今週の1枚(07.06.11)
ESSAY 314 : やたらプライドの高い人 (その2)
写真は、Lindfieldの秋景色。Upper Northshoreはシドニーの奥座敷。森の中に豪邸が建ち並ぶエリアです。車を持ってないとどうしようもないエリアも多いのですが、それだけに環境はいいです。
前回に引き続き「やたらプライドの高い人」についてです。
プライド関連の風景はやたら広がっているので、チャッチャと片付けましょう。
最初に、昔からいる尊大で高慢な人々はどう理解すればいいか?ということです。現在においてもいわゆる「おエライさん」的な地位にいる年配の人は、異様なまでにプライドが高かったりします。マンガに出てくるような、「あ〜、チミチミ」「ちょっと、君ィ」とかいって赤の他人に話しかけるような人。あるいは山の手の○○夫人のように高飛車なオバハン。彼らは一般に高いステイタスを持っている名家だったりして、ダンナは「尊大」、奥方は「高慢」、その娘は「驕慢」という表現でいわれたりしますが、「プライドが高い」という表現もまた可能でしょう。
こういう人達は昔っからいます。いや、昔の方が多かったでしょう。なんだ、別に昔っからいるじゃないかってことなんですけど、昨今話題になっている「やたらプライドの高い人達」(特に職場の新人君とか)と彼らはどこか違うのでしょうか?それとも同じでしょうか?
僕は、この両者ははメンタリティの構造が違うように思います。これら古典的なプライド高い人々の世界観は、シンプルな「封建社会」です。殿様がいて、家来がいて、下男下女がいて、、、という、完璧な身分社会、階級社会です。「生まれが違う」「毛並みが違う」「血筋が違う」「家柄が違う」という世界です。身分・階級社会と、最近言われている「下流(階層)社会」とどこが違うかというと、前者の場合は「生まれながらにして違う」ということであり、後者の場合は「実質的に違う」という点が決定的な差です。身分や階級というのは「どの家に生まれたか」という運命的なものです。どんなにアホだろうが、スカタンだろうが、その家に生まれたらとりあえず「エラい」。だから実質的にはかなり劣るけど身分的には最高という「バカ殿」も生じます。でも、今の日本で本当の意味で出生門地が問題になるのは、天皇家か、その周囲の超上流階級くらいでしょう。今の日本は(世界的にもそうだけど)、人類史上珍しいくらい平等社会、庶民社会であり、生まれでどうこうという話は昔に比べればグッと減りました。今時、「血筋」「毛並み」「家柄」というフレーズ自体あんまり使われなくなりましたし、そういう宿命論的な人生観は流行らないです。家柄とか血筋だけで結婚を猛反対されるというのは、一昔前には普通にありました。恋愛結婚の半分くらいはその種の問題をはらんでいたから(そもそも見合い結婚でない方が珍しかった)、「駆け落ち」という行動が普通にあったりしました。でも、今時そんなことが問題になるケースは少ないでしょう。
後者の「下流社会」というのは、このようなほぼ完全平等社会の中における話です。そこでは実質的な差が問題になります。つまり士農工商でいえば、同じ農民であったとしても、裕福な豪農もいれば貧しい小作人もいる、町民でも金持商人もいれば、貧乏長屋の熊さんもいるという世界です。階級的にいえば、金持ってようが、頭が良かろうがなんだろうが、百姓は百姓、町民は町民です。奴隷の中には賢い奴隷もいれば、馬鹿な奴隷もいるという話で、どんな実質的な差があろうとも、階級という意味では同じでした。しかし、今は階級自体がなくなったので、同じ階級内で頭も良い奴もいれば、裕福な奴もいる、偏差値の高い学校に行った奴もいれば学歴のない奴もいるという実質的な差です。そこではあくまで実質が問題になります。そりゃ有名大学や有名企業に所属しているからといって、必ずしも知性や人間性の優秀さを示すわけではないのですが、幻想であれなんであれ最終的に拠って立つのは実力とか実質です。だから昨今のプライド君のプライドの根拠は「実質」です。俺はこんなに頭がいいとか、私はこんなに優秀だとか、キャリアがあるとか、そういうことです。
その意味でいえば、尊大なオヤジや高慢な奥様連中というのは、頭の中身が18〜19世紀の封建社会である「古典派」なのでしょう。そういう階級が社会的に実在するかどうかはともかく、彼らは脳内世界における階級社会に生きているといっていいでしょう。
こういう古典的な人達も困ったものなのですが、これは、まあ、大昔から対処法がありました。「エラそうにさせておけばいいのさ」とか、「はいはい、アンタが大将」っておだてておけばいいとか、「憎まれっ子世にはばかる」と陰口叩いて鬱憤晴らすとか、古典的な害悪には古典的な療法があるということですね。それに、古典的な人達というのは、それなりの社会的なステイタスにいます。一族全員、医者とか教授とか大企業の社長とかだったり、その古典的なプライドを裏付けるだけの地位にあることが要求されます。そうでないと、まず第三者がとやかく非難する以前に、身内内部で「○○家の恥さらし」とボロクソにコキおろされ、本人もプライドありげに振る舞えないか、あるいは無頼放蕩に走ります。それなりのステイタスにいるから、日常的に僕らが直に接する機会も少なく、したがって被害も浅い。また、それなりに権力もあるから、そこそこヘーコラしてれば、それなりのご褒美はあります。とりあえず社長には頭さげておけば、まあ世俗的には利益になろうってなもんです。また、それなりの地位にあるから、被害に遭う人間も薄く浅く広がり、被害者同士愚痴を言い合ったりしてストレス解消にもなります。
