意くらいの感じでです。
ちなみに大学入試は、結局、読書だけでクリアしたようなものです。国語は楽勝として、同じく歴史モノの小説知識だけで日本史で点を取り、足を引っ張る英語の穴をどれだけ埋められるかという感じでありました。だから日本史といっても、ドラマに出てきた登場人物の知識を聴かれているわけで、感覚的にはマンガや映画のストーリーを聞かれているのと一緒。つまり「あしたのジョーでジョーが力石に敗れたキメのパンチは?@アッパー、A右ストレート、B左フック」「北斗の拳でトキになりすましたニセモノは、@ジャギ、Aアミバ、Bシャチ」みたいな感じですよね。なんか全然「勉強」って気がしなかったです。だから、まあ、結局受験勉強って、ほんと直前の1ヶ月くらいしかやらなかったです。それでなんとかなったんだから、まだ、のんびりした時代だったのでしょうか。
でも、そういった膨大な読書量が、文章力、国語力のみならず思考力、論理構成力をなどを養ったんだと思います。また、「世界の奥行きの深さ」みたいなものも、世の中でモノゴトが廻っていくことについてもうっすら分ったような気がします。そして、それらがひいては今の人格を作っていったのでしょう。松本清張なんて、暗い作品は暗いですもんね。「鬼畜」なんか、女房に逃げられた情けない男が、二人の幼い子供を連れて途方に暮れる話ですが、童話的に美しい父子愛なんか全く描かれず、「この餓鬼、ピーピー泣きやがって、うるせえな」と憎々しげに描かれるわけです。でもって、デパートの屋上の遊園地で子供を置き去りにして逃げてしまう部分が迫真の描写力で書かれるわけですよね。こういった、どーしよーもなく絶望的な人間情景が延々続くわけで、こんなもん小学生が読んでいいんか?って自分でも思いますけど、読んでいいんですわ。というよりも、読んだ方がいいんですわ。少なくとも僕の場合はそうだったと思います。人間のあらゆる局面、醜いものも、美しいものもゴッタ煮にして呑むから、複雑で深い世界観というのが作られるのでしょう。
振り返ってみて、あのとき本にハマらなかったらどうなっていたんだろうとゾッとします。少なくとも弁護士なんかにはなってないでしょうし、オーストラリアなんかにもまず絶対来てなかったと思います。学校の勉強と受験だけだったら、確実に今よりも数ランク阿呆になってると思うし、本当に何処にも行けてないと思います。
僕のケースは非常に特殊だという人もいるでしょう。でも、基本原理みたいな部分ではメチャメチャ普遍的だと思います。誰だってそうだよ、と。
塾や予備校にせっせと通って、受験勉強ばっかりやってたら、結果として阿呆になるというのは、僕からしたらすごく納得できるような気がします。
少年少女が部屋に閉じこもって、あるいは家からも学校からも飛び出して、なにやら親からみたら「いかがわしい」とすら思われるようなことをやってる時間、その膨大な無駄にみえるような時間が、実は人格とか、本当の意味での「賢さ」を養う時間だったりするのではないでしょうか?ギター少年も、サッカー少年も、バイク少年も、同人誌少年も、(もちろん少女も)、それぞれのフィールドで、それこそ「世界最高峰」まで見通せる青天井のフィールドで、世界の「あやなり方」というものを知るのだと思います。そこで皆さん賢くなる。
明治初期の連中がドイツ語で講義を受けてたり、 弊衣破帽の旧制中学の連中がデカルトを論じてたりするのを、現在の学校教育とか受験とかの文脈で見てたら理解できないと思います。それは、むしろ高校生の女の子が水泳で世界新記録を叩き出すような文脈で見ていった方が理解し易いと思います。つまり、そういう一芸に秀でてハマった連中が、若くして世界最高レベルのフィールドをぶつけられてるだけのことでしょう。
でも、こんなこと、ここで僕が長々説かなくたって、誰だって理解してることだと思います。 言葉にしてそう意識してるかどうかは別として、誰だって、そういう道をたどって大人になってきているんだと。
わかっているなら、じゃあなんで日本は未だに受験やったり、塾通いやったりしてるのでしょうか?
この根っこにあるのは、戦後の日本人がみな何となく当然のことと思っている、平等社会・無階級社会という固定観念だと思います。ヨーロッパのように階級社会ではないですから。それはそれでいい面もたくさんあるのですが、弊害もある。差別をなくすということと個性を無くすということは自ずと別問題です。「平等な社会」というのは必ずしも「皆が同じ事をする社会」ではない。
日本は、もっとよい意味での階級社会になっていいと思います。それを「階級」と呼ぶからマズイのであって、生きていく様々な領域がもっと群雄割拠してたらいいのではないか、突き詰めて言えば、人が幸せになるモデルが一つか二つしかないような社会は良くないので、少なくとも10パターンか、20パターンくらいあっても良いのではないか。受験戦争に勝ち抜いていい学校に入るか、あるいは一芸に秀でてプロになる(スポーツ選手や芸能人など)くらいしか選択肢がないのは少なすぎる。皆してお受験やって、塾に通ってる社会というのは、要する成功するにはサッカー選手になるしかない南米の国や、ムエタイの選手になるしかないタイとそう大きく違わないと思います。僕の頃よりも受験が激化し、塾通いが盛んになってるということは、昔よりも日本が南米化してるってことじゃないのか。
じゃあどうすんの?この状況がおかしいとして、ワタシに何が出来るのか?というと、アナタには一番大事なことが出来ると思います。それは教育について論じることではなく、アナタがアナタだけのオリジナルな方法でハッピーになることだと思います。皆がそれぞれ幸福になる色々な道筋を開発していけば、それだけ社会は多様になります。「別に学校の勉強が全てではない」、、というのがキレイゴトではなく、本当のリアリティをもってくるように。子供たちに多様な選択肢を与えるためにも、今の大人達が多様な方法で幸福になる必要がある。そういう意味では、次の世代のためにも、アナタは幸福になる義務があるわけですな(^^*)。ハッピーになってくださいな。意地でも。
ブランキーも歌ってるじゃないですか(って知らないでしょうけど)、
幸せになるのさ 誰も知らない、知らないやり方で
写真・文/田村