シドニー雑記帳
キサラギ99/日本にて(1)
99年2月、2週間ほど日本に帰ってきました。デジカメの修理以外は特にこれといって用事もなく、特にキッチリ予定も定めずぶらりと帰りました。なんつっても、前回のように「1週間で2000キロ爆走、2週間で70人斬り」なんてやってた日には身体が幾つあっても足りませんから。
で、特に何も予定せずに帰ったわけなんですけど、帰れば帰ったで色々あるわけです。どうしようかな、どこから書こうかな。全然まとまってないし、全てをきれいにまとめることなんかおよそ不可能だろうし。うーん。
一番大きなことは、すごくディープなパーソナルなことです。あまりにもパーソナルなことは別としても、ある程度は一般化できる部分もあると思います。僕らの世代の一番新しいんじゃないかと思われる傾向とか。そこらへんがですね、ほんとはですね、いっちゃん面白いのですけど、難しいな。よう纏めきれる自信がない。でも、まあ、自爆覚悟でちょっと綴ってみましょうか。
この雑記帳に昨年の後半くらいから「僕の心を取り戻すために」など比較的ディープな内面的なものを書いてるわけですが、それは別に僕だけに特異な傾向ではないと思ってました。自分がこういう感覚になる以上、それは他の人にも共通する、ある程度普遍的な傾向、新しい傾向なんじゃないかと。それを確かめに行ったわけではないのですが、結果的には自分の直感を確認しにいったようなものでした。
今回は自分と同じ年の人と多く会いました。意図してそうしたわけではないのですが、何となく「どうしてるかなあ」で電話かけて何年かぶりに会ってたら、その多くが同じ年だったという。で、あれこれ話をしてて、「98年の後半くらいから自分が凄く変わった気がする」という点で気持ち悪いほど符合してました。その変わり方もまたブキミなくらい似てる。
もともと類は友を呼んでたのでしょう。僕の多くの友達は、20代の頃は典型的な「出る杭」というか、向こう気が強くて、仕事も「そこまでせんでも」という位やってしまうという。本業だけでは収まりきれず、あれこれイッチョ噛みをして、社外人脈で内緒で会社作ったり、自分の店持ったり、何度も業態を変えたり、そんな感じでやってる連中が多いです。
もちろん外面的な行動は様々です。離婚して母子家庭やってる友達もいれば、主婦してる友達もいますし、独身のままバリバリ仕事してる人もいます。会社勤めの人もいれば、独立自営の人もいます。だからそこに統一性はない。しかし、大きな共通項としては、どこかしら自分が「変」だということを自覚してて、時にはそれを持て余し、でも結局はそれを愛し、それを価値基準にして、妙なところでムキになって頑張ってしまうという性癖です。
これに対置する人格像としては、自分が「普通」だと思っている人々がいます。いや、変な人々も実は自分の感覚の方が普通だと思ってはいるのですけど、ただ世間一般とはどこかしらズレてるんだろうなという位置感覚があります。でも純正普通の人は、世間と自分の中心点が同じであり、そういった同心円構造こそにアイデンティティを持ったりします。変な人々が異心円構造をアイデンティティにするのとそこが違います。この普通人と変人とでは、なかなかに理解し合えない部分があります。普通人から変人を見れば単なる人格破綻のワガママに見えがちだし、変人から普通人をみると自我空虚のコピー人間に見えたりもする。
付け加えておくと、変人がいつもエキセントリックなことをして、普通人が地味に暮してるというものではないです。その辺の対応関係はマチマチで、往々にして逆だったりもします。オウムとか新興宗教の熱烈な信者の人などは、一見変人のようですけど、僕の定義では普通人である場合が多いと思います。なぜなら教義という客観的普遍的な価値秩序を認め、その世界の中心に自分もまた位置してるという同心円構造は一緒だからです。
