今週の1枚(06.08.07)
ESSAY 270/日本帰省記2006(1) Ring a Bell 〜自己巡礼
写真は、梅雨明け時分の京都三条京阪。雲の感じが日本の夏!って感じでした。
というわけで先週お休みしまして、二週間ぶりのエッセイです。日本に帰国しておりました。
前回帰省が2003年の11月でしたから(Essay132以降)、2年8か月ぶりの帰省になります。約4年ぶりの帰省という前回に比べれば今回はインターバルも短いですので、日本に帰ってみても、それほど「おおー!」ということもなく、「ま、こんなもんでしょ」という想定内で話が進んでおりました。また、基本的には帰省であり、あとでも述べるようにパーソナルな事柄がメインになってましたから、それほど頑張って日本社会の変化を観察しようとしてきたわけでもありません。
そうはいっても、「国が違うとこんなに違うもんか」ってことは感じますよね。「ところ違えば何もかも違う」っていうのは、まあ、当たり前っちゃ当たり前だし、子供のように素朴で、言わばアホみたいな感想なのですけど、「でも、やっぱ違うね」という。そして、その違い方が、これも当たり前な話なんだけど、「自分以外は総取っかえ」ですから、笑っちゃうくらいに落差があるという。今回が一番そのことを感じたかもしれません。
しかし、その感じ方は、非常に説明が難しいです。「裏の裏は表」みたいに、一回ひねってまたひねってという感じ方です。まずはその辺りから書いてみましょう。
僕にとってオーストラリアに住むのはもう完全に日常になってしまってますし、今更「外国だあ」って感覚はないです。日本にしたって、足繁くとは言えないまでも、これまでに何度も帰ってますから、オーストラリア→日本という落差も今では慣れっこです。だから「わあ、外国ってこんなに違うんだあ」「あれ、日本ってこんなだったっけ?」という感覚は乏しい。どっちも慣れ親しんだ世界で、言うならば自宅の居間から寝室に移動する程度の精神的な距離感しかないです。何の意外性もないし、カルチャーショックも無い。だからこそ、子供みたいな素朴な感想、「わはは、全然違うわ」ってのが改めて浮かび上がってきたように思います。感動とか驚きという心のゆらめき一切なく、淡々とした気分のまま、改めて眺めてみると、「ほほお、まるっぽ違うじゃん」「なんでこんな違う世界が同時存在してるんだろう、不思議!」って感じになってしまいました。わかりますか、この感覚?
これは日豪文化比較なんてレベルの話ではなく、「人間にとって『現実』ってなんなんだろうね?」「リアリティって何なのよ?」という、ちょっとばかり哲学的な話でもあります。ほんと、飛行機に半日も乗ってりゃ、全くの別世界になっちゃうわけです。季節は真逆だわ、周囲の風景も、生活の論理もシステムも感性も何から何まで違う世界が広がっているという。日本に帰れば、どこにいっても大量の日本人がいるわけで、「どっからこんなに日本人ばっかり集めてきたんだ?」と笑ってしまうくらい日本人だらけ。風景も全然違うし、生きていくリズムも違うし、気温とか湿度とかいう以上の空気のありようがまず違う。スーパーのレジでも黙々と並んで、なんら会話を交さず、(僕にとっては)昔懐かしい日本の貨幣を取り出して支払う。オーストラリアに戻ってきてみたら、あれだけウジャウジャいた日本人が嘘のように消滅して、いきなり雑多な人種の人々が歩いている。家の近所のスーパーのレジでは、いつものようにインド人のバイトの兄ちゃんがレジを打ち、EFTPOSで支払い、FLY BUYカードを差し出す。両世界にはほとんど何の関連性も脈絡もなく、全くの別世界だったりします。
でも、どちらもよく知ってるだけに自分にとってはギャップがない。こんなにカルチャーショックや違和感が無くていいんか?っていうくらい自分にとっては自然。なんと言うのか、寝ている間に夢を見て、そして起きたような感じ。「現実が二つある」感じ。Aという映画や小説を読んでるとその世界に没入し、Bという作品に触れるとまたその世界に違和感無いまま没入しちゃう感じ。少年ジャンプを買って、次々に掲載されているマンガを読みますが、ページを読み進んで別の作品になるとその世界に入り、また別の作品になるとその世界に入っていきますが、そんな感じ。全然違うんだけど、違和感も全くないってのが、改めて考えてみると不思議だったりするわけです。「なんでこんなに馴染んでるんだ、俺は?」という。
