僕らが中学高校、あるいは大学で受けてきた「進路指導」というのは、進路指導というよりは、受験指導、就職指導だったと思います。前回の模試の結果から、○○大学法学部か、○○大学だったら経済学部、、という具合に。それは、指導にあたった諸先生方がそう希望したというよりは、社会がそう希望し、そして僕らも自身も、結局はそれを希望したのでしょう。
しかし、良い大学〜良い会社〜良い人生という信仰にも近いセオリーは、既にアチコチでガタがきはじめていますし、将来においてこの解体はいっそう進行するでしょう。このセオリーの良いところは、あまり真剣に人生を考えなくても、そこそこ適当にハッピーになれるというパッケージ性にありました。ちょうど、海外旅行のパックツアーのように、現地の言語も知らず、シキタリも知らず、自分ひとりで交通機関を使いこなすこともできなくても、とりあえずそこそこ遊んでこれるという。
しかし、こういったお気楽パックツアーが崩壊するとするならば、今までやらずに済ませてきたこともやらねばならなくなるのが道理です。パスポート持って空港に集合すればいいだけというのと違って、チェックインから、トランジット、宿決め、観光情報収集、移動、食事、全部自分でやらなければならなくなります。その差は結構大きいと思います。
旅行でしたら、既に個人旅行も大分浸透してきてますし、それなりの文献やガイドブックも多いから、慣れてる人も多いでしょう。また、メソッドやスキルもある程度確立しつつあります。しかし、進学やら就職になってくると、そのあたりのガイドについては非常に手薄な観があります。だから、困る人が出てきても不思議ではありません。
APLaCのようなことをやってますと、この種の相談もちょくちょく舞い込みます。
具体的には観光ビザや学生ビザで語学学校に行っていたが、さて卒業したあとどうしたらいいのか?日本に帰って就職すべきか、こちらでさらなる展開を模索すべきか?でもって、「オーストラリアでさらなる展開」って何なのか?展開って何がどう展開するのか、日本に帰国してから、それまでのキャリアをどう接続させればいいのか?あるいはワーホリで一年やってきたけど、さらにこのままオーストラリアの居続けた方がいいのか否か、などなどです。
「海外で働いてみたい」とか「日本に帰って英語を使う仕事をしてみたい」というのも定番のパターンですし、「それって良く言われるけど、本当のところはどうなの?」というのもまた定番の質問だったりします。
僕も知ってる限りの技術的なことはアドバイスします。例えば、労働ビザやら永住ビザやらへの道筋(といっても専門の業者さんに相談すべし、ということに尽きますが)、ビジネス学校やら大学の予算なり入学の英語基準やらそのハードさなどなど。
ただ、話はそこで終わりません。というか、その程度のテクニカルな話で済むのなら、はじめから僕のところに来なくても、いくらでも情報は現地でゲットできますもんね。僕のところまで来るというのことは、それ以前の問題、つまり「どう考えていいのか分からない」とか、そういったグランドプラン立案のレベルだったりします。要するに、進路にあたっての情報収集というよりは、端的に人生相談だったりするわけですね。人生という真っ白なキャンバにどのように自分の絵を描いていけばいいのか分からない、その確固たる指針が見あたらないから途方に暮れるという感じです。パックツアーから個人旅行に移行したとして、じゃあどうやって個人旅行を組み立てていけば良いのか、その方法論ですね。
「良い大学〜」パターンのときは、そんな難しいこと考えなくて済みました。人生のキャンバスははじめから全然真っ白ではないし、塗り絵か人生ゲームのように、あらかじめ枠線がアチコチに引かれており、それに沿っていかに上手に塗っていくかというだけが問題でした、しかし、このパターンの崩壊により、枠線も消えました。本来の真っ白になってしまいました。これは描きにくいと思います。いろんな課題のなかで「自由課題」が一番難しいのと一緒です。
真っ白なキャンバスに何を描けばいいか、どうやって描いていけばいいか?
