今週の1枚(02.02.11)
雑文/オーストラリアの近況:難民問題・プライベート保険
最近のオーストラリアの近況です。
インドネシア方面からやってくる難民/亡命者などのボートピープル(正しくは"asylum seekers"、亡命希望者)は後を絶たず、殆ど恒例化してきています。いま注目を浴びているのは、難民収容キャンプの現状です。オーストラリアでは、真実難民であることが判明すれば難民ビザを発給することになっているのですが、その審査を受けるまで、一定の場所で収容されるわけです。それだけだったら問題ではないのですが、問題はその数が多いこと。ガンガンやってきます。と同時に、審査が遅延します。もう何ヶ月、時には年単位で待たされる。しかも収容所の環境が良くない。当然、収容者(ビザ待ちの難民)もシビレを切らしてくるわけで、「ええ加減にせんかい」というムードになってくるわけです。で、抗議行動が起き、暴動が起き、国連人権委員会が動き、国内で議論になり、、、という騒ぎになります。
つい先日、South Australia州のWoomeraという所にある収容所から、ひとりの男性が屋根から鉄条網のフェンス(正確には Rezor Wire といって鉄条網とはちょっと違うようだが似たようなものでしょう)に抗議のダイブをして、100針縫う大怪我をしました。なぜ、こんな自殺覚悟の行動をとったかというと、彼と一緒に収容されていた甥っこや姪っこ達の審査を早く進めるように訴えたかったからだといいます。
彼の兄は、既に難民ビザを発給してもらいオーストラリアに来て生活しています。ところが、その奥さんと5人の子供(ダイブした彼からすれば兄嫁と甥姪)達はまだ収容されており、13ヶ月も経つのに全く埒が開きません。収容所の環境は劣悪だと言います。一説によると「刑務所の方がまだマシ」だと。そんなところに、5歳から13歳の甥姪達を収容させておいていいのか?さらに、絶望のあまり自殺を試みる者、ハンガーストライキをやる者、看守との小競り合いなど暴力的な雰囲気、、子供の教育という観点からはかなりキビシイ。それどころか、当の甥っ子がハンガーストライキに参加し、あまつさえ皆と一緒に自分の唇を縫いあわせるというショッキングな抗議行動に出たりしています。
素朴な疑問として、一家のうち旦那が既に亡命者として確認され、ビザを認められているならば、同じ状況下にある奥さんと子供達を、どうして13ヶ月も抑留しなければならないか?です。チャッチャとビザをあげたらいいじゃんと思われるわけですね。その旦那さん自身、途中で離れ離れになってしまった(本来はドイツに行く筈だったらしい)家族がオーストラリアに来ていることを知ったのは8ヶ月前だといいます。そんな中、奥さん子供と一緒に収容されている叔父さんにあたる人が、膠着状態を打開するために世間の耳目を集めようとした抗議の自殺行動が、冒頭のダイブになるわけです。逆にいえば彼はそこまで思いつめていたわけだし、事態はそこまで煮詰まってきています。
政府、移民局の腰は重いです。もともとオーストラリアは日本人の感覚でいえば事務がドン臭いです。しかし、これは単にドン臭いだけではなく、いわゆる red tape と呼ばれるお役所仕事の非能率性がメインでしょう。ちなみに、お役所の非能率性はなにもオーストラリアの専売特許ではありません。血液製剤によるエイズ訴訟で厚生省のやってきたことを考えてみれば、日本だって似たようなものです。というか表沙汰にならず、よりシステマティックにより巧妙にという意味では日本の方が風通し悪い分だけヒドイかもしれません。しかし、それだけではない。
難民受け入れ問題は政治的に非常に微妙だったりします。もともと去年の総選挙で難民問題に断固たる処置をなんて言って政権を維持した現ハワード政権ですから、「ガンガン受け入れましょう」なんてことは言えないわけです。国民感情もこれまた微妙に二分されています。「なんてヒドイことをするんだ、私はオーストラリア人であることが恥ずかしい」という人権派もいれば、甘い処置をしてはならないという強硬派もいます。どっちかといえば強硬派の方が多いかもしれない(だから前の総選挙もリベラルが政権維持したんだし)。
