今週の1枚(06.05.08)
ESSAY 258/「エラい」ってどういうこと?
写真は、Cremorne Point。撮影したのは去年の8月ですから、こちらでは真冬です。老カップルが日向ぼっこしてるわけですね。ちなみに、この反対側にはシドニーハーバーがドーンと広がってます。Essay220番の写真が同じときに撮ったものです。ハーバードーンが見えます。
まず、本題とは関係なく、忘れないうちに書いておきます。オーストラリアのワーホリの規制が変わります。「より自由に」「より長く」変わります。すなわち、@学校に通学できる期間が3ヶ月に制限されていたのが、一ヶ月プラスされて4か月に延びた、A同一雇用主で働けるリミットが3ヶ月だったのが一気に6ヶ月に延びた、B2回ワーホリ資格を得るために、ファームでの収穫作業を一定期間やることになってますが、これが収穫作業に限らず、漁業、林業などにも広がった=日本語では「ファームでピッキング」という言い方になってますが、より正確には「第一次産業における季節労働」(seasonal work in primary industry)です。2006年7月1日から施行されます。
細かなことは、移民局のワーホリのページ、Upcoming changes to the Working Holiday Maker Programmeに書いてあります。また、このアナウンスに背景にある国内情勢について解説した新聞記事、゛Apply within゛(SMH 06 MAY 2006)もあります(記事はあと2週間くらいは読めると思います)。
というわけで、とりあえずこのHPで関連するのは「ワーホリの通学期間が4ヶ月になった」ということで、関連各ページを改訂しないとならないのでしょう。が、これがまたアチコチに書き散らしてますので、完全改訂を待ってたら何時になるやらって感じなのでここに書いておきます。まあ、そんなに大変化ってほどではないですが、オーストラリアの国内の趨勢として押さえておくべきは、バブル時代の日本と同じってことです。あの頃の日本は、いわゆる3K職業が不人気で、どこも強烈な人手不足に陥り、外国人労働者を大量に受け入れましたが、それと似ています。だから、将来的にオーストラリアが不況に陥ったら、こういったワーホリ制度もまた、速やかに変更されてしまうかもしれません。そのあたりの背景事情は知っておいて損はないと思います。
なお、オーストラリアがワーホリ条約を締結している国はどんどん増えています。ちょっと前まで7カ国くらいだったのが今は20カ国まで増えています。今の時点で、台湾人ワーホリやら、エストニア人ワーホリも来てますが、今後さらにイラン、タイ、チリ、バングラディッシュ、トルコからもワーホリがやってくるようになるようです。どんどん時代は進んでいってるって感じですね。以上、トピックでした。
さて、今週は「エライ」というのはどういうことなんだろう?というテーマで書きます。
広辞苑で「偉い」という項目をひくと、「すぐれている。人に尊敬されるべき立場にある」となっています。
うーん、これだけではよく分からないです。何かに優れていることがすなわち「偉い」ことなのかしら?まあ、広辞苑相手に揚げ足とっても仕方ないのですが、泥棒さんで、他人の家に忍び込んだり金目のものを窃取する技術が「優れている」からといって「偉い」って言うのかな?と。優れているといっても、単純に技術やスキルや容貌などが他人よりも秀でているんじゃなくて、なんというか人間的に優れていないと「偉い」という気にならないようにも思えます。また、「人に尊敬されるべき」といっても、どういう立場に立つと尊敬されるのか?ですよね。
広辞苑は語義を述べればそれでいいのであって、その本質は何かとか、どうあるべきかということを答えるものではないので、それはそれでいいのでしょう。しかし、「偉いってどういうこと?」という疑問は残ります。
なぜそんなことに疑問をもつかというと、日本ってまだまだ封建的な「エラさ」が残っているように思うからです。「身分」の上下と、それに伴う全人格的尊重と従属。「お殿様」みたいなエラさです。