こういった疑問に答えるのは、実はかなり難しいと思います。「かなり難しい」どころか、もしかしたら不可能に近いくらいの難題なのではないか。
とりあえずの答えは簡単です。いわく、「自分なりの目標を持て」とか、「自分の好きな方向に進めばいい」とかね。でも、こういうアドバイスって殆ど意味がないようにも思います。それが出来るくらいだったら、最初から悩みんでないと思うからです。
あるいは、具体的な道筋として、定番的な「とりあえずビジネス学校」「大学行って永住権」「英語を使う仕事を」「海外で仕事を」なんてのがありますが、これらもまた本質的ではないように思います。これらは結局は、「良い会社〜」に代わる「新しいパックツアー」でしかない面もあるからです。しかも、パッケージとしてみた場合、一昔前の「良い会社〜」よりも遥かに性能が劣ると言わざるをえないでしょう。実証性にも乏しいし。
自分の人生の進路がある程度揺ぎなく確立する(したかのように自分で思える)ためには、それなりの幾つかの条件があると思います。
まず第一に、『オレはこれをやるんじゃい!』という原動力が必要です。
あれこれ選択肢を吟味するのもいいのですが、これはアタマでやってるだけの話で、そんなことを幾ら考えても「よし、やったろうじゃん!」「うわ、これやりたい!」という原動力にはなりません。車で言えばハンドルとかスタビライザーみたいなもので、エンジンは別のところにあります。それはハートから出てくるもので、解析不能の、もやもやしたエネルギーの塊みたいなものです。
それはクールに考えて、「うむ、ま、こんなところだろう」なんて感じではなく、なにかに触発され、ガビーンとなって、「もう、これっきゃない!」というものです。で、これがいつ天から降ってくるかは神のみぞ知る、です。この巻頭エッセイの初期の頃に、「ガビーンの構造」というのを書いた記憶がありますが、過去のいろんな断片的な記憶が、なんかの偶然である形に構成され、「あ、それ、いい!」と思えたりするんだと思います。これは「感じる」のであって、「考える」のではないです。考えることだったら相談のしようもありますが、「感じる」ことは、相談のしようがないです。「はい、じゃあ、一緒にガビーンしましょう」てなもんではないからです。
感覚的なことですから、言葉でうまく言うのは難しいのですが、自分のハートに突き刺さってくる言葉なり、画像イメージなり、情景なり、そういったものに引っ張ってもらうんじゃないかな?という気がします。
銀色のエレベーターは、俺のオフィスのある39階まで音もなく昇ってきた。よく調教されたロボット犬のように。もうすぐ日付が変わるこの時刻には、当然誰も乗っていない。明日は朝イチで成田。シアトルに飛ぶ。シアトルの冬は寒いだろう。俺は黒い皮の手袋をカバンに入れたことを確認しながら、エレベータに乗り込む。扉が閉まる。「---は」。微かなため息とともに、俺は前のめりになり、冷たいエレベーター扉にゴンと頭をくっつけた。1階のボタンはまだ押していないから、エレベーターは止まったままだ。俺は、39階の高さに宙吊りになりながら、しばらくの間、この冷ややかな感触と静寂を楽しんだ。
なんてイメージが浮かんだとします。そのとき、あなたの額に、ひんやりとしたエレベーターの金属の感触が残り、精一杯仕事をしている疲労と、それを上回る自負が乗り移ってきて、「あ、そういう感じ、いいな」とすごく思えたら、それをやればよろし。
別にこんなものは何でもいいんです。「地中海の強い日差しを照り返す白い荒壁」「打ち上げの夜。あいつの下手糞なカラオケが笑いのツボにハマり、床に転がって呼吸困難になりながら爆笑しているひととき」「新幹線のホームを、コートをひらめかせながら、先輩と二人で全力疾走している」「目に入れても痛くないほど可愛い娘の誕生日にケーキを買って帰る夜」、、などなど。
想像力を広げて、広げて、いろんな場面を空想したらいいと思います。
そのうち、なにかが天から降ってくると思います。自分の心を貫き通すようなイメージ。
もっと断片でもいいかもしれません。ほとんどフェチみたいだけど、お医者さんの白衣を着てみたいとか、警察手帳を持ってみたいとか、仕事で試験管を振ってみたいとか。
