今週の1枚(07.06.25)
ESSAY 316 : 幼生成熟 〜ワープしちゃダメよ
写真は、オーストラリアのもっともありふれた風景。いちいち何処とか言う必要性も感じないくらい普通の風景ですが、一応書いておくと、ウチの近所のLane Cove National Parkです。ビルが林立してるChatswood駅からほんの1−2キロ離れただけで、もうこんな風景になっています。
以下の雑文は、現在25歳から35歳までの人を対象にして書きます。
だいたい25歳を過ぎると「もう若くない」と感じることもあるでしょう。25歳で感じなくても30歳を過ぎると「ああ、もう若くないんだなあ」とそこはかとなく思ってしまうでしょう。ここで言いたいのですが、確かに「若く」はないかもしれないけど、それは「老い」ではないです。なぜか日本にいると、「若くない=老い」という等式が成り立ってしまうのですが、それは虚構だということです。「嘘」というのが言い過ぎならば、ネガティブに捉え過ぎているといってもいいでしょう。
最初にハッキリさせておきたいのですが、「若い」の次のステージにくるのは「成熟」です。30-60代を「壮年」といいますが、「壮」というのは「デカい、エネルギッシュ、強い」という極めてポジティブな言葉で、その証拠に「壮」がつく熟語は、「大言壮語」「滋養強壮」「壮大」「壮絶」「荘厳」「壮士」「(気分)壮快(気力がみなぎって気持ちいい=すがすがしい場合は”爽快”)」でしょ。壮年というのは、人生の最強力時期であり、エネルギーがピークに達している年代だったりします。
だから、「幼」→「小」→「青(若)」とステップアップして、そのあとには「壮」が来るの。「老」じゃないの。車でいえばようやく慣らし運転が済んでエンジンをブン廻してもいい頃、免許で言えば若葉マークが取れた頃です。「さあ、これから」というときに、廃車にしてどうする?
過去に何度も書いてますが、日本ではなぜか18歳頃がピークであとはどんどん落ちるだけという誤った人生観と価値観が支配してたりします。
しかし、あんな色気と食い気とヤマっ気しかないような未熟な年代が人生のピークである筈はないです。僕も日本にいるときは何となく「そんなもんかな」と思いこまされてきてましたが、オーストラリアに来て(というか日本を出て)分かりました。考えてみれば、十代ごときがピークであるわけないじゃん。
なぜそんな未熟な段階がピークとして尊ばれるかというと、それこそ(一部の)老人の発想だと思います。老年期になり、過ぎ去りし若さをこの上もなく貴重なものとして回顧する年代の(一部の人の)ノスタルジーとかセンチメントでしょう。「ほっほっほっ、若い者はいいのう」と目を細める好々爺・好々婆の、若さがゆえの未熟さも馬鹿さ加減もすべて許し、「長い目で見守ってあげる」という寛容さであるならば別に問題はないです。好ましいことでさえあります。しかし、それが行きすぎると「若ければなんでもいい」「若さ」にこそ至上の価値があるかのような妙な方向にいきます。こうなると不老不死に対する浅ましい執着とでもいうべきもので、やれ回春剤として処女の愛液を飲むとか、若い男性の精液はお肌に良いと飲んでるオバハンみたいな世界になっていきます。
でも老年になれば誰でもそうなるってもんでもないです。「やっぱり若いコの肌はピチピチしてええのう」なんて、誰も彼もがヤニ下がってるわけではない。他者に対して精神性や人間性を求めるマトモな対人関係においては、未成熟で視野が狭いくせにやたら激しやすい若い世代は、どっちかと言えばうざったい存在でしょう。対等な人間関係に認められるべきGIVE&TAKEでいえば、若い奴とつきあってったってGIVEばっかりでTAKEが少ない。だから教育的配慮として接することはあっても、人間関係としては物足りない局面の方が多いでしょう。同世代の男の子と付き合っていた女性が、相手の精神的未熟さに物足りなさを感じるようなものです。また、自分自身が若いときには、若さが素晴らしいことだなんて到底思えないでしょう。若さとは無知・無力の代名詞だったりします。鏡の前に立って、「ああ、この張りのある肌、わたしは美しい」なんてやってるナルシズムばりばりの人って、そんなにいないでしょう。ましてや男でそれやってたらかなりヘンです。