また、今回騒ぎになってる難民の人達は、メインにはタリバン政権に圧迫されていたアフガニスタン人達だったりするわけで、それもまた問題を複雑にしています。今回のアメリカの攻撃でタリバン政権は崩壊したのだから、もう故国に戻れるじゃないか、難民の要件を満たさないのではないかというのがその一つ。しかし、帰ったところで本当に身の安全は確保されるのか、このあとアフガニスタンがどうなるのかなんてことは、今の時点では誰にもわかりません。また、アルカイダのゲリラが難民を装ってオーストラリアにやってきているのではないかという心配論なんかもあります。しかし、中近東のルックスをしてたらそれだけでアブナイみたいに思うこと自体が、人権感覚(というよりももっとシンプルに人間としてのセンス)の底の浅さと無知を露呈しているだけともいえます。
ただ、ニュアンスの強弱はあれども、@真正な難民だったら受け入れるべきである(単なる賃金目当ての不法移民ではなく)、Aただし無条件・無制限に受け入れていたら国が持たないからそれなりの線引きは必要である、B難民認定の審査のプロセスは迅速かつ公正であり、それまでの収容所の環境は国際的な人権基準を満たすものであることが必要である、、という大綱においては、そう大きな異論はないだろうと思われます。
しかし、実際には審査は遅々として進まないわ、収容者達のフラストレーションは溜まる一方だわ、だから暴動が勃発するわ、ハンストは行われるわ、当然雰囲気は険悪の一途を辿るわという状況になってます。
なんでそんなに時間がかかるの?というと、簡単に言えば人手が足りないのでしょう。移民局の人員、設備、予算がこういった難民の波状来襲に耐えうるほど十分ではないということが推測されます。確かにここのところ、オーストラリアへのボートピープルの漂着はかなり増えているようです。一昨年くらいから年間4000人規模になり、去年から今年にかけてさらにもう少し増えてきたというところだと思います。増えているから事件もおきるし、話題にもなるのでしょう。
オーストラリアも、無条件にホイホイ受け入れるわけにはいかないから、真実難民かどうかの認定をキッチリやってビザ発行の判断をしたいでしょう。ただ難民かどうかの認定は、学生ビザのように簡単ではないでしょう。なんせ、皆さん着の身着のまま、半死半生の状態でやってくるわけです。アタッシュケースに申請資料がキチンとおさまっているわけもない。その人物がいったいどこの国の誰なのかの認定からはじまってその人の本国での生活、そして本国の現状が、その人の生命身体財産に重大な危害をあたえる恐れがあるかどうかを認定しなければならないわけですから、かなり途方に暮れる話だとは思います。当然、英語なんか出来る人は少ないでしょうし。
オーストラリアは古くはパレスチナ難民、ベトナム難民、最近ではコソボ、東チモールに至るまで連綿と難民を受け入れ続けてきたわけですから、それなりのノウハウは持っていると思います。だから全く途方に暮れるということはないでしょうが、それにしたって、人数が増えればどうしたってある程度時間がかかるのは止むを得ない面もあるでしょう。また、迅速な処理のため、ガンガン人員や設備を増強しましょうとやってられるほど財政が無制限に豊かなわけではないです。とてもじゃないが手に余るという状況になっても無理はないです。
この状態を打開する術のひとつして、いわゆる"Pacific Solution"と呼ばれる政策が導入されました。オーストラリア近海の太平洋諸国に協力を要請して、手分けしてボートピープルを収容し、審査をしようという方法です。現在のところ、PNG(パプアニューギニア)とナウルが受け入れてくれています。もちろん、収容所の建設代金はオーストラリア持ちですし、それ以外にも種々の経済援助をすることを約束しています。現在のところ1500名ほどが、これらのオーストラリア国外の施設にいるそうです。 しかし、まあ、これにしたってお金がかかることに変わりはないし、設備や審査が批判に耐えうるものなのか等、議論は尽きないようです。BBCのNEWS Q&A
