今週の1枚(07.07.02)
ESSAY 317 : 名前をつけない
写真は、昼下がりのBalmainのフェリー乗り場。フェリー乗り場って好きです。普段あまり船に乗らないせいか、「船に乗る」ということにワクワク感を抱いてしまいます。また、サーキュラーキーは別格として、シドニーの多くのフェリー乗り場はこの写真のような小さな船着き場です。海に面してるから広大で開放的な空間が目の前にあるわけでそれがまず気持いいのですが、それに加えて、この生活感があるんだか無いんだかわからない、何ともいえない妙にうらびれた感じが好きです。
「名前をつけてやる」というのは、スピッツというバンドの二枚目のアルバムですが、今回はスピッツに関する話ではなく、「名前」の話です。名前といっても、人の名前ではなく、現象や行為の名前です。それまで特に名称がついていなかった領域に名前をつけることの功罪です。
その昔、湯呑に付着する「茶シブ」に関するエッセイを読みました。僕も詳しくは知らないのですが、お茶の要素であるタンニンが水と化合して、湯呑やカップなどの陶器の表面に茶しぶと呼ばれるシミが付着するらしいです。問題は、この湯飲み表面上の「色の変化」を「汚れ」「除去すべきモノ」とネガティブに認識するかどうかです。エッセイでは、漂白剤などの化学薬品のなかった昔は茶シブなんかついて当然であり、それは年輪や風格を感じさせるモノとしてポジティブに捉える余地もあった。少なくとも、そうそう滅多に取れるものではなかったので(それなりに取り方はあっただろうけど=重曹、塩、茹で汁など=でも、面倒臭いので)、それが「汚れ」であるという認識もまた少なかった。しかし洗剤の進歩によって「落ちるもの」になり、またその広告で「頑固な茶シブもこんなにキレイに!」とやることで、「あれは汚れなんだ」という認識が日本人に定着してしまった。それは科学の進歩で素晴らしいことなのかもしれないが、本当に喜ぶべきことなんだろうか?という疑問も感じる、というのがエッセイの趣旨でありました。つまり洗剤の開発が、新しい「汚れ」を生み出すという皮肉な状況ですね。
「茶シブ」という言葉自体がいつからあるのかは分かりませんが、キッチンハイターなどの漂白剤の登場によって広く一般的に知られるようなったのかもしれません。だとすれば、その意味で「年季の入った湯呑の変色部分」に「茶シブ」という「名前」がつけられたことになります。問題は、名前を付ける際に、そのモノに対する価値判断も同時にやってしまいがちであるこということです。名付け行為=価値判断行為によって、その後、皆が「そういうものだ」という認識を自然に持ってしまう。これは、もしかして、すごく怖いことではないか、と。エッセイを読んで、これは鋭い指摘だと思い、「うわ、これって恐いことだな」と思った記憶があります。その記憶があまりに鮮烈なので、読んでから多分20年以上経ってるとは思いますが、今もこうして覚えているわけですが。
今回、このエッセイを思い出したのは、最近流行の「モラハラ」という概念に接したときです。これも「名前をつける怖さ」に満ちています。モラハラというのは、「モラル・ハラスメント」の略で、フランスの精神学者マリー・フランス・イルゴイエンヌが提唱した概念であり、造語です。この人の本、「モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない 」(翻訳本)が日本の紀伊國屋書店で出版されたのは1999年ですから、まだ10年くらい昔の話です。非常に最近の話。また、この言葉が一般に出回りだしたのはここ1年くらいのことだと思います。出来たてのホヤホヤの新概念でしょう。
モラルハラスメントというのは、言わば「精神的な暴力」であり、その態様は言葉や態度によって無限のバリエーションがあるとされます。また、自分が加害者となった場合、自分が精神的な暴力をふるっているという自覚が乏しいという点が問題だと言われています。僕は、提唱者のイルゴイエンヌさんの本を読んでないので、この概念についての正確な理解は出来ません。経験豊富な精神科医が、症例をもとに「どうもこういうパターンがあるらしいぞ」と自然に形作られ、他山の石として学ぶべき点があると思ったからこそ提唱されたのでしょうし、その知的貢献について僕は難癖をつける気はありません。
ただ、この概念、めっちゃくちゃ難しいぞ!って思うのですよ。他者への攻撃を、@有形力の行使による直接的・肉体的攻撃(暴力)、Aその他の方法による無形的・間接的攻撃に分ければ、Aは全部モラハラに入ってしまうようにも思えますし、実際にネットなどで検索していくと、殆ど無批判にモラハラの概念を拡大して使ってる人が結構見られます。