ずっと昔に修習生として岐阜の裁判所にいたことがあります。そこではやっぱり裁判官はエラいわけですが、その中でも特にエライ人、例えば名古屋高裁の長官が視察とかにやってくると、裁判所の職員の方々のご苦労は大変なわけです。赤絨毯をひいて、全員土下座でお迎え、、、なんて、ことはしないですけど、でも長官本人が名鉄の切符を買って、ひとりでトコトコやってくるわけではなく、専用車にお付きの人がいて、また迎える方も裁判所の玄関先でズラリと並んでお迎えし、そのあとの視察の段取りも準備万端整えるわけです。懇話会なんてものがあると、その席順を決めるのが大変ですし、お茶やケーキを出すタイミングも綿密に打ち合わせ、懇話会で誰がどの順番でどのようなことを発言するかなんてことも打ち合わせたりします。「くれぐれも失礼のないように」「大過なく、滞りなく済ますように」という基本コンセプトのもと、全ての物事がスムースに展開します。「あんなジーサンひとりに、なにもそこまで気をつかわなくても」と外野席の若造の僕は思ってしまったりもしますが、「はあ、そういうもんなんだ」って社会体験もします。
でも、本来の「視察」という目的を徹底するなら、隠密のように長官みずからがお忍びでチェックしにやってきたっていいんじゃないかと思ったりもします。傍聴人のふりをしたりしてさ。また、地方支部の勤務条件などで、地方の職員と長官をはじめとする本庁職員との間で、掴み合い寸前の激論が戦わされたっていいんじゃないか?という気もします。でも、そんな具合にはならず、ほとんど儀式のように(まあ、内容のある話もするのでしょうけど)、滞りなく済んでしまったりします。
この種の光景は、職場や団体が違おうとも、日本全国津々浦々で今日も展開されているでしょう。「会長直々のお出まし」とかいって、どっかの外国の皇族を迎えるかのような厳戒&VIP待遇で執り行うという。医師の世界でも、「なんでこんなに」というくらい医者が威張りくさってるケースもあるようです。特に地方の私立病院の院長など、天皇みたいな権力を振るっているとかいう話も聞きます。それはもう、大学教授であれ、政治家であれ、そのあたりの地元の顔役的な人物であれ、ヤクザの組長であれ、普通の会社の普通の重役であれ、学校の教師であれ、芸能界であれ、法曹界であれ、スポーツ界であれ、威張ってる奴はいるし、絶大な権力をふりかざし、周囲の者に有形無形的全人格的、全人生的従属を強いるという。
もちろんそういう人ばっかりじゃないですよ。頂点に立ちながら、腰が低く、目下の者にも敬語を忘れず、思いやりも忘れない立派な人は沢山います。むしろそういう人の方が多いかもしれませんし、僕がこれまでの人生で出会った「エラい人」は、そういう立派な人も多かったです。まあ、それなりのポジションにいくためには、それなりに知能程度も高くないとならないでしょうし、人格的に優れてなければならないってこともあるでしょう。頭脳明晰であれば、そんな子供みたいに威張り散らしてることを恥かしいと感じる程度の知性はあるでしょう。一方、組織に必要とされる緊迫感を醸し出すためには、やはり仲良しクラブ的にやっていてはダメで、ビシバシ決めるところは決めねばらならず、上に立つ者はある程度恐がられたり憎まれたりして丁度いいってこともあるでしょう。しかし、なんの合理性もなく、臆面も無く、ただ単純に威張り散らしている人は確かにいますし、その弊害は、ダイオキシン汚染のように周囲に染み渡っていきます。
また、本人はマトモでも、その家族が馬鹿で威張り散らしているケースもあるでしょう。政治家や財界とのつながりの深い企業は、取引の一環として、彼らのドラ息子やドラ娘を従業員として採用しなければならなかったりもするでしょうし、社内でも「若様」のように扱ったりもする。上司の息子の運動会に駆りだされた若手社員は、ビデオカメラ片手に「坊ちゃん、がんばれ」とか声援をおくらされたり。
そういえば、今の長野県知事である田中知事の一つ前の知事、長野オリンピックに際し、スピードスケートがミズスマシみたいという「ミズスマシ発言
」をして物議を醸した人物ですが、その奥さんってのが姓名判断に凝っていて、夫の部下(つまり長野県庁職員)にあれこれ改名を勧めて、実際に改名した人も結構いたとかいう話を聞いたことがあります。これ、推測ですけど、嬉々として改名なんかしてないと思いますよ。日本の地方政治なんか行くところに行けば封建時代の大名政治みたいなものだから、「北の方様(奥さんね)からのお言葉であるぞ」「はは、ありがたき幸せ」という感じで、殆ど逆らうことも出来ぬまま、親からもらった名前を変えさせられたりしたのでしょう。知事にそんな権力があるわけもないし、ましてやそれの配偶者というだけで他人の人生にそこまで干渉できる理由など何処にもないです。でも、そういうことがまかり通ってしまう。