のページが手際よくまとめています。
そうこうしているうちに、収容所の雰囲気は日増しに険悪になり、収容者の健康状態も危ぶまれるようになってきています。AMAというオーストラリア医師会のような組織が、収容者の健康状態のチェックに行きたいと名乗り出たりしています。
難民認定の手続は必要にしても、なにもあんな環境の収容所で待たせる必要があるのか、なんでもっと迅速にできないのか、少なくとも全く無期限というのはあんまりではないのか、そもそも収容する必要があるのか?等など種々の議論が出ています。
オーストラリア政府は、-基本的に批判の矢面に立たされているのはジョン・ハワード首相と移民省のフィリップ・ラドックの二人ですが-、だからといって現行の規制を変えるつもりはない、という姿勢を堅持しています。政府も一生懸命やってるんだ、それでも出来ないものはしょうがないんだ、という感じですね。確かに、難民船の出港地となっているインドネシア政府に話を通して、インドネシア国内で「不法移民の出港に手を貸すことは違法」というキャンペーンを展開したり、それなりのことはやっているようです。
しかし、子供たちの健康問題なり、今回のような抗議の自殺行動なんかが出てきてしまうと、「頑張ってるんだ、仕方がないんだ」だけでは通用しない部分も出てきたりします。そのうちに、「頑張ってるっていうけど、本当に頑張ってるの?」という疑問も出たりします。どうも、必死になって努力しまくってるという風にも見えない、と。何となく、政府の対応には何かが足りないように思えてくる人も出てきますし、何が足りないか?というと、それは"compassion・思いやり"だという議論も出てきています。
今回僕も問題だなと思うのは、政府(移民局)の手続の迅速公正さに関する姿勢が不十分だと思われることです。
まず、情報開示の消極性。移民局は、くだんの旦那さんの弁護士にすら、奥さんや子供達の到着日時や現状についての情報の開示を拒んでます。マスコミの収容所の取材も原則として拒んでいるようです。また、国連人権関係機関の第二次調査について、政府は受け入れに難色を示しています。つまり、積極的に現状を説明して国民や当事者に理解を求めるというよりは、「問題はないんだ」と強弁し続けているような印象がある。
それに、どう考えても、既に難民認定されている旦那の家族のビザ発給という簡単に出来そうなことが、13ヶ月経ってもまだ出来ていない、これからもいつ出来るかわからない、いつ頃できそうかの情報開示も一切やらないというのでは、いくら『頑張ってます』と言われても、「ほんまかいな」という疑問も出てくるでしょう。
ここでちょっと余談です。個人的な一般論ですが、無駄な秘密が多いほどその組織は無能なのではないか?と。
永住権の申請とか、学生ビザなど、僕らも移民局とは日常接しますが、記憶によると確か申請書の注意書きには「今どのくらい審査が進んでいるか問い合わせるのは絶対にやめてください。問い合わせるとその分だけ審査にマイナスになる恐れがあります」なんていう脅し文句があったと思います。「何様のつもりじゃい」と非常にムカつくフレーズです。こんなこと民間企業が言おうものなら、その会社は潰れるでしょう。言うまでもなく、国家というのは税金を対価とするサービス機関に他なりません。サービス産業が、客からの問い合わせをシャットアウトするとか、問い合わせしたら「不利益になるかもしれないよ」と脅すなどということは考えられないです。民間レベルの宅配便とかでは、今現在どの段階で配送されているかを追跡するシステムなども開発して利用者に提供しているというのに。
大体、国民の税金で運営される国家機関のサービスというのは、民間以上の透明性が求められる筈。また、競合他社がない独占企業であるだけに尚のことその運営はチェックされる必要があります。それなのに、民間以上に透明な政府機関というのは、僕の知るところ一つもないです。もとよりプライバシーなり、国家機密に類するものがあるのは僕も否定しません。しかし、どう考えても関係ないものまで無用に秘密にしたがる。
