以前、ワーホリや留学サポートをして差し上げたのが縁で、その後もちょこちょこウチに遊びに来てくれる方々がいます。そういう方は沢山います。数えたことないけど、数十人という単位でいるでしょう。なんせ、多くの場合、サポート中はウチで寝泊りされるわけですから、それなりに親しくなります。そのうちのお一人=-後々の永住権取得や資金稼ぎ目的で2〜3年日本に帰ってバリバリ仕事してみようということで日本に戻られた方=が、先日、遊びにきてくれました。
「あれ、日本に帰ったんじゃ?」
「いやあ、またこっちに戻ってきてしまいました」
なんでも、日本に帰って東京の山手線に乗ってたら、「こら、あかん」と思って計画変更してしまったそうです。「こんな暗い顔をした人達の中で何年もやっていくのかと思ったら、もうちょっと耐えられないなと思っちゃって」と。
うーん、ま、気持ちはわかります。僕も日本にいる時分から、「なんで、こんなに皆さん不愉快そうなんだろう」「不機嫌そうな人ばっかりだな」と。やっぱり、「これは、アカン」と僕も感じたりしました。こんなところにおったらおかしくなってしまうわ、と。
もっとも、数年前日本に戻ったときの僕の目には、心なしか人々の顔が良くなってるような気がしました。これは、99年2月の話に帰国した時の話で、雑記帳の「キサラギ99/日本にて(1)」
でちらっと述べたのですが--、
見栄張りバブルも終ったし、横並びシステムも終ったら、もともと持ってた本来の自分に邂逅出来る。何だかワケのわからん、あるんだか無いないんだか分からん「世間」。それに合わせるにせよ、反発するにせよ、もうそんなことしてる時代じゃないという、そんな大きな背景潮流もうっすら感じたのですが、いかがでしょうか?
だって、京都−大阪のJR新快速で見たオジサン達の顔が、前よりもずっと「いい顔」になってるように感じたんだもん。それまでは、仮面のように「鉄鋼会社課長」という記号のような顔だったのが、「ああ、昨日息子さんとキャッチボールしたのかな」みたいな、すごい個人的な顔になってるように感じたのです。錯覚かもしれないよ。錯覚という可能性は大いにあるし、そうじゃないとしても一部の話でしかないのだけど、僕の目にはそう見えた。あれは、もともとの自分と対話してる顔のような気がするんですけど、気の迷いなんかな。
と、まあ、そのときはそう感じたのですね。なんか、憑き物が落ちたような、ホッとした、優しげな顔をしている人が前よりも目立ったように感じました。あれから3年。僕が最後に日本に戻ったのが99年の10月頃でしたから、2年半ほどご無沙汰してます。今はどうなっているのでしょうか。皆さんまだ不機嫌そうな顔に戻ったんでしょうか。
こんなものは個人の印象ですし、同じ人間でも時と場合によって見え方が違うでしょう。仮にあれよりもさらに顔色が明るくなったとしても、オーストラリアから帰国したばかりの人が見たら、やっぱり暗いと感じられても不思議ないでしょう。だから本当のところはどうなってるのか全然分からないのですが、ただ、また自分の目で観察してみたいような気もちょっとします。
ところで、日本に関するいろんな論評を見るにつけ、「不安」と「閉塞」というのが二大キーワードのように出てきます。
それどころか、先日、ロッキンオンJAPANというロック雑誌を見ていても、同じように「不安と閉塞」という言葉が結構出てくるのに気づきました。「ロックよ、お前もか」という。
邦楽(特にロック)は、こちらでは音源が少ないのでそんなに聞く機会もないのですが、僕の知る限り、やっぱりベースにあるのは「不安」と「閉塞」なんかなという気がします。なんといいますか、こちらの生活が長くなってくると、日本の音楽に波長共鳴しにくくなるものを感じます。不安と閉塞に覆われている社会でアーティストが感じ、吐き出す言葉や音は、その社会に住んでいたら共振しうるのでしょうが、そこから離れてしまうと今ひとつピンとこない。こちらだって、不安も閉塞も無いことはないけど、その濃度はかなり薄い。
「ゴキゲンなロック」とかいいますが、ロックというのはもともと不機嫌な音楽でしょうし、独特な「苦味」があって、そこが甘味系のポップスと区別されるんじゃないかと僕なんかは思います。だから、ロックが不安やら閉塞感を鳴らすのは全然不思議なことではないでしょう。古くは、ローリングストーンズだって、「満足できねえ」ってがなってましたしね。