だとしたら、若さをもって至上価値とする価値観って何なのよ?といえば、精神性や人間性ではく、ひたすら物体的なフェチなのでしょう。「若いコはいいわよー。アホだろうがなんだろうが、そんなことどうだっていいの」ってなもんで、若さという自然現象が貴重であり、SEXマシンとしての機能的優秀さすら超越し、しまいにはもう剥製にして飾っておきたいという感じになっていく。やっぱ、ヘンだわ、それ。
僕個人、昔から今にいたるまで、そういう若さコンプレックス&フェチみたいなものは皆無です。これはもうそういう性質なのでしょう。セーラー服がどうしたとか、ブルセラがどうしたという性的なインタレストはまるでないし、ましてやロリコン的な萌えなど嫌悪感の方が先に立つ。自分が十代の頃にすら、いわゆるアイドルとかジャリタレ系には興味なかったし、今でもない。恋愛対象も自然と同世代が多かったし、プラスマイナス10歳くらいだったら年齢に特に大きな意味もなかった。自分の職場に若い女性(男性)がいた方が好ましいとも思わない。そりゃ同年代ばっかりばっかりだったらバランス的に偏ってるからイヤだとは思うけど、若い女性が「職場の花」であるかのような感性はついぞ持ったことがないし、今の年齢(40代後半)でそう思わなかったら、この先ももうそう思わないでしょう(ある日突然ドンデン返しがくるのかもしれないけど(^_^))。だから、日本にいる頃から、「なんでなの?」「なんで若いのがそんなにいいわけ?」という違和感が結構ありました。自分がオヤジになったら、若い女の子にお酌してもらったら嬉しく思うようになるのかなと思ったけど、別に幾ら待ってもそんな感情なんか湧きはしない。お金を払ってスナックやクラブで若い女性と話したいなんか1ミクロンも思わん。今の仕事は若い人に接する機会が多いけど、だからいいとも思わん(だからこそ適職なんだとは思うけど)。
しかし、社会全体としては依然として「若さフェチ」的な状況になってます。これはもう「鬼も十八番茶も出花」と言ってた江戸時代からの日本社会の伝統なのかもしれないけど、個人的には「ええ加減にせえ」って言いたいっす。
こんなフェチ的に偏向した社会にいたら、18歳をピークにして誰も彼もが人生の下り坂を転がり落ちるわけで、「若」から30年以上続くだろう人生の最盛期をワープして、いきなり老年趣味に突入するのだから、社会全体が未成熟まま終わってしまいかねない。そういえば、そーゆーの昆虫の世界でありましたよね。なんだっけな、「幼生成熟」だっけな?蓑虫のメスのように、羽が生えた成虫にならずに、芋虫状の幼虫の姿のまま交尾し、産卵し、死んでいくという。
個々人の趣味やフェチにイチャモンをつける気は毛頭ないです。他者を侵害しない限り、フェチ自由の原則です。勝手にやってください。回春エキスでもなんでも、好きにしなはれ(「他者を侵害しない限り」ですよ。若くなくなった人間をあたかも賞味期限の過ぎた生ゴミのように扱うのは「侵害」でしょう)。
それはいいとしても、老年性フェチ価値観に社会全体がミスリードされて、人生の一番美味しいところをミスってしまうのは、これは問題だと思います。公的に語ってもいい問題でしょう。
さて、25-35歳の方々としてはですね、こっから先が本番だよということです。若→成(壮)→老というステップで、いきなり老までワープしないように気をつけてくださいってことです。これまでは予行練習であり、慣らし運転にすぎないわけで、むしろここから本気でエンジンをかけるべきだったりします。
しかし、状況は厳しい。今の日本は不幸にしてそういうムードになっていない。それは単純にフェチ傾向が蔓延している心理的なものだけでなく、社会システムにおいてもワープしやすい=人生の美味しいところをミスっていきなり老けてしょぼくれてしまう=状況になっているということです。
それはつまり大学、あるいは就職。
