前回の「たまたま教」で大幅にカットした部分を今回は書きます。
ところで、読者の方からメールで教えていただいたのですが、「たまたま教」と同じようなことを書いている本があるのですね。
「 たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する/レナード・ムロディナウ (著), 田中 三彦 (訳)」です。ネーミングも「たまたま」で同じだし。「はあ〜」と思ってしまった。僕は全然知らなかったのですが、世界には同じようなことを思いつく人が3人いると言いますが、本当なのねと。というか、僕が思いつくくらいだから誰でも知ってるだろうと思っていたのですが、それを一冊の本に仕立て上げる(しかも翻訳までされている)ところで「ほお〜、大したもんだ」と感心しました。本の解説をみると、いろいろな具体的な実例を散りばめて論を展開しているようで、僕のように思いつきを書き殴るのとは違ってかなりご苦労されたのだと思います。機会があったら読んでみたいものです。
サマリー
さて、今週のお題は、「現代社会における不安と価値相対主義の陥穽」という、まるで大学の期末試験みたいな内容です。こう書くと詰まらなそうなんだけど(^_^)。
音楽でも小説でも映画でも、「現代社会の不安」というモチーフは非常によく出てくるんだけど、僕にはその内容が中々ピンときませんでした。よく聞く話なんだけど、じゃあ「現代社会の不安って何よ?」と面と向って聞かれてあなたは即答できますか?僕もよう分からなかった。自分自身そんなに不安を感じてなかったからかもしれないし、慣れっこになって改めてそう思わないだけなのかもしれない。でも、前回のエッセイを書いてて、「ああ、そういうことかも」となんか分かったような気がしたので、備忘録かたがた書き殴っておきます。
まず、不安の正体そのものは分からなかったけど、「不安に基づく行動」「もしかして不安だからこうなってるんじゃないの?」という事例が最近ちらほら気がつくようになり、それが段々つながってきました。例えば、なんでこんなにマニュアルとかガイドラインが持て囃されるのか、就活や婚活などの「活動」が流行るのか、肉体改造やプチ整形など自分の身体フェチ傾向が強まったり、オーガニックや安全性など食へのこだわりが強くなったり、育児や教育への関心が高まったり、、、これって日本だけではなくオーストラリアでも似たような傾向はあります。世界的な傾向と言っていい。
そして、それと反比例するように、前回「たまたま」で書いたような「人生の偶然性を大らかに楽しもう」という豪放で能天気なアティテュード(姿勢)が徐々に衰退していってるような気がします。つまり、決めないまま、分からないままでいることが不安なのではないか。もちろん不安なのは分かるけど、その不安度がどんどん強まっているという。だから、なんでも知りたがり、管理コントロールしたがり、逆にコントロール出来ないことは近寄ろうとしない。そして、じゃあその不安の根本的な原因は何なの?と考えていくと、それは価値相対主義の陥穽とも言うべきものに行きつくのではないか、と。
以上がサマリーです。
これだけで「ああ、なるほど」とピンとくる人は、これ以上読まないでいいです。
まあ先走らず、順々にいきましょうか。
コントロール依存症
以前「婚活」について、あれって一種の仕組まれた商業ブームじゃないのか?という疑問を書いたことがありました。しかし、よりベーシックには「活動」として捉えることへの違和感がありました。実のところ「就活」についても同じように感じており、そういう人生の大事を「活動」という形でアプローチするのは何か違うんじゃないかと。
この違和感、自分でもよう分からずカッカーソーヨー(隔靴掻痒=靴の上から痒いところを掻く)のもどかしさがありましたが、結局、人生の重大なことほど偶然の事情で決まっていくという、(僕からしたら)当たり前の世界観が軽視されている違和感では?と思い至りました。
希望、計画、努力するのは当たり前のことなんだけど、それでも人の一生などは、サイコロ転がして丁か半かみたいな暴力的な偶然で大きく変わってしまうのだという世界観/人生観は、僕からしたら、愉快、痛快、爽快だったりするのですが、あんまり愉快じゃない人も多いようです。なんでかな?偶然に物事決まっていっちゃうのって、お嫌いですか?でも、だからといって、何でも管理できる、ダンドリを立てられると思うのは誤解だし、傲慢でしょう。でも、「傲慢」というよりは、どっかしたら腺病質的な弱さも感じるのです。コントロール依存症というか、「依存」と言いたいような弱さがあるような気がする。
ここで僕の頭の中に、10年前に読んだオーストラリアのマーケティング&社会論の本が甦ります。