この種のパターンで、最も深刻な被害に遭うのは、側近というか「お付きの者」でしょうね。石原東京都知事の周辺なんか、想像するだに大変そうです。田中康夫氏が長野県知事になる前の知事もかなり暴君だったらしく、またその奥方も権勢を振るってて、県の助役さんだったかな姓名判断に凝ってる奥方に命令されて無理矢理自分の名前を変えさせられてたそうですから、中世の王族みたいなものだったのでしょう。この種の「俺が天皇」みたいな奴らは、地方の私立病院の院長とか、ワンマン系の個人企業とか、幾らでもいそうです。こういう人々の周囲には近寄りたくないですね。また、有名スターのマネージャーとかも大変そうだな。
今話題にしている「プライド君」は、生まれや階級ではなく実力をそのプライドのベースにしていますが、問題はその実力が無いことなんですね。だから面倒臭いんだわ。
古典的な「王様」系の人は、本来実力とは関係ない出生階級的なものにプライドの根拠がありつつも、「尊い生まれである以上それなりの実力と地位があって当然」という一種のシバリがかかりますから、同時にそれなりに社会的な地位も実力もあるわけです。だから地位や実力が無くなったら、没落貴族の悲哀を味わうことになる。偉そうに振る舞ってる社長も会社が潰れたら乞食同然の扱いを受けるし、政治家でも落選したらただの人以下に落ちぶれます。それなりにステイタスがあるから人目につく所にいるわけで、それだけに世間の風当たりも強いし、敵も多い。マスコミに攻撃されることもあるでしょう。
ところが、僕らが日常接する「プライド君」は、そもそも実力がないからステイタスもない。基本的には小者的立場にいるから、マスコミや世間から公的な弾劾を受けることもない。だから失脚する機会もない。しかし、そのプライドの根拠は実力だということで、言うならば「存在しないものを資源とするプライド」なわけです。地位もステイタスも実力もないのにプライドだけはある、という珍しい存在なわけです。というよりも、地位もステイタスも実力もないからこそ、プライドだけがある、プライドにすがってないと生きていけないという感じなのでしょう。それだけに厄介な存在です。なんせ虚構を前提にしたプライドですので、実質的に反証・攻撃することが出来ない。本人にしか分からない心の中の「自己確信」だけが拠り所なので、第三者はそこにタッチすることができない。どんなに実証的に「キミの実力はこんなもんでしょ」とやったところで、「運が悪かった」「問題が悪い」「教えてもらってなかった」「そんな一つの出来事で全体を判断するのは誤りだ」と頑張るから、改心させることも出来ない。
要するに、プライド君のプライドは一種の「宗教」なんだと思います。新興宗教「オレ様教」みたいなもので、熱心な信者を改宗させることは難しいですよ。ことが宗教にからんでくると、論理や事実、常識や経験則など、我々が日常的にコミュニケーションの根拠にしているツールが使えません。まあ、思想信条の自由は憲法19条に保証されている基本的人権なのだと諦めるしかないという。だからこそ、小さく話題になっているのでしょうね。小者だから大きな国家的な問題になることもなく、マスコミで大々的に取り上げられることもなく、ただただ周囲の上司や先輩、友人連中が「やれやれ」と村上春樹風のため息をつくという風景になるのでしょう。やれやれ。
次、いきます。
お客様から非礼な言動を取られたときに、ムカッとなったり言い返したりするのは「プライドが高い」という問題なのか?という点です。ここはちょっと書いておきたいです。
日本社会特有の「お客様は神様」的な風土は、僕はもう変革した方がいいと思ってます。この点については、Essay No30 「お客様は人間です」で論じました。他者に対する最低限のレスペクトを基調にした対等な人間関係というものが、もっと普遍的になった方が良いという趣旨です。「客なんだから、何を言ってもいい」「どんなことをしてもいい」とばかりに、悪口雑言、傍若無人に振る舞うのはやはり厳しく批判されるべきでしょう。それを「お客様だから」との一事で許容する文化は、逆に翻訳すれば「金さえ儲かれば何でもする」という拝金主義と表裏一体になりやすく、一国の文化レベルとして考えればやはり低いと思うからです。
このように傍若無人な「お客様」と、プライドの高いボクちゃんが第一次接触なんかしようものなら、そこには火花がスパークし、「どっちもどっち」というメッシーな(messy=ムチャクチャに混乱した)状況になるでしょう。そして、店の先輩や上司が平身低頭してその場を納めなければならないというトバッチリを食らうことになるでしょう。人類の法則、「悪と悪とが激突した場合、周囲に善者にとばっちりが及ぶ」。
このような場合、どう考えたら良いのでしょうか。