でもさ、「言葉や態度など暴力以外の方法によって他人の心を傷つけること全て」というまで概念を広げてしまったら、この概念ってほとんど意味あんのか?って気もしますね。他者から受けた不愉快なコミュニケーションが全部入りそうじゃん。例えば、待ち合わせに遅刻したら、待ってる相手に迷惑をかけているわけで、相手からイヤミや小言の一つも受けなければならないでしょう。でも、「なんだよ、いい加減なやっちゃな」という言動だって、それで言われた人が傷ついたらモラハラになっちゃうわけでしょ?子供しつけだって、「こんなことをしてはダメですよ」と指摘したり、叱責したりすることも全部モラハラじゃん。先輩や親方が、「お前、真面目にやれ」って怒るのも許されない。もちろん、本来のモラハラ概念にはこういう「正当な指摘」は含まれないし、提唱者だってそんなことまで考えてはいないでしょう。しかし、概念というのは一人歩きするもので、牽強付会、我田引水でどんどん自分に有利なように概念を引っ張ってくる人はいるわけです。というか、僕らは基本的にそういうことをしがちです。既にネットを見てても、モラハラ=家庭内における夫からの精神的暴力みたいな感じに解釈されてたりするけど(「モラハラ夫と戦う」とかさ)、別に本来のモラルハラスメントは、家庭内に局限してるわけでもないし、精神的に傷つけたら即モラハラになるってもんでもないでしょう。
これが昂じていけば、「ウチの子を呼び捨てにしないでください」「叱らないでください」と訴える馬鹿親が生み出され、されにエスカレートしたら、「たしかにウチの子は人を殺しましたけど、処罰しないでください」と訴える人まで出てきかねないです。裁判所の判決で、「被告人の(殺害)行為は、反社会的で許し難いものであり」と書いたら、それって判決の形をとったモラハラになっちゃうんでしょうかね?
ここで僕はモラハラ概念の是非を論じたいわけではないです。また論じるほど原典にあたっているわけでもない。ただ、モラハラという名前がつくことによる功罪を考えてみたいのです。
茶シブの話に戻りますが、茶シブって別に不潔なわけでも汚いわけでもないです。経年性(=時間が経過すれば自然とそうなる)のナチュラルな変化にすぎないです。庭石に苔が生えたり、風雨によって岩が削られていったりする自然の変化に過ぎないとも言えます。人間だって年を取れば皮膚に皺が刻まれたりします。それを「汚い」「好ましくない」ものだという価値判断をしてしまうのはどうかと思います。いや価値判断そのものは人の自由ですからいいのですが、判断する過程が、そうだと頭から思いこんでしまい、無批判で盲目的になってしまうその思考停止部分にイヤなものを感じるのですね、僕は。
堺屋太一の「日本とはなにか」という本に、日本のカルチャーの本質のひとつとして「生成(きなり)の文化」が指摘されています。日本人の美意識や感性は、たとえモノや人が古びて、新品のルックスを失ったとしても、そのプロセスがナチュラルであったらそれを尊ぶという、世界でも珍しいものだといいます。法隆寺など、出来た当初は朱塗りでピカピカになっていただろうに、時とともに色褪せていっても敢えてそれを塗り替えない。色褪せるままにまかせる。その色褪せ具合に、時の流れ、風格、年輪という高貴なものを感じ、ピカピカに塗り替えようとは思わない。「わび」「さび」に通じる美意識ですが、新品ピカピカだから良いというものではない、むしろピカピカであることに、浅薄さ、下品さ、イヤらしさを感じる。これは陶芸などでもそうですよね。
僕も、この感性は、日本人が世界に誇っても良い、高いレベルの美的センスのあらわれだと思います。工業規格品のような統一的なフォルムではなく、ごつごつした凸凹のある陶芸を、僕は好きです。なぜそれが好ましいかといえば、たぶん自然がそうだからなのでしょう。自然というのは山の形、樹木の形、波の形がそうであるように、一つとして同じモノはないです。ナチュラルにブレています。そのナチュラルなブレ、「ゆらぎ」のようなものが、僕らの心に自然を感じさせ、素朴な賛嘆に結びつく。一個1000万円もする古ぼけた陶芸品は、工業製品としてはボコボコだし、塗りも、焼きも均一ではないです。でもその「均一ではない」という部分が良いのであって、その自然な広がりが、千変万化する大自然を彷彿とさせればさせるほど深い滋味に満ちているとして高い評価を与えられるのでしょう。
これは人間だって同じことで、のっぺりしたツルツルの肌の若い人よりも、深い皺が刻み込まれた老人の顔に、さまざまな人間の喜怒哀楽を通り過ぎてきた深い味わいがあり「いい顔」に感じたりもします。おじいちゃんやおばあちゃんって、時々、ものすごく「いい顔」しますよね。微妙な陰影、微妙な表情によって、映画一本分くらいの深い感動と情報を感じたりします。優れたカメラマンや画家は、それを見抜き、その一瞬を捉えるのでしょう。