Turning point: Australians choosing their future (Hugh Mackay)という本です。著者のMackey氏は心理学、社会学に通じた研究者&作家でもあり、オーストラリアでも有名で、何よりも著作が鋭くてわかりやすい。僕はファンなのですが(それが嵩じて
「オーストラリア人の肖像」というコラムで翻訳もしてます)、なぜか日本では殆ど紹介されてませんが。
で、1999年に刊行されたこの本ですが、細かな部分は省略しますが、その中に「人々はコントロールをしたがっている」という指摘があります。
”Control. That's become the holy grail of the late Nineties simply because so many of us feel that life has raced beyond our control"(p23)と述べ、これは有名な「不確実性の時代(Age of Uncertainity)」論に連なっていきます。
なにもかもが不確実になってきており、この先どういう時代、社会になるのか分からないし、何が正しくて何が間違ってるかも分からない。そういった漠然とした不安ストレスの反動として、だからこそ自分で管理・コントロールできることが流行ってきていると。それはダイエットや肉体改造など、自分の身体への過度の管理意識を生む。あるいは、子供の教育方法についての意識が高まる。はたまた食生活について、オーガニックなどの食材など健康意識を生む。これはオーストラリアの、しかも1990年代の社会傾向の論文なのですが、まんま日本にも当てはまるでしょう。
健康や教育に関心が高まることはイイコトなのだろうけど、何かしらそこに妙に不健康なものを感じます。
例えば、この20年ほど先進国では「肉体フェチ」になってませんか。エロチックな意味ではなく、プチ整形、美白、メタボ、さらに西欧社会ではやたらタトゥーが流行り、ピアスも流行っています。フィットネスブームや筋肉オタク、サプリオタクも幾分かはそういう部分があるかもしれない。何故そんなに自分の肉体をいじくりまわすのか?それはもうファッションとか健康とかを越えているような気がする。日本や韓国の場合はまだしもファッション性や就職などの要素があるかもしれいけど、西欧人のピアス、特にイレズミはちょっと異常なくらいです。しょーもないイレズミ多すぎ。自分の肉体を触って、確認して、場合によっては変形させて何らかの安心を得たいかのように。これって、もうちょっと先に進んだらリストカットじゃないのか?手首から血が流れるのを見て何かを確認して安心する心理とどっかでつながってるんじゃないか。
このあたりは、かなりシリアスな社会心理学の議論になり、僕も良く咀嚼しきれていないのですが、不確実と不安感が通奏低音のように鳴り続けているなかでは、人々は「なにか確実なもの」をより強く求めるようになる。動機が「不安」という傾いた心理から始まるから、その解決である「安心」も、どこかしら神経症的な傾向を伴う。
そして、時代がそうなれば、マーケティングとしては、羊の群れを一定の方向に導くように不安感をさらにかき立て健康食品やら肉体系、教育系の商品を売るようにすればいいということになります。マーケティングというのは、一種のスケア・キャンペーン(恐がらせて→買わせる)ですから。インフルエンザが流行れば、高額のマスクを売りつけるようなものです。これがまた傾向を助長する。
それがどうした?というと、そのコントロール強迫観念と、婚活のように何でもかんでも「活動」として捉え、情報武装し、ダンドリやカリキュラムでやっていこうという発想には、共通するものがあるのではないか、ということです。それは「管理したい、コントロールしたい」「確かなものにしたい」という強迫的な欲求であり、その欲求を生み出す不安心理です。そして、管理できない、どうなるか分からないことには手を出さないし、そんな世界があること自体考えたくもない。あるいは自分にはコントール出来ない、もう負け組だと思うと途端にやる気がなくなってしまう。「世の中、やってりゃ何とかなるもんだ」とは思えなくなる。想定外の要素で意外と出来ちゃうものなんだってことが分からなくなる。
それが嵩じると、「コントロールしたい」という主観的な希望から、「コントロールできるものであって欲しい」という主観と客観がごちゃ混ぜになった希望的観測になり、ひいては「万物はコントロールできるものだ」という非常に主観的な世界観になります。何を言ってるかというと、純粋な偶然エリアにすらも侵食し、手前勝手な意味付けをし、傾向分析と対策を嵩じようとするようになる。「願いは必ず実現する」みたいな世界ですね。運すらも、偶然すらもコントロールしようとする。出来ないからこそ偶然なんだけど。
なにがそんなに不安なのか?〜動的バランス失調症
だいたい、不透明で不確実で、何がそんなに恐いのか?不安なのか?