まあ、ケースバイケースで「これは客の方が言い過ぎ」「この場合は店員の方が悪い」と是々非々で解決していくしかないのでしょう。個別解決、程度の問題という、当たり障りのない基準ですが、でもそうとしか言いようがないでしょう。
ただ、個別解決をするにあたっても、単なる「とばっちり」になるのではなく、この状況を逆手にとって「漁夫の利」を得ることも可能だと思います。前者のトバッチリの場合、お客様にはひたすら平謝りをし、「なんだあんなバカに僕が頭を下げないといけないんスか」とスネてるボクちゃんには「まあまあ」となだめという損な役回りを上司や先輩が引き受けることになります。ああ、同情しちゃいますね。その場に猟銃があったら、ひっつかんで二人とも射殺したいだろうに。だけど、いつもいつも損してるこたあないですよ。「毒をもって毒を制す」というか、客には「お客様、お腹立ちはごもっともですが、お客様の方にも多少お言葉が過ぎる点があったかのように思いますが」とチクリとやり、ボクちゃんの方には「まあ、キミの気持は皆の気持だ。皆腹に据えかねてるんだ。でも、あの種の客を笑わせてこそプロだろ、キミだったら出来る筈だよ」とやるという。
ここで大事なのは、そう説得して、双方を承服させなくても別に構わないということです。即座に激しく反発されるかもしれませんが、そのときは反抗しないで流しましょう。「チクリと一刺し」、それでいいです。なぜかというと、人の考えを変えようとする場合、よほど明々白々な場合を除いて、その場で人の考えが変わるということはないからです。その場で変えさせようとして、理詰めで追求したり、グウの音も出ないほどやりこめたりしたとしても、人は内心の考えを改めない。むしろそうされたことへの恨みだけが残る。それよりは、ほんのちょっとだけチクリとやった方が効きます。まるで遅効性の毒をピッと注射しておくように、あとでジワジワ効いてくる。特に、対立している相手から言われるのではなく、全くの第三者的立場にある人間から冷静にコメントされた方が効く。また微量であった方が効く。微量で、本人も言われたことを忘れるくらいの方が、「他人に言われて」ではなく、自ら進んで思い直したかのように錯覚するので有効です。「激流を制するのは静水」ということですね(from「北斗の拳」)
でも、このテクニック、日本人だったら知ってるはずだぞ。あなたはしないかもしれないけど、イヤガラセとかイジメとかで使うテですね。面と向かって罵倒するのではなく、通りすぎるときに一瞬嘲るような笑いを浮かべたり、「あなたも色々あって大変ね」と一言だけチクリと刺すとか。こういうイヤミな手を職場や教室の全員にやられたら、本人はキツいですよ。明確に、ボリュームたっぷりに言ってくれた方が、よっぽど楽です。反撃しやすいからね。悪用厳禁ってことで。
では、プライド君が客でもあるという「悪の二乗」みたいなケースはどうすべきか?
こーゆー場合はどうなんでしょうねー。ただでさえ傲慢な態度が二乗に傲慢になるかというと、必ずしもそうでもないような気がしますね。人間、傲慢になるといっても限界ありますからねー。そんなにマンガみたいに天井知らずに高飛車にはなれないでしょう。なったら本当にマンガですから、そこまでいくと腹が立つというよりは滑稽だったりするでしょう。失笑を噛み殺すのに苦労するというか。それに、客の立場は、ある程度だったら傲慢でも許されますし、許そうという気でこっちも接しますから、プライド君の害悪くらいは逆に隠されてしまうかもしれません。
書いてて思ったのですが、他人のプライドが高くて閉口するとか、ムカつくといっても、やっぱり限界はあるんでしょう。あまりに超弩級のプライドを持ってこられると、怒りよりも先に笑いが出てきます。出社するなり、「いやあ、おはよう、庶民の諸君」とか挨拶されたら、笑っちゃうでしょう?「いやあ、下々のことには疎くてねえ」とか、「ボクくらいになると、そういうことが何故かわかっちゃうんだよねー」とか吹いてられても、芸人が芸してるような感じで「鑑賞」する余裕もでてくるのではないでしょうか。だから、さりげに傲慢なのが一番腹が立つんでしょうね。
それはさておき、職場やビジネスシーンその他で、命令や慣習に逆らうこと全てが悪いことであり、それは「やたらプライドの高い」という問題かというと、必ずしも全部が全部そうではないでしょう。特に本人のプライドが高すぎるわけでもなく、「人として最低限認められるべきプライド=他者からの扱い」というラインを越えたら、そのボーダーを超えてまで屈辱に甘んじなくてはならないってものでもないでしょう。そこで反発するのは、高すぎるプライドの問題ではない。
例えば、「つべこべ言うな!」「口答えするな!」「お前、オレに意見しようってのか?」という表現がありますが、反論も対話も許されない、一方的で絶対的な上下関係というのは、無ければ無い方が好ましいでしょう。少なくとも日本が、土着の封建主義から脱して、西欧的な民主主義社会を目指すのであれば、どんな人間にも意見を言う権利はあるということは認めなければならない。