本当は大学なんか25歳過ぎてから行けばいいし、天職らしきものが分かるのも25-35歳くらいでしょう。少なくとも数年は実社会でいろいろ見てこないと、本当に自分のやりたいことなんか分かるわけないですよ。たまたま天分に恵まれたとか、早い時期に凄く面白いモノを見つけたというラッキーな人はいいけど、分野によってはわかりっこないものだってあります。
例えば原子力制御のエンジニアだって、あれも天分とか天才とかあると思います。また、新薬開発のための発想なんてのはかなり芸術家的な天分がいるといいます。その昔製薬会社に勤めていた友人から聞いた話によると、日本の製薬会社は世界規模でいうとベストテンにも入れないそうです。いまちょっと調べてみたらやっぱりそうで、http://www.utobrain.co.jp/news-release/2006/061200/をみても分かるように、自動車や家電分野だったら世界を制している日本も、製薬部門になると国内一位の武田薬品ですら世界では15位どまりです。なぜか?製薬会社の生命線は売れる新薬を開発できるかどうかであり(そうでないと他社に特許料払って真似しなければならなくなる)、画期的な新薬開発は終局的には個々の研究者の天性のカンが冴えているかどうかによるから、らしいです。一生研究しても、ついにモノになる薬を作れなかったという研究者はザラで、「こういう分子配列にするとこういう具合に効くかも」というのは、作曲家が曲想を得るようなレベルの話らしい。つまり、天才肌の人材が必要なのですね。で、日本はこの種の天才の発掘や育成に弱い。これは昔っから言われてますよね。
なぜ日本がこの種の「天才芸」になると弱いのかといえば、いろんな理由があるのでしょうが、一つには本人の天分が分かる前に人生の進路が決まっちゃうからでしょうね。大体、18歳かそこらで「俺は原子力技術に向いている」とか「新薬設計に天分がある」なんてこと分かるわけないですよ。「やってみたら面白かった」「詰まらんから転職した」という社会全体の膨大な試行錯誤と、労働力の流動性があってはじめて「適材適所」って状態になるのだと思います。分かりもしないうちに適当に偏差値輪切りで大学決めて、そんでたまたま就職時期の氷河期だのバブルだので右往左往してたら適材適所もヘチマもないっす。椅子取りゲームみたいに、たまたま音楽が鳴り終わったときに近くにあった椅子に一生座ってろってことだから。
また、なにかにつけて「若年者有利」の社会システムがあります。就職なんか「35歳過ぎたらろくな仕事がない」とか言われますし、そもそも最初から求人広告に年齢制限が掲げられていたりします。こういうエイジズム(年齢差別)は、世界一の高齢化社会なんだからもうやめたらいいのに。オーストラリアみたいに「違法」にするとかさ。第二新卒だって25歳くらいまででしょう。それでも第二新卒というカテゴリーが出来ただけでも進歩ではあるけど。何故、仕事するのにそこまで年齢が問題なのか?外人さんは素朴に疑問でしょう。トップクラスの身体能力を要求されるスポーツ選手とかだったらまだ分かるけど、この世の99%以上の仕事はそんなギリギリまでの能力なんか必要とはされんでしょう。だから結局は年功序列でしょ?同じ職場で年長者が部下だったら使いにくいというメンタリティがあるからでしょう。確かに長幼の礼は礼としてあってもいいとは思いますが、たかが職場にそこまでの全人格的ヒエラルキーを作らなくてもいいじゃないかって気もしますね。
一方、業種や職種によっては年を取ってる方が好ましい場合もあるわけです。例えば、政治家。あそこは40、50歳は鼻垂れ小僧の世界ですからね。これは中国などのアジア社会では比較的そうです。老人=賢者というコンセプトがある。仙人なんか大体おじいちゃんだし。そういえば洋の東西を問わず、神様というのはそんなに若々しいイメージはないですよね。弁護士でもそうで、20代くらいで弁護士やってるときはやりにくかったですね。老けてみられるように努力したりして。ということは、一般求人において年少者を求めるというのは、「素直な人」「言いなりになりそうな人」が欲しいという現場の要請もあるのでしょう。