オーストラリアで病院に行く機会はあまりないのだけど、行く度に「おお」と思うことがあります。それは医師が日本ほど偉くないことです。いや、リスペクトはされてますけど、無駄な殿様扱いはしないってことです。診察を受けるときは、初対面の人間同士、きっちり挨拶をします。"Hello, I'm Dr Smith, nice to meet you"とかいって握手をします。日本語でいえば、「あ、どうも、医師の田村です。今日はよろしくお願いします」って診察室でいちいち言ってるよなものです。これ、人間関係として当たり前だと思うんですけど、日本ではあんまりそうなってないです。意識的にそうなろうと勤めているお医者さんは沢山いますし、挨拶をしない医師だって特にエラそうに振舞おうというつもりはないのだろうけど、全体のカルチャーとしては違うなあって思います。また、ある特定の局、外科なら外科、その中でも手の怪我などの部局で、待合室に患者さんがずらっと座っていたら、そこでどんどん治療をしてしまったりします。包帯を取る係、消毒をする係という流れ作業で人がやってきて、その中でお医者さんもやってきて、「ハロー」とかいいながら、野戦病院みたいにお医者さんが座ってる患者さんのところを廻っていって診察し、指示する。えらく合理的なんですな。そう動いた方が全体の効率がよければ、そうするという。そこにはお医者さんはエライんだから殿様扱いしなきゃというタメライは微塵もなさそうです。皆さんレスペクトはするけど、医師自身も含めて、医師を特別扱いしなきゃいけないほどエライとは誰も思ってないようです。
裁判所なんかもそうですが、日本の法廷は裁判官がひときわ高い法壇に座っています。文字通り「高いところからモノを言う」って感じ。アメリカなんかは未だ高いみたいですが、ヨーロッパの法廷などでは全く同じ高さでやってるところもあるそうです。これはもうハッキリと意識的にそうしているらしいです。本質的に対等な人間である裁判官が、対等な他の人間の運命を決定するというのが、裁判の偽らざるシビアな真実です。要するに「そこらへんのオッサン」に自分の人生を決められてしまうわけです。敢えてその事実から目を逸らさないようにするためにそうすると。高い壇上に座ったり、いかめしい法服を身につけたり、いわゆる「法廷の権威」という小道具を使えば、「そこらのオッサン」感覚は薄れて、なにやら神様の裁きのようなおごそかな感じがしますし、裁判官としてもやりやすいでしょう。しかし、そうやって逃げないようにしようと。裁判が他人から信頼され、自らの権威を勝ち取ることが出来るとするならば、それはひとえにその裁判内容の公平さと公正さ、正しさによってのみである。「エラい人の決めたことなんだから、従え」というやり方はしない。
さて、幾つか例を挙げましたが、日本社会には、どことなく「お殿様的なエラさ」というものが残っているように思います。
ここにAとBの二人の人間がいます。それぞれのエゴがあり、それぞれにワガママな意見や感情があります。このとき、AのワガママがBのワガママに優越する場合に、AはBよりも権力があり、AはBよりもエライというのでしょう。エラさとは、他人の意見や感情をねじ伏せても自分の意見を押し付けることが出来る地位のことを言うかのようです。どんなにBの意見の方が合理性があろうとも、スジが通っていようとも、Aに言われたらBは黙って従うしかない。そういうことは日本に限らず人間社会に普遍的にあります。問題は、なぜAが優越するのかその根拠、そしてどこまで優越するのかその範囲だと思います。日本の「お殿様」的なエラさの場合、根拠は「殿様だから」であり、その範囲は単に職務や機能上の面に留まらず、私生活や近親縁者にも及んでいる。
しかし、本当にそれでいいのか?それって正しいことなのか?それで日本は良くなるのか?それで人々の幸福は増進されるのか?改めてボクは問いたいわけです。「エライ」とはどういうことなのか、僕なりにもう一度整理してみたいと思います。
人間の偉さとは、大きくわけて二つの種類があるように思います。一つは、自然的・本来的・人間的な「偉さ」さです。お釈迦様やキリストや、マザーテレサや良寛さんのように、慈悲や思慮の深さ、高い理想と、それを貫徹するための自己犠牲的な行動。もう、誰が見ても「偉い人」、つまり「偉人」です。これは分かりやすいと思います。また、そこまでハイパーにエラくなくても、縁の下の力持ち的な報われない仕事を皆のために黙々とこなしている人とか、周囲から馬鹿にされても正しいと信じることを貫いてる人とか、自然と「なかなか出来ることじゃないよ」「頭が下がる」「あいつはエラい」って言いたくなるような人はいます。このくらいだったら結構皆さんの周囲にもおられるでしょう。
こういったパターンのエラさの根源は何かというと、結局、万人が認める人間の美徳を豊富に持っているからなのでしょう。思いやりが深いとか、意志の力が強いとか、正義感が強いとか、そういう美徳が、周囲の人を感動させ、その人を偉く感じさせるのでしょう。もっとも自然的、人間的、そして本質的な「偉さ」です。