未だかつて先行きがクリアに透明だった時代なんかあったのか。人類の歴史をひもとけば、明日も今日と同じようになっているだろう確率は、今が一番高いと思います。特にこの直近100年は、激動に次ぐ激動でした。戦争はあるわ、大恐慌はあるわで、天地がひっくり返るようなことがコンスタントに起きてきた。先行き不透明といえば、昔の方が遙かに不透明でした。「不透明」というのも愚かしく、「一寸先は闇」に近い。だけど、今のような不安心理は少なかったように思います。
状況的にははるかに平穏なのに、心理的には不安が増幅しているという一見矛盾している現象はなぜ生じるのか?
おそらくは「平和の代償」なんでしょうね〜。毎日が激動してたら、安定なんかそもそも無いし、未来なんか見えなくて当たり前。戦時中の青壮年男子だったら、1年後に自分が死んでいる確率は50%以上に思えただろうし、それが普通。そーゆーものとして日々生きていたでしょう。もう全員がガン告知を受けているようなものです。平和な高度成長時代においても、東西冷戦でいつ核兵器が飛んでくるかもしれないし、大地震で死んでしまうかもしれない。「ある日突然全部チャラ」みたいな大破局の可能性を当然の前提とし、そういう死生観のものに日々生きていた。
ところが冷戦終結後の20年、30年、それほど驚天動地の出来事がリアルに予想されなくなってきました。明日も今日と同じような日が続いていて当たり前という感覚になります。そうなると、変化に対する恐怖心や不安感が逆に芽生えてきます。毎日が動いていたら、動いていることに慣れるし、バランスも取りやすい。しかし、じっとしてたら逆に動くのが恐くなる。例えていえば、「義経八艘飛び」というか、よくTVで芸能人がプールの上に浮かべた発泡スチロールの上を歩いていくゲームをやってたりしますが、あんな感じで毎日がグラグラ動いてたら、逆にそんなに不安感はない。不安というよりも今日を生き抜くことで精一杯になる。しかし、じっと椅子に座っていて、もしかしたらある瞬間に椅子をばっと引かれて転倒するかもしれない、でもしないかもしれない、となったら不安でしょう。落ち着かない。そんな感じでしょうか。
特に日本においては、高度成長時代のベルトコンベア式人生観があって、それが不動の安定傾向を助長しているように思います。ガッコ出て、いい会社に入って、そこそこ人並みに頑張ってれば、人並みに幸福になれるよと。年功序列の終身雇用。日本列島のド真ん中に見えないベルトコンベアが走っていて、その上に登ればOKで、そこから脱落したら「落ちこぼれ」としてそれ相応の不利益を受ける。これめちゃくちゃ楽チンですよね。人生の成功の極意=動く歩道に乗ること、ですもん。超イージーな処世訓です。もちろんより良いコンベアに乗るために熾烈な競争社会はありますし、その弊害はあるけど、それでも「コンベアなんか無い!」という状況に比べてみたら、はるかに楽ですよ。そもそも「競争」なんて場が設定されているだけ甘いです。本当に恐いのは、誰と何を競争すればいいのか分からないこと、そもそも競争すればいいのかどうかも分からないことです。
若い人ほど身に染みて知ってるでしょうけど、今の日本にコンベアなんか無いです。まあ、無いことはないけど数は減ってるし、今後増える見込みもない。それはもう理論的にも経験的にも多言を要しないのだけど、腹の底からそう思い切れてない人、なんだかんだ言ってまだ昔の日本の方程式を前提にしている人が、今の日本の70%以上はいると思います。丁度の今頃の気候、晩秋の行楽シーズンを迎え、もうかなり涼しくなってきているのに、まだ夏の日々が忘れられずにTシャツ一枚で過している人が70%以上いると。でもこれを変えるには生き方から価値観まで変化させないといけないから、ものすごく難しいと思います。
だから、未だに「新卒採用」なんてことやってるのでしょう。欧米では余り見かけないシステムですが、これって要するに、労働力にキャリアや即戦力よりも、ヴァージニティ=「あなたの色に染めてください」という点を重視するからこそ出来るシステムですよね。「コンベア無し」認識が100%浸透するのは、おそらく日本から新卒採用だとか就活という儀式が消滅する頃でしょう。だから、まあ、当分無理ですね。でも、それが時代遅れの様式であり、世界経済の情勢から刻々と遅れているのは、勉強好きで賢い日本人だったら誰でも知ってる。頭ではもう秋なんだ、Tシャツなんか着てたらダメなんだと知りながらも、皆もTシャツ着てるし、企業もTシャツ採用するから着ないわけにはいかない。でも、絶対的に気温が下がってるからやっぱうすら寒い。比喩的にいえば、この寒さが「不安」なのでしょう。
