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今週の1枚(10.07.12)




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Essay 471 : 「政治」という日常スキル 〜「遊び」を思いつく能力



 写真は、最近オーストラリアで活発に出店展開しているMax Brennerというチョコレートカフェの受け皿。書いてある内容が面白いです。"Drink your coffee in a decent way (don't forget you are an adult). Then lick the chocolate leftovers to keep the child in you forever"「コーヒーはキチンとしたマナーで飲みなさい(あなたはもう大人だということを忘れずに)。そして、残ったチョコレートをペロリと舐めましょう、子供の心をいつまでも忘れないように」 。
 Max Brennerって、ずっと前にChatswood Chaseに出店してたのを覚えてます。イスラエルのチョコ屋さんということで印象に残ってました。いつのまにか無くなってしまったけど、去年あたりからシドニーのあちこちにカフェとして再登場してます。10軒ほどありますが、シティには二軒だけであとはブラックタウンとかセントアイビスとか地味なサバーブ展開もしてます。写真はニュータウン店で取りました。Max BrennerのHPのAbout usをみると、マックスさんの軽妙な文章が載ってます。「小説家になりたかったけど、まだなれてない」とか。
 美味しいし、メニューや容器が凝ってて面白いのですが、いかんせんちょっとお値段高めですね。安く味を確かめたかったら2.5ドルのチョコレートリックがいいです。でも夏場はIcy Shakesが高いけど冷たくて美味。メニューが変わってるので、現場のカウンターで全てを把握して注文するのは大変です。事前にHPからメニューをダウンロード(PDFファイル)して、じっくり予習してからがいいです。
 ちなみに、ことホットチョコレートに関していえば、ハーバーフィールドのCOLEFAXが僕的には一番好きです。惜しげもなくチョコが入ってて満足感高し。単品買いのチョコも安い(シティで買うの半額くらいか)。行くのが面倒だとは思うけど。ココにもちょびっと紹介してます。




 参院選が行われましたが、「政治」というのはプロの政治家が国会や議会、あるいはどっかの料亭でアレコレやってることだけを意味するわけではありません。
 実は、僕もあなたも日常的にやっている日常的なスキルだったりします。そうとは意識してないだけで。前回につづいて、日常生活における「政治」について書きます。

ああ、「政治」が欲しい!


 「ああ、”政治”が欲しい!」と痛感したことがあります。その昔、インターネットの前身となったパソコン通信というのがありましたが、その黎明期の頃の話です。分野ごとにSIGとかフォーラムと呼ばれる「場」があり、そこで同好の士が集まってあれこれおしゃべりしたり、熱く議論したり、オフと呼ばれる飲み会があったり、イベントがあったり、、、。新しいもの好きな僕も参加していたのですが、単に楽しくお喋りして、飲んで、それで終わりという状況に物足りなさを覚え、もっと現実世界にコミットした「実のある」ことをしようとあれこれやってました。その話をやり始めたらキリがないので別の項に譲りますが、あの体験がなかったら自分の人生も随分違ったものになっていただろうというくらい濃い体験でありました。

 そのときに思ったのですね。「ああ、政治が欲しい」と。
 僕が参加していた異業種交流系のフォーラムでは、殆ど全ての業界、企業からメンツが集まっており、まさに多士済々だったのですが、「これだけあらゆるプロが集まっていながらも”政治家”がいない、最も求められるのは”政治家”だ」と思い、そう訴えたりしました。ここでいう”政治家”というのは、いわゆる職業的な代議士=国会や地方議会の議員さんではなく、本業は何でもいいんですけど、「皆のとりまとめ役になる人」くらいの意味です。もちろんシスオペ(システムオペレーター)などと呼ばれる管理人等はいましたが、そういう管理的なものではなく、もっと本質的意味での「政治の出来る人」です。

 なぜそう思ったのか?それは、ただ人がいるだけでは物事は動かないからです。
 メチャクチャ面白いメンツばっかりだったし、その道のプロとしてディープな話も教えてもらったし、議論や飲み会も楽しく、有意義だったのですが、でも、それだけっちゃそれだけです。もっとこう、現実に物事が進んでいったり、ひいては自分の人生の現実がサクサク変わっていったり、、という部分に欠ける。飲んで喋って終りだったら、物事は動かないし変わりもしない。ちなみにネットというのはここが恐くて、やってる最中はネット上でどんなことでも出来そうな無敵感があるのだけど、しょせんは画面の中だけの話で、PCの電源を落としたらシラ〜とした自分の部屋があるだけで、結局現実は何にも変わってないという。僕にはそれが何とももどかしかった。これだけのメンツがいるんだから何にも出来ないワケがない、もっと面白いことが出来るはずだと。