僕個人としては、「偉さ」なんてこの自然的な偉さだけで十分じゃないかと思うのですが、複雑な人間社会は、もう一つのパターンの「偉さ」を開発します。機能的・組織的・目的的な偉さです。例えば、軍隊とか警察とか消防などでは、一定の人間集団で最大の機能を発揮することが求められます。軍隊においては、作戦を遂行し、敵を撃破するという目標に向けて一糸乱れぬ集団行動を行う必要があります。その組織の機能を最大限に発揮するためには、「上官の命令は絶対」というくらい厳しい鉄の戒律を打ち立てます。今が勝機!というときに、上官が「突撃!」と命令を下したら、部下は何も考えずに突撃しなくてはならない。「突撃すべきかどうか、皆で話し合おう」とかやってたら勝機を逃すし、反対に全滅してしまうかもしれません。このようなバリバリな機能集団においては、メカニカルなまでの機能性が求められますから、「ブレーキを踏んだら車輪が止まる」というように命令は絶対的にしておく必要があります。あんまり民主的にやってたらダメなのですね。上命下服の原則を徹底するために、上官はエライというカルチャーを作っておかないとならない。これは民主的な話し合いに価値をおく西欧社会でも同じです。軍隊などは特別。
同じように、その組織の機能性が高ければ高いほど、機能を追い求めれば追い求めるほど、非民主的な指揮命令系統が必要とされるのでしょう。試合に勝つという純粋な目的遂行のためのプロのスポーツ集団であったり、利潤追求という目的を追求するための営利法人(つまり企業)では、監督や上司の言うことは、軍隊ほどではないにせよ絶対だったりします。また、リーダー役の人間に最終決定権を与えなかったら、その集団は強くならない。
これが機能的なエラさですが、これに加えてもう一つあります。これは儒教的なエラさです。
長幼の礼とか師弟の礼といったもので、年長者は年少者よりもエライ、師匠は弟子よりもエライとする儒教的な人間関係のパターンです。儒教ではなぜそういうのか、孔子は何を考えて礼法を唱えたのか。僕は孔子ほど偉く(自然的な意味で)ないので、よく分からないのですが、僕なりに解釈すると、人間集団が最も円満に生きていくためにはどういうルールを作ったらいいのか?というのが、儒教礼法の根本課題なのでしょう。人間というものは、素晴らしい存在ではあるのだけど、感情も不安定だし、すぐに脱線したり堕落したり争ったりするという欠点もまた多いです。これら欠点だらけの人間同士を自然状態で放置しておくと、弱肉強食的な戦乱が続いたり、人々を幸福に導く高邁な理想も野卑な欲望に蹂躙されたりするのでしょう。そのため、人間のケダモノ性を調教し、可能な限りエブリワンハッピーな状態、最大多数の最大幸福を実現しなくてはならない。そのための「人間社会のルール」として「礼」を唱えたのでしょう。
さて、エブリワンハッピーを目指すにしても、なぜ西欧人権思想のように万人平等主義をとらなかったのか、なぜ「AはBよりもエライから敬え」というルールを確立しようとしたのか。ここはもう孔子さんにインタビューしないと分からないのですし、実はどっかで言っているのを僕が無知だから知らないだけなのかもしれませんが、勝手に推測するとこういうことだと思います。アリの世界に女王アリがいて働きアリがいるように、また男女のうち女だけが新しい命を宿す力を持っているように、ナチュラルに見たら、同族の生物といえども個体はみな同じではない。それぞれが与えられた役割をもっており、その役割を全うすることで全体のハーモニーが生じる。人間社会においては、群を抜いて人格識見能力ともに優れている人間が生まれるし、そういう人間がリーダー(君主・皇帝)になるべきである。つまり「天命」ってやつです。「天の命ずるところに従え」という。天帝に限らず、それを補佐するもの、臣民になるべきもの、また臣民同士、朋輩同士、上司と部下、親と子と家族親族、それぞれに天の命ずる役割があり、皆、それを全うせよ。なぜか?といえば、それが一番上手くいくからであり、なぜ上手くいくかといえばそれは「天の配剤」だからだ、と。
中国の思想、さらにそれを承継している日本の思想では、しばしば「天」という概念が出てきます。日本語でも「人事を尽くして天命を待つ」とか「天下統一」とか、天や天下という概念は普通に出てきます。でも、これ、英訳不可能って感じで、SKYとか訳しても意味がないんですよね。なんて訳せばいいのだろう?ユニバースとか、大自然や大宇宙の摂理とでも訳すべきなのか。ともあれ、僕ら北東アジア人には、「大宇宙のあるべき秩序」という