多分、前世とか来世とかあったらこんな感じなんでしょうね〜。タイムマシンに乗ったとしてもこんな感じなんでしょうね。なんというのか、「『現実』なんか意外と大したことないのね」という。舞台の書割みたいなもので、背景に山が描かれていたら、「ここは山の中なのね」という前提で見て、背景に宮殿が書かれていたら「ここは宮殿なのね」と思ってしまう。ただそれだけのことなんじゃないの?と。だから、僕らにとっての「現実」ってなんなんだろう?と。どんなに何が違おうとも、アレが違おうとも、驚天動地の変化があろうとも、「慣れたら終いや」みたいな。でもって、そのあらゆる異次元世界を貫いている唯一の存在が「自分」です。自分だけはいつも一緒なんです。逆に言えば、自分以外の周囲は全て「セッティング」であり、現実というのは要するにセッティングだけの話なんじゃないかと。
いや、「現実」は重たいですよ。「リアリティ」というのは厳然とした事実であり、妄想とか空想ではなく、確固とした実在です。「これが現実」「現実は厳しいのだ」とかよく言いますが、そのとおりです。別に否定する気はないです。でも、その確固とした、岩盤のような「現実」ってやつも、かくも魔法のように全てが消滅し、全てが出現してしまうと、「本当に岩盤なのかな?」って気もしてきちゃうんですよ。「本当は紙で出来てるんじゃないの?」って。
ところで、永遠不変に思えた現実が一瞬にして消滅するってことは、日本で普通に暮らしていたって起こりうるでしょう。隣家の火事が延焼して自宅が燃えちゃったら、否応なくあなたを取り巻く現実は大きく変わるでしょう。恋人と楽しくドライブした帰路、ふとした油断で誰かを轢き殺してしまったとします。この瞬間、あなたが今まで当然のことのように思っていた現実は全て崩壊します。莫大な損害賠償、遺族との交渉、ヘタすれば刑務所行きという不安、一生消えない人を殺したという悔恨の念などによって、1分前まで思っていた人生設計、仕事も、キャリアも、家族や恋人との人間関係、その全てが消滅ないしは大幅に変容せざるをえない。あるいは、朝いつもように出社したら会社の門が閉ざされ、いきなり倒産して路頭に投げ出されるってこともあるでしょう。レアケースですけど、道を歩いていたら、いきなり刑事に取り囲まれ、有無を言わさず逮捕され、身に覚えのない容疑で取り調べられ、どんなに説明してもわかってもらえず、留置場にブチこまれたりすることもあるでしょう。その留置場の冷たいコンクリートの感触は、あなたとにとっては到底現実の話には思えないでしょう。
でも、そんな悲惨な思いをしなくても、数時間飛行機に乗るだけで「なるほどー」って分かっちゃいます。あれだけ動かしがたい、強烈な実在として居座っていた現実ってやつも、消滅するときは一瞬なのね、という。そのことが、以前にも増してよく実感されました。これまでも頭では分かってたし、言葉でも理解してました。皆さんもそうでしょう。しかし、今回が一番身体で実感しました。
なぜ今回に限ってそのことを強く感じるのだろう?と憶測するに、多分自分の中でのオーストラリアと日本の水位が50対50のトントンになったからかもしれません。これまでは、幾らオーストラリアに慣れたとかなんとか言っても「日本という母国を離れて外国に住んでます」という感覚がやや強かったんでしょうね、無意識レベルで。でも、それも段々変わってきて、今が丁度半分半分くらいで、どっちが本国でどっちが外国だかわからないくらいの状態になった。等しく親しく、等しく疎遠な。実際、どっちが本国かって言われたら分からんですよ。そもそも本国とか外国とかいう意識それ自体が希薄になります。「どっちでもいーじゃん」って。だからこそ、これまで感じてきたような日豪比較意識よりも、SFのパワレルワールドみたいな「二つの異世界があります」という感覚、「現実というものの不思議さ」がピュアに感じられたのではなかろうかと。