 というわけで、他人に何かを期待しているだけでは現実は動かないのだと、自分らで色々と新しい提案をし、あれこれ動き回り、小さなところから徐々に実現させていきました。有志でお金を出し合って全国に何カ所かのマンションを借りて日常的な拠点を作り、全国の皆が一堂に会する集まりやら、小さいけどビジネスアイディアを温めて実際に製品化して世に出したり、それを各広告代理店や新聞、雑誌に書いて貰ったり、また自分達の手で株式会社まで設立しました。また、他の交流会にも仁義を切りにいってジョイント企画をやったり、持ち回りで会員が講師になって各業界のディープな話をしてもらったり。

 これら一連の過程において人間集団においてなぜ「政治」が必要か、「政治」というのは何なのか、人間の集団というのはどういう刺激に対してどういう化学変化を起こすのかということを沢山学べたように思います。

カレーの原理 有機的結合

 「政治」というのは料理みたいなものです。
 ここにこれだけの材料があります、この材料をフルに使って、いかに美味しい料理を作り上げるかというのが原点なのでしょう。ジャガイモと人参、タマネギ、カレー粉があり、水と火と鍋があればカレーが出来ますよね。平常時においてはジャガイモはジャガイモ、カレー粉はカレー粉でしかなく、そのまま食べるなら、ジャガイモを生囓りし、カレー粉もそのまま食べることになり、とても食えたものではないです。それらが合体しなければカレーにはならない。しかも単に合体すれば良いというものではなく、ジャガイモの上にポンとカレー粉を乗せただけでは何も始まらないし、カレー粉とジャガイモをすり潰して混ぜただけでもダメ。やはり合体するにはそれなりのダンドリやタイミングというものがある。「有機的に結合させる」とか言いますが、それぞれに意味のある形で結合させないとならない。

 今ここに4人の人間がいます。Aさんは歌が上手く、Bさんはギターが上手く、、と、それぞれに特技を持っているのですが、バラバラの状態では、Aさんはそこらへんの河原で歌い、Bさんは自宅でギターをつま弾いてるだけです。それらが「合体」してバンドを作り、それぞれの才能を生かしていくと、もしかしたらビートルズのような人類史に残るような音楽が作れるかもしれない。そこで結果を出さなくても、単純に皆で集まってワイワイやるのは楽しいし、選曲、練習、発表を通じて一人でやってるときは違った濃厚な時間を過ごすことも出来ます。これが有機的結合です。

 今ここに、腕のいいエンジニアAさん、経理に強いBさん、営業の鬼Cさんと、どんな人にも好かれる人望家Dさんがいて、彼らがその特徴を生かしながら会社を起業し、頑張って発展させていく、、、これも人材の有機的結合です。

 要は「皆で集まって何かやる」ということですね。こんなことは皆さんも子供の頃からやってきたでしょう。原っぱで駆け回って、野球やったりサッカーやったり、マンガ描いたり、基地作ったり、、、。単品バラバラだったらそれだけのものを、有機的にうまいこと結合させ、より大きな、そしてワンランク次元の高いサムシングを作り上げる。

 しかし、単にそう思ってるだけでは何も始まりません。山火事みたいな自然発生を待ってていてもダメで、「あのさー」って他人に働きかけるところから物語が始まり、最初は小さな出会いだったものがやがて大きな絆になり、雪だるま式に転がる度に規模も大きくなっていきます。しかし、全てが順調に進むべくもありません。人間というのはワガママなものですから。Aさんがやりたいことと、Bさんがやりたいことが全然違うこともあるでしょう。大筋では一致していても、細かなところになると全然違うってこともあるでしょう。やりたいことは同じなんだけど、「やり方」が違うということもあるでしょう。また最初は良くても、段々と相互に対する不満が鬱積してきて、大喧嘩の末に空中分解ってこともあるでしょう。

 こういった一連の過程をみていくと、それなりに上手に働きかけていく作業や、多くの人々の想いを凝集させたり、調整したり、場合によっては切り捨てたりという作業が必要だということが分ります。そして、それをやるのが「政治」であり、「政治家」なのだと僕は思います。つまりは、僕もあなたも何らかの局面では政治家であり、日々政治を行っているということです。そうとは意識していないかもしれないけど、やってることの本質はそうだと。

 これらの作業を成し遂げるためには多くの技術と能力が必要です。
 例えば、各素材(メンバー)の特徴を深く洞察する力、それらを合体させると何が出来るかを予測、想像する力、さらにそこで企画構想したビジョンをメンバーに訴える表現力や人間的信用力、有機的に合体させていく過程で生じるゴタゴタを巧みに調整していく力、さらに初動的盛り上がりのあと必ずやってくる中だるみを次々に新しい方向性を示すことでテンションを維持させていく持続力、また同じように結合している強力な他のグループと連携し、場合によっては喧嘩も辞さないくらいの強面や駆け引きも出来るしたたかさ、、、もうムチャクチャ沢山あります。どれもこれも揺るがせに出来ない大事な工程ですし、僕自身も体験的に学ばせて貰いました。それらを一つ一つメモ的に書いていきたいと思います。