考え方に慣れています。でも「天」は、いわゆる「神」ではないでしょう。なにか具象性があって、擬人化できる存在ではないです。「天」が白いローブをまとって真っ白なヒゲをはやしたおじいちゃんってイメージはないです。この曖昧さが、西欧人から見て、儒教や僕ら北東アジア人の思想が、宗教なんだか哲学なんだかよく分からないところなのでしょう。
この天命だか大自然の秩序原則だかにしたがって、日常の人間関係の規律が決められていきます。これが儒教であり、礼法なのでしょう。そこで、君主には忠、親には孝、友人には信、社会には義などの人間の個別の美徳が語られ、さらに「三尺下がって師の影を踏まず」という日常的な細かな規律を作り出されたのでしょう。ただ、孔子の儒教は、なにも身分関係をビチッと固定することが目的なのではない。帝王になった奴は皆に奉られてワガママ放題やればいいのかというと、そんなことはなく、皇帝こそが天命を実現するという最もハードな責務を負う。君は仁者でなければならず、賢者でなければならず、慈悲の人でなければならない。もし皇帝の地位についている人間が、天の資格を満たさないと判断されたときは、臣下は速やかにこの皇帝を排除しなければならないという過激なことすら言っているようです(易姓革命)。儒教は、韓国日本と伝わるにつれ、この過激な部分、権力者に都合の悪い部分が殺ぎ落とされ、単に封建的な身分関係を固定するため、権力者の権力を安泰にするための正当化思想として利用されてきたというのをどこかの本で読んだ記憶があります。事柄の本質からすれば、孔子が目指したのは理想国家であり、天下万民の幸福であり、そのためにはナチュラルな役割意識をもって、ハーモナイズしようぜってことだと思います。だから、目下の者が礼に反した場合は厳しくとがめられますが、同時に目上の者が礼に反した場合(下の者に仁と慈悲を持たない)にも厳しくとがめられたはずです。儒教というのは一歩間違えれば、「下っ端の奴らは一生ヘコヘコしていなさい」って教えになりかねないし、そう誤解されている局面も多々あろうかと思います。でも、本質は違う。
こういった儒教的発想をどれだけ肯定するかは、あなた個人の判断ですが、「確かに、そういう側面もあるな」と思わされる部分もあります。例えば長幼の礼などもそうですが、自分よりも年長者から「おい、ちょっと来いよ」って言われるのと、年少者から同じように言われるのとでは、どっちの方がムカつくか?といえば、年少者から言われる場合でしょう。いや、そんなことはないぞ、人は平等であるべきだという人はいるでしょうが、ここで言ってるのは「べき論」ではなく、自然の感情としてどうかってことです。年少者が年長者を敬うとした方が、その逆よりもなにかとナチュラルでしょう。だから、誰に命じられたわけでなくても、学校の部活でも上級生の方が自然に目上的立場になるし、会社でも暴走族でもそうでしょう。そのへんのツッパリ君だって、「てめー、中坊のくせに生意気なんだよ」って長幼の礼を実践してるじゃないですか。ある特定の下級生が実力抜群で、例外的に逆転することもあるでしょうけど、あくまで例外。あなただって、3歳になる自分の子供に向かって、毎朝毎夕「いってまいります」「ただいま戻りました」と頭をさげたくないでしょうが。それに年長者の方が生きてる時間が長いので、スキルにせよ財力にせよ持ってますから、こいつをおだてて持ち上げて、下の者の面倒をみさせた方が、教育や福祉の観点からして合理的でもあります。どうも人間にはナチュラルにそういう感情があるのであれば、それは天の配剤であり、そのナチュラルな感情エネルギーを利用して、豊かな社会を作っていきましょうってのが長幼の礼の本質だと僕は思います。なにも、年少者は年長者に奴隷的服従をすべきであり、年長者は暴君のように振舞えって話ではないです。
さて、長々書いてしまいましたが、「エライ」ってどういうことかって話でした。@マザーテレサのように人間的・偉人的なエラさ他、A軍隊の指揮命令系統のように機能型のエラさ、そしてB儒教のように自然感情型エラさです。AがBよりもエライとされる場合、大体この3つのパターンのどれかにハマるのだと思いますし、その3つのパターンにハマってるかぎり、僕らもそれを自然と受け入れやすい。
この3つ偉さのエッセンスは同時存在することも可能ですし、同時存在すればするほど偉さは確立します。例えば、新米刑事が上司でもあり年長者でもあるベテラン刑事と一緒に動くような場合、そのベテラン刑事が警察機構という機能面、長幼の礼という儒教面に加えて、人間的にも技術的にも優れていた場合、単に上命下服というシステム的なエラさを超えて、人生や職場の師匠として尊敬するでしょう。人間関係をスムースにいかせるには、出来ればこの3者が同時存在することが好ましい。特に@の人間的な面というのはかなり強烈なエッセンスで、どんなに機能面で絶対服従を要求されていても、また年長者であったとしても、人間的に尊敬できない奴の言うことはききたくないでしょう。