今はどうなってるのか知りませんが、司法試験の問題、特に択一試験なんかも問題を公表されていませんでした。何十ページもある試験問題の持ち帰りを禁じている。じゃあなんで巷に過去問題集が刊行されているかというと、あれは個々の受験生が必死で手分けして暗記して、それを予備校や出版社がまとめているからです。アホちゃうかと思いますよね。全国2〜3万人の受験生からまた問題文を回収して、膨大な分量の紙資材をコストかけて破棄して、なんのメリットがあるのだ?「公表」といっても、受験生は当然見てるわけだから『公表』は既になされているし、そこになんの秘密性もない。それに司法試験の問題なんか、国家機密でもプライバシーでもないでしょうに。なぜ持ち帰りを禁止し、受験生の自己採点や次の世代の受験生の参考を禁止するのか?もう、結局、問題を持ち帰らせると、あとで問題(出題)ミスを批判されたとき言い逃れがきかないから、としか思えないです。
話はそれましたが、ただでさえ不透明で不合理なお役所仕事が、こと難民問題などシビアなケースになるといっそう際立って感じられます。「こっちは一生懸命やってるんだ、ガタガタ言うな」という臭みが、ここでも同じように感じられる気がします。
先日、移民局の諮問機関の委員長であるNeville Roachという人が辞任しました。移民局のやり方に嫌気が差したなどと報道されてます(本人の文章によるとそれだけではないそうですが)。この人はインド系で、1961年に白豪主義が廃止されてから入ってきた移民第一号。文字通りオーストラリアのマルチカルチャリズムと共に歩んでた人で、その業績・人柄からかなり周囲の尊敬を集めていただけに、政府・移民局への風当たりはまた強くなっています。
政府はボートピープルが「洪水のようにやってくる」と表現してますが、これも大袈裟すぎるという批判もあります。2000年にオーストラリアが審査した亡命ビザ件数は8000件だといいます(全員がボートに乗ってやってくるわけではない)。これを『大変な事態だ』というわけですが、同じ年に他の西欧諸国が扱った処理件数は、イギリス5万件、ドイツ10万件、アメリカ&カナダに至っては42万件にも達します。国の人口規模の差を配慮しても、オーストラリアの8000件というのは、他の諸国に比べれば屁でもない数字と言えなくもないです。
また、オーストラリアがやっている必要的強制収容主義(しかも期間無期限、再審査なし)は、政府は「動かすことは出来ない政策」と固持していますが、実は同じ西欧諸国でもこんなことやっている国はないという批判があります。多くの国は一定期間収容はするけど、その後は審査が済むまで社会のなかで暮らすことを認めています(出頭義務など条件は勿論あるが)。スエーデンは、90年代の初期にオーストラリアと同じようなことをやってきたのですが、オーストラリアと同じような問題にブチ当り、97年以降、収容は数週間
までと変更しています。また、子供の場合は3日(最大6日)に限定しています。
これら他国の動向と比べてみると、オーストラリアのやりかたは遅れているし、少なくともスマートは言えない。同じ西欧と比較するにしても、日本だったらまだ西欧とアジアでは文化基盤が違うなどの言い逃れをする余地がありますが、オーストラリアの場合は同じ西欧文化圏ですから、そういった言い逃れすらできない。
結局、他の西欧諸国が難民問題で頭を悩ましているのは、過去の植民地政策のツケを延々払い続けているからでしょうし、それが長年にわたって恒例化しているから対応もまた洗練されてきているのでしょう。オーストラリアの場合、他に植民地を持たなかったのは良いのだけど(オーストラリア自身が植民地だったし)、その分こういった問題に対しては不器用なんだろうなと思わされます。