価値相対主義の落とし穴
もう一点、こちらの方がより心理的にディープな原因だと思いますが、価値観の相対化が進んだことです。
思えば昔は無茶苦茶だったけどシンプルでもありました。東西冷戦の両陣営は、互いに相手を悪魔呼ばわりして、こっちが絶対善で相手が絶対悪と思えば良かった。これも楽ですよ。「鬼畜米英」と変わらんし、宗教だもん。人が一番心安らげるのは、宗教に絶対的に帰依することだし。だから話が宗教的になればなるほど心は安らぐ。
ジェンダーについても、男女の社会的役割は、それがどんなに理不尽なものであったとしても、クッキリと明白でありました。倫理にせよ、道徳にせよ、かなり盲目的ではあっても、信仰心を忘れず正しく生きればそれで良かった。そこでは何が正しいかなんか自明のことで、普通そんなところで悩みはしなかった。生き方にせよ、封建社会のときは身分制度に従い、高度成長の時期は猛烈に頑張ればそれで良かった。社会には、ぶっといラインが黒々と引かれていて、あんまり複雑なことを考えなくても良かった。
もちろんこういった旧態依然たる価値観には、戦後のベビーブーマーを先頭に大反発が起き、サブカルが生じ、フェミニズムが起き、学生運動が起きた。しかし、敵がクッキリ明瞭であってくれればくれるほど、その反抗も迷いが少ないです。親や教師や上司が、結晶のように古くさい価値観一辺倒であり、強大で、傲慢で、憎々しげであってくれた方が、迷いなく反発できます。「馬鹿モン!」といってぶん殴られたら反発しやすいけど、年老いた両親の寂しそうな背中なんか見ちゃったら反抗できないですよ。
そして、今、往年の絶対悪や絶対善みたいなものは少なくなりました。
みーんな物わかりが良くなっちゃったもん。年長者の石頭の硬度は軟弱化し、年少者の「聞き分けの良さ」は高まっている。「ダイヤモンドのような硬度を誇る石頭・ゲジゲジ眉毛のカミナリ親父 VS 狂犬のように見境なく噛みつく若者」という血湧き肉躍る「伝統の一戦」カードマッチは少なくなりましたよね。でも、これ、「相互理解が深まった」というよりも、単に気が弱くなっただけって気もしますが。
結婚して子供を産み家庭を守るのが最高善だとも言い切れなくなり、「他人に迷惑をかけなければ」「その人がそれでいいと思っているなら」何でもアリになった。なにもかもが「別に〜、いいんじゃない?」って感じになった。自由が広がった。良いことではあります。頭ごなしに一つの価値観を他人を押しつけるようなことは流行らなくなった。絶対的な価値観がドーンとあり、誰もがそれに無条件に従うべきという価値絶対主義ではなく、人それぞれ価値観は違うのだ、Aさんにとっての善はBさんにとっては悪にもなりうるのだという価値相対主義がメインストリームになっていきます。
価値相対主義は、かつてのゲジゲジ眉毛時代には、強大な敵への反抗ツールとして持て囃されたし、僕も熱烈な信者でありましたけど、いざそれがメインストリームになってしまうと、妙に居心地の悪さを感じますね。もともとがパンクロックみたいな思想なので、誰もがパンクスになってしまったら、それはパンクなのか?みたいな感じ。
で、この価値相対主義の世の中は、すごい自由なんだけど、自由というのはガイドラインがどこにも無いということです。太平洋のど真ん中にポツンと浮いているようなものであり、背も立たなければ、周囲は水平線しか見えない。もうとっかかりがない。盲従すべき絶対的な教えも基準もないし、とにかく盲目的に反抗すればいい敵もいない。東西南北どちらにいけばいいのか誰も教えてくれないし、言われたところでそれが合っているかどうかも分からない。