ビジョン/構想力=「遊び」を思いつく能力

 思うにこれが一番大事な能力なのかもしれません。

 単なる利害調整だけだったら小ボス連中が談合をやってればいいわけで、それはそれで政治の一面ではあるのだけど、それだけだったらあんまり社会は面白くならない。クラスの中に学級委員長がいて保健委員がいて給食当番があって、、というのは、組織を運営するにあたり大事なことなのかもしれないけど、それは日常的な業務を日常的にこなすための言わば「官僚」であって、「素材を有機的に組み合わせて新しいサムシングを創造する」という「政治」にはならない。

 やはり、みなが「お?!」と思うようなビジョンをブチ上げて、「もし、本当にそうなったら楽しいだろうな」とワクワクさせるような要素が必要だと思います。なんというのかな、退屈な日常でドテーっと寝転がっている魂の腰みたいなものを、ふわっと浮き上がらせるような感じ。つまりは「面白いことを思いつく」ことです。

 しかし、このエッセンスというのは抽象的に言うのは簡単なのですが、具体的に「これだ」と示すのは難しいです。
 うーん、そうだな、冒頭に述べた交流会での飲み会の企画を例に取りましょうか。

 飲み会でも、単にいついつどこで飲み会をやりますという告知だけではなく、そこにちょびっとヒネリを入れると面白くなります。実際にやった例では、古い話で恐縮ですが、昭和天皇が崩御され、大喪の礼の当日に飲み会を挙行するということをやりました。あの頃、マスコミも商店街もどこもかしこも自粛、自粛の自粛ブームで、それが何となくけったくそ悪かったのですね。別に天皇に恨みはないし、個人的には敬意も抱いているけど、やり過ぎちゃう?と。日本人の横並び意識というか、保身的な自粛ブームが鼻についたので敢えて大喪の礼当日に飲み会をぶつけてやれと思ったわけです。反権威主義の大阪でしたから、「どっか一つくらい開いてるんちゃう?」と。場所も決めずに大阪駅に集合し、実際どれだけ自粛しているかを阪急東通り商店街などを歩きながら見聞し、どこも開いてなかったら大阪駅裏で皆で缶ビールで乾杯して散会、「この非国民どもめ」と右翼の襲撃を受けたら皆でキャーキャーいって逃げまどおう、という企画ですね。蓋を開けてみたらさすが大阪、どこも普通に営業してたし、普通に人も入ってたし、右翼も来ませんでした。「自粛ってどこの国の話?」てな感じで、ははあ、これがマスコミの描く世情とリアルな現実との差なのね、と一つ学んだりもしました。

 同じようにタイムリーな企画だったら、リクルート事件で連日マスコミが大騒ぎしている最中に、渦中のリクルート本社ビルの社内バーで飲み会をやっちゃおうとか、ソ連が分解してロシアになる前にCISとかワケのわからない時期に、旧ソ連領事館の人達と懇親会を企画したりもしました。面白かったですよ。

 別に時事ネタでなくても何でもいいんですけど、要はプラスアルファのエッセンス、大阪的にいえば「ヒネリ」を入れて面白くする。そしてこれも大阪的な「おもろかったらええねん」というノリでやってしまう。皆で企画会議(ただ飲んでるだけだけど)の席でも、その企画が採用されるかどうかは「おもろいかどうか」であり、出来れば「聞いた瞬間爆笑してしまうような企画」が最良とされてました。

 忘年会とかハイキングというありふれた企画でも、「おもろなかったら、おもろいようにやったらええねん」ということで、とにかくヒネってました。どっかに必ず一つ斬新な、というよりも「変な」発想を入れておき、ありがちな企画でも妙に新鮮に思えるように。例えば、これは架空の設例ですけど、「古都奈良を散策する会」だけだったらありふれているけど、「古都奈良を”カッコつけて”散策する会」にする。参加要領はとにかく「カッコつけること」で、それをベースに皆でワイワイやるわけですね。「ベレー帽とかかぶってそれらしいカッコしてこなあかん」「崇峻天皇が暗殺されたのはこのあたりでしたかねとか、知ったかぶらないとあかん」とかルールをつくるわけです。これが当ると、本当にベレー帽とか買っちゃう奴が出てきて、「○○さん、ほんまに買うたんやて」「アホか」「やる気満々やん」とまた爆笑になるという。

