今週の1枚(07.08.20)
ESSAY 324 : 妖怪”ほしがーる”
写真は、オーストラリアでもっともありふれている光景。シドニーでは少ないかもしれないけど、オーストラリア全土でいえばこんな風景ばっかりです。あまりにもありふれているので、何処で撮ったかも覚えていないくらい。
今週はガラッと趣をかえて、普通の「エッセイ」を書きます。そういえばいつも論文やレポートみたいな文章を書いていて、いかにもエッセイという文章は絶えて久しく書いてなかったなと思ったので。
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あれは小学6年生の頃だったか、腕時計が欲しくて欲しくてたまらなかった時期がある。今から思うとなんであんなに欲しかったのか分からないが、腕時計という一点集中の物欲にとりつかれていた。新聞の折り込みだったと思うが、美しくレイアウトされた各種腕時計の写真が配置された広告があり、飽きもせずその写真を眺めていた。文字盤が白いシンプルなものも良いが、メタリックに光る青や緑の文字盤も素敵だ。ハードカットとかいうガラスがカクカクとカッティングされているのもいかめしくてカッコ良かったし、文字盤が3つくらいついているダイバーウォッチ系も高嶺の花的にあこがれた。
冷静に考えると別にそれほど時計が必要というわけでもないし、ゲットしたから何かが劇的に変るというものでもない。しかし、そんな実用性や機能性はどこへやらで、とにかく「あの物体」が欲しく、その欲求の激しさは「渇望」といってもいいくらいであった。
しかし、その渇望も、親から待望の腕時計を買ってもらった時点をピークとして徐々に醒めていった。最初は嬉しくてためつすがめつ眺め回していたが、段々当たり前の存在になり、今となってはその時計がどうなってしまったのか(壊れたのか無くしたのか)さえ覚えていない。そして、二代目の時計もろくに覚えていない。たしか、デジタル時計の安物だったと思うが、それで十分だったし、むしろ敢えてギリギリまで安物を使うところにスタイリッシュな合理精神すら感じていたような記憶がある。が、よく覚えていない。
今、自分がしている時計は、デジタルの黒のGショックである。バンドを押さえる部分が取れてしまって中途半端に不格好になっているのだが、プレゼントしてくれた友人が故人になってしまい、ある種の「形見の品」になってしまったことも手伝って、今なお使い続けている。電池を入れ替えれば全然問題なく使えるし。いい年して使うような時計ではないという気もする反面、なんせスーツでばしっと決める機会が1年に一回あるかないかという状態では、大した不都合もない。実はブランド系の時計もないことはないのだが、数年に1回使うか使わないかくらいで電池が切れてしまうので、今は電池切れのまま保管してある。
バブルの頃は、ご多聞に漏れず、僕もロンジンだのカルチェなどの時計を所有していたこともあったが、すぐに電池がきれるわ、交換が面倒臭いわ、必ずしも鬼のように正確とは限らないわ、飛び抜けて美しいか?というと別にそうでもない、、、ということから、処分したのか、まだ持っているのかすら覚えていない。まあ、おそらくこの先、この種の価格の高いブランド時計は保有しないような気がする。ローレックスとかピアジェとか数百万円する時計もあるのだが、別に欲しくもない。無料でくれるといっても別に要らんわって感じである。
物欲には神がついているのかもしれない。「神」というのが大袈裟だったら、おんぶオバケのような妖怪とか妖精みたいなものと言ってもいい。この物欲神だの妖怪”ほしがーる”みたいなものに取り憑かれると、やたらめったらある物が欲しくてたまらなくなるのだろう。取り憑かれている人もいれば、取り憑かれていない人もあり、取り憑かれている時もあれば、そうでないときもある。
取り憑かれているときは、前後の見境なくその物が欲しくなる。まるで”魔”に魅入られているように、その物に心が奪われる。「何のために?」とか「それでどうするの?」というクールな理性はぶっ飛び、もう生理的欲求といってもいいくらい欲しくなる。運転免許を持ってないか、持っていてもペーパーのくせに外車にあこがれるとか、ろくすっぽギターなんか弾けないくせにギブソンに憧れるとか、どう考えても似合うわけないけどあのドレスが欲しいとか、、、そして、時間にルーズなくせして高級腕時計を欲しがるわけである。