また、自分と同じ感覚を持ってる他人がどのくらいいるかということは、変人にとっては余り大きな問題ではないです。そこに何らかの人間的、時代的な傾向を推察することはありますが(まさに本稿がそうですが)、だからといって自分の考えが変わるということはない。極端な話、自分以外の全員が自分に反対してても、「ふーん」くらいにしか思わないし、そういった多数決的なことだけで自分の考えを変えようとは絶対に思わない。一方、普通人はそれをある普遍的な倫理秩序があることの証拠として意を強くするところがあると思います。「皆も同じように考えるのだからやはりこれは正しいのだ」という具合に。
これを言い出すと幾らでも言えますが、主題からズレるのでこの程度にしておいて、さて、友達の変人連中です。
自分の「変」さに殉じ、システムに乗る事がヘタクソで、時には組織内で横紙破りをもする。オノレの「変な個性」を貫くための戦いは嬉々としてガンガンやるし、その戦いこそが自己実現でもあったわけです。システムの中で上昇していく事ではなく、自我を貫くために生じるシステムとの緊張関係に立つこと。そのギーギー音を立てるような軋みをねじ伏せること。周囲に文句を言わせないくらいに結果も出して実行するそのテンションこそが気持良かった。
僕でいえば、司法試験のために気違いじみた勉強をするのも自己実現なら、そうやって勝ち取ったものを未練もなく捨てるのも自己実現です。返りみても自分が自分である為にはあそこでポンと捨てるべきだったことは疑問の余地はないです。これは強がりでも自己正当化でも何でもなく、本当に「ああ、やめて良かった」と思ってます。どのくらいそう思うかというと、虫の知らせで飛行機に乗るのを見合わせたら案の定その飛行機が墜落して「うわ、危ないところだった」と冷汗が出るくらいです。
勿論僕らはこういう感覚が世間的にはマイノリティで「変」なのは自分らでも百も承知してます。それを他人に押し付ける気もないです。でも、それを譲る気もないです。これ認めてくれずに邪魔すンねやったら、俺、あんた殺すよ、というくらいには思ってます。
さて、皆さんそれなりにそれぞれのポジションで、「独特の変な頑張り」をやってたわけですが、丁度去年の後半くらいから「それがなんぼのもんじゃい」と急に興味がなくなってしまったといいます。
一通りやって、それなりに成功して、自分の「変な王国」を築いたら、もうそんなことどうでも良くなってしまった。かといって今更普通人に宗旨替えしてシステムに乗るわけでもないです。そんなのは論外で、「変」さが直ったわけでもなく、その変人度は益々ピュアになってるたりします。
ただ、今までみたいに、そんな世間やら周囲やらの「普通帝国」みたいな「仮想敵」を作って、自分の個性を際立たせて確認して、そのギリギリした対抗関係で自分をこの生活空間に刻み付けていくような方法論、やたら動き回ったり、仕掛けていったりするというのが、段々稚拙に思えてしまったのかもしれません。「そんなもんじゃないでしょ?」という。
こういうのって何なんだろな?
この種の述懐について巷でよく流布されてる解釈があります。例えば、燃え尽きたとか、年とって疲れてきたとか、落ち着きたくなったとか、丸くなったとかなんとか。「まあ、そりゃそうかもね」という気もしますが、全部合わせても20%もいかないでしょう。
年食って丸くなったといえば丸くなりました。38歳ってのがどの程度の年齢なのか把握しかねるところはあるけど、ほんと、20代だったらテーブルひっくり返してケンカしてたことも(よくやった)、最近ではいちいち気にしなくなりましたし。僕も「丸くなった」のだと思ったこともあったけど、やっぱ違うわ。全然丸くなってないわ。イビツな人格像のギザギザで、あってもなくてもどっちでもいい小さなギザギザは確かに無くなったと思うけど、大きなギザギザの鋭度と強度はむしろ増したと思う。昔だったらギャーギャー騒いで喧嘩してたような事でも、最近では「阿呆」の一言で「3秒で処理」みたいに逆にキツさは増してるかしらん。やってることは同じでも、そこでそんなに感情が波立たなくなったということでしょう。それともう一つ、ギザギザの全体の大きさが大きくなったので、日常の些細なことならギザギザの周辺部分まで辿り着かずに呑み込まれてしまうような感じもあります。