ただ気をつけるべきは、企業側の採用が一方的に悪いわけでもないってことです。年長者は使いにくい、使えないという現実もまたあるのでしょう。やたらプライドばかりが高くなって素直に職場にとけ込めないとか、新しい仕事を覚えられないとか、発想が柔軟じゃないからいちいち手間がかかるとか。そういう性能劣化という機能低下という側面も厳然としてあるのでしょう。それは今書いているように「成長」するのではなく単に老化してるだけって人も多いからでしょう。
しかし、なんでそうなるのかというと、年を取ればとるほど社会的に重要視されなくなり、チャンスがなくなるという環境があるからで、原因と結果が相互にフィードバックしている面はあると思います。つまりは、ニワトリ卵なのでしょう、
しかし、環境があんまり相応しくないからといって、それでいいってことではない筈です。ここで成長を止めちゃうと幼生成熟になってしまい、いつまでもトッチャン坊やみたいな「いいトシぶっこいたガキ」のまんまで終わる。最近話題の馬鹿親なんかこの幼生成熟の典型なのかもしれない。そういえば、最近の新聞などでも、全国的に学校に無理難題をふっかける保護者が急増しているという記事をよく見かけます。自分の子供を呼び捨てにしないで欲しいとか、なんで体育のピラミッドで上になれないのかとか、行事写真で自分の子供が中心に映ってないのはおかしいとか。校長先生も大変だわ。教育委員会でも弁護士を通じて解決するようにシステム化をはかっていくそうです。
まあ、マスコミ報道だけで全てを判断するのは危険ですが、もし本当にそんなアホなこという保護者が多いのだったら、保護者=学校という回路ではなく、弁護士とか警察とか裁判所という第三者機関を入れてチャッチャとクレーム処理した方がいいです。社会は広いですからね、話し合っても理解できない人はいます。とんでもない人だっています。これまでだって居たはずですよ。だからそういう困った人は専門家に任せて、専門的に対処して現場の負担を軽くしてやった方がいいと思います。無理難題いって損害賠償だと騒ぐ馬鹿親には、逆に債務不存在確認請求訴訟を起こしたり、逆に学校という業務の妨害の損害賠償請求をしてやればいいと思います。もちろん、保護者のクレームの方に一理ある場合も多々あるでしょう。だから、第三者機関にクールに処理させた方がいいです。
それはそれとして、もしこういう理不尽なクレームをつける保護者がいて、その理不尽さの内容が異様なまでに肥大した自己愛とか、社会性の無さに起因していたとしたら(つまりは、馬鹿で未熟なガキだということですが)、やはり「幼生成熟」なんじゃないの?って疑いもあります。
思うに、生物というのは成長のタイミングがあり、これをズレると悲惨なことになるのでしょうね。植物の落葉、発芽、開花が日照時間の長短に照応しているとか、チョウがいつサナギになり羽化するのかとか、自然の成長のタイミングというのがあるのでしょう。これをミスるとサナギに入ったまま羽化出来ずに腐って死ぬという。自然は残酷です。人間も同じで、成長すべき時にしておかないと、かなり手遅れというケースもあるのでしょう。実際、自分がトシ食ってくると周囲も見えるようになってきますから、「あ、この人、手遅れかも」って残酷な現実に結構気付いたりします。「うわ、人生って残酷だわ」って思うのだけど、どうしようもないよね、という。それに、他人の心配よりも自分が手遅れになってるんじゃないかという方が気になります。実は結構ヤバい気もしてます。「いかん、成長が遅い」と思うし。
ということで、30歳前後になってくると、上向きに成熟するのではなく、下向きに老化していってしまう人がいますし、むしろ社会全体の趨勢としてはほっといたらそうなっていく可能性が強い。一昔前は、「30歳以降の成長」は企業内部でやってくれてました。多少効率は悪いし、ヘタすれば失敗するかもしれないけど、人材育成のために、「ここは一つ、○○君にやらせてみようか」という余裕があった。失敗経験なくして個人の成長なんかありないわけですから、会社の側に社員の失敗を抱え込む程度の度量がないと社内教育なんか覚束ないわけです。それをやってたのが、良きにつけ悪しきにつけ日本企業というものであり、日本的経営というものだったのでしょう。