こんな調査はおよそないだろうが、所有している腕時計の価格とその人が時間厳守かどうかの相関関係はどうなっているのだろう。高い時計を持っているほど時間に正確だ、、ということにはなっていない気がする。時間を正確に知る必要があるから、より高機能&高価格の時計を欲するというリーズナブルな関係性はないのだろう。1000分の一秒まで正確に計算しないと人の生死に関わるNASAならともかく、そこまで正確性を必要とする人は少ない。欲しいのは「時を計る機械」ではなく、ああいう形状、ああいう色調、ああいう世評を得ている「あの物体」であり、それが時を刻む機能を持ってるかどうかは、ぶっちゃけ二の次である。
では、どうしてソレが欲しくなるのだろうか。時間を計るだけなら幾らでも安い物があるのである。ここで、ブランド品を身につけて武装するというビジネス上なり対人関係上の必要性があるというなら話はまだ分かる。そこには「機能」「ベネフィット」があるからである。しかし、そういうベネフィットも薄く、要するに何のメリットもないにも関わらず、やたらソレが欲しいという時もあるのだ。これこそまさに”妖怪ほしがーる”が悪さをしている状態だと言っていい。
”妖怪ほしがーる”を降臨させようと企んでいる”悪の結社”がある。すわなち物品やサービスを販売している普通の企業である。”妖怪ほしがーる”を天から降らせ、人々の背中にぺたっと張り付かせる一連の黒魔術のことを、一般には「マーケティング」と呼ぶ。その黒魔術の儀式を司る”悪の司祭”を「広告代理店」と呼ぶ。そして”悪の教典”を善男善女にバラ撒くマスコミや出版社がおり、悪の教典を作る際にコピーライター、カメラマン、デザイナーなどの人々が”悪魔の聖歌隊”のように存在しているのだろう。
妖怪ほしがーるが天から降臨してきてくれないと、日本経済は大変なことになってしまうと一部では信じられている。冷静に、冷静に、超クールに考えてみれば、生きていくのに必要な物などそれほど多くはないからである。また、幸福になるために必要な物もそう多くはない。大体において、本当に大切なものや本気で幸福のタネになるようなものは殆どが無料同然でゲットできちゃうのである。すなわち太陽とか、大地とか、酸素とか、愛する人とか、そもそも自分自身(心と肉体)などは無料である。大地に根付き、陽の光を浴び、愛する人と手をたずさえ、健やかな肉体をもって生きていけば、他に何が要るというのだ?
しかし、あまりにも簡単なこの真理に人々が気付いてしまうと、誰も必要最低限度しか物を買わなくなるので、高度に発達した交換経済、貨幣経済はコケてしまう。そこで、よく考えたら大して必要でもないそのへんの石コロみたいな物を、渇望するように求めさせるトリックが求められ、かくて今日も世界の空を妖怪ほしがーる達がサンタクロースのように走り回っているのだろう。
僕は別に、ここで文明批判をしたいわけではない。資本主義社会がブルシットだというつもりもない。あれはあれで良くできたゲームであるし、今のところこれに代わる優れたシステムも思いつかない。ただ、所詮システム、しょせんゲームに過ぎず、別に万有引力のような自然法則でも真理でもないというクールさは持っていた方がいいと思うだけである。良くできたゲームに没頭するのは快楽であるし、寝食忘れてのめり込むのは楽しいことでもある。ただ、ゲームに没頭するあまり、会社をクビになったり、破産したりしていたら、そいつは阿呆だと言うしかない。ゲームはどこまでいってもゲームに過ぎない。ゲームの快楽によって、脳内快楽物質は合成されるかもしれないが、身体を維持するためのタンパク質や糖分が作られるわけではないのだ。いくらゲームが面白く「寝食忘れた」としても、本当に食べるのを忘れたら誰だって餓死するのである。餓死するまでやってる奴がいたとしたら、それはそれでご立派という気もするが、やっぱりアホだと思う。
妖怪”ほしがーる”の正体は何なのであろうか?なぜ、僕らは、取り憑かれたように特定の物が欲しくてたまらなくなるのだろうか?