この不思議な感じを味わってしまったら、現実に対してちょっと突き放して距離を置くような心持ちにもなりました。といって空想の類に遊ぶわけではなく、その逆で、現実すらもあれも一種の空想でしょ?いわゆる脳内世界でしょ?みたいな感覚です。そして、なるほど、結局、自分しかいないわけなのね、と。ちょっとばかり無常観というか色即是空みたいな部分もありーの、コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)的な感覚もありーのしているわけですが、まあ、そこまで高尚な話ではなく、これほど簡単にコロコロ変化する現実とやらに過度に感情移入するのもアホらしいなって、思えてしまっただけのことです。
こんな人は滅多にいないでしょうけど、もし今この雑文を読んでる人で、目の前の現実がイヤで「自殺しちゃおっかなあ」とお思いの人は、"Please, think twice"、もうちょっと考えた方がいいですよ。現実なんぞ、そんな死ぬとかご苦労なことをしなくても、あっさり変わります。また変えたくなくても変わっちゃいます。あんまり絶対的なものとして考えすぎなくても良いのではないか、と。多くの場合、自分の周囲の現実を変えることは可能だし、実はそれほど難しくないです。
もっとも自分の望んでるように変わるとは限りませんけどね。また、変えようがないドツボみたいな状況(北朝鮮に拉致されちゃうとか、冤罪で30年拘留されるとか)もあり、不可逆的な変化もあります(恋人が死んでしまうとか)。さらに、自分に直接的に発生した現実は変わらない(事故で半身不随になっちゃうとか)ってこともあります。だから、魔法の杖の一振りで全てで思いのままに変るとは言いません。ただ、変るものと変らないものを考えてみたら、変るものの方が圧倒的に多いんじゃないかってことです。
そう考えていくと、生きていく上での優先順位みたいなものが何となく見えてくるような気がします。あくまでも自分の肉体と精神こそが基本であることが一つ。ニッチもサッチもいかないドツボ状態に陥らないようにすることが一つ。そして、自分外の周囲の環境は、意外と簡単に変わる。好むと好まざるとに関らず変わる。と同時に、どのような劇的な変化が訪れようとも、人間の適応能力というのは凄まじく、「慣れたら終いや」ってなところがあるということです。
これをワーホリや留学等で海外に行かれる方へのアドバイスとして応用すると、まずこっちに来たら「死後の世界」みたいなもんだということですね。だって全然違うもん。二つの世界を等距離に眺めていたら、やっぱりもう何もかもがメチャクチャに違う。どこがどう違うって個別に指摘しても意味が無いくらい全面的に違う。だから、もう来世ですよ。ということで、死んだ後も現世を引きずって幽霊みたいにならないように。オーストラリアに来たら、もう日本を引きずらないように。異次元ワールドなんだから、違う次元の世界の感覚をひきずってたって意味ないし、適応を遅らせるだけです。同時に、来世に対して現世で準備できることなんか知れてるってことです。三途の川の渡り賃として棺桶に小銭を入れるくらいのもんです。でも、来世になろうが、前世になろうが、自分は自分です。準備できることといえば、結局自分を鍛えるくらいしかない。モノや情報に頼るくらいなら、自分に頼りなはれ、頼れる自分になりなはれってことです。それが一番確実で、間違いがないです。
さて、一般には分かりにくい感覚話はそのくらいにして、もうちょっと具体的な話をしましょう。
今回はJRがガイジンさん(プラス海外で永住権をもっている日本人)を対象にして発売しているJR乗り放題チケット RAIL パスというのを買っていきましたので、あちこちほっつき歩いてきました。まるまる滞在したのは9日間しかなかったわけですが、その期間に、実家のある京都では京都市街はもとより、北白川界隈をほっつき歩き、比叡山まで登って琵琶湖方面経由で帰り、長岡京で免許の更新をやり、大阪の天神祭りを見て、三宮、住吉に行き、東京方面まで足を伸ばして、湯河原の温泉宿に一泊し、箱根をちょっと見て、秋葉原のカプセルホテルに泊まり、本郷の親戚に家に行き、川崎の百合ヶ丘あたりを歩き回り、湘南は藤沢あたりに出没し、名古屋に味噌カツ食べに行き、岐阜の町を歩き回ってきました。
結構めまぐるしく移動してるのですが、実家以外で晩ご飯を食べたのは3日だけです。なんせ帰省がメイン目的ですから、メシはできるだけ家族と食べようと。JRパスの乗り放題というのは使い出があって、しかも新幹線京都駅まで徒歩20分に実家があるもんだから、昼前くらいに、「そうだ味噌カツを食べよう」と思い立って、新幹線で名古屋まで行くということも出来るわけです。で、岐阜界隈を歩き回っても、夕刻には自宅に戻ってるという。大阪や三宮に行くのも面倒臭いから新幹線で行っちゃえという。だからそんなに計画性ある動き方をしてるわけではないです。比叡山に登ったのも、岐阜や川崎に行ったのも気まぐれです。