年取って疲れて落ち着きたくなったというのも、確かに肉体的な加齢現象はあるけど、それは旅行にいったら風呂入って寝るのが一番シアワセとか、朝の3時まで飲んでたのが11時頃には切り上げるとか、そんな局面で現れてくるだけで、たいして本質的なものじゃあない。
むしろ若いときに敵愾心を燃やして見上げていた「世間」とやらが、自分が年取ってくると、自分と同じ高さに下りてくるから、「なんだ、大したことないじゃん」で拍子抜けしちゃったような部分の方が強いでしょう。実際、世間が自分の目の高さまで下りてきたら−−−例えば「学校のときエラそにしていたあの教師も、よく考えたら今の俺より全然年下だったんだな」「あんなガキにあれこれ言われてたわけか」「まあ、立場上そう言いたくなる気持もわかるわ」とか思ったら−−−、世間というのは只の弱い人々の群れじゃないかというのも見えてきたりもします。
ただ、僕らの変化は、そんな加齢現象なんぞで説明がつく感じじゃないです。
じゃ何か?一つの仮説は「自由になれた」のかな?ということです。
昔だったら不可能だったことでも、今だったらやり方も知ってるし、誰もそんなに文句言わない。例えば女性が結婚とかするにしても、23歳と38歳とでは「親の反対」のパワーも質も全然変わってくるでしょう。一事が万事そんな具合で何かとやりやすくはなってます。
加えて、昨今の日本のアンシャンレジュームというか昔のシステムの崩壊。これって、僕ら「変人倶楽部」みたいな連中には都合いいです。正直もっと無茶苦茶になっちゃえと思ったりもします。離婚したかったら離婚すればいいじゃん、会社詰まんなかったらやめたらいいじゃんという世の中ですから、周囲のウザウザ度も確実に減衰してるでしょう。社会の中心と自分の中心を重ね合わせようとする人には、社会に中心が無くなったかのような(あるいは幾つも生じたかのような)いまの日本はやりにくいかもしれませんが、変人にとっては話は逆で、もう銀行が一つブッ潰れるごとに居心地よくなってるような気がします。だから望んでた自由な環境になりつつあります。まあこういう形で住みやすい社会になるというのも情けないけど、評価はともあれ事実としてはそうだと思います。
で、そこで思うのは、じゃ、自由になって何がしたいわけ?という、150キロの直球勝負のような問いかけです。そこで考えてしまうんじゃないかな。今までのように、おんどりゃ〜で周囲のウザウザと喧嘩してれば自己実現、なーんて甘いレベルじゃなくなってきた。社会党が政権奪ったようなもので、アンチテーゼだけでやるという安楽な方法論が取れなくなったと。
思えば、日本社会で、こんなにも周囲のウザウザに邪魔されないで自分と向き合える環境ってこれまで無かったような気がします。でもこれからは、徐々にこういう環境になっていくでしょう。ジャパン・スタンダードみたいなものが徐々に薄れていくでしょう。
さて、そこで何を思うかです。
上述の変人友達連中というのは、外面的には異様にエネルギッシュだったりしますが、根っこの根っこを見てみれば、「人一倍怠け者」だったりするところも共通してます。
かくいう僕もそうです。大体今の生活なんか、一日に二回昼寝してたりしますもんね。朝は早く6時に起きて、あと11時くらいまで一気に仕事します。なんせベッドから「職場」まで徒歩5秒。パソコンの電源を入れてからトイレにいって、帰ってきてから立ち上がったパソコンにインターネットブザウザとオートダイヤル立ち上げ、接続してる間にまたコーヒー入れてきて、帰ってきたら丁度繋がってるという感じです。11時までミッチリやったらもう5時間労働でしょ、9時出勤の場合なら午後3時に相当します。一人だから無駄なお喋りもないし、気を使うこともないから密度も濃い。で、11時から1時間ほど「第一昼寝」をし、起きた頃には相棒も起きてきて、なんだかんだ買い物行って、帰ってきてからまた「第二昼寝」をするという。まあ、日本だったら通勤時間にあたる部分を全部昼寝してるようなもんで、特に時間を無駄にしてるわけではないと思います。どっちかといえば体力を消耗する通勤よりも増強させる昼寝の方がずっと効率いいと思うけど。