ジョニーデップ主演の映画「The Libertine」には、最後にデップが議会で意見を述べるヤマ場がありますが、そこで「王を殺した罪人ですら法廷で意見を言う機会が与えられた。デュープロセスだ」と説き、満座を黙らせます。誰であれ意見を述べる機会はあり、それを封殺するのは何人たりとも許されないという強固なルールがあり、それこそが民主主義の根幹にかかわる大原則です。これは、実際にオーストラリアという文化的には西欧社会に住んでいても感じますよ。どんな下手くそな英語であれ、どんなにたどたどしくても、意見は聞いてくれます。従うかどうかは別としても意見は言わせてくれるし、言う機会は与えられます。
というわけで意見をいうこと自体の封じ込めというのは、民主社会においてはあってはいけないことです。むろん、緊急事態であるとか、軍隊のように上命下服がキッチリしてるとかいう場合は別ですが、通例の人間関係、普通の職場程度であれば、誰でも「口答え」はしますし、「意見」もする。その意見について文句があるなら、(TPOを失しているなどの場合を除いて)意見をするという行為それ自体の適当性ではなく、意見の内容そのものを反批判するなり、黙殺するなりすればいいです。意見を言わせ、それを聴く義務はあるけど、それに承服する義務はないわけですから。
ということで、個人としての尊厳を圧殺されたり、最低限のレスペクトすら払われないのであれば、それに対する抗議は行っても良いと思いますし、場合によっては行う方が良いでしょう。そしてそれは、高すぎるのプライドの問題ではなく、「他者にレスペクトを欠いた行為」への批判、儒教的に言えば「礼を失した行為」に対する批判として肯定されるでしょう。問題なのは、自分のプライドが傷ついたという「被害」ではなく、その「侵害行為の失当性」だということです。したがって、この種の批判は、なにも被害者だけ(頭ごなしに言われた人物だけ)がするものでもなく、周囲の人間が「それはちょっとあんまりじゃないか」と苦言を呈するという形でも現れます。また、周りの人間が言った方がいいでしょう。
また、プライドではなく正当な抗議という局面は、たとえは劣悪な労働条件を押しつけるような場合にもありうるでしょう。ちょっと前にホワイトカラーエグゼンプション法案の話をしましたが、ここのところの日本企業は、一昔前の温情的家族的な要素をかなぐり捨てて、ひたすら従業員を搾取しようとする傾向があります。今の日本は大きなバブル景気だそうですが、十数年前のバブルと決定的に違うのは、従業員が潤ってないということです。昔のバブルは日本人全員が金持ちになれた。ボーナスもドカンと出た。下々まで、隅々までお金が廻った。浮浪者のオジサンもワイン通になった。でも、今は企業が肥え太ってるだけで、その利益を従業員に分配していないように思えます。だって、もし本当にそうなら、福利厚生も薄く、生活保証もキャリア性も乏しい派遣社員なんかなり手がいない筈でしょう。時給800円そこそこのワーキングプアなんか生じないですよ。
ともあれ、そのように労使関係が良くないところで、問答無用の残業命令、出向命令などが乱発された場合、そして明らかに労働基準法違反であったような場合において、それを指摘し、抗議するのは、正当なことです。決して生意気な行為でも、プライドの高い行為でもない。そーゆー問題ではないのだ。しかしながら、「つべこべ言うな」の一言で、それら正当な批判を封じ込めるのであれば、それはおかしい。
もっとも、これらのことも程度問題であって、一定の技術を身につけるためには、一定の屈辱的なイニシエーションを通過しないとならないという教育課程もあるでしょう。新人にハードなことをやらせ、ボコボコにするようなプロセスは、部活であれ、会社であれ、どこでもあります。「最初は雑巾がけ」というのは、理不尽で旧態依然とした弊風のように見えつつ、実は科学的なトレーニングカリキュラムだったりもするわけです。
いくら傲慢な客に反論しても良いと言ったところで、ビジネスの現場現場でイチイチそれをやっていられるものでもないし、また仲間に迷惑もかけるでしょう。社会的コンセンサスとしては、「客たるもの、のぼせるべからず」という倫理は確立してもいいとは思いますが、現場でそれを矯正しようというのも無理はあります。だから、ある程度こちらのプライドも柔軟になっておく必要があります。突っ込まれたらゴムのようにグニュッと引っ込んで、またビヨーンと元に戻るという、器用なプライドも現場では必要でしょう。さらに、現場においては理不尽の嵐ですから、ある程度の理不尽や無茶には慣れておかねばならない。"This world is not perfect, not yet"です。世界は必ずしも完璧ではないのだ、少なくとも今はまだそうなってない。だから、社会に出るに当たって、ある程度の理不尽慣れはしておく必要があります。海外に出たら、物事がいい加減に運ぶという現実にも慣れなければ生きていけないのと一緒です。生きるためのスキルです。
そういったスキルを学ばせるために、下げたくもない、また下げるべきでもない頭を無理矢理に下げさせられるという体験は、ある程度はあっても良いし、ある種必修過程なのでしょう。「そんなんでイチイチ傷ついてたら、世の中渡っていけないよ」ってことです。