だから、茶シブだって、別に嫌がることはないんじゃないかしらね。古ぼけて変色した湯呑を手にとって、その表面を撫でながら、「よく、これまで割れずに役に立ってくれたね」「キミとはもう長いつきあいだよね」と語りかけるという、人と物との奥深い関係がそこにあってもいいんじゃないの?森羅万象に神々が宿るアミニズムを本能的に維持している日本人の、それは特技であり、精神性の深さではないのかな。カマドには神様がいて、玄関にもカミサマがいて、天井裏にもいて、縁の下には力持ちがいて、勿体ないオバケがでる、それは日本的な心象じゃないのか。美しい四季の移り変わりを子供の頃から贅沢に体験して育ち、「時の流れ」というものを身体の中に取り込み、独特の無常観を育み、その素晴らしさも、その空しさも、その悲しさもすべて己のうちに取り込んだ日本民族の、それはかけがえのない時間認識、空間認識、自然認識ではなかったか。「生成の文化」は、単にモノの見てくれがキレイかどうかという低次元のレベルの美意識ではなく、そのモノが通り過ぎてきた時間の重みまで鑑賞し、慈しむという深い洞察力と審美眼あってのことでしょう。
その日本人が、自然経過への貴い認識をかなぐり捨て、茶シブ=除去すべき汚物と「洗脳」されちゃっていいのか?って気が僕にはするのですよ。そして、どうしてそうなったのか?というと、「茶しぶ」って名前がネガティブな価値判断とともにつけられた(再発見された)からでしょう。「名前をつける」ということの怖さはそこにあると、僕は思います。
ちなみに、土鍋にも同じように汚れはつきます。底の部分は、長年の火力で黒く煤けているし、内部も不均一の色になっています。でも、土鍋というのは、そうやって黒ずんで古ぼけて来た方が貴重に思えるし、美味しく感じます。「美味しんぼ」の最初の方の巻でも、数十年の時を刻んだ古い土鍋には、長年の使用によって土鍋自体に最上のダシ味がつき、それが最上の美味を生むという話が載ってますよね。この味は、毎日毎日強い火力で鍛えられ、数十年の時を経ないと出てこないという非常に貴重な味だったりします。でも、土鍋に関するこのあたりの「変色部分」の名前はまだ付いていませんよね?だから温存されているわけだけど、願わくば今後も妙な名前なんかつけないで欲しいわ。
バランスを取るために付け加えておきますと、別に僕は何が何でも茶シブは残しておけと主張しているわけではないです。また、昔は誰もが茶渋を珍重していたなんて言うつもりもないです。昔だって茶渋を落としていた人はいただろうし、「生成り」とか「風格」といっても程度問題であまりにもヒドイ場合は何らかの処置がなされてしかるべきです。古い寺院に「枯れた味わい」があるからといって、一切の修理をしてはならないってことにはならないのだしね。
また、茶シブに含まれている亜硝酸塩が人体に悪影響を与えることもあるわけで、全く無害というわけでもないです。発ガン性が言われることもあります。ただし、ネットをいろいろ調べていくと(例えばこことか)、亜硝酸塩はハムなどの発色剤に使われており、またボツリヌス菌発育を抑制する効果もあります。というか、普通に食べている野菜の中に多量の硝酸塩があり、これが人体内で還元して亜硝酸塩になり、その分量は添加物など問題にならないくらい多いです(日本人の1日平均硝酸塩摂取量は200−400mg、体内で亜硝酸塩に還元されるのは大体16.5mgなのに対して添加物の摂取量は1mg)。さらに亜硝酸塩=発ガン性物質というのは誤りで、亜硝酸がニトロソアミン生成因子になるだけのことで、それもPh幾らという条件でという複雑な条件が重なってのことです。だからハムなどの食品添加物によってガンになるのだとしたら、その16倍以上の確率で「野菜を食べたらガンになる」と言うべきです。ましてや茶しぶ程度のごくごく微妙なものなど問題にならんでしょう。さらに面白いのは、亜硝酸塩によるニトロアミン生成をブロックするためにはビタミンCとかEを取れと言われるので、野菜を食べろ、緑茶を飲めということになります。つまり野菜を食べると亜硝酸塩でガンになるから、それを防ぐビタミンを取るため野菜を食べろという話になります。また、野菜を茹でると硝酸塩が減少するから好ましいのですが、でも加熱するとビタミンCなどは壊れてしまうから意味ないです。野菜を食べた方がいいのか食べない方がいいのか、茹でた方がいいのか茹でない方がいいのか、この種の話を延長させていくと絶対どっかで衝突が起きたりして、頭がこんがらがってきます。