しかし、今の日本のロックの表現している閉塞感は、伝統的なロックのそれとはちょっと違うように感じます。
王道ロックが鳴らす閉塞感は、エネルギーは満ちまくっているんだけど、それを無理に拘束されていて、それに対する不快なり怒りであるように思います。鎖につながれた犬が、鎖を引きちぎらんとガンガンやっているような感じ。
でも、今の日本はそうじゃなくて、そもそも鎖につながれているのかどうかも分からなかったり、何かに拘束されているとは思うのだけどそれが鎖みたいにわかりやすいものではなかったり、鎖をぶっちぎってでも行きたいと思えるところもなかったり、、、
もう少し実生活に寄せて翻訳すると、「この先どうなるか分からない、あまり良くなる感じがしない」「この世には素晴らしいところがあって、いつかそこに自分が行けるのだ、、という気がしない」「そもそもそんな素晴らしいところなんか何処にもなさそうな気がする」「だからどこに行けばいいのか分からないし、どこにも行きたくない」「行こうというパワーも生まれない」、、みたいな感じ。なんかどんどん萎んできて、ヘナチョコになっていくようです。
ある意味、王道ロックの鎖パワーは、非常に楽天的というか、簡単というか、明るい話だと思うのですね。なぜなら、「鎖さえ外してしまえばこっちのもんだぜ!」という自信があった。自由にやらせてくれたら、好きなところに行ける、行きたいところはもう分かっているし、そこに行けばハッピーになれるのも分かっているという。日本的な状況からしたら、その能天気さが羨ましいくらいでしょう。
今の日本の音楽も、別に閉塞とか不安ばっかり歌ってるわけではないです。むしろそれを直接に歌ってるのは少ないかもしれない。愛、孤独、屈折などといった王道テーマを王道メロディで演っているとは思います。ただ、どっかしら一枚フィルターがかかっているような気がする。人と人との素朴なふれあいの美しさを歌っているとしても、愛の素晴らしさを歌っていたとしても、100%無条件にそう鳴ってるわけではなく、「こんな時代だからこそ原点に戻って」みたいな暗黙の前フリがあるように感じる。「こんな時代だから」「こんな世の中だから」という背景事情を前提にして語られているような気がします。そこに一枚フィルターがかかってるから、今ひとつ突き抜けてこない。
これは単に僕の気のせいなのかな?
もちろんそんな時代性に関係なく鳴らされる音もテーマもあります。1万年時代がズレても男女のアレコレにそう大差ないだろうし、「ベイビー、今夜こそキメるぜ」的なアホパワーはいつだってあると思います。でも、今のロックが「時代なんか関係ないぜ」と鳴らしているとき、「時代なんか関係ない」ということをどっかしら意識してるような気がする。無意識の下であっても何となくそれを感じながらそう言ってるように感じる。昔のロックは、本当に関係ないと思ってるからアタマからそんなことを意識すらしていない。もっとノータリン的というか、動物的だった。それが動物的であればあるほど、動物的な説得力があったような気がするのですね。
言ってみれば「無邪気な確信」です。その確信があれば、ケッタイな格好してても、変な音だして、変なこと歌っていても、天然モノがもつカッコよさがあると思います。それが天然であるだけに、もうタタズマイだけでカッコ良いって感じがする。それは「主張」「表現」としてそうしているというよりも、もうどうしようもなく「そういう人達なのね」という事実としての説得力があった。
そのどうしようもなく「そーゆー人なのね」的なブッちぎれ方が、オーディエンスからしたら爽快だったりするわけです。いかにパブリックイメージの虚像であろうが、ショービジネスの計算がバリバリ働いていたとしても、なお、根っこの部分に天然性がある。この天然性があるバンドはやっぱり凄いと思うし、実際それなりのインパクトがある。そいつが居ることによって、「おお、こんなヤツもいるんだ」とこっちの世界観が修正を迫られるような。たとえば、尾崎豊なんかそうだったと思います。「こういうヤツがいるんだ」ということでこっちが変わってしまうような。今の日本でそこまで天然なのといったら、うーん、少ないんじゃないかしら。ギターウルフなんかそうだと思うけど。
