今週の1枚(06.06.19)
ESSAY 264/自己決定 〜最後は自分で決めたい人
写真は、黄昏のCity。撮影場所は、Bradleys Head(タロンガ動物園の先っぽ)から望遠で。じっと見てるとビル群が生き物みたいです。
仕事がらみの感想を書きます。このAPLaCというHPとアクティビティは、自分で言うのもナンですけど、かなり個性が強いというか、アクがあります。まあ、本人的には「しごくまっとー」とか「全然普通」って言いたいところですが、客観的は全然普通じゃないってことも弁(わきま)えているつもりです。
モロに血液型B型気質の僕は、すでに小学校の頃から「自分の感性や意見が周囲の人々と一致するという幻想」を捨てております、はい。捨てざるを得ないですよ。「なんか普通にやってるつもりだけど他人と違ってきちゃうみたい」ってのは日常的な事実として否応なく突きつけられているわけですから。でも、本当のことを言えば、個性というものが誰にでもある限り、「どうも自分は他人と違うみたいだな」という認識は万人が持っていても不思議ではないです。持つのが正しい事実認識だとすらいえる。ただ、いわゆるB型的特徴としては(=血液型で全ての性格が決まるというのは神話だと思いますが、巷で言われているB型的性格と僕の性格はかなりの程度符合します)、他人と自分が違うことを「あんまり気にしない」というところにあるのでしょう。「ふーん違うんだ」と思うだけで、それが誇りにもならないし、困ったことだとも思わない。
そういう人間がHPなり業務をやってるわけですから、どうなるかというと、無理やり合わせようとはしなくなるのでしょう。「無理やり合わせる」というのは、周囲の動向や感性に擦り寄ることもしないし、自分の感覚を周囲に押し付けようとも思わない。じゃあ独り言を呟くだけかというと、それではアクティビティになりませんから、働きかけなり主張なり提案なりをするわけですが、その方針は、無色透明で客観的な方向になります。現地が晴れてたら「晴れてるよ」と伝え、雨が降ってたら「降ってるよ」と伝え、提案としては「傘を持って出た方がいいかも」と伝える、ということです。ワーホリでやってきたらいきなり”国際人”になれるというものではないという現実があるから、そう伝える。英語が出来ないということは、要するに毎日が屈辱と萎縮の連続だという現実があるからそれを伝える。「国際人になりたいな」という皆さんの願望には答えたいですけど、事実を枉(ま)げてまで「キミも今日から国際人」とは言わない。そーゆーことです。だって、それ以外によって立つ基準なんかないんだもん。自分の感性も他人の感性もアテにしませんから。
こういう方針は、マーケティング的にはどうかな?と思うわけですね。「どうかな?」どころか、明らかに逆行してるんじゃないかって気もします。「安全」とか「安心」という言葉に弱く、激安デフレ社会からやってきた純粋培養の日本人マーケットに対して、「安心を求める奴が一番危ない」とか「安物買いの銭失い」とか、言っちゃいけないですよね。「いや、バッチリ安心ですよ」「お買い得なモノがあるんですよ」とかいって消費者心理をくすぐらないと売れないでしょう。「バッチリ安心のサポートをするには、サポート料50万円」とか取ってたほうが絶対儲かります。単にいきなり50万とかいったら皆さんも引くから、現地生活講座受講料○○円とか継続サポート月○○円を12ヶ月一括払いで30%割引とかさ、幾らでも安く見せるトリックはあるんだから。そんなの幾らでも思いつきます。でも、なんでそれを僕はやらないんだろう(^_^)?