というわけで、プライド君のパワーに対しては、傲慢な客の態度、尊大な古典的な人々、会社の違法な圧力などなどあらゆるカウンターパワーがあるわけです。今日も日本全国津々浦々で、これらのパワーとパワーがせめぎ合い、冬の日本海のようにどっぱーん!と波濤を生んでいることでしょう。波濤渦巻く浜辺に佇む僕らは何をすればよいのかというと、まずはこれらのパワーや圧力の本質を見抜く鋭いも賢い洞察力を磨くことなんでしょうね。そのうえで、諸般の事情を斟酌した上で、「塩を、もうひとつまみ」という微妙なレシピー配分で、個々の局面で是々非々に対応しておくってことになろうかと思います。
イケナイのは、プライド君の言うことだから何がなんでもダメに決まってるとか、尊大なオヤジのいうことだからスカタンだとか、会社の命令は絶対でそれが社会のあるべき姿であるとか、エクストリーム(極端)に走ることでしょう。そういう具合に固着的に考えてしまうのは、考える方からしたらすごく楽チンだし、魅力的なんだけど、いくらなんでもそこまで馬鹿には落ちたくないという、これこそが健全なプライドの所在だと思いますね。
次。虚栄心と自尊心は反比例するという話をします。
虚栄心と自尊心の違いは、前回のエッセイ参照。簡単に言えば、常に他人と比較し、他人から賞賛されたり高く評価されたいという、対他人関係で話が終始するのが虚栄心。逆に、他人のことはいざ知らず、常に自分自身の内面の問題として自己を高く保とうとするのが自尊心。
自尊心の強い人ほど、他人の評価を余り気にせず、我が道を行く傾向があるでしょう。なぜなら、自尊心が問題になる局面というのは、常に自己の内面の葛藤だからです。「俺ともあろう男がこんな汚い手をつかっていいのか、こんなレベルで満足して良いのか」という感じで自問自答し、自分と自分の戦いをしているのが自尊心だと思うのですね。もちろん、自尊心のなかには他者からの評価という要素も含まれるとは思いますが、あくまで本質は「そういう(情けない)自分で、自分は許せるか」という問題のたて方になると思うのですよ。どういう人間像がもっとも人として正しいか、カッコいいか、素晴らしいかという基準で自己採点していく。だから、他者の賞賛や評価が欲しいという虚栄心とは、本質的に違うし、相容れない傾向があろうと。
自尊心を満足させようとすると、ある意味では「もっともっと」という無間地獄に陥ります。例えば、足が早いとか絵が上手とか勉強が出来るということでも、クラスで一番になったら満足するかというと、自尊心が高いほど、そんなレベルでは満足できないでしょう。クラスで一番になっても学年レベルではもっとスゴイ奴がいたりしてそれが悔しい。さらに校内で一番になっても、他の学校にはバケモノみたいな奴がいるからまだ満足できない。県内で一位になっても全国大会にでたらもっとスゴイのは居て、全国一位になってもプロの世界になればそんな奴はゴロゴロしている。上へ上へと目指すから、学校の野球部でレギュラーになっても、地区対抗でコールド負けを喫すればひたすら悔しいし、甲子園に出ても一回戦でボロ負けしたらやはり悔しい、甲子園のエースになってもプロになったら鳴かず飛ばずのバッティングピッチャーをやらされるわけです。じゃあ、ほどほどにしておいて、趣味の野球で周辺の連中の「お山の大将」になっていればいいじゃないかというと、そういう生き方は出来なかったりします。それが一番自尊心が傷つく。
これはキリがなくて、名実ともに世界チャンピオンになったといっても、今度は歴史上にライバルを求めるでしょう。人類史上最強になったとしても、自分の理想は尚も高いから、「まだまだ全然ダメじゃん」と自己評価してしまうでしょう。宮本武蔵のようなもので、ある程度強くなったら、もうその辺でやめておいて適当に道場経営でもしてれば暮らしも楽だし、人々からチヤホヤされるのだろうけど、それをやらない。憑かれたように、自分より強そうな奴を捜し求めるという。
自尊心が強い人というのは、幾ら他人から賞賛されようが、評価されようが、あんまり嬉しくない人種なのでしょう。むしろ、変なところで誉められると腹が立つというか、「ああ、全然わかってない!」とイライラするでしょう。例えば、あなたは今日一日なんの犯罪も犯さずに暮しました。これをもって他人から、「素晴らしい!あなたこそが人格高潔、品行方正な人物だ」と誉められたって、うれしくないでしょう?「いくら俺がろくでなしでも、そんなに毎日犯罪なんか犯すかい!」って思うでしょう。それが自尊心ですよ。「俺はこの程度の(高い意味でも低い意味でも)人間である」という自分の評価が自尊心なのですから、クリアしているレベルを誉められたってうれしくはない。
一方プライド=虚栄心は、あくまで他人からの賞賛と評価を求めます。じゃあ、なんでそんなに他人の評価が気になるのか?というと、結局自尊心が低いからだと思います。自尊心というのは「自信」と置き換えてもいいですが、自信のある人はあんまり他人の評価を気にしません。自信以上に誉められると単純に困惑してしまうし、自信以下に軽蔑されるとムカっ腹は立つかもしれないけど、「まあ、他人からはそう見えるよな」「しょせん他人にはわからん」と思うから、そんなに一喜一憂しない。他者の評価に非常に敏感になるというのは、自分自身を成り立たせるためには他者の存在が必要だからでしょう。自分だけではどうにも成り立たないような不安感があるから、他人にサポートしてもらいたいのでしょう。