こんなノンビリしたゆる〜い生活、日本にいるときは考えられなかったけど、誰にも指図されずに自然に生きてたらこうなったということは、こういうパターンが本来好きなんでしょう。日本にいた頃の1日18時間の仕事と遊びのハードワークは、何かの間違いというか、勢いでやってたというか、ガラにもないことやってたんだなあと思います。根はこういう人格なのね、という。
でもって、他の友人達も似たようなもんです。大体、独立起業!とかいったって、その核心となるモチベーションは「朝寝ていたいから」だったりしますもんね。こういう人、多いと思うけどなあ。福島だって、カルビー時代は、睡眠時間3〜4時間、カラオケいったら他人の曲の間に熟睡し、自分の番にきたら自動的に目が覚めるという特技で生き永らえていた人ですけど、こっち来たらカタツムリ状態。睡眠時間14時間とかいったりしますもんね。
なんの証拠も論証もなく言いますと、アグレッシブに見える変人達というのは、実は本来レイジーである確率が高いと思います。これ、僕がそう思ってるだけで、自分の周りがそうだからということと、どうしても皆と一緒に勤勉になるのに生理的に付いていけないから必然的に個性を主張せざるを得なかったのではないか?という因果関係の推論くらいしか論拠ないです。でも、直感的には当たってるような気がしますが、どうですか?
で、僕の愛すべき友人連中は、昨年くらいから自分のモードが変わってきて、仕事は「まあ、そりゃやるけど」程度のパッションで処理してたりします。年季が入ってきたからその程度のやり方でも20代の頃よりは結果を出せたりするんですけど、興味自体が薄れてきてる。
それに代わるものとして出てくるのが、ナマケモノという地金だったりします。例えば昔むかしに付き合ってた女性とも久しぶりに一杯やりました。当時は僕もパンク少年のようにキツく、彼女も負けず劣らずで、互いに強く惹かれながらも、一歩も譲らないもんだから、殆ど殺し合いのように激しくスパークしてすぐ終っちゃいました。ほんと「このままいったら終着駅は三面記事やぞ」みたいな感じだった。森の小動物のように臆病で、コアラのようにナマケモノな彼女は、その自分を守るために女狼みたいにならざるをえなかった。僕も似たようなもので、ほんとうはカワウソみたいな人格(ってカワウソがどんなんか知らんのだけど)なのにカワウソするためには何か別の猛獣にならなきゃならんかった。互いにそのコアラとかカワウソが好きだったんだけど、わかってたんだけど、若くて馬鹿だからそれをどう表現していいのか分からんかった。でもって、今回会ってみたら、もう養老院のジジババモードになってたりします。
彼女に限らず、似たような感じは多くの人から受けました。
それが僕には、何やら嬉しいのですね。それは「あ、俺と同じ」という単純な安心とか連帯感ではないのは言うまでもないです。それまで日本刀を振り回しながら必死に守ってきたものと、やっと素直に対話することが出来るようになったということ、素直になれてる皆に会えるというのが嬉しいです。
ナマケモノの地金が出てくれば、そんなにイチイチつっかかることもなくなったし、別に仕事といってもそんなにご大層なものじゃなくなってきた。生計の大事さも知ってるけど、そんなに大したことでもないことも分かった。他人がどう思うかなんてのも、益々輪をかけてどうでもよくなってきた。行く手を通せんぼする奴がいたら、今まではいきなり切り掛かってたけど、今なら「ふーん、ほな回り道しよか」とも思える。丸くなってきたというのはそこらへんに本質があると思います。もっとも攻撃力を温存している分、いざとなったときは昔よりも激しく大胆になってるかも。そんなの滅多にないけど。
寝て、起きて、メシ食って、何か作って、語らって、笑って、という単調な繰り返し、ただそれだけである程度充足できるようになってくる。無理矢理イベント作って、スケジュール真っ黒にしなきゃって気もしない。