また、今回の問題は、現政府が前の総選挙で、難民問題と反テロリズム戦争の安直なポピュリズムに乗っかって勝ったその安直さのツケが廻ってきたのだとも言われています。つまり『中近東の人達は何するか分からないぞ、怖いぞ、でもボク達は断固として国を守ります』なんて言って当選してるもんだから(そういう馬鹿みたいな表現ではないけど、暗示していることは同じ)、いざ実際に問題を処理しようとすると、十分に政策が練れていないという。また、無責任に国民を焚きつけた結果、火が消せなくなっているという。
一連の政府の対応なり表現のハシバシに、「収容者は我々とは全然接点のない文化を持っているワケのわからない連中なんだ」みたいなゼノフォウビア(外国人恐怖症)を煽るような姿勢が見え、それが度し難いというのは、前述の辞任したローチ氏も言っています。例えば、ハンストをする際に、「口を縫い合わせる」「子供にすらそれを強制している」という部分だけをクローズアップして、その詳報をしないと。事実は、縫い合わせるといっても、シンボリックに口の端を一針やってるだけで、こんなもんオーストラリアの若者がやってる(医学衛生上どれだけ適正な方法でやってるか疑わしい)ピアスとどこが違うのか?という指摘も出ています。つまり、今一番必要なのが相互理解なのだけど、わざわざ理解を妨げようとしているのではないか。そうやって国民を無責任に煽って、それで自らの政策遂行が不十分なのを誤魔化しているだけではないか。自らの無能を誤魔化すために、せっかくここまで育んできたオーストラリアのマルチカルチャリズムに重大な禍根を残すことになりはしないか?などなどの批判です。
ところで、民間レベルからも積極的な動きがでているようです。
例えばメルボルンの弁護士(QCだから結構エラい人)である Julian Burnsideという人が、あんな環境に問題のある収容所に収容して、しかも税金をかけているのだったら、もっと上手い方法があると提案しています。それは、オーストラリア国民に呼びかけて、難民審査が出るまで、「あなたの家の余った部屋を難民の皆さんに提供しませんか」ということです。
すでにホームページもできています。www.spareroomsforrefugees.com
というところで、読んでみると論拠も明示し、かつコスト計算もしっかり提示してあるし、なかなかしっかりしたサイトだったりします。そして、現在まで多くのオーストラリア人から家の提供の申し込みがきているそうです。タスマニアのとある過疎の町では、1200名収容能力があるから来て欲しいというオファーもあったということです。
他にも、コソボや東チモールのときに開発した、"safe haven visas"という暫定ビザを活用してはどうかという提案も読んだことがあります。
単に批判してるだけではなく建設的な提言をしたり、実際に行動に出たり、それをまた国民が支持したり、そのあたり感情論にならずにクールにやっていこうぜという姿勢は、やっぱり評価されていいと思います。誰かがどっかでいいことを書いてましたが、「難民の人達は、我々と同じく普通に生活している市民であって、凶暴な暴徒なのではない。そしてまた、ハワード首相もラドック移民相も血も涙もない冷血漢ではなく、真剣に事態の解決を模索している優秀な政治家である。とにかく我々は、反対する人々の人格像をことされに悪く描いて、その悪さだけを批判するだけという非生産的なことを直ちにやめねばならない」と。
来月、バリで周辺の国々が集まって、難民問題や蛇頭などの不法移民輸送業者の取締りなどについて協議することになっています。
なお、一連の記事については、シドニーモーニングヘラルドの特集ページ、http://www.smh.com.au/news/specials/natl/woomera/index.html
にいろいろ書いてありますので、興味のある方はどうぞ。
難民問題だけで終わってしまいそうなので、大急ぎで次の話題に。
Medibannkがpremiumを13%値上げするそうです。
これだけだったら「何のこっちゃ?」と思われるでしょう(オーストラリアに3ヶ月以上住んでて、それでも”何のこっちゃ”だったら、もうちょいニュース読んだ方がいいと思います)。こういうことです。