(エセ)プライドの高い人というのは、「俺こそが一番」と豪語し、そう振る舞い、鏡に向かって自分でそう話しかけたりしてるけど、実は自分が一番それを信じていないのでしょうね。プライド君は「オレ様教」の熱心な信者であると書きましたが、同時に心の底から信じ切れてもいないのでしょう。熱心な信者であろうとしているというか。
本当は自尊心高くやりたいのでしょうが、情け容赦なく自分のここがダメ、あそこがダメとバッサバッサと斬っていくと何も残らなくなりそうだから、それが出来ないのでしょう。自信のある人は、自分のダメさ加減を受け入れられます。「いいところなんか一つもない!」というところまで断罪しまくっても、「それでも尚、オレがオレであることに変わりはない」とふてぶてしくアグラをかいている人が自尊心や自信のある人でしょう。その決して色あせない自信の究極的な根拠、原子核みたいなものはなんなんだ?というと、おそらくは「志(こころざし)」だと思います。志というのは、自分の可能性の「種」みたいなものです。今はこんなに小さな粒だけど、天を突くような巨木に育つ可能性はあるのだ、という。今はこんなにダメダメな俺だけど、今に立派に育ってやる、育つに決まってるじゃんっていう意欲や希望でしょう。その希望の大きさがその人の自尊心の高さを決めるのでしょう。心の中の一番奥の部屋に、その「種」が転がってる人は、自尊心派の人であり、基本的にその精神は強いです。なかなかメゲないし、自分のダメさ加減を正面から受け止めることができる。
でも、プライド君は、奥の部屋に「志」という種が転がっていないのでしょうね。手足をもがれ、全てを断罪され、自分の全てについてダメ評価が下されたとしても、「それでも俺は俺だ」という部分がない。「今はダメだけど可能性はすごいよ」って気分になれない。自分に自信がなく、希望が持てない。だから将来に賭けることが出来ない。過去や今現在の実績や評価にこだわる。そして他人の評価にこだわる。
一代で富豪になった人間というのは、逆に金銭に恬淡としてたりするといいます。お金が無くなったらまた稼げばいいと思ってるし、稼ぐだけの自信があるからでしょう。しかし、何かのラッキーでお金持ちになった人は(遺産が転がり込んだり、宝くじが当たったり)、実力で金持ちになったわけではないことは本人がよく知ってるから、「無くなったら終わりだ」という恐怖感があるのでしょう。だからお金にしがみつく。泳げる人は、浮き輪やブイにつかまってなくて、好きなところを泳いでいきますが、泳げない人は浮き輪にしがみつく。本当に自分が賢いと自信のある人は、自分の出身大学などにはこだわらない。自分の頭の良さは、これから将来、いたるところで発揮され表現されるだろうから、過去の一時点での結果などにはこだわない。それよりも、もっと賢くなりたいと思うだろうし、そちらの方に頭がいっぱいでしょう。
プライド君がもっとも鼻持ちならずプライドの高さを周囲にまき散らすときというのは、大体において逆境が多いと思います。集団の中で自分が一番劣等であるとか、ぱっとした業績を残せていないとか、なんとなく軽んぜられているとか、ちょっとピンチっぽい状況でこそ、そのプライドの高さは激しく発揮されます。なぜかというと、順当に考えていけばダメダメなんだけど、その結果を認めてしまったら自分が潰れてしまうような危機感があるのでしょう。自信のある人は、幾らダメダメな状況でも「この先成長するもんね」という強い希望を持っていられるから、そのダメな状況を受け入れられます。だから「すみません」と素直に頭を下げられるし、自分をネタにギャグにするくらいの精神的な強さを持っています。でも、そういう希望や自信が持てないならば、ダメというマイナス評価を受け入れるわけにはいかないでしょう。絶対防衛線のように「死守!」って感じでこだわるでしょう。
また、プライド=虚栄心というのは、嫉妬と仲が良く、虚栄心が登場する場面には大体において嫉妬という感情も競演していたりします。「ふん、あいつなんか大したことないよ」と。「恐怖」というのは自分が害されることへの恐れの感情ですが、「嫉妬」とは自己を害する相手に対する反撃感情をいうのでしょう。自分がクラスで一番の美人として自他共に君臨していたら、自分よりももっと美しい転校生が入っていて、自分の女王の座が怪しくなったとします。その場合、その転校生の存在こそが自分を危うくする攻撃であり、その攻撃に対する反撃が嫉妬です。「なによ、あの子、田舎臭いじゃない?」「生意気ね」とか言うわけですね。そこでは、周囲における自分の評価を下げまいとする虚栄心が燃え上がり、同時に嫉妬心も赤々と燃え上がります。ヤバイ!と思ってるから虚栄心も起こり、嫉妬心も湧くのでしょう。順風満帆の時は、プライドの高い人もそんなにプライドの高さをさらけ出すような局面は少ないでしょう。
ということは、虚栄心=プライドも、嫉妬も、基本的には攻撃にさらされている「弱者」の防衛的な「反撃感情」であるということが出来ると思います。