「擦り寄らず/押し付けず」ってのが、まあ、B型的人間の限界なのかもしれないです。自分の名前で仕事をするってのはそういうことなんでしょう。自己表現なんだから。でも、僕が大手留学会社の営業部長かなんかになったら、あれこれマーケティングの手練手管を使うと思いますよ。そこではどういう社会還元を成し遂げたかということよりも、社内において営業成績を上げることこそが僕の自己表現に思えてしまうだろうから。そして、「俺の仕事って意味あんのか?」ってあとになって思うかもしれない。自営は、そのあたりワガママに自己表現できる反面、言い訳がききません。
数あるエージェントの中からわざわざマーケティングに逆行するような「口当たりの甘くない」ことを書いてる僕のサイトを選んで戴いた方には、一種の共通点があると思います。そりゃ職業や出身地、年齢などは爆発的にバラエティに富んでます。職業でも、学生さん、一般事務、公務員や営業マン、看護士、保育士あたりは当然として、珍しいところでは、もとシェフ、もと会社社長、もと自衛官、もとレースクィーンという人もいました。来ないのはモト国会議員と高級官僚くらいでしょうか(来ればいいのに)。出身地も日本全県制覇したと思います。年齢もティーンエイジャーから最高齢76歳までお世話しました。だから、ほんとバラバラ。でも、一点共通点があるんです。
それは何かというと、自立心/独立心が高く、依存心が低いことです。こういう美しい表現をすると(来られた皆にも伝えるのですが)、皆さん「私が?ほんとかな?」という顔をされるのですが、「自分というエゴをちゃんと持ってる人」、ひいては「どっかしら頑固な人」、さらに「他人にアレコレ命令されるのが大嫌いな人」というと、「ああ、そうかも」と笑いますよね。つまりは「最後は自分で決めたい人」です。自己決定権だけは大事にしたいってタイプです。
自分で決めるまでは多方面にわたって情報を収集したいと思うのは勿論ですが、自己決定の精度を高めるためには、口当たりのいい情報だけではなく、正確な情報が欲しい、イヤなことダメなこと悪いことでもちゃんと知っておきたいってタイプ。他人の意見にもよく耳を傾けたりするけど、最後は自分で決めたい人です。
こういう人は日本人の中では実は少数派だと思います。これが多数派だったら、もっと僕は儲かってます(^_^)。いやあ、そうなって欲しいなあ、日本。でも、日本の人の多数は、「自分で決めたくない人」なんじゃないでしょうか?
「自分で決めたくない」とか、自立心や主体性がないとかいう言い方をすると、非常にネガティブな響きがありますが、でも実際そういう部分はあると思いますし、かく言う僕自身の中にもしっかりあります。またそれが常に悪いことかというと、別にそういうわけでもないです。
例えば、お寿司屋さんなどで「おまかせ」で頼みますけど、あれも自分で決めていないっちゃ決めてないです。デジカメやパソコンを買うにあたって、お店の人の意見を聞き、「一番売れているモノ」とか「イチオシ」のものを買うという場合もそうです。友人の結婚式に幾ら祝儀を包もうかというときに、同じく出席する連中に「幾らにする?」と聞いて廻ってそれに合わせるという場合もそうかもしれない。だから留学やワーホリなどで「皆、どうしてるんだ?」と知りたくなっても不思議ではないし、また「どの学校がイチオシですか?」と聞き、それに従うのもあながち不自然でも不合理でもないでしょう。
このように「自分で決めない」場合も多々あり、それもまた合理的であったりするわけです。なぜそれが合理的なのかというと、まずもって情報量と判断能力の差でしょう。お寿司のおまかせのように、その日その日のネタの良し悪しという最新情報は板前さんしか知りませんし、何をどの順番で食べるのが最も美味しいか、そこはプロに任せておいた方が安心だということです。情報も判断力もはるかに劣る素人が、自分勝手に判断していても外す可能性は高いってことですね。
第二に、日本人の同質性です。格差社会だなんだと言われていますが、世界的に見ればまだまだ一枚岩の単一カルチャー社会であることから、大体皆さん似たようなライフスタイル、似たような財力、似たような好みをしています。自分もまた社会の平均的なパターンにいるという自覚があるならば、皆が選んでいるものを選んでおけば間違いはないわけです。まあ絶対に大丈夫かというと全然そんなことはないですけど、確率的には安全係数が高い、あるいは高いような気がするでしょう。これが第二の理由。実際、日本のCD屋さんの店頭を見ると「売れてます!」系の表示があるし、どんな商品、どんな傾向についてもベストテン的な発想が根強い。こちらにも売上げベストテン的な発想や商品陳列もないことはないですが、「無いことはない」という程度でしょう。