このように伝統的な日本の企業は、悪しき側面もありつつも、大学以上の教育機関だったから、そこに所属していれば自然と成長も出来たって部分はあったのでしょう。伝統的なサラリーマンマンガ、「課長島耕作シリーズ」とか、「なぜか笑介」とか、「総務課山口六平太」などは、カッコいいビジネスシーンを切り取ったというよりは生の人間ドラマであり、生身の人間同士の複雑で奥深い関係を描いてたりします。そして、それこそが人間的成長なのでしょう。
しかしながら、最近の企業が派遣とかパートとかアウトソーシングを活用し、「ダメだったら即クビ」という感じでドライに進んでいるとしたら、企業の教育機能もまた低下しているのかもしれません。ワンポイント・リリーフのような派遣系で済ませるのであれば、人々にこの種の「社会って深いのね」ということを実感する機会も与えられず、それがゆえに成長点をミスることなり、成熟機会を逸してしまう個人は昔よりも増えているのでしょう。つまり幼生成熟してしまう危険性もまた高くなります。
しかし、それを恨んだり、嘆いたりしてても事態は変わらないのだとしたら、あとはもう自己責任で自己教育していくしかないでしょう。ただ、これは難しいですよ。
ということで、冒頭に戻り、25-35歳の方々に「あなたは成長点をミスってませんか?」「成熟ではなく、老化してるだけじゃないですか?」と聞いてみたいわけです。
なんでこんなこと思ったのか?というと、仕事柄ワーホリさんや留学生さんでこの年代の人に接する機会が多いのですが、中には30歳前後あたりで「あれ?」と思う人もおられるわけです。この人、もう5年早く来ていたらもっとスムースに(素直に)出来ただろうなと。「あれ?=ポテンシャル引き出してないな」」というのはそれぞれの世代、それぞれの個性で千差万別ですし、一概に年齢で言えるものではないのです。でも、日本で言われている「年齢の呪縛」みたいなものは確かにあるのであって、人によってはそれに罹患してるんじゃないか?というケースもあるということです。全然大丈夫!って人も多いのですが。
実際20代前半と30代前半の身体能力や知的能力なんかそんなに差はないです。少なくともオーストラリアで最初の一歩を踏み出す程度のタスクだったら、そんなに支障のある生物学的差があるわけもない。やれ、年をとると記憶力が下がるとか、足腰が弱くなるとか、そーゆーことは確かにありますけど、この程度の年齢だったら大差ないよ。そういうことは60歳過ぎてから言えという。だから、客観的にどうのというよりは、「そう思いこんでる」という退嬰的な精神面にこそ問題があるように思うのですね。
これも過去のエッセイに多々書いてますけど、人間の肉体的能力というのは思ってるほど加齢によって低下しません。単純に身体能力でも、瞬発力とか反応速度は年とともに落ちますが、筋力そのものの強さはそんなに落ちない。だからプロレスラーでも40、50歳で現役でやってる人もいます。また、世間にもやたら馬鹿強いオヤジもいます。60歳でもメチャクチャ腕相撲が強い人っているでしょう。持久力だって、70歳でトライアスロンやってる人だっているんだもんね。また、中国拳法にせよ、剣道にせよ、高齢者の師匠が未だに最強という分野も結構あります。僕が高校のときに柔道部やってましたけど、50歳過ぎのOBや60歳過ぎの顧問の先生に赤子扱いでコロコロ投げ飛ばされてましたし、単純に力比べをしても全然勝てなかった。世界の頂点のようなオリンピックレベルだったらいざしらず、通常の局面だったらそんなに肉体的能力が落ちるわけはないです。