Essay319:『脳はなにかと言い訳をする』で紹介した大脳生理学の池谷裕二さんだったら何か回答をもっておられるかもしれない。僕が、適当な素人考えで思いつくのは、おそらくはドーパミンやエンドルフィンなどの何らかの脳内快楽物質と関係するシステム、「報償系」とか呼ばれるようなパターンが脳内に作られているのだろう。
僕らが「いい気持」になるとき脳内ではドーパミンなどの化学物質が合成分泌され、その麻薬のような作用で僕らは「あ〜、いい!」「しあわせ」と感じているという。要するにただそれだけの話らしいのだが、問題はどういうキッカケがあるとこの分泌が行われるかである。これが結構いい加減というか、偶然の産物というか、誤った学習効果というか、「良い」と感じる対象物本体の周囲にたまたま存在したサブキャラや背景、あるいはそこに至るまでのダンドリそれ自体にすら「いい」と感じてしまうことがあるのだろう。
これはすなわち象徴とかイメージである、と抽象的に言っていても分かりにくいだろうから例をあげる。遙か昔に流行った曲で「もしも わたしが 家を建てたなら 小さな家を 建てたでしょう。大きな窓と小さなドアと 部屋には古い暖炉があるのよ … 子犬の横にはあなた、あなたが居て欲しい」という曲がある。小坂明子さんの「あなた」だったかな。恋人と暮すという、絵に描いたような幸福を歌ったものだが、「大きな窓と小さなドア」「古い暖炉」「子犬」というアイテムが雰囲気を盛り上げている。しかし、ムードぶちこわしにクールに言ってしまえば、大事なのは恋人と暮すことであり、その暮らしの器が高層ビルであろうがテントであろうが人間関係の本質とは関係ないのである。また、リアリスティックにいってしまえば、実際には住宅ローンやら通勤時間とかに拘束されるわけだし、それらの生活のウザウザをうまくこなしていくためにも、配偶者との良好な関係は何にも増して大切なのであり、人間関係さえ上手くいってればあとは何とでもなる。家など二の次、三の次である。
とはいいながらも、なんとなく家のデテールにこだわりたくなる心理は僕にもよくわかるし、あなたにもわかるだろう。この小道具アイテムやサブキャラが、メインキャラを食ってしまうこともあり、メインキャラは居ないけどサブキャラだけで十分成立するという倒錯的な状況も起きるのである。つまり今は特に恋人はいないけど、将来好きな人と「こういう家に住んでみたい」という願望である。サブキャラだけで十分成立する、サブキャラだけで気持ちよくなれる=脳内快楽物質が分泌されるという回路がここで形成されてしまうのである。そして、異様にこのサブキャラの執着するようになる。
これは一種のフェティシズムである。学生の頃にモテなかった男子が、クラスメートの制服姿の女子を悶々と見つめていた過去から、女性の肉体という「ご神体」よりも、セーラー服とか制服というサブキャラに萌えるようになるのと同じことである。以前にも紹介したと思うが、心理学の入門書に、ずっと前に地下鉄で見かけた素敵な女性が素晴らしく似合う帽子をかぶっていたという記憶から、本人も気付かないうちに帽子フェチになり、帽子をかぶっている女性に奇妙に心惹かれるようになったという報告例が載っていた。ある種の快楽経験をし、それが妙な学習効果となり、妙な快楽パターンを作ってしまうのである。
ホームステイにいくんだ!と胸をふくらませる人がいるが、頭の中は「緑の芝生に白い家」という半世紀前のアメリカのホームドラマから一歩も進化してなかったりする。だから、現実にホームステイ先に行くと、そこが緑の芝生ではなく、白い家でなかっただけで異様にガッカリしたりもする。これがすなわちイメージであり、象徴である。
この世界に20年以上生きてきたアナタだったら当然知ってると思うが、イメージや象徴は現実とは違う。はっきりいえば虚構であり、ウソである。ニューヨークの高層ビルをヒールの音を響かせ颯爽と歩くキャリアウーマンに憧れたりするが、当の本人はついさっきクビになったのかもしれないし、仕事の重責で鬱状態かもしれないし、上司との不倫関係の清算に悩んでいるのかもしれない。美しい自然の懐に抱かれた静かな農村で心安らかに暮そうとおもって実際に田舎に暮してみたら、タイトニットな人間関係に阻まれ、農協のボスに奴隷にように仕えないと村八分にされるという現実にうちのめされたりする。遠くからみたら緑の林でハイキングに最適のようで、実際に行ってみたら、地面は湿っていて気持ち悪かったりするわ、変な虫は飛んでくるわだったりする。大学に入る前は、パンフレットに映ってるキャンパスを闊歩する先輩学生の姿を憧れて見ていたりするけど、実際に自分がキャンパスを歩いているときは「やば、卒業単位が、、」と引きつっていたりするのである。大体において現実というのはそういうものである。