第三に、時間がないこと、効率の問題です。自分で決めるには膨大な情報収集をしないとなりませんし、玉石混交の情報群を自分なりのフィルターに通して検討していかねばなりません。大変です。それが面白いところではありますが、そんなことやってる時間もないものもあります。例えば、忙しいビジネスマンがフランスへの家族旅行を企画する場合、観光名所その他を必死に調べている時間がないので、無難なところでパックツアーにおまかせってケースです。
それぞれにもっともな理由です。だから、何が何でも全ての物事を自分の一存で決めなければならない、決めない奴は主体性が無いなんてのは暴論だと思いますし、僕もそんなことを言うつもりはありません。
このように自分で決めないことに合理性があるのを重々承知の上で、それでもなお「決められるものは自分で決めよう」と思う人とそうでない人の差はあります。医療という素人の入り込む余地のないような専門性の高い分野ですら、「患者の自己決定権」というものが問題になっています。手術をするかどうかとか、あくまで抗がん剤でガンと戦うかそれともホスピスのターミナルケアを受けるか、とか。お寿司屋さんでも、おかませにはしないで、「今日は何かいいもの入ってますか?」と聞いて注文していくことも出来ます。デジカメ購入でも、自分で幾つかのポイントを優先順位をつけてリストアップして(@価格、A画質、B色彩、Cズーム機能、D互換性など)、店員さんに聞くときでも漠然と聞くのではなく、ポイントを絞って聞いていったり。他人と同じ日本社会の平均人であることは自認してても、それでもなお他者との1ミリの差を大事にしようとこだわる人もいます。結果的に他者と全く同じになったとしても、そこに至るプロセスを大事にする人はいます。
個人の資性の差なのでしょうか、バリバリの専門世界でありながらも、ちょっとでも自己決定できる隙間があったらそこに切り込んでいって自分で決めようとする人と、少しでも他人に決めてもらえる余地があるならば他人任せにしたい、自己決定から逃げるだけ逃げたいという人はいるでしょう。
前者の自己決定にこだわる人=まあ、「自己決定にこだわる」と改めて言葉にして意識はしていないでしょうが、つい生理的、無意識的にそうしたくなっちゃう人ですね、僕はこういったタイプの人の方が好きですなのですが、それはこの人達には一つの大きな美点があるからです。それは、「他人のせいにしない」「自分で責任を取ろうとする」部分です。
自己決定というとカッコイイ響きがありますが、実際には大変です。だって、自分で決めた以上、「騙された」とか他人のせいには出来ないですからね。その決定に伴って何か問題が生じた場合、「言われたとおりにやっただけです」という言い訳も出来ない。自分のオトシマエは自分でつけられる、少なくともつけようとしている、さらに少なくともつけるべきだとは思っているでしょう。
自己決定=自己責任ですから、好ましからぬ結果が出た場合にでも、それを全部ひっかぶらないとなりません。また、周囲から「ほら見たことか」「意地を張るからだよ」と非難を受けたりもするでしょう。なかなか根性が必要です。さらに、結果責任をかぶる以上、選択も慎重になるでしょうし、情報収集、分析、学習などの努力も必要とされます。まず理解しなければ判断もできませんからね。決めるのも大変ならば、結果についてもアレコレ言われて大変なわけで、そんな苦労をするくらいなら、他人に決めてもらって、いざとなったらその他人のせいにすればいいやってやり方の方がはるかに楽チンです。
でもその楽チンなことをやりたくないタイプの人というのは実在します。なんでそんな大変な思いをするのに自己決定にこだわるのかというと、おそらく本人的には全く自覚がないと思いますね。単に「そーゆーもんだ」と思ってるだけだと思います。僕自身そうですし。いつトイレに行くか、いつ何を食べるかなんていちいち「自己決定」とか大上段に構えて思いやしませんが、それと同じことですね。