ところが@とABが強烈に相反する人間がいます。@の人間的なエラさでいえば最低ランクにダメダメの奴なんだけど、A組織的に上位者であるとか、B年長、親、先生であるという儒教的優越者であるとかいうシステム的優越性をタテにとってワガママ放題って人間もいます。@のダメさ加減を、ABがガードしているって妙な構造なのですが、これはかなり不幸なケースといえるでしょう。でも、こういうケースは、沢山あるんでしょうねえ。で、殿様的にアンタッチャブルにエラくなり、さらに小天皇のように絶大な権力を振るうようになる。
日本社会の致命的な(と言ってすら良いくらいの)欠点の一つがここにあると思います。システム的上位者をチェックするシステムが乏しいこと。平たく言えば「下に厳しく、上に優しい」こと、もっと平たく言えば、「日本で生きていこうと思ったら、とにかく出世してエラくならなければ損だ」ということです。既に何度もエッセイで指摘してますが、日本の平社員や末端労働者の質は世界でダントツに高いですが、日本の上位者のレベルは世界でダントツに低いです。日本のいろいろな末端現場で働く人々、つまり圧倒的多数の日本人の仕事の質、要求水準の高さは、例えば電車のダイヤが秒単位に正確であることや、平社員でありながら社長が読むような経営本を読み、セミナーに参加したりすることからも伺われます。また、仕事だけではなく、文盲率が1%以下というのは世界レベルでは驚異的な教育水準といってもいいでしょう。だから、日本人が外国にいくと、なんだかんだでイライラさせられるわけです(^_^)。ブッキングしても全然入ってないとか、デリバリーなんか時間どおりにきたら奇跡だとか。
しかし、日本の上位者、例えば日本の政治家などが、世界をリードしてますか?アメリカの大統領と中国の首相が、日本の小泉総理の一言一句を固唾を飲んで見守っていますか?日本の動向で世界が右にいったり左にいったりしますか?しませんよね。もう今なんか全然無視!ってなくらい存在感がないです。発展途上国でも、そこでリーダーになれるだけの人物はやっぱりそれなりの人間力があります。なんせ、いつ暗殺されるか、いつクーデータ-が起きるかって状況で、強力に国をまとめあげ、国を豊かにしなければならないのですから、馬鹿には出来ない。オーストラリアにやってきて、ニュースを見て気づいたことがありますが、どこの国のリーダーでも外国のメディアに対して直接答え、しかも訛ってるとはいえきちんと英語を喋ります。喋らないのは中国くらいのものです。日本のリーダー、政界財界いずれにせよ、ちゃんと英語で、しかも自分の言葉で意見を言えている人はマレです。極端にマレです。だから、同じ日本人でもあんまり聞いたこと無いような人が、たまたま英語が喋れるということで、インタビューされ、こちらのニュースに出ています。
オーストラリアでも、なにか大事件があったら担当大臣や長官が即刻現場に行き、現場で陣頭指揮をします。企業のトップでも、社長自身がメディアや消費者とメンチ切ってその批判を受け止めたり、反論したりします。ラジオやTV番組に呼ばれ、ボロクソに批判されます。トップにはそれをする責任がある。逆にいえば、それが出来ない人間はトップを張れない。それがアカウンタビティティ(説明責任)ってもんでしょう。そして、その事件やら不祥事やらで、そのトップの無能力が露わになったら、もう即刻首です。「うわ、厳しー!」って最初の頃はビックリしましたけど。また、これも何度も書いてますが、組織の長、それは民間企業でも官公庁でもそうですが、一般公募で選びます。特に税金を使っている官公庁では一般公募しなければならないとさえ決められていたりします。皆の税金を使う以上、最高に有能な人物を据えたいわけです。組織内部の派閥とか順番待ちとか、そんな事情は納税者にとっては関係ないです。だから組織内部で決めさせないようにするのです。会社の社長も、インベスター(投資家=株主)の委託を受けた「資産管理人」であるという立場が明確ですから、株主総会ですぐクビになります。派閥なんか作ってるヒマないですし、「責任をとって辞任して相談役になる」とかいう生温い私物化も許されない。「石もて追われる」って感じです。