ところで、真に気持いいこと、真に幸福なことというのは、多分ものすごく抽象的なエネルギー体のようなものなのだろう。自分の能力を120%全開にしている一瞬の開放感であるとか、本来は他人である恋人と心の奥底で通じ合えた思える瞬間とか、一人の人間の壮絶な生涯に触れたときの感動であるとか、自分自身が一個の魂そのものになり、自分自身がエネルギー体そのものになってるかのように感じる瞬間。僕はこれを、「天上の体験」とか「天上界に通じる階段が見える一瞬」とか呼んでたりするが、そういう瞬間は確かに実在する。一生の間にそう頻繁にあることではないが、確かにある。
幸福とか生き甲斐、快楽とかいうのは、突き詰めていけばあの光に満ちた天上界に行っちゃうのだろう。あまりにも光が強すぎて真っ白にしかみえないような世界があり、そこへ通じる回路が、なにかの条件が整うと開く。一回それに触れてしまった人間は、そのとき分泌される桁違いの量の快楽物質に圧倒され、トリコになるのだろう。ほとんど狂人同様のような生涯を送った芸術家、職人、事業家、冒険家がそうであるように。
そういった天上界は、直接体験した人も、未だしたことない人も、何となくその存在は本能的に感得できる。しかし、それは高度なエネルギー磁場みたいなものだから形がない。形がない物は想像できない。あたかも神の姿を想像できないのと同じである。第一次的存在が理解できない(感じることは出来るけど)以上、それに至る第二次的存在に頼ることになる。それは、天上界に至る道筋に関連した物事である。恋愛が天に至る道筋だと思える人は恋愛に興味を抱くだろうし、人によっては絵画の世界、音楽、料理、スポーツ、事業、バイクだったりするのだろう。さらに、それら第二次世界を構成するフェチ的な小道具類が第三次的に存在し、それらがすなわち「物」である。
世界の最高峰の天才F1レーサー達は、背中に死神をおんぶしたまま、時速300キロでタイトなコーナーに突っ込む。彼らはそのときに何を見ているのだろう。おそらくは天上界へ通じる階段をみているのだろう。コンマ数秒の逡巡が死につながるという、自分の能力を極限まで引き出さねばならない峻烈な世界。その世界を潜り抜けた者だけに触れることが許される極上の世界があり、僕らは、その針の先よりも尚も小さな一点に凝縮された緊張を理屈抜きに感じ、そして感動するのだ。その感動に自分も近づきたいと思う。そして、あの世界に近づくために、それを彷彿とさせるようなメカが欲しい、バイクが欲しい、「物」が欲しいという具合になっていくのだろう。
天上界が快楽の水源だとするなら、そこから徐々に治水され、ダムを通過し、切り分けされたものが「物」であり、商品である。しかし、物はただ存在するだけだったらただの物体である。この物体に天上界とのつながりがなければならない。天上界に通じる「神性」を帯びさせなければならない。そして、天上界とのつながりを示すような匂いをつけていくのが、妖怪”ほしがーる”なのかもしれない。
妖怪ほしがーるを背中にまとったとき、僕らにはその物を通じてなにかが見えているのだと思う。
小学校の時に腕時計が欲しくなったように、高校のときはエレキギターが欲しくなっていた。それもレッドサンーバスト(赤)のレスポール・モデルである。いわゆる「楽器」らしい王道をいくフォルム。滑らかで大胆な、女性の美しさに通じる曲線。この上なくハデでありながら、尚も深味をたたえているあのカラーリング。あれがもう欲しくて欲しくてたまらなかった。だから、大学入試が終わったら速攻で貯金ひっかき集めて買いに行った。
なんであんなにレスポールが欲しかったのだろう?ろくにギターも弾けないくせに、なぜエレキが欲しかったのだろう。なぜレスポールでなければならなかったのだろう。当時の気分としては、「理屈抜きに」とか「心奪われた」というアホみたいな表現しかできなかっただろうが、今なら多少は分かる。妖怪ほしがーるを背中に貼り付けた僕は、レスポールを通じて天上界を見ていたのである。