茶シブの話に戻りますが、僕が言いたいのは、絶対取れとか取るなとかいう二者択一的デジタル的な話じゃないだろってことです。ヤだな思う人は取ればいいし、別に気にならないと思う人は取らなければいい。気にならない人でも、気になるくらいひどくなったら取ればいい。マークシートのセンター入試やってんじゃないんだから、「正解3」なんて具合に正解なんかないでしょ?ってことです。僕らは若い人達に対して、受験ばっかりやってるから必ず正解があると思いこむという視野狭窄、思考硬直を非難しますが、何のことはない、若くない人だって同じようにマークシート思考をしてたりするんじゃないか、とマークシート(共通一次)第一期生世代の僕は思うわけです。でもって、こういった画一的思考を促している一つの要因として、「名前をつける」ってことがあるんじゃないの?という話を今しているわけです。
名前を付けることによって対象がクッキリと浮かび上がり、新たな認識になります。言葉、名前というのはその意味で偉大ですし、古くから「言霊」と呼ばれたり、陰陽師的世界では気楽に他人の名を呼ぶのを禁じていたりしますよね(呪がかかるかもしれないから)。しかし、安易に名前をつけることによって、そこで思考停止に陥り、画一的な価値観にハメこまれてしまうという危険性もまた、あります。言葉というのは、それだけの力があるのでしょう。
僕が思うに、言葉というのは、情報を正確に伝達するというコミュニケーションツールとしてはかなり出来損ないでダメダメツールなのだけど、世界認識や自己暗示にかけるとか自分の精神世界を創造するにあたっては強力なツールになるのでしょう。
前者=情報伝達という意味でのダメダメ度の点は、毎週僕がお世話している皆さんに最初にお話しすることでもあります。言語というのはコミュニケーションの十数パーセントしか占めない。あとの80%以上は、表情とか雰囲気とかオーラである。だから、英語を喋ろうとする余り自然なオーラを忘れてはならないし、「英語は喋ってるけどコミュニケーションはしてない」という最悪の事態だけは招くな、と。
遠距離恋愛の恋人達は、メールや手紙、電話だけだとついつい喧嘩になりがちです。他意はなく純粋に好意で使った言葉でも、相手から「それってどういう意味?」「皮肉?」とか深読み、曲解されたりするから、話がややこしくなる。何気ない一行に心が乱される。不安と怒りが心の中で勝手に増幅する。今度会ったら、アレも言ってやろう、コレも言ってやろうとアドレナリン全開で再会の場に臨むのだけど、新幹線のホームに列車がすべりこみ、停まり、ドアが開き、恋人の姿が見えた頃には、もうそんなことどうでも良くなっている。目の前に人が実在するというのは、言葉の数百数千倍の情報の固まりであり、それが眼前に現れてしまうと、それまで頭の中でチマチマこねくり回してきた概念も意識も一瞬にしてガラクタになる。もう圧倒的。そういう経験ありませんか?「言葉では言えない」「言葉では伝えられない、表せない」って。大事なものであればあるほど、言葉などという出来損ないツールでは表現できない。それが出来るのは、何千万人に一人という言語の天才、シュークスピア、杜甫、ランボー、中原中也のような一部の天才達だけでしょう。だからこそ文学という領域がある。
しかし、後者=言葉による自己精神世界創造機能は、ある意味破壊的に強力だったりします。同じことでも、表現を変えたら180度意味が違ってきてしまうし、ネガティブにもポジティブにも感じられる。例えば、「そいつは、ある生き物の死骸をむさぼり食っていた。無惨に引きちぎられた死骸の、肉だか内蔵か分からない、まだヌラヌラと表面がテカっている部分を、生のまま食いちぎっている」と表現すれば、地獄のバケモノめいた雰囲気になりますが、「新鮮な海の幸に舌鼓を打つ」と表現することも出来ます。客観的には同じことでしょ。
この言葉の世界創造性、暗示性をフルに活用して、例えばキャッチコピーのような商業利用がなされ、あるいはヒトラーのように大衆洗脳も出来ます。なんでそうなるのかな?といえば、やっぱり人間の脳味噌がそうなっているからなんでしょうね。ヒトがある程度の複雑な概念操作をしようと思ったら、どうしても言語というものを使ってやってるので、言語部分が狂ってくると、思考そのものも狂ってくるのでしょうね、よう分からんけど。
「名前を付ける」という行為は、言葉の世界創造性、認識性を引き出して、それまで見過ごされていた物事にスポットライトを当て、認識を新たにするという意味ではとても有用な方法です。しかしながら、すべて有用なモノがそうであるように(刃物とか原子力とか)、他面では悪用の危険があり、誤解、曲解、一人歩きの危うさがあります。
ということは、新命名による好ましい効果だけをゲットして、好ましくない副作用を除去するという作業が必要になるということです。名前を付けることによってとっても物事が分かりやすくなりますが、その分かりやすさに酔い痴れてはならない。とかく新しいネーミングがなされると、それで「全て分かった気」になりがちなのですが、「本当にわかってんのかよ?」という自己ツッコミは常にやらねばってことです。