その証拠に、プライドの高さの表現は、防衛的な表現として現れることが多いでしょう?つまり、「負け惜しみ」とか、「言い訳」という形で出てきませんか。仕事などで、なにか失敗をやらかしたり、全然実績が上がってなかったり、競争や試験でパッとしなかったりした場合、「いやあ、本番じゃないから調子がでなくって」とか、「こんな変な方法で実力なんか判定できっこないですよ」とか、「地区担当の割り当てがおかしいですよ」とか、「そんな説明じゃ分かりにくいですよ」とか、とにかく他罰的というか、言い訳や負け惜しみのオンパレードです。つまり、言い訳や負け惜しみを乱発しないとしのげないような窮地にいるってことです。逆に言えば、プライドが高いと周囲から思われている人ほど、負け惜しみを乱発する数が多く、つまりは窮地に陥ってる数が多く、使えない人材である可能性が高いってことでもあるのでしょう。
ここで思い出すのがイソップ物語の「酸っぱい葡萄」です。英語でも"sour grapes"という表現としてありますが、要するに「負け惜しみ」です。知ってる人も多数いると思いますが、キツネが高いところになっているブドウを食べようとしてピョンピョン飛びつくけど、高過ぎて全然届かない。あれこれやってみたけど結局ダメで、最後には諦めるのですが、ブドウ畑を去るときに、「ふん、あのブドウはどうせ酸っぱいにきまってるよ」と捨て台詞を吐くという。「取れない」んじゃないんだよ、酸っぱい葡萄だから敢えて「取らなかった」んだよという。
プライド君の本質はこれなのでしょう。負け惜しみ的プライド。ブドウが酸っぱいかどうかなんか食べてもいないお前に分かるわけないだろ?とか、要するにてめーのジャンプ力が弱かっただけじゃんとか、取れないことなんか最初から分かりそうなものじゃんとか、いくらでもツッコミどころ満載なのですが、だから「負け惜しみ」なのでしょう。破綻しててもいいんでしょうね。だって、あれは宗教における「念仏」みたいなものなんだから。
強い人間は最初から負けないから負け惜しみをいう必要もないです。また負けたとしても「完敗だ」「もっと頑張らねば」と素直に認められます。自尊心の強い人間は、あんまり負け惜しみは言いません。「負け惜しみを言うような人間にはなりたくない」って思うだろうし、どうせ将来において勝つと楽観してるから現在の負けは幾らでも認められるのでしょう。というか、負けてるときこそ飛躍のチャンスです。自分の弱点、改善点のヒントが、それこそ葡萄のようにたわわに実ってるわけですから、それを収穫して吟味するのに忙しいでしょう。
ページ数が尽きてきたので、最後は駆け足でいきます。
虚栄心=プライドが高いのは世間が狭いからです。世間が広ければ、自分よりもスゴイ奴が幾らでもいることが分かりますから、そんなに能天気になれるわけがない。狭い狭い世界で生きてるからこそ、つけ上がることも出来るし、井の中の蛙でも居られる。そして、虚栄心=プライドが強く、且つ、それを改めようとしないと、世間は必然的に狭くなっていきます。だって広くしたら破綻するんだもん。井の中の蛙の本当の問題点は、井戸の中という狭い世界にいることだけではなく、その狭い世界から出ようとしないことだと思います。
逆に、虚栄心が乏しく、自尊心が強い人は、さきほどの宮本武蔵のようにどんどん自分の世界を広げていきます。最初から世間に向かって開かれているから、スゴイ人を見つけることが出来るし、ああなりたいという希望を持つこともできる。志も起きる。だから頑張るし、頑張るほどに世間は自動的に広がっていきます。だから、虚栄心と自尊心というのは、何を比べてみても対照的なんでしょうね。
最後の最後にトドメの一言。今の日本で「やたらプライド高い」ことやってる人って、基本的に頭が悪いんだと思います。だってそうじゃないですか、利害打算、損得勘定だけいっても、どう考えても利口な世渡りではないですよ。日本社会の特徴は、和をもって貴しとなす調和型社会であり、謙譲の美徳は今なお厳然としてあります。そして、そのオキテを破ったら、出る杭は打たれ、江戸の敵を長崎で討たれます。いいことなんか滅多にないし、やりにくくてしょうがないです。最高の栄冠を勝ち得ても、「いやあ、運が良かったです」「皆さんのおかげです」「コーチや師匠に感謝したい気持で一杯です」「オフクロに伝えたいです」という「さわやか」なコメントが好感度を呼びます。これは変わらんよ。おそらく100年後にも変わらない。
もちろんビッグマウスで有名な人や、辛口批評、型破り、とか、謙譲や和の精神を踏みにじってるような著名人も沢山いますし、それが格好良く映ったり、それがウリになってるような人も沢山います。でも、こういう人って、そんなに知ってるわけではないけど、僕が見聞している限りにおいては、対人関係はかーなり気を遣ってたりしますよ。TV用や営業用のキャラとして生意気さを演じてたとしても、直接会ったら、とっても腰が低くて良い人だったりするといいます。だからこそ、周囲もその人を支えようとするのだし、ファンもいる。また、談合的に悪慣れしている社会システムを批判するような場合、どうしても「和を乱す」ようなネガティブなレッテルを貼られるだろうし、必要以上に中傷非難を受けることもあるでしょう。