僕が無料でサービスしていられるのも、こういう自己決定できる人が対象だからだと思います。この種の人は付き合ってて気持ちいいですし、仕事的にも楽です。もちろん、「押し付けられるのが大嫌い」な人達ですから、素直に僕のアドバイスなんか聞きません。聞かせるためには事実と原理という客観的なことを言うしかないです。これは冒頭の僕の方針に合ってます。なんでも自分で理解して決めてきた人達ですから、理解力は高いし、納得すれば「あ、なるほど」と言ってくれる。楽なんですよ。
これが出来るだけ自分で決めたくないタイプの人だった場合、世話する方は大変なんですよね。全然自分で決めてくれないから、煮えきらないことおびただしい。「じゃあ、コレにしなはれ」というとそれにしようとする。あまりに素直なんで、「ちょ、ちょっ、僕に言われたくらいでそんなに簡単に決めたらアカンよ」とセーブかけないとならない。それにどんな決定をしようが、100%完璧なんてことはこの世にないわけで、必ず幾らかの不満は残る。その不満をいちいち愚痴られたり、「騙された」みたいに言われたらたまったもんじゃないですよ。アフターケアみたいに延々愚痴につきあわされたり、他所であれこれ悪口言われたりしたら、やってられないでしょう。このやってられなさは、やはり金銭で補償して欲しいから、無料なんかとんでもない!ってことになります。「お守役料ちょうだい」って思うでしょう。
それに、ここが一番大事なんだけど、自己学習→自己決定→自己責任というのは、バリバリの異質社会である海外でやっていくためには必要な資質なんだと思います。だって、こっちにきたら自分自身がガイジンであり、自分自身と同じパターンでやってる人間なんかまずいません。だから周囲のこともアテにできない。もっとも、自分と同じような現地の日本人グループの中にいれば別ですよ。同じパターンというこれまでの日本方式が通用しますからね。しかし、そんな日本と同じことやっててもしょうがないじゃん、それじゃ銭湯の背景絵が日本からオーストラリアに変わっただけで同じじゃんって思う人は、やっぱり全部自分で理解して、自分で決めないとならない。
その場合、周囲のオージーやその他の国の人の動向を観察するにしても、闇雲に猿真似してもダメだから、なぜ彼らはそうするのか?という構造理解から入り、エッセンスを抽出し、自分にも適用できるとなったら真似てみるという、情報の複雑な蒸留作業をしなければなりません。これまでずっと自己決定でやってきた人にとっては、このプロセスはお手の物でしょう。周囲の日本人の動向を見ても、「なんで皆そうするの?」と構造理解から入り、「ああ、なるほど」と思ったらそうするということをしてきたわけですからね。
また、個人主義が徹底している西洋社会においては、気持ち良くほっといてくれるし、質問したらあれこれ答えてくれるけど、個人の自己決定権までに踏み込むようなことは普通しません。"I don't thik that is good idea. But, anyway, it's up to you"(僕はそんなにいい考えだとは思わないけどね、でも、決めるのはキミだよ)って言われます。こういう環境は自己決定をしてきた人たちにとっては気持ちのいい環境ですけど、そうでない人には全く指針が与えられないってことになります。「皆さんそうしてます」でやってきた人にとっては、その「皆さん」がいないし、いたところでバラバラに行動してるから参考にしようがない。誰に聞いても、「それはキミが決めることだろ」って突き放されてしまう。でもって、「こうしなさい」と書いてあるしょーもない広告文句に引っ張られるとか。
自己決定意識の強弱については、本当に人によって様々で、黒組と白組という具合にスッパリ分かれるものではないでしょう。灰色って人もたくさんおられるでしょう。白68対黒32みたいな感じだと思います。しかし、それでも傾向の差というものはあるし、それは色々な局面で現われてきます。例えば、自己決定したい人でも皆の動向は気になります。他人の動向を気にしたら即自己決定意識薄弱ってもんでもない。しかし、他人の動向をあくまで参考としてとらえ、「なぜ皆そうするのか?」という理由部分に注目するか、「結局どうするのか?」という結論部分に注目するのか、その差はあるでしょう。