しかし、こういう抽象的なことを言ってても「世界が平和でありますように」「一日一善」とかいってるようなもので、あんまり実戦性がないですな。抽象的な方針に、切れば血が出る実戦性をもたらすためには、また別個の考慮が必要になります。うーん、さて、どんな方法があるかな?
そうですね、今ちょっと思いつく方法としては、「その名前を使うのを禁止して別の言葉で置き換えようとする」という方法があると思います。既に口にも頭にも馴染んだ言葉を別の言葉に置き換えるのって、時としてかなり難しかったりします。でも、その難しさを我慢して別の言い方を探していくと、イヤでもその本質を考えるようになるから、「ネーミングで分かった気になる」病はかなり防げると思います。
例えば、パソコンの用語のなんか全部カタカナですけど、あれを別の言葉で言えとなったらキツイですよ。例えば「キーボード」。別の日本語で言い換えてください。おそらくは「鍵盤式入力装置」とかいう言い方になると思います。そういう言い換えをするなかで、「あ、これは入力装置だったんだ」という本質が分かると思います。同じように「マウス」だったら何と言い換えますか?
村上龍の「五分後の世界」という小説にも、「言葉を省略するな」という教えが語られる箇所が出てきます。言葉を省略して使っていると物事の本質を見失う危険がある。CNNは何の略なのかといえば「ケーブル・ニュース・ネットワーク」であり、「CNN」と省略して使っているとCNNの本質が見えなくなる、言葉は大事に使え、と。「うーむ、なるほど」と思いましたが、同じようなことだと思います。言葉には強烈な思考麻酔作用がありますから、それにひっかかるんじゃないよ、ってことですね。
同じように、「オタク」と呼ばれる人々を「オタク」という言葉を使わないで表現してください。結構言えないのですね、これが。思うのですが、おたくというのは本質が分かりにくい概念です。ちょっと前のエッセイ、ESSAY 315 秋葉原の「おたく狩り」で、オタクの概念を説明する英語の文章を紹介しましたが、もうアケスケというか、ここまで言うか?って感じの説明になりますよね。「widely disparaged as socially dysfunctional geeks=社会に適応できない変人として広く蔑視されている人々」「The quiet, fashion-challenged loners, known around the world for fetishising anime cartoons and manga comics=物静かで、ファッション的にはイケてない孤独な若者達=彼らはアニメや「マンガ」を偏執的に愛好することで世界的にも知られている」「The otaku movement began in the 1970s when disillusioned youth started to retreat from society into a saccharine fantasy world of sexually and violently explicit stories.=おたくのムーブメントは、1970年代に幻滅した若者が、セックスと暴力を強調した甘いファンタジーの世界に浸り、現実世界から逃避し始めた頃から発生している」とか。
しかし、これらの定義が正しいか?というと多少疑問です。大まかには合ってるのだけど、例えば「社会的に適応できない」と言ってしまうとちょっと言い過ぎのような気がするし、「セックスと暴力を強調した甘いファンタジー世界に逃避」というなら、多くのハリウッドムービーを見てる人は全部そうじゃないかって気もするわけですよ。それに、「寡黙」とか「ファッション的にダサい」というのは”属性”であって本質ではないでしょう。
「オタク」を別の言葉で言うのは非常に難しいです。それが難しい最も根本的な原因は、僕ら自身がその内容を正確に理解してるわけではないから、でしょう。要するに「オタク」とか気楽に使ってるけど、僕ら自身それが何なのかよくわかってないんだわ。大体、「ほら、いるじゃん、よくさ、コミケとかに」「だいたい小太りでさ、ダサくてさ」とか、そんな曖昧な感じ、「なんとなくイメージできる」くらいの漠然たる理解でしょ。そもそも最初に命名したのは中森明夫という評論家の人ですが、同人イベントに参加している人を総称して言ったというのが始まりです。このくらい語源がハッキリしている言葉も珍しく、Web2.0世界の昨今、ネットで探せば、そもそもの発端である「漫画ブリッコ」1983年6月号掲載「おたくの研究(1)」以降の中森氏の文章がそのまま読めます。