あるいは抽象的な概念でもいいでしょう。「『正義』というものを一つでいいから自分のこの手で作ってみたい」とか、「人間はどこまで汚くなれるのか、そのギリギリの現場で人間の真実を見てみたい」とか、「子供の笑顔に囲まれていたい」とか、「たった一つでいいから、自分が作ったもので他の人を幸福にしてみたい、そのときの喜びというのがどういうものか知りたい」とか、「なんでもいいから『人類』を感じる仕事をしたい、人類はどこまで進化できるのかとか、人類共通の進歩のためにとか」などなど。
大事なのは、あんまり小利口に考えないということだと思います。
もう、かなりアホアホでいいと思うのですね。
「雪明りに畳が青白く輝いているイメージ」がキたら、もうそれだけでいいんじゃないか。それが好きだったら、その現場に立ち会えるように自分の人生をもっていってやればいいんじゃないか。ここで、下手に、「そんでどうすんの?」とか、「それで生計が立つのか」とか「老後はどうするのか」とか、そーゆー野暮なことは考えない。そう、一切考えちゃダメ。そーんな下位レベルのダンドリ如きに、この神聖な領域を汚させてはダメ。ここはあなただけの「神殿」なのだから。天から降ってくる全ての生きる原子エネルギーを招き入れる神聖な領域なのだから。
これまでの相談を通じて感じるのは、多くの人がこの「神殿」を持っていないのではないか?ということです。
やれ「就職に有利」とか、「スキルが〜」とか、そんなことはどーでもよろしい。まあ、どーでもいいって言っては言い過ぎなんですけど、それでもそんなスキルなり、タイミングなり、現世的手続の難易なんてのは、ある目的を実行するためのダンドリに過ぎない。「行くところ」さえ決まれば、ダンドリなんかなんとでもなるけど、ダンドリを1億個積み上げても目的地は出てこない。
真っ白なキャンバスに描くというのは、何よりもまず、「描きたい!」というモチーフが先行するはずです。なんで赤ちゃんの笑顔はこんなにも美しくパワフルなのだろう、この奇跡のようなパワーを描いてみたいとか。日本海の、厳しくて、深くて、そして何よりも奇麗なあの青色を再現したいとか、いろんなモチーフがまずあって、話はそれからだと思います。その上で、そのモチーフを表現するために、どんな絵具と筆が必要なのか、どんな技術が必要なのか、が出てくるのでしょう。ましてや、「今、○○で絵具のバーゲンやってる」なんていう情報は、末端の末端の話でしょう。
で、ダンドリですが、ぶっちゃけた話、ほんと何とでもなるんじゃないでしょうか。金が足りないなら貯めればいいし、スキルが足りなりならクソ勉強すればいいし、チャンスが足りないなら手数で勝負すればいいし。それだけっちゃ、それだけの話ですよね。「それだけ」っていっても別に「簡単」だとは言ってませんよ。それなりに難しいとは思います。でも価値的にはどこまでいっても代替可能な「手段」に過ぎないでしょ。脳味噌振り絞って、知恵熱がでて寝込むくらい考えれば、大体なんとかなるんじゃないのかな。
で、最初の原動力が強力であればあるほど、大抵のことは出来るでしょう。「師匠の家の前で三日三晩座り込んでようやく弟子にしてもらった」みたいな話がありますが、こんな馬鹿パワーが出るのも、最初の原動力がパワフルだからでしょう。最初の原動力が痩せてたり、無かったりしたら、「とにかく楽な方へ、とにかく安い方へ」と流れていきます。そーゆーのって自殺行為だと思いますけど。ともあれ、原動力がショボいと、「今弟子は募集してないってさ」で終わりでしょ。もっとひどいケースになると電話すらかけない、調べようとすらしないという。そういえば、よく「情報、情報」と目の色かえて情報を収集しまくってる人がいますが、あれも、原動力の貧しさを情報で誤魔化してるんじゃないかろうか?と思えてしまうことがあります。原動力が豊富にあれば、多少ダンドリが無茶苦茶でもパワーで粉砕できちゃうもんね。それに、それだけパワーがあったら、どんな人間でもスキルは身につきます。不世出の天才は無理でも、あるいは一流のプロは無理でも、そこそこはいきますから。
「やりたいことが分からない」という人が多いですけど、これって、無意識的にパッケージを探していたりするんじゃないかな。つまり、神殿部分とダンドリ部分がゴチャゴチャになってて、「やりたいこと」を探しているのか、「やりやすそうなこと」を探しているのか、わからなくなってるという。
また、「やりたいこと」というのを、「生計のたつ職業」みたいに考えてたりするんじゃないか?