これは物事を全体的、構造的に理解していこうという傾向の差にも繋がります。なぜなら構造的に理解しないと、自分で決められないからです。デジカメを買うにせよ、なぜこんなに商品群が多いのか、どういう差があるのかからはじまって、価格重視、コンパクト性重視なのか、画質重視なのか、なぜ画質を求めると重くなったり大きくなったりするのか光学的な構造を理解し、、、、とやっていくわけです。ただし、これは男女差もあります。男性はわりとメカニカルで客観的な構造分析が好きですよね。商品選びの掲示板なんかでも、細かなスペックについての意見交換をしているのは男性が多いです。女性は、むしろ「自分との関係性」に力点をおく傾向が強いように思います。細かなメカの差というのはどうでもよく、自分のライフスタイルや感性にマッチするかどうかが重要だったりします。だから色や形が可愛いということも重要なファクターになります。ただ、それも一つの「構造」なんだと思います。男性が「理論構造」だとすれば、女性のは「感性構造」だといえるでしょう。自己決定するためのフォーマットというものを持っていることに変わりはない。大人気でイチオシ商品だったとしても、自分の感覚でいえば今ひとつピンとこない、「かわいくない」と思えば買わないわけですし。どちらが良いということでもなく、また男女必ずそうなるというものでもなく、そういったアプローチの角度というものはあります。
いずれにせよ自己決定タイプの僕としては、このHPでもあるいは対面での説明でも、自己決定するための構造理解を助けるように述べていく傾向があります。学校の決め方ひとつとっても、理論構造的に、英語という言語のなりたち、語学が上達するメカニズムからはじめて、現地の生活の実情、そこにおける語学学校の位置付け、住まいとの関連性という巨大な全体構造を言います。それが分からなければ決めようがないからです。しかし、同時に感性的な表現も多用します。「温かくフレンドリー」な感じがいいか、「ビシッと一本通った質実剛健さ」がいいかとか。
それゆえ、僕のHPや説明はいきおい膨大な尺を必要とします。もっと簡単には書けるけど、簡単に書いたら意味がなくなっちゃうんですよ。「だから、結論的にはどうしろというのだ?」とイライラしながら読んでいても、最後には「正解なし」といって突き放されてしまうから、途方に暮れてしまう人もいるでしょう。自己決定タイプでない人にとっては、これほど疲れて役に立たないサイトはないでしょうね(^_^)。ご苦労様です。でも、自己決定タイプの人には、脳内の構造理解をトラクターでドドドと耕したり、盲点のような部分をビシバシ指摘するからいい刺激になって面白いでしょう。
僕自身は無色透明で事実重視で書こうとしてるのだけど、最初のスタンスが自己決定タイプ用となってるので、それが強烈なバイアスになり、それを良しとする人も又、一定の傾向を持った人になっていくという構造がここにあるのだと思います。
しかし、ほんと、ワーホリや留学、永住だったら尚更だけど、自己決定しないとどうしようもないんじゃなかろうか。それは、世界というのがそういう構造で成り立っている、世界史の流れ自体がそうだってことです。だって、民主主義の広がりとか、個人の人権の尊重という流れで人類は進んできてるわけで、いずれにせよ自己決定重視でしょ?封建主義のように殿様や王様がまずいて、人民はひたすら絶対服従で自分で決めることは出来ないという制度から、民族自決、国民主権、住民自治という自己決定の流れになっている。個々人の生活でも、結婚相手も親や周囲が決め、本人の意見は全く配慮されなかった昔から、自分で決めれるようになってます。それは職業選択にせよ、結婚するかどうか、子供を産むかどうかの決定についても広がっているのが趨勢でしょう。いまどき、女性は結婚したら相手の家に入り自分を殺して奉公しなさいって押し付けても、言うこと聞かないでしょうし、押し付けるのが正しいと思う人も少ないでしょう。だから自己決定は歴史の流れだということです。
日本の場合は、同質カルチャーという特異な土壌があるから、こういった等質カルチャーによって個人の自由意志が圧力を受け、結果的に封建制の名残を温存したり、共産的な方向に流れたりする特徴があります。だけど、一歩海外に出たら、そういった環境圧力もまた消滅するわけで、前後左右の圧力に逆らわなかったら自然にポジションも決まるという決め方は通用しないです。