このこの世で最初に「オタク」という言葉を生み出したエッセイのなかでも、「(前略)その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊っちゃん刈り。イトーヨーカドーや西友でママに買ってきて貰った980円1980円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前はやったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴ら(後略)」と表現しているわけです。この執拗なまでの悪意と揶揄に満ちた描写で何が特徴的かというと、「全然本質を語っていない」ということです。長々描いているけど、ぜーんぶ「属性」でしょ。「えてしてそういうパターンが多い」という属性に過ぎない。本質じゃない。だから、大体同じ世代の日本人、同じような生活体験と生活風景を共有している人の間で、「ほら、いるじゃん?」といえばツーカーで分かるけど、共有してない仲間以外には全然通じないという、もう説明の仕方それ自体がオタク的だったりします。
ということは、「おたく」という言葉はこの世に生まれ落ちた時点で最初から実体や本質が無いのだ。それが言い過ぎなら、あまり本質的なことを考えずに使われはじめた言葉だと言ってもいいです。以後、本質がいい加減な雰囲気ネーミングなもんだから、使う人が勝手に自分側に引き寄せて「オタク」という言葉を使い、本質を見極めようとしても論者の数だけ定義があるという、わけのわからない状況になっているのだと思います。ドーナツみたいなもんですね。中心部分は空っぽだったという。
話をさきほどのモラハラに戻してみます。モラハラが危ういなと思ったのは、概念が非常に曖昧だという点です。たしかにそう呼ぶべき実質を備えたコアな事例群はあるのでしょうし、我々はそこから沢山の教訓を学ぶべきなのでしょう。しかし「モラルハラスメント」と言っただけでは殆ど何もわからない。大体、「モラル・ハラスメント」という造語のネーミングセンスがわからない。"moral"を道徳と訳すと「道徳的迫害」になり、分かったような分からんような話になるでしょ。おそらくは、マテリアル(物質)の対概念であるモラル(精神)という意味で使ってるのでしょうが、だったらメンタル・ハラスメントとか、サイコロジカル・ハラスメントとか言えばいいのにって気がします。
ちなみに、"moral harassment"はWikipediaの日本語版には出てきますが、本家の英語版には登場しません。日本では盛り上がってるけど、世界的にはそんなに盛り上がってない概念なのかもしれません。また、Googleで検索してみますと、日本語サイトに限定すると多くは「夫から精神的暴力を受けた」という文脈で出てきますが、一般検索してみると”Moral Harassment in The Workplace”というタイトルが多く、もっぱら職場におけるイジメ問題として扱われていることが分かります。
とあるサイトでモラハラの説明をしてますが、”What is moral harassment? Moral harassment, as a legal notion, is only applied to relationships in the workplace. It concerns repeated behavior destined to degrade the working conditions of the victim. As a known or only foreseeable consequence, it can affect the rights, the dignity, the health or even the professional future of the victim. Mediation, recourse to the work inspection office, legal action through conciliation and/or penal... : several solutions are now possible for you to defend yourself”となっており、モラルハラスメントとは、法的にいえば、職場における人間関係のみを指すと明記されています。考えてみればセクハラだって職場の問題なのですから、モラハラだってそうと言えなくもないです。パワーハラスメントといった方が通りがいいのでしょうが、命名者、造語者が違うのでそれぞれに言われているようです。ちなみにモラハラの提唱者イルゴイエンヌによれば、パワハラもモラハラの一環だそうです。
それがどうして日本に入ってきたら「モラハラ夫」という形でドメスティックに変換されてしまったのでしょうか?謎です。まずこの時点で言葉の本来の意味から逸脱している、勝手に我田引水して言葉を使っていると言われても仕方ないでしょう。日本に上陸してから言葉の本来の意味からズッコケてしまう外来語は沢山あります。ベトナムではバイクのことを全部ホンダと呼ぶとか、そういう現象は日本に限らずどこにでもあります。「名前をつけると思考停止になる」という本稿のテーマからしたら興味深い現象です。でもねー、名前を付けるやいなや、いきなり田んぼのアゼ道にハマってるかのごときこういう現象も珍しいでしょう。