ただ短期間に、大都市やら、温泉宿やら、山寺やら、地方都市やら、郊外住宅地やら、リアルタイムの日本のいろんなレイヤーを見ることを出来たのは良かったと思ってます。別に市場調査とか視察のためにこんな日程を組んだわけではないのですが、結果的にはそんな感じになりました。日本のスリッパを買って帰ろうとふと思ったこともあって、川崎と岐阜と神戸住吉と京都のスーパーやデパートを10軒以上廻りましたからね。それだけでも結構面白かったです。
ただ、歩き疲れましたけどね。興味本位で万歩計を買って計ってみたら、名古屋・岐阜の半日コースの日でも2万4000歩くらい歩いてました。一番多く歩いたのは、おそらく秋葉原〜百合ヶ丘〜湘南の日だったと思うけど、3万歩は軽く超えてると思います。梅雨明けの炎天下の下をそれだけトコトコと荷物背負って歩き回るのはちょっと骨でした。
写真も結構撮りました。前回の帰省時には500枚くらい撮りましたが、今回は1200枚くらいあります。あんまり気合入れて撮らなかったので、映像的にそんなに面白い写真は少ないですけど、それだけに普通の日本の普通の風景が沢山撮れたと思います。住宅街と駅のホームとか。
なぜ川崎の百合ヶ丘?なぜ岐阜?京都北白川?って思われるでしょうが、理由は滅茶苦茶パーソナルなことです。全部僕が過去に住んだ町であり、昔住んだ町、昔住んだ家を見に行きかったからです。百合ヶ丘は小学校の頃、北白川は大学一回生の頃、岐阜は修習生だった26歳の頃に住んでました。まだまだ東京は二子玉川とか、佃とか、門前仲町とか、京成曳舟とか、京都は西陣、大阪は京橋界隈など、ゆかりの地で行きたかったところは山ほどありますけど、時間が無かった。次回持ち越しです。子供の頃から転居が多かったので、全国各地に思い出が点在してるわけですね。
なぜ今回、こんな過去巡礼のようなことをしたかったかというと、別にこれも深い理由はなく、単純に懐かしかったからです。「いやあ、どうなってんのかなあ」って。特に、小学校の頃にいた百合ヶ丘なんて30年ぶりくらいですよ。なんとなくタイムカプセルみたいに封印してきたって部分もあって、これまで一度も足を踏み入れたことはなかったのですが、もうそろそろいいだろうと。そして、「30年」という時の流れが一体どれほどのものなのか見てみたいって好奇心がありました。それは、30年経過したら町はどのように変わってしまうのだろうって客観的なことへの興味もありますし、自分自身の主観として、自分は30年前のことを一体どれだけ覚えているのだろう、30年前と今との時間的隔たりというのは自分にとってどのくらいものなんだろう?と。
結論的に言えば、結構覚えているものですねー。小田急線百合ヶ丘駅から西長沢というところまで、途中母校である百合ヶ丘小学校&南百合ヶ丘小学校や、当時の通学路やよく遊んだ場所などを約3時間くらい歩いていたわけですが、殆ど地図を見ずに行けましたから。勿論すごく変わってしまって、何がなんだか分からんエリアもあるわけですが、「あの角を曲がるとこうなって」というのは、区画整理とかがない限りほぼ正確に思い出せました。同時に、もう原型を留めないくらい滅茶苦茶に変わってるだろうなと思いきや、意外と変わってなかったりするものです。「げ、あの店がまだある!」って驚いたりして。
百合ヶ丘駅周辺に関して言えば、びっくりするくらいあんまり変ってなかったです。それは多分、僕が移転した後、急行停車駅である新百合ヶ丘が出来て、商業の中心が新百合ヶ丘に移動してしまったからなのかもしれません。新百合ヶ丘なんて、僕の通ってた小学校からすぐ近くなのですが、僕の居た当時は、あんなのただの原野山林でしたもんね。確かあのあたりには魔女ケ池という恐ろしい沼みたいなものがありました。まあ、沼地みたいなところに、宅地開発用の工業用油が流れ込んだりして表面がヘンなテカった色になってたりするのを子供達が遠目に見て、化け物チックに連想して面白がってただけですけどね。でもって、仲間と共にビビりながら探検に行って、雑木林の中を迷ってピーピー泣いてた場所です。だから、新百合ヶ丘エリアは無から有が生じたくらいの大変貌です。