学校とか入試とかチマチマやってた自分は、平均的な青少年がそうであるように、なにもかもが嘘くさく鬱陶しかったり感じていたいたわけだが、そこにロックというものがドカーンと登場する。なんだか分からないけど、あれは本当に本当のことのように思えた。本当のことをやったり言ったりするためには、鬱陶しい抑圧を打破するだけのパワーが必要だけど、あそこにはそのパワーがあるように思えた。「あんな風にやればいいのか」「ああいうことが出来るのか」ということでガビーンとなるのである。平均的なロック少年の目覚めである。その象徴がレスポールであった。また、スポットライトの交錯するめくるめくステージで、数万人の聴衆を撃ち抜く雷鳴のようなサウンド。それがあの小さな、赤く美しい楽器から出ているのだ。なんというパワー。なんというカッコ良さ。さらに100年語り継がれるであろう天上のメロディを創作するのも、一世紀に数人という天才が神技を駆使するのもこの楽器である。
想像していたよりもはるかに重いレスポールをズシッと膝の上に感じ、弾けもしないのに指板に指を這わせた僕は、こう考えた。要するに、この50センチ程度の狭い指板の上を、どう左指を這わせるかってことだろ、と。誰も思いつかなった順番で指を置き、誰よりも速く、誰よりも巧みに弾けば、俺でも世界を制覇できるかもしれないんだ、と。この50センチくらいの狭い部分に「世界」が入っているんだと。そして同時に、自分がその「世界」にコネクトしたような気がした。日本ですら100万人、世界でいえば何千万人というギター人口の超底辺ではあるければ、とにかく自分は参加した、参戦したのだと感動があった。
このように「神々の世界」に、遠くはあるけどコネクトしたような感じがするのが、最高にうれしかったのを覚えている。つまりは、天上界とのつながりが見えていたのであり、そのつながりにこそ感動したのである。
この種の感動は、新たになにか物事を始める人はよく抱いたりすると思う。画材を揃えてキャンバスに向かうとき、あなたはセザンヌやダ・ヴィンチ、ゴッホやモネらの巨匠達と同じリングの上に上がっているのだ。レベルは天と地ほどの差はあるかもしれないけど、同じスタートラインにいるのだ。そんな気にさせてくれるのが「物」の素晴らしさでもあるし、魔力でもある。
腕時計が欲しかった小学生の僕は、あの美しい腕時計の写真の向こうに何を見ていたのだろう。
おそらくは「大人」の世界だろう。これまで所有したことがなかった、オモチャなどとは一線を画した精巧な機械。一人前の大人達が身につけ、総理大臣もアメリカ大統領もしている腕時計。それを所有し、腕に巻くことによって、なにか自分がワンランク上の存在になれるかのように思っていたのだろう。それは成長期にある子供が本能的に抱くものなのだろう。
だから、別に時を計る機械が欲しかったわけではない。あれは一種の「神具」である。キリスト教の十字架とか、仏教の数珠みたいなもので、物体そのものが機能性に満ちているわけではない。ただ、「あの世界」に通じるための道具なのである。僕にとっての腕時計やレスポールは、あの時期の僕には一種の「神具」であったのだろう。そして、その神性を帯びさせたのは、妖怪”ほしがーる”であったのだろう。
人がブランド品や、世界の高級品などに憧れる心理も、似たようなところにあるのだと思う。単なる虚栄心だけでもないだろう。
また、どんな商品であっても、その物体をじーっと見ていると、その美しさや味わいに気付いたりもする。それが商品である以上、プロが造ったプロの作品である。プロの工業デザイナーが心血注いでデザインし、材質や加工においてもそれぞれの分野のプロの職人さんが頑張って作り上げたものである。たとえそれがどんなに安物であろうとも、陳腐なものであろうとも、じーっと見ていれば工芸作品としてのその美しさに心奪われたりする。百円ライターでも、寸分違わぬ形状、色ムラが全くないプラスティック、機能的なデザインなどなど、まぎれもなくプロの作品であり、見惚れるような美しさがある。
さきほど冗談めかして”悪の結社”などと書いたが、どのような商品であれ、それが市場に流通するまでには多くのプロが精魂傾け、膨大な時間を費やしてきているのである。市場調査を繰り返し、段ボール数箱のアンケート結果を集計し、七転八倒して売れる商品のアイデアをひねりだし、夜遅くまで議論し、それを製造するための材料や工程を吟味し、試作し、広告を打つために商品コンセプトを煮詰め、言語化し、魅力的に見える写真を撮るためにロケハンをし、光の当たり方から露出、角度に至るまで、それぞれの領域の「プロの仕事」が集積しているのである。どんな領域であれ、プロの仕事は美しく、さすがと思わせるレベルの人間の営為が込められている。そういったことが、じーっと物体を見ているとなんとなく感じられてきて、心惹かれるのであろう。