まるで真っ白な部屋に入れられたような、まるで無重力空間に頼りなく浮かんでいるような。でも、それが「自由」と言うものでしょう。そこで「不安」が出てくる。ガイドラインがない不安、自由にもとづく不安です。自由という光によって生じる影を不安という。自由になれば、オノレの体内にあるコンパスと魂の導くままに堂々と進んでいけば良いのですが、しかしリアルな人間はそんなに強くないですよ。だから指針を求める。価値相対性を認めつつも、その無重力空間のような不安定さがしんどくなる。何が正義で何が悪かなんかわからないよ、と理性ではそう言うのだけど、いざ本当にそうなってしまうとやっぱりツライ。
で、どうなるかといえば、以前にも増して秩序を求めるようになる。例えば、西欧も日本も犯罪に対する重罰化が進んでいると言われます。オーストラリアでもそうです。日本でも青少年犯罪への厳罰化(可罰年齢の引き下げ、2007年11月1日施行)、90年代アメリカでのスリーストアライクアウト法。価値相対社会で皆が寛容になっているのだけど、その代償のように、ある局面では寛容ではなくなってきている。メディアの論調も、理性的分析というよりもエモーショナルな犯人捜しやスケープゴート叩きに走る。あいまいな灰色の世界だからこそ、無理にでもシロクロつけて理解したいという、幼稚なまでの善悪二分論になる傾向がある。皆が物わかりが良くなって、自由でのびのびした社会になったかといえば、なんだか逆に息苦しくなっている。
はたまた、皆に共通する価値観がない(あってはならない)のだから、見知らぬ他者とのつながりが希薄になる。隣人が何を考えても良いということは、何を考えているか分からないということでもあるし、自分とつながってる感じしない。かくして同じ価値観を持ってるもの同士が同好会的に群社会化、タコツボ分化し、さらにその中でも個々に孤立していく。それと反比例するように、友達や仲間の値打ちが増大する。かつては友人なんかオデキみたいなもんで、ほっといても勝手に出来ていたけど、だんだんレアアースみたいに感じられていく。
あと、 3番目の理由としては、世界が複雑になり、また世間のあらゆる権威秩序が曖昧になってきている点が挙げられるでしょう。ここも書いてたら長くなったので、またバッサリ割愛します。
まとめ
あれこれ書きましたが、一言でいえば、それまでクッキリ見えていた世界の輪郭が、時と共に徐々にボヤヤンと薄くなってきている。だんだんと白い霧に包まれているように、よく分からなくなってきている。しかしそれでも時代は進む。フロントガラスが曇っているのに進んで行かれたら、そりゃあ不安でしょう。でも、事態を把握しようとしても、情報が多すぎたり、矛盾したり、拠り所になる足がかりがガラガラ崩落したりして、結局はよく分からない。だから不安だと。まあ、「現代社会の不安」というのは、一面ではそういうことではなかろうか、と思ったわけです。
オマケで言うと、マーケティングでいえば、これからは(既に)ベタなものが流行るのではないでしょうか。サブではなくメインの王道系。サブというのはメインが憎々しげに強大だからこそ輝くのであって、メインがヘタれてきたらサブで遊んでる場合ではないという。「アンチなんたら」というのはそういうもので、巨人が憎らしいほど強いからこそ阪神ファンが燃えるようなものです。で、王道って何?というと、だから、昔ながらの親子、夫婦など家族の愛情とかさ、努力すれば報われるとかさ、真心は伝わるとか。大事なことだけど、一昔前だったらクサいの一言で終りだったようなことが、今はそんなにクサくない気がしますね。あ、あと、「競争」という要素が減ってるような気がするので、同じ真摯に頑張るにしても、外向的な頑張り(他者に勝つ)のではなく、内向的な頑張り(自己確認)にシフトしてると思います。で、その「内向的な頑張り」がすなわち、「自己コントロール志向」なんだろうなと思うわけです。
そうやってコントロールに頑張るのは必ずしも悪いことではないし、先行きが分からないときこそ「足下を見つめよ」というのは鉄則でしょう。ベタな価値を再確認するのもイイコトだと思います。でもでも、しつこいようですが、視線があまりに内向きになりすぎて、偶然の手によってポーンと放り投げられる快感と展開を見失わないで欲しいです。誰に対して言ってるのか自分でも分からないのだけど、ここは強調しておきたいのでした。なぜなら、偶然の要素がない人生、偶然に助けられない人生なんかありえないからです。もし偶然要素を一切無視して人生を思い描いたら、それは本当の現実よりもかーなり絶望的に見えるでしょう。
文責:田村