オーストラリアの医療保険制度は日本とは違います。日本の国民健康保険に相当するものとしてオーストラリアにもMecicare/メディケアというものがありますが、カバー範囲は限られています。また、詳しくは福島執筆の雑記帳の記載にありますように、病院にも公立と私立があります。
大雑把に言ってしまうと、メディケアだけだと掛け金も医療費も(日本の感覚からすれば)メチャクチャ安いが、限定された疾患で、しかも公立病院で延々順番待ちをしないとなりません。もっと快適な医療を受けたいのだったらプライベート医療機関に行けばいいです。但し、高い。だから高いプライベート医療を受けたいのだったら、その分さらに自腹を切ってプライベート保険に加入することになります。
医療費の増大は日本でもオーストラリアでもどこの国でも頭の痛い問題です。国民皆保険を達成している日本では、保険料を引き上げたり、今話題になってますように2割負担を3割に引き上げるとかやってます。オーストラリアの場合はどうかというと、メディケアを充実させて日本のようにオールカバーに近いところまでもっていったり、公立病院や看護婦さんへの予算をガンガンつけて充実させていくことが考えられますが、財政上、それは非常に苦しい。
そこで、政府が考えたのが、皆にプライベート保険に入ってもらってプライベート病院に行って貰う、その分公立病院の負担を減らそうということでした。もちろん呼びかけただけでは誰も自腹を切ってプライベート保険に入らないので、税金上30%割戻しというインセンティブをつけます。早い話が国が3割助けてあげるからプライベート保険に入らないかい?ということですね。
読みはズバリで、オーストラリアの人々はどんどんプライベート保険に入りました。そのため、プライベート保険各社、とくに大手のMedi Bankなどは保険料収入がガーンと跳ね上がって笑いが止まらないという活況を呈しました。
が、喜んでいられたのも最近までで、国民もしっかりちゃっかりしてますので、払った保険料を少しでも取り戻そうとします。取り戻すにはなにも病気になる必要はありません。こちらのプライベート保険は、商品によりますが、鍼灸、カイロプラクティック、オステオパシー、メガネやコンタクトレンズ代なんかでも支払われます(もちろん年間リミットはありますが)。別にどうしても必要ではなくても「保険で出るならやってみようか」という感じでやっちゃう人も結構いたと思われます。要するに、掛け金も沢山入ってくるけど、出金も増えるわけです。また、若い人の場合、総じて保険料は安いですが、若い人でもやることはやりますからね。詳しく知りたい人はメディバンクのホームページを。
そんなこんなで気が付いてみたら、笑ってられなくなっていたということだと思います(勿論、他にも運用の上手下手とか、医療費の高騰とかいろんな要因はあるでしょうけど)。ということで、今度から掛け金が13%値上げになるそうです。
もともとオーストラリア人のプライベート保険加入率というのは低かったそうで、それが政府の30%リベートプランで「得だ」ということで流入したようです(折からの好景気もあったのでしょう)。保険好きな日本人に比べたら、イージーゴーイングのオージーがそんなに保険を好きだとも思えないし、それが今回の値上げでどう反応するかちょっと興味があります。
ちなみに僕個人は、日本人らしからぬ保険嫌いです。
これはもう日本にいるときからそうでした。今から10年ほど前、一回興味があって積立型の生命保険の有利性を、電卓叩きまくって計算し倒したことがあります。出てきた結果は、30歳のときに1000万円持って年率5.5%複利で廻しつづけていられたら積立型生命保険に加入するのと同じことだということが分かりました。で、「だったらそうした方がいいじゃん」ということになりました。1000万なんか持ってないし、実現もしてないのですけど。理由は以下のとおり。