世界というのは驚きと感動に満ちている。商品でなくても、河原の石ころ一つ、路傍の葉っぱ一枚にであれ、時間をかけてじーっと見ていると、「なんでこんなモノがこの世にあるんだろう?」という新鮮な感動を覚える。幼児が地面にしゃがみこんで、営々と働くアリの姿を長時間見つめ続けているように、森羅万象、感動を与えないモノなどこの世にないのだ。ただし、そういちいち感動してたら社会生活が送れなくなるから、僕らは適当なところで感動をシャットアウトする術を覚える。石ころも葉っぱも「何の変哲もない」という記号処理をする。
それが、妖怪ほしがーるの導きで、何か特定の物体に魂が吸い寄せられたとき、その物体をマジマジと見つめ、幼児の心がよみがえり、新鮮で素朴な感動に打たれるのだろう。それらの感動が、一段とそのモノに対する神性を帯びさせるのであろう。
さて、最近はとんとこの種の物欲とは遠ざかっている。それは年齢的なものもあるし、オーストラリアという土地柄もある。妖怪”ほしがーる”も中々背中に張り付いてくれない。
オーストラリアに来ると物欲が減る、それも激減するとよく言われる。理由はいろいろあるのだろうが、一つには「物」以外に心惹かれるものが大量にあるからだろう。世界中のあらゆる人種が当たり前のように存在する。今バスに乗った自分の横に席にはターバン巻いたインド系の人がおり、バス停ではギリシャ系のおばあちゃんがバスを待っている。外人だらけ。携帯電話で聞いたこともないような言語で会話をする人達。ディープなエリアにいけば、アラビア文字で書かれた売ります買いますの広告が電柱に貼ってあったりするし、活字ではなく肉筆で書かれたアラビア文字なんて見るのは生まれて初めてだったりする。そのほか、波濤砕ける岸壁だの、エメラルド色のビーチだの、ユーカリの樹海だの、七色のインコだのが普通に存在する。サッカーコート3面分くらいのだだっぴろい芝生の公園がそこかしこにあり、しかもそこに居るのは自分だけという圧倒的な空間がある。忘れていた幼児衝動がよみがえり、思わず身体がムズムズしてきて意味もなく走り出したくなる。と同時に、日々頭を悩ませる英語という問題がある。
やること、見ること、感じることが山ほどあるのであり、自閉症になって目を閉ざしでもしないかぎり、面白いモノがてんこ盛りになって存在しているのである。別に物に頼らなくても、感動のネタがその辺に幾らでも転がっているのである。僕らが物を欲しいと思うのは、物を媒介として世界を見ているからである。遠く離れているからこそ、物という中継地点を経由して世界に触れるのである。小学生の自分が大人世界の象徴のような腕時計をほしがったのも自分が未だ大人ではないからであり、赤いレスポールが欲しかったのも自分がまだステージに立ってなかったからである。だから、その象徴である物を通じて世界に触れようとしていたのだ。しかし、いざ自分が大人として扱われ、相応の重責をずしっと負わされてしまえば時計にウツツを抜かしているヒマもないし、自分がステージにあがってしまえば、ギターに対する視線は道具として使えるかというシビアなものになる。いくら高品位大画面TVに南海のエメラルド色の海が映っていようとも、目の前に本物の海があったら誰もTVなんか見ない。
物欲のなかにはヒマツブシ的なものも多い。なんとなく流行ってるからとか、他にやることがないからとか、ヒマだから、マスコミやクチコミで紹介されている新しい商品をトライしてみるか程度の物欲もあるだろう。しかし、そんなものは物欲ですらないと僕は思う。天上界に誘う妖怪”ほしがーる”の神性を帯びていなかったら、そんなものはただのヒマツブシである。むしろ、そんなことまでして潰さねばならぬヒマなど本当にあるのだろうか?という点こそ疑問である。
それはともかく、アレが欲しい、コレが欲しい、何が欲しいというのは、他人にあれこれ教えてもらいたくはない。ピピッとくるかどうかは優れて主観的で、自分の心の奥底にあるものだから、何が欲しいかというのは自分で感じる、自分で決める。普段見慣れている物が、その日に限ってなぜか心奪われるときというのがある。いつもは単なるバックグラウンドに過ぎなかった植物や花が、その日に限ってなぜかこの世のものとも思えないくらい美しく見えるときもある。ある日突然オープンカーに乗りたくなったりもする。それまではただの同僚や知人に過ぎなかった人に、何かの拍子に異性を感じ、そのとき以来忘れられなくなるようなもので、その種の「神が通り過ぎる瞬間」というのはある。そんなものは他人に教えてもらうことではない。
今その廊下の角を神が通り過ぎていった------コンマ数秒の短い時間にチラッと聞こえた囁きを、瞼に焼き付いている残像を、キャッチするかどうかだと思う。
文責:田村
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