西欧社会では、Bのような儒教精神は希薄です。その代わり、キリスト教的な「神の前では皆平等」という信仰、さらに中世封建主義を暴力的にぶっ壊した革命経験からの近代人権思想と平等概念が濃厚にあります。@の人間的偉さに感する感動は、これはアジア人と変わるところはないでしょう。そうなると、システム的な偉さはAの機能面に集約され、そしてそれが機能である以上、徹底的に機能的合理的であろうとします。システム的に上位者である者は、下位の者よりも有能でなければならない。有能であればあるほど、それなりの地位を与えられ、報酬も巨額になります。これは、日本でいえば、プロ野球とかサッカーとか相撲みたいなものです。問われているのはただ一つ、有能であるかどうか。ゆえに、殿様的なメンタリティが入り込む余地が少ないです。
もう一点、殿様的なニュアンスが入りにくいのは、社会の労働流動性の高さです。「3年以上同じ会社に勤めている奴はアホ」と言わんばかりに、どんどん転職を繰り返し、上に行きたい奴ほど転職をするという社会では、職場の人間関係など流れ行く川のごとしで、年がら年中顔ぶれが変わります。僕の「取引先」である語学学校でも、オーストラリア人スタッフはだいたい3年もすると上から下まで、校長から受付まで、総取り替えになります。西欧社会では、仕事というのはそういうものです。もっとも、農業など大地という資本に関連しているところや、人口1000人くらいの小さな村では、死ぬまで顔ぶれが変わらなかったりもしますが、都市部ではガンガン変わるし、大企業や官公庁になればなるほどそうです。だから、古ダヌキみたいな存在も少なく、一生懸命ワイロ贈って人間関係を作ろうとしたり、派閥をつくろうとしても、作ってる側からメンツが変わっていく。
でも、日本ではまだまだそうなっていない。ステイタスが高くなればなるほど、流動性は低い。官僚の頂点、財務省の事務次官になろうとしたら、東大法学部を出て、国家公務員試験に優秀な成績で合格し、同輩の間で熾烈な競争をし、、という具合に這い上がっていかないとならない。企業でも、名門や一流企業になればなるほど中途採用は厳しい。医師でも弁護士でも教授でも一回なったら、その世界のシキタリのなかで生きていかないとならない。だから日本では、超長期的視点にたって、桃栗三年で人間関係を育んでいかねばならない。流動性が低く、それゆえシステムの上位者は、単に純粋機能面で上位なだけでなく、年輪みたいな重みがあり、それぞれの世界には昔の牢屋の牢名主みたいな存在がおり、確固としたヒエラルキーが形成されています。
この一生単位のヒエラルキー、安定した磐石な地位序列が、日本社会において「殿様」を生む土壌になっているのでしょう。これは芸能界でも同じであり、和田アキ子とか、上沼惠美子とか、明石屋さんまなんかもう「殿様」ですよね。新人タレントで、この人たちの意向に逆らったらテレビの仕事は無いという絶大な権力をもっているのでしょう。でもって、この顔ぶれって、12年前に僕が日本を出る前から変わってません。それどころか昭和の頃から
変わってないんじゃない?なんという流動性の低さ。なんという身分関係の固着性の高さ。
ここまでの話を整理して、How to success in Japan(日本での成功の方程式)を導くならば、
第一条:出世してエラくならないと絶対損。日本で生活する以上絶対エラくなれ。エラくなりきってしまえば、どんなにミスをしようが、どんなワガママを言おうが全て許される。エラくならないと、上位者の責任を全て押し付けられ、詰め腹を切らされ、常に貧乏くじを引くことになる。汚職スキャンダルが発覚したとき、決まって中間的な地位にある官僚や社員が「自殺」をするのが何よりも雄弁に「日本ゲーム」のルールを物語っている。
第二条:途中で止めたら絶対損。「キャリア」なんて幻想。出自と毛並みこそが重要であり、最初から大組織の中枢に居続けること。途中で止めないこと。外に出ないこと。日本社会は機能面をそれほど重視せず、超長期的人間関係こそを大事にするゆえに、組織の中で「大事にされる人間」になるべし。いくら能力があり経験があっても「よそ者」はしょせん外様。海外経験が長く、語学が堪能であっても、便利使いされて海外勤務をたらい回しにされるだけ。本当にエラくなる奴は本社の人事部や経理部などの中枢におり、そこから出ない。
かくして、古臭い言葉でいえば、「一将成って万骨枯る」という状況、大多数の人間が犠牲になり、その犠牲によってひとりのエリートだけが成功した人生を歩むという状況になる。さらに、人間心理の普遍的な原理として、「甘やかされた環境にある人間はフラストレーション耐性が低くなる」、つまりワガママになるという原理、これに加えて「人間は老人になるとワガママになりやすい」という二大法則がこの状況に合体し、その結果、手におえない老害怪獣のような存在がしばしば出現する。