さて、本当に日本が閉塞と不安に覆われているのかどうか、本当のところは僕にはよくわかりません。しかし、そうであるかように書かれているものは多いし、それを裏付けるような状況証拠も多い。
じゃあ、一応今の日本が不安と閉塞に覆われていると仮定して、次に出てくる疑問は、なんでそうなっちゃってるの?ということであり、そこでの不安と閉塞感の正体は何なのか?です。
それはやっぱり、さっき言った「無邪気な確信」という天然パワーでしょう。
表現を替えていえば、「体感できる絶対肯定」。これが乏しくなったのではないか。
「体感できる絶対肯定」というのは、「これ、いいっ!!」って、無条件に力強く言えてしまうような、自分にとっての絶対的な価値、「いいもの」。そして、それが身体感覚として説明不要で理解できるもの。逆にそれを奪われそうになったら、狂犬のように暴れてでも抵抗したくなるようなもの。これが少なくなってしまったのではないかと。
「絶対肯定」は、問答無用で、説明不要のモノです。だって、天然だもん。だから、「将来のキャリアに有利だから」「今流行ってるから」みたいなヘナチョコな理由もモチベーションも要りません。それをゲットしたら死刑!といわれても、死刑覚悟で求めるもの。「うわ、もう、これ、いい!いいとしか言いようがない」ようなもの。それを求めるときには、どこかしらか本能的で動物的なエネルギーが出てきて、自分が半分ケダモノになったような気がするもの。
これ持ってる人は強いです。人生に迷いがない。迷いがあったとしても、そこにたどり着くための道が分からないとかいうレベルの、いわば事務的な迷いに過ぎない。欲しいものは、もう、ちゃんとわかっています。だから本質的に迷うことはない。だから、人生に座標軸というものがキッチリ描かれてきます。今どこにいるのか正確にはわからないにしても、求めるものに近づいているのか遠ざかっているのかは感覚的にわかる。
例えば、圧制政府に対して革命を志す人間は、「革命」「自由」という絶対肯定価値をもってます。もっているから、イノチを賭けてでも行動することが出来る。武士道でも騎士道でも、イノチより大事なモノを持っていたのでしょう。アーティストだって、個々人の中に「絶対的にいいもの」を持ってるはずです。それがあるから表現できる。というか、その余りの良さに突き動かされて表現せざるを得なくなる。
こういった絶対価値というのは、ある意味偏った世界観であるわけで、その価値観を共有しない人からみたら、その人はバランスを欠いた社会的不適合者のようにみえる。桂春団治みたいに、ヨメさん質に入れても「芸のコヤシや」とかいって遊び倒す芸人なんて、「健全な社会常識」からみたら到底許せるものではないでしょう。革命家なんか、立場が違えばただのテロリストですしね。幕末の志士も、坂本竜馬や西郷隆盛も今ではヒーロー扱いであっても、倒される幕府からみたらビン・ラディンのようなテロリストに写ったでしょう。
そこまで極端でなくても、「あ、それいい!」と思えるもの、それを軸に人生を組み立ててもいいと思えるもの、それがある人は幸せだと思うし、それが感じられる社会はやはり活気があると思います。それがたとえ、偏っていたとしても、ちょっと離れてみたらバランスを欠いた不健全なものであったとしても、その価値観を共有できている人生や社会は「幸福」だと思います。大体、「好み」なんか、「偏り」ですからね。全くバランスのとれた中心にいたらどこからも等距離だし、好みなんかない。好みというのは、バランスを崩してもどこか一点に向かうことです。世の中に女性の数は掃いて捨てるほどいても、たったひとりの女性をエコヒイキするのが愛情と呼ばれるものでしょう。そこを博愛主義でやってるとなにかと面倒です(^^*)。
その社会に大きなブームがあったら、それはそれでハッピーなんだと思います。ブームというものが本質的に持つ胡散臭さ、インチキ臭さ、過ぎてしまえばアホみたいにしか思えないものでも、ブームで踊ってる最中は楽しい。生きがいもあるし、幸福を感じる。その昔のゴールドラッシュも、時代が下ってみたら、集団発狂みたいにしか見えなかったとしても、必死になって砂金を採る人々には確実に「夢」があったし、夢のために生きている充実感はあったと思います。その充実感を「幸福」と呼ぶならば、まさしく彼らはいっとき幸福であった。