で、何をしてるのかといえば、「整えて」るんだろうなと思う。これまで習い性になってしまった攻撃的なパターンを頭と身体から抜いてるんだと。リハビリみたいなものですね。こうしていれば、本来ガラにもないことは自然と自分からは抜け落ちていくだろう、意固地だった部分は希薄になるだろう、残るのはシンプルな自分の血肉だろうと。
20代、30代を通じて、色んな世の中の仕組を学びました。マーケティングの緻密というか姑息というかそーゆー企業戦略も、暴力団などの裏の社会も、世の中どうなってるのか、ある程度のことは見せ付けられました。それを知りたくて法曹界に入りたかった高校時代の自分でしたが、結局知りたかったことはただ一つだったのかもしれません。
それは、自分が子供のような感覚で思うホンモノはやっぱりホンモノなのか?世の中は汚いから、今ホンモノに思えていることは実は全部ニセモノなのではないのか?ということ。
出てきた答は、世の中どんなに汚くてもホンモノを抹殺することは出来ないということでした。どんなにヤクザがはびころうとも、どんなに企業が冷酷であろうとも、男女の関係がどんなに脆かろうとも、人はどんなに嘘付きであろうとも、生活のために保身に走ろうとも、どんなに自分が嫌らしい人間であろうとも、それでも、尚「いいもん」は存在するし、感得することは出来るということでした。100回のうち99回裏切られようとも、1回は信頼しても良い場合が実在するなら、それで十分ですという感じ。
それが「あ、やっぱりそうなのね」で納得できたから、もうそこらへんのリサーチ活動は終りです。僕だけじゃなくて、皆もそろそろそのリサーチを終えて、本来の姿に回帰してるんじゃないか、そんな具合に思えます。
なんか無駄なことしてきたな、最初からこのままだったら話は随分違ってたかなとも思います。日本がこんなに普通帝国じゃなかったら、もっと素直に物が信じられる社会だったら、最初からリラックスできただろうし、妙なカウンターパワーに生き甲斐を見出さんでも良かったろうし、ダンビラ振り回すこともなかっただろう。
だけど、仮にそうだったとしたら、確かに話は変わるだろうけど、それでもかかる時間は一緒かなという気もします。いずれにせよ何らかの形で葛藤を経ないと自分が確認できないだろうし、自分の力というものを納得いくまで試してみなきゃ先に進めないということもあるだろうし、だから結局は同じことかもしれない。
ああ、やっぱり自爆しそうですね。なんか全然巧いこと書けてないけど、これ以上書くとディープになりすぎるのでこのへんでやめときます。
でも、これは僕だけの感覚ですか?僕の友達だけの感覚ですか?あなたもそうじゃないですか?
なんか社会全体がちょっとそっちにシフトしてるかな?360度のうちの1〜2度程度だけど、そうなんかな?と思いました。何かを守るために虚飾のウォール(壁)を張り巡らし、時には万里の長城くらい張り巡らしていたのだけど、もうそんなのどうでもいい、と。
見栄張りバブルも終ったし、横並びシステムも終ったら、もともと持ってた本来の自分に邂逅出来る。何だかワケのわからん、あるんだか無いないんだか分からん世間。それに合わせるにせよ、反発するにせよ、もうそんなことしてる時代じゃないう、そんな大きな背景潮流もうっすら感じたのですが、いかがでしょうか?
だって、京都−大阪のJR新快速で見たオジサン達の顔が、前よりもずっと「いい顔」になってるように感じたんだもん。それまでは、仮面のように「鉄鋼会社課長」という記号のような顔だったのが、「ああ、昨日息子さんとキャッチボールしたのかな」みたいな、すごい個人的な顔になってるように感じたのです。錯覚かもしれないよ。錯覚という可能性は大いにあるし、そうじゃないとしても一部の話でしかないのだけど、僕の目にはそう見えた。あれは、もともとの自分と対話してる顔のような気がするんですけど、気の迷いなんかな。
1999年03月01日:田村
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