でも、個人的には、新百合ヶ丘なんて、日本全国どこも同じの没個性的な郊外ターミナル駅を作って、小市民的プチブル中上流カルチャーを振りまかず、魔女が池のままにしておいて欲しかったですねー。まあ、無理な注文ですけど。新百合ヶ丘の駅周りも歩きましたけど、ほんとよくぞここまでってくらい没個性的なエリアでありました。Shiny but tastelessって。ピカピカだけど味わいがない。なんかここ30年の日本の方向性というか、ライフスタイルというか、日本人が求めてきた幸福像を象徴しているかのように感じました。僕たちはこんなもんが欲しかったんだろうか?って。
だけど、新百合ヶ丘に商業の中心が移ってしまった関係なのか、もとの百合ヶ丘駅は、なにやら古都保存条例が適応されてるかのように、いい具合に残ってました。記憶のまんまだもん。ただ、悲しいことに結構さびれてましたね。ガードレールや歩道橋の赤サビがかなり浮かんでて、物哀しかったです。そう言えば、途中で降りた向ヶ丘遊園駅もやたらさびれてました。後で調べたら2002年に向ケ丘遊園という遊園地が閉園になってしまったそうです。
右の写真は百合ヶ丘駅の裏手のスナップですけど、ガードレールがサビまくっているのがよく分かると思います。
これはちょっとショックでしたね。サビを落としてペンキ塗るくらいのことが出来ないのだろうか?と。そういえば川崎市って財政ヤバいんじゃなかったっけ?と思って調べてみると、かなりヤバそうですね。川崎市のHPの改革プランの「第1章 危機にある川崎市財政」に詳しく状況の説明がなされています。なんでこんなにマズイ状況にあるのかといえば、一過性ではなく、構造的な歳入欠陥、つまり税収の落ち込みです。川崎市といえば、海側の京浜工業地帯と山側の新興住宅地に分かれますが、長期の不況と産業空洞化で法人市民税収がガクンと落ち込んでいること(平成元年ピークの52%)、さらに地価下落による固定資産税収の落ち込みです。また、補助的な収入であった競輪なども、平成3−4年の52億円をピークに、人々のレジャーの多様化や設備の老朽化により平成11年以降はわずか1億円という超激減になってます。もはやこのままでは、平成18年以降、民間企業の破産にあたる「財政再建団体」に転落しかねないという。かーなり厳しいですね。
そうそう、厳しいと言えば、岐阜の町もそんな感じがしました。岐阜には歌謡曲の柳ケ瀬ブルースで有名な繁華街柳ケ瀬がありますが、その中央あたりに長崎屋がありました。僕も住んでた当時よく利用していたものです。今回ぶらぶら歩いてたら、長崎屋が閉鎖されてしまっていることを発見しました。「あらー」と思ったものの、この種の大規模店の出店閉店はよくあることなので、特にどうとも思わなかったのですが、閉店しますという告知の紙を見て愕然としました(写真左下)。
ごく当たり前の閉店告知文のようですが日付に注目。これ平成14年です。今年平成18年だから4年の前の話です。それがどうした?って、あなた、一番の商業地の中心のビルが4年間もほったらかしにされているわけですよ。つまり、この4年以上もの間、この空きビルを借りたり、買い上げたりして新しいビジネスをしようという企業が出現しなかったってことでしょ。まあ、実はこの物件には幽霊が出るとか(^_^)、あるいは法律関係でややこしくなって仮処分その他で譲渡不能になっているとか事情はあるのかもしれません。でも、景気が良かったら、というか特に良くなくても景気が普通だったら、こんな一等地のビルほったらかしにはされないでしょう。
ふーむ、日本経済は上向きとか言いながらも、なかなか厳しいものがあるんだなと思いながら、さらに10分ほど歩くと名鉄岐阜駅(昔は新岐阜って言ってたような記憶があるぞ)にデーンと鎮座しているPARCOがありました。岐阜にパルコが来たのはたしかバブル前だった筈です。見るとビルは赤いSALE札一色になってて、「おお、パルコは頑張ってるのかな」と思いきや、これも閉店セールでありました。おお、パルコ、お前もかって感じでありました。まあ、僕の頃にはなかった別のショッピングセンターが出来てましたので、ひたすら衰亡しているわけではないのでしょうが、日本経済の地方活力、民間活力ってどうなってんだろう?と考えさせられました。