先ほどの例にのっとって、モラハラを別の表現に置き換えてみましょう。直訳すれば「精神的な迫害行為」になるでしょう。これを「職場における」と限定するかどうかは論者によって違いますが、暴力的迫害ではなく、精神的な迫害であると。しかし、前半にも書きましたが、これだけだったら殆ど何も言っていないに等しいです。大体、暴力を受けたら精神的にもヘコみますから、暴力的迫害だって精神的迫害でありうる。だから、「他者に対する迫害行為のうち、暴力的態様を伴わないもの」という言い方の方がより正しいのでしょうね。しかし、これでも全然足りない。
文句ばかりつけてないで自分でも考えてみましょう。ネットその他で皆が議論しているを読むと既に原典のイルゴイエンヌの定義を越えてるみたいだから、皆はどういう意味で使っているのか?という具合に考えてみます。因数分解のように共通項目を抽出してみると、
@.見知らぬ人間の通り魔的な犯行ではなく、顔見知りの間柄、それもある程度継続した人間関係内における話であること
A.一回性のものではなく反復継続されるものであること
B.単純な罵倒や中傷ではなく、非難されるようなミスその他の行動を被害者が犯し、それに対する指摘や叱責という、一見合理的な外観を持つ
C.しかしながら教育や改善効果というポジティブな効果を主として意図しているわけではなく、もっぱら相手の精神を傷つけることをメイン目的にしている
D.教育目的と虐待意図とはしばしば共存していたりするし、最初は教育のつもりだったのが段々オーバーヒートして虐待がメインになる
E.固定的な(しかも往々にして上下的な)人間関係、反復継続性、外観上の合目的性(教育など)、加害者の自覚の無さが、被害者を「逃げ場なし!」という精神的袋小路に追い詰め、その精神や人格に後遺症的な損傷を招く----
などが挙げられると思います。
でも、これ、難しいですな。いや、意図する意味はわかるし、改めてこういう問題に皆の意識を向けさせたという功績は大いに認められるべきです。確かにこういうことはあってはならないだろうし、自分もまたしてはならない。それは分かります。
が、しかし、、、って思ってしまうんですよね。本当の問題はここから先にあるんでしょうね。
自分の家族、部下、友人などがドン臭かったら、誰でも文句の一つも言うでしょう。それが絶えず繰り返され、「あーもー、またかよ」ということになったら、誰だって腹が立ちますよ。腹が立てば攻撃的な行動に出るでしょうよ。そりゃ、最初の数回くらいは「今度から気をつけてね」という優しい言い方をするかも知れないけど、肝心なときに約束をすっぽかされて大恥かいたり、大損したりしたら誰だって怒り狂うよ。大事にしていたモノを壊されたら、それも何度も何度も壊されたら、まずもって自分が被害者だと思うでしょうよ。
だいたい、人というのは、自分よりも劣った奴にはイライラしたり、馬鹿にしたりします。その攻撃感情をそのままぶつけたら、さすがにそれは社会的対人的にマズイので自制するようにしますが、それも限度があるでしょう。これはもう本当に万人が加害者にも被害者にもなりえますよ。まあ、この世で最低にドン臭い奴だったら加害者になれないかもしれないけど、今度はその鬱憤をペットや小さな子供にぶつけたりするから、やっぱり加害者になりえます。
僕は思うのですが、加害者的人格の奴が最初からいるのではなく、加害者的に振る舞ってしまうスチュエーションというのがあり、そこにハマったら誰でもそうなってしまうのではないでしょうか。モラハラ加害者の類型として、「いつも自分が優位に立ち、賞賛が得られないと気がすまない/他人の気持ちに共感することや、心を通わせあおうという気持ちがない/他人にあこがれて近づいても、すぐに嫉妬で心がいっぱいになる/他人をほめることをしない。欠点をあげつらい、いつも悪口をいっている/自分の考え方や意見に異を唱えられることをいやがり、無条件に従うことを要求する/自分の利益のためなら、他人を平気で利用しようとする/自分は特別な人間だと思っている」などの点が挙げられますが(出典)、これだけ見てたら「なんて鬼畜な奴」って思うけど、でも一歩クールに考えたら「これって俺じゃん」って思うよ。というか人間ってそういう生き物じゃないのか。誰の心にだってそういうイヤらしい部分はありますよ。聖人君子じゃないんだから。要するに程度の問題でしょう。
だから問題は、どの程度だったら許され、どの程度を越えると許されなくなるのか?でしょ。そして、それをどうやって未然に防ぐかでしょ?