また、知的能力ですが、たしかに記憶力は低下するそうですが、加齢によって低下するのはそのくらいで(記憶力も無条件に落ちるわけではなく、メンテ次第によっては維持できる)、その他の思考力、洞察力は年齢とともに複雑なパターン認識が出来るので能力的にはむしろ上がります。上がるからこそ、どこの世界でもある程度の高級職には年長者がついてるわけです。古今東西の部族の長は高齢者がなってたりします。昔は、姥捨て山とか間引きとか足手まといになる老人や赤ん坊を殺してしまうくらい、生存のための超ハードな環境にあったわけだし、部族の長が判断を一つ間違えただけで全員餓死とかしてたわけだから、単なる年功序列とかメンタリティだけでリーダーを決めるなんて悠長なことはしてられなかったわけです。そこで高齢者がリーダーになっていたということは、それだけ高齢者の知的能力が部族で最も優れていたからでしょう。
つまり、人間なんてのは60歳やそこらくらいでそうそうポテンシャルの性能が落ちることはないということであり、ましていわんや現代における25歳と35歳の差など限りなくゼロに近いと思われます。そして、もしそこに何らかの差があったとするならば、それはひとえに「本人がそう思いこんでいる」という主観的要因しかないだろうということです。
そして、なぜ本人がそう思うのかというと、錯覚とか誤った知識とかいうこともあるでしょうが、僕が一番問題だと思うのは「気力」でしょう。「やる気」。人間の全能力のうちで一番最初に老化が始まるのは、意外とこの「気」の部分かもしれません。
では「気力」とはなにか?もう少し具体的に述べると、話は簡単。
○身体的に辛いことをしたくなくなった
○精神的にキツいことをしたくなくなった
○それらキツさの代償として得られる成長をそれほど欲しなくなった
ってことだと思います。
「足を棒にして歩き回れ」とか、「とにかくトライしてみろ」「最初はキツイけど我慢しろ」という、成長や技術習得のための不可避的なプロセスがあり、若いうちはあんまり苦痛もなくこういったことが出来ます。部活の新入生のシゴキみたいに、今から考えると「よくあんなことやったよな」ってことでも出来ちゃう。でも、だんだんそういったことが出来なくなってくる。しつこいけど、客観的肉体的には十分可能なんですね。でも、前よりもそれが苦痛に感じるし、その苦痛に耐えられなくなってる。
これは結局、ストレス耐性の低下などの精神面が弱くなってるからでしょう。この精神的弱体化は、あらゆる局面で祟ります。例えば、下手な英語を使って笑われるのに耐えられないとか、失敗したときの徒労感がイヤだとか、じっと辛抱して一つの本を読めないとかそういった面で出てきます。そうなると結局手数が減るし、チャレンジ精神もチャレンジ行動も激減するから、何の出会いもないし、発展もない。せっかく海外に出たけど、鳴かず飛ばずって感じになりがちです。そのくせ、「私は他の人とは違うのよ」という妙なプライドだけは高かったりするから、尚更素直に一年生がやるべき下積みの苦労が出来ない。思うに、「もうトシだから」とかいうのも「言い訳」だし、「今さら私が」という下らないプライドも言い訳。ぜーんぶ言い訳。辛いことをやらないで済ませようとする言い訳。言い訳言ってる人間に進歩はないぜよ。
こういう人間類型を一言で表現すると「ダメ人間」っていうのでしょうね。キツい表現かもしれないけど、でもこうなったらダメダメスパイラルで奈落の底に落ちていくよ。だって、自分に対して過保護になるから、何もチャレンジできない、してもすぐ止めてしまう人が次に考えるのは、「ちょっとでも楽をしよう」という発想ですな。これが地獄への特急券で、「自宅で高収入」という広告文句に脅されて有り金巻き上げられて消費者センターに泣きつくパターンと一緒。数ヶ月ちょっと学校に通っただけで「資格」が得られるとかさ。数ヶ月で得られる資格なんか数ヶ月分の価値しかないです。つまり事実上無価値。30年社会に生きてりゃそのくらい常識だろうけど、「楽をしたい」「とにかくカッコつけたい」という惰弱な欲望に知性も経験も曇らされて阿呆指数が加速する。そんなこんなで貴重な成長点をミスってしまう。そしていよいよどうしようもなくなった袋小路の人間が次にやることは、他人を羨むこと、嫉妬すること、恨むことであり、さらに発展すると他人を陥れること、危害を加えることです。もうそういう精神状態になったら、端的にいって「イヤな奴」になってるでしょう。人間的魅力もなくなりますから、他者との良い出会いも豊かな人間関係も乏しくなってくる。またボロボロになったプライドを維持するための金粉はお金ですから、異様にお金に汚くなったり、一攫千金を狙って犯罪まがいの行動にでるとか、借金しまくって自己破産するとか。