 大学の司法試験受験のための研究室時代も、「皆で意味なく愛宕山に登り、山頂の広場でいいトシして皆でカンケリをやる」という企画を立てたことがありますが、これも超面白かったですね。人生賭けて受験をやってる連中ばかり、なかには奥さん子供を抱えて必死にやってる人もいます。その人達にこんなお馬鹿な企画をぶつけたわけで、「カンケリ?馬鹿かお前」と一蹴されると思いきや、あまりにも馬鹿馬鹿しいので逆に皆ノリノリになり、童心に帰ってキャッキャやってました。頑張りすぎて足がつってしまった先輩もいましたね。今思い出してもニヤニヤ笑いが出てきます。

 というわけで、くっだらないんですけど、でも「遊び」ってそーゆーもんだと思うのですよ。クスクス笑いながらも、やたら超真剣にやってしまうという。大体、人間というのは遊んでるときが一番真剣ですからね。これは僕個人の偏った私見なのかもしれませんが、「皆で何かやる」ためには、それがボランティアだろうが、シリアスな住民運動だろうが、どっかしらワクワクするような、出来れば笑っちゃうようなエッセンスが必要なのだと思います。

 そして、これは単におちゃらけて遊んでいる以上の意味があります。
 これもすごく学んだのですが、立派な理念やタテマエだけでは人はそうそう動いてくれません。義理とか圧力で動員をかければ動くのだけど、それは渋々動いているだけです。「自発的にやる気になった」ときの人間のパワーというのは凄まじいものがありますからね。それを引き出さないとその集団のポテンシャル(潜在能力)を引き出したことにならない。でも、他人に自発的に動いてもらおうと思えば、理念だけ連呼しててもダメで、それなりのフックがないとならない。それが例えばどっかしら「ワクワク」するような要素が入っているかどうかってツボになります。これは、あとで述べるかもしれないけど、官僚的で硬直的になっていくことを防ぎ健全な初期衝動を守るという効用もあります。

 それに笑いとかワクワク感を入れることで物事の本質が見えてきたりもします。宴会でもハイキングでも、そのままの形でやってるとついつい日常的な垢がついて、何となく「そーゆーもんだ」でやっちゃったりするのですよ。でも、何となくやってることって面白くないです。「しきたりだから」でやってると仕事や義務みたいになっちゃう。でも、ほんとは面白くなかったらやらなきゃいいんだと思います。面白いからこそやるんでしょうが。だから「なんでそんなことすんの?」「何が面白いの?」ということを一旦頭を白紙に戻して、サラから純粋に面白さだけを追求したほうが、「なぜこんなことをするのか?」という物事の本質が浮き彫りになります。


 いずれにせよジャガイモと人参と、、と材料を見て、「○○が作れる」というアイデアが思い浮かぶこと、これが大事だと思うのです。子供の遊びもそうです。今ここに原っぱがある、人数が○人いる、「だったら、○○して遊ぼう」と思いつくかどうか。そして、今ここにこれだけの人材がいる、これだけの機材がある、これだけの資金がある、だったら何が出来るか?です。そういったビジョンを思いつけるかどうか、皆をその気にさせることが出来るかどうか、まずそれが政治の第一歩であり、リーダーとして欠くべからざる資質ではないかと。

 話を国政レベルに引きあげれば、今ここに日本という四季折々の自然美に満ちた国土があり、1億2000万人の人間がおり、科学技術や経済レベルとしてこの程度の力量がある、さてこの日本のまつわる素材をどう有機的に結合して、どういった方向にもっていけばいいのか?というビジョンがあるかどうかです。

 だからですね、ここでちょっと極論を言うと、今ここに日本人と呼ばれる人間集団が日本をやってるわけですけど、面白くなかったらやらなきゃいいんですよ。おもろなかったら解散という選択もアリです。「日本解散」。国といい国家といい、別に月や火星みたいに自然現象としてあるわけじゃないですからね。勝手に大地に線をひいて国だと思ってるという「お約束」に過ぎないわけだし。だから詰まらなかったらスッパリ止める!くらいの気合でもの考えた方が良いのではないかと。ここにこれだけの国土があり、これだけの人材がいる、せっかくこれだけの素材がありながら、こんな「料理」しか作れないのか、こんな「遊び」しか思いつかないのか、もっともっと面白くなるんじゃないか?と。ビジョンといい、発想というのはそういうものだと思います。


 では、どうやったそういうビジョンや発想を得られるのか、そのためにはどういう資質やコツが要るのか、それを皆に伝えるにはどういう点に注意をすればいいのか、、、実は既にそこまで書いてしまったのですが、分量的に微妙なので(載せたら長くなりすぎ)、ちょっといつもよりも短いけどここで切ります。以下次回。


  文責:田村






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