だけど程度問題というのは凄く難しく、幾ら条件を羅列しても何の解決にもならない。またこういうことって数値化しにくいし、数値化すればいいってもんでもないです。だから程度問題にしちゃったらイケナイのだと思います。もっと他の基準や解決が必要なのでしょう。大体ですね、自分はモラハラの被害者です、あの人はモラハラ加害者ですと訴える人だって、その行動そのものが既に「他人をほめることをしない。欠点をあげつらい、いつも悪口をいっている/自分の考え方や意見に異を唱えられることをいやがり、無条件に従うことを要求する」という類型にハマってしまうでしょう。相対問題の難しさはそこですし、鏡像関係のように「自分こそが被害者だ」と被害者競争するようになります。で、どうなんの?というと、あんまり意味ないじゃん、解決しないじゃんって気もするのですよ。
今回はモラハラがテーマではないので、これ以上言及するのを避けますが、このままだったら消化不良だろうから、簡単に結論らしきものを書いておきます。人と人には相性というものがあり、どうにもあの人は苦手だとか、どうもアイツの顔をみてるとムカムカしてくるというのは、これはもう自然現象としてあり、それは認めるべきでしょう。だから、モラハラ的な状況というのは、絶対にと言っていいと思うけど、この世から消滅はしないでしょう。モラハラ以上の直接的攻撃である犯罪がなくならないんだから、その前段階的なモラハラが無くなるわけがないです。もちろんモラハラという新概念を知ることによって、「おっと、ここまで言ったら言いすぎだな」とオーバーランにブレーキがかかる効果はあるでしょうから、唱えることに意味はあります。しかしそれだけでは足りない。
モラハラの一番の問題は、身分関係がある程度固定的、恒常的で、逃げ場がない、希望がないって部分にあるのだと思います。なんらかの運命の偶然で、波長の合わない人が固定的な身分的に陥り、それがゆえに逃げ場のない虐待的状況が生じるとするならば、それも不可避的にどっかに生じるとするならば、もう本人達の自助努力を待ってたって間に合わないでしょう。だから、解決策のそのイチは、身分の固定制の解消です。つまり、離職、転職、離婚などの制度的保障であり、社会の流動性を良くしていくことだと思います。それぞれの人が、それぞれに心地よい「居場所」を見つけられるように、サラサラながれる社会にしようということです。学校のイジメだって、刑務所だって軍隊だって、固定的で閉鎖的な人間関係という部分に端を発するケースが多い。行きずりの人ばかりがクラスを作る自動車教習所やスキー教室、英語学校の生徒同士でのイジメというのは殆ど聴かないです。閉鎖性の打破なんかも解決策になるでしょう。それはオンブズマン制度の創設であったり、第三者的機関の積極的活用でしょう。流動性と開放性を高めるためには、水が淀まないように、人間関係の場にどんどん異物を放り込むことでしょうね。まあ、この話はもっと深くなるので、このくらいで。
「名前をつけない」という主題に戻ると、適当にネーミングしてきて何となく分かった気になってる物事って沢山あると思います。でも、「おい、本当にわかってんのか?」ということで、「その名前を使っちゃイケナイ」ことにしてその本質を考えてみるのは、決して無駄なことではないでしょう。敢えて名前を付けず、つけないままにしておいて、絶えず絶えず考えるということを、もっとやってもいいような気がします。
これ、別に何でもいいんですよ。例えば、恐れ多くも天皇陛下だってそうです。天皇ってネーミングは使っちゃダメとして、「あの人はだあれ?」を説明しようとしたらいいです。そうしたら、「なんで、あの人達だけあんなところにいるんだろう?どうしてそうなってるんだろう?」という本質を考えるようになるでしょう。「仕事」ってコトバを使ったらダメってすれば、「毎日やってるアレは何なんだろう?」って考えると思いますよ。
文責:田村
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