刑事弁護人をやったり、自己破産の申請代理人をやったりしますと、依頼者の人と「なんでそうなったんだろう?」と一緒に、真剣に考えます。どこに人生の転機があったんだろう?と。罪を犯した人が反省するとしたら、失敗から教訓を引き出すことであり、反省とはあくまで「振り返って省(かえり)みる」ことです。幸福だった小学生時代。うん、このときはハッピーだったぞ、、、と、人生をなぞっていって、「あ、ここだ」というポイントが結構あるのですね。ここで、レールが転轍のようにガタンと切り替わり、あとは破滅に向かって、、、という感じです。まあ、そういう意味では、一瞬一瞬が人生の選択であり、切り替えポイントであり、その都度パラレルワールドが広がっていくのでしょう。
なんでそうなるのか?というと、心の芯にある部分が弱体化するのが諸悪の根源だと思います。中心部分が弱くなるから、本能的に楽な方向に行こうとする。そして、多くの場合、これが地獄への分岐点だったりします。でもこれってミクロに見ていけば、誰の心にもある、そして日常生活でいくらでもある、普通の出来事なのでしょう。よく引き合いに出す例では、「温かいコタツの中に入ってしまうと動けなくなる」という心理現象です。誰だって不快よりは快がいいに決まってるから、現状の快感を破壊したくはない。どんなに理性的に必要性がわかっていたとしても、目先の快楽に負ける。ダイエットしなきゃと思いつつも、ついついお菓子に手が伸びてしまうのが人間であり、その弱さは誰にでもある。だからこそ愛すべき人間なのだと思います。
ただ、ほんの些細な目先の快楽によって、運命という量子世界のブレが確定し、予想を遙かに超えて全人生的な破滅に向かっていっちゃうという怖さもまたあると思うのですね。「蟻の一穴」とか言いますし。
「老化」とはすなわち弱体化でしょう。自らの弱さを無意識的にも前提にするから、すべてが防衛的な発想に陥り、出来るだけしんどいことを避けようとする。僕の好きだったマンガ「サンクチュアリ」に登場するキメのセリフで、「老いとは本能的に守りに廻り、守りは必ずや破綻を生む。守りにまわった人間に脅威はない」といのがありますが、まさにそれだと思います。守りにまわると世間が恐く思えるし、他人が恐くなる。信用できなくなる。すべてのネガティブリスクを実際以上に過大に評価しようとする。根本的な部分で外界の認識と行動がブレてくるから、長期的には必ずやそのズレによる致命的な破綻を生む。
若い人の最大の財産は、基本的に攻めに廻ってることだと思います。心の奥の奥にある部屋のなかにいる自分、その自分を自分で信じられること。自分は強いのだと信じられること。今は強くないかもしれないけど、いずれ強くなるのだと信じられること。もっとも根本的な部分が「攻」になってる人は、やっぱり強い。どれだけダメージを被ったかという部分はあんまり集計して考えずに、どれだけ攻撃できたかだけを集計して考える。(精神的)ダメージというのは、本人が気にしなかったら実質的にゼロに近く、逆に本人が気にして心の中で何度も反芻すればするほど実際以上に巨大になっていく。だから自分のダメージを考えない人は基本的に強いし、ダメージも最小限に抑えられる。それよりも攻める楽しさ、広がる楽しさ、強くなる充実感で心は満ちていくから、どんどんアクティブになる。手数も多くなるし、シンドサよりもその後にくるご褒美が欲しくなるから、さらにチャレンジングになる。若いというのはそういうことで、そのあとに続く壮年期には、エネルギッシュな強靱さをそのまま維持しつつ、これまで蓄積してきた知識と経験でよりしたたかに、最強にもっていくべきなのでしょう。ここでヘタってる場合ではない。
まあ、理屈は以上のとおりだと思いますが、さて、日々の生活においてどうすべきか?