日本においてそれがあったのは、バブルの頃まで、あるいは細川政権の頃までだったように思います。バブルの頃は、あれはあれで今から思うと一種の集団発狂ではあったのですが、それなりにハッピーではあったでしょう。猫も杓子も財テクに走り、ブランド品を買いあさり、マンションを買い、株を買い、高級車に乗った。企業なんかも「金が余ってしょうがない、なにか使い道はないか?」と、マジにいってましたもんね。だから、ものすごく「偏っていた」時代だったんだけど、それはそれで幸福だった。「不安と閉塞」なんか誰も言わなかった。人生の意義とか方向とか、そんな深刻な話はあまりしなかった。「自分が何をしたいのか分からない」なんて誰も言わなかったし、「癒し」がどーのってのもそんなに流行らなかった。
踊っているときはいいんです。踊っていれば踊るのに忙しいから、頭をそんなに使わずに済む。なんによらず考えすぎると不幸になりますからね。「そんな金ばっかりあったって、人生の幸福には関係ない」といってみたところで、とりあえず楽しいからいいじゃんってことになる。思うのですが、ソクラテスのように根っから哲学者である人間なんかマレでしょう。その場がとりあえずハッピーで、「ブランド物を手に入れた」という本質的に大したことでは無かったとしても、そこで体感的に楽しさを感じられたら、それ以上あんまり難しいことは考えない。言うたら、人間なんかアホですわ。ポイントは「これで別にいいじゃん」といって「それ以上考えない」という無邪気さだと思います。背景を白紙にできる無邪気な確信。そこに天然が生じる。
バブルが弾けたあと、人々の間には、「やっぱりねえ」「あんなこと続くわけないよねえ」って妙に納得する空気もあったと思います。で、そのあと破産倒産が急増して、日本を改革しようという話になります。でもって、自民党が分裂して、細川政権になった。ここまではわりと納得できる社会文脈だったと思います。55年体制が終わりを告げる93、94年頃です。良きにつけ悪しきにつけ、日本が大きく変わっていくんだという実感を誰もが抱いた。社会のなりゆきがわかりやすかったし、見えていた。その見えている感じが、「日本も変わって将来良くなるのだろう」という無邪気な確信を抱かせた。 この無邪気さがあるうちは「不安」はあっても、「閉塞」は無かった。
しかし、その細川政権もコケて、まさかの自社連合になって、さらに95年に神戸地震とサリン事件が起きてきた頃から雲行きが怪しくなった。変わるんだか変わらないんだかハッキリしなくなった。いわゆる「失われた十年」であって、バブルの後始末も遅々として進まず、一気にコトが進むかと思われた改革も遅々として進まなかった。何度も紹介してますが、いわゆるバブルは日本だけでなく世界同時で発生し、バブルの破裂もまた世界同時であったのだけど、日本だけが後始末にてこずった。てこずったというよりも出来なかった。
オーストラリアでもバブルはあったけど、日本でいえば細川政権の頃までには全ての清算が済んでしまっていた。潰れる会社は潰れ、失業すべき人は失業し、塀の中に入るべき人は入った。およそ半年から1年くらいの期間で全部済ませてしまった。それからオーストラリアはずっと景気がいいです。今なんかどうしようもないくらいバブルです。去年減速してそろそろ終わりかと言われたけど、最近の四半期のレポートでは年率成長4%に戻ってきている。失業率も6%台になりつつあります。どうかすると日本と逆転するかもしれない。こんなことまかり間違っても起こるとは思えなかった。オーストラリアで6%というのはとんでもない話で、僕が最初に来たときは10%を超えてたと思いますし、8%くらいでも結構喜んでます。逆にいえば、オーストラリア社会は、失業率8%程度だったら、全体のハッピーさを損なわず吸収できるような構造になっているということです。
今尚日本ではバブルの後始末は済んでいません。いったい済むような時が来るのだろうか?という気にもなります。このような状況があまりにも長く続いたので、以前のような無邪気な確信、「なんだかんだあっても、終局的には世の中いい方向に進むのだ」というパースペクティブが崩れてしまったのかもしれない。この確信があるうちは、世の中どんなに乱れようとも、黒雲のように不安がでてきても、「閉塞感」はない。もっと言えば、世の中が動いているという実感があるうちは、閉塞はしない。