ちなみに、京都駅前の近鉄百貨店も来年には閉店になるそうで、これまた閉店セールをやってました。どこもかしこもって感じですよね。日本の皆さんにとっては、「何を今更」って感覚かもしれませんが、そのエリアの一等商業地の巨大なビルが廃屋になっているのって、普通に考えたらかなり異常な状況ですよ。それが当たり前に思えるのでしたら、ヘンなものがヘンに感じられなくなってるわけで、それこそ「慣れたら終いや」の世界なのでしょう。
まあ、これだけの見聞でいきなり何かが見えるものでもないだろうし、何らかの結論にジャンプすべきではないとは思いますが、考えるキッカケにはなりましたね。「日本は今どうなってるのかな?」ってことを知りたかったら、六本木ヒルズなどよりも、こういった地方都市のありふれた風景、「社会の下腹部」みたいな部分の方がヒントが沢山転がっているのかもしれないなって思いました。
話がわき道に逸れてしまいました。過去巡礼の話です。
英語の表現で、”ring a bell"という言い方があります。「ベルを鳴らす」ってことだけど、「記憶をよびさます/刺激する、ピンとくる」という意味があります。 かつて住んでいた街並みを歩くことによって、沢山このベルが鳴りました。「ああ、そうそう、この坂道で自転車でコケたんだ」とか、懐かしい風景によって忘れていた記憶が次々に蘇ってきます。もうベル鳴りっぱなし。
「いやあ、懐かしいなあ、シミジミ」って感慨はむろんありますが、それだけではないです。子供の頃に見えなかったことが、大人の知識と目で見るとわかってくるという新発見もあったりします。そして何よりも、自分は一体どうやって育って、どうやって成長していったのかを、もう一度整理して考えることが出来ます。そんなことをしに行ったわけではないのですが、否応なく考えてしまいますよね。
自分が今もっている性格や発想、感性というのは、遺伝等の先天的なものを除けば、全て後天的に獲得してきたものなのですが、その「後天的」って何よ?といえば、実際に生きてきた環境や経験が自分の心に刻み込まれ、彫刻のように形作られてきたわけですよね。だから、なるほど、こういう環境のところに、こういう人々に囲まれ、こういう生活をしてたから、今の自分はこうなっていたのかと、勿論全てがクリアに見えるわけではないですけど、「ははあ」と思う部分はあります。
なんで海外に行こうと思ったりしたのか、なんでそれがオーストラリアなのか?っていうと、やっぱりこれだけ違った環境を転々としてきたってことが影響を与えていると思うのですね。環境がガラッと変ることによってステップアップしてきたって自覚はあります。まあ、子供はほっておいても成長しますから、その自然成長と環境変化が単に同時進行していただけなんでしょうけど、それでも空き地だらけの新興住宅地に住み、東京の下町に住み、京都に住み、岐阜に住みとやってたら、それぞれの街のエッセンスが自分の中に蓄積していきます。
関東にも関西にも住み、大都会にも田舎にも住み、高層マンションと下町の長屋と郊外一戸建てに住み、さらにいえば劣等生も優等生も等しく経験してきたことで、自分が得た最も大きな財産は「バランス」だと思います。自分のバランス感覚がいいのか悪いかはわかりませんけど、少なくとも今見えているものと全然違うモノがあり、両方見ないと分からないよって感覚は抜き差しがたくあります。右を見たら、左も見たくなる。もっと言えば、今見えてるものが「右」に過ぎない、「全て」ではないのだと皮膚感覚で思う部分はあります。だから、海外に行ったのでしょうね。今見えてる日本の風景は一部に過ぎないって。だから反対側も見てみたいって、もう本能的に思ってしまう。もう見ないと納得できない、気持ち悪くてしょうがないという(^_^)。
あと、環境が変ることは楽しいことだという意識は強烈にあると思います。実際、転居に転居を重ねてイヤだったか?というと、全然イヤじゃなかったですもん。変ることによって、それまで知らなかった楽しい世界を知ることが出来ましたし、自分自身が広がっていきました。だから、海外に行っちゃうってのは冒険であり暴挙ではあると思ってたけど、それを上回る好奇心と期待がありました。未知のものへの好奇心や希望というのは、要するに生きていく原動力部分なんですよね。これが無ければ人は前に進めない。そういった大事なエネルギー部分を知らない間に授かっていたのだなと思いました。昔から自覚していたことではあるのですが、今回いろいろ歩いて廻って、「まあ、これだけ色々違った世界を見てたら楽しくもなるわな」「確かに、こういう人間が出来上がっても不思議ではないわな」って実感しました。