西欧社会で生きていこうと思えば、常に「理由」「自己主張のプレゼン」を用意しておくことですが、日本社会で生きていこうと思えば、一歩下がって慎ましくしてた方がいいです。長い目でみれば絶対その方が得です。また、損得以上になにごとかを現実に成し遂げたかったら、目標の遂行を第一義にすべきであり、その過程での感情などで無用なトラブルを生じるべきではないです。必要以上に物事の達成を困難にするのには、戦略的にも阿呆だと思いますね。
賢い奴は、自分の置かれた環境をまず考えるでしょう。そしてその環境の本質を的確に見抜くでしょう。見抜いた上で、どうすれば最もスムースに目的の遂行がなしうるかを考えるでしょう。
また、内心虚栄心が強く、他人から誉めてもらいたくてたまらない人ほど、自分から言ってはダメです。自分から言う人間には、誰も誉める気がしなくなるからですね。人間というのは、なんかしらんけどバランスをはかる秤を持っていて、ちょっと右が足りないなと思えば右に肩入れするし、左が足りないなと思えば左に肩入れする。例えば、Aさんが仕事でミスを犯して皆に迷惑をかけたとして、それだけの状況だったら周囲の連中はAさんに攻撃的になります。しかし、上司のBさんがAさんを「お前なんか死んでしまえ!」とばかりに厳しく叱責すると、「いくら何でも言い過ぎじゃないか」という空気が生まれ、再びバランスの秤は逆方向に傾いて、「Aさん可哀想」というムードになります。周囲から賞賛されても良い状況になったら、敢えて何も言わないのがいいです。何も言わないのがバランス失してるな、、と周囲が思ったらいってくれますし、口に出さなくても思ってくれます。でも、先に自分でエラそうに言ってしまったら、「誉めてもいいな」「すごいな」と思ってもらってた部分も帳消しになっちゃいますからね。
こんな簡単な法則なんか、日本人だったら十何年生きてりゃ誰でも分かるでしょう。それに気付かないで、負け惜しみ的なプライドを吹聴している人は、やはり基本的に頭が悪いのか、あるいは感情に囚われて知性が曇っているのでしょうねー。
ちなみに、必要以上に自画自賛して、ガハハと笑って、露悪的に振る舞う人がいます。若い人よりも30代以降の人に多いですけど、こういう人って基本的にはいい人だと思ってます。要するに照れ屋さんなんだと思うわけです。他人からいい人とか思われたり、誉められたりすると、どうしていいのか分からないから、「あ、誉められそうだな」と思うと、先手を打って自分で大袈裟に自慢したり、憎々しげに振る舞っちゃうのでしょうね。「いやー、スゴイですね」と言われたら、「ガハハハ、当然じゃん!」みたいについ言っちゃう人。本気で当然だと思ってるアホなのか、照れ隠しにそう言ってるだけなのかは、これは結構分かりますよね。こういう人は嫌いではないです。僕的には愛すべき人物ですね。
あと、プライド高げに何かを自慢するのは両刃の刃でありまして、自慢した瞬間、「あ、そんなことが自慢なのね」「その程度の人なのね」と底が見えてしまうって部分があります。底を見透かされるのは、やっぱり人間としては恥ずかしいから、やめた方がいいです。その自慢のネタがどんなに凄かろうとも、です。例えばノーベル賞を取って、誰も否定できないくらいの業績をあげたとしても、何かというとそればっかり自慢してれば、やっぱり「それだけの人なのね」って気になりますし、「ノーベル賞がなんぼのもんじゃい」って気分にもなります。ノーベル賞ですらダメなんだから、まず大抵のものはダメです。
さて、このように面倒臭いプライドの問題ですが、僕にもあなたにもプライドはあります。虚栄心もあるでしょう。では、それらとどう付き合っていくか?ですが、僕が思うに自尊心は幾ら高くてもいいと思ってます。「地球人類は僕が救済するんだ」くらいに思っててもいいです。自尊心が高くてもそんなに他人に迷惑かけないし、自分を高めたり、世間を広げる効果がありますから。でもって、面倒なプライドや虚栄心をどの程度に持っておくと良いかですが、僕としては、「一寸の虫にも五分の魂」くらいでいいんじゃないかな、と。「私がごときは、とても卑小で、大して人様のお役に立ってるわけでもございませんが、それでも「一寸の虫にも五分の魂」と申します。そこまで言われる筋合いはございません!」くらいの感じでいいのかな、と思います。
もう一つ。これはワタクシゴトでございますけど、このように自分の考えを毎週毎週エラそうに世間様に向かって書いている自分はどうなんだ?って、やっぱり思うわけです。これはかなりイヤラしい行為ではあるまいか、かなりプライド高げな嫌味な行動ではあるまいか、高いところからもの申すような思い上がった所業ではあるまいかと、思ったりするわけですよ。ずっと昔の(10年ほど前の)エッセイにもそう書きましたけど(「カッコイイ」だっけな)、そういうことはなるべく考えないようにしてますし、考え出したら「わー」と叫んで発作的に全ホームページを削除してしまいかねないからです。だからあまり考えないようにしてますが、それでも時折、ふと「あ、どうも、すみません」と謝りたくなっちゃいます。
文責:田村
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