世の中が動いていれば、今日とは確実に違う明日を期待することができるし、そこには大きな不安もあろうが、同時に変わることによる期待をもつこともできる。また、動いていくうちは新陳代謝も活発になり、ブームという踊りも踊れる。バランスを崩して偏ることが出来るし、あまり深く考えなくても済むから、ハッピー感も生まれてくる。しかし、止まってしまえば、明日もあさっても今日と同じ日が続くと思えてしまったら、展望が描けない。そうなればシラフに戻るし、バランスを崩して盛り上がることもできず、余計なこともいろいろ考えてしまう。
船に乗っていて、とにもかくにも動いているうちは気分も高揚する。それが破滅にむかって突き進んでいるにしても、それがゆえに大きな不安と絶望を抱えようとも、この「動いている感じ」は人の心を高揚させる。しかしベタ凪で止まってしまったら、あるいは漂流状態になってしまったら、人の心は沈む。基本的に動物、”動くもの”である人間にとって、静止状態を強いられるのはかなり苦痛だと思います。絶えず動き、絶えず変化があってこそ、人間の肉体・精神機能は健全にメンテできるのでしょう。それが止まってしまったら、いわば刑務所に収容された人間が陥るような精神的危機を迎える。拘禁性ノイローゼというやつです。
僕は専門家ではないので拘禁性ノイローゼの詳細については知りません。が、本来動いていなければならないものが静止してしまうのですから、余ったエネルギーが行き場をなくして暴走したり、自家中毒を起こしたり、しまいにはエネルギーそのものが低下していって無感動になっていくのではないかと思われます。なんとなく当ってるような気もします。
自家中毒による暴走が犯罪という形になると、もともとエネルギーの狂った放出ですから、あまり合理性も脈絡もない犯罪になるように思います。つまりお金が欲しいから銀行強盗をするとか、憎らしいヤツがいるから叩きのめすとかいう脈絡がなくなって、「なんとなく」殺してみたりというワケのわからない出来事になっていく。
また、「無感動」というのが結構近いんじゃないかなという気がします。心が弾んでないから、何を見ても聞いてもあまり感動しない。まったく感動しないことはないけど、「うわ、もう、これ最高!」という我を忘れるほどの感動でもない。そのためだったら死んでもいいとまでは全然思えない。だから、自分で何をやりたいのか分からないし、そもそも何かをやりたいのかどうかも分からない。そのなかで時間だけが過ぎてゆく、年だけは着実にとっていくことによる焦りはある。でも、わからない。
思うのですけど、日本がいくら不況だ構造改革だといっても、日本程度の不況の国なんか世界でいっくらでもあります。構造が歪んでいる国なんか枚挙に暇がないくらいです。だから、巷間言われているように、必ずしも不況だから閉塞しているわけではないと思います。
また、これから激動の時代で大変革が待っているのであれば、もし本当にそうなのであれば、つまり明日大地震が必ずやってくるということであれば、人の心は奮い立つと思います。台風がやってくる日、学校も休みになって自宅待機で、怖いんだけど妙にウキウキしてしまうような感じ。本当にこれから日本はメチャクチャに動きまくるんだ、10年後は誰にも想像がつかないような社会になっている、自分だってその頃にはなにをしてるか分からない、もしかしたら死んでるかもしれない、、と本気で思えたら、「こうしちゃいられない」と、とにもかくにも動き出すと思います。黒船が来ただけで、日本列島が狂奔の渦になるくらい、本来日本人というのは騒ぎが好きだし、騒ぎを増殖させる想像力が旺盛だと思います。
それがこうも沈滞して、無感動になってるということは、「激動」どころか動いていないんじゃないか。
小泉政権になって、首相は動かそうとやっきになっているようですが、どうも国民のノリが悪いのも、あまりにも動かない期間が長すぎたせいで、 「どうせこの国は動きっこないよ」という妙な諦念が広がってるからかもしれません。もっと正確に言えば、動きはするんだけど、そのテンポがあまりに遅く、また、動く範囲も狭く、強者がちゃっかり自分の利益を確保してからゆっくり弱者にしわ寄せをしていくような変わり方しかしないから=例えば潰れそうな企業の経営陣は安泰のまま中高年ばかりリストラしていくとか=嫌気がさしているのかもしれません。