保険会社が言う5.5%複利なんて、バブル時期の日本だからこそ言える強気の数字であって、これが向こう30年継続する保証はない、というかまず絶対に無理だと思った。だから、遠からぬうちに掛け金が上がるか、配当が減るかどっちかであると。なぜかというと、保険会社というのは、皆から集めたお金を軍資金にして投資をして資産を増やすのが商売。いわばバクチ屋さんのようなもの。しかし、世界の強豪相手にした場合、日本人は性格的に博打は下手だと思うし、日本の企業風土からしてもバクチには向いていない。だからそんなに儲からない。これまでのように土地神話と右肩上がりだったら誰がやっても儲かったけど、これからはそうはいかない。さらにバブル当時、政府のPKF(株価維持)などで「機関投資家(つまりは保険会社)」が政府に協力させられていたけど、あんなことやってたら儲かるものがますます儲からなくなってしまう。さらに、この先ますます先行き不透明になるので、保険会社そのものが潰れることは十分にあるわけだし、そうなったらパーである。
だったら自分で稼いだモトデを自分で考えて年率3%くらいで運用していた方が得。なぜかというと、途中で金が必要になったとしても解約すればいい。保険の場合、中途解約返戻金はスズメの涙だから、これまでの掛け金がほとんどパーになってしまう。これからの30年先の社会の変動を予測すれば、その間に自分にまとまったお金が必要となるケースは、かなりの確率で生じるだろうと思われる。だとしたら、あってはならない筈のスズメの涙ケースが高い確率で存在することになる。リスキーである。もう一つ。自分で運用している分には、運用先がヤバくなったら、どんどん自分で運用先を替えていける。しかし一旦保険契約を結んだら、それもできず、保険会社と一蓮托生になるしかない。僕はその当時、仕事柄(バブル期とバブル後の後始末を通じて)、日本の金融機関の優秀性をそれほど信じていなかった。優秀どころか、なんで潰れないのか不思議だった。あんな金融機関と向こう30年一蓮托生になるなんて、自殺行為に近いと思った。
以上、投資として考えた場合、これほどリスキーなものはないと。但し、保険には、不慮の災害に備えての一時金の支給というメリットがある。それだけを欲するならば、安い掛け捨てで十分である。掛け捨てだったら途中で保険会社がコケても別に実害はないし。
でも、一番大きな理由は、保険とか運用利率とか考えていると、どうしても気分が退嬰的になって、守りに入ってしまう。これからの30年(また、同じことをいいますが)、守って守りきれる世の中にはならないでしょう。世の中が動くときは、逆に攻めて攻めて攻め抜いていかないとならない。また、どうも利率なんか計算し始めると、額に汗して働くのが面倒臭くなってくるわけで、それも問題。「楽して儲けよう」なんていう甘い発想は、競馬でいつか大穴をと言ってるのと質的に同じことであり、人生を失敗するための特効薬のようなものだし。楽をしようと思えば思うほど、結局苦しむ羽目になるというのは、小学校の夏休みの宿題で既に学んでいる筈です。
あとですね、利率3%とか5%とかチマチマやってるのが、あんまり性に合わなかったです。利率でいうなら100%とか300%とか、わくわくするような数字が欲しいじゃないですか。それにずっと待ってるだけってのが退屈です。だったら、自分で働いて、100万の金を300万に増やした方がよっぽど手っ取り早いじゃん?という気になってしまうのですね。利殖で300%はまず不可能だけど、自分で働いて3倍に増やすくらいだったら、そう難しいことではない。それに、自分でやってれば退屈することもないし。「いかに働かずにお金を増やすか」と考えているから迷路に入るのであって、「働いてもいい」という一種の「反則技」を使った方が話は簡単なんだと思います。
だもんで、保険とか投資とかいう話には、どうも今ひとつ興味を持てないでいます。保険会社やファイナンシャルプランナーの天敵のような人間ですな、僕は。よく、「まさかのときは?」みたいな言い方しますけど、他人の恐怖を煽るようなやりかた自体があんまり好きではないです。そのかわり死ぬまで働くことになるでしょうけど、そのこと自体に別にそんなに不満はないですけどね、働くの別にそんなに嫌いじゃないし。日本人だし。余談でした。
写真・文/田村
文責:田村