結局はメンテナンスなんでしょうね。チェックアップ。自分の心の奥の部屋、自分の原子炉みたいな部屋が見れたら話は簡単なんでしょう。奥の部屋までトコトコいって、扉を開いて、そこに書いてある字が、「攻」「強」になってるか、「守」「弱」になっているか、です。
しかし、そんなことは精神分析でもやってもらわないと分からないでしょうから、もっと気軽に日々実践できる方法を各自が考えていくしかないでしょう。自分がトシを取ってきて痛感するのは、「老いとの戦い」ですね。あ、こう言うと誤解を招くか。ナチュラルに老いるのは全然問題ないのだし、早くカッコいいジジーになりたいですし、あるいは日本昔話の優しいお爺さんになりたいですよ。そういうことじゃなくて、必要以上に老いることですね、恐いのは。
加齢現象によって全てにおいて性能が劣化していきますから、定期的なメンテナンスと、早めの修理は不可欠でしょう。肉体的な面でも、ちょっと気をつけているだけで、かなりの程度で性能低下を防止することは出来ます。問題は精神面ですよね。
例えば、うーん、そんなに意識してるわけではないですが、「どんなことであっても、絶対に"年齢”を言い訳に使わない」というルールなんかはありますね。「トシだから」というフレーズは禁句。自分でも言わないし、他人にも言わない。多くの場合謙遜して言っているというよりは、言い訳として使っているだけだから。「いいトシぶっこいて」やるからイイのではないかと。女性の方でも、「もうトシだからこんな派手な服は着れない」と思わずに、着てください。着れない理由が、純粋に自分のトータルコーディネィトとしてNGだったら良いのですが、単純な暦数年齢だけで物事決めないように。むしろ、これを着こなせるくらいのオーラをまとうようになろうというのが「攻め」ですね。
あとは、あはは、良く言うよね。椅子に座るときに「よっこらしょ」とかけ声をかけないとか(^_^)。
ほかにも、何かを選択するときに、デメリットとメリットをキチンと平等に見ているかどうか気をつけること。守りに廻るとデメリットばかりに拡大鏡をあてるようになります。「面倒臭い」と思わないこと。あと、映画でいいセリフがありましたな。「レッド・ドラゴン」の最後のシーンで、「私の母親はいつもこう言っていた。何を選ばなければならない場合は、常に新しいモノにトライしなさい、と」。Always try a new one. いいセリフですね。他の映画でも、「常に困難な道を選択しなさい」というセリフもありました。Kundonというチベット仏教の映画だったかしら。always choose the hard one.
まあ、なんでもいいんですよね。大事なのは、日常的な些細な一コマに、実は運命の分岐点が潜んでいるってことです。
ということで、必ずしも25-35歳の人だけを対象にしているわけではなく、どの世代においても等しく適用されることだとは思います。しかし、特に日本の場合、このあたりの年代で一番楽しい壮年期をワープして老いに向かっちゃう危険性が高いので、書いておきます。ワープしちゃダメよ。
文責:田村
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