あのー、僕はこんな日本の状況をクソだと思ってます。これを読んでるあなたもクソだと思ってるかもしれない。
じゃあ、どうしたらいいか?ですが、方策なんか幾らでもあります。根本にあるのは社会構造・権力構造であり、経済構造ですから一朝一夕には変わりません。ただ、そのシステムや原理、メカニズムをよく知っておくのは、貴重な第一歩になるでしょう。
「エラさ」のエッセンスを3種類に分類しましたが、実は書かなかったけどもう一つあります。それは「強いからエライ」というエッセンスです。暴力的であれ、経済的であれ、強者は簡単に弱者を追い詰めることが出来ます。「逆らったらクビ」「言うこと聞かなかったら退学」みたいに、力の強さを背景にした支配・被支配構造があり、そこでも「エライ」という言葉が使われます。しかし、これは、ある意味メカニズムがミエミエで、ミエミエ過ぎるから、「偉さ」という権威のヴェールをかぶるほどのこともないです。実際、「偉い」と感じるよりは、「恐い」と感じるでしょう。だから、偉さ類型から外したのですが、そういうベクトルの力も作用していることは忘れてはならないでしょう。人間的にはむしろ最低とすら思えるような、会社の上司や社長がなぜ偉いのかというと、A機能面、B儒教面のほかに、C力関係(経済)という作用が強く働いていたりすると思います。「辞表を叩きつけて、一発ブン殴ってやりたい」と夢想するのも、Cの力関係による拘束が強大だからなのでしょう。
だとしたら、まず経済構造を変えないとならない。まあ、マジに変えるのは、国際情勢とかと不可分ですから(原油価格とか)一個人の力でどうなるものでもないです。でも、本当は沢山選択肢があるにも関わらず、自分で勝手に視野を狭めて、「クビになったら死ぬしかない」って思い込んでるだけなのかもしれませんよ。支配・被支配などの拘束感は、実は思い込みや呪縛というメンタルな比重が高いのもまた事実でしょう。ですので、その呪縛から醒めるのが、大きな一歩になるかもしれません。
ええっと、こんな方策を列挙してたらページが幾らあっても足りません。また書きすぎてしまいました。止めねば。「エラさ」という本来のテーマに立ち戻りますと、とりあえず「何故エラいのだろう」ということをこの機会に考えてみてもバチは当らないと思います。そうすれば、無駄にエラがってること、殿様的な部分も見えてくるでしょうし、改善のポイントも見えてくるでしょう。同時に、自分が意味なく反発しているケースもあるでしょう。やたらエラい人に反抗すればエラいってもんでもないです。さらに、自分が無駄にエラぶってるんじゃないかって反省もまたあるでしょう。そういう具合に考えるクセをつけておくのは悪いことではないです。
孔子の時代はまだ農業生産性も低かったろうし、戦乱が相次いだでしょうから、普通の人は食うので精一杯、生き延びるので精一杯だったろうから、「とにかくこうしなさい」という礼法マニュアルを作成する必要もあったのでしょう。ゆっくり自分で勉強して考えよう、なんて悠長なことやってるヒマなんかなかったでしょうから。でも現代は違う。これだけ情報も余暇時間もあり、モノを考えることは出来ます。ましてや、「地球最強」といってもいいくらいの日本人の基礎教育水準と識字率からすれば、考えなければ嘘だとすら言えます。Do think!
最後に、日本で成功する二ヶ条に加えて、実は第三条もあると思うので、それを書いておひらきにします。
第三条:第一条と第二条は、これを忠実に実践すれば日本社会で成功すること、成功する可能性が高まることまでは保証するが、絶対に成功することまでは保証しないし、また「成功」したあなたがそれによって人間として幸福になれるかどうかは別問題である。必死になって全てを犠牲にして営々と築き上げてきたものが、交通事故一つで一気にパーになることもあるし、酒に酔った過ちひとつで水泡に帰すこともママある。また、完璧に成功しても、その過程で、高慢な上司の娘を嫁に貰ったため家庭では全く頭が上がらず、公私にわたる濃密な人間関係維持のために、プライバシーや自分の時間などほぼゼロになるのは当然の想定内である。多少なりともゆとりが出来るのは70歳過ぎて会長になったときだったりするが、本社社屋最上階のだだっぴろい会長室のソファに一人ポツンと座って、新聞を読みながら、取り寄せた5000円の松花堂弁当を、衰えた歯を気遣いながらモグモグ食べているというのが、「最高に成功したビジョン」である。
文責:田村
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