百合ヶ丘時代は、やたらだだっぴろかった記憶があります。開発しはじめたばかりの新興住宅地ってことで、いたるところに広大な空き地があり、且つ多摩丘陵の起伏によってやたら見通しが良い場所が多かった。冬の朝、学校に行く途中、坂の上に立ったら、丹沢山地の向こうに真っ白な富士山がよく見えました。サッカーコート3面分くらいの広大な空き地(荒地)で、たった2人でキャッチボールをやったりもしてました。自然もまだまだ濃厚にありました。やたらだだっ広く、人口密度が低くて、自然があるところで遊んでたわけですので、そういう環境が気持ちいいんだってのは、かなり心臓部に刻印されているのでしょうね。別に人も要らない、モノも要らない、ただただ広大な空間さえあれば俺は幸せって。だからオーストラリアなんだと思います。日本を出る最後の頃は、そういった環境への飢餓感ってのがあったのかもしれませんし、知らない間に結構限界まで来てたのかもしれません。「あー、もー、ゴチャゴチャうっとしーなー」って(^_^)。
ということで、過去巡礼の旅は、結局のところ自己巡礼の旅だったのだと思います。
さて、前半部に書いた「現実」論ですが、ここにリンクしてきます。
別にオーストラリアに行く前でも、僕の周囲の現実というのは、非常にコロコロ変っていたわけです。その当時はそんなに意識的ではなかったし、A→Bへの通過的変化だったわけです。が、今回のように日本とオーストラリアを同時存在&等距離に眺めるような意識でいると、現実=環境というものが今までになくクリアに見えてきた気がします。
そして、何度も言うようですが、いかに現実や環境が変化しようとも、その全てを貫いて存在する唯一のものは自分だけです。じゃあ、その自分は絶対不変の確固たる存在なのかというと、全然そんなことはなく、環境や現実によって、自分もまた大きく影響を受けます。山にいれば山的な、海にいれば海的な、都会にいれば都会的な自分になります。カメレオンみたいに、緑の背景になると緑色に、茶色の背景になると茶色になったりします。ただ、カメレオンと違うのは、単に変るだけではなく、過去に体験したことがどんどん蓄積されていくってことです。
まあ、当たり前って言えば当たり前だし、全然目新しいことを言ってるわけでもないのですが、この当たり前のことが、以前よりもストンと胸に落ちた気がします。現実と自分との相互作用というか、要するに現実や環境というものは、自分を削るノミやカンナみたいなものなのね、という。
------と、書いてみたのですが、分かりにくいですよねー。「こりゃ、読んででわからないんだろうな」って思っちゃった。第一自分でもよく整理しきれていません。戻ってきたばっかりだし。また、この発想を温めてみて、育ってきたらおいおい書いていきます。
例によってこの日本帰省記は一回では終わりません。次回も続きます。今度はもう少し具体的なことを書いていきますね。
ひとつだけ書いておくと、今回は13年ぶりの日本の夏ということで、『夏!』ってのは感じました。一番印象の残ったことを一言でいえば、「夏草」です。「夏草や つわものどもの 夢のあと」の夏草です。夏草なんて日本語、使ったり感じたりするのは本当に久しぶりなのですが、本当にもう夏草としか言いようがないわなってくらいの植物相ですね。比叡山の帰り、近江坂本から京阪電車に乗ったのですが、浜大津から三条京阪までの間、やたら民家の近くをうねうねと進むわけです。古めかしい民家を覆い尽くすように緑が繁茂しているを車窓から眺めて、「何かに似てるな」と思いました。何に似てるのかなとしばらく考えたら、写真で見たインドネシアの風景に似てるんですよ。もうジャングルですよね。緑のたたずまいが、もうどうしようもなくアジアなのねと改めて感じました。今回日本で一番元気だったのは草でした。
文責:田村
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