変わるんだったら、どうせどっちに転んでも痛みをを伴うのだったら、一気にドカンと変わった方がいいです。サロンパスをはがす時に、チビチビはがしている方がしんどいように、一気にビッとはがしてしまった方がいいように。暴論を承知で言うと、チビチビ家がシロアリに食われて崩壊するくらいなら、一気に火事で燃えてしまった方がいい。その方が人の心は高揚する。
暴論ついでに言うのでしたら、誰もがのけぞるようなとんでもない変わり方をした方がいいです。僕がもし、ヒットラーのように日本の絶対権力者で何をやっても許されるのだったら、そうね〜、例えば、日本国を分割するなんてどうでしょう。分割の仕方はどうでもいいですが、北海道、沖縄、九州、四国、近畿中国、中部甲信越、関東、東北、を一気に独立国にします。ユーゴスラビアの分裂のように。ただし平和的に、そして日本連合を組みます。UJ、ユナイテッド・オブ・ジャパン。そうなったら日本も多少は面白くなるでしょう。
与太話ついでにもう少し敷衍すると、各地域が独立したら、それぞれが憲法を制定し、統治機構を持ち、国連にも参加することになります。北海道は大統領制だけど、東北は首相制というのもアリです。関東は軍備を持つけど、九州は持たないとか。近畿は日米安保を継承するけど、四国は破棄するとか。まあ、アメリカのように強度の自治権を与えて連邦制にするか、それとももう独立国家にしちゃうか、そこはさまざまですが、日本の各地方の人々に、背骨がへし折れるくらいの重責を背負わせるわけです。でも、世界の標準でいえば、日本の各エリア程度のGDP、面積、国民があれば、一国として独立するのはそんなに珍しい話ではないです。そもそも昔は日本六十余州といって、60カ国以上の集合体だったのですから。
そうなれば日本に首相や大統領が一気に7人も8人も出現します。そこらへんの県庁の職員さんがいきなり国連にいって条約の交渉させられたりします。北海道は北海道の、九州は九州の国旗も国家も新たに制定します。日本全国には愛国心はもてなくても、自分の故郷が独立国になるのだったら愛国心はもてるでしょう。天皇制やイデオロギーから全く自由に解き放たれた、本当の意味での愛国心を。
北海道や九州から一歩出たら、そこはもう「世界」「外国」になるわけですから、県民(国民)ひとりひとりが今の何倍も国際情勢に精通している必要があります。四国全土から、かつてオーストラリアにワーホリや留学にいった人材がかきあつめられ、四国外務省のオセアニア担当にさせられるかもしれません。各国で標準時を設定できますから、たとえば北海道国は1時間早くすることも出来るし、この時差を利用して金融市場を作ることも出来る。
まあ、日本が一国であろうが、多数の独立国の集合であろうが、国土の広さと国民の数は同じなんですから、トータルでやることにそう大きな違いがあるものでもないでしょう。ただ気分は全然違うでしょう。盛り上がるでしょう。それが大事なんだと思います。政府がいくつもある経済的な無駄も相当あるでしょうが、トータルとして言えば皆が盛り上がるメリットの方が高いと思います。
なぜなら、1億2000万の日本人が、発狂同然に盛り上がっているのと、なんだかな〜で沈滞してるのとでは、一分一秒あたりのエネルギーの総和の差というのは途方も無いものだと思うからです。そして、「世の中が変わっていく、自分が変えられる」という無邪気な確信は、何にも増して貴重なことだと思うからです。
まあ、こんな夢物語のようなことを言うと、余計現実の沈滞ぶりがイヤになるかもしれないけど、でも、今だって遅々としてはいるけど、多少なりとも変わりつつはあります。変わった分、それは新しい陣地ですから、そこを拠点になにが出来るか考えていくのが大事なんじゃないかと思います。もし、郵便が将来完全民営化され、それも届出をすればいいだけだったら、ごく限定されたエリアであっても自分で郵便局をひらくことも可能です。町内だけとかさ。子供の遊びみたいなものだけど、だったら高校や中学の実習として、自分たちで企業を作ってやってみるのもいいでしょう。
モノゴトが動かないんだったら自分で動けばいいです。動けば心も自然と弾むし、心が弾んでくれば感動もまた戻ってくるでしょう、見えないものも見えてくるでしょう。前述した天然ロックの人なんかは、自分でガンガン動いていっちゃうから、世の中が動こうが動くまいがあんまり関係ないのかもしれませんしね。
写真・文/田村