それに関連して思いついたのだけど、今回の村上ファンドに関するマスコミや人々の意見もなんだかなと思います。東京地検が逮捕し、本人がインサイダー取引を自白したら一転して悪人扱いだし、その昔投資した日銀総裁まで槍玉にあげたりして。なんか昔小学校の頃にやってた「エッチきった(地方によってはエンガチョともいうらしい)」イジメ遊びみたいなもので、誰かをエッチであると断定したら、その人間に触った奴もエッチになってまた糾弾されるという。善か悪かの判断は、本来その人の個人の倫理観でやればいいわけで、お上が逮捕しようがしまいが関係ないでしょって気もするのですよ。いや、全く知らされてなかった醜悪な事実が暴かれて(過去に殺人を犯していたとか)、「そうかそういう人だったのか」というなら話は別ですよ。でも、今回の日本テレビ株の事件は、大体の事案の概要は誰もがリアルタイムに知っていたではないか。それが証券取引法というきわめて専門的技術的な業法にひっかかるかどうかというのは、殺人とか強姦などに比べてかなり形式的な議論です。説明されても「ふーん」という感じで、なんかそれが「悪いこと」という実感が薄いですよ。
だいたい自然な発想で思うのですが、ライブドアの日テレ買収攻防に関わる村上ファンドの立ち位置というのは、インサイダーというよりも相談役とか当事者に近い。あれが両者が最初から連合軍を組んで日テレ株を買い占めて、最終的に高値で手放したとしたらインサイダー取引とはいわんでしょう。株式の買収活動というのはそういうものなんだから。それが、当事者なんだか第三者なんだか微妙なところにいたから「第三者がインサイダー情報を利用して儲けた」って話になってる。インサイダー取引というのは、その会社に縁もユカリもない純然たる第三者、例えば暴力団とか政治家などが、会社内部の人間を買収して情報を引き出して儲けるような場合をいうのでしょう。村上ファンドの場合は、当事者がわざわざ相談にいったりしてるわけだし、世間にも最初から関係者として登場しているわけで、これをインサイダー取引だといわれても、まあ、理屈のうえではそうなるのかもしれないけど、「そうなんかなあ」って釈然としない部分もあるのですよ。
でも、それを、検察が逮捕したらそろいも揃って、極悪人みたいに罵るのはどうかと思うのですね。善悪の判断をお上に任せてしまってるんじゃないか。それを「許しがたい重大な背信行為」とかいって口をそろえて非難するなら、検察が動くはるか以前に、リアルタイムに言えた筈でしょう?マッチポンプのように火をつけるだけつけて、あとは知らん顔で高値で売り抜けて儲けるってやりかたは、「あれってインサイダー取引じゃないの?」って疑問を呈することも幾らでも出来たはずです。でも、その頃には金融界の寵児のように持ち上げておいて、一点何かのキズが発覚したら手のひらを返すように非難するのは、ヘンというか、偽善的な感じもします。同じようなことはいっぱいあります。政治家のスキャンダルでも、「どーでもいーじゃん、そんなの」ってのが多い。秘書の給料がどうしたとか、年金払ってなかった時期があったとか。そんなこといってたら有能で、誠実な政治家が一生懸命頑張っているときに、過去に駐車違反で切符切られたくらいの事実で失脚するみたいなことが起こらないとも限らない。この日本の、妙に偽善的な建前論を僕はかねてからキライでしたし、それを自己決定にからめていうなら、倫理的判断も自前の頭と心で出来んのか?って気がしますね。余談でした。
余談ついでに言えば、日本のTV番組、特にバラエティ番組なんか見ててムカつくのは、ゴチャゴチャ字幕が出てきたりして、さあ、ここで泣け、ここで笑え、こう感じろ、こう考えろといちいち指示されてるような気がすることです。「おもしろ〜い」とか「かわい〜い」とかTV画面に出てきた日には、ソファのクッションを投げつけたくなりますな。面白いかどうか、可愛いかどうかなんかは見てる俺が決めることであって、お前がいちいち指図すんじゃねーよ、僭越の極みじゃボケナス!と罵りたくなったりするわけです。まあ、罵るほど爆発的なパワーは出てこず、「なんじゃ、こりゃ」とヘナヘナ脱力しますけどね。