でも、そんな奇麗な形では出てこないと思います。もっと、モヤモヤしたエネルギー。どこからともなくやってくる睡魔のように、性欲のように、不定形なモヤモヤだと思います。それに、出来合いの職業だけ見てると、「どれもイマイチ」みたいに思えてしまうのではないでしょうか。自分の希望を叶える職業がなかったら自分で作ればいいんだし、職業のイメージが自分にそぐわなかったとしても、自分がその業界で異端になって風穴を開ければいいんじゃないでしょうか。多くの業界は、そういう異端を待ってると思います。業界バリバリの人は待ってないかもしれないけど、業界外の消費者は待ってると思う。異端の小泉さんだって首相になったわけだし、あの人は異端であることが消費者(国民)のニーズなんだから。「らしくない人」はカッコいいです。
せっかく天から降って来てても、それに気づかず捨てちゃう人もいるでしょう。
降ってきたばかりの状態というのは、ダイヤモンドの原石みたいな場合が多いでしょう。要するに石コロ状態。ほんの0.1秒くらいのイメージフラッシュでしかない場合もあるでしょう。「猿が温泉に入ってる画像」「地平線が見える埃っぽい道」とか。『これでどないせえっちゅーんじゃ!?』『そんなんでメシが食えるか?』みたいな感じ。
メシが食えるような状態で落ちてくることなんかマレだと思います。ヒラヒラ降ってきたものを、すかさずパシッとゲットするとしても、その後の処理というのがあります。この原石をインキュベーター(孵卵器)に入れて、解析したり、育てたりして、形にしてやらないと。解析というのは、例えば、「猿と温泉」にグッときたとして、そのイメージのどこにグッときたのかですね。それは、そういうのどかな情景が好きなのかもしれないし、野生動物の存在そのものにグッときたのかもしれないし、動物と人間の共生がイイのかもしれないし、猿という生き物に興味を持ったのかもしれないし、そういう場面を写真で撮れるということがイイのかもしれない。
でもって「展開」でいえば、そういう核心部分に近づく方法を考えるわけで、たとえば自然保護集団の専従職員になるとか、カメラマンになるとか、獣医になるとか、動物園に勤めるとか、アフリカ行くとか、営林署の現場職員になるとか、村おこし関係の仕事をするとか、温泉旅館で働くとか、それを紹介する旅行会社やバス会社にいくとか、紀行文のライターになるとか、いっくらでもあるでしょう。
そこまで展開できたら、あとはどんどん調べて、実地でやっていけばいいと思います。
天から降ってくるとか、神殿とか神がかったことを言ってるようですけど、別の言葉で表現すれば、要するに自分の「好み」を知るということです。自分自身をプロデュースするにあたって、自分自身を徹底解析するということです。コイツ(自分)は、どういうポテンシャルな性能をもっていて、どういう環境においてやるとイキイキしはじめるのか?です。
この神殿がまだ出来てない人の場合どうするか?
それって想像力なり感受性が足りないのでしょうが、その想像力の糧になるインプットが少なすぎるのかもしれません。社会のことをもっと知ったほうがいいという場合もあるでしょう。
でも、社会の仕組みやどんな職業があるか、生計をたてるためのノウハウなんてのは、降ってきた原石を育てるインキュベーター(孵卵器)の性能に関することですよね。「神殿」は子供にだってありますから(「大人になったらパイロットになる!」とか言いますから)、そのあたりの社会的知識は本質的には関係ないのでしょう。
もし神殿が無いように思うのだったら、それは感受性のレンズが曇っているのかもしれません。このレンズってすぐに曇りますからね。パックツアー的な発想なんてのも、よくこのレンズを曇らせます。「好きかどうか」ということと、「実現可能かどうか」というのは、まったく次元の異なるものですが、よくよくゴッチャになります。
「キミの偏差値だと○○大学」みたいな発想は、それはそれで有効な局面もあるけど、別に世の中そればっかりではない。それって「出来ることしか出来ない」という世界観なんだけど、でも「出来ないことをやろうとするから、出来るようになる」ってこともありますからね。で、大事なのは、(今は)出来ないことをやろうと思うかどうかであり、そこでの牽引パワーは好き/嫌いでしょう。好き/嫌いをもっと大事にしたらいいと思いますけどね。そうでないと自分が広がっていかないし。
あと、インキュベーター/孵卵器の性能は向上させておいた方が良いでしょう。どんな卵でもしっかり孵せる高性能なヤツ。どんな夢でも必ず実現してしまう、すごいヤツ。
それは一般的に言われる「能力」と「性格」というやつで、分析力、構成力、企画力、情報収集能力、行動力、決断力、学習能力、表現力、記憶力、人をひきつけるカリスマ性、愛嬌、堅忍不抜にやる抜く意思力、気分転換や意図的忘却などメンタル管理の上手さ、論理的構成力とそれと同等の非論理的直観力、集中力、手先の器用さ、どこでも生きていけるサバイバル能力、語学力、該博な知識と雑学、空間把握力、色彩感覚、、などなど、細かく数えれば100項目くらいはあると思いますから、いっぺん表かなんかにしてチェックしてみたらいいかもしれません。「道具としての自分」はどれだけ有能か、ですし、どの部分を重点的に鍛えたらいいか、です。一般に、インキュベーターが優秀であればあるほど、実現可能な夢は増えるでしょう。実現可能だと思えれば思えるほど、降ってくる原石をゲットできる確率は増えるでしょう。
でも全ての性能の上にたつのは、「健康な楽天性」だと思います。
それと自信。自信にもいろいろありますが、できるだけ根拠がないものの方が上質です。百戦百敗でも、なおも「それでも俺は強い!」と思える自信が最高に上モノだと思います。
自信と楽天性、この二つがあったら、世の中なんかチョロイもんだと思います。いや、ほんとに。
写真・文/田村