さて、話を戻して、自己決定するようにしておくといいよって話です。歴史の流れがどうであるとか、海外とかいうことを全部抜きにしても、自己決定タイプは、いちいち自分で学習して自分で決め、自分で責任を負っているから、生きていけば生きていくほどに物事を学んでいけます。失敗こそ学習経験の宝庫です。また、責任の重さはその人間の知性を磨きます。でも、他者の言うことに従っていたら、幾ら何をしようともあんまり学習しません。自分で選んでないんだから学びようもないですし、学ぶとしても「○○に騙された」「○○の言うことは正しい」とかそんな程度でしょう。これは、年齢を重ねるにしたがって大きな差になって現われてきます。自分の子供に向かって、世界と日本の現状を正確に説明し、将来予測を述べ、その根拠を示し、そしてお前の選択肢はこうなると思われると自分の意見を言えるでしょう。また、子供に対して自分の生き方を説明できるでしょう。年齢を重ねるにつれ、肉体的には衰えてきますから、結局賢くなるという一点でフォローしないとならないわけです。賢くなることこそが、最大の老後対策だと思います。
さらに、オーストラリアにワーホリや留学で来るという時点で、既に大多数から外れています。いくらブームだ流行りだといっても、18-30歳までの日本人の人口数千万人からしたら、年間1万人弱(オーストラリアへのワーホリの人口、留学も似たり寄ったり)というのは、1000人に一人とまでは言いませんが、日本社会においては数百人に一人レベルの絶対少数者になることを意味します。これだけ超少数者になっておきながら、他者の動向を気にしたところで無意味でしょう。ワーホリ生活や準備について「皆はどうしてるの?」と問いかけたところで、「皆はそもそも行かない」ってのが巨大な事実ですから。
最後に、男女比率でいえば、一般にワーホリでも留学でも女性の方が多いですけど、僕のところに来る人はそれ以上に女性比率が高いです。今年になってからの比率を見ても、7−8割は女性です。こんな字数が多く、理論も生硬なむしろ男性的なHPでありながら、なぜに女性が多いのかというと、僕の推論ですけど、女性の方が自己決定に慣れているからでしょう。
日本社会において、女性の方が自己決定をしなければならない機会は多いです。男の場合、特に学校の勉強が出来たりすると、生涯にわたってズラッと門戸が開かれます。いい大学にいき、一流企業や官庁に入り、懸命に働き、カミさんを貰い、業績をあげ偉くなりつつ家族を養い、退職して悠々自適というサクセスストーリーが目の前に開かれます。あんまり選ばなくていいのですよ。ところが、女性の場合、そもそも高校卒業時点で、就職、短大、4年生大学、専門学校とバーっと広がります。さらに就職についても総合職や一般職があり、仕事と結婚という選択があり、さらに出産育児と仕事という選択があります。女性の十代後半から30代までは人生の岐路の連続です。岐路に立たされれば、誰だって物を考えます。特に結婚や就職ともなると、インディビュアル(個人的)過ぎて他者の動向はあまり参考になりません。自分の頭で考えて自分で決断しなければならない。もちろん男性でも、一流大学一流企業に入りながら自己の一存で辞めたり、方針転換する人はいます。でも、それはそういう人もいるという程度ですが、女性はほぼ全員がそれをします。だから自己決定に慣れているといってもいいです。
ところで、あなたが自己決定タイプかどうか、それは「他人にあれこれ指図されるのが大嫌い」かどうかという分かりやすい(^_^)判別法がありますが、他にもあるでしょう。それは、あなたにまつわる全てについて、一応理由が言えるかどうかです。例えば、どうしてその服を着ているのか?なぜ携帯電話をその機種にしたのか?なぜ今の仕事をしているのか?なぜそこに住んでいるのか?なぜカーテンの色はそうなのか?なぜ靴はそれなのか?なぜ本棚は○系の本が多いのか?なぜ箸や茶碗はそのデザインのものなのか?なぜそんな生き方をしてるのか?なぜ、なぜ、なぜ?と全てにわたって聞いたとしても、まがりなりも「ああ、それはね」と理由が言えるかどうか。
勿論、「なんとなく」という答もあるでしょうし、そうとしか言いようがない場合もあるでしょう。しかし、自己決定をしてきた人は、自分で決めてきたことだから、それなりに理由が言えるはずです。なかには、僕のように「よくぞ聞いてくれました」とばかり延々自説を展開する人もいるかもしれません。ちょっと試しに自分でやってみたらいかがですか?まず手始めに、なぜこんなサイトの、こんなページを読んでいるのですか?
文責:田村